「子曰く、学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや……」
雛里はここまで読んだところで、一つため息をついた。
全寮制の女子校、水鏡女学院に入学したものの、雛里はその引っ込み思案の性格が災いして友達らしい友達が一人もできないでいる。
お勉強は愉しい。しかしそれを分かち合える友達がいないのだ……。
『論語』に落としていた目を中庭へと移すと、緑の芝生のもと楽しげにおしゃべりに興じる生徒達。
「いいなぁ……」
その様子を見て雛里は、自分もそこに加われたらなぁと、さらに深いため息をつく……。
だが、もちろんそんな雛里にも機会はあった。
「士元ちゃん、一緒にお勉強しよう」
そう級友から声をかけられたことも何度かある。
しかし雛里は極度の上がり症のため、いつも決まって
「あ、あの、えと……」
と、俯いてしまうのだ。
そしてそれを拒否の合図だと思った級友は、「そっか……。じゃあ行こ」と雛里に背を向けてしまう……。
そんなことを何度か繰り返すうちに、「あの子は暗いし、いつも一人でいる」との評判が立ち、とうとう誰も近寄って来なくなってしまっていた。
そんなある日、「地方行政と経済政策」という授業の一環として、実際に街に行くことが決まった。
もっとも、「授業の一環で」と言うと堅苦しく聞こえるが、実際は課外活動も兼ねたお泊まり会である。
これには学級中が色めき立った。
入学して以降ずっとの寮生活である。
それが外に出れる。
あちこちから楽しげなざわめきが聞こえる。
……だが、雛里は沈んでいた。
それもそのはず、昼間の課外活動は二人一組で行わなければいけないのだ。
しかし雛里には友達がいない……。
周りが組み分けの声で色めく中、雛里だけがポツンと一人寂しく席に座っていると、
「あ、あの……」
と、雛里に声をかける少女が現れた。
同じ学級の孔明である。
しかし雛里は孔明とは親しくない。
雛里はあまり親しくない相手と話すとき、とても緊張して何もしゃべれなくしまうのだ。
このせいで今まで誰とも仲良くなれなかった……。
雛里は過去の失敗を繰り返すまいと、心の中である言葉を繰り返し呟く。
「過ちて改めざる、之を過ちと謂う。過ちて改めざる、之を過ちと謂う。過ちて改めざる、之を過ちと……」
だが、緊張すまいとすればするほど、なお緊張するもの。
雛里が緊張のあまり何も言えずに押し黙っていると、
「……ダメ、かな……?」
と、不安そうに孔明が問いかけてきた。
あ、あわわ、また失敗しちゃう!
雛里はこれでもかと一生懸命に首を横に振る。
そして搾り出したかのような声で、
「あ、あの……えと……よ、よろしく……です……」
と、差し出された孔明の手を取った。
当日。
雛里と孔明は連れ立って街へと出かけた。
襄陽の街は人通りも多く、賑やかである。
しかし二人の間は静かであった。
雛里はそもそもしゃべるのが苦手中の苦手。
それに孔明もあまり得意な方ではない。
となると本当に、互いに街の様子を観察するだけ。
通りの構造や、商店の並び。行政村と自然村の差異。
二人は寡黙にその様子を書きとめてゆく。
そして文字通り無言のまま、課外活動は終了のときを向かえたのである。
……雛里は、襄陽から少し離れた温泉宿に帰ってからも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
せっかく自分を誘ってくれたのに、何もお話できなかった……。きっと退屈だったに違いない。自分はまた嫌われてしまった……。
この思いが雛里の胸を突く。
お風呂に入っていても、そして布団に入ってからもしばらくこの悩みは消えなかったが、
「明日は少しでもお話できるように頑張ってみよう……」
そう強く決意し、眠りへと落ちていった。
……………………………………………………………………………………………。
眠ってからどのくらい経つだろう。
あたりの騒がしさに、雛里は目を覚ました。
「た、大変だー! 近くの邑に賊が出たぞーーっ!」
廊下から聞こえたその声に、雛里は恐ろしくなる。
最近、黄色の布を頭に巻いた賊が巷で暴威をふるっているのを知っていた。
その賊は、女子供にまで手をかけるらしい……。
もし襲われたら自分も……。
しかし、雛里は思い出す。
自分はどうして学んでいるのかを。
それは、混乱する世を沈めるためではなかったのかを。
……もしここで賊から逃げてしまえば、学んできた意味がなくなってしまう……。
気がついたら雛里は飛び出していた。
雛里がその邑に着くと、すでに賊の姿はなかった。
しかしすぐに酒家に集まり輪になって話し合っている人々を見つけ、雛里はそこに近づいていった。
「あ、あの……えと」
そうおずおずと話しかけると、一斉にみなの視線が雛里に集まる。
身が強張ってしまう……。
だが……ここで緊張していては、この邑を守ることはできないのだ。
雛里が勇気を振り絞って顔を上げると、
「……士元……ちゃん?」
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
その声を手繰って輪の中心に目を向けると、そこには孔明の姿がある。
「あわわ……孔明ちゃん?」
雛里は目を丸くしながら孔明の方を見た。
まさかそこに孔明の姿があるとは思わなかった。
聞けばどうやら、孔明も雛里と同じで、この邑を助けようと思って来たらしい。
「さすが孔明ちゃんだね」
雛里は、孔明が賊を退けたと聞き、感嘆の声を上げる。
しかし孔明は、
「ううん。それに、まだ少数の先発隊を退けただけ……。今度は本隊と合流して大勢でやって来る……」
と否定し、再びどうすべきかと対策を考え始めた。
それなら確かに次はもっと大勢でやって来るだろう。
「……樹上開花」
雛里はそう呟いた。
そして、
「局を借りて勢を布かば、力小なれども勢大なり。鴻逵に漸む、其の羽もって儀となすべし」
と続ける。
孫子だ。樹上開花とは、木の上に花を咲かせること。つまり、あり得ないことを為し相手を驚かせ、その士気を挫く。
危険の高すぎる計ではあるが、今回は数を頼み統率もとれていない賊が相手。
非常に効果的な計である。
孔明もさすがと言うべきか、すぐにその意味がわかったらしく、「さすが士元ちゃん」と感嘆の声を漏らした。
そして二人は、邑の人たちにも手伝ってもらい、準備を開始する。
先の襲撃は少数での行いであるから、おそらく突発的なものであろう。
であるなら、邑の周囲が調べられている可能性は低い。
そこで邑から近く、そして賊の進軍経路と予測される地点に官軍が陣を張った後であるかのような痕跡を残す。
この作業は孔明に、足に速い邑人を何人か連れて行ってもらうことになった。
雛里は残った人と総出で邑中の布を集め、即席の旗作りを開始する。
今は夜中で周囲も暗く、視界が悪い。
これなら賊も、ただの布切れを官軍の旗と誤認してくれるはずだ。
そして……。
賊が孔明の作った陣跡を見て、官軍がいるかもしれないと警戒しながら邑に入ってきたところで、先ほどの布を官軍の旗に見立て掲げる。
「か、官軍だ、官軍が来たぞっ!」
官軍が現れたと思った賊軍は一挙にその統率を失う。
そして散り散りに逃げ出していった。
まさに雛里の策が的中。目立った損害もなく、賊を退治することに成功したのだ。
「さすが士元ちゃんだね!」
「ううん、孔明ちゃんがいなければきっとダメだったと思う……」
二人は抱き合い、互いの健闘を喜び合った。
旅館への帰り道、雛里は疑問に思っていたことを口にした。
「……どうして私を誘ってくれたの? そ、その、私あんまりお話上手じゃないし……」
すると孔明はすぐに雛里の自信のなさそうな言葉を否定するように、
「軍略の授業で士元ちゃんが言ってた意見、私とってもすごいなって思ったんだよ。それに……」
と、そこで一拍置き、
「『論語』に曰く、君子は言に訥にして、行に敏ならんことを欲す。今日だって、困っている人を助けに来てくれた。士元ちゃんはとっても素敵だよ!」
と言ってくれた。
雛里は嬉しくて、思わず涙ぐむ。
「……孔明ちゃん……!」
すると孔明は、
「あ、あのね、もしだよ……もし認めてくれるなら私のこと朱里って……」
と、恥ずかしそうに真名を教えてくれる。
雛里はあまりの嬉しさに、朱里の胸へと飛び込んだ。
「は、はわわっ」
朱里は驚いたようだったが、
「ひ、雛里……」
という雛里の真名を聞いて、ゆっくりと顔を上げた。
そして二人は、
「朱里ちゃん……」
「私たち友達だね。よろしくね、雛里ちゃん」
と、手を取り合った。【了】
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設定としては、朱里と雛里が桃香たちと出会う前となっております。
もしかしたら続けるかもしれませんが、今のところは一話完結となっております。
よろしければ、お付き合いくださいませ。
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