一 ・ 甦る翼
落ち葉散る森の中、早馬を飛ばす一人の男がいた。
煌びやかではないものの上質な外套を纏い、青毛の駿馬を駆る姿は常人とは思えない。高貴な身分のようにも見えるが、不思議な事に彼には従者が一人もいなかった。
ネリアからアレリアへ入る国境を通過して数日に渡る一人旅の後、彼はアレリア湖畔に建つ美麗な屋敷へと足を踏み入れた。
王都ノイエから遥か南に位置する白い石造りの屋敷は湖に映え、幻想的な雰囲気を醸し出している。
馬を降りて取次ぎを願うと、あらかじめ館の主と約束でもしていたのか、執事はすぐに彼を奥のテラスへ案内した。
「エリエル様。レニレウスのエスレ男爵様が御到着です」
老執事の声に女主人は椅子から立ち上がり、男に会釈をした。
二十歳過ぎと思われる若い女主人は、白銀に輝く長い髪を揺らしながら柔らかく微笑んだ。訪問者を迎えるためか、優美な中にも威厳のある白の正装をしている。
「遠い所をおいで下さってありがとうございます。国境の通過は問題ありませんでしたの?」
「ええ。手紙に同封頂いた書状ですぐに通過出来ました。お力添え感謝します」
女主人は椅子を勧め、自らも再び腰を下ろした。
「直接お会いするのは何年振りかしら。しばらく見ないうちに髪をお切りになったのですね」
「誰にも知られないようにガレリオンを出るには、多少の変装が必要でしたので。今は友人が、私の代わりに王城で留守番をしてくれているはずです」
他愛もない会話の中、エリエルは男の左首筋に目を留めた。
高襟で隠してはいるが、左耳の下から襟の中まで、刃物で抉られたような大きな傷痕が見える。彼女の視線に気がついたのか、男は傷痕を手で隠して微笑んだ。
「子供の頃に負ったものですが、御婦人にお見せするような代物ではありませんでしたね。今までは髪で隠れていたので、側近以外は誰も気付かなかったでしょう」
男の言葉に女主人は失礼しましたと頭を下げた。それから思い出したように文箱を開けると、一通の手紙を取り出した。
「書簡にあった件については、こちらで捜しておきましたわ。エスレ男爵様……いえ、レニレウス王カミオ様とお呼びした方がよろしいのかしら」
「どちらでも構いませんよ、女王陛下。王冠など無くとも、あなたはやはり聡明な方だ」
短くなった鳶色の髪に猛禽の目で、男はふと微笑んだ。
「時に女王陛下。『捜しもの』の件ですが、今どちらにおいででしょうか」
「はい。弟には知られないよう、この屋敷に滞在して頂いておりますの。いつでも出発可能ですわ」
「御厚意に感謝致します。ではすぐにでも出立しましょう。手遅れになるといけませんから」
男の言葉に、エリエルは女官を呼んだ。
彼女の勅令を承ると、女官は出立の準備をするため足早に姿を消した。
「私が代行者の誘惑に負け、眠りについていたために、皆様には多大な御迷惑をお掛けしてしまった。この償いは必ず致します」
エリエルの言葉に彼は頷くでもなく、静かに目を伏せたままだった。
新公爵となるはずだったレニレウス王カミオの死は、とうとうフラスニエルの耳にも届いた。
暗殺現場の検証や遺体の検分も無く、すぐさま故郷へ出立した慌てようを見て、大公レナルドは密かに嘲笑った。遺体にはユーグレオルも随伴し、今やレナルドの邪魔をする者はいない。
エレナスとセレスを消してしまえば、彼の障害となる者は誰もいなくなる。この好機を見逃すレナルドではなかった。
「すぐにでも裁判を開廷させよう。これを機に、王太子にも御退陣頂かなくてはな」
レナルドの命を受け、侍従のトルドは『影』に伝えるべく下がった。
トルドと入れ替わるように一人の諜報員が執務室に駆け込み、その慌しさにレナルドは眉をひそめた。
「御報告申し上げます。遺体を運ぶ隊列から、将軍が少数の従者を連れて行方をくらましました。遺体の隊列は現在国境を越え、レニレウスに入った模様です」
意外な報告にレナルドは椅子から跳ね上がった。
「何だと? あの忌々しい将軍が、ネリア国内に留まっているというのか!」
「左様にございます。現在総力を挙げて捜索していますが、未だ行方を掴めておりません」
「面倒だな……。ああいう手合いは何をしでかすか分からん。警備を厳重にし、発見次第密かに始末しろ」
先日の事件を思い出し、レナルドは苦々しい表情を見せた。
衆目の前で恥をかかされた恨みは深く濃く、レナルドの心に焼き付いていたのだ。
「主人のいない野良犬には何も出来はしない。私に盾突いた事を後悔させてやる」
レナルドの指示に従い、諜報員は静かに姿を消した。
がらんとした執務室にはただレナルドの不気味な笑い声だけが響いていた。
二 ・ 目覚め
カミオの訃報をセレスが受けたのは、遺体が王都を離れた翌日の昼過ぎだった。
約束もなく急に訪れたノアに彼は驚いたが、ただならぬ彼女の様子にすぐさま部屋へ招き入れた。
王城四階に位置する王太子の居室は静かで、時折鳥のさえずりが聞こえるだけだ。侍女が茶や焼き菓子などを運んで来たが、ノアは手をつける様子もなく、ただじっと俯いたままだった。
侍女は配膳し終えるとセレス宛の封書を置いて、静かに居室を後にした。
「カミオ様が……カミオ様が……」
泣き続けるノアからようやく言葉を引き出すと、カミオが賊の手に掛かって命を落としたのだと分かった。
王の死に伴い将軍が遺体に付き添って王都を離れた事を知ると、セレスはじっと考え込んだ。
「あの方が亡くなられるなんて信じられない……。でもあなたがここに残っているという事は、将軍には何か考えがおありなのですか?」
「……あたしはガレリオンでの待機を命じられたの。ユーグレオル様は、カミオ様が生きておられると信じているみたい。でも御遺体はどう見てもカミオ様にしか見えなかったわ」
「生きていると信じている、という事は……何か確証があるのか。そして確証がありながら王都を離れた……」
真剣な表情で考え込んでいるセレスを、ノアはじっと見つめた。
「カミオ様が生きておられるという説を信じるなら、恐らくガレリオンにカミオ様はいない。もし王都においでなら、将軍が王都を離れる訳がないからです」
泣き止み一瞬表情を明るくしたノアに、セレスは自分の考察を語った。
「カミオ様は何か理由があって、ガレリオンを密かに離れなければならなくなった。だけど公式に離れるとなると目立つし、親衛隊などの従者を付けて物々しくなる。だから動きやすいように……影武者を仕立てた」
「影武者……? でもあたしがお仕えしていた頃に、それらしき人は見なかったわ」
「知られると危険だから、ごく一部の側近にしか知らせていなかったんだと思います。誰にも姿を見られないよう、一人で行動したり、顔を隠していたのかも知れない」
その言葉に、ノアは心当たりがあった。
「確かに、どの部隊にも属していない人を見かけた事はあったわ。いつも外套とフードで顔を隠していたから、暗殺を生業にしているのだとばかり」
「その人が王の影武者だった可能性がありますね。ところでこの件をエレナスは知っているのですか?」
「いいえ。心労を掛けたくなかったから面会には行ってないの。近日中に裁判が開廷されるらしくて、今は別の牢へ移送されたみたい」
「こんな時期に裁判……? カミオ様が不在の今、ぼくらで何とかするしかない。だけど、どうしたら……」
たった二人でエレナスを救えるのかどうか、セレスは不安を感じた。
エレナスの前で救ってみせると啖呵を切ったにも関わらず、心のどこかでカミオに頼りきりだった事に彼は気付いた。
やるしかない。やらなければ、エレナスは王族殺しの汚名を着せられて死罪になるだろう。セレスは両の拳をきつく握り締め、静かに覚悟を決めた。
「こちらで裁判に関する情報を集めておきます。ぼくの事は大丈夫。王太子という立場上、身の安全は図られていますから。だから、あなたも気をつけて下さい。レナルドは恐ろしい男です。人の命など、何とも思っていない」
その言葉にノアは神妙な面持ちで頷いた。
セレスは廊下で待機していた兵に声を掛けると、ノアを送らせ自らも居室を後にした。
ノアを帰した後、セレスは独りでフラスニエルの許へ向かった。
裁判が前倒しになるなら、何かしらの働きかけがフラスニエルにあったと考えるのが妥当だ。カミオがしていたように、まず情報を収集するのが良策だろうとセレスは考えた。
王太子の居室と同じく、王城四階中央に位置するフラスニエルの執務室は、誰もが入れるような場所ではない。
辺りは親衛隊が厳重に警護し、不審な者は誰一人として足を踏み入れる事すら叶わないからだ。
セレスが執務室へ近付くと、傍にいた衛兵が来客中ですと彼を押し留めた。
聞き覚えのある話し声を耳にして、セレスは衛兵を押しのけ執務室へ踏み込んだ。そこには執務机に着いたフラスニエルと、不気味な微笑みを浮かべながら振り返るレナルドがいる。
「おやおや。王太子殿下ではありませんか。私は今、フラスニエル様と大事な話をしているのです。早々にお引取り頂きたい」
予測していた状況を目の当たりにして、セレスは微塵も驚かなかった。
レナルドはフラスニエルを自らの陣営に取り込もうとしている。王権を握る者を抱え込めば、何もかもが意のままになるからだ。カミオのいない今、宰相の座を欲したとしてもおかしくはない。
ここで退けばセレスにも、そしてエレナスにも未来はないだろう。フラスニエルは心身共に弱り切った状態で、正常な判断を下せるかどうかも危うい。
「あなたこそお引取り下さい。ぼくは養父であるフラスニエル様に、重要な案件を伝えに来たのです。臣下である、あなたの出る幕ではありません」
声こそ震えていなかったものの、心臓は激しく鼓動を刻み、指先は氷のように冷えきっている。
払拭しきれていない怯えを悟られないよう、セレスは必死にレナルドを睨み付けた。
「王太子殿下は勇ましくておいでだ。ですが勇敢と無謀は紙一重ですよ」
レナルドは慇懃無礼にセレスに微笑み掛けた。その笑い方は寒気がするほどの邪悪さを湛え、セレスは一瞬たじろいだ。
圧し掛かるような重い空気の中、不意に外から声で一触即発の沈黙が破られた。
「レナルド様! 一大事にございます!」
扉を開け放ち、蒼白な表情で叫ぶ衛兵に気付いて、レナルドは鬱陶しそうに目をやった。
「何事だ! 取り込み中だ。そのくらい分からんのか」
「それが大変でございます。姉君様が……女王陛下が意識を取り戻したとの一報が、先ほど届きましてございます!」
「……何だと?」
思いも寄らぬ言葉に、レナルドは訊き直した。
彼の姉である女王エリエルは、王器の王冠を奪われる際に術を施され昏睡した。誰にもその術は解けず、医者どころか術師すら匙を投げる始末だったのだ。それがどうして今頃解けたのか、レナルドには全く理解出来なかった。
「侍従トルド様が、早急に仮邸宅へお戻り下さるようにとの事です」
それだけ告げると衛兵は足早に立ち去り、後には静けさだけが残った。
レナルドはしばらくの間呆然としていたが、大きく息を吐くと何も言わずに執務室を去っていった。
その場に取り残されたセレスがフラスニエルを振り返ると、彼は無表情のまま執務机の椅子にもたれかかっている状態だった。かなり無理をしたのか右腕の治癒は遅く、心にも大きな傷を負っているのがありありと分かる。
「……フラスニエル様」
セレスの呼びかけにも応じず、隻腕の唯一王はぼんやりと背もたれに体を沈めたままだった。
大切な人を失うという事がどれだけ辛いか、セレスにはよく分かっていた。彼自身ベレンを失い、父母を失い、今まさに親友を失おうとしている。
「そのままでも構いません。どうか聞いて下さい。至高教団に攫われて、助けてくれた人の死を間近で見た時、ぼくは人の命さえも、簡単に失われてしまうものなのだと知りました」
フラスニエルは言葉も無く、身じろぎもせず椅子に掛けたままだった。
「いつかは失うものだと分かっていても……ぼくは出来るだけの事をしようと決心しました。もしかしたら無駄になるかも知れない。でも何もしなければ……きっと後悔するから」
何の反応も示さないフラスニエルに自らの心情を語り終えると、セレスはそのまま執務室を出ようとした。
机に背を向けた瞬間、小さな物音がセレスの耳に届いた。ゆっくり振り返るとフラスニエルが必死に体を起こし、立ち上がろうとしていた。
セレスは驚いて傍に駆け寄ると、不自由な養父の体を支えた。
「だめです、まだご無理をされては……」
「……いいんだセレス。私は……苦しいんだ。どうしても苦しみから逃れられない。あの人の望みを理解していたのに……それでも私は、自分の都合ばかり考えている。これほどまでに罪深い自分を、私は許せないんだ」
フラスニエルは立ち上がると苦しそうに息を吐き、左手を机についた。
「エレナスの裁判には、私も立ち会おうと思う。真実を自分で見定めなくては、この先臣民を導くなど出来る訳がない。私が王で在り続ける事があの人の望みなら……私はそれを全うしよう」
机の上にちらばっていた書類を握り潰すと、フラスニエルはそれを全て投げ捨てた。
書類の内容をセレスは知らなかったが、恐らくレナルドが持ち込んで署名させようとしていたのだろう。
「裁判は一週間後の正午だ。レナルドはエレナスの殺人を立証するために、様々な情報を収集したようだ。勝つにはそれを覆す証拠が必要になる」
再び椅子に腰を下ろすと、フラスニエルは深くため息をついた。
疲れきった様子の養父を休ませ、セレスは静かに執務室を退出した。
三 ・ 手紙
セレスは居室へ戻り、椅子に腰掛けるとため息をついた。
エレナスに利する証拠を集めようにも、殺していないという証明をするのは難しい。セレスが持つのは自らの証言だけであり、物証となる神器の剣は判事の預かりとなっている。
ノアがいた卓にふと目をやると、そこには先ほど侍女が置いていった手紙があった。
手に取り裏にある封蝋を目にした時、セレスの手が一瞬止まった。
「レニレウス家の紋章……」
見れば署名はカミオのものであり、封蝋も公式のものだ。
驚いて開封し手紙を引っ張り出すと、そこには何枚もの便箋にびっしりと綴られた流麗な文字が目に入った。
――君がこれを目にする頃、私は王都ガレリオンを離れているだろう。何もなければそれで良いのだが、アレリア大公レナルドが暗殺を企てているとの情報もあり、私の影武者を務めている者が命を落としている可能性がある。
私は今、アレリア女王エリエルの許にいると思う。女王は長らく病に臥せておられると聞いていたが、殺害された弓兵の情報を求めて女王に書簡を出したところ、思いがけず直筆で返事を頂いた。
どうやら彼女は代行者によって術で眠らされていたらしく、最近になって術が解けたのだという。恐らく代行者が何らかの理由で滅び、彼女に掛けられていた術の効力が失われたのだと推測している。
ここからが本題だが、私は女王を王都ガレリオンに御連れしようと考えている。
この手紙を書いている今はまだ、裁判が開廷される日取りすら判明していない。だがなるべく早くガレリオンに戻る予定だ。もし私が裁判までに戻らなかったら、君がエレナスのために証言をし、凶器について話をするほかない。
凶器として判事室に保管されている剣は、私が前もってすり替えてある。実物は私の仮邸宅に保管してあり、判事室にある剣は血糊すら着いていない、ただの鉄剣だ。
もし凶器としてそれを提示されたら、握りに巻いてある革が血を吸っていない事を指摘して欲しい。殺人を犯していない事を立証するのは難しいが、本人の証言、君の証言、不確定な凶器が揃えば望みがある。
最後に、私の影武者であるエスレ男爵ペイルがもし殺害されていたら、それは私の責任だ。
彼は子供の頃から私やユーグレオル家に仕え、エスレ家を断絶させないために人質のような人生を歩んだ。良き友だが、あれの存在を知る者は、今では私かリオネルくらいになってしまった。
ペイルが命を落としていたら、今頃リオネルは激怒している事だろう。私の命も本当に危ういやも知れないな。
カミオ・エレディア・レニレウス 黄玉石の月 二日 王都ガレリオンにて――
冗談でも書いているかのように締めくくられている手紙を読んで、セレスは呆気にとられた。
だがこれで、セレスの予感は確信に変わった。
やはりカミオは生きている。そして亡くなったのは、彼の影武者だと分かったからだ。
いつから王と影武者が入れ替わっていたのかは分からないが、一週間でネリアの王都ガレリオンと、アレリアの王都ノイエを往復するのは至難の業だろう。
往路は一人で馬を飛ばす事も可能だが、復路は女王の馬車に随伴するからだ。
彼らが間に合うよう祈りながら、セレスは手紙を机の引き出しに仕舞い込み、鍵を掛けた。
衛兵から、姉である女王の回復を知らされ、レナルドは激しく動揺した。
仮邸宅に戻ると侍従トルドが待ちかねており、彼はレナルドに一通の書簡を手渡した。封を破いて中を見れば、姉の直筆で書かれた手紙が同封してあり、彼は涙をこぼしながらそれを読んだ。
姉からの手紙には、近いうちに王都ガレリオンへ向かう旨が記されており、レナルドの心中は穏やかではなかった。
到着時期によってはエレナスの裁判や、刑執行に鉢合わせする場合もあって、彼の心を一抹の不安がよぎった。
「……トルド。姉上の御容態はどうなのだ」
「医師の報告では経過もよく、体力も回復しているとの話でした。ですが病み上がりでこちらにおいでになるのは、いささか不安ではあります」
「そうだな。私もそう思う。病み上がりの姉上に、少年の縛り首など見せたくないからな。……裁判を早めるよう、フラスニエル様に申し入れしてみよう」
不気味に笑うレナルドの言葉に、侍従も静かに相槌を打った。
四 ・ 証明
王の遺体を運ぶ葬列から離れ、ユーグレオルは少数の従者と共に西へ向かった。
会議室で遺体に触れた時、彼は違和感を覚えた。それはカミオが子供の頃に負った、左耳の下にある古傷が見当たらなかったからだ。
レニレウス王国の侯爵位を奉ずるユーグレオル家は、古くからエスレ男爵家と共に穏健派の一族だった。
先王の時分、穏健派は急進派から執拗な攻撃を受けた。力の弱いエスレ家は特に標的となり、事故死に見せかけた暗殺や失脚でその大半が死に絶えた。
エスレ家当主の嫡子ペイルは、自らが人質となる事でユーグレオル家の庇護を求めた。王子カミオによく似た少年を見て、侯爵は一計を案じた。彼を影武者に仕立て上げ、王子に対する攻撃を回避しようとしたのだ。ユーグレオル家は申し出を受け入れ、交換条件としてエスレ家を庇護した。
「あの時、何としてでも父に反対するべきだった。王子を護るためとはいえ、誰かの人生を犠牲にしてまで影武者を仕立てるなど……」
ユーグレオルは激しい後悔を密かに吐露した。
暗殺が横行している情勢では、影武者を仕立てる事に問題がある訳ではない。だが自分とあまり年の変わらない少年が、自ら望んで未来を投げ出すところを、彼は見たくなかったのだ。
会議室で王の遺体に触れて古傷が無いと気づいた瞬間、ユーグレオルはその遺体が影武者のペイルである事を理解した。それと同時にカミオはすでに単独で行動していると悟り、密かに葬列を離れる決意をした。
葬列を率いる部下に、国境を越えるまでは全てを秘匿するよう言い含め、選りすぐりの精鋭を数人連れて彼はカミオを追った。
恐らく今はまだ、レナルドの目は葬列に向けられている。カミオとユーグレオルが王都から消えた事で、レナルドがガレリオンを牛耳ろうとするのは火を見るより明らかだ。
ペイルの命を犠牲にしてまでカミオがやろうとしている事が、王にしか出来ない事であるなら、再三書簡を遣り取りしていたアレリアが関係しているだろうとユーグレオルは踏んだ。
葬列を離れて間もなく、彼らを怪しげな影たちが追って来たが、ユーグレオルは咄嗟に森へ分け入り、それをやり過ごした。
そのまま気付かれぬよう森伝いにアレリアを目指すと、やがて厳重に警護された国境が目に入った。
ガレリオンで行われる式典のために民衆の流入は止まらないが、国境の警備は相応に強化されている。
身分を証明出来るものや、貴族がしたためた添書がなければ、身元調査のために何日も足止めされるだろう。
森の中から国境の様子を窺っていると、一際目立つ大きな馬車がネリア側へ入るのが見えた。その脇には青毛の駿馬が立ち、馬上には鳶色の髪をした男の姿があった。
「カミオ様……」
服装や髪形が変わり、まるで従者のような出で立ちをしているものの、遠目からでもユーグレオルには主の姿が判別出来た。
カミオが同行しているとなると、馬車には王族級、またはそれに準ずる貴族が乗車しているのだろう。カーテンが引かれている内部からは、二人の女の姿がちらりとだけ見えた。
「将軍、如何致しますか」
部下の言葉にユーグレオルは考え込んだ。先ほどまで尾けて来ていた者たちが、まだ近辺にいるかも知れない。ここでカミオの存在を悟られてしまえば、主の計画が水泡に帰す可能性があった。
「我々はこのまま、王都ガレリオンを目指す。先ほどの追跡者には悟られぬよう、密かに戻る」
将軍の命に従い、彼らは静かに森を抜けてガレリオンへ向かった。
夜明け前だというのに、外から響く騒がしい声にエレナスは目を覚ました。
彼が別の牢に移送されてから数日経つ。場所を替えられたという事は、恐らく裁判が近いのだろう。
新しい牢は石造りではあるものの清潔で、天井の高い位置に明かり取りだけがある質素なものだった。全体が白色なのは、石灰岩を使用しているからなのだろう。
白い床や壁はむしろ、死を暗示しているようにエレナスには思えた。裁判に勝てなければ死が待っている。視界を満たす白は、彼の首筋に湿った冷気を撫で付けた。
廊下から聞こえる喧騒は更に大きくなり、とうとう牢から引きずり出される日が来たのかも知れないと、彼は身支度を整えて椅子に掛けた。
程なくひとつの足音が扉の前で止まり、鉄扉の格子窓から覗く懐かしい顔があった。どこか泣き出しそうな目でエレナスを見つめているのは、紛れも無くノアだった。
「……ノア? どうして……」
エレナスは驚いて鉄扉に駆け寄り、格子窓に近付いた。鉄製の格子を握るノアの手は冷たく、未明の冷え込む中を駆けて来たのが判る。
廊下の奥からは未だ怒号が響き渡り、彼女が警備兵を振り切ってエレナスの牢まで来たのだろうと思われた。
「裁判の前に、どうしても会っておきたかったの。開廷日時が早まったから、会うなら今日しかないと思って。絶対に助けてみせるから……だから、信じて」
冷たいノアの手に自らの掌を重ね、エレナスは静かに頷いた。
「ずっと信じている。セレスを追って二人でブラムを目指したあの頃から、それは変わらない。あの時君が助けてくれなかったら、俺はきっと何も出来なかっただろう」
懐かしい記憶を思い起こすように彼は呟いた。
「もし自由になれたら……君に聞いて欲しい事があるんだ。だから……」
エレナスの言葉が終わらないうちに、追いついた警備兵たちがノアを扉から引き剥がした。エレナスの名を呼びながら遠ざかる声に、彼は鉄格子を強く握り締め、彼女の名を叫んだ。
すぐそこに迫っている裁判よりもノアが気に掛かり、エレナスはしばらくの間、鉄格子を握り締めたまま鉄扉から離れようとはしなかった。
翌日の正午、灰色の雲が垂れ込める中でエレナスの裁判が開廷した。
結局その日までにカミオが戻る事もなく、セレスは独りで戦う覚悟を決めた。
ネリアでは原告、被告双方から提出された証拠や証言を元に七人の審理員が判断をし、判事が取りまとめるという形式を採用している。
審理員はほぼ無作為に選出されていると言えるが、その多くは貴族や豪商、富裕層などで占められ、金や権力で天秤が傾く事も少なくはなかった。
そういった意味では、王族殺しを疑われているエレナスには非常に分が悪いと言える。
「ではこれより、審理を執り行う。被告エレナス・ファス=レティ・カイエは前へ出なさい」
おごそかな判事の宣誓により、審理が開廷された。
判事と七人の審理員がずらりと居並ぶ中、エレナスは被告席に着いた。彼よりも一段高い位置に座する八人から威圧感を覚えたが、エレナスは顔を上げ、じっと彼らを見据えた。
静かに訴状が読み上げられると、審理員は証拠品の検分に入った。エレナスの右手にはセレスが独りで座っており、左手には宰相代理としてレナルドが座している。ノアとフラスニエルの姿は傍聴席にあったが、カミオの姿はどこにもない。焦る心を抑え、エレナスは身じろぎもせず席にいた。
「訴状によると、被告はネリア王族であるリザル・ネリア・セトラの心臓を剣で突き、殺害したとあるが相違ないか」
「……いいえ。私は彼を殺してはいません」
僅かな沈黙の後、エレナスはそう答えた。
「リザルに呼び出され、私は森へ向かいました。武器を持って向かって来る彼に対して、こちらも武器を持って対処する以外ありませんでした」
「では武器を持って対処しただけで、殺害してはいないという事かね。確かに証拠品の剣には、握りにも殺人の形跡は無いが」
ざわつく審理席にレナルドが目をやり、苦々しげな表情を見せた。
カミオがこの場にいれば、左手の告訴席にいるのは彼だったのかも知れない。何故姿が見えないのかはエレナスの知るところではなかったが、今は彼と対立せずに済んだ事がありがたかった。
「殺害してはいません。ですがリザルを傷つけた事は認めます。それは証人も御存知のはずです」
エレナスの言葉に場は再びざわめいた。衆目が判事へ集まり、判事は静粛に、と声を張り上げた。
「では証人は前へ。あなたの見たままを述べて下さい」
名を呼ばれ、セレスは立ち上がって静かに進み出た。被告席よりも更に前方に位置する証言席へ着くと、ゆっくりと判事を見上げた。
幼いながらも王太子としての風格が彼を際立たせ、傍聴席からは小さなざわめきが漏れた。
「証言をするにあたり、三人の父の名において嘘偽りなく真実を述べる事を、ここに宣誓します」
白のマントを翻し、ステンドグラスから落ちる陽光を受けるセレスは、まばゆい色彩を放っている。
彼は顔を伏せる事も無く、ただじっと判事を見つめて彼は口を開いた。
「私の実父リザル・ネリア・セトラは自刃しました。被告が剣を衝き立てたのも目撃しましたが急所をはずれており、父は自らの意志でその一生を終えました。よって被告は無罪であると証言致します」
エレナスにはセレスの声が微かに震えているように感じられた。
王族でなければ友達と遊んだり学校へ通う年齢であるのに、彼は自らの道を選び取り、進む事を決意している。
二人で旅を始めた頃のセレスには、他人には計り知れない悩みや迷いがあった。母親のいない悲しみ、父と祖父の不仲。それらを抱えながらも彼らの旅は、踏みしめる大地を自らの中に作り上げたのかも知れない。
「王太子殿下の証言を記録に書き留めました。では次に、告訴席からの証言と証拠を受け付けます」
判事の声に、レナルドは待ちかねたように立ち上がった。
どこか嬉しそうな笑みを浮かべる冷たい表情に、エレナスは背筋が凍る思いがした。
「私の証言も是非書き留めて頂きたい。私は被害者が殺害される二週間ほど前に城内の廊下で、被告と被害者が口論しているのを見た。壁に叩き付けられるほどの暴行を受けた被告に、殺害の動機が無いとは言えないと思います」
レナルドの証言に、エレナスは忘れかけていた記憶を幻燈のように思い出した。
深淵が姿を現しリザルに殺されそうになった夜、確かに走り去る人影を彼は見た。あれがレナルドだったのかどうかは判らないが、真実には違いない。
「それに私は殺害現場も見ました。被告が殺害したんだ」
「違う! それは違う!」
「静粛に!」
レナルドに反論するセレスや声を張り上げる判事、そして審理員と傍聴席がざわめく中、エレナスは呆然と立ち尽くした。
この場を収める方法を彼は思いつかなかった。リザルの肉体に神が宿っていたなどと言ったところで、誰も信じはしない。むしろ気がふれたと思われて、一生日の当たらない獄に繋がれるはめになるだろう。
だが真実を言うほかない。それが破滅を辿る道であっても、命を賭けて証明するしかなかった。
エレナスが発言しようと身を乗り出した瞬間、廷内の扉がゆっくりと開く音が耳に届いた。振り返って入り口に目をやるとそこには一人の男がいる。逆光の中、懐かしい人影は静かに口を開いた。
「証拠品が足りませんか? ではこれなど如何ですか」
男は猛禽のような目を細めると、何かを審理員席の傍へ放り投げた。
レナルドは放り投げられた血染めの矢に青ざめ、男の顔を目にすると恐怖の色を見せた。
「そんな幽霊でも見るような目で見ないで頂けますか。……遅れて申し訳ありません判事殿。別件での証人を御連れするのに、少々時間が掛かりました」
不敵に笑うその顔は、紛れも無くカミオだ。肩下まであった髪は短めに切られ、雰囲気ががらりと変わっている。
「大公殿下。神聖なる法廷を嘘で穢してはいけません。殺害を立証出来る証拠品が無いなら、これ以上混乱させないで下さい」
そこまで言うとカミオは背後を振り返り、二人の女性を招き入れた。一人はアレリア女王エリエルであり、もう一人は痩せた中年女性だ。
「ではアレリア大公レナルド殿下。姉君である女王陛下の名に誓って、先ほどの証言をもう一度お願いします」
カミオの言葉にレナルドは歯噛みし、固く口を閉ざした。
生きているはずのない男が今そこにおり、何故か姉を連れて来ている。エレナスを陥れようとしてその実、自分が罠に掛けられているとは露ほども知らなかったのだ。
床に転がる矢を横目で見やり、レナルドは如何にそれを奪って廃棄するかを思案していた。これさえなければ言い逃れが出来ると、この時は信じていた。
「レナルド殿下は証言なさらないようですね。ではこの場をお借りして、別の事件について判事殿に御裁定頂きたく存じます。まずそこにある血染めの矢に関してですが、それは事件の夜、被害者の背にあったものです。白の矢羽根はアレリア軍で使用されているものであり、被害者が殺害される直前、何者かが彼を狙って矢を放ったと考えられます」
「陰謀だ! 私は何も知らない。誰かが勝手にやった事だ!」
必死に否定を繰り返すレナルドには目もくれず、カミオは傍聴席の中を進みながら言葉を続けた。
「では『アレリア軍の誰か』が射たとして、何故そのような事態になったかをご説明申し上げましょう。それは被害者が一人息子を『アレリアの誰か』に攫われて監禁された事にあります。そうですね? 王太子殿下」
カミオの言葉にセレスは頷いた。
「その通りです。ぼくはレナルドに攫われ、仮邸宅の中に監禁されました。父がぼくを助けに来てくれた時、弓兵が一斉に放った矢で傷を負ったのです」
「嘘だ! でたらめだ!」
レナルドは大声で叫び続けたが、判事がそれを制止して続けさせた。
「更に遡りますが、では何故レナルド殿下は王太子殿下を監禁したのか。それは王太子殿下がレナルド殿下の殺人を目撃してしまったからです。その裏づけもあります」
それまでカミオの背後にいた中年女性がゆっくりと進み出た。骨ばった手に一通の手紙を握り締め、彼女はおもむろにそれを読み上げた。
――お母さん、ごめんなさい。
――僕は恐ろしい事をしてしまいました。お金のために、それも人違いで高貴な方の命を奪ってしまいました。きっと僕は捕らえられ、裁判に掛けられるでしょう。僕は罪を償わなければならない。しばらく手紙を出せないかも知れませんが、どうか心配しないで下さい。大公様が、悪いようにはしないとおっしゃってくれました。
手紙の内容を耳にするとレナルドは青ざめ、力なく床に座り込んだ。
彼は姉である女王の顔すら見る事も出来ずに、ただ白い床を見つめ続けた。
「女王陛下に調べて頂いたのですが、ブラム奪回作戦の直後にアレリア弓兵が一人除隊処分になっていますね。そしてその後、弓兵を見た者は誰もいない。この女性は彼の母親ですが、この方に真実を言えますか?」
エレナスを陥れるどころか、逆に自らが窮地に陥ったレナルドは冷や汗をかきながら、目だけを動かして必死に辺りを見回した。
「手紙にある高貴な方とは、ブラム奪回作戦で落命された故セトラ将軍でしょう。人違いとは将軍の脇に控えていた参謀を狙ったという事になります。金を握らせ人を殺し、それが人違いであったなどと知れたら、大公殿下の御身も危うい」
その言葉にフラスニエルは驚き、勢いよく席から立ち上がった。レナルドは自らの窮地を悟り、素早く跳ね起きると、大声を発しながら傍聴席の人々を押しのけ、入り口へ走った。
驚くほどの勢いで法廷を飛び出す彼を見送り、カミオは判事へ向き直った。
「では判事殿。被害者の子が無罪を主張し、対する告訴側が被告を陥れようとしていた点を鑑みて、公正なる判決を頂けますでしょうか」
カミオの言葉に判事は静かに頷き、審理員たちと協議を始めた。程なく判事は顔を上げ、廷内に響く大きな声で判決を申し渡した。
「被告エレナス・ファス=レティ・カイエの殺人容疑に関しては無罪とする。ただし脱走は重罪であり、ガレリオンより十年の追放処分とする。準備が出来次第、王都を離れるように」
判決に傍聴席のノアは涙を流し、セレスは嬉しそうな、寂しそうな表情を見せた。
カミオが入り口を振り向くと女王は悲しげに首を横に振り、馬車へと戻っていった。
「残念ながら、大公殿下を捕縛せねばならないようですね。ちょうど任務に適した者がおります故、それに任せる事にします」
その言葉にセレスは席を立ち、フラスニエルを支えながら王城へ戻っていった。エレナスは枷をはずされ、真の自由を勝ち得た。
傍聴席が歓声に沸くさなか、カミオは弓兵の母親がその場にいない事に気付いたが、誰にも言わずそのまま法廷を立ち去った。
五 ・ 運命の岐路
ふらつき転びながら、レナルドはひたすら走り続けた。
人を殺め陥れようとした罪悪感よりも、自らの所業を姉エリエルに知られた事が、何よりも彼を苦しめた。
こんな姿を姉に見られたくない。このままどこへともなく逃げ去って、誰の目も届かない場所へ行きたい。混乱した思考のまま、レナルドは王城の門をくぐり市街へと走り出た。
王城から市街の門まで伸びる大通りは活気に溢れ、屋台や露店が店を広げて混雑していた。
道行く人を押しのけ突き飛ばしながら門を目指すと、そこには武装した集団がおぼろげに見えた。それを自らが放った『影』だと思い込み、レナルドは彼らへ近付いていった。
門の近くまで寄ると、集団はようやくその全体像を現した。
集団は一様に黒の喪章を着け、それとは判らないが武器を携えている。彼らが『影』ではないとレナルドが気付いた時には、集団の代表者がすぐそこに迫っていた。
「これは大公殿下。お急ぎとお見受けしますが、どちらへ参られるのですか」
声を掛けて来た代表者を見上げると以前見た顔があり、レナルドはあからさまに不快そうな表情をした。
無骨な軽鎧に野戦用のサーコートを纏い、幅広の長剣を下げている男は壁のようにレナルドの行く手を塞いだ。
「貴様……レニレウスの将軍か。何故ガレリオンに戻って来た? そもそもどうして奴が生きているんだ。レニレウスは『影』の手によって死んだはずだ!」
レナルドと対峙するユーグレオルは、これ以上にない冷たい一瞥を彼へと向けた。
「暗殺はやはり、殿下の命でございましたか。殺した相手が本人かどうかを確認もせず逃げるなど、随分雑な印象を受けましたが」
その言葉にレナルドの顔色はみるみるうちに変わり、しまいには激しい怒りを見せた。
「貴様、あれが影武者と知りながら、私を罠に掛けるために王都から出たな。このような屈辱……他にはない」
「我が主の命令は絶対ですから。私に選択権などありません。……では殿下。先日の続きでも致しましょうか。こちらはいつでも構いませんぞ」
ユーグレオルは部下を下がらせ、腰に下げていた剣をゆっくりと引き抜いた。研ぎ澄まされた刃は昼下がりの陽光を反射し、きらめく白光を放つ。
人通りが多い事もあって、辺りには大勢の野次馬がひしめき合い、彼らは二人を遠巻きに取り囲んで固唾を呑んだ。
「無粋な。王族である私を斬り殺そうというのか? やれるものなら、やってみるがいい!」
その言葉にユーグレオルは一礼し剣を構えると、素早く相手の間合いまで踏み込んだ。レナルドも咄嗟に剣を抜き放ち、必死に初手を弾き返した。だが戦い慣れた軍人に敵うはずもなく、彼は徐々に追い詰められていく。
力量が掛け離れている者同士の対決は、一方的に力あるものが圧すだけで、それはもはや決闘などと呼べるものではない。だがユーグレオルは容赦なく剣を振るい、ついにはレナルドの剣を石畳の上に叩き落した。
倒れ伏したレナルドの喉元に切っ先を当てると、ユーグレオルは思いつめた暗い声で口を開いた。
「殿下を斬れば死罪は免れますまい。ですがあなたが殺させたあの男には、月がみなもに落とす影としての人生しかなかったのです。影武者として生きる以上、いつかは死するのが運命。ならばそれを利用したユーグレオル家の当主が死罪になろうとも、大した問題ではありません」
苦しそうな、それでいて悲しそうな表情を見せ、ユーグレオルは剣を振り上げた。
次の瞬間背後から声が掛かり、ユーグレオルはゆっくりと振り向いた。そこにはようやく追いついた主の姿がある。心の内を無表情の仮面に隠しながら、カミオは彼に命じた。
「生きたまま捕らえろ、リオネル。そんなものにお前の命をくれてやる価値などない。法の下で裁きを受けさせる」
カミオの静かな口調に、ユーグレオルは唇を噛み、剣を静かに下ろした。部下たちがレナルドの両脇から支えて立たせ、王城へ連れ戻そうとした、その時。
群集を振り切って一人の女が現れ、ナイフを両手に握り締めながらレナルドへ突進した。それが殺された弓兵の母親だと認識出来るまでには、しばらくの間があった。
「あ……」
肉へ食い込む鈍い衝撃に、女は血まみれの凶刃を震える手で引き抜いた。
血に濡れた刃は鮮やかな赤を描いて滑り落ち、石畳に澄んだ音を立てて転がった。それと同時に一人の老人が膝をついて石畳へ崩れ落ちる。
狙われたはずのレナルドは、かすり傷ひとつなく無事だ。
だが彼の前に立ち塞がり身をもって盾となった老人は腹を深く刺され、すでに息も絶え絶えの状態だった。
「トルド……? トルド、お前は何をしている? 何故こんな所にいるんだ……」
拘束する兵士を振り払い、レナルドはトルドを抱え起こした。血は辺りの石畳を赤黒く浸し、老人は苦しそうに呼吸をした。流れ出る血を止めようと傷に触れても体液はとめどなくあふれ出し、すでに助からない事を誰もが理解した。
「……レナルド殿下、ご無事ですか。あなた様に大事があれば、亡くなられた先王に……申し開きが出来ません」
もう息をするのも苦しいのか、トルドは震える指先を挙げようとしたが叶わず、石畳にだらりと落とした。
レナルドは思わずその手を取り握り締めた。自分でも理解出来ない感情が彼を支配し、いつの間にか涙を流している事に気付いた。
父である先王が崩御した時でさえ、彼は悲しいとも思わなかった。だが幼い頃から陰日向と付き従い、常に傍にいたトルドの命が自分のせいで消えていく事実が、レナルドには受け入れられなかった。
「何故だ……。私はお前を、いつもないがしろにしていたのに。何故お前は自分の命を捨ててまで、こんな真似をするんだ」
「殿下がお気になさる必要はございません……。私は、私がやりたいようにしたまでにございます。どうか、あなた様を止める事も、諌める事も出来ずにいた、私めをお許し下さい……」
その言葉を最後に、侍従トルドは静かに息を引き取った。
目を見開いたままレナルドは涙を流し続け、立ち上がる事も出来ずに座り込んだままだった。
「……確保しろ」
ユーグレオルは暗い声で部下に命じた。髪を振り乱し、力なく座り込むレナルドと弓兵の母親を拘束すると、彼らは野次馬を散らして王城へ去って行った。
衆目が無くなると、ユーグレオルは静かに主の許へ歩み寄った。膝をつき最上級の敬礼をするとやおら立ち上がった。
「カミオ様。御無事でなによりです。ですがあまり無茶をなさらないで下さい。正直、生きた心地がしませんでした」
「……悪かった。大公が暗殺者を招集しているのを知りながら、留守をペイルに任せた私の責任であり、私の罪でもある。影武者であり続ける事を本人が望んでいたとしても、それは何も変わる所がない」
連行される者たちの背を見つめながらカミオは呟いた。
「彼らも取り調べの上、裁判となるだろう。母親には情状酌量もあり得るだろうが、王族の裁判など前例が無いな」
「国が一新されるのですから、何事にも前例などありますまい」
ユーグレオルの言葉にカミオは、そうだな、と頷いた。
「常に新しい息吹を取り入れ、調和を保たねば、国であっても維持は難しい。十年後には良い国だと言われるよう、力を尽くしたいものだな」
カミオは不意に空を見上げ、目を細めた。
天空に広がる青は雲をも染め上げ、つがいの小鳥が暖かい南へと飛び去って行くのが見えた。
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創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。殺人・流血・残酷描写あり。R-15。17578字。
あらすじ・レニレウス王カミオが凶刃に斃れ、側近であるユーグレオルは遺体と共に王都ガレリオンを後にした。
その頃、エスレ男爵と名乗る男が単身でアレリアを訪れていた。