「以上が事の顛末です。」
「ちょ、ちょっと待て!それでは大事な部分が足りないではないか!」
「そうですか?私にはこれで十分だと感じたのですが…」
「いや、それではお主がそやつをつれてここにいる理由にはならないではないか!」
「私が彼を抱えてここにいる。それだけでは理由になりませんか?」
「ならぬから聞いておるに!」
「しかたないですね…ではもう少しだけ話しましょう。」
…
……
………
静かだった。
切った啖呵に似合わぬほどの静けさだった。
わかりやすく例えて言うなら一秒が一分にも一時間にも感じられるほどの静寂があたりを包む。
関羽は動かなかった。
それは以前の経験から来るものか、それとも絶対の自信から来るものか。
関羽は実感している。対峙している男は弱い。
それと同時に痛感している。この男は何をしてくるかわからない。
その脆弱な腕で振るわれるであろう木剣は、しかし警戒するに値する。
その貧弱な脚で行われるであろう踏み込は、しかし驚愕するに値する。
その惰弱な体で繰出されるであろう体術は、しかし賞賛するに値する。
先の先をとることは容易だ。それこそ一撃で仕留めることも可能だろう。
だが関羽は知っている。これだけの大軍を前にたった一人で止めると嘯く男の実力を知っている。
関羽はその実力を警戒した。男はそれだけの力を、一度見せているから。
だから関羽は動けなかった。
耳が鳴る。
自身の早鐘が急かす。
わかりやすく例えて言うなら戦囃子に急かされて一分でも一秒でも早く踊り出さんばかりの鼓舞が鳴っている。
北郷は動いていた。
それは自身の記憶からくるものか、それとも自信のなさから来る震えなのか。
北郷は実感している。まともにやって勝てる相手ではない。
それと同時に痛感している。
勝たなければならない。
腕っ節が弱いことはわかってる。
技術が足りないこともわかってる。
だが度胸だけは、足りている。
木刀の鋒をゆすり空気を感じる。
戦場の空気を、関羽の空気を、そして死地の空気を。
実力の違いなど体が痛いほど感じている。
気迫だけで吐きそうだ。
だが負けられない。
後ろにいる娘たちが帰りを待ってる。
だから北郷は動くしかなかった。
北郷はゆらゆらと鋒を揺らす。随分前の記憶だが、剣道の強かった先輩はそうしていたから。
隙があるように視えるその行動にも意味はあった。相手の行動をだいぶ制限できるのだ。
陽炎のように揺らめくそれはセンサーのような働きをする。筋肉を硬直させ、力んでいるときには反応できないであろう小さな動きにも対応できるのだ。
力が抜けたいい状態ともいえる。
しかしそれは達人ならば、である。
北郷は弱い。
一般兵に毛の生えた程度だ。
弱い。
弱いのに、関羽は撃ち込めない。
邪魔なのだ。
目の前の、ただ揺れている鋒が邪魔なのだ。
ゆらゆらと、当てもなく彷徨う迷子のようにふらつくその鋒が邪魔で仕方がない。
間合いの計り合いにしろ、制空圏の取り合いにしろ、その均衡が破れるときは決まって意識の隙の感知したときだ。
不動であっても意識は移ろう。無の境地は長く続かず、かならず綻びが生じる。
その一点を見極め、穿つ。
単純に、その一点を見極めるだけ。
ただそれだけが、できない。
揺らめく木剣がその綻びを隠している。
均衡が破れない。
関羽は焦る。
二度の敗北、前回、そしてたった今経験した二度の敗北が彼女をそうさせている。
何のことはない、北郷はどこにでもいる男なのに。
その剣はすこしばかり時代を先取りし、その知識がすこしだけ歩を進めているだけの、ただの男なのに。
関羽が圧倒的強者であるのにもかかわらず、動けない。
なにか企みがあるのではないか。
もしかしたら…
その思考が彼女を鈍らせている。
動けない。
だがそれは北郷も同じだった。
ただ震えるように、誤魔化すように剣先が綻ばぬようにしているに過ぎない。
過去に二度、あの関羽を騙し果せた事自体で既に重畳なのであって、それ以上の策はない。
ここで時間を稼いで死ぬだけだと思っていた。
しかし欲が出た。
生きたいという欲が出た。
同じものを目指し、違う道を歩む眼の前の少女に、負けたくないと思ってしまった。
背後の少女が捨てざるを得なかったものを大事に抱えたこいつらなんかに、負けたくない。
滑稽だった。
自分が滑稽だった。
つまらない意地のために命をかける自分が滑稽でならなかった。
だが同時に思う。俺は間違ってはいないから、と。
この道を背負うあの娘は間違ってないから、と。
勝ってそれを証明したい。
二回はできたんだ。
あと一度、騙してやるよ。
できることなど数えるほどしかないならば、その中でやるだけだ。
北郷にあって関羽にないものはたった一つ、知識だけ。
1800年の歴史を先取りして、魅せてやる。
その時心は決まった。
決まった心に合わせるように、鋒の震えは止まっていた。
対する関羽も、それを感じ取る。
空気が変わる。
目の前の男の覚悟が固まったのか。
それとも自分の迷いが晴れたのか。
それは定かではなかったが、この男、明らかに力みすぎだ。
今しかない。
やるならば今しかない。
殺るならいましかない!
戦場が、爆ぜた。
交叉は一瞬。
軽く、乾いた音が響く。
勝負は一撃。
人が一人倒れる音をもって、この戦の勝敗は決まった。
…
……
………
「私も詳しく覚えていませんが、これだけは間違いない。本当に一撃で私は倒されました。
これが事の顛末です。」
関羽はさもこれで十分であるといった表情で話を締めくくった。
しかしこんなことで納得できようはずがない。
もちろん非難が集中する。
「いや、いやいやいやいや…おかしいと言っているだろう!今の話だったらどう考えても北郷が負けているではないか!
なのになぜ、貴様が魏の本陣にいるのだ!」
春蘭の言っていることは至極まっとうであった。
遡ること数刻、黄蓋の奇襲を受けて散り散りに逃げた本隊は揃い切る前に蜀の奇襲を受けた。
馬超に趙雲、厳顔や黄忠、張飛、魏延、鳳統、諸葛亮…
なぜか本隊近くにいた恋や、華琳にくっついて離れようとしなかった季衣、流琉のお陰で、軍師を含む魏軍頭脳部分には甚大な被害は出なかった。
聞けば、三人とも、北郷に言われてそこにいたという。
曰く『必ず敵襲が来るから。絶対に華琳から離れるな』と。
加えて、殿に向かわせた春蘭、秋蘭も素早く合流し、霞も凪達を率いて早々に合流できた。
その頃には混乱していた兵士たちも落ち着きを取り戻すはじめ、陣を構えることもできた。
陣を構え、地に足付けば遅れをとる華琳ではない。
名だたる名将名参謀の率いる奇襲部隊をことごとく防ぎ切り一段落つけていたところに、一報が入るのであった。
「関羽、接近」
身構えるのも無理は無い。
報告の通りの配置ならば殿は全滅のはずだ。
ならば、彼の安否も自ずから推測できるというものであり、烈火の如く怒り狂って凪が飛び出し、あの春蘭がそれを諌めるというのも無理からぬ話だった。
だが、その後の伝令から伝えられた続報は、それを上回る衝撃だった。
「関羽 投降 御遣いを担ぎ帰投中」
誰とも知らず、天地を揺るがすほどの驚声を上げた。
もちろん北郷のことを信じていないわけではない。
それと同時に、北郷のことを知らないわけでもない。
凪の報告で、彼が死ぬ覚悟だということは魏軍全員が理解できた。
関羽が勝つことは明白であり、殿に残った北郷が勝って帰還するとは誰も考えていなかった。
北郷が勝つことを信じていたとしても、勝てるわけがないという事実も同時に、理解していた。
言うなれば、先んじてもたらされた報告は全員が予想できたことであり、凪が先頭を切って飛び出したのもある意味では全員が予想していたことであったわけだ。
それが、どうしたことだ。
関羽が投降している。
それも北郷を担いでこちらに向かっている。
それこそ、春蘭でなくても、桂花や華琳でさえ理解できず、驚くことは無理からぬ話であった。
時を戻し、魏本陣。
春蘭の詰問は続いていた。
「だーかーら!それでは説明がつかんというておるに!
なぜそいつが気を失って、貴様がここにいるのにそいつが無傷で!
どういうことなのだ!?」
「何度も言っているだろう。私はこのお方に負けたのだ。
負けを認めたから勝ったものの言葉に従う。
しかし勝ったものがこの有様ではしかたないではないか。だから、ここまでお連れしたのだ。」
「それが理解できんというに!なんで勝った北郷が倒れていて負けたお前がピンピンしておるのだ!?」
「そんなこと私にだってわからん。ただ私が覚えてることはいままで話したので全てだ。」
曰く、北郷を斬ったつもりだったがその一閃は空を切り、想像を超える速度で振り下ろされた木剣を見た。
その後、刹那ほどの意識を飛ばしていたらしく記憶がなく、気がつき、踏ん張り、眼の前を確認したらそこにもう敵はなく、北郷が倒れていたという。
「何をされたか、全くわかりませんでした。
ただ、我が一太刀は空を切り、彼の一薙が私を捉えた。
痛みの位置からおそらく顎を打ちぬかれたのでしょう。
そのせいで、戦の最中に意識を飛ばした。これを負けとせずに何が負けなのでしょう。」
「ぐっ…!」
武人にそこまで言わせた重みが、春蘭はすぐに理解できた。そのためか、あっという間に落ち着きを取り戻した。
「…貴様がそこまでいうならば、そうなのであろうな。だ、そうです華琳様。」
「えぇ、話は聞いていたわ。それで、負けを認めてどうするつもりなのかしら?」
華琳は、関羽を正面から見据え、問いかける。
関羽はそれを正面から見据えて、応える。
「負けはしても、我が志は我が姉上と共に在り。だが、敗将として首を斬られる覚悟も有り。」
「それは、私があなたをどうしようとも構わないということかしら?」
「例えどんな辱めを受けようとも、それが負けた将の勤めとあらば甘んじて受け入れよう。」
「そう…そうね。」
この曹操のことを知っていて、ここまで言うかと、華琳は思った。
あれだけ自身が欲した将は、やはりいい女であったと感心した。
並大抵ではない覚悟をもった関羽を少しからかってやろうとも、思った。
「…では早速私の閨へ…と言いたいところだけど、関羽、今の口ぶりではあなたが負けを認めたのは私ではないのでしょう?」
「はい、私が負けたのは他ならぬ御遣い殿です。」
一切の迷いなく、関羽は肯定する。
「ふふっ。そういうと思ったわ。では、あなたは北郷隊所属ということでよさそうね。」
「…はっ…はぁ。」
「あなたが言ったのでしょう?北郷に負けたというのだから北郷隊にその処遇を任せると言っているのよ。
御遣いはもともと魏の客将。私の直属ではないのよ。」
「え…それは一体どういう…」
「赤の他人に軍権を与えているということよ。処遇もそちらの決まりに従ってもらいましょうか。
関羽には上司たる北郷と戦い敗れた罰と、北郷を無事本陣まで運んできた功を与えます。凪、北郷隊の一番の褒美と一番の罰は何?」
華琳はいたずらっ子のような顔で凪に目配せをした。
そして、そんな華琳の意図は、すぐに凪に伝わった。
「はい…一番の罰は免職、一番の功は名誉除隊です。」
「…なっ!それでは…!」
「では今すぐにでも渡せるわね。関羽。あなたは今から自由です。好きなようになさい。どこへなりと行くがいいわ。
そうね…あなた、たしか姉と妹がいるそうね?春蘭、霞。関羽を姉妹の下まで送ってあげなさい。」
「はっ!」
「まかしとき!」
霞は本当に楽しい物を見るかのように目を細め意地悪く笑い、
春蘭も同時に、よくしった旧友をからかうかのような笑顔で頷いた。
二人は、有無をいわさず関羽を羽交い絞めにし、さっさと陣外へと運び始めた。
「なっ…いや、あの…ちょっと…ちょっとまて!私はそんなつもりでは!!!!」
魏本陣には、覚悟が空振りした関羽の、虚しい叫び声と、そんな関羽にいっぱい食わせてやった華琳の楽しそうな声が木霊した。
「ふふふ…残念ね関羽。また会える日を楽しみにしているわ。」
場所は変わって、華琳の寝所。
原因はわからないが目を覚まさぬ英雄の頬を撫でながら、華琳はひとりごちた。
「あの顔…。見ればすぐわかるわ。関羽まで虜にしたようね。本当に女たらしね。」
それにしても、と華琳は思う。
この男のどこに関羽を打ち負かす力があるというのか。
以前も、そして今回も、私はこの男に助けられたのか。
「貴方がいたから、私はいま、生きているのよ。皆が無事だったのよ。兵士たちへの被害も最小限度だったわ。
それにまさか黄蓋や関羽まで助けようとしていたなんて、貴方、本当の大馬鹿者ね。」
たしかに貴方は皆を助けたいとは言っていた。
それがまさか敵を含めてまでなんて、私もさすがに考えていなかったわ。
貴方はほんとうに、大馬鹿者ね。
年に似合わぬ子供じみた言動も、甘すぎるほど甘い理想論も、そんな貴方がいうなら納得できるわ。
限界を知ってなお、限界を超えたいと欲せる人間など、そう多くはないのだから。
それができた貴方ならば、私は納得できる。
何も諦めない劉備を支えるために何かを諦めた関羽には、何かを諦めた私を支えるために諦めなかった貴方が、きっと羨ましく思えたのかしらね。
「必ず目を覚ましなさい。」
貴方が目指す道も、我が覇道。
貴方がいないと完成しない私の覇道。
「背負っているつもりだったけれど。いつからかしらね…」
私は、いつからこんなにもあなたに頼っていたのかしら。
再び場所は違えて、こちらは、帰路に押し出された関羽。
馬に跨り、誰に聞かせるでもなしに関羽はつぶやいていた。
「もしも、あのとき、私が魏に借りられていたのならば…
今宵の負けはなかったのかもしれないのだろうか…。
あの時の判断に後悔はない。
姉上の道は正しいと、今も思っている。」
しかし、なぜだろう。
彼の背後に立ち、彼とともに戦場を駆けることができたのならば、と考えてしまう。
彼と共に戦場をかける自分を想像してしまう。
「…あぁ、悔しい。」
その言葉にはいったいどのような感情がこめられているのだろうか。
少女は思わず、天を仰いだ。
武神と呼ばれし少女の声は、小さく震えていた。
燃えるような夜はその熱を失い、更けていく。
後の世に語られる赤壁の戦い。
長く熱い夜は火計の失敗を持って呉の敗北とし、関羽敗戦によって蜀の敗北とし、北郷昏睡の事実を持って、魏の敗北とされた。
乱世は未だ、真っ赤に燃えている。
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