No.628717

真・恋姫†無双 想伝 ~魏†残想~ 其ノ十七


其ノ十七、投稿完了っ!!

さて今回は其ノ十六にチョイと出て来た少女のお話。

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2013-10-16 17:17:23 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:9842   閲覧ユーザー数:6809

 

 

 

 

【 変わり者 】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うにゃ~……」

 

 

その声は街の路地から聞こえて来ていた。

 

前を通った者はそれを聞いて一旦は足を止めるも、その後何も聞こえてこないので首を捻りながら歩みを再開させ去っていく。

 

 

「う~にゃ~……」

 

 

しかしその数十秒後には再びその声が路地の奥から漏れ聞こえてくるのだ。

 

タイミングが悪いのか、それともある意味では良いと言うべきなのか。ともかくその声の正体を探ろうと路地に入っていく者は誰もいない。

 

 

ちょうど路地の奥まった場所。たまたま通りからは見えない位置。

そこで一人の少女がうつ伏せに倒れていた。外傷などは無く、ただ倒れているだけの少女。

 

 

「う~……にゃ~……」

 

 

その少女こそが謎の声の正体だった。

日中の陽射しに当たりながら時間と共に衰弱していく少女。その声は徐々にか細くなりつつある。

 

 

ふと、少女の上に影が落ちた。それは人の形をしていた。

 

 

ちょっとだけ少女を見下ろしていた青年――北郷一刀は徐にその傍らにしゃがみ込む。

 

つんつん。

 

そのまま少女の頬っぺたを人差し指で突いた。

 

 

「お~い。生きてるか~」

 

「……う~……生きてる~……」

 

 

少しだけ間があって少女が答える。

取り敢えず生きてはいるみたいだ、と安堵した一刀は少女の手を取り、そのまま背中に担ぎ上げた。

 

薄い茶色の髪が肩越しに一刀の頬へと触れる。

 

 

「どこか怪我でもしてるのか? それとも熱射病?」

 

「う~……?」

 

「あぁ、分かんないか。んと、調子悪いとことかある?」

 

 

つい病名で聞いてしまったことに気付き、ザックリとした聞き方に訂正する。

しばらくの間、少女は無言だった。身じろぎ一つしない。それはまるで寝ているか死んでいるかのどちらか。

 

 

「お、おい。大丈夫か?」

 

 

さすがに焦った一刀は上擦ったような声で尋ねる。

 

 

「お……」

 

「お?」

 

 

反応があったことに内心ホッとし、その後に続く言葉を聞き逃さないようにと耳に意識を集中させる。

 

 

「お、お腹減った……」

 

 

耳を疑うような素朴で簡素な何の変哲もない三大欲求のひとつが少女の口から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガツガツガツ!

ムシャムシャムシャ!

ゴクゴクゴク!

 

 

街の中でも一番大きい食事処にて、その光景は繰り広げられていた。

 

そこそこ小柄な少女の体の中にこれでもかというぐらいの料理が吸い込まれていく。

乱雑に料理を食い漁る姿はまるで肉食動物のようで、一刀がそっと料理に手を伸ばそうとすると睨みつけてくる始末だった。

 

 

一刀は引き攣り笑いを浮かべ、伸ばし掛けていた手を戻す。

それを見届け安心したのか少女は乱雑な食事を再開した。一刀は呆れたような表情で口を開く。

 

 

「よく食うなあ。腹が減ってたとはいえその身体のどこにそんな量が入るんだよ」

 

「ばあ、ぶぁぶぁひぼうびべべぼぼうぶばいばんばー(ああ、私こう見えても大食らいなんだー)」

 

「口に物が入ってる状態で喋るな。おいっ、食べかすが飛んで来たぞ!」

 

「ぼべんぼべん(ごめんごめん)」

 

「だから喋るなと」

 

 

口に物をたくさん入れ、咀嚼している状態で喋るもんだから酷い状態である。

この娘の親御さんは食事時のマナーというものを教えなかったのか、甚だ疑問だ。

 

 

これは俺も喋らない方が良いな、と現状に於いて最善の策を考え、結論付けた一刀は黙って水を口に運ぶ。

 

その間にも着々と卓の上の料理は少女の胃袋の中に消えていっていた。

店の中にはこの街の住人や旅人が数人いたものの、その全員が呆けたような表情でこちらを窺っている。

 

ついでに言うと厨房に続く入り口付近からは店主が心配そうな表情で店内を覗き込んでいた。

 

一刀はそれに気付くと片手で手刀を作り、謝罪の姿勢を取る。

売り上げには貢献しているものの、このままでは食材が尽きるんじゃないかと一刀は正直気が気では無かった。

 

もちろん店側には此方が飲食した分の儲けは出るものの、殆んど営業妨害に近しい何かである。

 

 

「ふー! ご馳走様でした!」

 

 

パン!と小気味よく合わせられた手の音が店内に響く。

少女の食事は始まった時と同様、唐突に終わりを告げた。言うまでもないことだが、全品完食だ。

 

パチパチと店の各所から小さな拍手が起こるものの、少女は気付かない。腹が満たされたという充足感が少女の耳を塞いでいるようだった。

 

 

「腹はいっぱいになったか?」

 

「うん。もう満腹満腹! いやー悪かったねえ行き倒れてるところを助けてもらったばかりかご飯まで奢ってくれるとは。有難や有難や。お兄さんカッコいいよー」

 

「なんか微妙に心から言われていない気がするのは気のせいか? つーか感謝してるんだったら少しは食べる量を自重してくれ。俺の懐だってそんなに温かくはないんだぞ?」

 

「あははーごめんね? 食べ出したら止まんなくってさ。いやいやそれにしてもホントいい人だねお兄さんは。面識も無い小娘を助けてくれるばかりかご飯まで奢ってくれるなんて」

 

「それはさっき聞いたよ。何回も言わなくても伝わってきてるから」

 

「あははーそうだったそうだった」

 

 

底抜けに明るい笑顔で少女はしまったしまった、と頭を掻く。

その笑顔に釣られて一刀もつい軽い笑顔を浮かべた。不思議と面倒くさいとは感じなかった。

 

 

「んで、どうしてあんなところで倒れてたんだ?」

 

「あ、それ聞いちゃう? 聞いちゃう?」

 

「やっぱいいや。どうでもいいし」

 

「えー! 聞いてよー」

 

 

前言撤回。ちょっと面倒くさかった。

 

 

「わかったわかった。はい、どうぞ」

 

「えーっとね、お腹減って倒れてたの」

 

「それは知ってるよ! まさかそれだけ!?」

 

「いやいや! 他にもあるよー? 昨日お城に行って仕官しようと思ったら募集が打ち切られてたとか。あ、それと――ほら、お金がすっからかん!」

 

「もういいです……」

 

 

はぐらかされてるのか、それともただ単に事実なのか。少女は巾着の中身を示して笑う。

 

取り敢えず分かったことは、お金が無いため食事を摂ることが出来ず、結果空腹で倒れたということ。

そして昨日の夕方過ぎ、仕官の件で城の前まで来ていたということ。この二つに集約されるだろう。

 

華琳と紫苑が少し派手な追いかけっこを始めた結果として、それを機に登用を締め切ったのだが、どうやらこの少女にはマイナスに働いたらしい。多少の罪悪感を感じつつ一刀は、少女に対して口を開いた。

 

 

「君は何でこの街に? まあ言いたくないなら無理には聞かないけど」

 

 

職務質問みたいになっちゃってるな、と思いつつも一応聞いておこうと一刀は少女に尋ねる。

一瞬だけ驚いた少女だったが、すぐに笑顔を浮かべる。その笑顔は少し含みのあるものだった。

 

 

「……お兄さん、もしかしてお城に務めてる人とか?」

 

 

漠然と、勘が鋭いなと思った。

 

 

「あー……うん。そんなところ」

 

「へえ。じゃあさじゃあさ、私の事お城の偉い人に紹介してくれない?」

 

「ん?」

 

 

突然そんなことを言われて疑問に思わない者がいるだろうか。

パッと見、目の前の少女は一般人。容姿は整っていて、着ている服もお洒落。しかし何故か影が薄い印象を受ける。

 

そんな少女が突然、城の偉い人に紹介してくれと言う。

どうしたものか、と一刀は顎に手を当てて考える。が、しかし。

 

 

「お願いっ! どうかっ!」

 

 

パン、と小気味よい音を立てて手を合わされ、割と切実にお願いされては、基本的に善人というか良い人な一刀としては断るわけにもいかなかった。

 

「城で仕事したいってことか? 他にも色々と仕事はあるだろう。なんだったら俺が仕事を紹介してやってもいいよ。少しはこの街で顔が利くからさ」

 

『少しは、って……そりゃあ北さん、謙遜が過ぎるんじゃねえか?』

 

「謙遜なもんか。俺にだって出来ることと出来ないことがあるよ。あ、お茶ありがとう」

 

 

食後のお茶を自ら運んで来た店主が呆れたように告げた言葉に、肩を竦めて答える。

そうかねえ、と苦笑しながら奥に下がっていく店主に短く礼を言ってお茶を啜り、一刀は少女の返答を待った。

 

 

「う~ん……申し出は有難いんだけどねー。私の勘がね、言ってるんだ。城に務めろーって」

 

「勘かよ」

 

「……駄目?」

 

 

てへ、と舌を出して聞いてくる少女。

他に言葉を重ねて誤魔化そうとしない辺り、その勘とやらが囁いているのは本当なのだろう。

 

無言で一刀は椅子を引いた。

 

 

「え、ちょっ」

 

 

話を打ち切られたと思ったのか見捨てられたと思ったのか、少女は目に見えて狼狽し始める。

既に着席していた卓から少し離れていた一刀は肩越しに振り返り、少女をその眼に捉える。クイ、と顎を杓った。

 

 

「ついてこいって。紹介してあげるから」

 

 

少女の表情が呆気に取られたものへと変わり、一瞬後にはパアッ、と花のような笑みに変わった。

 

 

「ホントにっ!? ありがとー!! やっぱりお兄さん良い人だー!」

 

「うおっ! 待て待て、腕に引っ付くな! あと良い人ってそれ、個性の無いやつに有りがちな称号だからな。存外言われたやつは褒められてる気がしてないから気を付けろ」

 

 

腕に抱き着いてきた少女をやんわりと窘めながらツッコミを入れる一刀。

本来であればこの街の最高責任者、太守である彼が首を縦に振れば少女の士官など簡単に通る話である。

 

しかし一刀は大体予想していた。

波乱というか、混乱というか。とにかく、この先に待っている出来事を。

 

ふと、少女に視線を投げ掛けた。

少女は視線を投げ掛けられたことに対して疑問符を浮かべるも、特に警戒することなく笑顔を浮かべる。

 

一刀はそれを見て、心の中で溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

華琳はおこだった。

もっと言うと、激おこプンプン丸だった。まだカム着火ファイヤーでは無いのが、せめてもの救いではある。

 

もちろん表層には出していないものの、怒っているのは嫌でも分かった。

 

場所は城門を潜って数歩進んだ場所。

 

たまたまその場では主要人物――つまり華琳、李通、紫苑、璃々の四人が談笑しており、その場に一刀が帰ってきたというわけだった。

 

 

見知らぬ少女を連れて。

しかもその見知らぬ少女を腕にぶら下げているような状態で。

 

身長的には少女もそこそこ高い部類に入るので、物理的に一刀の腕にぶら下がるとなると足を曲げなければならない。

 

しかしそんなことは問題ではなく、少女が一刀の腕に引っ付いているという光景がその場にいた一刀を除く四人には、一刀が少女を腕からぶら下げている――または、少女が一刀の腕からぶら下がっている、というものに見えたというのがこの場の現実であり、真実だった。

 

 

「またやってくれたわね、一刀。先日、私が言ったことを忘れるとはいい度胸だわ」

 

「あの、華琳? 少しは話を聞いてほしいというかですね」

 

「分かったわ。それじゃあ弁明を聞きましょう」

 

「ちょっと待てぇ! いきなり弁明!? 悪いことをしたというのは既に確定事項なんですか!?」

 

「もちろんです」

 

 

何故か華琳ではなく、紫苑が一刀のツッコミを肯定する。同じく華琳も頷いた。

笑顔で告げられた肯定。しかし何故かその笑顔に薄ら寒いものを感じる一刀の本能。

 

 

「あ、あの~……」

 

「申し訳ございません。今は少々口を閉じておいたほうがよろしいかと。命の危険もありますので」

 

「は、はい」

 

 

少女が場の空気に負けて声を上げようとしたのを先んじて、微笑を湛えた李通が止める。

さすがに命の危険、と言われてまで発言を続ける気はないようで、少女は押し黙った。ちょっとだけ難しい顔で。

 

 

「いや、弁明というかさ。この娘、ここに仕官したいっていうんだけど」

 

「ふうん……」

 

 

少しだけ張りつめていたような空気が和らぎ、華琳の眼が純粋に人を量る目つきに変わった。

 

 

「一刀さん。彼女とはどこで?」

 

「行き倒れてるところを拾ったんだよ。路銀も尽きてるみたいだし、ちょっと可哀想な気がして」

 

「拾われちゃいましたー!」

 

「元いた場所に捨ててきなさい」

 

「「えー!」」

 

 

少しは空気に慣れて来たのか、自分を少しでも印象付けようとして元気よく前向きに自分の醜態を叫んだのが運の尽き。そのテンションに少しだけイラついたのか、犬を拾ってきた子供に残酷な宣告をするお母さんの如く、華琳は冷たい一言を放った。

 

一刀と少女の抗議の声が重なる。

 

それを聞いてクスッと笑う紫苑。そのまま華琳に顔を向ける。

 

 

「それぐらいでいいんじゃないかしら、華琳。一刀さんだって悪気があって彼女を連れて来たのではないでしょう?」

 

「悪気があったら首を刎ね――いいえ、殴っているところよ。でも、そうね。冗談はここまでにしましょうか」

 

「出来ればもっと軽い冗談にしてほしいんだけど」

 

「あら、あなただってある程度は覚悟してその娘を連れて来たんでしょう?」

 

「……そりゃまあ」

 

 

釈然としない面持ちで頬を掻く一刀。

その仕草が少し子供じみていたせいか、華琳と紫苑の眼に可愛く映ったのは言うまでもない。

 

 

「私は吉利。この城の責任者に近しい何かよ。それじゃ、名とこの街に来た経緯を教えてもらえるかしら。一応、怪しい者を仕官させるわけにはいかないのよ」

 

「それはそうだよねー。仕官してきたのが敵の間者とかだったら目も当てられないし」

 

「そういうことよ。それで?」

 

 

華琳の促しにコホン、と一つ咳をして場を整えた少女。

少しだけ真面目な表情になった少女は口を開き、自分の名をその場の五人に告げた。

 

 

「姓は荀、名は攸、字は公達! ホントは益州の蜀郡に赴任する予定だったんだけど途中の橋が落ちちゃってて益州に入れなかったから仕方なくこの街に来ました! どうせ蜀郡に赴任するのも乗り気じゃなかったし、別にこの街で仕官できるならそれでもいいかなーって。あ、でもでも仕事は出来るし、仕官するからには適当なことはしないから! よろしくお願いしますっ!」

 

 

 

「は?」

「え?」

「あら?」

 

 

 

その場にいた李通と璃々以外の三人。

一刀、華琳、紫苑はそれぞれの事情によって三者三様の疑問の声を上げる。

 

少女は猫耳が付いたフード付きのパーカーのような上着のポケットに両手を入れ、誤魔化すように朗らかに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

――荀公達。

 

それは三国志という物語に於いて魏に仕えた軍師の名。

三国志演義では曹操が王になることに対し反対をしたため、その怒りを買って苦悶の内に死したことになっている。

 

曹操曰く――「荀攸は一見愚鈍に見えても、内側には英知を有し、臆病に見えて勇敢であり、善をひけらかさず、面倒な事を人に押し付けない。その英知には近づけるが、愚鈍さには近づけない。顔回や甯武子でも荀攸以上ではないだろう」――らしい。

 

正直なことを言うと、俺にとっては演義や正史を呼んだ際に荀彧や郭嘉、程立などの軍師よりも印象に残った軍師だった。何故だかは分からないが。

 

とはいえ、やはり歴史と全く同じというわけではないらしい。

一見すると愚鈍には見えず、臆病にも見えない。むしろ正反対に近いその在り方だった。だがまあ、しかし。

 

その、おそらく優秀であろう能ある鷹は爪を隠す的な軍師殿は――

 

 

「ほーら璃々ちゃん、高いでしょー!」

 

「うんっ! でも一刀お兄ちゃんの方がもっと高いよ?」

 

「むっ、それは負けてらんないな。それー!」

 

「ほどほどにしておかないと怪我をしますよ。黄忠様、ご安心くださいませ。いざとなれば璃々ちゃんは私が安全に確保いたしますので」

 

「はい。その時はよろしくお願いしますね、李通さん」

 

「えー! 私はー!?」

 

 

――絶賛、皆と打ち解けている最中だった。

 

 

「……荀攸、ね。血縁者か何か?」

 

「ああ。歴史上は荀彧の甥ってことになってる。年上のね」

 

「なるほど。ここじゃ姪ということかしら」

 

「多分」

 

 

少し離れた位置。

廊下の手すりにもたれ掛かった一刀と華琳は肩を合わせながら荀攸について会話を重ねていた。

 

前の外史では一刀の知っている自分達の歴史なんて知る必要はない、と豪語していた華琳。

今でもそれは変わらず、積極的にそのことを聞いたりはしてこないものの、今日ばかりは少し違ったようだった。

 

とはいえ聞いてきたのはそれだけ。

前にいた外史の中に荀攸という存在はいなかった。そこにすら触れない。

 

誰が死に誰が生き残るのか、この戦はどちらがどういう策を使って勝つのか負けるのか。

そんなことには微塵も関係の無い内容。ただ自分の知る荀彧という人間と同じ姓だったのが気になっただけなのだろう。

 

 

「直接聞けばいいのに」

 

「そうね。そうしようかしら。……そのうち、ね」

 

 

言うが早いか華琳は軽々と手すりを越えていく。その際、白い何かが視界に入ったのは気にしないことにしよう。

 

 

「荀攸」

 

「あ、え? あー、なんですか? ええと……」

 

「さっき教えたはずなのだけど……まあいいわ。吉利よ」

 

「ああそうだそうだ! 吉利さんだ! ん? 待った、太守様なんだし吉利様っていう敬称付けた方が良い?」

 

「べつにどちらでも構わないわ。それと、私は太守じゃないわよ」

 

「え? じゃあ、そっちの黒いカッコいい人?」

 

 

心底呆気に取られた顔をして、荀攸は人差し指を李通に向ける。当たり前だが、李通は静かに首を横に振った。

 

 

「私のような若輩者が太守の座には着けません。もっと相応しい方ですよ」

 

「じゃあ……黄忠さん?」

 

「ふふっ、昔は夫に代わって街を治めていた時期もあるけど、残念ながら違うわ」

 

「え? じゃあ、ま、まさか!」

 

 

荀攸の眼が驚愕の声と共に自分の頭の上に向く。

そこには不思議そうに首を傾げる愛らしい幼女の姿があった。

 

 

「こ、こんなに小さいのに璃々ちゃんが太守――」

 

「それで? この茶番劇はいつまで続くのかしら?」

 

「ご、ごめんなさい」

 

 

どこからともなく出現した二振りの剣がピタリ、と荀攸の首に当てられた。倚天と青釭、紛れもなく真剣。

 

にっこりと笑った華琳の笑顔。引き攣った顔で謝る荀攸。

笑顔というものにも種類があるんだなあ、と改めて実感させてくれる一幕だ。

 

もちろん自分は体感したくないけど、と廊下の手すりに寄り掛かりながら思った一刀だった。

 

 

小さく溜息を吐き、華琳は無言で剣を引く。

荀攸の頭の上では、何が起こったのかいまいち把握していない璃々が可愛らしく首を傾げていた。

 

 

「え~と……じゃあ」

 

 

言って荀攸の眼がしばらく泳ぎ、やがて一刀に止まる。

冷や汗的なものを掻きながら、璃々のように可愛らしく小首を傾げて(あざとく)一刀に尋ねた。

 

 

「お兄さんが、太守様?」

 

 

それを聞いた一刀は手すりに頬杖を突き、にっこりと笑顔になる。そして――

 

 

「今、“じゃあ”っつたろ」

 

 

太守かどうかを尋ねる前に口にした、荀攸の不適切な一言を言及した。もちろん笑顔のままで。

 

 

「え」

 

「華琳」

 

 

一瞬にして固まった荀攸のことなど気に掛けず、一刀はその名を呼んだ。

今度もやはり無言で剣を突き付けなおす華琳。息がぴったりというか、以心伝心の間柄だった。

 

もちろん、一刀も華琳も冗談のつもりである。冗談のレベルが高いということは否めないが。

 

 

「ひいっ!」

 

 

今度は身を竦ませずに、喉から声にならない声を出した荀攸。

 

 

「ごめんってばー! だってお兄さん全然太守らしくないんだもーん!」

 

「失礼ですが、発言を控えた方がよろしいかと。どんどん自分の首を絞めて行っていますよ?」

 

「でもでも、このまま殺されるかもしれないんだったら言いたいことは言っておいた方がよくない!?」

 

「それは……確かに」

 

「納得しないでー! 殺されるかもしれないってところを否定してよー!」

 

「もし一刀が気の短い粗暴で尊大な太守だったら貴女の首は既に飛んでいるわよ」

 

「粗暴じゃなくても横暴だよこれ!? 殺気出してないから殺すつもりは無いっていうのは分かってるけど、それでも凶器を突き付けられてるっていうのは気持ちの良いものじゃないから剣引いてー!」

 

「ふうん……よく殺気が無いと分かったわね。そろそろいいかしら、一刀」

 

「ん、もういいよ」

 

 

驚異の温度差による会話劇が終わり、一刀の許可の元、剣を引いた華琳。

ふーっ、と安堵の息を吐く荀攸を頭の上から覗き込みながら、璃々はその頭を優しく撫でていた。

 

 

「荀攸お姉ちゃん、ホントにここでおしごとするの?」

 

「……正直ちょっと考えたいかも」

 

「そっか……璃々、お姉ちゃんがふえるとおもってうれしかったんだけど、しょうがないね」

 

「ここで働かせてください! あと、璃々ちゃん私にください!」

 

 

璃々の計算などではない天然の可愛さにやられ、荀攸は勢いよく頭を下げた。

もちろん、肩車している璃々がその行動で落ちてしまわないようにガッチリとホールドして。

 

 

「別に構わないよ、俺は。あと当たり前だけど璃々は渡さん」

 

「一刀さんになら上げても構いませんよ? もちろん、私も付いてきますけど」

 

「普通逆じゃないか? というか既に紫苑ともそういう関係にあるんだし、今更って話だろ」

 

「一刀。それ以上言ったらこの剣、今度はあなたの首に向くわよ」

 

「ごめんなさいっ!」

 

「あらあら。まだまだ一刀さんは女心を理解し切れていないようですわね。それが良いところでもあるのだけれど。それと華琳、それはもちろん冗談よね?」

 

「当たり前でしょう」

 

「……すいません、眼が笑ってなかったんですけど」

 

 

仄々とした中に混ざる薄ら寒いアクセント。

 

一刀が乾いた笑いを浮かべる反面、そういうやり取りも在りだと既に割り切っている女性二人は穏やかな笑みを浮かべて冗談に聞こえない冗談を言い合っていた。

 

気を取り直して、一刀は荀攸へと話を振る。

 

 

「しばらくは文官仕事してもらうけどいいかな?」

 

「部下になる人間にその有無を尋ねるって珍しいねー。拒否権はあるの?」

 

 

至極意外そうな顔で荀攸は尋ねる。

 

 

「まあね。嫌な仕事を強制的に回すつもりは無いし」

 

 

至極当たり前のように一刀はそう口にした。そのまま華琳に目をやる。

それだけで何かが伝わったらしく、華琳は腕を組みながら荀攸を見据えた。

 

 

「文官仕事の合間に軍師の適性を量るわ。多分、問題は無いでしょうけどね」

 

「一刀さんや李通さん、華琳はどちらかというと戦闘指揮官だものね。腰を据えて指揮を執ったり、策を考える人がいるのは良いことだわ」

 

「いえ、黄忠様。私などを一刀様やお嬢様と一緒にされてはお二人に失礼かと。それと、お二人とも腰を据えて指揮を執るのは問題なく出来るはずです。ただ、今は性に合わないというだけで」

 

「本気で言ってるんだもんな、これ」

 

「貴方の自己評価の低さも筋金入りね。でも後者に関しては間違っていないわ。いずれ人が増えれば私も指揮に徹する時が来るかもしれないもの。昔のようにね。そういうことだから今後ともよろしく、荀攸」

 

「う、うん――あ、違うや。はいっ!」

 

「ふふっ、別に言葉使いなんてどちらでも構わないわよ。好きにしなさい。もちろん、公的な時以外はね」

 

 

改めて荀攸を歓迎した華琳の表情は晴れやかだった。

 

華琳にとって自分を飾らず接することが出来る人間は貴重なんだろうな――と、そう思って一刀は人知れず笑みを零す。

 

 

「いやーまさかお兄さんが太守様だったとはねー」

 

「柄じゃないし、不釣合いなのは百も承知だよ」

 

「ああうん、そういうんじゃなくてね」

 

「ん?」

 

 

改めて荀攸が意外そうに口にした一言に肩を竦める一刀だったが、続いた否定の言葉に疑問符を浮かべる。

 

 

「確かにお兄さんは太守様らしくないんだけどさ、それって良い意味でなんだよね。少なくとも私が見た感じ、悪い意味で太守に見えてないってことは無いと思うよ」

 

「あー、うん。なんつーか、ありがとう」

 

 

今までとは違く、荀攸が真面目な表情で告げた言葉に虚を突かれ戸惑う一刀。

 

 

「でもちょっと人が良すぎるかな? そう人が良いと、いつか暗殺とかされちゃいそうだねー。それこそ可愛い女の子の誘惑とかにコロッと堕ちちゃったりして」

 

「有り得るわね」

 

「有り得ますね」

 

「……無いとは言い切れないかと。信じてはいますが」

 

「???」

 

 

誰一人としてフォローする者はいなかった。いや、辛うじて李通の付け足した一言がそれに当たるのだが。

 

一刀としては最も否定してほしかった二人に即答されたことが非常に辛かった。

 

……いやまあ、そう断言される心当たりが無いわけじゃないんだけれども。

 

 

周囲の反応を見て、にははと笑う荀攸。

まあ、だからさ――と前置いて彼女は話を続ける。

 

 

「そういうことが無いように、味方は一人でも多い方が良いんでしょ? 特にそういう面倒なことを処理するのに長けた人材がさ」

 

 

一刀だけではなく全員に聞こえるように大きい声で、悪戯っぽく微笑みながら。

 

 

「随分と自分の才を推すのね。それだけの自信はあるということ?」

 

「もちろん。本当はあんまり自分の才をひけらかすのって好きじゃないんだけどねー。ほら、能力の差ってどうしても際立っちゃうじゃん。今まで、それでどれだけの人に目の敵にされてきたか。だから最近は地味に立ち回ってたんだけど」

 

 

荀攸はその顔に浮かんだ悪戯っぽい笑みの色を濃くする。

 

 

「でも吉利さんとか黄忠さんとか李通さんとかお兄さんとか、普通に能力は高そうだし。それにそういうことでとやかく言う人間でも無さそうだしさー。なんかこれ、私の転機かなって思ったんだ」

 

「荀攸お姉ちゃん、璃々は?」

 

「あーごめんごめん。璃々ちゃんもねー」

 

 

上から覗き込んできた璃々に無理矢理首を動かして頬ずりをする荀攸。

微笑ましい光景だが、いつの間にか荀攸の纏う空気が違うものへと変わっていた。

 

もちろん覚えがある。

 

それは軍師と呼ばれる人間たちが纏っていたもの。時に薄ら寒くさえある、軍師独特の酷薄な空気感。

 

 

「だからその、改めて仕官をお願いしますっ!」

 

 

しかし薄く見えたそれを一瞬のうちに消し去り、荀攸は真摯に一同へと頭を下げた。

 

硬軟を使い分けることの出来る人間。それはどんな場面でも役に立つ人材だ。

だがそれを差し引いても、一刀や華琳は荀攸という少女の性質というか性格を好ましく思い始めていた。

 

無論、それは紫苑や李通も同様に。璃々に至っては言わずもがな。

 

 

「はい、承りました。これから君は俺達の仲間だ。よろしくな、荀攸」

 

 

柔らかな雰囲気で、優しげな口調で、一刀は荀攸の頼みを快諾した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「名は吉利、真名は華琳よ。好きに呼びなさい」

 

「姓は黄、名は忠、字は漢升、真名は紫苑よ。よろしくね」

 

「李通と申します。新たな味方が増えたこと、心より嬉しく思います」

 

「え、えっと、璃々です! よろしくね、荀攸お姉ちゃん!」

 

「姓は北郷、名は一刀、真名は無いから好きに呼んでくれ」

 

 

一同からの自己紹介を受け、今日会ったばかりの人間に真名を預けられるという行動に驚きつつ、璃々の拙い(つたない)自己紹介に相好を崩しながら、荀攸は照れ臭そうに頬を掻いた。

 

 

「いやー、なんか照れるね。今までいた場所は幾つかあったけど、皆こんなに暖かくなかったからなあ」

 

「そうなのか?」

 

「うん。ほら、私みたいな小娘が上下関係の出来上がってるところに入るとなると色々と癪に触ったりするらしくてねー。良くて弊職、悪くて露骨な嫌がらせとかさー」

 

「……酷い話だな」

 

「そう? こんな話、今の世じゃ珍しくないよ――っと忘れるところだった。それじゃ改めて」

 

 

軽い四方山話に花を咲かせていた二人だったが、荀攸は自らの台詞を途中で切り、慌てて居住まいを正す。

 

 

「姓は荀、名は攸、字は公達、真名は楓(かえで)。こちらこそよろしくね、みんな!」

 

 

真名を預けられたからではなく、自分が目の前にいる人達に真名を預けたかったから。

その衝動に駆られて、荀攸は久しぶりに自分の真名を名乗った。さっきまで他人で、今からは仲間と呼ぶべき人達に。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃ李通。悪いけど楓に城の中を案内してやってくれるか?」

 

「かしこまりました」

 

 

嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉しそうな表情を浮かべた李通。まるで、これが自分の本分だ、とでも言うかのように迷いなく頷いた。

 

 

「探検~探検~」

 

 

案内される当人は至って呑気。

 

探険~と口ずさみながら頭を左右にゆっくりと振っていた。

 

ふと、李通に続いて行こうとしていた足が止まり、楓はくるりと振り向いた。その視線の先には紫苑の姿。

 

 

「しおーん! このまま璃々ちゃんも連れていっていい?」

 

「ええ、構わないわ。李通さん、璃々のことをよろしくお願いします」

 

「はい。無論です」

 

「私のことはよろしくお願いしないの!?」

 

「璃々があんないしてあげるね!」

 

 

よろしくお願いします、の中に自分が入っていないことについて抗議した声は虚しく響くだけだった。

 

知ってか知らずか、璃々は嬉しそうに案内役を買って出ていたが。

 

 

三人が奥に消えたのを見計らって、華琳は一刀の肩を叩いた。

 

 

「うん?」

 

「私は食事の支度に回るわ。また後でね」

 

「手伝いは――いや、余計なお世話か。ああ、今日も楽しみにしてる」

 

「ふふっ、任せなさい」

 

 

一刀の心からの言葉に華琳は上機嫌で、しかも鼻歌まで歌いながら厨房の方へと歩いて行った。

 

その場に残ったのは一刀と紫苑。

紫苑はこれからどうする――と尋ねかけた一刀の口が空いたまま停止する。

 

 

「……」

 

 

紫苑は顎に手を当て何かを考え込んでいた。

一刀が振り返り、自分を見ていることにも気付かない程に。

 

そこで一刀は思い出す。さっきの出来事で感じた些細な違和感を。

 

自分と華琳が楓の名乗りに疑問の声を上げるのは当たり前だ。

荀という姓には思うところがあったし、何故こんなところに、という疑問もそこには含まれていた。

 

だがしかし。紫苑には楓の名乗りに対して特に疑問に思う理由は無い筈だ。

 

無論、自分たちが知らないだけで本当は何かあるのかもしれない。だが考え始めた一刀の頭はひとつの解を導き出していた。それは、“楓の名乗りに対しては”疑問を感じていないということ。

 

 

「紫苑」

 

 

ちょっとだけ大きい声を出して名を呼ぶ。

すると、ハッとしたように我に返った紫苑は少し恥ずかしそうにして一刀に目を向けた。

 

 

「ごめんなさい、一刀さん。少し考え事をしていたものですから」

 

「ああ、気にしないでいいよ。それより考え事って、さっき楓が話してた橋の事?」

 

 

そう。楓はさっき、自分は益州の蜀郡に行くつもりだったと言っていた。

しかし途中にある橋が壊れており渡れなかったため、仕方なく偶然この街を訪れたのだと。

 

そして益州には紫苑の友人、厳顔がいる。

 

一刀の質問を聞き、純粋に驚きの表情を浮かべる紫苑。しかしすぐに頷き、肯定の意を返した。

 

 

「はい。橋が壊れているというのが少々気になっていて」

 

「確かにな。ここ最近、州内で水害が起こったなんて報告は受けてないし、その情報も入ってきてない。他にもいくつか要因は上げられるけど、人為的な可能性も無いことは無い」

 

「今まで幾度か益州に行く商人さん達に友人への手紙を預けたのですけれど……これでは届いているかどうか分かりませんね」

 

 

困ったように紫苑は笑った。事だけ見れば橋がただ壊れただけの話。

しかしその先の州に友人がいるとなれば話はまた変わってくるのだろう。

 

 

「とはいえ益州に行くための道ってそれだけじゃないんだろ?」

 

「ええ。楓ちゃんが言っていたのはおそらく最も一般的に使われている道の途中にある橋の事でしょう。もう少し州を南下すれば別の道もあるはずですし。最悪、雍州からも益州には入れますから」

 

「なるほど。橋が壊れてたのは別として、それはただ単に楓が面倒くさがりだった可能性もあるな」

 

「最初から乗り気じゃなかった、みたいなことを言ってましたものね」

 

「少し調べさせようか?」

 

「いえ」

 

 

一刀の少し控えめな提案に紫苑は否定の言葉で即答した。

しかしその提案をしてくれたことには感謝を、という風に紫苑は柔らかく微笑む。

 

 

「便りが無いのは無事の知らせと言いますし。私とその友人は手紙で小まめに連絡を取り合うほどお互いを信頼していないわけではありませんから」

 

 

それに、と紫苑は何故か少しだけ頬を赤らめながら付け足す。

 

 

「最初に送った一通目はともかく、二通目や三通目は、その……殆んど惚気話のような文を一方的に送り付けたようなものなので」

 

 

元からそれに対する返信は期待していない、とも付け加える紫苑の頬の赤は一層濃いものになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

益州・某郡にて

 

 

夜半、自身に送られてきた文をじっと凝視している女性がいた。

片手に文を、もう片手に酒を持ち、時にその酒を口に運びながら女性は文に目を通していく。

 

 

「ほう……ふむふむ……」

 

 

無二の友人からの文。

 

何が書いてあるのかと多少なりとも心躍らせながら文を開いた結果、その内容に驚き、何度も読み返す羽目になってしまっていた。

 

読み終わり、女性は静かに文を閉じる。その顔は呆れたような、しかしそれでいて嬉しそうな表情になっていく。

 

 

「なるほどのう……」

 

 

クイ、と杯を傾ける。今夜は少し悪酔いしそうだ、と女性は思った。

 

ふと、部屋の外に人の気配を感じて自室の扉に目を向ける。

 

 

「桔梗様、いらっしゃいますか」

 

「焔耶か。構わん、入って来い」

 

 

声に応え、扉を開けて入ってきたのは女性の弟子であり、部下である少女だった。

 

部屋に入るなり顔を顰める、焔耶と呼ばれた少女。

そういえば酒を飲み始めてから換気のひとつもしてなかったか、と思い出し女性は窓を開ける。心地良い夜風が頬を撫でた。

 

 

「黄忠様からですか?」

 

「目ざといのう。そら」

 

 

言って焔耶に文を手渡す。自分が読んでいた文ではない、一通目の文を。

しばらくの間、文に目を通していた焔耶だったが、やがてその眼が驚愕に見開かれた。

 

 

「き、桔梗様! これは誠なのですか!?」

 

「紫苑のやつがそう書いておるのだから誠もなにも無かろう。まあ、儂も驚きはしたがのう」

 

「いや、ですが……しかし……」

 

 

見ていて面白いぐらいの狼狽ぶり。

どうやら愛弟子にとって、紫苑が劉表の元を離れたというのは予想外の事だったらしい。

 

 

(……これはもう二枚の文は見せんほうがいいのだろうな)

 

 

焔耶に渡したのは一番最初に来た文。

届けるのを任された流れ者の商人からは、紫苑が荊州北部の魏興郡に滞在しているとのことを聞いた。

 

多少不可解に思っていたものだが、二通目の文にはこちらを驚かせる記述と、成程と納得させる記述があった。

 

 

「……まさか相手が見つかるとはのう」

 

「桔梗様? 今何か――」

 

「いいや、何でもない」

 

 

気にするな、と言って愛弟子を軽くあしらう。

 

夫を亡くした友の悲しみをなまじ知っている分、驚いたものだ。

 

三通目は酷いものだった。

酷いも酷い。恋する乙女というか、花も恥じらうというか、まるで幸せ真っ盛りの新婚のような惚気話の嵐。

 

新婚という意味では強ち間違ってはいないかもしれないが。本人の捉え方的な意味で。

 

二通目の文にはその者に対する想いの丈が書かれていたのに対し、三通目がそういう内容だったということは、友の想いは叶ったのだろう。

 

それは純粋に嬉しかった。反面、少し鬱陶しくもあったのだが。

 

何せ、自分は紫苑と違い未婚だ。

行き遅れ、と言っても過言ではないだろう。

 

伴侶なぞ必要ないと思った時期もある。今でもその考えはそこまで変わっていない。

いてもいなくても――そんな程度の考えだ。閨の経験はあるものの、これという男には出会ったことが無い。

 

そもそもどういう男が自分の好みに該当するのかが分からない。

 

つまり、だ。何が言いたいのかというと――正直な話、紫苑からの文を見て興味を持ってしまったというわけだった。

 

紫苑が惚れた男。友が甘く惚気た話を書き連ねるぐらいに好きだという相手に。

 

少し酔った頭だったからだろうか、決断は愚かとも言える程に早かった。

 

 

「焔耶」

 

「なんですか? 桔梗様」

 

「突然で悪いが、儂は少し暇をもらう」

 

「……は?」

 

 

愛弟子の眼が点になる。それはそうだろう、自分が焔耶の立場なら間違いなくそういう顔をするはずだ。

 

 

「明日の朝、劉璋殿を尋ねる。暇を貰い、荊州の紫苑を尋ねる」

 

 

最低限のことだけを告げ、窓の外に目を移す。

後ろからは愛弟子の狼狽した気配が余すことなく伝わってきていた。

 

 

「ちょ、ちょっ!? ど、どういうことですか桔梗様!」

 

「どうもこうも言った通りじゃ。今は手掛けている仕事も無し、どこかの城の城主でもない。好都合ではないか」

 

「好都合って……いくらなんでも急ですよ」

 

「ついてこいとは言っとらんぞ?」

 

「行きますよ! 私は桔梗様の弟子ですから!」

 

「ふ、勝手にせい」

 

 

嬉しいことを言ってくれる――そう思いつつも、軽く笑うだけで返事を済ます。

 

紫苑はひとつの場所に留まらず、自分の世界を探した。

そしてその結果、自分を置くことのできる場所、自分が寄りかかることのできる場所を得たのだろう。

 

では、自分はどうか?

聞くまでも、言うまでもないことだった。

 

 

――酒に酔い、美食に酔い、戦に酔う――

 

 

自分の在り方を示す矜持のようなもの。

しかしそれを体現しようにも、この場所は狭すぎる。

 

 

――なれば、動くしかあるまいて。

 

 

「この先に何が待つか……いやはや、楽しみだ」

 

 

夜空に輝く月に向かって女性――桔梗は杯を掲げた。

 

もしかすると、羨ましかったのかもしれない。寄る辺を見つけることの出来た友が。

 

もしかすると望んで止まなかったのかもしれない。自分にもそんな存在が、この広い世界のどこかにいるのなら、と。

 

 

 

 

こうして事は動き出す。その原因となった文を出した本人さえ気付かぬところで。

 

 

 

 


 
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