一 ・ 死臭
青ざめた北の荒野に一人の男の姿があった。
叩き付ける強風の中、黒髪に黒いコートをはためかせるその風貌は、ともすれば黒い影法師にすら見える。
未明の秋風は凍えるほど寒く、防寒具なしではとても進めたものではない。それでも顔色ひとつ変えずに歩く男に、しわがれた声が語りかけた。
「臭うぞマルファス。死の臭いだ。さぞかし大量に死んだのだろう。いずれここも戦場となる。これから相当数の人間が死んでいく前触れだな」
「そうだね。この一帯を治める領主が、南の狂王に反旗を翻すとの噂を聞く。あれだけ屈強な軍に立ち向かうには、それ相応の兵士を集めなければならない。厄介な話だ」
肩に乗るカラスの言葉に応え、マルファスと呼ばれた男は静かな声で呟いた。
人語を解するその鳥は、不気味な笑い声を上げながら更に言葉を続ける。
「たかが地方領主ごときが戦を仕掛けようなどと、随分大それた事をするもんだ。ただの狂人なのか。それとも――それに足る『何か』を手に入れたか」
「恐らく『剣』を手にしたんだろう。あれが人の手に渡れば、更に多くの血が流れる。領主が兵士を徴用しようとしている次の村でも、死者がかなり出ているはずだ」
無表情に言葉を紡ぐマルファスを嘲笑うかのように、カラスは小さく鳴き声を上げた。
「お優しい事だなァ。お前を見ていると、飽きるという事がない。その身はすでに人から逸脱しているというのに、思考だけはひどく人間的だ。自らの末裔だけを気に掛け、他の者など路傍の石でしかない」
カラスの言葉には何も返さず、マルファスはそのまま歩を進めた。彼らの向かう先には険しい山々が峰を連ね、陰惨な風が雲を呼び込んでいく。
「神殿に行かなければ。剣が持ち出されているかどうか、確かめなくてはならない」
見上げる相貌は僅かに憂いを湛え、吹きすさぶ砂嵐を振り払いながら彼らはただ進み続けた。
冷え切った岩の下で少年は目を覚ました。つかの間の幸せな夢から揺り起こされ、朦朧とする意識にすがりながら、彼はゆっくりと目を開けた。
光ひとつ無い暗黒の空洞は、彼の瞳に何も映さなかった。先ほどまで辺りに木霊していた呻き声も今はぱたりと止み、血臭と死臭だけが狭い空間を満たしている。
すぐ傍にいたはずの従兄を思い出し、少年は必死にその名を呼んだ。だが返事は無い。
彼らブルゴ村の男たちは、領主の命令でこの坑道へ足を踏み入れたのだ。金目の物はあらかた掘り尽くし、十年以上も使われていない廃坑には何もないはずなのに、何故か領主は坑道の調査を命じた。
そもそも彼も従兄も本職は鍛冶師であり、鉱夫の勝手など分からない。
生きるために痩せ細った農地を耕し、僅かに残った森で猟をして日々の糧を得る。彼らが住む大陸の北方は、荒野が広がり砂嵐が吹き荒れる不毛の地だ。鉱山から産出される鉱石を加工し、武具を作製する技術には長けてはいても、鍛冶だけで食べていけるほど恵まれてはいなかった。
そんな貧困生活の中、僅かな銀貨でも握らされれば、誰でも命令に従うだろう。
実際にブルゴ村の男は、子供や老人、病人を除いて全てがこの廃坑へ入った。こんな場所に何があるのか。だが領主の思惑など彼らはまるで興味が無かった。
呼べども返事の無い従兄に、少年は絶望した。
男たちが坑道へ足を踏み入れた直後岩盤が崩れて、全員が生き埋めになった。入り口に近かった者たちは恐らく即死だろう。入り口が崩れるのと同時に内部でも崩落が始まり、かなりの人数が岩の下敷きとなった。
彼も崩落に巻き込まれ、両足が岩の下敷きになった。息が苦しいのは胸を打ったのか、それとも空気が薄くなっているのかも知れない。
ひたひたと忍び寄る死神の足音に、彼は身震いした。
全身を駆け巡る苦痛のせいで、痛いかどうかすら分からなくなってきている。
このまま眠ってしまえば、楽に死ねるかも知れない。とめどなく流れ出る血液が頬を伝い、冷たい滴となって指先から落ちていくのが分かる。
目を閉じれば瞼の裏に、姉の姿が見えた気がした。両親を亡くしてからは支えあうように生きてきた姉弟。姉の結婚が決まった矢先だというのに、その花嫁姿を見る事すら叶わなかった。
――死にたくない。
再び瞼をこじ開け、彼は呟いた。姉を残して死にたくない。せめて、幸せになった姿だけでも目に焼きつけたい。
苦労して育ててくれた姉が悲しむ姿など、彼は考えたくもなかった。
その時、視界の横を何かが通った気がして、少年は目線だけをそちらに向けた。生き残った者が助けに来てくれたのだろうか。だがそこにいるのは黒々とした大きな影だ。
「おうおう、たくさん死んでおる。げに恐ろしきは人の業よ」
「少し静かにしてくれないかラウム。最期の言葉を聞き取れない」
二人いるのだろうか。一人はしわがれた老人の声、もう一人は若い男の声だ。
声に聞き覚えがないから余所者かも知れない。だがこのような場所を旅人が通りかかるだろうか。
「さようなら。夢の中で眠るがいい」
若い男は膝をついて誰かに囁きかけていたが、誰と話しているのかは分からなかった。
そちらへ目を向けていると、男は不意に顔を上げて彼を見た。
「クトルの子ソラス。キミはまだ息があるのか。だが……じきに死が訪れる」
近付いて来る男を見上げれば、彼の纏う黒のコートが一段と印象を濃くしている。
崩落部から僅かに漏れる月光が、男を只者ではないと告げた。長めの黒髪に黒い衣装。その姿はまるで死神だ。
ソラスが黙り込んでいると、男はそのまま言葉を続けた。
「死にゆくキミの最期の望みを叶えよう。それがキミたちに出来る僕の手向けだ」
「俺は……死ぬんですか? やはりあなたは死神なんだ」
夢とも現ともつかない状況に、ソラスは呟いた。
「もし、最期の願いを聞き届けてくれるなら……姉の結婚式を一目見たいんです。こんなところで死にたくない。生きて村へ戻りたい」
途切れそうになる意識を揺り起こしながらソラスは願いを告げた。
必死の訴えにも男は何も答えなかった。思えば死神は魂を奪う事が使命であり、死にたくないなどと言ったところで叶えてもらえるはずもない。
そう思い至り、ソラスは再び口をつぐんだ。
「すまない。それは叶えられない」
男は目を閉じ静かに首を振った。
「先ほどキミの従兄を看取ったよ。彼は最期に幸せな夢を見たいと願った。僕にしてあげられるのはその程度の事だ」
静まり返る闇の中、不意にくぐもった笑い声が響いた。それは男からではなく、彼の肩に乗ったカラスから発せられている。
ソラスはいよいよ自分が錯乱したのかと思い、必死に目を開けようとした。
「……能ある鷹は爪を隠すとは言うけどな、マルファス。お前なら死者に命を与える事すら出来るだろう? 子供の最期の頼みくらいきいてやったらどうだ」
カラスの嘲りにも耳を貸さず、マルファスは頑としてソラスの願いを拒絶した。
その間にもソラスの顔からは血の気が失せ、彼の命が刻々と流れ出していく様が窺えた。
「キミの願いを受け入れる事は出来ない。かわりにひとつだけ、話をしよう。僕が人だった頃の話を」
一条の月光が落ちる地底で、ソラスは自分によく似たスミレ色の瞳を見た気がした。
二 ・ 罪の記憶
数百年もの昔、ブルゴ村から遥か西方に、マルファスの生まれた村があったのだという。
彼は軍医として当時の王に仕え、その幅広い知識から厚く遇された。特に薬の調合に長けていたために退役を迎えても王の信任は厚く、侍医としての慰留を受けるほどだった。
王が老齢のために崩御すると、彼は妻を伴って故郷の村へ戻った。マルファス自身もすでに齢六十を越え、一人娘も他国へ嫁いだ今、故郷で余生を過ごそうと思ったのだ。
だがそれが全ての始まりでもあった。
程なく彼の妻は病に倒れ、どれだけ手を尽くしても助かる見込みはないとマルファス自身が診断を下した。それでも妻を救いたいと彼は研究に明け暮れた。自宅に篭り切りでひたすら実験を続けるその姿は、住人の目には奇異に映っただろう。
様々な文献を探して研究を重ねた結果、苦心の末にマルファスはひとつの試作薬を創り出した。
その頃には病床の妻も痩せ衰え、助かる見込みなどまるで無かったが、彼はその薬に全てを賭けた。
血のように赤い薬は見た目にも毒々しく、彼は妻に飲ませるのを躊躇い、自ら毒見をしようと考えた。
物音ひとつ無い真夜中。誰もいない研究室で彼は自ら薬を飲んだ。
鉄錆びた苦味を恐る恐る口にし、嚥下した直後は何の変化も見られなかった。体調が良くなるでもなく、悪くなるでもなく、ただ飲む前と同じ状態が持続しているだけだ。
マルファスは失敗したのだと落胆し、薬を打ち捨てて独り自室で眠りについた。老いさらばえた体は冷たい夜の空気に軋み、ただ宵闇だけが彼の澱んだ思考を包む。
どのくらい眠っただろうか。夜が明ける前にマルファスは目を覚ました。
起き抜けだというのに何故か思考は明瞭で、体も軽く感じられる。驚いて手を見ると、皺だらけだった指には張りが戻り、生き生きと赤みが差している。
急ぎ鏡を探すと、その中にいるのは軍に属していた頃の若かりし顔だ。真っ白だった髪も黒くなり、スミレ色の目には輝きが甦っている。
「バカな……。何故こんな事に」
そう言い掛け、マルファスはゆうべ飲んだ薬を思い出した。
慌しく研究室へ戻ると、彼は必死に薬の残りを探した。失敗作だと思って打ち捨てた薬は少量だけが瓶底に残され、他は跡形もなく蒸発していた。
薬がまだ残っていた事に、マルファスは心から安堵した。妻の病を快癒させられるかは分からないが、少なくとも若返りによって生命力が戻るのは紛れもない事実だ。
窓を見やればまだ夜明けは遠い。妻が目覚めてからゆっくりと説明をして、それから薬を与えるつもりだった。
ぼんやり窓を眺めていると、やがて空は白々と明け始め、そこには幾筋もの竈の煙が立ち上る。
隣近所の家人たちが朝食の支度を始めたのだ。夜が明け昼を過ぎて、また夜が来る。そうやって巡る刻の中、命あるものは生まれては成長し、やがて老いて死ぬ。
無限ではない時間の中、何故かマルファスはその巡り来る刻の輪を逸脱した。老人が若返るなど有り得ない話だ。偶然の産物とはいえ、若返った彼らを村の者は決して受け入れはしないだろう。金ですら贖えない若さを手に入れた末に集まるのは、嫉妬と羨望のまなざしだ。
妻に薬を与えたら、速やかに村を離れようとマルファスは決意した。
誰かの目に触れてしまえば、化け物として追い立てられる可能性すらあった。だが妻の病気さえ癒えてしまえば、他の事などどうでもいい。二人で再び同じ人生を歩むのもいいだろう。神が与えた奇跡なのか、それとも悪魔の気まぐれなのか。この時マルファスには、その恐ろしさが理解出来ていなかった。
突如響いた喧騒に顔を上げると、青いはずの空が赤々と染まっているのが見えた。
燃えている。煙突から飛び火でもしたのか、近くでぱっと火の手が上がった。驚いて外に飛び出すと、程近い家屋が炎に呑み込まれていくのが見える。
火事だと騒ぐ怒号。鐘楼から響き渡る、けたたましい警報音。男たちは皆外に飛び出し、手に手に桶を携えて消火活動にあたった。
それでも火の廻りは早く、マルファスの家にも炎が迫った。ここが老夫婦の住む家だという事は、村の誰もが知っている。心優しい村の男たちは、二人を逃がすために来るはずだ。否、二人にはどこにも逃げ場などない。
妻に説明する時間も、今はもうなかった。
すぐにでも薬を飲ませて、ここから去らなければならないだろう。小瓶を握り締めながら家の中へ戻ろうとすると、不意に背後から声が掛かった。
「マルファス? いや……あんたは誰だ?」
聞き慣れた声にゆっくり振り返ると、そこにはマルファスのよく知る顔があった。
立ち尽くしている老人は、この村で共に育った幼馴染のウェンだ。彼はマルファスを値踏みするようにじろじろと眺めた。
「お前、この村の者ではないな。この家は、村でも数少ない薬師の家だ。家主に何かあれば、村の者はお前を生かして帰さんぞ」
鬼気迫るウェンの形相に、マルファスは身の証を立てるべきなのか迷った。
だが薬の作用で若返るなどありえない話であり、その存在を知られるのも問題があった。そして薬の残量は僅かに二人分程度しかない。下手に騒ぎ立てられて勘付かれるのが、マルファスには恐ろしかった。
「僕はこの家に住む御婦人に用があるんです。薬を渡したらすぐに村を離れます。だから僕に構わないで下さい」
「……薬だと? お前の持っているその薬瓶も、おおかた火事に乗じて盗んだものなんだろう。来い! 火事が収まるまで、お前を石牢に監禁する」
ウェンはマルファスの腕を掴むと、驚くほど強い力で彼を引きずった。マルファスはそれを振りほどく事も出来たが、逆らえば男衆を呼ばれて村から叩き出されると思い、ひとまず様子を見る事にした。
連れて行かれる道すがら自宅を振り返ったが、彼の妻は姿を現す気配もない。マルファスはただ、病に臥している妻の事だけが気掛かりだった。
石牢のある村はずれまで連れて来られると、マルファスは薬瓶を取り上げられ幽閉された。
瓶はウェンが懐に入れ、どこへともなく去って行った。火事さえ収まれば戻って来るだろうとマルファスは考えたが、ウェンはいつまで経っても戻って来なかった。
牢にある高窓から空を見上げても、すでに空は青さを取り戻している。妙な胸騒ぎにマルファスは牢を破ろうと画策した。
幸い見張りなどはいないが、入り口には頑丈な鉄格子がはめこまれている。鍵はウェンが持ち去っているために、鉄格子を破壊するしか方法がない。
鉄格子から外の様子を見ていると、それまで静かだった空が急にざわめき出したのが分かった。
不吉な鳴き声を上げながら集まりつつあるのは、数十羽以上もいるカラスの群れだ。わめき散らす耳障りな鳴き声と共に一陣の風が吹き、そこにマルファスは嫌な臭いを嗅ぎ取った。
「血の臭い……」
若い頃に戦場で嫌というほど知ったあの臭い。生臭く鉄錆びて、苦味すら感じる風。
すでに火事も収まっているはずなのに、何故血の臭いなどするのだろうか。これほど臭うとなると、相当数の死傷者が出ているはずなのだ。
胸騒ぎを抑えきれず、マルファスは手近な椅子を鉄格子に叩き付けた。それでも壊れそうにないと知ると、次は自ら体当たりをした。
だがどれだけ暴れても、頑丈な鉄格子はびくともしない。それどころかマルファスの肩は裂け、血を吸い込んだ衣服は溢れ出る血液を受け止められずに、ぼたぼたと地に落ちる。
そうしている間にも血の臭いはますます強烈になっていった。
恐らく集まったカラスの群れも、この臭いを嗅ぎ付けたのだろう。群れの大半は村の中心部へと飛び去って行ったが、一羽だけがその場に留まり、マルファスのいる鉄格子の傍へ寄った。
「キミはどうして行かないんだ? こんな所へ来ても何もないよ」
力なく膝をつくマルファスには目もくれず、カラスは滴り落ちた彼の血液に嘴をつけた。
やはり血の臭いに惹かれて来たのだろう。カラスをぼんやり眺めていると、それは貪るようにマルファスの血液を口にし始めた。
カラスは肉食だ。戦場でもどこからともなくやってきて、屍肉を喰んでは飛び去って行く。
彼らが饗宴を繰り広げた後は、敵も味方も等しく骨と肉塊になって、一面に赤黒い世界が描き出される。その様はまさにこの世の地獄と言っても差し支えない。
しばらく見ていると、傷が塞がったのか血が止まり、カラスが飲んでいた血液が途絶えた。
マルファスがふと肩口を見やると、そこにはむき出しの白い肩がある。だがぱっくり割れていたはずの傷はどこにも見当たらない。あれだけの大出血を起こしながらも、貧血の症状すらない。彼は一瞬動揺したが、あえて何も考えずにゆっくりと立ち上がった。
青ざめた顔を上げてカラスに目を向けると、それはマルファスを睨みながら老人のような声を発した。
「そうやって気付かないふりをするのか。お前はすでに、人ではないのに」
人語を話すカラスを前に、マルファスは立ちすくんだ。
何もかもが現実離れしている。老人が若返る薬。人語を解するカラス。そして血を流し尽くしても再生する肉体。目まぐるしい状況変化にマルファスは混乱し、ふらふらと座り込んだ。
「お前の血を飲んだ事で、わしは全てを理解をした。本来であれば一羽のカラスとして終わる生が、血によってその理をはずれたのよ」
「……何の事だか、僕にはさっぱり分からない。僕はただ薬を飲んで、こんな体になっただけだ。僕の血に一体何があるというんだ」
「お前の血には、その薬とやらが混じっているのさ。本当はお前も理解しているんじゃないのかね。どういう経緯で薬が作られたのかは知らないが、それを創り出した事でお前はすでに有限生命の理を逸脱しておる」
「嘘だ! そんな事がある訳が……」
そう言いかけて、マルファスは口をつぐんだ。
彼が薬を作る際に参考にしたのは、北の神殿遺跡にある碑文の文言だった。『これは偽りなき真実であり、確実にして極めて真正である』と古代文字で銘打たれた碑文は緑柱石で造られており、いつからそこにあるかすら誰も知り得ない。
太古の神を祀ったものではあるだろうが、それ以上は歴史学者ですら理解不能ではあった。事実、幾人もの歴史学者がこの村を訪れ、神殿遺跡について嗅ぎ回ったが、誰一人として神殿から戻って来る者はいなかったからだ。
緑柱石の碑文が安置されている祭壇にはおびただしい数の白骨が転がり、村の者は皆『死の神殿』と呼び畏れた。その碑文に穿たれた文字のまま創り上げた薬は、すでに人の手には余る代物だったのだ。
「そうよ。あの薬は人が手にして良いものではなかった。それを創り上げ、あまつさえ飲んだお前はすでに人から逸脱しておる。いわゆる――不老不死の化け物となったのさ」
しわがれた声で嗤うカラスを、マルファスは睨み付けた。
だがカラスに対する非難の言葉はまるで出ない。それは全てが自分の罪であり、神をも畏れぬ行為だと自覚していたからだ。
俯いたマルファスには目もくれず、カラスは不意に空を見上げ呟いた。
「そろそろ終わった頃合か。全く。我が主となる者がこんな牢の中にいるとは実に嘆かわしい」
カラスはぶつぶつ文句を言いながら、小さな枝を咥えて鉄格子に飛び乗った。枝を器用に鍵穴へ差し込むと、錠前をはずして鉄の閂を引き抜き、落とした。
「岩戸などにお隠れあそばされては困ります故。まだ名も賜っておりませんぞ、我が主よ」
皮肉を交えて笑い声を上げるカラスを尻目に、マルファスは石牢を出た。仰げば血煙が大空を満たし、重々しい暗雲が村全体に垂れ込めている。
「……僕の名はマルファス。キミはラウムとでも名乗るがいい」
「恐悦至極。では我が主マルファスよ。そろそろ村へ参りましょうぞ。我が主の犯した大罪、とくと御覧あれ」
カラスの嘲りを受けながら、マルファスは村へと足を向けた。
中心部に位置する広場へ近付くにつれ血臭が強くなり、カラスたちの喧騒も大きくなる。
辺りを見渡せば火事などすでに収まっていたが、それよりも驚くべき光景が眼前に広がっていた。
「バカな……。どうして」
大井戸がある広場の中心部には、折り重なるように村人の死体が転がっている。
そのどれもが手に手に武器や刃物を握り、まるで村人同士で殺しあったかのようにすら見えた。
カラスたちは死臭に惹かれたのだろう。めいめいが死肉をついばみ、血を啜っている。遠い日の戦場を思い起こし、マルファスはその場に座り込んだ。
「遅かったな、マルファス。俺はお前にこの姿を見せたくて、ずっと待っていたというのによ」
聞き慣れた声。それも力の無い老人の声ではなく、生気みなぎる若者の声だ。
顔を上げれば井戸の縁に腰掛ける懐かしい顔があった。遠い昔の記憶を辿り、マルファスはそれが薬を飲んだウェンの姿なのだと気がついた。
マルファスが気付いたように、ウェンもその実、マルファスが若返っている事に気付いていたのだ。
「ウェン、お前……あの薬を飲んだのか」
答える代わりに、ウェンはにやりと笑って見せた。その手には薬瓶が握られ、最後の一口がかろうじて残っているのが分かった。
「こんないい物を持っていて隠すなんざ、お前も人が悪いな。ここに転がってる奴らだって、薬を奪い合った結果死んじまったんだよ。それもこれも、お前が薬を独り占めしようとしたからさ。そうだよ……全部お前が悪いんだ」
「返せ……返してくれ。それは人が持っていていいものじゃない」
「冗談言うなよ。そうだ。またこの薬を作ってくれよ。俺と組んで大儲けしようぜ。金さえあれば何でも思うままだ。悪くないだろ」
「……ふざけるな!」
怒りをあらわにするマルファスに、ウェンは嘲りの表情を見せた。
「嫌なら別に作らなくてもいいんだぜ。最後の薬はここにある。お前、自分の家がどうなったのか見てないのか? 嫁さんはどうしたんだろうなあ」
その言葉にマルファスは全身が凍りついた。
動揺する彼を見て、ウェンは再びにたにたと笑った。
「あの火事で燃えカスしか残ってねえだろうけどよ。気になるなら自分で確認しな。お前を見ていると、家族なんてものは弱点を増やしてるだけにしか思えねえな」
ウェンの呟きも聞かず、マルファスは自宅へ向かって駆け出していた。
燃えた残骸を駆け抜け、自宅があった場所へ到着すると、そこには焼け残った柱以外、何も残されてはいなかった。
くすぶり続ける煙の中、マルファスはふらふらとその場に膝をついた。何もかも失った。皆死んだ。
全ては自分の罪なのだと彼は悟った。何もかも失くして、ウェンという闇を生み出したのは自分自身なのだ。
轟、と耳元の空気が震えた。
見上げれば鎮火したはずの火の手が再び上がり、爆ぜている。
赤黒い世界。それはいつか見ていた戦場そのものだ。容赦なく人を殺し殺され、肉塊となって地に返る。人の輪廻とはそういったものだ。だが。
「僕は――奴をこの手で斃すまで、死ねない」
昏い輝きを灯す瞳はマルファスの心を空虚に塗り潰す。
再び立ち上がった彼には、すでに迷いは無かった。
息も出来ないほど燃え盛る広場にマルファスは戻った。ウェンの姿を探しても、そこにはもう誰もいない。
ただ嘲笑だけが頭上から木霊し、彼の耳に届いた。
「ようやくやる気になったか? マルファス。だが俺もやる事があるんでな。いずれまた会おう。どうせ俺たちの時間は無限だ。いつかは会えるさ」
姿の見えない哄笑にマルファスは空を仰いだ。
熱で揺らめく大気の向こうに飛び去る翼を見つけ、眩しさに彼はその目を眇めた。
三 ・ 血の盟約
マルファスの口から語られる昔話に、いつしかソラスは聞き入っていた。
これが本当に彼の過去なのかどうかは分からない。ただ、落盤を起こした坑道に入って来られる人間など、いるはずがないのも真実なのだ。
「その後……村はどうなったんです? 彼を見つけ出せたのですか」
意識を失いつつあるソラスに目を向け、マルファスは呟いた。
「いいや。この三百年ずっとウェンを探し回ったが、どこへ逃げたのかまるで足跡が掴めなかった。奴を探し出しその対価を支払わせるまで、僕の罪が消える事はないんだ」
マルファスが言葉を切ると、辺りを静寂が支配した。すでに坑道内には生きている者もおらず、ただソラスの呼吸音だけが虚ろに響いている。
すでに言葉を返す力も残っていないソラスを見て、マルファスは悲しげに目を伏せた。
「先ほどラウムが言ったように、僕の血は死に瀕した者でも一時的に甦らせる事が出来る。だがそれは、新たな薬の犠牲者を増やすだけだと思っている」
「……どうして、犠牲者だと言い切れるんですか。その人が望んだ事なら犠牲でも何でもない。ただ望みが叶っただけです」
残った生命力を振り絞るように、ソラスは掠れた声で反論した。
その時、二人の遣り取りを聞いていたラウムが、小さく声を上げて笑った。この老獪で皮肉屋なカラスが言葉を挟むのは、場を掻き回す好機を見て取った時だ。
「一時的に命を得たところで何も出来んぞ小僧。先ほどお前の村を通りかかったが、村の女は全て領主の兵に連れて行かれたよ。ここで男たちを足止めして人質を取り、逆らえんようにするつもりだったのさ。あの領主は南の狂王と一戦交える気でいる。お前らは女たちのために、死に物狂いで戦う兵士になるしかない」
「だったらなおさら……俺が行かなくては。人質を取られて無理やり戦わされるなんて、誰も望んでいない。ただ静かに暮らしたいだけなんだ」
「戦えるのか? お前のような小僧が。たった独りで領主の許へ赴き、女たちを連れ戻せるというのか」
「やってみせる。家へ戻れば鍛冶場に武器だってある。俺だって戦える」
ソラスの目に急に生気が戻り、それを見たラウムは鼻で笑った。
「下らん。これが若さという奴なのか? 馬鹿馬鹿しいが面白いとも言える。一度だけ機会を与えてやったらどうだ、マルファス。なァに一朝一夕程度の仮初めの命なら、何も問題はあるまい?」
ラウムの進言にマルファスは逡巡した。
だがソラスに目をやれば、彼は死に掛けているとは思えないほどの気力を見せている。希望と渇望が彼に生きる力を与えているのだ。
「……分かった。キミに仮初めの命を与えよう。猶予は一日。翌日の夜明けにはその命も尽きる。それまでに全てを終わらせるんだ。いいね」
マルファスの決意にソラスは頷いた。
自らの腕を傷つけると、マルファスはその血をソラスの額へ数滴落とした。月光に柔らかく照らし出されるそれは、傍から見ればまるで洗礼の儀式のようにも感じられる。
「血を飲んでしまえば、キミも僕のようになってしまうだろう。だからほんの少しだけ力を分け与える事にする」
ともすれば赤いワインのようなさらさらとした液体は、ソラスの額に落ちると吸い込まれるように消え失せた。
次の瞬間、ソラスは全身を熱が駆け巡る感覚に曝された。力の奔流はのたうつ竜のように暴れ狂い、体の隅々まで行き渡る。下半身に乗り上げていた大岩を力任せに押しのけると、そこにはすでに再生を終えた彼の両足が待っていた。
「行くがいい、ソラス。僕はやらなければならない事があるから、このまま奥へ行く。血の効力が切れるまでは、傷を負っても立所に治るはずだ。キミだけの大切な刻を生きろ」
その言葉に頷き、ソラスはゆっくりと立ち上がった。そして少しだけ振り返ると、風のような足取りで入り口へと走り去った。
ソラスの後姿を見送ると、マルファスも立ち上がり坑道の奥へと進んだ。肩に乗るラウムは黙ったまま、彼に付き従った。
「ラウム。キミが人間に肩入れするのを初めて見た気がするよ」
「肩入れだと? 冗談ではない。ああいった手合いは言って聞かせたところで納得などしないのさ。ならば自らが如何に非力か、教えてやるのが親切といったものだろう?」
にべなく否定をするしわがれた声に微笑みながら、マルファスはうねる坑道を下って行った。その先には大きく開けた空洞があり、幾本もの石柱が支える巨大な建物が見えた。
慣れた様子で神殿に入り祭壇の間まで行くと、不意に彼は足を止めた。そこにはあるはずの物が無かったのだ。
「やはり無い。黒曜石の剣が持ち出されている」
「ほう。あの領主は『剣の王器』を手に入れたと考えて良いようだな」
「そうだね。この分では南の狂王も、何かしらの『王器』を手に入れてる可能性がある。大規模な武力衝突は避けられないかも知れない」
もと来た道を戻り、マルファスは坑道の入り口へと向かった。その肩にラウムがいない事に気付いたのは、坑道を出たしばらく後だった。
四 ・ 盟友
坑道を抜け出たソラスはひたすら村へ向かって走り続けた。
他に脱出した者がいるのか、幸いにも崩落した入り口部分が小さく開き、一人程度なら通れる通路が出来ていた。
「姉さん……待っててくれ」
時折身を隠しながら、ソラスは荒れ果てた鉱山を駆け降りた。太陽もすでに顔を出し、辺りは明るくなりつつある。領主の兵に気付かれないよう、彼は慎重に山を下り、荒野を駆け抜ける。
だが領主の兵どころか、村へ入っても人っ子ひとり見当たらない。村の女たちはすでに連れ出されているのだろうが、老人や子供までがいない不気味さにソラスは身震いした。
密かに自宅へ戻ると姉の姿を探したが、やはりもぬけの殻だった。ソラスは鍛冶場へ向かうと、武器に使えそうなものを物色した。鍛冶師である以上、武器の特性や扱いにも長けていなければならない。これは死んだ従兄の弁であったが、今となってはそれが正しかったのだと彼は思った。
鍛冶場にあった一振りの剣と弓、矢筒を持ち出すと、ソラスは独り領主の居城を目指した。彼の村からはそう遠くはなく、昼過ぎには居城を有する城砦都市へ入る事が出来た。
領主の直轄地であるにも関わらず街に人影はまばらで、僅かに商人や職人たちがいるだけだった。
ソラスは旅人を装い、通りすがった下働きの女に街の状況を訊いた。女は曇った表情のまま、軽く首を振ると急ぎ足で去って行く。辺りを見回してみても、誰もソラスには近付かない。旅人に関わらないようにしなければならないほど、領主の圧政が敷かれているのかも知れない。
彼は仕方なく宿を取り、日没と共に城へ潜り込む計画を立てた。
身分を偽り歴史学者の弟子と名乗って宿賃をはずむと、黙りこくっていた宿の主人がようやく重い口を開いてくれた。
「弓や剣をお持ちなので、傭兵か斥候なのかと思ってましたよ。最近はこの辺りも物騒でね。皆びくびくしているんです」
「そうだったんですか。驚かせてすみません。仕事柄、盗掘をしている野盗を相手にする事もあるもので、常に武器を携帯しているんです。こちらの地方に大きな神殿遺跡があると聞いて下調べに来たんですが、戦でも始まりそうな雰囲気ですね」
「そうなんですよ」
主人は辺りを窺い、声をひそめた。
「悪い事は言いません。早めにお発ちになった方がいい。領主様は南に戦を仕掛けるおつもりだ。最近は周辺の村から男たちを集めて兵を増強しておられる。敵の斥候などと疑われでもしたら、すぐに殺されますよ」
「分かりました。明日の未明には出発する事にします。無事に国境を越えられればいいのですが」
「軍の大半は南西の砦に集結しているようですから、南東の国境であればそれほどでもないと思います。では失礼致します」
青ざめた主人はそれだけ言うと、そそくさと奥へ引っ込んでいった。
ソラスはあてがわれた部屋へ入ると閉じ篭り、息を潜めてじっと夕方を待った。
何事もなく日没を迎えると、ソラスは音を立てないよう部屋を抜け出した。宿の客や主人は気付く様子もなく、彼は首尾よく居城の石塀を乗り越えて中庭に入る。
警備兵が行き交う中、物陰に潜みながら彼は機会を窺った。南西の砦に軍の大半が駐留していると聞いていたのに、城も手薄などではなく、むしろ単独で潜入するのも難しい状況だ。
赤々と篝火が焚かれているのも、夜襲に備えているためだろう。それだけ緊迫した状況なのだ。
不意に背後から声が上がり、ソラスの頬を一本の矢が掠めた。
振り返ると塀の上に拵えられた物見台から弓を引き絞る兵がいる。
「まずい。見つかった」
敵襲の鐘が打ち響き、ソラスのいる中庭に向かって兵たちの足音が聞こえて来る。
城内に入るには、正門側か裏門側通路のどちらかから進むしかない。どのみちこのまま中庭にいれば挟撃されるか、弓兵に射殺されるだけだ。
城壁にずらりと居並んだ弓兵たちはどれもが弦を引き絞り、彼へ狙いを定めている。篝火の無い場所に身を置いているものの、こちらから射掛けるとしても、とても届く距離ではない。
ソラスは腹をくくり、弓を捨てて裏門側の通路へ走り出した。今いる茂みから通路までは遠く、矢を受けるのは必至だったが、正門側よりも兵の数が少ないと判断したからだ。
茂みから鹿のように跳び出し、彼はひたすら通路を目指す。
獲物を追い立てるように背後から矢の雨が降り注ぎ、いくつかは腕や脚を掠め、三本が背中と肩に命中した。
矢を受けた衝撃で足がもつれ、ソラスは前のめりに草の上へ倒れ込んだ。肉を引き裂く痛みと共に血がどっと溢れ、彼は必死に矢を引き抜こうともがいた。
侵入者が矢を抜きながら苦しむ様を目の当たりにし、城壁の弓兵たちが楽しそうに声を上げて笑うのが彼の耳にも届いた。
――その瞬間。
弓兵たちの間から、次々に悲鳴と怒声が響き渡った。
激痛の中ソラスが顔を上げると、城壁にいた兵士たちが墜落していくのが見えた。皓々と輝く月光の中、ソラスの目には大きく黒い翼が映る。
「馬鹿者め。考えも無しに敵陣へ入るとは愚か者のする事よ」
頭に響くその声は、紛れも無くラウムのしわがれ声だ。
「ラウム……さん? どうして……」
「うるさい。わしはバカが嫌いなんだ。分かったらさっさと目的を果たせ。女たちは恐らく地下の牢にいる。城内の兵士から情報を訊き出すのを忘れるなよ」
マルファスの血を受けた事で、何らかの繋がりが出来たのだろうか。遠い上空にいるラウムにも、ソラスの声は届いているようだった。
その間にもラウムは兵士たちを煽り、彼らの目を上空へと向けさせた。弓兵がどれだけ射掛けても、嘲るようにひらりと身をかわし、誰も彼を射ち落とせる者はなかった。
「いいか。決して領主の許へ行こうなどと考えるなよ。アレは危険な奴だ。女だけ助けてすぐに逃げろ」
ラウムの忠告を胸に留め、ソラスは人気の無くなった廊下へ密かに滑り込んだ。
城へ入ると、ソラスは警備にあたっていた兵士を締め上げて、情報を訊き出した。
ラウムの言葉通り、ブルゴ村の女たちは地下牢に押し込められているようだった。聞けばこの居城に駐屯している兵士は数百を下らないと言うが、ソラス独りで目的を成し遂げるにはいささか荷が勝ちすぎた。
それを知ってか知らずか、何故かラウムはここへ来た。口は悪いが、根はそれほど悪くはないのかも知れないと、彼はふと微笑んだ。
地下にいた警備兵を殴り倒すと鍵を奪い、ソラスは牢へ向かった。
幸いにも地下牢に兵の姿はなく、ただ女たちのすすり泣きだけが木霊している。それもソラスの足音を聞きつけると途端に止み、場の空気が凍り付いているのが分かった。
女たちを刺激しないよう静かに牢へ近付けば、青ざめた彼女たちの表情はやがて綻んでいく。
「助けに来たよ。皆、無事かい」
十ある地下牢の全てに女を押し込めるなど、領主はどれだけ卑劣な男なのかとソラスは静かに怒った。しかも村からいなくなっていた、老人や子供までもが放り込まれている。
鍵を開け、無事に解放は出来たものの、全員で城を脱出するのも骨が折れると彼は考えた。松明が明滅する中、ソラスは無意識に姉の姿を探したが、何故かどこにも見当たらない。
その時、ソラスの目に近所に住む女性の姿が映り、彼は急いでその人の近くへ寄った。中年女性はソラスの顔を見ると目を潤ませ、泣き出しそうな表情をした。
「おばさん! おばさん、姉さんを見なかった?」
「ああ、ソラス……。ごめんね、ごめんね……」
女性は泣きながら謝罪を繰り返した。
「領主が若い娘を何人か連れて行っちまったんだ。その中に……レインもいたんだよ」
「そんな……」
ソラスは目の前が暗くなり、その場にへたり込んだ。ここまで来て、姉はすでに手の届かない場所へ移されているなど、思いもしなかったのだ。
うなだれる彼を心配して、女たちは静かに彼を慰めた。行動力のある者は密かに武器を探し出し、めいめいが武装を始めているのが見える。
女たちが戦う準備をしている様をソラスはぼんやりと眺めていたが、恰幅のいい村長の妻が着慣れない甲冑を揺らしながら歩いて来るのに気付いた。
「ソラス。あたしらの事は平気だよ。女だって戦わなきゃいけない時はあるものさ。だからあんたは姉さんを護っておやり。大丈夫、こっちは何とか脱出してみるさ」
武器など満足に扱った事もない女たちが生きる道を模索している姿に、ソラスは胸が締め付けられた。
彼にはもう時間が無い。夜明けと共に、仮初めの命も終わる。助けに来たはずの女たちに励まされながら、彼はゆっくり立ち上がった。
「……ありがとう皆。俺行くよ。外に出たら大きな鳥が飛んでいるけど、彼は味方だから怖がらないで。無事に村に戻れたら、坑道にいる男たちを助けて欲しい」
そう言い残すとソラスは慎重に廊下の様子を探った。
辺りには人影も無く、中庭まで伸びる廊下に足音も聞こえない。
「今なら安全だ。行こう」
彼の言葉に女たちも頷き従った。彼女たちを中庭まで連れ出すと、すでに弓兵は全て叩き落されていた。
弦月が青白く照らす中、暗黒の大空には大きな翼がゆったりと舞っている。
「全く。人遣いの荒い小僧だ。後で覚えているがいい」
不機嫌なラウムの声を聞き取り、ソラスは小さな声でありがとうございます、とだけ呟いた。
五 ・ 夜明け
女たちをラウムに託した後、ソラスは独り城内に戻った。
内部にいた領主の兵はあらかた中庭へ出たのか、その気配すらない。中庭に転がる死体の数を見れば、ラウムが相当数を引き付けて排除した様が窺える。
城内の見取り図も無く、ソラスは闇雲に上階への階段を探した。
一階には兵士の詰所や食堂などが集中しており、とても領主がいるとは思えない造りだったからだ。
剣を抜き放ち慎重に上階へ上がると、そこからは上質な絨毯が敷き詰められた住居となっている。
厚い絨毯は足音を吸収し潜みやすいが、それは敵も同じ事だ。
「おい小僧」
いきなり響いた声に、ソラスは飛び上がらんばかりに驚いた。
辺りをきょろきょろと見回し、その声がラウムのものだと気付くまでに、しばらく時間が掛かった。
「お前はバカか。わしらの遣り取りは他の奴らには聞こえん。女たちは裏門から逃がした。後は好きにしろ」
「……ありがとうございます」
素直に礼を述べるソラスに、ラウムは一瞬言葉を切った。
「お前、領主の所に行くつもりだろう。ひとつだけ言っておくが、領主が黒曜石で造られた両手剣を持っていたら、すぐに逃げろ。あれはこの世のものではない」
「この世のものではない……?」
「そうだ。王器と呼ばれる王権の証。そのうちのひとつだ。神代の昔に造られたと聞くが、敵対者の息の根を止めるまで血を吸い続ける禍物よ。神殿にでも祀っておけば良いものを、俗物が持ち出したようだからな」
ラウムの言葉に、ソラスはずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「ラウムさんは、どうして手助けしてくれるんですか。これは俺が勝手にやってるだけで、あなたには何の利も無いのに」
その問いにラウムはしばし黙り込んだが、すぐに不遜な口調でやり返した。
「……お前は本当に下らん奴だな。一時とはいえ血を受け眷属となった以上、お前の失敗はマルファスの失敗となる。我が主の失態を、このわしが許すとでも思っているのか」
そっけない返答に、ソラスは小さく笑いながら頷いた。
「分かりました。あの人に恥をかかせるような真似はしませんから、安心して下さい。俺にだって意地くらいあります。……必ず姉さんを、この手で助け出してみせます」
ソラスは周囲に人影が無いのを確認すると、廊下の奥を探った。
大きな扉が遠目に見え、心なしか不気味な気配をその中から感じ取った。
近付くために立ち上がると突如断末魔が響き渡り、ソラスは反射的に駆け出した。
扉まで駆け寄ると一気に蹴り開け、剣を構える。部屋の内部をぐるりと見渡すと奥に寝台があり、その上には真っ白な裸体を血で赤く染め上げた女が横たわっていた。
女の顔が一瞬だけ姉に見えて、彼は寝台へ駆け寄った。
よくよく確認すれば、それは姉ではなく見知らぬ女だった。彼女は残酷にも腹を刺され、多量の出血を起こしてすでに事切れている。
どす黒い傷口は大きく裂かれ、そこからは絶える事なく血が流れ続けていた。
「気をつけろソラス。その部屋には何かいる」
ラウムの言葉にソラスは我に返った。
驚きのあまり、ろくに確認もせず部屋へ踏み込んでしまったのだ。
ソラスが振り向くより速く、黒い刃が首筋を掠めた。
振り抜かれた切っ先はぎらりと月光を反射し、ガラス質の輝きを赤黒く浮かび上がらせる。
黒曜石の両手剣。男が振るっているのはまさしくそれだろう。
重量感のあるその剣をいともたやすく振り回し、男は再度ソラスへ刃を振り下ろした。
すんでのところで身をかわし、彼は汗ばむ両手で鉄剣を構えた。男の顔は暗がりでよく分からない。だがこれが領主なのだろうとソラスは確信した。
「焦るな。相手の動きをよく見るんだ。お前が敵う相手ではない。窓を破って跳べば、わしが受け止めてやる」
「まだ……まだ、だめです。姉さんを探してからじゃないと」
領主を見れば見るほど、人間離れしているとソラスは思った。相手からは乱れた呼吸音ひとつ聞こえて来ないのに、剣を握った両手だけが自在に動いている。まるで別の生き物が意思を持っているように見えて、彼は身震いした。
「馬鹿者が。生きているかどうかも分からない者のために、何故そこまでする。いくら不死者の血を受けているとはいえ、致命傷を食らえば死ぬのだぞ」
「分かっています。でも……どのみち夜が明けたら、俺は死体に戻るんです。だったら最期の時まで、自分の思いを諦めたくない」
バカが、と呟いたのを最後に、ラウムの声は途切れた。
不気味に蠢く領主らしきモノは、幻燈のようにその影を床へと落とした。剣を握り締めてゆるゆると迫り来る影は、寂れた古城に佇む亡霊にも似ている。
「姉さんはどこだ。姉さんを返せ!」
亡霊じみた領主に言葉が通じるのかは分からなかったが、ソラスは剣を構えながら叫んだ。
だが彼の声も虚しく、領主は猛烈な勢いで斬り掛かって来た。間隙を縫い切っ先を避けると、重い一撃は傍らの調度をなぎ払い、叩き割った。
「血を寄越せ……。血だ。血こそが、全ての源。貴様の血は、得も知れぬ不可思議な香りがする」
ソラスが先ほど受けた矢傷はすでに塞がり、彼の血は衣服にべったりとこびりついているだけだった。その匂いを嗅ぎ取ったのか、領主は地獄の底から響くような声を上げる。
「戦は最高だ。肉を斬り返り血を浴び、骨を砕くのがたまらない。どんな女を抱くよりも心が躍り、この身は悦びで打ち震える。戦での高揚を知らぬ者など、生きている価値も無い」
高笑いをしながら、領主は剣を振り下ろし続けた。そのたびに床は砕け、調度は飛び散り、耳をつんざく破壊音だけが部屋に充満する。
「狂ってる……。そんな事のために村の女たちを連れ去り、男たちを坑道に押し込めて殺したのか」
「戦場は力と運の交わる場所よ。その程度で死ぬ者など、兵士として使い物にはならぬ。この世に生を受けた時から、すでに命の選定は始まっている。あまたの生を打ち殺し、最後に立っている者が絶対的勝者なのだ」
領主の言葉にソラスは覚悟を決めた。
平穏な日常を、そして姉を取り戻すにはこの男を倒すしかない。そしてそれは他でもなく――領主自身が定めた法であり、業なのだ。
「あんたが姉さんの居場所を吐かないなら……俺はあんたを殺してでも探し出す!」
「好きにするがいい。我が剣の前にあるのは、ただ肉塊のみ。そこには貴様の言う個など無い」
にたりと笑う歯の隙間からは、絶えず瘴気が漏れ出している。
ラウムは黒曜石の剣を禍物だと言っていたが、領主はそれに取り憑かれた成れの果てなのだろうか。ソラスは静かに剣を構え、領主の所作を見た。
これまでどれだけの数を殺してきたのか。領主の剣は鋭く、一点の曇りもない。ただ殺すために磨き上げられた剣技は無駄がなく、的確にソラスの肉体を捉えた。
紙一重で刃をかわしながらも、彼の腕や脚には斬り裂かれた赤い筋がいくつも走った。とめどなく血液が流れ落ち、立っていられなくなったソラスはとうとう膝をついた。
どうしても領主に近付けない。それは勿論、彼自身が剣を握るのに慣れていないのもあるが、圧倒的な経験不足によるものが大半を占めていた。
だがここで勝てなければ、ソラスは自らの望みすら叶えられず、塵となって消える運命にある。それは機会を与えてくれたマルファスや、ラウムの期待を裏切る行為にも等しかった。
そして何よりも――姉を救い出せず、その幸せを願う事さえ許されないのだ。
「つまらぬな。その程度の気迫では兵士たりえぬ。やはり貴様は死すべき運命なのだ」
人間のものとは思えない、感情の無い声が室内に木霊する。
殺される、とソラスは思った。矢傷の回復は思いのほか早く、たちまち傷が癒えたものの、黒曜石の剣によって受けた裂傷は塞がるどころか更に広がっていく。
流れ続ける血液は生命維持の可能な量を越え、いまや未知の領域に踏み込んだ。どれだけ流れるのか、果たしてこの血液がソラスのものであるのか、それすら彼にも分からない。
ただひとつ言えるのは、彼が流し続ける血を黒曜石の剣が啜っているという忌まわしい事実だけだ。
「並の人間ならとうに死んでいるものを……貴様は何者だ? いや、そんな事はどうでもいい。その首を叩き落として、血を全て流し尽くしてくれる」
不気味な眼光を向ける領主に、ソラスは反撃の機会を窺った。
あの剣撃さえなければ――どうにかして打ち払い、返す刃を衝き立てられれば勝機はある。だが一体どうすればいいのか。
思考を巡らせている間にも、領主は正確無比の切っ先をソラスへと向けた。血を吸って赤くねっとりと輝く刃。命さえ抉り取る波刃の剣に、ソラスの顔が映り込んだ。
「来い、王器。我が支配下に戻れ」
唐突に声が響いた。
一瞬ラウムが発したのかとソラスは思ったが、それは驚くほどはっきり窓の方向から聞こえた。ゆっくりと振り向き見上げると、そこには黒のコートを纏った男が立っている。
男に呼ばれるままに、黒曜石の剣は領主の手をするりと離れて、男の手に握られた。べったりと滴る血糊を振り払い、彼は静かに剣を鞘へ収める。
次の瞬間には、斬られたソラスの傷はみるみるうちに塞がり、血液の流出もぴたりと止まった。助かった安堵の中、ソラスは剣を手にした男を見ようと窓へ目を移した。
黒曜石の剣を手に立ち尽くしているのは、他でもないマルファスだ。
ソラスには何故彼がここにいるのか、どうやって剣を手にしたのかまるで理解出来なかった。それは領主も同じようで、言葉も無く立ちすくんでいるのは、状況が飲み込めていないからなのだろう。
そんな状況でもマルファスは眉ひとつ動かさず、静かに口を開いた。
「人の王よ。王器を勝手に持ち出されては困る。これは僕が王と認めた者にしか扱えない代物だ。お前が強奪し散々な使い方をしたおかげで、随分穢れが付着してしまった」
マルファスの言う穢れとは、領主に殺された者たちの事だろうか。彼らの怨念が呼び水となって、更に血と殺戮を求める。そうして剣を使っていたはずの者が、いつしか剣に使われているのかも知れない。
「貴様が何者であろうとも、その剣は私の物だ。私はそれを用いて大陸を平定する。誰にも……邪魔はさせぬ」
領主は邪悪な視線を黒曜石の剣へ注いだ。――魅入られている。その不気味さにソラスはぞっとした。剣に魅入られ殺戮を繰り返す者が平定する未来は、やがて大陸を滅ぼす元凶になるのではないかと思ったのだ。
「大陸の覇者を決めるのは、お前ではない」
マルファスは冷淡な炎を宿した瞳で領主を見据えた。その輝きの中にうっすらと悲哀をみとめ、ソラスは立ち尽くした。
「僕は大陸を管理する代行者の一人、『罪』の名を冠する者。そして王権の証である王器、黒曜石の剣の所有者だ。大陸の命運は、我々代行者が決める」
代行者という言葉に領主は一瞬怯んだが、すぐに別の剣を抜き放ってマルファスへ斬り掛かった。
領主が戸惑ったのは、マルファスが代行者と名乗ったからだろう。神の恩寵など消え失せたこの大陸では、代行者など神代のおとぎ話でしかない。創世神が隠れた時に、大陸管理を委譲された者たちだという伝説も、今では子供ですら忘れ去っているだろう。
月光だけが照らす室内に、青白い閃光が躍った。
マルファスはその一撃を手にした剣でやすやすといなし、領主の剣を弾き飛ばした。
「ソラス」
静かに呼ぶマルファスの声に、ソラスは自らの剣を握り直し呟いた。
「なあ、領主様。俺はあんたが望むような兵士にはなれない。ただの人間として、普通に生きて……普通に死にたかった。それだけなんだ」
今はもう叶わない思い。
坑道内で一度死に、姉を救うためだけに仮初めの生を受けた。痛みも感じて血も流れるというのに、その身はすでに人ではない。
身を護るすべさえ失った領主にソラスは突進し、その胸に剣を衝き立てた。
血で強化されているソラスの腕力は胸を貫き通し、領主のどす黒い血を床にぶちまけた。獣のような咆哮を上げ、ゆっくりと倒れていく男の姿を見ながら、ソラスは自分が涙を流している事に気付いた。
その涙があまりにも多くの矛盾を孕んでいる気がして、彼はしばらくその場から離れようとはしなかった。
部屋の隣室には、若い女たちが押し込められている小さな檻があった。
彼女たちを解放して話を聞くと、あの領主には女を慰み者にしては殺す趣味があったのだという。
殺された娘を救えなかったとソラスは悔やんだが、それでも彼は自らに課した使命を全うした。檻の中には彼の姉であるレインも囚われており、誰もが恐怖に震えていたものの、怪我もなく無事で再会を喜びあった。
娘たちと共に外へ逃がれると、中庭には相変わらずラウムが待機していた。彼があらかた倒したのか、積み重なる兵士の死体は更に数を増している。
地平線を見渡せば夜明けが近い。最後に姉の花嫁姿が見たかったとソラスは思ったが、それ以上望んではいけない事も理解していた。
「ソラス。村へ戻りましょう」
姉が優しく彼に微笑み掛ける。だがソラスの命には刻限が迫っている。彼は姉を押し留めると、先に村へ戻っているよう促した。
ラウムが娘たちを先導するために、静かに翼を広げ飛び立つ。マルファスはソラスの最期を見届けようとしているのか、じっとその場から動こうとはしなかった。
姉たちの背中を見送ると、ラウムは佇むマルファスを振り返り、告げた。
「マルファスさん。力を貸してくれて……ありがとうございました。もう思い残す事はありません。領主も死んだ今、しばらくの間は村も静かになると思います」
小さく笑うソラスに、マルファスは何も言わなかった。
夜の帳をこじ開けるかのように白い太陽が昇って来る。最後の太陽。見るもの全てがまばゆく照らし出され、ソラスは微笑みながら泣いた。
だが太陽が昇り切っても、彼の体は塵にはならなかった。むしろ体が軽く感じられ、生命力が戻って来るようにさえ思える。
「あれ……俺生きてる? 何で……」
自分の手をまじまじと眺めるソラスに、マルファスは静かに呟いた。
「王器の剣で斬られて血を流し尽くした時に、薬の成分も大半が流れ出たんだろう。どれだけの寿命が残っているのかは僕にも分からない。でもキミが見たかった光景を、目にするだけの時間はあると思うよ」
思いがけなく拾い上げた命に、ソラスは感謝し三たび涙を流した。新しい命。新しい太陽を眺め、ソラスが礼を言おうと振り向いた時には、すでにマルファスの姿はその場から掻き消えていた。
ラウムは娘たちを村まで送った後、すぐさまマルファスの許へと戻った。
マルファスは領主の居城跡を丘の上から眺めながら、遥か遠くを望んでいるように思えた。
「おいマルファス。お前、多めにくれてやっただろう」
小さなカラスに戻り、マルファスの傍らに降り立ったラウムは不機嫌そうに言った。
「何の話だい?」
「あの小僧に与えた血に決まっている。あれだけくれてやれば、たっぷり五十年は生きるだろうよ」
「そうだね。でもキミも悪くはないと思っているんだろう? 剣の所在と共に、ソラスの窮地を知らせてくるほど人間に入れ込むなんて、珍しいじゃないか」
「……うるさい。子供が目の前で死ぬなど、寝覚めが悪いからに決まっているだろうが」
つっけんどんなカラスの言葉に、マルファスはふと微笑んだ。
「本当はね。あの子をながらえさせるかどうか、迷ったんだ。死ぬべき運命なのではないか、これでよかったのかとね」
「よかったかどうかなど、お前が決める事でもないだろう。あの小僧が自分で決めるさ」
「……そうだね」
マルファスは頷きゆっくり立ち上がると、遥か南東の空を仰いだ。
「そろそろ行かなければ。グシオン師が待っている」
「銀盤の代行者、グシオン様か。わしはあの方は好かん」
「手厳しいな。あの方は代行者と成り果てた僕を導いてくれたのだから、その恩は返さなければならないのさ」
マルファスが歩き出すと、ラウムもそれに従った。
のちにダルダンと呼ばれるようになるその地を去り、彼らは一路、東へと向かった。
麻のように乱れる西大陸を、四人の代行者が四人の王を立てる事で力を拮抗させ、平和を紡ごうと画策した。だがそれもやがて、それぞれの思惑を逸脱して一人歩きをする。
四王国の成立まであと百余年。運命の輪は音も無く、ただ廻り続けていた。
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四王国建国以前のマルファスの話です。流血・死体・残酷描写あり。R-15。22342字。
あらすじ・北の領主が治める小さな村で、姉と暮らす十五歳の少年ソラス。
領主の命令で村の男たちが鉱山へ駆り出さる中、落盤事故で死に瀕した彼は黒い死神を見る。