風雨に晒されてボロボロになった扉を片手で開ける。入口に付けられた母手製の鐘がシャラン、と鳴り響き、薬草で作られているカラカラに乾いたリースが揺れた。元々窓が少なく夕暮れで暗くなり始めた廊下を、ルフレは小走りで通り抜けていく。
「母さん!見て見て、今日はこんなに摘めたんだよ!」
黒い外套を風呂敷代わりに、沢山摘まれた木の実がルフレの足並みに合わせて跳ねてこぼれ落ちそうになる。しかし早く見せたいという気持ちから、さして気にせず書物をしている母の元へ駆け寄った。
「偉いですね、ルフレ。でも今日はいつもより遅かったわ」
「あのね、沢山なっている場所を見つけたから」
「ダメですよ。日が落ちれば、とても怖い竜が貴方を浚いにきてしまう。昔からそう言っているでしょう?」
「はぁい。ごめんなさい、母さん」
しょんぼりとしながら、ルフレは母の顔色を覗き込もうと視線をあげる。
赤みが増した夕暮れの光に照らされる母は、いつものようにフードをかぶっていた。
そのフードの下をみたい。
だけどどれだけ見つめてみても、彼女の顔は黒インクで塗りつぶされたように、真っ黒で見ることができない。
(母さんって、どんな顔をしていたっけ?)
生まれた時からずっと一緒で、片時も離れたことがないのに。ルフレは母の顔を思い浮かべることができない。そんな馬鹿な、と混乱しながら記憶の引き出しを片っ端から開けて行っても、断片的にすら描けなくて幼い彼女は焦りを感じた。
「母さん、ねえ……母さん?」
黒地に目らしき模様が描かれた、よく見れば不気味な外套を着た母。娘の呼びかけに、彼女はゆっくりと振り返る。
「ルフレ、ダメですよ。ここから出て行っては」
木の実を包み込んだ外套を手放してしまう。赤や紫の実が床に飛び散り、あるものは衝撃に耐え切れず潰れ、古い木床に黒い染みを作った。
夕闇に照らされた母の顔は、相変わらず真っ黒だ。
漆黒に塗りつぶされた、空虚な眼窩がただ見下ろしてくる。そして、呆然としているルフレの元へ倒れ込んでくる。
母が、母を構成していたものが目の前で崩れていった。
乾いた音を立てて、外套の下には骨の山が築かれていく。
「か……さ、ん……?」
木の実を踏み潰し、母だったものに触れる。
そしてその硬質な感触に、ルフレは叫んだ。
暗闇が支配しつつある小さな家で、独りきり。
「ルフレがまだ起きてこない?」
「ええ、姿をまだ見かけていないのです。特に出かけられているというお話も聞きませんし、クロム様なら何かご存知かと」
「いや、俺も今日はまだ見ていないが……」
ある日の自警団アジトでの事。フレデリクの報告に、クロムは首を傾げて答えて見せた。
ルフレは基本的に朝早い。クロムが朝の日課である鍛錬をはじめる頃には、皆の体調を見て回り、武器庫の補充具合、必要物資の買い出しリストの作成等忙しなく走り回っている位だ。
夜は夜でいつも遅いのだから、寝坊したならしたでゆっくりさせておいた方が彼女の為にもいいかもしれない。しかし流石にもうじき朝食を片付け始める時間だ。もしかしたら体調を崩して動けない可能性もある。
「わかった、俺が様子を見てくる」
「有難うございます。折角ですし、ルフレさんの仕事はある程度皆に分担して引き継がせて頂きます」
「助かる、頼むぞフレデリク」
フレデリクに手を上げて礼を言えば、深々と頭を垂れることで主君に応えた。いつもは剣術の鍛錬で容赦なくルフレを弾き飛ばす彼ではあるが、彼なりにルフレを心配しているのは伝わってくる。最初は彼女を疑っていたのが嘘のようだ。
フレデリクの厚意に甘えさせた方がいいだろう。遠征への長い旅路、そして新しく軍に加入してきた個性豊かなルキナを筆頭とする子供達との調和と策の調整。皆忙しいが、ルフレはその中でもなんでも自分でやろうと抱え込んでしまい、息を付く間もなく動き回っているのだ。
きっと起こせばルフレは慌てて仕事をしようと飛び出そうとするのだろう。折角の機会だ、今日一日は皆に任せて身体を休めて欲しい。そして何もかも背負わなくてもこの軍は回っていくことを教えてやるのだ。
「ルフレ、いるか?俺だ」
一応ノックはしてみたが、返事はない。熟睡しているのか、あるいは体調を崩しているのか。まさかとは思うが、無断で外出しているのか……ルフレに限ってそれはないだろう。
ためらいなくクロムはドアノブを引く。鍵はかかっていないことに安堵し、妻の姿を探した。
「……?」
寝台の膨らみを見て安堵仕掛けるも、違和感に気づきクロムは眉を顰める。
シーツを被ったその山が、どうにも小さすぎる気がする。しかし確かにルフレの気配はするのだ。
「起きろ。もう昼になってしまうぞ」
声をかけてみればもぞり、と動くそれ。しかしどうにも違和感を拭えず、クロムは床に落ちている本を踏まないよう慎重に近づいた。
「ルフレ、か……?」
漏れ出た呻き声が妙に高く感じて、眠りから覚めつつあるそれのシーツを思わず掴む。
するり、と剥がされたシーツから現れたのは、妻の姿ではなかった。
ノノかンンくらいの年頃の少女が、寝台の上に横たわっている。しかしブカブカでありながらも着ている服はすっかり見慣れたルフレの寝衣であり、髪の色も顔立ちも何処か彼女に面影がある。窓から差し込む日光が眩しかったのか、或いは温もりを失った為か。瞼がひくり、と動き少女はまた小さな声を上げた。
思わぬ展開に呆気に取られて言葉も出ず、クロムは固唾を呑んで少女が目覚めるその時を待った。
薄く開かれた瞳の色は、妻と同じ琥珀色だった。あどけない顔立ちの為かマークによく似ているその双眸は、起き抜けの為か焦点を結んでいない。よく磨かれた水晶のように、ただクロムの影を映しているだけであった。
「ルフレ、お前なのか?」
目を擦りまだ眠そうにしている少女に、恐る恐る問いかけてみる。ぼんやりとした表情で欠伸をしかけた彼女が口を塞ぐ。布ずれの音が、静かな室内でやけに響いた。
「お兄さん、誰ですか?どうして、私の名前を?」
怯えを含んだ瞳が向けられる。慌てて身体を起こし、キョロキョロと周囲を伺うと、彼女は肩までずるけた服をかき抱くようにして縮こまってしまった。
「こ、ここは何処ですか?母さん、母さんは……?」
まるで警戒する小動物のように怯える少女に、クロムは再び言葉を失ってしまう。
ルフレという名は同じ。しかし、目の前にいる彼女は初めてあったかのように反応し、明らかに恐れている。人攫いにでも思われているのかもしれない。
「父さん、母さんはいましたかー?」
「お父様、お母様の様子はどうでしょうか」
寝台の隅でうずくまる少女を前にどうしたものか、と真っ白になった思考をなんとか巡らせていると背後から子供たちの声が聞こえた。賑やかに入ってきたものの、クロム達の様子を見て彼らは口をつぐんでしまう。
「えっと……お父様?これは一体」
「その子、誰ですか?」
こっちが聞きたいくらいだ。溜息をつきかけ、クロムは横目で妻によく似た少女をチラリと見る。ルキナ達に気を取られていたようだが、視線に気づくと彼女はビクリと肩を跳ねさせた。子兎のように小さく震えている姿に、完全に怯えられてしまったのか、そんなに自分は怖い顔をしていただろうかとクロムは肩を落とした。
「ルフレさん、今から珍しい色の炎を起こしてみせるよ!……これをミリエルさんに言われた金属につけてみて、えいっ」
「わぁ、スゴイですリヒトさん!こんな緑色の火、初めて見ました!!」
「リヒトすごーい!おいしそうな色ー!」
「でも、戦いには何の役には立たないのです……」
「ンンさん、そんなことないですよ~。もしかしたらこれで悪魔が出たーって敵を攪乱できるかもしれません!」
はしゃぐ子供達の輪に混ざり、目を輝かせているルフレが窓の向こうに見えた。
素養のある子供達が魔術の訓練をしていた時に着ていた服を借り、リヒトの実験を見ている姿は一見すれば魔道士見習いの微笑ましい姿である。だが、元の姿を知っている身としてはどうも落ち着かない。
皺がよってしまいそうになる眉間を指で押さえ、クロムは室内へと目線を戻す。よく晴れた日だというのに、この室内だけ何故か陰気に感じるのは、恐らくこの黒髪と銀髪の闇魔術師達が醸し出す気配のせいだろう。
「ええ、そうよ……彼女は紛れもないルフレよ」
「ちょっとタチの悪い呪いかけられちゃったんだね~。記憶も子供時代のものになっちゃったみたいだよ~。すぐ死ぬような呪いじゃないからよかったねぇ、クロム」
サーリャ達の答えに、安堵半分不安半分の気持ちでクロムは「そうか」とだけ答える。
二人の話ではどうやら昨夜、自警団のアジトを狙って広範囲の闇魔術が展開されたらしい。それは健常な精神の持ち主には全く効果のないものであるが、心の弱さ、脆さをさらけ出している者には作用するらしい。ルフレはここ最近忙しさと、屍島で判明した真実……ファウダーの娘であることでかなり追い詰められていたのかもしれない、と歯噛みする。
――どうして一番近しい自分が気付いてやれなかったのだろう。半身として、そして夫として。
「うっわ~、クロムすごい顔してるよ~?」
「大方自分のせいで、とでも思ってるんでしょ……ふん、ルフレは考えているよりもずっと繊細よ。あなたが思いつくようなわかりやすい要因で、あの人がこんな呪いにかかるわけないわ」
「それは、慰めているつもりなのか?」
「あなたを慰める理由が、私にあると思う?」
サーリャの鴉羽のように黒い瞳でじっとりと睨まれ、慌てて視線を逸らした。理由はわからないが、彼女はルフレに執着しているようでクロムに対する風当たりは妙に強い。相変わらず能天気そうに笑っているヘンリーと共に、頼りにはなるのだがまだ扱いに慣れていないのだ。ああみえても根は優しいんですよ、とルフレが言っていたことを思い返しながらクロムは話題を戻そうと咳払いする。
「どうやったら、元の姿に戻る?」
「呪い自体を解くのは簡単だよ~王子様がキスすればいいんだからねぇ」
「……は?」
「あ~、ふざけてるなって顔してる!本当だよ、ね~サーリャ!」
「ええ、悔しいことに本当よ……でも、ヘンリーがいう程簡単な話ではないわ」
「そ~かな~、まあ僕達が解くよりは簡単だと思うんだけど」
「ま、待ってくれ。どういう意味なんだ」
鬱陶しそうに髪をかきあげるサーリャと、何が楽しいのか笑うヘンリーに慌てて問う。黒魔術師達は顔を見合わせると魔術に疎いクロムにもわかりやすく、噛み砕いて説明してくれた。
「呪いは人を強く想うことに似ているのよ。それは憎悪だろうと愛情だろうと、捧げる想いが強ければ強いほど威力を増すわ。ルフレはある特定の負の感情に晒されて、その身体を変質させられてしまった……普通の呪いならば私達で簡単に呪い返しできるけど、今回の呪いは特殊なの」
「特殊?」
「皆が簡単にかかるような呪いならね、呪った相手を殺しちゃえばちょいちょいっと解呪できるんだけど~。今回は無理に呪い返して殺しちゃうと、ルフレは一生あの姿のままだよ~!アハハ、クロムがあの姿のままでもいいっていうなら、な~んの問題もない呪いだよ!面白いこと考えたよね~!」
「面白いわけないわ……今のルフレは、何かに囚われてあの姿になっている。ルフレが今の記憶を取り戻さなければさらに若返って行き、次第に消滅してしまう。それだけは、絶対許さない……」
「なっ」
奥歯を噛み砕いてしまいそうな顔したサーリャの言葉に愕然とした。
ルフレが、消滅?
窓の外から聞こえる子供たちの歓声が、愕然としているクロムの頭の中に響いた。
「それをなんとかするのが、悔しいことにあなただけって言っているのよ。気を確かに持ちなさい」
ピシャリと言い放たれた言葉に、よろめきそうになった足をなんとか留まらせる。
そうだ、二人は呪いを解く方法があると言っていた。それをまだ聞いていないと、クロムはきっ、と視線を上げた。
「負の呪いに打ち勝つには、正の呪いをぶつければいい……例えば、互いを強く想い惹かれあう感情。それをルフレと交わせばいいの」
「それが王子様のキスってことだよ~。ね、僕ふざけてなんかいないでしょ?」
「だからっと言って、無理矢理しても呪いは解けないわ。いくらあなたとルフレが夫婦だからって、今のあの子には関係ない。あの子は軍師でもあなたの半身でもない、ただのルフレという名の女の子。それはあなたも体験しているでしょう?」
サーリャのジロリ、と向けられた視線に、クロムは苦々しげに頷いて見せた。
確かに今朝起こしに行った時、見知らぬ大人ということでルフレから怯えられてしまった。今はルキナ達の手で誤解は解かれているものの、やはり警戒されているようで少し距離を取られている。
無理もない、クロムからしてみれば姿は変われども妻であるが、現在の記憶がないルフレからしてみれば見知らぬ他人なのだ。それも愛想がないものだから、子供に恐れられても仕方がない。
とはいえ、ソールやヴェイクには懐いている姿を見ると少なからずショックを受けている自分もいる。
「今の俺に出来るのか……?」
「ふん、あなたが出来ないならば他がやればいいだけ。試しにヘンリー、あなたやってみる?」
「駄目だ。それだけは絶対駄目だ」
「冗談に決まっているじゃない。あなたにルフレを触れさせるのも本当は嫌だけど、ルフレはあなたを選んだ。だから、あなたがやりなさい。もし元に戻せなかったら、私があなたを呪うから……」
「アッハハ~クロム、頑張ってね~!今は忘れていてもルフレはルフレだから、きっと何処かで覚えてるよ~!」
相変わらず励ましているのかわかりにくい二人だが、それでも希望の糸口を教えてくれた。
クロムは二人にしっかりと頷き返す。
記憶がなくともクロムはルフレを愛していることに変わりはない。それにヘンリーの言う通り、ルフレの根底ではきっと今まで築いてきた絆が残っていると信じているのだ。
(それに、俺とお前ならば新たな絆を構築できるはずだ)
窓の外で色とりどりにちらつく光の中、笑顔のルフレを見る。
――絶対に、お前を消させはしない。
誓いを新たにし、クロムは「有難う」と物陰に佇む二人に振り返った。
リヒトの魔術実験は、偶然通りかかったミリエルとロランを交えて大盛況のうちに終わった。
最初は子供向けの初級魔法や雑学中心だったはずが、どんどん魔術理論が白熱していってしまった。やがてルキナでもよくわからない複雑な授業になってしまい、途中でノノが眠りだす始末であった。それでもルフレは目を輝かせ、時折何かを紙に書き込み「これ、何かの戦術にいかせませんでしょうか」とマークと共に意見していた。子供の姿とは言え、母は母に変わりないのだろう……幼い姿に不安を抱いていたルキナだったが、皆に混じり発言するルフレに安堵する。
少し遅い夕食を取りに行こうと、リヒト達と一旦別れ自警団の廊下をマークと並んで歩いていた。
(それにしてもまさか、お母様が姉のように慕って下さる日が来るとは……)
子供の扱いはマークやウード、そして自分達より年下である幼馴染を相手にしていたから慣れていた。ルフレもルキナにはすっかりと懐いてくれたようで、今もこうして手を繋いでいる。
「ここは気に入ってくれましたか?」
「はい、ルキナさん!軍人さん達って聞いてちょっと怖かったけど、ここの人はみんな良い人で……!歳が近い子もいて私、嬉しいです」
「かあさ……ごほん。ルフレさんの周りには、あんまり同い年くらいの子はいなかったんですか?」
「はい。山の中で母さんと二人で暮らしていたから。たまに近くの村に行くことはあったけど、こうして話す子はあまりいなかったんです」
「そうなのですか」
「だから、友達が沢山出来て嬉しいんです!……あ、私ったらはしゃぎすぎて、迷惑をおかけしていませんでしたか?」
心配そうに見上げてくるルフレに、ルキナとマークは揃って頭を振った。
「そんなことないですよー、ルフレさんがはしゃぎすぎっていうなら、僕なんかとっくにここから追い出されていますって!」
「マーク、貴方はもう少し落ち着きを持ちなさい。……お母さ、いえルフレさん。いきなりここにいて戸惑っているでしょうけど、心配しなくていいのですよ。ここにいる人は貴方を迷惑になんて思いません。ここにはいろんな事情で、いろんな国の人が集まっているのですから」
「ルキナさん、マークさん……有難うございます!」
頬を赤くしペコリ、と頭を下げる少女に自然と口元が綻ぶ。
見た目こそマークにそことなく似ているが、気遣いがよく出来る所は紛れもなく母だ。
マークと顔を見合わせ笑い合うと、ルフレがキョトンとした顔でこちらを見ていることに気づき首を傾げてみせる。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。こんなこというのは、失礼かもしれませんけど。ルキナさんって、母さんみたいだなって」
「え?お姉さんではなくてですか?」
「はい。ルキナさん達といるとなんというか、あったかい気持ちになるんです。私、兄弟がいないから、お姉さんっていうよりも母さんみたいで……」
恥ずかしそうに目を瞬かせながら手をギュッと握ってくるルフレに、ルキナは思わず目を丸くした。まさか母に「母みたい」と言われるとは。だが父クロムも母親が早世した為に、伯母エメリナを母代わりにしていたと聞いたことがあるから不思議な話ではないのかもしれない。
「あはは!ルキナさんもだんだん母さんに似て、所帯じみてきたのかもしれませんね!」
「マーク、それはどういう意味ですか……」
「わぁー、そんな睨まないでよ!お母さんにしたい人ランキング上位の母さんに失礼じゃないですかぁ!……ってあれ、ルフレさん?」
マークの軽口を小突くことで返そうとすると、小さな掌からの力が加わり不思議に思い振り返る。先程まで明るい顔をしていたルフレが、なにか思いつめた顔で俯いていた。
「あれ、私……」
「ルフレさん?どうかしました」
夕暮れ色に染まった廊下、窓の外から鴉の鳴き声が聞こえる。
「私、母さんと一緒に薬草つんだり、戦術教わったりしていたのに、どうして……」
ルフレの手が震える。彼女の異変に気づき、マークが「どうしたんですか?」と肩を揺さぶるもまるで聞こえていないようだった。
「ずっと一緒だったのに…なんで、母さんの顔……思い出せないの?」
救いを求めるようにルキナに向けられた琥珀色の瞳は、一体誰を映しているのだろうか?
あれだけ血色の良かった頬を蒼白にし、唇を震わす少女。足をもつれさせた彼女を慌てて抱き止める。カタカタと震えるルフレを抱き上げ安心させるよう背を撫でると、ルキナは弟に目配せし、彼とは逆の方向へ走っていった。
「ルフレの容態はどうだ、ルキナ?」
「はい、大分落ち着いて来たみたいです。ですが、やっぱり暗い所が怖いみたいで……」
「そうか、大変だったな」
娘の頭を労わるように優しく撫でると、彼女は照れたように首を竦めた。「あー、僕にもやってくださいよー」と文句を言う息子を無視し、クロムは妻がいるだろう扉の向こうを見つめる。
「お前たち、まだ飯を食ってないだろう?俺がルフレに付いていてやるから行ってこい」
「え、でも父さん大丈夫?」
「俺だってリズの相手をしてきたんだ。さっきは驚かせてしまったが、今度は上手くやってみせるさ。……それに、俺があいつをなんとかしないといけないからな」
「?お父様、今なんて」
「なんでもない。ともかく行ってくるんだ。今日は助かった、有難う」
有難うと微笑んで見せれば、姉弟は少しだけ心配そうな顔をした。しかしすぐに頷くと、自分似の藍髪を揺らして食堂への道へ足を進める。
(まさかキスをしたら解ける呪いなんて、あいつらには言えないからな)
クロムは溜息をつきながら彼らの姿が闇に消えるのを見届けると、意を決してドアノブに手をかける。また怖がられてしまったら、と一瞬緊張したが、それでも自分は考えるよりも行動するしかないと思い直し扉を開けた。
「ルフレ、体調はどうだ?」
いつものぶっきらぼうさを隠し、なるべく優しい声音で語りかける。
ルフレは寝台に腰掛け、カンテラの傍で本を読んでいた。その姿を見てやっぱりルフレだ、と目尻を緩めると彼女が顔を上げる。
「クロムさん……ですか?」
「ああ、朝は驚かしてすまなかった」
「いいんです、私こそごめんなさい。むしろびっくりさせてしまったのは私の方ですよね」
奥さんの部屋で同じ名前の子が寝ていたら、びっくりしちゃいますよね。
そう悪戯っぽく笑うと、ルフレは本を閉じて向き直った。机の椅子を引き寄せ、クロムも腰掛ける。
「いや、いいんだ。何か食えるか?果物かパンかしか持ってきてないんだが」
「有難うございます、いただきます……クロムさんって、イーリスの王様なんですよね?」
「正式にはまだ聖王代理、だがな」
「じゃあまだ王子様なんですか?ふふ、なんだか物語の王子様と全然違う」
「はは、よく言われるよ。王子らしくないって」
「あ、あのそういう意味じゃなくてですね!王子様って、もっと手に届かない存在みたいで、偉そうなんじゃないかって思っていたんです! でもルキナさんから聞いたのですが、クロムさんは偉い人とは思えないくらい、皆さんのことを気にかけてくださっています。私みたいな平民の子供にこうして食べ物を持ってきてくれるし」
「……ルキナ、あいつは一体何を話したんだ」
やや自分を美化しすぎているきらいがある娘のことだ、相当加飾されているのだろう。少し恥ずかしくなって顎を掻けば、あたふたとしていたルフレが花を綻ばせたかのように笑った。その笑顔に、妻の幼い頃に想いを馳せて目を細める。こうしていると、とても将来稀代の軍師と呼ばれるような姿に見えない。記憶がないから聞きようもなかったが、彼女にもこんな時代があったのかと、また一つルフレのことを知れたことが不謹慎ながら嬉しく感じた。
緊張はすっかり解けたようで、食事を取りながらルフレと和やかに語り合った。リヒト達と実験していたこと、リズに悪戯されたこと、マークの冗談がおかしいこと、ルキナが母のように見えたこと。何気ない日常の会話を嬉しそうに語るルフレは妻の姿というよりも、もう一人娘が出来たようでクロムの心も解かしていく。マークの次は女の子がいい。そんな早すぎる算段を立てながらふと窓の外を見ると、星が瞬き始めていた。
いくらルフレとはいえ、今は子供の姿。あまり夜ふかしさせるわけにはいかない。この調子で絆を深めていけば、いつかは口づけを許してもらえるだろう。
「ああ、長居してすまなかった。今日はもう寝ろ、歯磨きを忘れるなよ」
立ち上がり、ルフレの頭を撫でる。いつも触れている妻の髪より少しだけ柔らかい。それが心地よく、クロムは口角を上げて手を離そうとした。が、彼女に背を向けようとしかけた時手袋の裾をそっと掴まれた。
「ルフレ?」
振り返ると、それまで和やかに笑っていたルフレが不安そうにこちらを見つめていた。カンテラの光に、濡らした琥珀のような瞳が輝き揺れる。
「どうした?まだ体調が悪いのか?」
「あの……こんなこと言っても、困ると思います……けど、その……」
寝台が広く感じるのは、傍らで寝るルフレがいつも抱いている時より小さい為か。
カンテラをつけたままの部屋で、クロムは縮こまる少女の背中を見つめた。
事情を知らない者に見られたら、「軍主は幼い少女を愛好する趣味がある」とでも言われてしまいそうな光景だが仕方ない。それに彼女は縮んでこそいるがれっきとしたクロムの妻だ。いや妻だからって、この姿、それも子供の頃の記憶しかない彼女に手を出す気はさらさらないが。
「ごめんなさい、こんな歳なのに一緒に寝て欲しいなんて」
「いや、構わない。誰だって怖いものの一つや二つあるだろう?でもルキナやマークじゃなくていのか?」
ルキナ、という言葉に反応したのかシーツにくるまれていたルフレの身体がピクリと動く。
あんなに懐いていたのに、どうしたのだろうか。疑問に思いつつ彼女の小さな背中から目線をそらさずにいると、少女が小声で呟いた。
「ルキナさんと寝ると、母さん思い出してしまいそうだから」
「そう、なのか?」
「はい。変な話ですけど、私……母さんとの思い出はあるのに、顔が思い出せないんです。そこだけ真っ黒なんです。だから、これ以上母さんのこと思い返しちゃうと考えると、怖くて」
気丈だったルフレの語尾が震えている。すかさず彼女の背を撫で、「もう何も言うな」と声をかけた。
心の弱さ、脆さが露呈した瞬間にかかる呪いだと聞いたが、もしかしたら昨夜のルフレは何かの弾みで過去を思い出しかけたのかもしれない。暗闇や一人を異常に怖がるのも、きっと子供の姿だからという理由だけではないのだろう。
「マークだって、おまえ……あ、いや、自分の母親のことはよく覚えていたけど、父親である俺のことは綺麗さっぱり覚えてなかったんだ。不思議なことじゃない」
「でも、大好きだったんです……なのに、顔がないんです。きっと、ルキナさんみたいに笑いかけてくれたのに。これなら、最初から全部覚えてなかったほうが良かった……」
シーツが強く掴まれる。それまでルフレも子供の頃は母親と人並みの幸せを享受していたのだろう、と推測していたが、きっと何かあったのだろう。それも、悲しいことが。
街や村を通りかかった時、家族連れを見て時折辛そうな顔をしているルフレを見たことがある。どうしたのか、と問えば自分でも不思議そうな顔をしてみせた。記憶を失っても、母との辛い記憶が根底にこびりついていたのかもしれない、と推測しクロムは手を伸ばした。
「そんなことない、忘れられるとは辛いことだ。お前の母さんにも……きっと、お前自身も」
両腕に余るくらいに小さくなったルフレを抱きしめる。彼女は少しだけ身体を強ばらせたが、抵抗もせずにおさまっていた。
「大事だったからこそ、辛いんだろう?俺にもわかる、無理に思い出す必要はない。だが……忘れるなんて、言わないでくれ」
ペレジアの処刑場で、姉が飛び降りる姿を思い返しながら、クロムは少女の身体を強く抱きしめた。
世界で一番大事だった人。敵国民の憎しみすら受け止めて、姉は砂の彼方へ消えてしまった。
今でも悪夢に見て、その度力がなかった自身を悔やんだ。時には涙する時もある。
だからといって、この記憶を忘れたいとは思わない。
立ち上がるまで支え、平和な未来を築こうとついてきてくれる仲間がいたから。
――そして、手を握ってくれたルフレがいたから。
「クロムさん……」
少女の戸惑った声に、クロムはいつの間にか閉じていた瞼を開いた。
背中越しに抱いていたはずのルフレがこちらを見ている。クロムが知る妻よりもあどけなく、無垢な瞳。
しまった、と慌てて彼女から手を引く。彼女はルフレではあるが自分の妻であるルフレではないのだ。事情も知らず、仲良くなったばかりの男に抱きしめられても戸惑うだけだろう。
「す、すまない。俺としたことが、つい」
「い、いえ!」
いつも強引だ、と叱られているというのに情けない。場合によっては大声を出されるような行為だったかもしれないと青ざめていると、対照的にルフレは少しだけ頬を赤らめシーツの中に潜り込んでしまった。そしてあたふたとしているクロムを尻目にポツリと呟く。
「不思議です、クロムさんとは会ったばかりのはずなのに……凄く、安心するんです」
「それは、兄や父親という意味か?ならよかった」
「えっと、違うんです。その……」
もじもじと指を回している少女の動向を、目を丸くして見つめる。
ルフレはしばらく言うか言うまいか考えていたようだが、やがてシーツから少しだけ顔を出してクロムの顔を見上げてきた。
「私、父さんや兄さんがいないから、そういう気持ちがわからないだけなのかもしれませんが……多分、兄さんと言えばマークさんなんじゃないかなって思うんです。クロムさんには、その、また違った気持ちというか」
「ルフレ?」
「あ、あのクロムさん!クロムさんには奥さんもいるらしいですから、何言っているんだこの小娘ってなるかもしれません。けど……、私がもう少し大きくなったら、いつかちゃんと言わせてください」
顔を真っ赤にしてそう告げるルフレの顔が、初めて想いを通わせあった時と重なりあって見えた。
どうしようもない愛しさがこみ上げてくる。彼女は子供なんだ、と止めようとしても壁が崩されたかのように、果実のようにぷっくりと膨らんだ唇から視線が逸らせないでいた。
「って、私ったら何を言って……く、クロムさん、灯りを消させてください!クロムさんのお陰で、私暗くても平気にっ」
しどろもどろになりながら机の上にあるカンテラを消そうと手を伸ばすルフレの身体を再び抱きしめた。そしてそのまま優しく寝台に押し付ける。子供の姿の為か、シーツにいつもより少し色素の薄い彼女の髪が散らばった。
「待たない。……俺はお前が子供の姿だって、俺の記憶を失くしたって。愛しているんだ、ルフレ」
そしてそのまま、突然の行動に動けないでいるルフレに口づける。
次の瞬間、カンテラの火が消えてしまう程の勢いで魔力が放出された。闇色の本流に思わず目を塞ぐも、魔法陣の渦中にいるルフレの肢体を離さぬよう、強く強く抱きしめる。
吹き荒れる風の音の中、本が捲れる音や書類ががパサパサと床に落ちていく音が遠くに聞こえた。
「あ、れ……クロムさん?」
月明かりが差し込む室内。再び訪れた静寂に気づかされ薄く目を開けば、青白い光の下で柔らかなラインがシーツの海に見えた。クロムの胸に触れているのも、子供特有の柔らかさとはまた違った肉感。視線を下ろせば、破けた夜着から白く膨らんだ胸が覗いている。
「ルフレ!元の姿に戻ったのか」
「元……?一体、何の話でしょうか。あれ、今日は一人で寝ていたはずなんですけど……」
クロムが腕の中に抱いているのは先程までいた少女ではない。よく知る妻でありイーリスの軍師、ルフレであった。彼女は戸惑うようにキョロキョロと視線を動かし、呑気そうに伸びをする。
「……今日の記憶がない、ということか?」
「へ?今日って、私ベッドに入ったばかりじゃ……う、頭が痛いです」
「いや、いいんだ。お前が無事なら、それで」
幾度となく愛した肢体を再び強く抱き竦めると、ルフレは不可解そうに首を傾げてみせた。
しかし夫の抱擁を受け、満更でもなさそうな顔でクロムの背に腕を回す。
「……なんだかよくわからないですけど、長い夢を見ていたような気がします。最初は怖い夢をみていたような……でもルキナがお母さんで、マークがお兄さんな面白い夢のせいか、そんなに夢見が悪い気はしませんね」
「はは、それはおかしいな。俺はなんだった?」
「クロムさんはですね……いえ、なんでもありません」
少女の姿の時と同じように目を潤ませ、恥ずかしそうに視線を背ける妻。大人になっても可愛らしいところがある彼女に小さく笑みを浮かべると、髪を撫で上げ額に口づけをした。
「クロムさん、どうしたんですか?今日はいつにも増して優しいですね」
「そうか?俺はいつだって優しいだろ」
「自分で言いますか、もう」
彼女に軽く額を指で弾かれ、クロムが苦笑してみせると彼女も笑ってくれた。
寝台の上でもつれ合い、今度はルフレから口づけされようとするその時だった。
「父さん母さ、ルフレさんの様子はどうですかー?」
「遅い時間にごめんなさい、でもどうしても気になって……」
突如開けられた扉、そして寝台上の両親を見てそれまで浮かべていた笑顔そのままに凍りつく子供達。
ルフレは元々着ていた子供用の夜着が千切れ、裸に近い格好だった。クロムこそ服を着ていたものの、妻を押し倒してじゃれあっているままの態勢である。
「あれ、母さん元にもど……」
「ご、ごごごごめんなさいお父様お母様!!私達は何も見ていません!!!見ていませんから!!!」
ルフレが顔を蒼白にさせクロムを押しのけるよりも早く、ルキナが疾風のごとくマークの襟首を掴んで扉をバタンと締めた。電光石火の早業に、二人してポカンと開いた口のまま閉ざされた扉を見つめる。
そして、一足先に我に返ったらしいルフレが茹で蛸のように顔を赤くし、枕をクロムの顔面に叩きつけてきた。
「うおっ!?ルフレ、いきなり何をするんだ!!」
「それはこっちのセリフです!!!クロムさん、この際部屋に忍び込んだことは目を瞑ります……でも鍵くらい締めてくださいって私、何度も言いましたよねぇ!?」
「ご、誤解だルフレ、これには理由がっ」
「それにまた、服をこんなにもビリビリに裂いて!!衣服だって貴重な物資なんですからねっ!!!」
「だから、それには理由が……!」
「言い訳は聞き苦しいですーっ!」
真夜中、突如起きた夫婦喧嘩。一日の休息を取ろうと眠りにつこうとしていた皆が聖王夫婦の騒ぎに気づき、厳格な副団長がやってくるまで部屋の前に集まり乱痴気騒ぎに耳を傾けたという。
「母さん、見て見て!私が考えたの、この戦術どう思う?」
少女は洗濯物を干している母の元へ駆け寄り、戦術書に書き足した文字を得意げに見せた。
水しぶきが弾け、風に乗って輝く。少女の声に、母の手が止まった。最近は手荒れが多く少しカサついているが、色々なものを産み出し、時に夜が怖いと言えば撫でてくれる、娘自慢の掌。
麗らかな光の下、母は振り返る。森から吹いたそよ風が、彼女がずっとかぶっていたフードをそっと下ろさせた。
「ルフレ」
そこにあったのは、少女が待ちわびていた笑顔であった。
ぼんやりと春の霞がかかっているかのように朧気で、じっと見続けたら水面に映る残像に触るように、砕けて消えてしまいそうだったけど。
日溜まりにいる世界で一番大好きな母を見て、ルフレは満足そうに微笑み返した。
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母の日をモチーフにしたクロルフ小説です。