『帝記・北郷:十三~二つの演技~』
「………風が強いな」
陣内を駆ける風に揺れる長い黒髪に周喩は右手で軽くそれを抑えた。
「周大都督。孫権様がご無事に到着なさいました!」
「敵は?」
「は。前陣は打ち捨てて城内に引き返した模様です」
「そうか…解った。今後また今回のような事がないように、本陣の警備は今まで以上に厳重にしろ」
「はっ!」
周喩に背を向け去っていく兵を見送り、周喩は髪を掻き上げた。
それは彼女のいつもの癖。だが再び吹き抜けた風に、その髪は思いのほかに乱れ踊る。
「……風が強いな」
もう一度、周喩はそう呟いた。
「蓮華様!ご無事ですか!?」
霞と美琉の攻撃を振りきり後陣へと撤退した孫権こと蓮華の元に駆け寄って来たのは彼女の親衛隊長の一人、鈴の甘寧こと思春。
冷静沈着な彼女も主の危機を聞き、幾分動揺しているのが蓮華にも見て取れた。
「申し訳ありません。丁度、偵察に出ていたもので……」
自分のせいではないと言うのに、後悔と申し訳なさに顔を歪ませる思春に蓮華はしょうがないわねと苦笑して。
「大丈夫よ……龍泰が守ってくれたから」
「そうですか…龍泰殿。感謝する」
蓮華の後ろで白馬の顔を撫でていた龍志…いや龍泰に、思春は深々と頭を下げる。
その姿に龍泰はヒラヒラと手を振って。
「いやいや…崖から落ちて行き倒れていた所を助けてもらったのだ。この程度は当り前というもの」
「されど…本当に感謝する」
「ははは、硬いなあ思春殿は」
蓮華と目を合わせ、二人で苦笑する龍泰。
そこには、かつて命の奪い合いをした者同士であるという事など、まったく感じることが出来ない。
「では…俺はこいつを厩に戻して来ますので」
「ええ、お疲れ様。それから……」
「はい?」
「……ありがとう」
「ふふ。光栄の極み」
そう言い残して龍泰は自分の白馬と孫権の馬を引いてその場を後にした。
それを微笑みながら見送る蓮華に、思春はポツリと呟く。
「作者め…原作キャラとの恋愛は無いんじゃなかったのか……?」
ひいい。
「…どうしたの思春?」
「いえ、何でもありません。しかし蓮華様。あの龍志がこうして我々と共に闘うとは…未だに信じられません」
「そうね…わたしもそう思うわ」
あの日、龍志が倒れた直後。
すぐさま蓮華は彼の治療を命じた。
驚く将兵に対し、問答無用で命を下した彼女に思春は驚いたが、そばにいた冥琳は何かしら察したらしくすぐさま医師の手配をしていた。
結果。龍志本来の驚異的な回復力と、名医・華佗から医術の一部を習っていた虞翻によって彼は一命を取り留めた。
その記憶の大半と引き換えに。
「彼が記憶を失ったことを良いことに、彼を助けたのは自分達だと偽って彼を将としたのは人倫にもとる行為であることは解るわ…でも、わたしは彼に見届けてほしいの、彼が見極めた二つの王器がどのように戦いどのような決着を見せるかを……」
「…そうですか」
熱く語る蓮華とは対照的に、思春は淡々としている。
いつもの彼女と言ってしまえばそれだけなのだが、彼女はあることが気になっていたのだ。
それは『龍志が武芸や兵法の知識だけ残して記憶を失っている』ことだ。
思春は記憶を失ったこともなければ、失った知人もいない。だが、龍志のように都合よく記憶が失われるのだろうか?
そしてもう一つ。
龍志が目を覚ました時、思春は万が一に備えて蓮華に先立って彼が眠っていた幕舎に向かっている。
彼の世話をしていた兵士の話では、彼が蓮華達を呼びに行ってから幕舎に戻るまで、他の誰にも龍志が目覚めたことを言っていないという。
だが、思春は見ていた。
彼女が幕舎に到着するよりも少し前、遠目にながら龍志の幕舎から音もなく出て行く人物を見たのだ。
その人物とは……。
(冥琳様…あなたはあの時何をしていたのだ)
しかしいくら考えても、その問いの答えは見つからなかった。
厩に馬を戻して、鎧を脱いだ龍泰は何となしに陣内をふらついていた。
救護用の幕舎には先程の戦いで傷ついた兵士達が収容されており、小さな呻きが聞こえる。
陣門付近では、資材を持った兵士達が前陣の再建の為に続々と出発していた。
「……手酷くやられたものだな」
二千にも満たない兵士に、十万を越える軍勢が良いようにあしらわれたのだ。
実際の被害は軽微なものだが、兵士達の精神的負担は大きい。
「士気を上げるために何かしらの対策が必要かな?亜紗、朱音」
「はい!!」
「うひい!!」
背後からの声に唇を歪めながら龍泰が振り返ると、呂蒙と蒋欽が零れ落ちた書簡を掴もうとしては掴みそこなって打ち上げるという、さながらバレーボールのような状景が展開されていた。
面白いので、しばらく見ていることにする龍泰。
やがて宙を舞い続けた書簡はクルクルと回りながら地面へと吸い込まれるように落下する……。
「はあ!!」
寸前で朱音に蹴られて再び空高く舞い上がった。
そしてそのまま落ちてきたそれを、龍泰は右手でポンとキャッチする。
「はい」
「あ、ありがとうございます…」
「あ、どうも…」
顔を朱色にして俯いた二人に、龍泰は渡そうとして行き場を失った書簡をどうしたものかと見詰める。
「いや、恥ずかしいのは解るが、書簡を受け取ってもらわないと俺が困るんだが」
「い、いえ…それは龍泰先生に読んでいただこうと思いまして」
「俺に?」
「あ、ああ。あたしと亜紗でこの間の宿題を……」
「ああ。あれか」
言われて思い出す龍泰。
龍泰が孫呉に仕え始めてから一月程は、当然ながら呉の諸将は彼を避けていた。
何せ敵国の、しかも彼が大暴れした合肥侵攻軍の中なのだ。
話しかけてきたのは世話を任された周喩と何故か龍泰を気に入ったらしい韓当の二人ぐらいだ。
そんな或る日、彼は周喩の頼みで亜紗と朱音に兵法の講義をすることになった。
結果は…言わずもがな。
龍志とて、伊達に名将の名を冠したわけではないと言う事だ。
「ふむ。じゃあ見てみるか」
「こ、ここでですか!?」
「早い方がいいだろう」
「で、ですが……」
戸惑う二人にはお構いなしに、龍泰は書簡を広げ内容に目を通す。
右腕だけなのでかなり読みにくそうだったが。
それをはらはらしながら見つめる亜紗と朱音。
やがて龍泰はおもむろに書簡から顔を上げると。
「二、三気になるところはあるが、良く出来ている。合格といって良いだろう」
「ほ、本当ですか!?」
「よっしゃあ!!」
喜ぶ二人に、龍泰も相好を崩し。
「いやいや、良くやってるよ君達は」
ポフポフと二人の頭を交互に撫でた。
「はう…」
「へへ…」
「ふ…気になる所は後で朱筆で正しておこう。とりあえず仕事に戻るといい」
「はい!」
「それじゃ、先生。お願いします!」
そして去っていく二人を、妹を見るような眼で見送る龍泰。
その顔は、龍志であった頃とは違った温かさに満ちていた。
「ふ…この短い間で随分と誑かしたものだな」
「……誑かすとは人聞きが悪いな」
冷たい声に、龍泰は頭だけで幕舎の影を見る。
そこにいたのは、呉の筆頭軍師・周公謹。
「それはすまなかった。しかし、教え子が可愛くてかなわんのは間違いないようだな。龍泰…いや、龍志」
「おいおい…聞かれたらどうしてくれるんだ」
冷やかな笑みを浮かべる周喩に、切れ長の目をさらに細める龍志。
その王佐の才で一人の王を育て上げた男と、今当に新しき王を育てる女。
二人の間を一迅の風が通り過ぎた。
その頃、兗州のとある霊山。
「はああ!!」
ギィン!
「甘いですね…十二点といったところでしょうか」
ドス
「ぐう…」
切り立った断崖の上で、二人の女性が刃を交えていた。
いや、一方の女性が一方的に片方の女性を嬲っているようにしか見えない。
「どうしたのですか孫策君?その程度では龍志はおろか関羽君や夏侯惇君ですら倒せませんよ」
「く…」
口から血の混じった唾を吐き、南海覇王を構える雪蓮。
その身から放たれる殺気はそれだけで人を殺さんばかりのものがある。
しかし、対峙する女はそれをまるで微風に髪を揺らすかのように心地良さげに立っている。
「りゃああ!!」
繰り出される雪蓮の一撃。
それを女は軽く剣で受け止めるや横に受け流す。
異常なほどに柔かな剣筋。
しかし、雪蓮はそれを読んでいたかのように身をぐるりと捻るや流された勢いに乗せて遠心力のこもった一撃を女の向けて繰り出す……。
ベシッ
事もできずに、地面に叩きつけられた。
受け流す。女がしたのは間違いなくそういう動き。
しかし実際に起こったのは、剣ごと叩き落とすという動き。
「柔剣…剛剣…虚剣…実剣。そんなものにこだわるからそうなるのです」
雪蓮の方を見向きもせず、女が言う。
いや、見向くも何も女の瞳は閉ざされたまま。
そう、女は盲目であった。
「柔にして剛、虚にして実……千変万化にして諸々同一…何か解りますか?」
「はぁ…はぁ…はぁ……」
雪蓮は答えることもできずにただ荒く息をする。
そんな雪蓮に、なんら感情を見せない氷のような無表情のまま女は言葉を続けた。
「それすな%
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帝記・北郷の続編…なのですが、今回までは龍志中心です。
龍志がどうして呉にいるのか、そして彼はこれから何をしようというのか?
オリキャラ注意
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