「即死…………」
男に言われて、考える。
それは一体どういう現象なのだろうか、と。どういう理由でそんな現象が起こるのだろうか、と。
ネクロノミコンは少女であるという。少女と形容するからには、形だけでも人間なのだろう。人間性があるかどうかはまるで分からないが、少なくとも、人間の形をしている事だけは間違いない。
では、その人間の形をした何かは、どうしてその様に…………恐ろしく不便な能力を持つに至ったのだろうか。
能力。
いや、違う。それは、もっと存在の根源にあるものに違いない。ネクロノミコンの持つそれは、人間に例えるならば心臓の拍動と同じような印象を受ける。
「解せない、という面持ちだね。だがね、あの少女も、昔は人間だったのだよ」
リコは息を呑んだ。
「…………どうして、そんな事に」
どうして、その少女は視認されれば相手を即死させる様な、意味不明の能力を…………話では、少女は不死であるという事だったので、もちろんそれだけでは無いだろうが…………持つに至ったのだろうか。
そういう意味でのどうして、だったが、男は正確にリコの聞きたい事を汲み取ってくれただろうか。
男は一度大きく頷き、口を閉ざした。
気乗りしないのか、それとも判断に迷っているのか。そんな感じに見受けられた。
先ほど、この男は自分に意思が無いと言っていたが、そんな仕草を見る限り、本当に普通の人間にしか見えない。
「どうしたんですか?」
「ふむ…………どうしたものか」
ここまで話しておいて、なんて勝手な。
「私が死ぬ運命にあると言ったのは貴方です。なら、知っている限りの事を話すのが、貴方の筋じゃないですか?」
「いやね、私からあまり話すのも…………不公平かもしれないと思ってね」
「不公平…………って」
話の流れが良く分からなかった。どういう事だろう。
「正直に言うとね、私は君の味方では無いんだ」
「味方」
復唱すると、なんとも妙な単語だった。日常生活でほとんど使う機会などないから、当然だ。面と向かって、君の味方だと言われる機械など一体どれほどあるだろうか。まして、味方ではない、と言われる事など。
味方では無い、という事は、敵であるという事だろうか。
「かといって、敵でも無い」
リコの考えはすぐに否定された。
なんなのだろう、この男は。何が言いたいのだろうか。
「味方で無いからと言って、敵というわけでも無い。君には助かって欲しいが、私から積極的に君を助けるつもりは無い。そういう事だよ。だから、君に彼女の事を、私から全て話してしまうのは不公平だとね」
「あくまで中立だと…………? じゃあ、どうして私に迫る危険について教えてくれたのですか?」
「それは、あまりに教え過ぎないのも不公平だと思ったからだよ」
「不公平…………」
リコはその時、疑問を覚えた。
不公平とは、一体何に対してだろうか、と。
何と比較しての不公平か、という事ならば…………それはリコとネクロノミコンの知識量の違
い…………なのだろうか? それは確かに一つの正解には違いないだろうが、本当の所はもっと別の所にある気がした。
中立という事は、両者に対して分け隔てなく接するという事だ。それが一体、何を意味するのだろうか。
なんだろう。分からない。
諦めて、リコは別の質問を口にした。
「ネクロノミコンの狙いはなんなのですか? 私を殺しに来るわけじゃあ…………無いのでしょう?」
今の今まで、というより、いきなりあんな事を言われれば当然だが、リコはネクロノミコンが自分を殺しに来るのだとばかり思っていた。だが、それは果たして本当だろうか。男は確かに、リコを殺すものの名としてネクロノミコンを上げたが、それがイコール、ネクロノミコンの目的だとは限らない。
男は目を細めて笑った。それは今までのものとは異質な笑いだったが、やはり嫌な感じは覚えない。何故だろうか。
「ふむ…………それは今から話す所だった。正直に言うとね、彼女が狙っているのは私だ」
「貴方を…………?」
「君はその過程で死ぬ事になるだろうね」
「私は巻き込まれて死ぬ、と?」
「そうでも無いね。実際、君は彼女の標的にならざるを得ない。しかし、彼女は未だその事に気が付いていないはずだ。だから事の過程で、君が彼女に殺される事は偶然かもしれないが、結果的に必然性を孕んでいる」
「…………そして、その理由は教えていただけないんですね」
「そうだね。後は…………自分で調べなさい」
男はそう言うと、持っていた本を渡してきた。
リコは後悔した。その本は以前、気味が悪いと捨ててしまったものだ。あの時になにかしら気が付いていれば、もう少し心に余裕が出来たかもしれない。
苦笑するしかない。まるで期末試験に挑む前、追い込まれた人間の考えだ。
「私は何時もここに居るよ。来たければ来ると良い。有益な事は話せないだろうけどね」
男はリコに背を向けた。その姿が霞がかっている。そのまま姿を消してしまうのだろう。不鮮明になった姿の向こう側が透けて見えた。
不鮮明になってきたのは、男だけでは無い。図書館自体も、その存在がブレ始めてきた。
「貴方は逃げないんですか?」
「私は記憶だ。恐怖は無い。…………まあ、本物の私でも、果たして逃げたかどうかは分からないけどね」
気が付くと、リコは花刻家の廊下に立っていた。ドアは跡形も無く消失している。
溜め息を付いて、手に持った本を見て。
リコは現実を認識した。
「あなた、だれ」
舌足らずの声で、少女は言った。琥珀色の瞳は真っ直ぐにこちらへ向けられて、その様子は実に堂々としたものだった。
久遠は一瞬、面食らった。その様子が誰かに似ていたからだ。
「動くなと言った」
気を取り直して、銃を突き付け直す。警告に従わなかった時点で太腿を打ち抜いても良かったのだが…………なんとなく機会を逸したのだ。
「な、なによ! 私が誰って聞いてるんだから、貴女は答えるの!」
久遠は眼を細めた。
油断無く少女を見据えながら、思考する。
この少女は、果たして侵入者に該当するのだろうか。銃器や爆弾の携帯は感じられない。タイトなワンピースを着用しているため、隠す場所は無いだろう。純白のそれは薄布で、何かを隠しているならばすぐに分かる。
それに、少女からは剣呑な雰囲気を感じなかった。そればかりか、妙な懐かしさすら覚える。
『く、久遠様』
通信が入った。その声には動揺が見られ、珍しい事ではあった。
声を潜めて聞き返す。
「なんだ」
『確認が取れました。その方はビ、ビーチェ様でございます』
「ビーチェ様…………? もしかして、亮二様のご令嬢か?」
動揺して、僅かに声が上ずった。
亮二とは、花刻家の次男。その娘であれば、エリーの従兄妹という事になる。
「何故ビーチェ様が?」
『離れの方に、本日朝より滞在されているようです。急な事でしたので、連絡が行き届いて居なかったようです』
「どうして今頃…………ビーチェ様お一人で、か?」
『フランカ様も御一緒です』
「フランカ様も…………亮二様はご存知なのか」
フランカとは亮二の妻で、つまりビーチェの母親である。
そして、フランカはエリーの母の妹でもあった。つまり、花刻家は兄弟姉妹でそれぞれ結婚している事になる。
(なるほど…………)
先ほど感じた妙な懐かしさは、そのせいであったのかと、一人納得する。ビーチェは小さい頃のエリーに似ている。良く視れば顔立ちもそうなのだが、なによりもエリーが10代前半の頃の雰囲気に。
実を言うと、エリーを初め、ここに待機している多くの警備班はビーチェの姿形を実際に確認した事が無かった。いや、数年前にはあったかもしれないが。子供の容姿が変わるには、数年という期間は十分過ぎるものだ。
数年前より、亮二夫妻の家庭はお世辞にも上手く行っているとは言えず、別居状態にあった。そんなわけで、フランカとビーチェは、名誉ある花刻家の敷居を跨ぐことに対して歓迎されておらず、絶縁状態で無いにしても顔を出す事はほとんど無かったのである。
『フランカ様が仰るには…………ご存知のようですが。裏を取りますか?』
「いや、必要無い。執事長は軽率な男では無い。フランカ様のご滞在には何の問題も無いのだろう。それよりも…………」
胸を張り、気丈にこちらを睨みつけてくるビーチェに微笑みかけなげら、久遠は言った。
「撤収だ。ビーチェ様は私が預かる」
久遠は、インサイドホルスターに銃をしまった。
「失礼しました…………私、お屋敷でメイド長を勤めさせております、小梅川 久遠と申します。久遠とお呼びください」
深々と一礼する。
「本当に失礼ね! 教育がなっていないわ。叔父様もなんだってこんな人を雇っているのかしら」
左右で括った茶色の髪を揺らしながら、声を振るわせた。
予想はしていたが、かなりご機嫌斜めだ。まあ、いきなり銃を突きつけられて、動くなと言われれば大体はそうなるだろう。冗談にも程が有る、と。
しかし、見れば見るほどエリーに似ている。それぞれの両親に血縁関係があるのだから、それは有る意味当然かもしれないが。
「それで、ビーチェ様はどうやってここへ?」
「どうやってって? そんな事、貴女に関係があるの?」
子供なのに、大人ぶって堂々としている。久遠は苦笑した。
「私は一部とはいえ、屋敷を取り仕切らせていただいております故。ご存知では無かったでしょうが、ここは立ち入り禁止区域なのです」
「え……………………」
立ち入り禁止、という言葉を聞いたためだろうか、ビーチェは絶句した。
「し、し…………知らなかったわ。私…………わざとじゃ無いのよ。ねえ、お願い、母様には言わないで」
母親に怒られる事を恐れているのだろうか。ビーチェは明らかに動揺していた。
久遠は眉を顰めた。恐れ方が尋常では無い。フランカの躾とは、それほどまでに厳しいのだろうか。例えどうであろうと、一介の使用人に過ぎない久遠に口出しする権利は無い。
だが、
「ご安心ください。申しません」
優しく肩に触れることなら出来る。
そうすると、眼を開いて、ビーチェは安堵した様子を見せた。
そうした様子はとても可愛い。
「で、でも、これくらいで恩を売ったと思わなでよね!」
腕を組んで、顔をやや赤らめてそっぽを向いた。ツン、と澄ましているポーズがとても良く似合っている。
そして、そうした様子もとても可愛い。エリーの小さい頃を思い出して、抱きしめたくなった。自重したが。
「それにしても、貴女はなんなの?」
「と、申されますと?」
「良い大人が、オモチャの銃なんて持って」
なるほど、ここは日本だ。本物の銃などあるはずが無い。海外で育った事もあるビーチェならば、本物の銃を見たことがあるだろうが…………それだけに、日本の使用人が銃を持っているなど
という発想には至らないだろう。
だが、ここは日本であっても、花刻家の敷地内だ。
「では確かめてみますか?」
「は?」
「本物かどうか」
久遠が眼を細めて、太股の辺りから先ほどの銃を取り出した。それを見て、ビーチェは僅かに怯んだ。
しかし、
「な、なによ。まだ遊ぶつもりなの?」
馬鹿にしたようにビーチェは言った。だが、顔に笑みを作ることは出来なかった。笑い飛ばせなかったのは、久遠の作り出す雰囲気に気圧されたためか。
久遠は一歩、ビーチェに歩み寄った。
「………………」
「なんとか言いなさいよ! ね、ねぇ…………なんでそんな怖い、か、顔してるの?」
さらににじり寄って、ビーチェの額に狙いを付ける。
「も、もう止めなさいよ…………や、止め…………止めてって!」
ビーチェが叫ぶと共に、久遠は引き金を引いた。声を掻き消す様に、乾いた音が空間に響く。
「…………ひっ」
身体を大きく揺らして、ビーチェは尻餅をついた。
銃口から飛び出した、リボンと紙吹雪を全身に浴びながら。
「………………え?」
放心して、ビーチェは久遠を仰ぎ見る。
二ヒヒと笑って、久遠は銃を閉まった。
「御察しの通り、オモチャでございます。ビーチェ様は聡明でございますね」
ビーチェの眼の端に浮かんだ涙を拭いながら、久遠は思った。
ヤカと引き合わせる…………なんて事をすれば、良いオモチャになってしまうだろう、と。
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図書館で出合った男に、リコは現実を不十分に知らされる。
一方、久遠は一人の少女との出会いを体験していた。