『帝記・北郷:五~彼方の面影:前之壱~』
「おやおや、ようやく来ましたか……」
丘を駆け降りる騎兵の姿を見つめつつ、混乱の曹操軍中にありながら涼しげな風貌を崩さない道服の青年は目を細める。
「り、李斯様!!ここももう持ちません。後方に…ぐがっ!!」
青年の元に駆け寄ってきた兵士が、こめかみに矢を受けて崩れ落ちる。
青年はそれを冷ややかな目で見つめた後、先程の騎兵達に視線を戻す。
「龍と田、遼東軍の旗が自軍の右翼へ行き蜀を迎撃、残りの司馬と法の旗が呉の足止めですか……まだ仕掛ける時ではないようですね。まったく、また左慈が怒ってしまう」
そう呟くと、青年はまるで風に吹き消させる蝋燭のようにその場から消え失せていた。
「せやああ!!」
「ちいっ!!」
維新軍が誇る精鋭騎兵軍団『風林火山』の内、華雄の率いる風の部隊。
維新軍最高の移動速度を誇る彼女の部隊は合戦の冒頭から春蘭隊の背後に回り込み、正面の美琉率いる林の騎馬隊と連携しつつ敵左翼を炒り卵のようにグズグズに崩していた。
その状況に春蘭は正面を副将に任せて、自らが華雄を食い止めるべくその大剣を振るい序盤の一騎討ちの続きを演じていた。
「どうした華雄!斬撃の速度が落ちてきているぞ!!」
「く…そのようなことはない!!」
春蘭の言葉を否定しながら鋭い一撃を繰り出す。
その一撃を春蘭は悠々と大剣で受け止めた。
美貌を悔しさに歪めながら、華雄はちらりと部隊の様子を伺う。
呉蜀の援軍が魏軍後方に現れたことにより、今度は風の部隊が挟撃を受ける形になっていた。
素早く部隊を離脱させようとした華雄だったが、ちょうどその時に春蘭が後方に来た為にその機を逃してしまい、関羽隊と趙雲隊の攻撃を許してしまっている。
「そこにいるは敵将・華雄と見た!!」
突如、華雄の背後から若い女の、だが凄まじい気迫を帯びた声が掛った。
その声に、剛胆で知られる華雄も冷や汗が流れる。
「関羽!!私の邪魔をするか!!」
華雄の背後の関羽に向かい春蘭が吼えた。
「そういうつもりは無い…だが、この混乱を、ひいてはこの戦を制するためにも、不本意ながら我が主の命により助太刀させてもらう」
「…く。だが、確かに華雄一人に手こずっている場合ではない。関羽、助太刀感謝する!!」
斬りかかる春蘭の一撃を鳳嘴刀で受け流し、そのまま華雄は転がるように馬から落ち春蘭の馬の足を払う。
考えての行動ではない、武人の本能の動きであった。
「うわっ!?」
春蘭が馬の鞍を蹴り馬から飛び降りるのと、先程華雄がいた空間を不気味な音をたてて関羽の青龍偃月刀が切り裂くのはほぼ同時だった。
「ほう…流石だな華雄」
赤い馬の上から、黒髪の美将・関羽が鋭い目で華雄を見下ろす。
「………」
華雄は黙って鳳嘴刀を構えなおした。
前には騎乗の関羽、後ろには徒歩の春蘭。
「前門の虎、後門の狼とはよく言ったものだな……」
自嘲気味に笑いながらも、華雄の目は光を失わない。
(一か八か関羽の馬の脚を払い、動揺した関羽を斬り返す刀で夏侯惇を斬る!!)
それは、関羽と夏侯惇という猛将を前にしては雲を掴むような可能性。
しかし、悪戯に時間を重ねてもこの二人を相手にして勝機が見出せるとは思えない。
(龍志様、お館様……私に力を!!)
意を決し、華雄が関羽に斬り込こもうとしたまさにその時。
「華雄!!」
龍志率いる飛龍隊が戦場に乱入してきた。
「貴様は!?」
素早くそちらに向きを変え、龍志と相対する関羽。
それを見るや、華雄は右手を獲物から離す。
刹那、龍志は馬ごと体を横に倒すと関羽の斬撃を掻い潜り左手の槍で馬の脚を断った。
そして馬を起き上がらせながら右手を華雄へと伸ばす。
そして空いた華雄の右腕掴み引き寄せるや否や。
「そおい!」
春蘭めがけて投げた。
「んなっ!?」
鳳嘴刀を振りかざし飛んでくる華雄に驚愕の声をあげながらも、春蘭は大剣をで彼女を防いだ。
ギイィン!!
激しい音と共に、春蘭の腕に痺れが走る。
華雄は激突の反動を使い、くるりと空中で回転するや。
「はっ!」
近くを彷徨っていた愛馬に見事着地した。
両手を広げるポージング付きで。
「「曲芸師か貴様らは!!」」
関羽と春蘭の突っ込みが、混迷を極める戦場に響いた。
一方その頃程昱軍。
華雄隊と同様に魏軍の背後に回り込んでいた風であったが、蜀軍の関羽隊や趙雲隊に比べれば呉の騎兵の速度は遅く、稟の部隊との戦闘を離脱し迎撃の態勢を整えることができた。
稟も風の追跡よりも本陣の護り優先したらしく華琳の元に戻り、さしあたり交戦中の呉軍をどれだけ足止め、消耗できるかが目下のところの風の課題だ。
「しかしまいりましたねぇ~」
眉をひそめ風はぼやく。
尤も、その声は全然困っているようには聞こえなかったが。
「兵隊さんも疲れていますし、状況を打破できるほど勇猛な方もこの軍にはいませんからねぇ……」
寡兵とはいえ、風の統率力ならば孫呉の兵士を足止めすることは難しくない。問題は開戦当初から戦い続けている兵士の疲労が限界に達しつつあるということだ。
勝ち戦の時は兵は疲れを忘れる事が出来る。しかし、新手の呉軍を前にした風の軍勢は士気が確実に下がりつつあった。
「まあ、やるだけやってみますか……」
「あら、随分と余裕なのねぇ」
ぞっとするほど研ぎ澄まされた声が聞こえた。
風がそちらを見ると、血の滴る長剣をだらりと垂らした桃色の髪の美将がこちらを見ている。
「これはこれは…孫策さんではありませんか」
「こんにちは程昱。まさかあなたまで華琳を裏切っているとはね」
顔についた返り血を拭うこともせず、孫策はにこりと微笑んだ。
その姿は凄絶にして妖艶。
風は、孫策が噂で聞く悪い癖を起こしているのだとすぐに察した。
「………」
しかし、狂気の小覇王のお出ましに、風は動じることなく正面から彼女を見据える。
その瞳はいつものように凪の海の如く穏やかであり、そこから感情を読み取ることは孫策にもできなかった。
「まあ、それは色々ありまして~」
「みたいね…どうやら、噂の天の御遣いは本物だったみたいね」
「おやおや、そこまでお察しでしたか」
「まあね、そうでないとあなたがこんな馬鹿げたことに付き合うはずがないもの」
孫策の言葉に、風はむっとしたように眉をひそめた。
「あら?何かしらその眼は」
それを孫策は見咎める。
「いえいえ…江東の小覇王もこの程度かと嘆いたところで……」
ぴくり。と孫策が震える。
ただでさえプライドの高い孫策である。
まして殺業に憑かれた今、どうしてその言葉を聞き流すことが出来ようか。
「あなた、解ってるの?あなたの命はわたしの手の中にあると言っても良いのよ?」
されど態度はあくまで鷹揚に孫策は問う。
その身から発せられる殺意を隠すことなく。
「ええ、解っていますよ」
「そう。ならいいわ」
宝剣・南海覇王を風の喉元に突きつけ孫策は勧告する。
「最初で最後の勧告よ。降れば命は助けてあげる」
一方的なその言葉に、風は何ら感情を示すことなく。
「それはそれはありがたいのですが、残念ながら聞くことはできませんねぇ」
穏やかな声で告げられた明確な拒絶の言葉に、孫策もまた何の感慨もないように風を見ると。
「そう。本当に残念だわ……じゃあ、さよなら」
南海覇王を振り上げる。
風は高く掲げられたその刀身を瞳に移し。
「……くす」
初めて笑うと。
「だって……本人を前に浮気なんてするわけないじゃないですか」
「!!!」
ギィン!!
突如飛来した石を剣で防いだ。
「はああああああああああああ!!」
続けて裂帛の気合と共に襲い来る白き暴風。
「くっ」
石を防いだ体制からではとっさの反応ができず、孫策はその暴風ごと馬から落ちた。
「風!無事か!!」
暴風は受け身を取り立ち上がると、風の元へ急いで駆け付ける。
「遅いのですよお兄さん」
「いやあごめん。ここに来る途中で霞と別れちゃって」
「霞さんは?」
「大将首を盗ったるって言って後ろの方に突っ込んでいったよ。念のため侯成も一緒に付けといた。でも……」
気だるげな動作で身を起こした戦鬼に視線をやり、一刀は白狼を握る手を強くした。
「正直、裏目に出た」
顔の左半分を手で抑え、鋭い目でじっと孫策は二人を見ている。
一刀にはよく見えないが、おそらく額のあたりを切ったのだろう。左腕を伝って滴り落ちる血が雄弁にそれを語る。
「……あなたが北郷一刀?」
「ああ…こうして話すのは董卓連合以来だな」
その答えに孫策はクックと押し殺したような笑いをし。
「そう…そうなの…ならあなたを斬ればこの反乱はここで終わりよね?」
「反乱じゃない、維新だ」
「どっちでもいいわそんなもの……」
左手を放す孫策。
一刀の見立て通り、顔の左半分は血で真っ赤に染められていた。
その凄惨な美しさに、不覚にも一刀は一瞬心を奪われる。
「ふふ…ぞくぞくしてきた……いいわ、久しぶりよこんなに血が昂るのは……!!」
「……そいつはどうも」
白狼を青眼に構える一刀。
孫策は南海覇王をだらりと下げたまま一刀と対峙する。
一刀はそれを見ても動かない。
恐らくはそれが誘いであることは一刀でも見抜くことができる。
多少は腕を上げたと言っても、孫策と一刀の実力差は大きい。本当は誰かの加勢が欲しいところだが、風にそれを望むわけにもいかない。
「……ッ…ダ」
「…ア……キ……」
戦場の喧騒が遠くに聞こえる。
達人の勝負は一瞬で決まる。そこに到る過程こそ様々だが、決着の瞬間はほんの一瞬の気の緩みすら許されない極限の一撃を先にあてた方が勝利するのだ。
「……はあ!!」
先に動いたのは一刀だった。
身を低くして血によって満足に見えない孫策の左側に回り込むように動く。
「…ふ」
しかし、孫策は軽くステップを踏むように足を動かすと南海覇王を恐ろしい速さで一刀めがけて突き出した。
そう、孫策は一刀がこちら側から攻め込むことを見抜いていたのだ。
南海覇王の切っ先が、白狼の切っ先を孫策に向けて両手で右脇に構えた一刀の顔に吸い込まれる……。
「…右脇?」
「お兄さん!!」
微かな違和を感じた孫策だったが、その思考は風の叫びに掻き消された。
しかし、違和は完全には消えない。
それが彼女の生死を分けた。
一刀は左足を軸に思い切り体を捻り孫策の突きを回避する。
彼もまた、孫策の思考を読んでいたのだ。
その際に、ちりっと一刀の頬に痛みが走ったがそんな事を気にしている場合じゃない。
そのまま体を旋回させ、大きく右足を踏み出しながら遠心力たっぷりの渾身の一撃を孫策目掛けて放った。
「!!」
キィン!!
甲高い音をたて、白狼が宙を舞う。
その光景に、一刀は信じられないといった表情を浮かべた。
そう、完璧な一撃だった。
ただ彼がまだ実戦に慣れておらず。完璧に相手を騙す技量が足り無かった事を除けば。
孫策は自分が一刀に乗せられたことに気付くやほぼ反射的に南海覇王を引き、剣の柄頭で白狼の刃を弾くや衝撃をこらえながら手首を返し、白狼の鍔元を渾身の力で叩いたのだ。
恐るべき覇王の才と呼ばざるを得ない。微かな違和を感じほんの少し早く動いていなければ彼女は間違いなく斬られていたであろうし、動いても並大抵の技量では先程説明したような方法で、しかもほぼ無意識に相手の剣を弾くことは出来ないだろう。
結果、両手とはいえ柄頭との激突の衝撃で握りが甘くなっていた一刀はそれにより白狼を弾き飛ばされた。
「くっ!!」
咄嗟に鞘を掴み防御に使おうとするが、それより速く孫策は第二撃を放たんとしている。
それでも一刀は止まらない。気を失いそうな死の恐怖と闘いながら、必死に鞘をとる。
(こんなところで…死ねない!!)
自分を慕う者達のため、自分を信じる者達のため、そして自分の思い描く天下のため。
「これで終わりよ!!」
「!!」
しかし無情にも、鞘を抜く前に孫策の一撃が振り下ろされた。
ギィン
「あらもうご主人様ったら。怯えなくても良いじゃなぁい」
「へ?」
思わず目をつぶっていた一刀が目を開ける。
孫策の剣は、一刀に届くことなく止まっていた。
「く…何者!?」
孫策の声にも焦りの中に戸惑いが見える。
それもそうだろう。一刀だって開いた口がふさがらないのだ。
なんせ、孫策の剣を止めた人間…らしきものが。
紐パンを穿いた筋肉達磨だったのだから。
~前之弐に続く~
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帝記・北郷の続編です。
長くなったので二分割にしています。
あと、アンケート前に構想を固めたので龍志が結構出てきます。
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