昔、家族は自分をなんと呼んだか。
——エル、今日はなんの本を読む?
——エリィ、ご飯よ。
今、エルヴィンをそう呼ぶ人間は、身近にはいない。ヴィーと呼ばれたこともある。人によって呼び方はさまざま。
今はよく団長と呼ばれる。肩書を示すもの。
エルと呼ばれ、エリィと呼ばれた彼らはどこへ行ったのか、消えたのか。時折エルヴィンは自問自答する。
いつも通り起きれば、いつも通りの見慣れた部屋の風景。
いつも通りじゃないのは、ベッドの両脇にいる金髪碧眼の人間たち。
「起きた?」
「おはよう、エルヴィン」
右にはまだあどけない笑顔の子供。左にはまだ甘さの残る青年。
エルヴィンは両手で顔をおおう。数十秒たってから手を離し、目を開けると、彼らはまだそこにいた。
「眠い?」
「疲れてるけど仕方ない、そろそろ起きよう」
二人は微笑む。子供らしからぬ大人びた笑顔と、青年らしからぬ子供のような笑顔。
嗚呼とエルヴィンは嘆息し、「分かったよ」と返事をする。上半身を起こし、ベッドから抜け出ようとすると、二人はすばやく身を引いた。
「さあ、変身しなきゃ」
「団長になろう」
二人にうながされ、エルヴィンは歯を磨き、顔を洗い、髭を剃る。鏡に映るのは年相応の男の顔。
子供の時は親が型を作った。子供のサイズに合わせた、子供ならこうあるべきという服装と髪型。今は大人になった自分が作る。
支給された調査兵団の服を着て、装備を身につけ、髪を撫でつけ、最後にループタイをつけて出来上がるのがエルヴィン・スミス団長という存在。
これは団長になるための儀式。普通と呼ばれる人々よりいささかはみ出し過ぎた、ちょっとした狂気と炎を隠して整えるために必要な工程。
鏡の中には、かつて家族が呼んだエルはいない。エリィもいない。
「次は朝ご飯だ。食べに行こう」
「どんな時でも燃料補給しないと、体はあっというまに弱る」
まだあどけない笑顔の子供と、まだ甘さの残る青年。
たとえば壁外調査で仲間が多く死んだ時、いつもは聞き流せる中傷が心に引っかかってしまった時、決まって彼らは現れる。
なかなか動かないエルヴィンに、二人は首をかしげた。
「どうしたの? 部屋から出たくない?」
「大丈夫? って聞かれたら、大丈夫じゃない証拠だからな」
「分かってる。行くさ」
いつも分かりきったことを彼らは言う。エルヴィンはそのたびに、分かってる、分かったと繰り返す。
「ねえエルヴィン、僕らはいつでもいるからね。君がいる限り、僕たちは消えない」
「そうさ。俺たちはいつでもいる。俺たちが歩いた先に、お前がいる」
「分かってる」
また同じ返事をする。彼らは怒らず、にこやかな顔で聞くのもいつも通り。
「分かってるよ、エル、エリィ。君たちだけは最期まで一緒だ」
窓から入る朝日はまぶしい。その光を浴びても二人に影はなく、エルヴィン一人だけが床に影を落とす。
子供時代の自分と、青年時代の自分。どちらもエルヴィン。過去の幻。
どちらがエルで、どちらがエリィか。それは分からないが、いつも彼らは一緒。ただなんとなく、エルヴィンは昔の呼び名で彼らを呼んでいる。
世界を知らなかった子供は、知識が積み重なることで中身が大きくなり、窮屈になって脱皮した。淡い夢をいだいていた青年は、実際に壁の外に出ることで砕け散った。
では、ここにいるのは誰かと問う。
僕は誰。俺は誰。私は誰。君は、お前は、あなたは。誰と問うのは誰か。
子供の自分を脱ぎ捨てて、青年の自分を砕け散らせて、さらに削ぎ落として残ったなにかが問う。
名を告げよ。人類のために捧げられた心臓の代わりに埋められたものを告げよ。脆い器の鋼の心に納められた刃に、お前はなんと名付けたのか。
その刃の名を。
「エルヴィン」
「エルヴィン」
二人は同時に名を呼ぶ。
「僕たちだけは、最期まで君を信じるよ」
「俺たちだけは、最期までお前と共に在る」
今度の作戦は間違ったかもしれない。不毛かもしれない。世界はなにも変わらないかもしれない。
どれほど明確な目的があっても、意志を強くしても、そう思わないといえば嘘になる。ほんの一瞬でもそう思ってしまった時の自浄作用機能。
エルヴィンは過去の幻を見ることが、心が弱っている証拠であると自覚している。同時に、心の傷を修復するための必要な過程であることも承知していた。
「スミスって名字がなくなったって、僕は君を認める」
「団長という肩書がなくなっても、俺はお前を認める」
「ああ、分かってる」
心の刃に刃こぼれが生じるたびに彼らを思い出し、ここまで来た過程を思い出し、それ以外選べなかった人間をもう一度形作る。捧げた心臓の代わりに得た刃の名を、もう一度刻み込む。
「ただのエルヴィンになっても、俺は俺のままで在り続ける。そうでしかいられないから、そうする」
小さな選択と大きな選択を繰り返した結果、残ったもの。そこから作られたものが、エルヴィン・スミス団長。
「仕方ないね」
「仕方ないさ」
実力があるので生き残ると思った仲間は、瞬きをした瞬間に巨人に殺され、死ぬ時は一人でそれぞれに苦しみながら死んでいく。
一緒に頑張ろう。一緒に生き残ろう。一緒にという言葉は詐欺に近い。
死に際までずっと共に在るのは自分自身だけ。過去に存在した自分たちと、その結果の今を生きる自分だけ。
それを強く自覚しなければ、誰かを失った時、心が引きちぎられて動けなくなる。
「じゃあ行こう。いつまでも部屋にいると、彼が来るよ。君が弱っているの、気になってるみたい」
「気をつけろ。あれは勘がいい。お前の心が折れたら、あれはすぐにお前の首を刎ねに来る」
「殺すつもりで来てくれないと、気合いが入らないさ」
エルとエリィは微笑む。
「馬鹿だね」
「ほんと馬鹿だな」
「まったくだ」
誰が。自分か律儀な彼か。それとも両方。
二人の子供らしからぬ大人びた笑顔と、青年らしからぬ子供のような笑顔。エルヴィンにとっては、当の昔に失った笑い方と、たまに思い出す笑い方。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。「エルヴィン」と男性の声がする。
「今行く」
ドアを開けると、そこには黒髪で三白眼の小さな男がいた。エルヴィンを見上げて、微動だにしない。
「どうした、リヴァイ」
名を呼ばれた男は「朝メシ」と言った。
「まだだろ。食いに行くぞ」
「よく分かったな」
「それくらい分かる」
エルヴィンは廊下に出て、ドアを閉めようとドアノブに手をかける。部屋の中にいるエルとエリィがバイバイと手を振った。
閉じられるドアの向こう、エルヴィンの眼には幻の人間たちが映る。リヴァイの眼には無人の部屋が映る。
かすかな笑みと共にエルヴィンはドアを完全に閉め、鍵をかけた。
その笑みが意味するものはなにか、リヴァイはなんとなく察する。
以前からそういう光景を何度か目にしたので、一度だけ「誰かいるのか」と聞いたことがあった。その時は「いや、いない」と話を断ち切られた。
エルヴィンの眼には、普通の人が見えないなにかがいつも見えている。それは理想だったり、策略だったり、行動だったりする。
そこに時々、なにか違うものが混じる。それがなにかを誰も知らない。リヴァイより長くエルヴィンのそばにいるミケならばなにか勘づいているかもしれないが、口に出して言う人間ではない。
どれほど近しくても話したくないことがあるし、深く聞いてはいけないことがある。多分、そういうことなのだと理解する。
リヴァイの眼は、自分よりも頭一つ分大きい金髪の男の姿を映した。今ここに実在する人間。
エルヴィンはいつも通り、目をそらさず、前だけを見ている。心に鋭い刃を持っている。それを調査兵団の制服が隠している。
それがすべて。なにも変わっていない。エルヴィンはまだこちら側にいて、あちら側には行っていない。リヴァイはそう判断する。
だから。
(問題ない)
二人は無言のまま、いつもと変わらぬ歩調で、見慣れた廊下を歩き始めた。
END
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ちょっとオカルト風味な、人間らしい弱さを持つエルヴィンの話。捏造有。時期は曖昧にしています。