No.611319

フェイタルルーラー 第十七話・永遠の別離

創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。死体表現・流血・残酷描写あり。17828字。

あらすじ・エレナスは王族刺殺の容疑で拘束され、王城の離れに軟禁された。
彼の処分を巡って会議の紛糾が続く中、セレスは一人でカミオの許を訪れた。

2013-08-22 20:51:58 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:547   閲覧ユーザー数:547

一 ・ 永遠の別離

 

 これは悪い夢なのだと、セレスは思った。

 エレナスとリザルが夜の森で戦っている。互いに刃を交え、今にも相手を殺してしまいそうな程、熾烈な争いを繰り広げていた。

 火花が散り二人の表情がちらちらと垣間見える様は、幻燈屋が見せてくれる影絵芝居のように、セレスの目に映った。

 微かに聞こえる話し声。苦しそうなうめき声。剣の柄を握りこむ姿に、父が自ら死を望んでいる事に気付いたセレスはその場にうずくまり、耳を塞いで小さな嗚咽を上げた。

 

「お父様……」

 

 誰に気付かれてもいけないと、セレスは闇に隠れながら密かに涙を流し続けた。

 

 

 

 風が凪いでいる。

 王城の敷地内にある離れで、エレナスは一人椅子に座していた。

 高窓からこぼれる日差しは柔らかかったが、外の喧騒も何もかもが彼の傍を通り過ぎ、どこかへ流れていく。

 

 石造りの平屋建てになっているこの離れは、古くは貴族を軟禁するための建物だったようだ。

 室内にひとつしかない高窓は小さく、天井に近い位置にある。部屋と廊下を繋ぐ扉は頑丈な樫材で造られ、四つ角は鉄製の鋲で補強されていた。

 荷物や身の回りの物もそのまま持ち込まれており、エレナスは破格の待遇だとすら思った。唯一、神器の剣だけは証拠品として取り上げられ、王城で保管されている。

 この部屋を訪れる者も少ないが、王族殺しの嫌疑を掛けられたのだから、その場で殺されていてもおかしくはないとエレナスは思っていた。

 

 リザルが死んだ夜。

 返り血を浴び、血まみれの剣を手にしたエレナスの前に現れたセレスは、何も言わず再び森へと消えた。

 あの状況ではどう受け取られようとも仕方ないと、彼は思った。過程がどうであれ、セレスの父親が死んだ事実は覆せない。

 

 エレナスが捕らえられた件で、エルナ峡谷への進軍は延期になったという。姉は一度もここへ面会に訪れないが、恐らく矢面に立たされているのだろう。

 拘束したのがネリアの衛兵だったのが幸か不幸か、彼の命運を決めたと言える。

 彼らは手荒な真似はしなかったが、誰に引き渡されるでも無く、この部屋へ入れられ監視された。

 

 凪いでいた風が再び窓から流れ込んで来る。

 むせ返るような花の香りがそよぎ、今日はリザルの葬儀があるのだと、誰かが言っていた事を彼はぼんやりと思い出した。

 

 

 

 おごそかに鐘が鳴り、墓地への埋葬がつつがなく終了した旨を王都中に告げた。重々しい鐘の音は、悲しみに包まれた辺りの空気を震わせる。

 ノアは一人で参列しながら、悲嘆に暮れる遺族に目を向けた。ローゼルは泣きはらした顔で呆然と成り行きを見守っていたが、セレスの面持ちは違った。

 黙ったまま俯き、ぎゅっとローゼルの手を握り締めている。まだ幼い子供なのに、やはり男の子なのだとノアは思った。

 

 祖父に続き父まで亡くした彼は、叔母を護っていかなければならない使命を感じているのかも知れない。そして父を刺殺した嫌疑を掛けられているのがエレナスだという事実が、殊更事態を面倒にしている。

 ノアは幾度かエレナスの許を訪れたが、彼の姉やセレスは一度も姿を見せていないようだった。すでに軍を離れている彼女は個人的な訪問も問題はなかったが、人にはそれぞれ立場や感情があるのだ。

 

 遺族に弔辞を告げ、ノアは王城へ戻る事にした。

 葬列を離れようとすると不意に声を掛けられ、ノアはゆっくりと振り向いた。

 そこにいたのはローゼルだ。セレスの手を握り締めながら、彼女はためらいがちに話し掛ける。セレス自身は思うところがあるのか、ずっと黙り込んだままだった。

 

「ちょっとだけ……いいかしら」

 

 からからに嗄れた喉から、ローゼルはようやく言葉を吐き出した。無理もない。軍の重責を担いながら、葬儀の喪主を務め、そして立て続けに身内を亡くしているのだ。

 不幸だ、可哀想だという他人からの視線に曝され続けて、憔悴しない人間など誰もいない。

 

「どうしても、誰も頼れる人がいなくて……。少しだけ、話を聞いて下さい」

 

 今にも消え入りそうな声に、ノアは言葉を待った。

 

「あまり時を待たずに、峡谷へ進軍命令が下るわ。峡谷攻略戦に突入すれば、セレスを連れては行けない。フラスニエル様も随行されるから、セレスを預けられる人がいなくて……あなたにお願い出来たらと思ったの。ごめんなさい、急にこんな事言って」

 

 確かに子供を預かるなど、慣れないノアには大変な話だ。

 だがローゼルが途方に暮れているのは確かであり、頼られるのが嬉しくもあった。

 エレナスが嫌疑を掛けられ囚われている以上、他に頼れる者はいないのだろう。王城の見知らぬ女官にセレスを預けるという選択が、ローゼルには出来なかったのだ。

 

「……分かったわ。攻略戦の間、あたしがセレスを預かる。でもあたしはレニレウスに属する者なのよ。それでも信じるというの?」

 

 ノアの念押しにローゼルはこくりと頷いた。

 その様子に、ノアはため息混じりに仕方ないわね、とだけ呟いた。気乗りしない言葉とは裏腹に、彼女の目はどこか嬉しげにローゼルとセレスを見つめた。

 

 

 

 セレスを預かる約束をしたノアは、その足で王城へ戻った。

 彼女自身、今後の身の振り方を決めあぐねていた。軍から解任された件は、任務にただひたすら身を捧げてきたノアには、天地が覆されたほどの衝撃があった。

 行く場所など、どこにも無い。幼い頃から目にしてきたカミオの後姿だけが、彼女の目印だったからだ。

 何かに惹かれるように歩いていると、いつの間にか目の前には衛兵が立ちはだかり、ノアの行く手を阻んでいる。

 

「ご面会ですか」

 

 衛兵の言葉にノアは我に返った。見上げればそこは、王城の中庭から少しはずれた石造りの建物の前だ。

 その場所がエレナスの軟禁されている建物だと気付くと、彼女は衛兵に目を向けた。

 

「はい。少しだけいいですか」

 

 二人の衛兵は顔を見合わせたが、何も言わず彼女を建物の内部へ通した。

 むき出しの石壁が冷たく感じる無骨な住居ではあったが、建物自体は普通に生活出来るだけの造りになっている。

 

 中勤めで世話も取り仕切る衛兵が一人、彼女をエレナスのいる部屋へ案内した。

 建物全体がひとつの牢獄と化しているせいなのか、窓は小さく部屋の扉に錠前は下ろされていない。枷も無く生活自体に不便はなさそうではあるが、一歩たりとも外へは出られない苦痛は計り知れなかった。

 

 拘束されてからのエレナスは、リザルの死について何ひとつ話そうとはしなかった。

 黙秘を続ければ、いずれ状況証拠だけで断罪される可能性もある。リザルの遺体が衛兵に発見された時、エレナスの他には誰もその場にはいなかったからだ。

 

 ノアが部屋へ入ると、エレナスは以前と変わらず椅子に掛けたまま俯いていた。

 両手で小さな手帳を握り締め、ただ独り黙祷を捧げている。

 その祈りが終わるまでノアは傍で待ち、エレナスが顔を上げたのを見て、そっと声を掛けた。

 

「エレナス。……リザルを見送ってきたわ」

 

 ノアの報告にもエレナスは言葉を返さなかった。ただ黙りこくって頷き、再び顔を伏せる。

 衛兵が部屋の外に待機しているのを見て、ノアは彼の近くに寄り、小さな声で囁いた。

 

「ねえ、どうして何も言わないの? あなたがリザルを手に掛けたなんて誰も思ってないわ。このままでは裁判で不利になるのよ」

 

 彼女の訴えに耳を貸さず、エレナスはただ沈黙した。

 その沈痛な面持ちにノアも口をつぐんだ。森の葉が風にさらさらと鳴る音が聞こえ、二人の沈黙を殊更印象付ける。

 

「……あの状況で、俺が手を掛けていないという証明は出来ない。リザルと戦ったのも事実なんだ」

「事実はそうであっても、その奥に真実があるんだってあたしは信じてる。今は話せなくても、何かあるならそのうち話して。そうじゃないと誰もあなたを救えないから」

 

 部屋の外にいた衛兵が声を掛け、ノアは振り向いた。

 彼女はエレナスの前に跪くと、その両手を取り握り締める。

 

「信じているから」

 

 ノアは静かに立ち上がると部屋を後にした。

 エレナスはその後姿を見送り目を閉じると、ただ静かに涙を流した。

二 ・ 取引

 

 季節も移ろい始め、穏やかな風が葉を散らすようになる頃に、エレナスの裁判が開廷される運びとなった。

 拘束されてから十日ほど経ち、ノアの言葉にようやくエレナスは答えるようになっていった。

 

 リザルの身に顕現した太古の神。その侵食を抑え切れず死を選んだ事などを、エレナスは少しずつ語った。

 そのひとつひとつに彼女は耳を傾け、全てを書き留める。

 話が進みセレスを見かけた事を告げると、エレナスは不意に言葉を切った。顔を上げるとノアを見やり、心にずっと引っかかっていた事を訊いた。

 

「セレスは……セレスはどうしているんだろう。父親の死をあの子に見せてしまった。こんなつもりではなかったのに。きっと今頃……」

 

 独りで泣いているんじゃないか。そんな言葉をこぼしそうになり、エレナスは口をつぐんだ。

 そうさせたのは自分自身だ。今更セレスを案じるなど、身勝手極まりないと彼は思った。

 

「セレスなら大丈夫よ。強い子だもの。もうすぐ峡谷攻略戦に入るから、一時的にあたしが預かる事になったの。あたしはもう軍から解任された立場だから、個人的に何をしようとカミオ様の不利になる事はない。だから大丈夫。安心して」

 

 その言葉にエレナスは安堵の表情を見せた。

 ここ一週間で初めて見る顔に彼女も嬉しくなり、微笑んだ。

 

「……セレスは、アレリア大公の秘密を目撃してしまったようなんだ。きっとまた大公に狙われる。危険だから、君も大公には気をつけた方がいい」

「分かったわ。大公殿下と言えば、十日前の夜に中庭や城内を捜索していたわね。あれも、セレスを捜していたという事かしら」

 

 二人で話し込んでいると衛兵が扉を開け、退出時間を告げた。

 その声にノアは椅子から立ち上がり、部屋を出た。扉の向こうで振り返り、彼女は小さく手を振る。その優しげな微笑に、エレナスは暖かな灯火を見た気がした。

 

 

 

 リザルの葬儀は亡くなった夜から数えて三日後に行われた。本来であればその日は全軍がブラムへ移動を開始する日であったが、ネリア王族の死に進軍延期を余儀なくされた。

 それもただの死ではなく、参謀の身内が殺害の容疑を掛けられる事態に発展している。その状態で全軍を動かす訳にもいかず、諸王や将軍たちの間で日々会議が重ねられた。

 

 速やかに処刑を断行し、エルナ峡谷を攻略するべきだと主張するアレリア大公レナルドと、状況を完全に把握してから裁判に掛け、それまで行軍は見送るべきだと主張するレニレウス王カミオの議論に会場は割れた。

 二人の議論はいつまで経っても平行線のままで、当事者であるはずのフラスニエルやローゼルすら呆れる始末だった。

 

「大公殿下。どうか落ち着いて下さい。ネリアも法治国家故、状況証拠だけで死罪とは無法が過ぎます。本人の自供でもあれば別ですが、固く口を閉ざしたままなのですから致し方ありません。私はカミオ殿の意見に賛同します」

 

 宥めようとするフラスニエルの言葉に、大公レナルドは怒りをあらわにした。

 恨みに燃える目は黒い渦を宿し、人目もはばからず彼に食って掛かる。

 

「……あなたはやはり、私の姉などどうでもよかったんだ。あの少年が、愛する女の弟だから庇っているのでしょう? 姉はいつでもあなたに愛されていないのではないかと、そればかり気にしていた。あなたのせいでアレリアは王器を奪われ、女王である姉は眠りについたんだ!」

 

 突然、卓を両手で叩く大きな音がした。

 激昂する大公に苛立ったのか、それまで黙っていたダルダン王ギゲルが椅子から立ち上がり、獣のような眼光で大公を睨み付け、大声で吼えた。

 

「黙れ! このような場で恥ずかしくないのか貴様は! 聞いておれば恨みつらみばかり、それが人の上に立つ王族のする事か? 貴様も王族のはしくれであるなら恥を知れ!」

 

 ギゲルの剣幕に、場は水を打ったように静まり返った。

 レナルドはギゲルを強烈なまなざしで睨み返したが、彼は気に留める事もなく言葉を続けた。

 

「私もカミオ殿に賛成する。確たる証拠も無しに極刑など、蛮族のする事だ。進軍はしばらく遅れるが、致し方あるまい。幸い峡谷を徘徊している敵も、ブラムまで来る気配が無いと聞く」

 

 誰も自らの意見に賛同しないのが気に入らなかったのか、レナルドは椅子を蹴り会議室を後にした。

 シェイローエやローゼル、ユーグレオルは沈黙し、諸王たちも密かにため息をついた。

 

「参謀殿。弟御の処分が決定すれば、あなたも累が及びますぞ。ゆめゆめお忘れめさるな」

 

 厳しい口調のギゲルにシェイローエは静かに頷いた。

 

「心得ております。ですがエレナスは理由も無く人を傷つけるような真似は致しません。いずれ本人の口から真実を語ってくれると、わたしはそう信じております」

 

 大公が席を立ってしまったために、会議は頓挫した。

 これ以上の議論は無意味だと思ったのか、カミオも立ち上がり扉へ向かった。

 

「どちらへ?」

 

 誰ともなく掛けられた声に振り向き、カミオは煩わしそうに答えた。

 

「仮邸宅へ戻ります。これから人と会わねばなりませんので」

 

 二人の王族を欠いた状態では会議を続けられる訳もなく、そのままその日の会議は終了を余儀なくされた。

 

 

 

 仮邸宅へ一人戻ったカミオは、その足で応接室へ向かった。

 二階の角にある応接室はそれほど広くはなく、静かに密談をするには最適の場所だ。

 扉を開けると、そこにはすでに来客の姿がある。少年はゆっくり立ち上がり会釈をすると、再び椅子へ腰を落とした。

 

「君の方から出向いてくれるとは思っていなかったよ、セレス君」

 

 黙りこくったままのセレスを見て、カミオも向かい側の椅子に座る。

 その言葉にも動じず、セレスは両手を握り締めた。

 

「矢を、返してほしいんです」

 

 俯いた顔を僅かに上げながら、セレスは口を開いた。

 

「あなたが持っているんでしょう? あの時、ユーグレオル将軍が拾っていた白い矢羽根のものです。あれがないと……困るんです」

「あの時……? 何の事だか私には分からないな」

 

 明らかにとぼけているカミオを睨み、セレスは声を荒げた。

 

「ごまかさないで下さい! あなたの事だから、将軍から報告を受けているはずです。あの矢は証拠として使える。あなただってそう思っているんでしょう」

 

 カミオを相手に一歩も引かず、むしろ食い掛かるセレスに彼はふと笑った。

 喉の奥で笑う声は次第に大きくなり、終いにカミオは大きな笑い声を立てた。

 

「君はなかなか面白いな。確かにあの矢は強力な切り札になる。だがね、どんなに強力なカードを持っていようとも、子供一人では何も出来はしない。君ほど聡い子なら、よく分かっているはずだ」

 

 痛い所を突かれ、セレスは押し黙った。

 

「そもそも何故、君はあの矢を必要としているのかね。それを教えてくれたら考えてやらんでもない」

「……あなたを信用できないから、それは言えません。ぼくの味方だと分かるまでは、誰も信用しない」

 

 真剣なまなざしを向ける少年に、カミオは目を細めた。その肝力もさることながら、彼は確実に何かを知っている。ここまでの自信を見せるのだから、かなり大きな情報だろう。

 他国の王族とはいえ、小さな少年が一国の王に対しこれだけ強気になる何か。それは今回の刺殺事件に関する真相に他ならない。

 

 彼らが切り札にしようとしている矢は、アレリアにとって不都合な代物だ。それを欲しているセレスは、アレリアを覆せるほどの証拠を握っているに違いない。彼の父親がアレリア弓兵に射掛けられた事実を照らし合わせれば、おのずと答えが見える。

 セレスが彼の意図を理解出来ていない今、カミオが主導権を握っている状態だ。出し抜くべきか、利用するべきか。表情には表さず、カミオは考え込む素振りを見せた。

 

「ではこうしよう。矢そのものを渡す事は出来ないが、その代わり協力関係を結ぶという形で手を打とう。君の身の安全をレニレウスで保証する。君が望むなら、エレナス君の後見を私がしてもいい。君はその見返りに知り得る全ての情報を渡す。悪くない話だろう」

 

 エレナスの名が出た瞬間セレスは身を固くしたが、真摯なまなざしは変わる事なく、冷静に言葉を返した。

 

「保証と後見、ですか。それはぼくが、ネリアの王位継承権第一位を有するからですか? レニレウスの人質になれという意味ですよね」

「有り体に言えばそうなるな。ではもうひとつ、興味深い話をしてあげよう。……私はアレリアを、更には大公自身を潰すつもりだ。信じるも信じないも、君次第だがね」

 

 意味ありげな微笑みを投げるカミオに、セレスは押し黙った。

 しばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げ、彼はカミオを見据えた。

 

「分かりました。ですが、完全にあなたを信用した訳ではありませんから」

 

 セレスは立ち上がると、カミオに会釈をして部屋を退出した。残されたカミオは独り腕を組み、楽しげな顔で笑った。

三 ・ 舞い上がる翼

 

 カミオはセレスとの約束通り、彼の身の安全を図った。

 誰にも悟られぬよう密かに護衛をつけ、同時にセレスの周辺に群がる者の調査をするのは、カミオにとっては一石二鳥だったのかも知れない。

 

 調べていくうちに、セレスの様子を窺っているのがアレリア大公であるのが判明し、カミオはほくそ笑んだ。

 元より想定していた事態であり、セレス自身が大公に対する切り札である可能性が強まったからだ。大公がエルナ峡谷への進軍を熱心に説いていたのは、セレスの周囲に溢れるネリアの護衛たちを排除する目的もあったのだろう。

 

 三日ほど経過したのち、セレスは再びカミオの仮邸宅を訪れた。

 今回は護衛の同伴もなく一人であり、子供ながらその度胸にカミオは密かに驚嘆した。恐怖さえも退けるほどの信念が彼の中にはあるのか。カミオはそう感じた。

 

「今日は、お話したい件があって来ました」

 

 先日とは異なり、彼らは執務室内で面談した。

 この三日間でセレスは心を決めたのか、勧められた椅子に腰掛け、ぽつりと語り始めた。

 

「ぼくに護衛をつけてくれた事に感謝します。ご存知かも知れませんが、ぼくは大公に狙われている。その理由をお話しようと思います」

「ほう。ようやく信じてもらえたのかな」

 

 俯きながら静かに頷くセレスにカミオは身を乗り出すでもなく、指を組みただじっと耳を傾けた。

 

「嘘偽りなく、父と祖父の名に誓って申し上げます。……ぼくは、大公殿下が人を殺すところを偶然見ました」

 

 衝撃的な発言に一瞬の間、静寂が室内を支配した。

 カミオは顔色ひとつ変えず聞いていたが、一言続けたまえとだけ呟いた。

 

「父がまだ存命だった頃の話です。行き先も告げずに飛び出した父を探して、ぼくはアレリア大公の仮邸宅に迷い込みました。その時に刺されて倒れた人を見たのです。その人はぼくに気がついたのか、左手をこちらに伸ばして……。何かを呟いていました」

「何を口にしていたんだね」

「女の人の名前のようでした。ただ、それよりも伸ばされた左手の方が気になって……。左手の親指と小指に大きなマメがあったんです。利き手が左だったとしても、少し変わっているなと思いました」

「左手の親指と小指……か」

 

 思い当たる節があるのか、カミオはふと考え込んだ。

 

「それ以外に変わった事はあったかね。例えば、軍の関係者だったとか」

「確かに軍服を着ていたような気はしますが、そこまでは……」

 

 そこまで言うとセレスは口を閉ざした。

 

「君の知っている事はこれで全部かね。情報は戦の要。全て揃わないと、勝てるものも勝てなくなる」

「……ひとつだけ、まだ言っていない事があります。ですがその話をする前に、カミオ様の意見を聞かせて下さい。その内容によっては、ぼくはこの話を他の人にします」

「駆け引きという訳か。身の程をわきまえぬ駆け引きは、いずれ身を滅ぼす。君はそれを理解した上で、この私に持ち掛けているのか?」

「命を賭けても、護りたいものがありますから」

 

 真っ直ぐに見据えるセレスの視線を避けるように、カミオは目をそむけた。

 

「……そのような言葉は、子供が口にするものではない。言ってみたまえ。可能な範囲で答えよう」

「ではお訊きします。あなたは……エレナスを助けたいと思っていますか」

 

 その言葉にカミオは一瞬黙り込んだ。

 カミオの答えは最初から決まっている。だがそれは個人的な意見であり、一国の王としてではない。

 

 諜報員を総動員して収集した情報では、エレナスとリザルが戦っていた事実があり、リザルの命を奪ったのは神器の剣であるとの見解がなされている。

 この事実を用いれば姉である参謀を引きずり下ろし、エルナ峡谷攻略を白紙に戻す事も可能だろう。

 そうしなかったのは、大公が頑なにエレナスの処刑を主張し続けたからだった。あれほど強硬姿勢を執るには理由がある。

 

 ――例えば、知られては困る何かをエレナスに気付かれた、殺さなければならない理由がある、などだ。

 

「答える前にひとつだけ質問をする。大公が殺人を犯した事を、エレナスは知っているのか」

 

 カミオの言葉にセレスは黙って頷いた。

 

「ぼくがエレナスに知らせたから、お父様が……父が攫われたぼくを助けるために、大公の仮邸宅に来たんです。ぼくとエレナスが口を閉ざせば、殺人を知る者がいなくなる。全てが闇に葬られるでしょう」

「そうだな。実際に目撃した君は証人、そしてあの矢。殺された者の左手。全てが繋がるのは、大公殿下にとっては恐怖そのものだろうよ」

 

 言葉の真意が分からず、セレスはカミオを見た。

 そこにはよく知る冷たい表情と共に、決意の表情が窺えた。

 

「左手の親指と小指に出来るマメは、弓兵独特のものなのだよ。しかもかなりの手練だ。一国の王としてはそぐわないが、個人的な意見を述べよう。私はエレナスを助けたいと思っている」

 

 その返答にセレスは一瞬安堵の表情を見せた。そして決心をしたように、口を開いた。

 

「ぼくはあの夜、エレナスが城を抜け出すのを見て、こっそり後を尾けたんです。夜の森で全てを見ていました。父は殺されたんじゃない。……自刃したんです」

「……それは確かかね」

「最初から最期まで、全て見ていましたから。息子であるぼくが自刃であると主張すれば、エレナスの疑いも晴れる。でもこの話を出来るのは、彼を助けたいと思っている人に限られます。そうでなければ、ぼくのような子供を殺して黙らせる事だって出来るのですから」

 

 セレスの様子を見て、以前とはまるで雰囲気が変わったとカミオは思った。

 それは父親の生き様を見て、その死を見届けたからなのか。わずか十歳で政争に巻き込まれ、日々死の臭いを感じていたカミオにはセレスを理解出来る気がした。

 

 幼いカミオの養育係を務めていたユーグレオル侯爵夫人は毒殺され、彼が十五になる頃には侯爵自身が変死を遂げた。

 その後、弱冠十七歳で侯爵位を継いだリオネルと共に、彼は謀略の渦中を生き抜いて来た。もし一人きりであったら、とても生き長らえなかっただろう。

 

 どれだけ優秀であっても、一人で出来る事は限られている。セレスは自身のために、そしてエレナスのために、生きるための翼を取り戻そうとしている。

 そう思い至り、カミオは静かに目を閉じた。

 

「分かった。可能な限り君に協力しよう。だが君やエレナスのためではない。……妹のためだ」

 

 セレスは一瞬驚き顔を上げたが、ありがとうございます、と立ち上がり頭を下げた。

 

「エレナスを助けたいのなら、ネリア王や参謀の許へ行けばよかったものを、何故君は私のところへ来たのかね。真意を図りかねる」

「……カミオ様が証拠になる矢を持っているだろうと思ったのもありますが……あなたなら、理解してくれると思ったんです」

「理解、か。私も見くびられたものだな。だが利害が一致している以上、手を結ぶには問題はない。たとえ自らの王を裏切る結果となろうとも信念を貫く。そう考えて良いのだね」

 

 立ったままセレスは力強く頷いた。

 

「いいだろう。まずは衛兵を替えるとしよう。それと剣を取り戻さなければならないな。あれはレニレウスに関わる者以外が持っていて良い品ではない」

 

 カミオも立ち上がると、彼らは執務室を出た。そのまま個別に王城へ入ると、各々行動を開始した。

 

 

 

 セレスからもたらされた情報を元に、カミオはエレナスに接触を図った。突然離れを訪れた彼にエレナスは驚き、やはり何も言わず沈黙し続ける。

 拘束されている今、彼にとって王族の訪問は断罪の宣告にも等しい。何を言い渡されようとも、斬り殺されようとも逃げるすべも無い。

 

 神妙な面持ちで沙汰を待つエレナスに、カミオは何も告げなかった。

 部屋の入り口にいる衛兵を下がらせ人払いをすると、傍にある椅子に腰を降ろし小さな声で語り始めた。

 

「まず君の処分について話そうか。現在、上層部では意見の対立が激しい。アレリア大公が強硬に君の処刑を主張している。他の者もそれについて限定的に賛同しているが、証拠も自供も無しに断行すべきではないとの考えだ」

「……大公殿下は俺を処分したいのですね。確かに俺を罪人として処刑出来れば、姉を追求する事も可能です」

「それだけではない。セレスが目撃したという、大公による殺人を知る者の一人だからだろう」

 

 カミオの言葉にエレナスは驚き立ち上がった。その顔は蒼白で、誰にでも分かるほど狼狽している。

 

「どうしてそれを知っているのですか。まさか……」

「安心したまえ。セレスは無事だ。もっとも大公は君どころか、彼も殺したくてたまらないだろうがね」

 

 エレナスの動揺を汲み取り、カミオは淡々と答える。

 促され、エレナスは再び椅子に掛けた。

 

「この離れにいる警備兵も、あらかた私の配下に入れ替えてある。幾度か大公の刺客が来ていたようだが、全て排除した」

 

 言われてみれば最近、衛兵たちの顔ぶれが変化しているようにエレナスは思った。

 

「何故そこまでして下さるのですか。俺を庇ったところであなたに利するものは何も無いはずです」

「そうだな。その通りだ。だから君のためではなく、ノアのためにやっている。君が命を落とせば、あれは悲しむだろう。ただそれだけだ」

 

 エレナスの疑問にカミオはにべなく答えた。不意に顔を上げ高く小さな高窓を見やると、カミオぽつりと呟いた。

 

「今のところ、君とセレスには私の配下をつけているため問題はないが、アレリア大公レナルドは、執拗に君たちを亡き者にしようと目論んでいる。理由は先ほども述べた通り、殺人を知られているからだ」

「ですが大公殿下ほどの王族なら、事件をうやむやにする事も出来るのではないですか? ひとつの殺人を覆い隠すために更に殺人を犯すなど、あまりにも無意味です」

「そうだ。何故大公がこれほど自身の殺人にこだわるのか。……それは大公に殺された者が、故セトラ将軍を暗殺した弓兵からだ。恐らく大公自身が、その男に暗殺を依頼したのだろう」

 

 思ってもみなかった内容にエレナスは言葉を失った。

 

「暗殺……。そんな、バカな」

「勿論、将軍自身を狙った暗殺ではない。第一矢は将軍の喉を貫き、第二矢は参謀の騎馬に当たっている。射撃命令の無い中で二本目を放っているところから、明らかに別人を狙っていたと推測される」

 

 部屋の空気が重苦しくなり、エレナスは冷や汗をかいた。

 二本目の矢は、姉に当たっていたかも知れないのだ。前線へ赴く姉の身が心配でたまらなくなり、彼は俯き押し黙った。

 

「セレスが見た被害者の特徴から、アレリアの弓兵であるのは間違いない。そして将軍を貫いた矢、それと先日死んだセレスの父親が受けた矢。これはどちらもアレリアで生産されている同型の白羽だ」

「……リザルのあの矢傷は、やはり大公の仮邸宅で受けたものだったのか。ひどい怪我をしていた。あの時、きちんと話を聞いていれば……」

 

 後悔をしようとも、今はもう遅い。

 自責の念に苛まれるエレナスを見やり、カミオは言葉を続けた。

 

「今は前を向く事だ。剣は近いうちに私が取り戻し、手許で保管しておこう。いずれセレスもここを訪れるだろうから、その時にでもゆっくり話すといい」

 

 それだけ言うとカミオは立ち上がり、部屋を後にした。程なく衛兵も戻り、エレナスは高窓の向こうをただ見つめ続けた。

四 ・ 原罪

 

 主である大公レナルドの苛立ちに、侍従たちはひたすら平身低頭で接し続けた。

 幾度も行われる会議に赴くレナルドは機嫌が悪く、侍女たちも怖がって近付こうとはしなかった。

 

 無理もない。離れにいる少年を殺そうにも守りが固く、セレスを再び攫おうにも、レニレウス王カミオの庇護下に入っている始末だ。

 かの王は場数を踏んでいるためか隙が無く、セレスへの手出しを諦めざるを得なかった。

 

 その代わり、レナルドにも打てる手は残っている。それはエルナ峡谷へ進撃させ、王都の守りを薄くした上に、レニレウスの国力を削ぐ事だ。

 狭い峡谷では、歩兵を用いた物量戦しか手は無い。歩兵を担っているネリアとレニレウスの兵力を低下させれば、万が一にでも勝機はあるだろう。

 そのためには処刑だ何だとは言っていられない。進攻を提案しブラムへ本隊が移れば、それだけで事態が好転する。

 

 事件の夜以来、何度行われたか分からない会議に、大公は苛立ちを覚えた。

 顔ぶれはいつもと変わりなく、彼は心の奥底で諸王や将軍たちを侮蔑した。何度話し合いを重ねようとも意見が合致する事などなく、ただ平行線を辿るだけだ。それはカミオも同じように感じていたらしく、顔を見れば苦々しい表情をしている。

 下らない、とレナルドは呟いた。早く姉の許へ帰りたい。女王が目を覚まさなければ、いずれは自身が王となってアレリアを背負う立場になるだろう。だがその前に、諸王たちを可能な限り潰しておかなければならない。

 壮年を過ぎているダルダン王ギゲルは、放っておいてもいずれ死ぬ。人の良いフラスニエルは上手く操ればいい。問題は、一筋縄ではいきそうにないレニレウス王カミオだ。

 

 会議の内容はレナルドの予想通り、ブラムへの進軍とエルナ峡谷攻略に関してだった。ここぞとばかりに彼は峡谷攻略戦を提案し、エレナスについては一言も口にはしなかった。

 不思議な事に、いつもは真っ向から反対するカミオは主張して来る気配が無く、レナルドは密かに喜んだ。この日全会一致で、ブラムでの全軍駐屯が決定した。

 

「では三日後に先遣部隊を出し、一週間後にブラムへ全軍移動させます。先遣部隊の指揮はセトラ中尉、本隊はユーグレオル将軍に一任致します」

 

 会議が閉会するとカミオは真っ先に席を立ち、その場を後にした。他の参加者も次々と席を立ち、会議室を出て行く。

 三日後にはセレスの養母であるセトラ中尉、ダルダン王ギゲル、そしてカイエ参謀が王都からいなくなる。

 カミオが動く気配が無いのが気掛かりではあったが、本隊が動いた直後が好機であるとレナルドは判断した。

 

 レニレウスが磐石であるのは将軍の功績が大きい。

 彼が王の傍を離れれば、如何にカミオといえども一人では何も出来ないだろう。内心ほくそ笑みながらレナルドは中庭の渡り廊下を歩いた。

 

 夕闇の中、中庭を挟んだ反対側の廊下に、小さな人影が見えた気がして彼は足を止めた。

 目を凝らしてみれば、それはセレスだった。辺りには人影は無く、セレスもレナルドに気付いている様子はない。

 

 徐々に暗闇が押し迫っているものの、廊下のランプに灯火を配する侍女たちの姿は、まだ見えない。今ならセレスを攫えるかも知れないと彼は考えた。

 中庭の草花を踏み散らしながら、レナルドはセレスの背後に近付いた。静かに手を伸ばし、その喉元を捕らえようとする。

 

 不意にその手は影に遮られ、レナルドは驚き影に目を移した。

 そこにいたのは冷たいまなざしを向けるレニレウス王カミオだ。猛禽のような鋭い視線がレナルドを刺し、嘲笑っているかのように見えた。

 

「おや珍しい。供も付けず斯様な場所で一人歩きとは。いささか無防備ではありませんかな」

 

 カミオの皮肉めいた言葉に、レナルドは歯噛みし睨み返した。

 白々しいといわんばかりの目を向けるレナルドを見やり、カミオは不敵に微笑んだ。それがレナルドには忌々しく、呪詛のように呟くとカミオを押しのけようとした。

 

「あなたなどに構っている暇は無い。そこをどいて頂こうか」

 

 遮るカミオをどかせレナルドはセレスの姿を探したが、小さな影は廊下の角を曲がった後だった。

 苦々しげに睨む視線を気にも留めず、カミオは涼しい顔で挨拶を交わし、笑い声だけを残して去って行った。

 今回の峡谷攻略戦でも将軍だけを戦地に送り、王自らは王都に残るのだろう。カミオがいる限り好機を得る機会は無い。レナルドは、はっきりそう悟った。

 

 

 

 最終決定会議の三日後にはローゼル率いる先遣部隊が、その四日後には本隊がそれぞれブラムへと移動した。

 本隊にはフラスニエルも同伴したため、王都ガレリオンは主不在となった。

 

 リザルが死んだ夜から、ソウはマルファスの前から姿を消した。

 ソウにしてみれば、エレナスにリザルを倒させるなど予期していなかったからだ。

 以前からエレナスとセレスを見守ってきたソウには、歳の離れた弟たちのように感じられていたからかも知れない。故郷も、同族さえも護れなかった彼には、これ以上誰かが苦しむ事すら耐えがたいのだろう。

 

 千年近くもの間、一族の生と死を見続けて来たマルファスには、ソウの気持ちが痛いほど理解出来た。

 不死の代行者として存在する者は、いずれ大切な友人や家族との別れの日が訪れる。数百人、数千人の一族を見送るうちに、マルファスは悲しみすら忘れてしまったように感じ始めていた。

 そんな中で彼が見つけたのは、自らの身を犠牲にしてでも、大切な者たちの生を長らえさせるという方法だった。首を刎ねられ心臓を貫かれようとも死は訪れず、痛覚すら無いのだから、彼らの身代わりになれば良いと考えた。

 

 マルファスが身を挺して庇った者は、或いは跪いて礼を言い、また或いは彼のために涙を流した。

 だがそれらの謝辞は、マルファスにとっては不必要なものだ。彼らを庇ったのはマルファス自身のためであり、護った訳でもなく、ただ長らえさせただけだ。

 死ぬはずだった人間を生かすのは、世界の均衡を著しく崩壊させる可能性がある。それを理解しつつ、彼は自らの罪から目をそらし続けた。

 

 物思いにふける中、不意に代行者の気配を感じ取り、マルファスは顔を上げた。彼がいる王都ガレリオンから北東の彼方に、何者かの気配がある。

 ソウはエレナスとセレスの傍を離れないだろうし、シェイルードは北方にある山岳遺跡にいる。

 

「クルゴスか。しぶとい奴だ。思ったよりも再生が早かったな」

 

 夜の丘に吹き付ける風は、マルファスの呟きを掻き消した。

 彼はゆっくりと立ち上がるとカラスを呼び、夜風の中、北方の峡谷を目指した。

五 ・ エルナ峡谷戦

 

 エルナ峡谷への進撃は、ブラムへの本隊到着後五日目に行われた。

 先遣部隊が偵察と露払いをしていたおかげで、峡谷までの道程はそれほど過酷ではなかったが、前人未到の地で戦線を維持するには多大な労力と資材を必要とした。

 

 峡谷を目視可能な位置に本陣を置き、本隊は斥候を放った。目的地までは遮蔽物もほぼ無く、ちらほらと潅木がある地形を見て、ユーグレオルは一計を案じた。

 敵の増援や主力部隊の確認が出来ない今、砲を用いて峡谷の断崖を崩してしまえば良いと彼は考えた。敵を寸断し進軍を遅らせれば、少ない戦力で掃討可能だ。

 ブラムに備蓄されていた火薬や砲弾もそれなりにあり、被害を最小限に食い止めるために、将軍は砲撃を提案した。だがその作戦立案にシェイローエは難色を見せ、考え込んだ。

 

「地の利を生かして断崖を崩落させ、敵の進路を断つのですね。上策とは存じますが……わたしとしては、なるべく進軍経路を保っておきたいのです。完全に崩すのではなく、敵部隊の寸断程度に抑えたい。どうでしょうか」

「それは後々山岳遺跡へ進攻するため、という事ですね。ですが我が主は、本作戦をもってレニレウス軍を撤退させると明言している。どうするおつもりなのです」

 

 ユーグレオルの疑問も当然だ。峡谷を抜けた先には岩山が連なり、その果てに目的の山岳遺跡がある。

 そこへ到達するには騎馬は勿論、歩兵ですら相当な労苦を伴う。いかに戦力があろうとも、人間には不可能に近い。

 

「ご心配には及びません。峡谷を制圧出来れば、後はわたしどもで始末をつけます。……いつか真実をお話しする日が、来るかも知れませんね」

 

 シェイローエは意味ありげな言葉を残し、作戦本部の天幕を去った。その姿を見送ったのち、将軍は従者に砲撃準備の命令を下した。

 

 

 

 翌日斥候たちにより、本陣に状況の知らせが届いた。

 峡谷を占拠する者たちは最早軍と呼べるようなものでもなく、異界から現れたような異形の怪物の姿をしていると、彼らは口々に述べた。

 そのおぞましさたるや、遠くから一瞥するだけでも怖気立つほど不気味なのだという。また異形たちは、峡谷から一切出ようとせず、周辺と内部をただ往復しているとの話だった。

 

 その報告を聞いた将軍は、遠距離からの一斉砲撃作戦を決断した。ブラムから持ち出された砲台車は十台あり、砲弾も二百ほどある。

 砲が確実に届くぎりぎりの位置から峡谷入り口を狙い、崩落させて峡谷内部と入り口を遮断して戦う策だ。

 峡谷の片側だけを落とせば、ある程度の隙間は残る。敵の増援を抑えれば開けた地形であろうとも問題はない。むしろ潅木程度の障害物しかなければ、騎馬部隊の用途もあるだろう。

 

 将軍は佐官を集め、作戦の概要を伝えた。

 左右に砲をそれぞれ半数ずつ設置し、左側だけを崩落させる。その後分断された敵を全て排除し、現れた増援を倒していく。上手く崩落しなかった場合や増援が止まらなかった時は、右側にある砲で全てを崩落させて敵を閉じ込める作戦だった。

 

「了解致しました。明日、夜明けと共に砲撃を開始致します。その後騎馬部隊を投入し、異形どもを蹴散らして見せましょう」

 

 佐官たちの言葉に、将軍は深く頷いた。

 

 夜が明け、東の空に茜が差すと、同盟国軍による一斉砲撃が開始された。

 野戦砲の吐き出す爆音が轟き、周囲の大気をびりびりと震わせる。その響きは遠く離れた王都ブラムやガレリオンまで届き、聞いた者を不安に陥れた。

 砲撃が開始され規定の砲弾を撃ち尽くした頃、峡谷の左側面が滑り落ちる轟音が鳴り響いた。土煙が舞う中、峡谷左側は予定通り崩落していた。崩落より手前で分断された敵影はおよそ二百から三百で、数千の騎馬を擁している同盟国軍の敵ではなかった。

 

「掃討せよ!」

 

 号令と共に、ローゼルに指揮された騎馬部隊は雄たけびを上げ、分断された敵に襲い掛かった。

 瞬く間に異形たちは槍で突き倒され、或いは首を刎ねられた。立ち込める異臭と血煙が戦場を駆け抜け、馬たちはひどく興奮し、いなないた。

 将軍の読み通り、崩れた峡谷の奥からは、増援といえども数十体ずつしか現れない。異形の屍体を見れば、ねじくれた角を持つヤギの頭や、蛇のような尾、牛の足などがそこかしこに転がっていた。

 

 このような人外が二本足で歩き、獣の腕を振り下ろして襲ってくるなど、悪夢でしかない。

 人同士の戦争とはまた違う不気味さに、誰もが吐き気を催した。この世のどこかに、人の知り得ない存在が棲んでいる。それはいつでも『こちら側』を窺っていて、隙あらば這い出て来ようとしているのかも知れない。

 

 日が傾き始める頃、ようやく掃討戦は終わりを迎えた。

 血生臭さと死臭、そして折り重なる死体の中、どこから現れたとも分からない異形の敵は全て死に絶えた。

 

 一万を越える死体は敵だけではなく、同盟国軍側の死者も相当数見える。

 全体の三割程度ではあるが、そのほとんどが騎馬部隊と歩兵だった。今回の戦闘で将軍は弓兵部隊を一切用いず、砲手だけを使った。それも開幕のみであり、統括する佐官を別個に付けていた。如何に彼がアレリア兵を信頼していなかったかが、密かに窺えた。

 

「将軍。周辺の敵影は全て消失を確認しました。如何致しますか」

 

 ローゼルの報告に将軍は一言、撤退を、と告げた。それを受け彼女は撤退の号令を出し、残存の部隊をまとめ始める。

 そこかしこに転がる屍たちを見やりながら、将軍は黙祷を捧げた。

 彼の主が望んだように、軍全体の被害を抑える事には成功した。それでも国籍を超えた数千に及ぶ兵が、これから生きる者たちの礎となった。

 

「この世に正しい事など、あるのだろうか」

 

 屍たちの只中に佇ずむ騎馬は黄昏を背に、そうひとりごちた。

 

 

 

 宵闇の中、羽ばたく巨大な影があった。

 黒の翼は冷たく風を切り、巨大な山岳遺跡へ影のように舞い降りる。大ガラスの背から降り、マルファスは黒曜石の石床を踏みしめた。

 バルコニーから仰ぐ月は赤黒く、戦場の血を吸い尽くしたようにすら見えた。灯りひとつない廊下を進むと、彼はやがて広いホールへ出た。

 

 ホールの天井は半ば崩れ落ち、中央奥の玉座には人影が見える。

 玉座の更に背後には底知れぬ大穴がぽっかりと口を開け、地獄のあぎとを思わせた。

 崩落しかかっている天井からは絶えず夜風が流れ込み、奈落へ吹き込むごうごうと鳴る音は、怨嗟の声にも似ている。

 

「何の用だ。貴様一人で来るとは。何としてでも私を眠りにつかせようというのか」

 

 玉座から響く冷たい声はホールに木霊し、マルファスの耳を打つ。

 見れば玉座の男――シェイルードは気だるそうにもたれ掛かり、まだ完全に再生してはいないようだった。この状態なら人の手でも倒せる可能性があると彼は踏んだ。

 

「今はまだその時ではない。僕の手でお前を倒しても、また再生してしまうのだからね。だが、お前を唯一葬れるシェイローエがもうすぐここを訪れる。僕はそれを告げに来ただけだよ」

「……まるで告死鳥だな。だがヒトどもに斃される私ではない」

 

 負け惜しみのようにも聞こえる言葉に、マルファスはふと笑みを漏らした。冷たく凄絶な微笑みは、どことなく嬉しそうに見えた。

 

「代行者の完全なる最期……それを『死』と表すなら、望みが叶えば安息を得る事が出来るのさ。自らの望みを叶えた末に眠るのは、至上の幸福かも知れないね?」

 

 シェイルードはマルファスを睨み、呪詛を吐き散らすと掻き消えるように闇の中へ姿を消した。

 一人暗闇に残った彼は、小さく覗く天を仰ぎ見て、ふとため息を漏らした。


 
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