私は一歩を踏み出す。
先のわからない未来を恐れて、何もせず、なにもできずに後悔するのはもう嫌だから。
あなたを初めて意識したのは学年が上がって、新しいクラスになったその日。あなたと初めて言葉を交わした瞬間からだった。
「よろしくな」
何の変哲のない言葉だったけれど、あなたの優しげな声とはにかむ表情は堪らなく魅力的だった。
それから、もう半年以上が経っただなんて意識すると信じられなくなる。本当にあなたとの時間は幸せで、あの初めてあなたと話をした日からこの日までが一瞬のような気さえする。
だから、言おう。あなたにこの気持ちを伝えよう。もう抑えきれないほどに溢れるこの気持ちを。
今日、文化祭のあるこの日に。
「無理」
「……え? 」
「っていうかさ、お前自分の顔わかってる? お前みたいなキモイ奴に告られたって嬉しくも何ともねぇんだよ。つーか、むしろ恐怖すら感じるっての。ホントやめてくれよな」
「だ、だって……、よろしくなって……」
「ハァ? 何だそりゃ。お前になんて話しかけるかよ」
「え、え……、そんな」
「とにかくそういうことだから。頼むからヒスったりストーカーになったりするなよ」
「……」
……。
彼は、そう言って去っていきました。
……。
死のう。
いざ書くとなると想像以上に遺書というのは書きやすいものだった。当たり前なのかもしれない。何せ死ぬのだから今更取り繕うものなど何もない。
三ページにわたって『ごめんなさい』を書き連ねた遺書を片手に、私は家から駅五つ分ほど離れた所にある五階建ての廃ビルの前に立っていた。ここは四方を倉庫等の工業関連の施設に囲まれていて、あまり人がやってこない。
見上げると灰色のビルと灰色の空が半ば同化しているようであった。
人に捨てられ、忘れられ、寂しくただそこにあるこの場所が私の死に場所にはふさわしいと思った。
鍵がさびて壊れてしまっているビルの裏口から私の最後を見届けるであろうビルの中に足を踏み入れた。光のない暗い非常用の階段をカツンカツンと音を立てて登っていった。私だけが音を立てるビルの中では、まるで世界に私一人が存在しているかのような錯覚を与えてくれる。
私が死ねば、世界に生き物はいなくなる。
そんな想像をして口元に笑みを浮かべていると、最後の扉、ビルの屋上へと続く扉が私の前に現れた。
しばし深呼吸。
そうして私は屋上へと踏み出した。
ビルの屋上に出た私を最初に迎えたのはひんやりと心地よいそよ風。そして、ビルから見下ろす街の景色だった。髪が風にたなびくに任せて私はその景観を見つめ続けた。空を赤く染める夕日は街もその光で赤く染め上げようとしていた。街の黒い影の部分は赤く染まりきることを街が拒否しているようで、それが街の力強さのように感じた。
きれいだった。ただただ、きれいだった。
街の赤と黒のグラデーション、夕日の眩しさ、空の赤さ、頬を撫でる風、まだ鼻に少し残っている埃っぽいビルの臭いすら、全てが私に対して美しいということを語りかけてくるような、おそらくはどんな画家にだって描き出せない美しさがそこにはあった。
こんな光景を目に焼き付けながら死ねるのなら悔いなんて残らないだろう。自殺に対する呵責も一切湧いてこない。
「いやいや、そこは生きててよかった、って思ってこの場を後にする場面でしょ」
唐突に背後から呆れたようなハスキーボイスが聞こえてきた。それもかなりの至近距離である。
「っ」
まともに声も上げることすらできずにに振り向いた私の瞳はそこに非現実的な存在を映した。
デフォルメされた真っ赤なドラゴン。そうとしか表現できない物体が宙に浮かんでいた。
「はぁ、あれを見れば大体半分くらいの人は帰ってくれるんだけどなぁ」
大きさは一メートルくらいで目線を私に合わせるようにしてプカプカと浮かんでいる。一応は背中に小さな羽根はついているけれど、あれで飛んでいるわけではなさそうだ。
「まぁ、いっか。じゃあ次の手で……」
マスコット的な姿は可愛らしいと言えなくもないのだが、どうにもデザインが微妙でマスコットコンテストに出たら最終選考の手前くらいで落とされそうな感じであった。
そんなことばかり考えていた私の前でドラゴンがピッと四本指の手を振った。瞬間、目の前の非現実を一旦棚上げしてしまうほどの衝撃が私を襲った。
いつの間にか私の頬を撫でていた心地よかった風がよそよそしい北風に変わっていた。同時に、世界が灰色になった。
「……え? 」
ドラゴンを無視して街の方へ振り返った私の目に映ったのは寂れ、疲れ果てたような灰色の街並みと薄暗く空を覆う鬱々としたねずみ色だった。先ほどまで私の目に映っていた鮮やかな世界はどこかに消失してしまっていた。鼻につく埃の臭いに私は顔をしかめた。
「なんで……」
「なんでって、そりゃあ、君がさっきまで見ていた光景は僕の作り出した幻だったからに決まってるじゃないか」
「……」
「そんなのは嘘だと思ったかい? あんな美しいものが誰かの手によって作られたもののはずが無いとか。バカだねぇ。本当に愚かだ」
ドラゴンの声はどこか空々しく、投げやりだった。まるで同じ台詞を何回も繰り返していい加減ウンザリしている、といった様子だった。
「君の感覚は君のものでしかない。君の感情は君のものでしかない。君の感動は君のものでしかない。君の見る色は君のものでしかない。君の聞く音は君のものでしかない。君の嗅ぐ臭いは君のものでしかない。君の味わう料理の味は君のものでしかない。君の感じる感触は君のものでしかない。君がいる世界は君のものでしかない。わかる? 」
ドラゴンの言葉は理解できないほど難しくなかった。けれど納得できるほどに簡単でもなかった。
「まぁ、そんな自己陶酔はどうでもいいんだけどね。僕はただ君にここで自殺して欲しくないんだ。下らない自己表現や自己肯定は他所でやってくれないかな? 」
私が何も言わないのをいい事にドラゴンは言いたい放題言ってくる。
「ここはさ、呪われてるんだよね。君みたいな死にたがりにしか見えないし入れないんだ。でも、誰かがここで死ねばその呪いも解ける。まぁ、寂しがりのキモいおっさんが死に際に懸けた呪いで、要は一緒にあの世に行ってくれる人がいればいいからね。でも僕はここで静かに暮らしたいんだ。この呪いは丁度よくてね、解けて欲しくないんだよ」
正直ドラゴンの話は荒唐無稽で、それに輪をかけるようにドラゴンの存在が荒唐無稽で、信じる信じない以前の話であったが、言いたい事だけはなんとなくわかった。私もそうやって生きようとしていた時期があったから。そういえば、私がああやって内に篭り続けるのをやめたのは彼に出会ったからだった。
「だから帰ってくれないかな? ここで死のうとするのはやめてさ」
……そういえば高校入って友達できたんだったな。中学の頃はそんな人、誰もいなかったのに。
「これでも無理かい? 僕のお願いを聞けないかい?だったら僕は最後の手段を使うよ? いいかい? 」
……私は。
「ぶっちゃけ五階から飛び降りても人ってなかなか死なないんだよね。うっかり生き残っちゃったりしたらどうする? 自殺未遂で病院とかに搬送されて、それとなく噂が広まりだした頃に学校登校とか、耐えられる? 」
「無理ッ、絶対無理‼ 」
なんて、なんて恐ろしい事を言い出すのだろうこの赤トカゲは。さっきまで心の中に生まれていた『死ぬのやめようかな』とかぬるい思いなんて一瞬でぶっ飛んだよ。もう自殺なんてできない。恐ろし過ぎる。まさか自殺にそんな落とし穴があったなんて……。
「うんうん。だよね。じゃあ帰ってくれるよね」
嬉しそうに、楽しそうに、羽をぱたぱたさせるドラゴンを少しの間眺めてから私は訊いた。
「また来ていい? 」
「……いいけど、死のうと思わなきゃビルに入れないよ? 」
そう言ったドラゴンに私は笑顔を向けた。多分、このビルに入るのはそんなに難しくない事なのだろうと思ったから。だって、死にたいなんて今までにも何度も思ってきた。行動に移したのが今回だったっていうだけで。また死にたくなったらこのビルの上に来てこのなんなんだかよくわからないドラゴンにまた自殺を止めてもらおうと、私は思った。だから屋上から去る前に一人ぼっちが大好きでけれどきっと寂しがりやなドラゴンにこう言った。
「じゃあね、また来るから」
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サークル関係で書いたもの。
何がなんだかな小説。