夏が過ぎると、鎮守府は活気が薄らぐ。
もちろん軍として、任務は年中を通して等しく課せられている。夏場が書き入れ時の海の家とは違う。
とはいえ、黒い土用波が押し寄せ、浜風が肌にしみだした頃、頭をよぎる季節の過ぎ去ったイメージを覆すことは難しく、鎮守府内の人々にすらそれが蔓延しているのだからどうにもしようがない。
演習の声もどこか上滑りして、高くなりつつある空に向かって消えてゆくようだ。
その秋の空に負けない鐘楼を突き立てているのが、鎮守府庁舎の本館だった。
木造三階建て、白塗りの洋風建築で、裏手の港を見下ろす丘陵に置かれているだけに、一層高く見える。
その本館の玄関から向かって左奥のどん詰まりに、「校正室」と札の掛かった一室があった。
官報用の版下や回覧書類を作成するこの部署には、普段なら五人前後の職人が詰めて、それぞれ割り当ての席で自らの職務に精を出している。ところが、その日は、たった一つの木椅子を除いて主を欠き、インクやニスの染みついた、さして広くもない部屋がいやにがらんとしていた。
ただ一人、気忙しくタイプライターを打つ女性も、職人という風体ではない。
純白のカッターシャツに天鵞絨地の朱のベストを着込み、紺のタイトスカートに脚を通している。うなじが隠れない程度に襟足を揃えた短髪も、フレームのない薄手の眼鏡も、どれも一分の隙もないキャリアウーマンという様相だった。
その抜け目ない眼差しは、瞬きすらも煩わしそうに草稿に注がれている。
ただ、あまりにも気持ちを集中させ過ぎたらしい。建て付けのよい部屋の扉が、そろりそろりと音もたてずに開かれていることに気付く様子をまるで見せなかった。
はじめ指の幅ほどだった隙間が、腕が通るくらいになり、やがて肩幅にまで開かれると、人影が一つ滑り込んできた。
その影は、扉の開く緩慢さと裏腹に、いざ室内に入り込むと速やかに、タイプライターとにらめっこをしたままの女性の背後にまで忍び寄り、
「霧島ちゃん、こんにちはぁ」
囁きつつ、ベストの上から指の腹で背筋を撫で下ろした。
「きゃーっ!」
途端、海軍の誇る主力である高速戦艦を担当する霧島の黄色い悲鳴は部屋を飛び出し、本館を駆け抜け、鎮守府を覆う青空の向こうに消えていった。
「龍田さん!」
「はーい、第三艦隊軽巡洋艦龍田只今応召し到着いたしました」
脇を締め、手のひらをさらさない海軍式の敬礼で、龍田は改めて直立不動の体勢をとった。
もっとも姿勢こそは分別くさいが、顔の笑みは微塵も隠れていない。
「なにをなさるんですか!」
振り向いた霧島は、まだ驚きから立ち直れていないようで、腕を胸の前で小さく組んでいる。
「霧島ちゃん、難しい顔してたみたいだから、ほぐしてあげようかと思ったのよ」
「でしたら、もっと別の方法にしてください」
「えー、もったいないじゃない。あんなに敏感なのに」
「私の背中はグラスハープじゃありません!」
霧島は龍田を苦手にしていた。
飄々としてとらえどころがなく、なにを考えているかわからない。
行動の原理が理屈ではなく直感なのだ。にもかかわらず、世知に長じている点では全艦隊中でも一、二を争うだろう。このあたり、理論をこよなく愛する霧島とは対照的だ。
だから、することなすこと、目についてしかたがない。
「それになんですか、その格好は」
龍田の着ているのは制服ではなかった。色こそ濃紺で合わせているが、いわゆるつなぎで、上下のいっしょになった、ポケットの多い作業着だ。
「あら、似合ってないかなー?」
いわれて一瞬言葉を飲んだ。着こなしているのは間違いない。
「演習中の事故があって、観測所の外壁がちょっと壊れたの。その修繕のお手伝いで午前中いっぱい使って、その足でこっちに来たものだから」
波の高さや潮流の変化を計測する施設が、一部傷つけられたのは霧島も聞いていた。鎮守府内の設備はその性質上、整備や修理は特に選ばれた職人に依頼される。その際に検分の意味もこめて、手伝いという名目で艦隊員が駆り出されることもあった。
「だからって、なにもその姿のままで来ることは」
「んー、そうなんだけど」
おもむろに龍田がつなぎのファスナーを下げて、胸元をまさぐりだすと、霧島は目を丸くしてしまった。
唐突な行動に驚かされたのもあるが、なによりつなぎの下がそのまま素肌だったのだ。
「もうこんな時間でしょう。まさか遅刻するわけにもいかないもの」
引き出されたのは金鎖のついたペンダント型の懐中時計だった。時刻は確かに、集合予定のわずか前を指している。
だが、霧島の目は、文字盤を見るどころではなく、形のいい龍田の乳房に引き寄せられていた。
「ど、どうして裸!」
「あらやだ、あんまり見ないでね」
意図してのことではなかったらしく、指摘されるとすぐにはだけた襟元を合わせ、小さく舌を出して龍田は恥じらいの表情を見せたが、それにかまうどころではない。
「し、した、下着はどうしたんですか?」
むんずとつかんでファスナーを上げ直させると、霧島は火を吐くようにいった。
「わたしもはじめはびっくりしたんだけど、こう着るのが正式だって、教えてもらったものだから」
片手を添えた頬が桜色に染まっているとこからして、龍田も満更でたらめをいっているわけでもなさそうだ。
「いったい、だれがそんなことを」
「金剛ちゃんよ。向こうのファッションなんですって」
途端、霧島は片手で顔を覆って声にならない声をあげた。
イギリスからの帰国子女である金剛は、霧島の長姉だ。
「よし、ちゃっちゃと済ませちゃいましょう」
ひと通り霧島の気持ちも落ち着いたところで、龍田が切り出した。
そもそも戦艦と軽巡洋艦で、担当艦も所属艦隊も異なる二人が、ともに勤務場所から離れて、一室に集っているのにもわけがある。
「では、龍田さんはアレを」
まだ顔に赤みの残った霧島の指差す先には、こんもりと書類の山が待っていた。
「相変わらず多いのねー」
「今回は特にです。先月は会議も多く招集されたようですし」
「新造艦計画に友軍招致、警戒海域拡大か……。きっと提督、胃を痛めてるでしょうね」
適当につまんだ書類を読んでサラリと言ったものの、今口にした事案のどれもが、龍田や霧島が予め知っていてよい情報ではなかった。
積まれた書類の中には、さらに高いレベルの機密も含まれている。それが無造作に投げ出されているのは、これら文書を校正する必要があったからだ。
龍田も並ぶ椅子の一つに腰を下ろすと、おもむろにつなぎの袖をまくり上げて、置かれたタイプライターに指を走らせはじめた。
二人に命じられていたのは、膨大な会議資料を活字に起こす作業だった。
会議資料といっても議事録から私的な速記、引用された文書など、形式も様々だ。それをまとめてだれでも読める形に整える必要がある。
それには二つの工程を経なければならなかった。
まず、原稿全体を読める形にする。ここには英文のタイプライターが使用された。すべての文書をローマ字表記になおすのだ。速記文字や殴り書きの文書が、少なくともこれで読めるようにはなる。
けれども、なにしろ膨大な量だから、時間はかかる。とはいえ人手は抑えねばならない。
そこでまず白羽の矢が立ったのが、タイプを得意としている霧島だった。
霧島は一文字一文字を正確な間隔で刻む。始まりと終わりで速度にずれが起こらず、文字数によって所要時間が割り出せる。時折下がってくる眼鏡を押さえる時間すら、計算に含まれている。もちろん肝心のタイピングスピードも尋常ではなく、動かす指の残像の切れ間がないほどだ。
もう一人特に選ばれた龍田は気分屋で、もちろん打鍵は速いのだが、いかんせんそれが持続しない。目にも止まらない指の動きを見せたかと思うと、すぐに猫の足取りのようにゆるやかに用心深くなる。
例えば用紙一枚の文書を活字にすると考えると、所要時間は霧島には及ばない。ところが、分量が増えると不思議と効率は反比例して龍田に分があるようになり、会議資料をまとめるほどになれば差はいよいよ顕著になる。
それに龍田のタイプは、耳馴染みのよい音階を含んでいる。
霧島がリズムを刻んでいるとするなら、龍田はメロディーを弾いているといえた。
それぞれ異なる音色をたてながら、互いにペースをかき乱されることもない。同室で仕事をするうえで、案外重要な点だ。
鎮守府庁舎の一画、訪れるものといえば、窓にかけられた白いレースのカーテンをなびかせる秋風ばかり。暑気を拭いさる涼風に乗って、二台のタイプライターによる合奏は、さやかな音色を絶え間なく部屋いっぱいに溢れかえらせていた。
燦々と振りそそいでいた夏の名残りの陽射しが大人しくなり、長くなった影法師が部屋にかかりだした頃、
「んーっ! つっかれたー」
大きくのびをした反動で、ひさしぶりにそんな声が洩れた。
それがきっかけになって霧島の指も停まり、互いに声を掛けるでもなく自然に目が合った。
たちまち笑いがこみ上げてくるが、表情には二人とも疲れがあらわになっている。昼からずっと、ろくに休憩もとらずに机に向かいきりだったのだから、無理もないご面相だった。
「霧島ちゃんはどう?」
「ちょうど区切りです」
「じゃあ、お願いしちゃおうかな」
「こちらもお願いします」
そう言い交わす互いの手には、ほぼ同量の紙の束が握られていた。ただし、龍田の渡したのが、ローマ字タイプの終わった草稿であったのに対して、霧島のは生のままの会議資料という差はあった。
「なんだかわるいわー」
「それはこちらもですよ」
二人とも皮肉を言っている雰囲気はない。特に霧島は、タイプされた草稿を、神経質に角がきっちりと合わさるように整えると、それを抱えて席を立った。
部屋を横切り、もう片方の壁際に歩み寄ると、そこに掛けられた敷布をまくりあげる。
同じような机に置かれていたのは、龍田の向かうタイプライターよりも何倍も巨大な装置、通称和文タイプと呼ばれる機械だった。
和文タイプはその名の通り和文、ひらがな、カタカナ、漢字を印字するためのタイプライターだ。けれども、似ているのは名前と機能くらいなもので、形状や動作に共通点はむしろ少ない。
印字の構造も方法も。欧文と和文ではまったく異なる。
特に最も差を大きくするのは文字数だ。
アルファベットに数字、そこにピリオド、カンマなどの各記号を加えても五十に満たない欧文タイプライターに比して、和文ではひらがなとカタカナだけで百種類近くの活字が必要になり、そこに漢字が加わるのだから膨大なものにならざるをえない。簡易型の和文タイプですら二千、鎮守府では正字を求められることが多いため、活字の数は四千を超える。
一文字打つだけでも、目当ての字を探しだすのに、熟練を要する。
おまけに、草稿はすべてローマ字表記だ。一般的な語彙に加えて、専門的な知識も要求される。
こうした条件の全てを兼ね備えていたのが霧島だった。特に文字配列の覚えのよさは、専門の職工も舌を巻くほどだった。
対して龍田は、この和文タイプが得意でなかった。一般人とは比べるべくもないが、それでも霧島の隣では明らかに遅い。
そこで、龍田は欧文の、霧島は和文の、それぞれ得手とする方を多めに担当することで、作業の能率化を図っていた。
とはいえ、それでも立ちはだかる文書の量は端倪すべからざるものがあり、日が落ち、宵闇が次第に夜の気配を濃くしていっても、まだ終わりを見せなかった。
龍田の指が突如ピタリと動かなくなった。
それまで順調に奏でられていたタイプ音が、レコードの針が飛んだようにブツ切れる。
けれども、それに一番驚いているのは当の龍田で、いっかなキーを弾こうとしない指を不思議そうにながめていた。
やがて一つ苦笑がもれると、胸元から懐中時計を取り出して時間を検めた。針はもう深更を指している。
「はーい、霧島ちゃん、今日はここまでにしましょ」
やおら立ち上がって相方のもとに歩み寄ってみれば、霧島の手の動きもずいぶんと緩慢なものになっている。
「え、でも、まだ終わっていませんから……」
「いいのよ、別に今日中っていいつかった指令でもないでしょう」
「でも……」
なおも食い下がろうとする霧島の手に、そっと自らの手を重ねる。
「いいからいいから。あんまり根を詰めると、明日以降に障るもの。出撃近いって聞いてるわよー」
「出撃といいましても、哨戒と大差ない任務ですよ。御心配には及びませんから」
「まーまー、いいじゃない。今日はわたしのわがままを聞いてちょうだい」
両手を合わせて拝まれては、霧島もそれ以上我を通すこともできない。
後ろ髪引かれる思いで、霧島も席を立った。
会議資料、ローマ字タイプの草稿、和文タイプまで終了した完成稿を、それぞれ鍵のかかる別の棚にしまい、ようやくその日の作業は終了した。
終わってみれば、霧島は思った以上に自分が疲労していることを意識しないわけにはいかなかった。
「やっぱり加賀さんはすごいわね」
部屋の鍵を掛けながら、ついそんな言葉がこぼれた。
「そうねー、加賀さんは、仕事の鬼だものー」
加賀は鎮守府内で数少ない正規空母の担当者で、航空部隊のからむ多くの作戦の任を負っている。さらに提督の秘書官も務め、仕事は内外を問わず多岐に渡る。会議資料の活字化も、もちろんその内に含まれている。
龍田がさん付けで呼ぶ数少ない人物の一人で、後は同じく正規空母の赤城、戦艦の伊勢がいるばかりだ。
もっとも、これは役職や年齢は関係がない。霧島の長姉である金剛も、正規空母の飛龍蒼龍も龍田にかかればちゃん呼ばわりだ。そもそも霧島からして、龍田よりも年長だ。要は呼びやすいか呼びにくいかだけが判断基準らしい。
「いったいどこが違うのかしら。タイピングも速記の読み下しも、絶対におくれをとっているはずはないのに……」
普段は加賀が一人で欧文・和文のタイプを行い、まかないきれない量の場合だけ、応援で霧島と龍田が呼ばれる形をとっていた。
今回はどうしても外せない用件が重なったため、加賀を除いた二人で当たることになったのだが、いくら量があるとはいえ、日をまたぐのもまた初めての経験だった。
矜持に障ったというよりも、純粋に不思議でならなかった。
口の中でなおしきりにひとりごちている霧島を見ると、龍田はそっと背後に忍び寄り、
「きゃん!」
耳に息を吹きかけた。
少女のような短い悲鳴をあげて、霧島はその場で跳びあがった。
「な、なななな、なにヲっ!」
動揺でほとんど言葉になっていない。
「ごめんなさーい。つい、目の前に、形のいい耳たぶがあったものだから」
「いえ、背後に回り込みましたよね? 偶然じゃないですよね?」
「そんなことより、霧島ちゃん、かわいらしい驚きかたするのね。びっくりしちゃったー。知ってる? 加賀さんなんて、すごいんだから」
「加賀さんにもやったんですか……」
龍田の大胆不敵さに呆れて、霧島は二の句が継げず、結果的に見事にはぐらかされてしまった。
「ひやあああああ、って、背筋をピンと反らせて。言葉を伸ばさずに、『あ』をひとつひとつ発音して驚くのよ」
そうして、龍田はもう一度、その「ひやあああああ」を身振りつきでまねてみせた。
「ね、霧島ちゃんと加賀さんて、こんなに違うんだから」
あっけらかんといわれてしまっては、真剣に怒るのも馬鹿らしい。
霧島は肩の力を抜いて、一つ小さくため息をつくと、
「だとしたら、龍田さんの悲鳴もまた異なるのでしょうね」
精一杯意地悪な笑みを浮かべて、意趣返しのつもりでそうぶつけてみた。
「聞いてみたい? 試してみてもいいのよ?」
言うが早いか、龍田は踵を返すと、後れ毛をかき上げて、耳朶の薄い左の耳を霧島に見せつけてきた。
和毛の薄く光る耳は艶やかで、同性の霧島でも思わずドキリとしてしまうほどの魅力を持っていた。
「よしてくださいよ、冗談に決まってるでしょう」
つま先で、ターンを決めて龍田が振り返る。
「でしょー、それがわたしと霧島ちゃんの違い」
ずるい。目を細めて、にこにことしている龍田を見ると、そう思わないわけにはいかない。
やっぱり龍田は苦手だ。
なにを考えているかわからないし、平気で人の心にまで入り込んでくる。
そして、なにより手に負えないのが、それが不快でなく、龍田を憎む気にもなれないというところだった。
「あー、霧島ちゃん、怒っちゃった?」
「怒ってません」
「嘘だー。だって、唇の端がピクピクしてるものー」
「だから怒ってません」
「はいはい、じゃあ、酒保に行きましょ。特別許可が下りてるから、今の時間でも大丈夫なの。今日はわたしのおごり」
「ですから」
「いいからいいからー」
ペースに流されるのが心地よくて、つい相好が崩れそうになる。けれども、そんな表情を見られるのが悔しいから、霧島はできるだけ仏頂面でいられるよう努めた。
だが、それもどこまで通じたものか。
常夜灯以外の落とされたうす暗い鎮守府庁舎の廊下で、龍田の顔はいつもと同じほどに笑みで輝いていた。
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龍田さんを書こうとはじめたのですが、相方の霧島さんへの愛着もどんどんと……