『帝記・北郷:閑話休題・弐~君主であるということ~』
「--以上の案件について、許可をいただきたく存じます」
「ああうん。解った。印鑑押すからちょっと待ってて」
青鸞こと梁習から渡された書類に君主の裁決済みであることを示す印鑑を押していく一刀。
ただ印鑑を押すだけなのだが、それが何十枚とあると誰でも億劫になるというものだ。
ましてや、その前には各書類に目を通しながら説明を受けていたのである。解りやすい青鸞の説明だったから良かったものの、これがそこらの文官になると説明だけで体力も気力も持っていかれてしまう。
実際に、一刀自身案件の半分ほどしか理解していなかったりするのだが……。
「ふう、これでいいかな?」
「ありがとうございます…それで、どれくらい理解できましたか?」
「……半分くらい」
「まあ、昨日に比べて少し増えましたね」
「うう…」
情け容赦ない青鸞の言葉に、ぐうの音も出ない一刀。
見た目は正統派文学少女と言った風なのだが、いかんせん口が悪いのが玉に瑕なのだ、この青鸞という少女は。
「あら、これは失礼。ですが、民の為になりたいという熱意は伝わっていますよ」
「……ありがと」
おまけにこういうフォローを忘れないものだから嫌いにも成れない。
まあ、桂花とも良くやっていた一刀が誰かを嫌うなどということはまず同じ陣営ならばあり得ないだろうが。
「さて、さしあたりこなすべき仕事は一通り終わりました。午後の執務の時間まで、ご自由にお過ごしください」
「解った。青鸞もゆっくりな」
そう言って部屋を去る一刀に、青鸞は一礼して彼を見送った。
恐らくは今日も、眠れる覇王の元に行くのだろう。
しばらく彼が出て行った後の部屋に一人佇みながら、青鸞は窓から流れ込む薫風にひらりと舞った前髪を手で押さえる。
窓の方に目を向ければ、そこに広がるは果てしなき蒼天。
「蒼天…その下、すなわちそれ天下」
この空に限りがないとすれば、いったい天下とはどこまで続いて行くものだろうか。
そしてそこに一人の覇者を生まんとしている自分達の道のりはどれほど遠いのだろうか。
龍志から一刀を大陸の覇者たらしめんという彼の計画を聞いた時、青鸞は我が耳を疑った。
確かに、北郷一刀という人間が生来の徳を携えた一代の傑物であるという事は青鸞も否定はしない。
しかし、覇者とは徳だけで成れるものではない。時にはその名声に穢れをつけることもいとわず、己の目的の為に非情になることなど言うまでもない。
そも、世では覇道に従いその名を残した者を覇者とするが、それは違うと青鸞は思う。真の覇者とは覇道によるのではなく、覇道すら己の道具として扱える人間である。
謂わば、覇道に支配されず覇道を支配するのが覇者なのだ。
その器が、果たしてあの甘さの抜けきれない男にあるのだろうか?
「……考えるだけ無駄ね」
小さく溜息をつき、青鸞は窓に背を向ける。
一刀の覇者としての器は関係ない。ただ自分は少しでもこの天下を安んじる道を模索するのみ。
その為に一刀が役立つ人間ならば、彼の足りない所など自分達が補ってやればいい。
さあ、そういうわけで仕事に戻ろう。訳あってここ数日蒼亀が不在の為、仕事が少しだけ増えている。のんびりしてもなんとかなるが、性分ではない。
彼女が部屋を出た行った後、ただ薫風がふわふわと部屋の中を踊り続けていた。
兗州。その道中にある酒屋。
酒屋と言っても酒しかないわけではない、酒以外で旅人が喉を潤す物や腹を満たすことができる程度の物は揃っている。
その店内で、旅人装束に身をまとった蒼亀は饅頭を頬張りながら白湯を飲んでいた。
「ああ…久しぶりですね。こういう時間も」
しみじみと呟き、ちぎった饅頭を口に運ぶ。
ここ数ヶ月。維新の準備から計画立案、前線指揮、はたまた占領地における当面の統治方針の決定とそれに基づいた法令の制定など、数えきれない仕事をこなしてきた蒼亀にとって、こうした時間は懐かしさすら覚えるものであった。
これに義兄がいれば、彼としては言うことはないのだろうが、残念ながら龍志は兗州攻略の為にあれこれと手を打っているところだ。
「女将さん。白湯をもう一杯いただけますか?」
「はいはい。どうぞどうぞ」
人懐こい笑みをした初老の女将が持ってきた白湯を丁寧に両手で受け取ながら、蒼亀は女将に尋ねた。
「所で、最近この辺に高名な学者が引っ越してきたという話ですが」
「ああ、水鏡先生のことですか?」
「ええ。実は昔少々お世話になったもので、御挨拶をと思ってここまで来たのですが、どこにお住まいかご存じではないでしょうか?」
「はいはい。それでしたらこの道をまっすぐ……」
「なんだこらてめぇ!!」
突然店内に響き渡った男の怒声に、蒼亀と女将は驚いて声のした方を見た。
どうやら大柄な男が二人、小柄な少女二人に気色ばんでいるようである。
「てめぇ…俺の服に白湯をこぼしやがって!どう落とし前つけてくれるんだ!!」
「はわわ…す、すみません」
「すみませんで済むと思ってるのかこらぁ!?」
どうやら、少女が男とぶつかった拍子に手にしていた白湯を服にかけてしまったらしい。
尤も、男二人はどうやらかなり酒が入っているようなのでどちらがぶつかってきたのか怪しいものだが。
「あわわ…朱里ちゃん……」
男に詰め寄られる少女の後ろで、大きな帽子を被った少女がオロオロしていた。
その光景に、蒼亀は深深と溜息をつき。
「はわわにあわわか……変わってませんね二人共」
男達を止めるべく椅子から腰をあげようとした、まさにその時だった。
「まったく…たかが白湯をかけられたくらいでそうも少女二人に怒鳴りかかるとは。大丈夫の風上にも置けん奴らだな」
凛とした女の声が響く。
「何だとこ…痛でえ!!」
男の情けない声に、ついつい蒼亀は吹き出しそうになる。
女に腕をひねり上げられたまま、男は酒屋の外へと連れていかれていった。
「ちょ…待ちやがれこのアマ!!」
しばらく呆然とそれを見ていたもう一人の男が、腰の剣に手をかけながらそれを追いかける。
ヒュン……パキャ
「失礼女将さん、手が滑ってしまいました」
その剣がほんの僅かに鞘から抜かれた瞬間、蒼亀の投げた箸がその隙間に突き刺さっていた。
「しかし、どうも今日は手がよく滑る。次は誰かの眉間などに当たらなければいいのだが……」
「ひいぃ…」
これまた先程の男に負けず劣らず情けない悲鳴を上げて、男は酒屋を飛び出していった。
それを見届け、蒼亀は女将に幾らかの金を差出し。
「これで、彼等の分の代金も払えるでしょうか?」
「いや、それには及ばん」
先程の女が、悠然と酒屋に戻ってきた。
「奴等の酒代はこの通り…って、如月殿!?」
蒼亀の顔を見て、勇ましさもどこへやら、女が素っ頓狂な声を上げた。
「はわわ…雛理ちゃん。麟李(リンリ)ちゃんだよ!!」
「うん…如月さんもいるよ、朱里ちゃん」
絡まれていた二人の少女もこちらへやって来る。
それを見て、蒼亀はふうとまた溜息をつき。
「朱里、雛里、麟李…とりあえず座りなさい。他のお客さんに迷惑です」
臥龍:諸葛孔明
鳳雛:鳳士元
彷麟:徐元直
酔亀:蒼如月
こうして、奇しくもかつて水鏡門下で四霊の化身と呼ばれた四人は再開することとなった。これが後の天下に大きな意味を持ってくるのだが……それはまた別のお話。
「あ、北郷様」
一刀が華琳の部屋への道を急いでいると、ふと声をかけられた。
「やあ、雛菊」
視線をそちらにやると、竹巻を抱えた雛菊がペコリと一礼している。
華琳の身の回りの世話を命じられている彼女だが、今日は一刀の配慮で流琉と交代していた。
というのも、放っておくとこの少女、休みの日もずっと華琳に付きっきりなのである。
「今日は休むように言っていたはずだけど…?」
「はい、ですからこうして書庫から本をお借りして読ませていただいています」
日常のさりげない会話ですら聞く者を落ち着かせる、丁寧な受け答え。
親族を戦乱で失う前まではかなりの名家の令嬢だったと青鸞から聞いているが、ただの侍女とは思えない気品を前にすると納得である。
少なくとも、袁家の御令嬢よりも令嬢らしい。
「北郷様もお疲れ様です。華琳様のところに行かれるおつもりですか?」
「うん。そのつもりだけど」
「そうですか。先程少々お邪魔したところ、楽進様達もいらしていたようですので、ひょっとしたらお会いになられるかもしれませんね」
「凪達が…か」
ふと、一刀は遠くを見るような眼をする。
かつて共に戦場を駆け、街の為に力を尽くした部下達が再び自分の元に来てくれた。
彼女達が維新軍に加わった時の事を、一刀は忘れないだろう……。
決戦を制した維新軍は、魏郡の城に入り戦後処理をしていた。
勝利を治めたとはいえ、維新軍が受けた被害も少ないものではない。孫礼と華雄は軽傷を負っていたし、龍志の左腕が無いのを見た時の一刀の慌てふためき様といったら逆に龍志が慌ててなだめにかかる程であった(その後、元々龍志の左腕が義手だったと知り一刀はホッとすると共にかなり顔を赤くしていたが)。
そうして今、会議場では捕虜への対応が決められていた。
「我が軍に投降した者の内、希望者のみ軍に編入し残りは故郷に帰します。正直、彼ら全ての兵糧を準備するわけにはいきませんし、我が君の徳を知らしめるのには良い機会でしょう」
「敵将は、投降する者は良いですがそうでないものはさしあたり牢に入れておきましょう。今後の事を考えると、下手に処刑するのも禍根を残します」
蒼亀、郭淮といった軍師達の提案に、ときおり質問を挟みながら採決をしていく。
そうして、増えると予想される兵士の兵糧の手配や警備兵の増員などを済ませたところで、最後の議題が蒼亀から提示された。
「これが最後ですが…私が捕えました楽進、李典、于禁の三人への処遇です」
静かだが、会議場内に何とも言えない空気が漂う。
退屈気に居眠りをしかけて華雄に頭をはたかれていた霞も緊張した面持ちで一刀を見つめた。
ここにいる誰もが、三人と一刀の深い関わりを理解している。
それだけでなく、あの三人は今や魏でも屈指の将である。
もしも、投降を受け入れない場合は他の将と同じようにひとまず牢に入れておくというわけにもいかなかった。
「うん……蒼亀さん。ここに三人を連れてきてもらえるかな?」
「畏まりました」
蒼亀が出て行くのを見送りながら、一刀は椅子に深く腰掛けて周りに気付かれないように息を吐いた(一番近くにいた龍志は気付いたようで、痛ましげな表情を浮かべていたが)。
初めて自分の部下として配置された三人の少女。
ある意味では、この世界で初めて会った華琳や春蘭、秋蘭よりも長い時間を過ごしてきた仲間達だ。
出来ることなら、再び共に戦いたい。
しかし、彼女達を自分の我儘に付き合わせて良いのだろうか?
君主として数ヶ月を過ごし、彼なりに気付いた事がある。
それは、思いを背負うということへの責任であり、背負えない思いへのけじめだ。
誰かが自分を主と認め従うならば、自分には彼等の思いを受け取り叶える努力をしなければならない。
逆に、自分に従わずに己の思いを貫かんとするのならばその誇りを汚してはいけない。
そう、時として相手の命を奪うとしても。
「連れてまいりました」
蒼亀の声に、一刀は意識を現実に戻す。
彼と数名の近衛兵に連れられ、後ろ手に縛られた凪達が会議場に連れられてきた。
その姿に、一刀の胸がズキリと痛む。
だが、それを咎めることはしない。上将を遇する扱いを持ち出せば蒼亀は迷うことなく三人の縄を解くだろう。だが、今それは出来ない。
今一刀が三人の縄を解けば、それは個人的な感情によるものと取られても仕方がないだろう。
そしてその姿は、一部の臣への寵愛を容易に連想させる。
駆けだしの維新軍であり君主であるからこそ、公私の区別を明確にして家臣団の統一を計らねばならない。
未だに龍志を君主にしよういう意見も少なくはないのだ。
「………」
目の前に横並びに座らされた三人娘を、一刀はじっと見つめた。
三人娘もまた、一刀を見つめ返す。
その表情は、嬉しいような泣きたいような……何とも判断しがたいものであった。
「……北郷様。我々は席を外しましょう」
何かを察したのか龍志がそんな事を言う。
「ああ、頼む」
「畏まりました。では、四半刻程したら戻ってまいります」
龍志がその旨を伝えるや、家臣団はぞろぞろと会議場を後にした。
その中で霞が心配気にこちらを見たので、頷き返すと安心したように部屋を出た。
残されたのは、一刀と三人娘のみ。
「………」
そして一刀は、おもむろに白狼を抜き放った。
(隊長…何を!?)
腰の刀を抜き払い、こちらへ歩いてくる一刀に凪は息を呑む。
横では、沙和と真桜も凍りついた表情でそれを見ていた。
そんな三人に構うことなく、一刀は凪の横を通り過ぎると彼女達の背後にまわる。
後ろ手に縛られた捕虜、白刃を握り背後に立つ将。
そう、それはさながら処刑の風景。
「た、隊長!!」
たまらず真桜が声を上げた。
だが、一刀は答えることなく白狼の刃で……。
ブツッ
真桜の縄を切った。
「へ?」
呆けた顔で自由になった手を見る真桜に続き、凪、沙和と縄を切っていくと一刀は白狼を鞘に納める。
そうして、何が何だか解らないといった風にこちらを見た三人を。
「………」
「……ひゃ!!」
「……わ!!」
「た、隊長!?」
まとめて抱きしめた。
何も言うことなく、ただ強く強く抱きしめる。
彼女達の存在そのものを抱きしめるかのように。
最初は驚いていた少女達も、すぐに黙って一刀にすがりついた。
「…隊長………」
ポツリと凪が呟く。
「隊長…隊長ぉ~~~!!」
「うわ~ん。隊長なの~~!!」
「この阿呆!!阿呆…阿呆~~!!」
それがきっかけだったかのように、三人は声を上げて泣き始めた。
「………ただいま」
一刀はそれだけ言って、三人を抱きしめ続けた。
「…四半刻ではなく、半刻にするように諸将に伝えておきますか?」
「いや、一刻でも足りないかもしれないな」
会議場の入口で、不遜ながらも四人の様子を伺っていた龍志と蒼亀が優しげな笑みを浮かべそう言う。
「しかしこれで、彼女達も大丈夫だな」
「はい。しかし、予想していたとはいえ魏国中枢の人間が増えてきましたね」
「それもまた、あの方の徳……何はともあれ、これ以上の覗きは無粋というものだ」
「そうですね……」
こうして二人はその場を後にする。
未だに聞こえる嗚咽を背にして。
「…落ち着いたか?」
しばらくして、一刀はそう言いながら三人を抱きしめる手を解いた。
「は、はい」
「何とかな…」
「えぐ…大丈夫なの~」
「そうか」
微笑みを浮かべて、一刀は三人の涙をぬぐっていく。
「……隊長。お話があります」
最後に一刀が沙和の涙をぬぐったのを見て、居住まいを正した凪が決然とした表情で一刀を見た。
「我ら一同、華琳様の命により隊長を…いえ、一刀様の軍門に降ります」
「華琳の命って…どういうこと?」
首を傾げる一刀に、横から真桜と沙和が口を出す。
「大将の命令でな。隊長…一刀様が理由もなく反乱を起こすはずがない。多分、これから起こる乱を抑えるためやろうって」
「だから、もしも一刀様に捕まったら一刀様を助けるように言われたの~」
「そうか、華琳が……」
戦場で見た彼女の姿を思い出す。
王としての威厳にあふれ、それでいて深慮を兼ねた稀代の王。
「やれやれ…どうも風といい華琳といい、敵わない人間が多いな」
苦笑しながら一刀は肩をすくめると、表情を改めて三人を見つめ。
「楽文謙!」
「はい!」
「李曼成!」
「おう!」
「于文則!」
「はいなの!」
「君達の投降を認める…今後も昔と同じように、俺を助けてくれ」
その言葉に、三人は笑みを浮かべながら拱手の礼をとった。
始めて会った時はらしくなかったであろう台詞と振る舞いが、見事に似合うようになっている一刀。
そして、そんな彼を何よりも愛する三人の少女。
北郷隊の物語は形を変えてここに新生した。
(あれから、華琳の話があってこの鄴に侵入したんだったな……)
つい最近のことなのに、ずっと前のことのように思うのはどうしてだろう。
時代が急いでいる。そんな気すらしてくるほどにここしばらくの変化はめまぐるしい。
「北郷様?」
「ああ、ごめんごめん。少し考え事をね」
訝しげな雛菊の声に、笑みを返しながら一刀は答える。
「はう。そ、そうですか……」
その笑みに、頬をぽっと染める雛菊。
「じゃあ、俺は華琳のとこに行くから、雛菊もゆっくりな」
「は、はい。それでは失礼します」
そうして背を向けて歩きだす二人。
いずれこの二人が天下を揺るがす存在になると言う事に気付いていた者は、この時は一人を除いて誰もいなかった。
後書き
何というか…閑話休題が本編よりも苦戦している私は何なんだろう。
前回から存在感を増してきている雛菊です。そして終に徐庶登場。いやぁ、出そうと思った矢先に他の方の作品で徐庶が登場した時にはどうしようかと思いました。とはいえ、雛菊と徐庶は今後の話の上で絶対に外せない二人なので、出させていただきました。雛菊の秘密と徐庶の今後にも注目なさってください。
それから、四霊の話ですが。一応補足しておくと、礼記・礼運篇に記されている四種の瑞獣です。応龍(龍の中でも最高位とされるもの)、鳳凰、麒麟、霊亀の四種からなります。
さて、ここでお知らせですが三日ほどパソを離れることになりましたので、閑話休題の参と第二部は三月初めにアップすることになります。ご了承ください。
では、次の作品でお会いしましょう。
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帝記・北郷、インターバル第二話。
今回は前回と打って変わって龍志はほとんど出てません。一刀…というか一刀の周囲がメインです。
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