小さな街の片隅で、私は肉切り包丁を振るっていた。だけどそれも昨日まで。私が働いていた小さな肉屋は、火事でみんな焼けてしまった。
私に残ったのは、病弱な妹と、使い慣れた肉切り包丁だけ。
その日暮らしだった私達に、明日を生きて行く見込みなどどこにもない。私は肉を切る事しかできない。だが、肉を仕入れる金など皆無。この街の肉屋などどこも似たり寄ったりで、いきなり新たな者を雇い入れる余裕がある店などどこにもありはしなかった。
「ドンちゃん」
妹は私をそう呼ぶ。幼い頃のままごとで、私がいつも貴族の役を務めていたからだ。
「大丈夫だよアデリ。アデリは何も心配することはないんだ」
私は肉切り包丁を研ぐ。
今日は街の東に。
明日は西に。
飽きたら南に。
気の向くまま北に。
私は肉切り包丁を振るう。
私の作るソーセージは中々の評判だ。
売り上げは小さくとも、利益は十分に取れた。私の生活は、肉屋に勤めていた頃よりも潤った。妹にも十分な食べ物と、必要なら薬を与えることすら出来るようになった。
私は包丁を研ぐ。
路地を巡り、丘を上り。
畑を過ぎて、通りに戻り。
私は包丁を振るう。
担いだ袋の重みに、自然と笑みがこぼれ落ちた。今度のお肉は、昨日のより柔らかいかしら? 同じ肉は一つとしてない。硬さも、歯ごたえも、味も、香りも。
日増しに血色がよくなっていく妹の顔を見る事が出来るのが、私は嬉しくて仕方がない。
私はふと思いついて、妹に話しかけた。
「明日はアデリにも、お肉を食べさせてあげるからね。いっぱい食べて、元気になるんだよ」
「はい」
妹は柔らかに微笑んだ。
私は肉切り包丁を研ぐ。
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この世界を、未だ数匹の亀と象が支えていた時代。
霧は濃く、森は暗く、神秘と信仰と迷信は絶えず、ただ空だけはどこまでも高かった頃。
忘れられた、彼らの物語。
短編連作「死者物語」。