胸に抱いた純白の軍服の穏やかな匂いが、ただただ悲しかった。
「どうして」
雷が小さな肩を震わせて呟いた。
小さな桐の箱。中には何にも入っていない。
ただ、その軍服を昨日まで着ていた主の名を記した紙片が一枚へばり付いているだけだ。
『ごめんな』
出撃前に皆の頭を慈しむ様に撫でてくれた、あの大きな掌の暖かさを想う。
『俺は、お前達に歳相応の遊びも教えてやれなかった』
「いいの、いいのよ司令官」
彼は何時も自分を責めていた。
幼い娘のかたちをしたものを、海から出づる不気味な何某かに立ち向かわせたことを悔いていた。
『お前達の小さな手を、火薬と油と錆でたくさん汚してしまった』
「だって私たちは艦娘だもの、それで良かったの、そうするしかできないんだもの」
火薬と油と錆の匂いこそ、自分達の誇りであったのだから。
自分達を勇ましく率いる貴方の為に勝利することが、兵器である私達の何よりの喜びだと、あの時あれ程伝えたのに。
『この戦いが終わったら、皆で何処かへ遊びに行こう。深海棲艦も何もいない、平和な何処かの海へ』
「馬鹿ね…そんなことより、私は、私たちは、貴方に生きていて欲しかったのよ…!」
彼は優しかった。
手も上げなかったし、嘘も吐かなかった。
思いつくのは彼の良いところばかりで、守られなかった約束は、きっと彼女が覚えている彼の唯一の欠点になるだろう。
「雷」
執務室のドアが開き、背後から声を掛ける者があった。
雷に良く似た電の栗色の髪は、熱に焼かれ煙に燻され、所々傷んでしまっている。
手当てを終えて右腕に巻かれた包帯をさすり、電はゆっくりと雷に語り始める。
「暁と響が、助かったのです…!」
雷の目がはっと見開かれ、そこで初めて背後の電を振り返る。
二人の目にはいっぱいの涙が溢れ出て、塞き止められずに滂沱の如く流れ出す。
「ほんと…?本当に…二人とも無事なのね…!?」
「別の、別の部隊が引き揚げて…つ、連れてきてくれたのです…でも、でも」
「…っ」
―…でも。
その後の言葉が、電から上手く紡がれる事はなかった。
どんどんと溢れる涙と、それを口にしたら何もかもを認めてしまうことになる恐怖で、声が出せない。
雷も、自分が一瞬仄かな光と錯覚したものが都合のいい妄想であったことに気付くと、強く下唇を噛んだ。
本当は解っているけれど、今の彼女達にそれを全て認めてしまうだけの強さは無かった。
強さとは即ち、もう此処へは戻らぬ彼のことであったのだから。
雷は涙を焦げ臭い制服の袖で拭い、その袖を捲くる。
そして手にした彼の純白を掲げ、震える唇で、精一杯の強がりを言い、それと一緒くたに電を抱きしめた。
「二人が無事だって判ったら、司令官も、きっと喜ぶわ。だから…だから、泣いたら駄目、駄目よ、電」
まだこの部屋に何も無かった頃。
窓の外に見える海原と、初めての“所属艦”である雷と電に、彼は一つの誓いを立てた。
『皆が戦うというのなら、俺も命を懸けて、君達の為に戦おう。艦と運命を共に―…』
(そうよ、艦と運命を共にするのが軍人の務めなんでしょう?ねえ、司令官…)
「じゃあ貴方も、ちゃんと帰ってこなくちゃ駄目じゃない…」
一人の水雷戦隊指揮官が、その広く美しく残酷な海原に命を落とした日。
彼らがまるで血を分けた妹のように愛した艦娘達は、いつまでも涙を流し続けた。
その涙がやがて海へ流れ出て、彼のところまで届くように。
Tweet |
|
|
4
|
0
|
追加するフォルダを選択
※死にネタです。ご注意ください。※
即興小説サイトで執筆タイムアウトしたお題のSSお焚き上げです。