『パジャマにジャンパーを羽織った5歳くらいの男の子を港南町交番で保護。迷子になってさまよっていた模様。名前は清野テッペイ。付近で親御さんの問い合わせがあった場合、港南町交番に誘導のこと。』
交差点で違反監視についていた哲平のインカムに所轄連絡が入った。
「あのテッペイか?」
哲平は本部に移動許可と取ると、急いで江南町交番へ向かった。
港南町交番に着くと、若い警官が敬礼で哲平を迎える。哲平も一応高卒ノンキャリアとは言え、順調な昇進で警部補だ。若い巡査部長程度の警官から敬礼を受けるのは当然のことだ。哲平が敬礼を返している最中に、男の子が腰に巻きついてきた。見るとやはりあの白バイに乗せたテッペイだった。
「やっぱお前か…。」
哲平が抱き上げると、テッペイは抜けるような笑顔になった。そして白バイ隊員の装備が珍しいのか、答えもせずにあちこちをイジリまくる。
「こら、大事な装備なんだから勝手に触るな。」
口ではそう言うものの、テッペイの悪戯に哲平は笑顔で応じていた。あまりにも楽しそうにじゃれあうふたりを見て、若き巡査部長は哲平に尋ねる。
「桐谷警部補のご子息でいらっしゃいますか。」
「ばか、俺が子持ちに見えるか?」
「ええ、充分に…。」
「嘘だろ…いいから上田総合病院の小児科にすぐ電話しろ。この子はそこへ入院していたはずだから、たぶんお母さんが青い顔で探し回っているぞ。」
若き巡査部長は、交番の黒電話に飛びつく。
「テッペイ…うーん…なんか俺と一緒だから呼びづらいな…。お前は子どものテッペイだから。コッペイにしよう。」
コッペイは、もろに嫌そうな顔をしたが、哲平はお構いなしだ。
「コッペイは病院を抜け出したのか?」
コッペイは黙ったまま、ただうなずいた。
「病院からここまで、ひとりで来たのか?」
コッペイは、病院に出入りするフローリストの軽トラックに忍び込み、病院を出た次の配達先に着いたところで降りたことを哲平に告げた。
「すげえな、5歳の子が…まるでアルカトラズ島からの大脱出だ。そんなに病院は嫌か?」
哲平からの質問から逃げるように、コッペイは白バイ隊の装備をまた触りはじめた。
「わかったよ…無理に答えなくていい。さあこっちへ来い。また白バイに載せてやるぞ。」
哲平はコッペイを抱き上げると、白バイの上にまたがらせた。今度はエンジンを掛けることはなかったが、ふたりで白バイを運転する真似をしながら、悪党追跡ごっごをして遊んだ。やはりコッペイは、悪い奴を追いかける時は、あの歌を口ずさんでいた。
やがて、見たことのある高級セダンが交番の前に急ブレーキで停車すると、またビバリーヒルズからやって来たようないでたちのミカが車から飛び出してきた。
「テッペイ!」
ひとこと叫ぶと、ミカは我が子を抱きかかえた。哲平の腹の位置でバイクにまたがっているテッペイをかき抱くものだから、ミカのキューティクルのきいた髪が哲平の鼻先をくすぐる。ああ、またこの香りだ…。本当に制服着ていなければどうにかなってしまう。
「桐谷さん。またお世話になってしまったようで…。」
ミカが哲平の顔に間近な位置で語りかける。哲平は彼女の息を顔で感じることができた。
「いや…」
哲平は自分の顔が赤くなるのをヘルメットのバイザーで隠した。
「コッペイは本当に病院が嫌なんですね。」
「コッペイ?」
「ええ、名前がまぎらわしいんで、自分が名付けました。」
しっとりとした白い肌の眉間に、ちょっとしわを寄せてミカも嫌そうな顔をした。
「テッペイはどうやってここへ?」
「コッペイはどうも花屋の車に忍び込んだようですよ。」
哲平はコッペイから聞いた一部始終をミカにも告げた。
「そうですか…桐谷さん本当にありがとうございました。さあ、テッペイ、帰りましょう。」
「コッペイ、またな。」
ミカがコッペイを抱き上げようとすると、コッペイは手足をバタバタさせてむずがった。声も張り上げて白バイから降りようとしない。
「テッペイったら、そんな悪い子しないで…一緒にいらっしゃい。」
ミカが、コッペイを押さえこもうとするが、上品な女性の腕では5歳の男の子の動きを制圧することはできない。
「こら、コッペイ!」
テッペイはいきなりコッペイの頭にゲンコツをくれた。
「正義の味方は、お母さんを困らせないぞ。」
大きな拳で小さなコッペイの頭をゴツン。音はするが、痛くもあり、痛くもなし。若い頃、拳の喧嘩に明け暮れた哲平ならではの絶妙なちから加減だ。コッペイはいきなりのゲンコツ初体験に驚いて動きが止まったが、母親のミカはもっと驚いた。
「桐谷さん。うちのテッペイになんてことを…。」
ミカの目は怒りで震えていた。
「清野さん、自分はコッペイを怒ったんじゃないですよ。しかったんです。見てごらんなさい。コッペイの目を。」
コッペイは、ミカにしがみついて目に涙を溜めながらも、毅然とした目で哲平を睨んでいる。
「いい眼してるじゃないですか。自分より力の上の男に反発してこそ、男は育つもんです。」
しばらく哲平を睨んでいたミカ。やがてコッペイを抱きかかえて車に乗ると、挨拶もせず乱暴に走り去っていった。
「あーあ、桐谷警部補。お母さん怒らせちゃった…。」
ミカの車を見送る哲平の背後に、いつの間にか若き巡査部長が立っていた。
「軽いゲンコツくらいで大騒ぎしやがって…俺ん時は親父からガチな往復ビンタだったぞ。」
「警部補の乱暴な子育て論は、あのセレブには通じませんよ。」
「うるせい、署へ親に無事引き渡したと報告しろ。」
再びゲンコツを繰り出しそうな哲平の勢いに、若き巡査部長はすぐさま黒電話に飛びついた。
「達也先生。なんか歩き方変ですよ。」
上田総合病院。午前最後の仕事で入院患者の往診に向かう途中、背後についていた看護師がくすくす笑いながら言った。
確かに達也は、意味もなく両肘を上げて歩いている。しかも曲がり角では一旦スピードを緩めると、曲がる方向に身体を預け、パタンと曲がる。そして少し体重を後方に寄せると、今度はアクセルを開けたのごとく歩くスピードをグンと早める。その歩行スタイルの理由を、達也は看護師に説明しなかった。説明しても解るわけが無い。タンデムレッスンで翔子から体感したものを忘れまいと、歩く時にもそんな身体の使い方をして練習しているのだ。確かに、これで『ブー、ブー。』などと口走りっていたら、すぐに精神科病棟へ連行されかねない。それでもそんな練習に夢中になっているのは、来るべきコースチャレンジのためだけではない、明日に迫ったツインドライブで、翔子にいい走りを見せたいというのが本音なのだ。
達也が病室のドアを開けると、ベッドに半身を起こした心配顔の患者に迎えられた。達也も医師モードに戻って、幾つかの質問を投げかけながら、カルテをチェックする。
「検査の結果も良好です。もう退院していいですよ。」
患者の顔がパッと明るくなった。ベッドのそばに控える家族も嬉しそうに達也に礼を言う。実は達也もこの瞬間が大好きである。達也のひと声が、ここに居あわせるすべての人々に対して理屈の無い嬉しさをもたらす瞬間だ。回復は患者自身の生命力に他ならないのだが、その喜びの一角に自分が居あわせることが出来て彼も自然に嬉しくなる。
達也は病室から出ると、心も軽やかにまたバイク歩きをしながら、職員食堂へ向かった。
「おい、ペケジェー。」
小児病棟を抜けようとしていた時に、達也は声を掛けられた。そんな名前で呼ばれても思わず振り返ってしまう自分が悲しい。案の定、白いスカーフを巻いた哲平が居た。
「えっ、副長?なんでこんなところに?」
「その呼び方はやめろよ…。」
哲平は、職務中なのか正式な白バイ隊の制服を着用していた。もともと骨太の骨格に、養成所で鍛え上げられた筋肉を纏った身体は制服を着ると壮観である。路上でバイクを呼びとめられたわけではないので、今は威圧的な官と言うよりは、頼りがいのある正義漢といった印象だ。あのララバイジャンパーを羽織った哲平とは大違いだった。
「まあいいや、ちょっと手伝ってくれ。」
「警察の仕事を手伝えって言われても…。」
「いいからこれを着てくれ。」
哲平が差し出したのは、黒の地に骸骨が描かれた全身タイツだ。
「えーっ、なんでまた?」
「いいから、着ろって。」
「嫌ですよ、そんな全身タイツ。忘年会の余興じゃあるまいし…。」
「しょうがないだろう、次郎が仕事で捕まらないんだから…。」
「自分だって仕事中ですよ。」
「そんなこと言わないで…お前んとこの入院患者の為なんだから、ひと肌脱げって。」
達也は哲平に白衣の襟を掴まれて、トイレに連れ込まれてしまった。力では哲平にかなうわけが無い。
コッペイは、二人部屋病室のベッドの上に胡坐をかいて、窓の外の景色を眺めていた。もうひとつのベッドに寝ていた患者は昨日退院して、今は空になっている。コッペイは静かな病室に居るものの、気持ちはイライラしていた。この病室が嫌でたまらないのだ。ダメージの回復とは言え、病院に居るとあちこち身体をいじられたり、針を刺されたりされそうで、正直怖かった。もう心臓は大丈夫だと言うのに、なぜ母親は家に連れて帰ろうとしないのか不思議で、事あるごとに母親に当たっている。今も母が差し出したジュースをわざと手で払って、母の服を汚し、母はシミ抜きで病室を離れていた。
コッペイは、窓外を眺めながら、ふと背後にモノの気配を感じた。それはこの世にあるはずもないモノの気配だ。コッペイの背中に殺気にも似た冷気が忍び寄り、彼に緊張を強いた。恐る恐る、そしてゆっくりとコッペイは振り返った。そして、その化け物と目があった。
「キェーッ!」
耳もつんざくほどの奇声を発して、黒い身体に恐ろしいどくろが踊る。コッペイはその化け物を初めて見たのにもかかわらず、ショッカーだと直感した。
「ショック、ショック、ショック、ショック、」
意味不明な言葉を口走りながらその化け物はコッペイに近づいてきた。恐ろしさの余りコッペイの身体が硬直しベッドの上で動くことができない。鼓動が速まり、胸が痛くなってきた。
「オマエヲ、ツカマエテ、ドレイニシテヤル。ショック、ショック。」
その化け物の目的を知ったコッペイは、大声で母親に助けを呼ぼうと息を吐くが、声にならない。ショッカーの腕がまさにコッペイのパジャマにかかろうとした瞬間である。
「やめろ、ショッカー。お前の思う通りにはさせないぞ。」
ドアに白いヘルメットを被った白バイ隊員が颯爽と立っていた。振り向いて驚くショッカー。白バイ隊員がゆっくりとメットを脱ぐと、コッペイの顔がパッと明るくなった。そこに居たのはあのヒーロー哲平だったのだ。
ショッカーはそれでも、コッペイを連れ出そうと手を伸ばす。すると哲平は、すばやくショッカーとの間合いを詰めるとショッカーの腕を取り、後ろ腕に絞りあげた。そして、痛がるショッカーの首を後ろから羽交い絞めにして地面に叩きつけたのだ。
「うっ」
床に叩きつけられたショッカーの生のうめき声がした。床でもがくショッカー。やがて、奇声とともに立ちあがると、その目が痛さに潤んでいる。
「ユー・セット・ミー・ア・トラップ(罠にはめたな)ショック、ショック。」
もちろん哲平もコッペイもショッカーの言っている意味がわからない。もっとも、誰もショッカーの言葉など聞いていないのだ。余裕の笑みでコッペイにアイコンタクトする哲平の雄姿を、コッペイはただひたすら見惚れていた。
本気モードで飛びかかるショッカー。しかし哲平は余裕でかわすと足を払ってまたショッカーを床に這いつくばらせた。立ちあがったショッカーが次の攻撃に入ろうとした瞬間、哲平は警棒を、音を立てて伸ばして、防御の姿勢を取った。隙のない美しい構えだ。さすがのショッカーも攻撃を諦めた。
「キェーッ!」
また奇声を上げると、哲平に背中を見せる。その奇声は『憶えてろよ。』と負け惜しみを言っているのだと、コッペイにも解った。
ショッカーが病室からその姿を消すと、哲平は刀を鞘に納めるように、警棒をホルダーに収める。コッペイは哲平にしがみついた。
「おう、コッペイ。大丈夫か?」
コッペイは肯く。
「そうか、良かった…でもコッペイ、なんでショッカーと闘わなかったんだ。」
コッペイは返事のしようがなかった。あんな恐ろしい化け物は到底闘える相手ではない。
「ショッカーを見たら、身体が動かなくなって、胸が痛くなったんじゃないか?」
図星だった。
「お前は弱虫か?もしショッカーがお母さんを襲ったら、誰が助けるんだ。」
哲平の厳しい指摘に、コッペイの目に涙が溜まってきた。しばらく様子を見ていた哲平はコッペイを抱き上げた。
「コッペイ、難しい言葉だけど、勇気っていう言葉を知っているか?それはな、心にある力だ。コッペイは前に、病院をひとりで抜け出したが、それは勇気ではない。本当の勇気と言うのは、怖いものや恐ろしいものに立ち向かえる心のことだ。」
腕の中で泣きじゃくり始めたコッペイの頭を、哲平が優しく撫でた。
「俺はお前が弱虫でないことをちゃんと知っているよ。怖くても手術受けられるよな?それでどんなに激しい闘いでも痛くならない胸を持って、ショッカーを倒せるよな。」
コッペイが泣きじゃくりながら哲平の腕の中で何度もうなずいた。哲平はその頭をまた優しく撫ぜ続けた。
「桐谷さん、今度はテッペイに何をしたんです。」
病室に戻ってきたミカは、我が子の泣き顔を見てヒステリックに叫んだ。走り寄って我が子を哲平の腕から奪い返すと鋭い視線で哲平を睨む。
「こんなことが続くと、私にも考えがありますからね。叔父は…。」
「失礼いたしました。職務に戻ります。」
哲平はミカの言葉を最後まで聞かず、敬礼をして病室を出た。
病室を出ると、黒タイツもそのままの汗だくの達也が腕を組んで待ち受けている。
「副長、本気で投げ飛ばすなんて…話しが違うじゃないですか。」
詰め寄る達也に、哲平がすずしい顔で応じた。
「つい本物に見えちまってなぁ…お前の前世はショッカーか?」
しかし誰の目から見ても、翔子の彼氏である達也への憂さ晴らしであることは明白である。
翔子とのツインドライブの日。天気は最高で楽しいはずのドライブが、実は達也にとって過酷なものになっていた。5メートルほどの距離を開けて、翔子のバイクを見ながら、ブレーキタイミングやバイクを倒す角度を真似ること。そして、翔子と同じ走行ラインを走ること。出発前に翔子からそう教えられたのだが、どうしても同じラインに乗れない。街から郊外を抜け峠の路となると、もう達也は翔子のバイクのテールランプを見る余裕すら失っていた。
直線はまだしも、カーブではどうしても膨らんでしまうのだ。膨らみを嫌って無理やりインに入ろうとすると、今度はカーブの内側のフェンスに激突しそうで、またアウトに膨らんでしまう。そんなラインのロスが、自然と翔子との距離を開けていってしまう。慌ててアクセルを開けるのだが、カーブではどうしても翔子のスピードで入れない。『峠を攻める』という言葉があるが、翔子の走行はまったくそんな感じがしなかった。攻めてはいない。ただ車道を岩々に縫って在る山渓の河とたとえ、水が大海を求め流れ落ちていくように、高速ながらもごく自然にカーブを越えていく。
一方達也は、果敢に攻めるのだが攻めあぐねている走りだ。アクセルやブレーキを多用して、なんとかバイクをコントロールしている。人や車のまばらな峠道。見通しもいいカーブで、達也は思い切って翔子と同じスピードでカーブに突っ込んでみた。だめだ。どうしても翔子のラインに乗れない。膨らんだ達也のラインは、反対車線のフェンスに激突する恐怖にかられる。慌ててバイクを起こしブレーキを総動員するが、近づくフェンスの恐怖でつい腕に力が入ってしまい、フロントブレーキがロック。制動を失ったバイクは、無情にも転倒。達也は路上に投げ出され、KLEは、横転したまま路上を滑りフェンスに激突した。
路上で上半身を起こしながら、達也は自分の身体を確認した。倒れる練習の成果なのか、骨折などしている様子はない。そして、結構路上を転がったのに、身体には擦り傷ひとつなかった。ライダースーツのお陰か…。このスーツは、この日の為に翔子に付き合ってもらい買ったものだ。達也は高価ではあるが、デザインが施された動きやすい薄手のモノを選んでレジに持って行こうとしたら、こんなスーツはバイクを枕元に飾っておく人が着るものだとラックに戻されてしまった。そして戻ってきた翔子が手にしていたものは、宇宙飛行士のようなシルバーと黒の地味で厚手の安価なモノだった。有無を言わさず買わされたものの、路上に転がってみて解る。確かに翔子の言っている事は正しかったようだ。
赤いヘルメットを小脇にかかえ、翔子がやってきた。達也を心配している様子はまったくなかった。
「ほら、さっさと立って…。行くわよ。」
「くそっ、どうして師匠のラインで曲がれないんですか?」
達也は地面を叩いた。
「倒しが甘い?アクセルの開け方が悪い?突入スピードが間違っている?師匠いったい何が悪いんです。教えてくださいよ。」
悔しがる達也を翔子は黙って見ていたが、小さくため息をつくと達也に手を差し伸べる。
「結構走ったし…見晴らしもいいからここで昼食にしましょう。」
「えっ?でもコンビニ行かないと食べるものが…。」
「いいから、バイク起こしてあの見晴らし台のベンチへ来て。」
そう言い残してさっさと行ってしまう翔子。仕方なく達也は、KLEに戻り、バイクを起こすとエンジンチェックをした。カウルにはひびが入って、フットブレーキのレバーが少し湾曲したが、エンジンは問題ない。この先走るのに支障はないようだ。自分のメットをハンドルバーに引っ掛けて、達也は翔子の待つ見晴らし台のベンチへ向かった。
ベンチでは翔子が自分のライダースーツの上半身をはだけ、Tシャツ姿で涼を取っていた。スーツの気密性で体温がこもり、Tシャツはかなり汗を吸っている。しかし、不潔感はなかった。引き締まった翔子の身体は、病院にやってくる患者さんを見なれた達也には、眩しいほどの健康美だった。ただ、Tシャツの上から翔子の着けている下着のラインがはっきりと見えるのが困りもんで、達也はどこに視線を置いたらいいのか、かなり戸惑った。
とにかく、できるだけ翔子を見ないように、彼女の横に座ると達也もスーツの上半身をはだけた。達也のTシャツも汗で濡れていたが、そこから透けて見える肉体の何と貧弱なことか…。確かにこんなショッカーでは副長に勝てるわけが無い。
「バイク起こすの、だいぶ上手くなったわね。」
「そうですか…それでも精一杯ですよ。もっと力つけなくちゃ…。」
達也は両腕に力瘤を作って左右見比べた。
「力じゃないの、コツなのよ。誰だって200キロのバーベルは持ち上がらないでしょ。でも小さな動を作り出すことができれば、バイクの自重を利用しながらコテの原理で200キロのバイクも立たせることができるの。」
翔子の言葉に、達也はふと以前出会った華奢なライダーのことを想い出した。彼は半円を描くように身体を動かして、重たいリッターバイクを立ち上げた。その時は奇跡を見たような気持ちになったっけ。
「お腹空いたでしょ。食べなさい。」
翔子はどこから持ってきたのか、デイパックから、アルミホイルに包まれたおにぎりを取り出して達也に差し出した。
「朝早い出発だったのに、おにぎり作ってきてくれたんですか。感激だー。」
達也は翔子の手から奪うようにおにぎりを引ったくると、ホイルをむくのももどかしく頬ばった。
「少し塩をきつくしてるからね。」
「おいしいです。」
「中身何だった。」
「しゃけみたいです。」
「ああ、当たりね。何も入っていないスカもあるから…。」
一気に頬張り過ぎたのか、達也がしゃくりをしながら苦しそうに胸を叩く。翔子は首を横に振りながら、デイバックからミネラルウオーターを取り出して達也に渡した。
「達也…そんなにお腹空いてたの?」
「ええ、朝抜きだし…それにバイクのライディングってやたらお腹すきますね。」
達也の答えに頬笑みながら、翔子は街の上に広がる空に視線を移した。
「ところでね。昨日副長が病院に来て…。」
おにぎりを頬張りながら、達也が昨日のコッペイの病室の出来ごとを、楽しそうに話し始めた。
「副長もいいとこありますよね。」
「そう…確かに、あいつ乱暴だけど結構、優しい所あんのよ。特に男にね。目下のメンバー皆に兄貴として慕われていたわ。」
「へー、そうなんですか…。」
翔子は空から視線を戻し、達也をじっと見つめた。
「ねえ、聞いてもいいかしら?」
「なんでしょうか。」
「この前家に来て、お父さんの言う通りに医者になったって言ってたじゃない。」
「ええ、まあ…。」
「そんなにお父さんが怖いの?」
「そうストレートに聞かれると、ファザコンみたいで抵抗あるけど…確かに苦手ではありますね。」
「怖いのと苦手なのと、どう違うの?」
「ううむ…。」
「あなたのコーナリングを見ればよくわかるわ。」
「また、禅問答ですか?」
「いえ、簡単なことよ。バイクってね、不思議なもんで、ライダーが見ている方向に走っていくものなの。曲がる時にね、フェンスにぶつかりそうで怖いと思って、そのフェンス見てしまうと、なぜかフェンスに向って走ってしまう。だけどね、自分が行きたい先を見つめると、自然にその方向にバイクは向かってくれるのよ。」
達也は翔子の言っている事を必死に理解しようと、おにぎりをかむのを忘れて翔子の次の言葉を待った。
「さっき、自分の何処が悪いんだって言っていたじゃない。倒し方だの、ブレーキだのと技術的なことばかり言っていたけど、答えは簡単。抜けていきたい先を見てないから曲がれないのよ。」
「見ていない?」
「そう、フェンスが怖いから、つい怖いものを見てしまう。だからそっちの方向へ行ってしまうの。今度は、どんなにフェンスが怖くても、自分が行きたい先を見続けなさい。」
達也はしばらく黙って翔子を見続けた。そして、視線を空に向けると、手に持ったおにぎりを全部口の中に入れて翔子の言葉を咀嚼する。
「ひきたい…さふぃ…を…みすずける…。」
するといきなり思いついたように、口の中のおにぎりを飲み込み、むせりながらも翔子に尋ねた。
「で、でも、それと、さっきの父の話しは何の関係があるんですか。」
翔子は笑いながら、達也の口に付いたご飯粒を手でつまんで自分の口に入れた。
「それは帰ってから、ひとりでじっくり考えなさい。ぼくちゃん。」
「ちょっと、子ども扱いはやめてください…。」
「行くわよ。」
翔子はベンチから立ち上がった。
それから達也は翔子のテールばかり追うのではなく、翔子が見ている先を、自分も見るように心がけた。翔子が見ている先は、ヘルメットが少し傾いて伺い知ることができる。なるほど、あの方向へ抜けたいのだなと、わかると自分もその方向を見つめた。左右に迫るフェンスの恐怖感はあるものの、意識的に視界から外して進んでいきたい先を見つめると、確かにバイクは自然にその方向へ進んでくれる。達也は徐々に翔子のラインに乗り始めた。
ライディングに夢中で達也は気がつかなかったが、ふたりは峠の車止めにたむろする、あるバイクのグループを追い越していった。そのグループのバイクは、カワサキZEPHYR400やスズキGSR400などのバイクに、マフラーを上げたり、ハンドルバーを狭くしたり、およそ走りには無縁な改造している一群だ。一番安価なヘルメットをただ首にかけるだけで、エッジのきいたサングラスを掛ける彼らは、自己中心的であるがゆえにやり場のない怒りを常に胸に秘めた人種であると伺い知れる。
その日は翔子たちにとって不運なことに、グループのリーダーが獲物を求めていた。リーダーも後に翔子たちに出会ったことを不運と感じることになるのだが、とにかくその時は山積する不満を解消するために狩りへの欲求が高まっていたのだろう。翔子たちのツインドライブの何が気に入らなかったのか解らないが、彼女たちが獲物として選ばれた。リーダー格の男が、急に自分のバイクにまたがると翔子たちの後を追った。当然一緒に居た3名ほどの仲間も彼について走りだした。
翔子たちはスピードよりも自然なラインを重視していたので、派手なマフラー音を轟かせて激走する一群は、翔子達にすぐに追いつくことができた。そしてふたりを囲んだのだ。彼らは徐々にその包囲網を狭めて、ふたりを、いや特に後ろについている達也を煽り始めた。彼らのいじめでコンセントレーションを失った達也は、バイクが立ち始めてその走行が不安定になる。しかも、後方からの煽りでスピードを落とすことができないという、非常に危険な状態に陥った。最初は無視を決めていた翔子ではあったが、その状況を察知すると、クラッチレバーを離して左手を後ろに回し、達也に向って人差し指をクイクイっと2度曲げた。
『ついてこいってことか?』
意図を察した達也は翔子の走りに備えて、身を沈めた。
翔子がひとつシフトダウンすると、バイクの人格が変わった。それまでも決して遅い走行ではなかったが、それでもスタート時はフロントが浮きそうなほどの爆発的なスタートだ。翔子のエンジンの雄たけびを聞いた瞬間に達也はゾーンに入った。達也のバイクも、追うと言うよりも、翔子に引っ張られるようにかっ飛んで行った。
アクセルを開ける度合い、ブレーキのタイミングと強さ。バイクを傾ける角度。翔子のそれと一分の違いもなく達也はバイクをコントロールした。前のバイクの操作を見て真似てのことなら、多少のギャップが生じるはずだが、そのギャップが無い。つまりゾーンに入った達也は、翔子と同化していたのだ。以前タンデムで翔子との同化を体験したことが、そんな芸当ができる基礎を作りあげていたのかもしれない。達也は気付かなかったが、その時スピードメーターを見たら度肝を抜かれていただろう。まったく未知なスピードで直線からコーナーに突入し、そして抜けていたのだ。
突然に爆発的な走りを始めた獲物に驚いたものの、邪悪な狩人達はしつこくその後を追った。最初は、恐れを知らぬ無謀な神経と、有り余る体力で翔子たちになんとかついて行ったが、ロスの無いあるべきラインに乗って走るふたりに徐々に離されていく。あのふたりはとんでもなく速い。直線での絶対的な速さに加え、なんであのスピードでコーナーに突入し抜けられるのだ。
獲物を追っている理由が明確ではないせいか、リーダーを除くメンバーは、追っている獲物が、自分達のライディングテクニックを遥かに超えた走りをしていることに気づく理性がまだ残っていた。するとさすがに恐怖に無頓着な彼らも、力を越えたスピードの世界にいることに徐々に気後れを感じ、スピードを落として獲物を諦めるべきだと考え始めていた。しかし、リーダーは、自分が決めた獲物を追う興奮でそんなわずかな理性すら失っている。自分とタイヤの能力を遥かに超えて右手のグリップを絞り、アクセルを開け続ける。
相手が弾丸翔子とわかっていれば、こんな無謀なことはしなかっただろう。獲物として狙った相手が悪かった。翔子たちと同じスピードでカーブに入ったリーダーは、ついに自らのライディングの限界を越え、大きく膨らみ反対車線のフェンスに激突した。
後ろについていた分、達也が事態に気付くのが早かった。追ってきていたバイクがフェンスに激突したことを察すると、バイクを反転させ事故現場に急ぐ。一方翔子は、ゾーンからまだ抜けきっていなかったので、追走のバイク事故に気付かない。同化していたはずの達也の気配が消え、心に生じたわずかな空洞化に翔子が気付いたのはかなり走ってからのことだった。
達也が事故現場に戻ってくると、そこにはすでに他のメンバーたちが到着しており、リーダーを助け起こそうとしている。達也の姿を認めると、全員いきり立って殴りかかろうとした。
「待ってください。今はその人を助けることが先です。自分は医師ですから、安心して…。」
そう言って達也は、路上でもがき苦しむリーダーに駆け寄った。かなり痛がってはいるが、貧相なヘルメットにもかかわらず、頭部に外傷はなく、意識はしっかりしているようだ。痛さの基を探ると、右大腿骨あたりに出血が見られる。この痛がり方は単に外傷からくるものではなさそうだ。これは骨折か、脱臼かが予測される。達也は、他のメンバーたちに救急車を呼ぶように指示した。そして、出血を抑えるように動脈を絞り、右大腿骨を固定するなどの応急処置を迅速に施した。
遅れて事故現場に到着した翔子は、黙って達也を見ながら、以前同じようなことがあったことを想い出していた。父の言うがままに医師になり、本当になりたかったかどうかわからないと言っていた達也。しかし、危うくなった命があれば、殴られる危険も顧みず駆け寄っていく自分の姿を、いったい彼自身は気づいているのだろうか。ご飯粒を付けて咳こむ達也。荒っぽい青年達相手にテキパキと遠慮のない指示を出す達也。翔子は、様々な達也に遭遇して、こころの奥底にコンクリートの箱で沈めておいたはずの種が、壁を打ち破って徐々にその芽を伸ばせていくのを感じていた。
峠の片田舎の警察署で事故の事情聴取を済ませると、事故を起こした青年の祖父が警察署の待合で翔子と達也を待っていた。幸い達也の迅速な対応と応急処置のお陰で、命に別条はなく、単純な骨折で事なきをえたと礼を言いながら盛んに頭を下げていた。逆に事故になるような遠因を作ってしまったと、翔子達も詫びながら祖父の前から辞したが、門を出たとたん途方に暮れた。もうすっかり夜の帳がおり、しかも激しい雨が降っている。
警察署での事情聴取に時間がかかり過ぎたのだ。翔子は漆黒の雨空を見上げる達也を見た。暗くなって、しかもこんな激しい雨の中を、彼を連れて峠を越えて走ることは可能だろうか。さっきは火事場の馬鹿力で奇跡的なライディングテクニックを見せたものの、普段の彼のテクでは、非常に危険であることは翔子も容易に想像できた。
「この辺には宿もありませんしの。明日になれば雨も上がりよるから家に泊まらっしゃい。」
先程の青年の祖父が翔子達に申し出た。ご迷惑はかけられないと固辞していたものの、かと言って行くあてもない。祖父は顔見知りの警察官に勝手に了解を取ってバイクを署の駐輪所に置かせると、自らが運転する軽トラックにふたりを無理やり同乗させた。
「すみません。途中にコンビニがあったら寄ってもらえます。」
腹を決めた達也が、ノロノロ運転の祖父に頼みこむ。
「コンビニで何を買うのかの?」
「あの、泊まるつもりなかったんで替えの下着がないんです。」
「そんなもん、孫の服があるがの。」
「あの…私も無いので買わないと…。」
少し顔を赤くして恥ずかしそうに言う翔子。
「奥さんのは、うちのばあさんので充分じゃろ。もったいない。買う必要はない。」
「あの、奥さんじゃ…。」
「ほら、あの角を入ればもうすぐじゃ。」
翔子が慌てて訂正しようとするが祖父はまったく聞こえている様子が無い。おもわず失笑する達也。翔子は肘鉄を食らわすと、痛さにもがく彼をしばらく睨んでいた。翔子と達也が過ごす初めての夜が始まった。
軽トラックが着いた田舎屋は、まさに農業を営む家にふさわしく、大きな庭と納屋と鶏を飼っている籠まである。見ると、今日事故を起こしたバイクが、無残な形で庭の片隅に置いてあった。後から聞いた話だが、事故を起こした青年の両親は九州に仕事で夫婦赴任していて、祖父母が彼の面倒を見ているそうだ。祖父母の育て方は、孫にはどうしても甘くなる。粗暴な彼の性格がそれで増長されたとは言わないが、彼も年齢を重ねればやがて祖父母の愛に気付く時が来るに違いない。
家では孫の付き添いで病院から戻ってきたお祖母ちゃんが待っていた。想わぬ来客に驚きながらも、心からふたりを歓迎してくれた。とにかくお疲れでしょう、とお祖母ちゃんの言葉に促されてお風呂を借りる。達也が先に入っている時に翔子は家の父に電話を入れて、事情を説明した。
『そうか、達也さんと一緒か…お前もいい大人だから、何も言わんが、叔母ちゃんが言うように出来ちゃった婚は…。』
翔子は聞いていられず、プツンと電話を切った。
孫のジャージ姿で出てきた達也と交代して、翔子が風呂を頂く。出てきた翔子の姿を見て、祖父がしみじみと言った。
「ばあさんがこの家に来た時を、思い出すのう…。」
濡れた髪にもんぺ姿の翔子。達也はもう我慢できず身を悶えて笑い出した。
「お前なぁ、憶えてろよ…。」
翔子は、風呂で上気した頬をさらに赤くして達也を睨みつける。
それでもお祖母ちゃんが用意してくれた田舎料理が食卓に並ぶと、翔子の機嫌は簡単に治った。大根とイカの煮物。出し巻き卵と大根おろし。独特の歯ごたえのお新香。野菜たっぷりの香ばしい味噌汁。優しい湯気が立ちあがる真っ白なご飯。
達也はお祖父ちゃんからビールを勧められ、一杯だけとグラスを開けたのはいいが、今度はお猪口を渡され日本酒をすすめられる。お祖母ちゃんが、爺ちゃんはただ飲む相手が欲しくて、ご主人をお連れしたようねと、翔子に詫びていたが、翔子は田舎料理の堪能に忙しく、『ご主人を』の部分を訂正するのを怠ってしまった。
やがて食事も終わり、翔子が片付けを手伝おうとお祖母ちゃんと台所へ連れ立つ間も、お祖父ちゃんと達也の酒盛りは続いていた。お祖母ちゃんがむいた果物を持って戻ると、達也は、畳に大の字で酔い潰れていた。
「ご主人は、酒が弱いのう。」
物足りなそうに翔子に訴えるお祖父ちゃん。まったく…。こんな情けない事じゃ、達也は酒好きの父にも気に入ってもらえそうにない。ちょっと待って、私はなんてこと考えてるの…。翔子は、頭を振って前言の記憶を頭から振り落とした。
「ばあさんが布団を敷いとったから、おふたりとも部屋で休むがええ。」
「どうも、いろいろご迷惑かけてすみません。」
翔子は、ヘベレケの達也の片腕を取ると、肩に担いで立ち上がらせた。酒飲みの父に慣れている翔子にしてみれば、酔った男の扱いはお手の物だ。しかし、部屋にたどり着いて愕然とした。狭い畳の部屋に綺麗に布団がふたつ並べられて敷かれているのだ。完全に夫婦だと誤解されている。ちゃんと否定しなかった自分も悪いのだが…。いまさら部屋を別にして敷き直せと言うのも迷惑だし、どうやら部屋数もそう多いわけではないようだ…。達也も酔い潰れているし、男として危険はないだろう。翔子は達也を布団に寝かせると、おとなしく隣の布団に潜り込み、部屋の電気を消した。
しばらく布団の中でじっとしていたが、ツーリングで身体は疲れているはずなのに、頭が冴えて寝つかれない。やはり酔い潰れているとは言え、手を伸ばせばすぐ届く隣に達也が寝息を立てていることが気になっているのだろうか。何度か寝がえりを打って自分を寝かしつけようかと試みたが、それもかなわず、翔子は睡眠を諦めた。布団から抜け出ると、窓を開けて外気にあたることにした。雨音でも聞いていれば、そのうち眠くなるだろう。
外は明かりひとつない漆黒の闇。ただ屋根と地面を叩く雨音だけが聞こえてくる。闇の奥を眺めていると、視線の先がぼやけて来る。雨音がやがて波の音に聞こえてきた。それは次第に、翔子の鼓膜で増長され、浜辺の波の音から、台風下の高波の音へと変化する。さらに幻聴は留まる事を知らず、ついには街を襲う津波の音に豹変すると、翔子は震えあがって思わず耳を塞いだ。逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。焦るが翔子の身体は動かない。しかも溢れる涙と小刻みに震える身体は止めようがなかった。
「大丈夫ですか…翔子さん。」
闇の向こうから、翔子の身体を包む暖かい声が聞こえてきた。気がつくと、翔子は達也の腕の中に居た。
「何するのよ。」
翔子が慌てて撥ね退けたので、達也は後頭部を箪笥にぶつけてしまった。
「痛てぇ…。」
さすがに翔子も悪いことをしたと思って、達也を覗き込む。
「あなたが悪いんでしょ…。」
「なんで?」
「私に触るから…。」
「触るって…翔子さんがそんなところで泣きながら寝てるから…。ちゃんと布団で寝てくださいよ。」
達也は布団を指し示して翔子に訴えたが、自分の布団の横に翔子の布団があることにようやく気付いた。
「なんでふたつ並べて…。」
「私が知るわけないでしょ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに聞きなさいよ。」
「しかし…。」
「しかしもなにもないわよ。だいたい酔い潰れてたのになんで起きるの。」
「自分は、酔うのも早いけど醒めるのも早いんです。」
「本当に厄介な奴だわ…。」
「なぜそう言われるのか、なんか納得がいきませんが、もうこんな時間ですから布団に入って寝ましょうよ。」
「嫌よ。」
「安心してくださいよ。自分は何もしませんから。夜通し外気にあたっていると、身体に毒ですよ。」
黙って動かない翔子。
「なんだったら、自分を縛ってもいいですから…。」
翔子の身体を心配して必死に言い張る達也の瞳を見て、彼女もようやく腰を上げた。
「いい、そこから1センチでも私に近づいたら、殺すわよ。」
翔子は達也に背を向けて布団を被った。
「翔子さんの怖さはわかってますよ…。」
しばらくふたりは黙って寝る努力をしていたようだが、やはりお互いの寝息が聞こえるとそうもいかないようだ。
「翔子さん…翔子さん。寝ました?」
「うるさいわね、何よ。」
「まだ寝てないんだ…よかった…。」
「だから、何?」
翔子は背を向けたまま達也に詰問する。
「今日お祖母ちゃんが作ってくれた夕飯美味しかったですね。」
「そうね…。」
「でも自分は、昼に頂いたおにぎりも凄く美味しかったと思いました。」
「そう…。」
「翔子さんも、料理が上手なんだぁ。」
「おにぎりで、料理が上手って言われてもねぇ…。」
「結構家庭的なんですね。」
「叔母ちゃんの力は借りたけど、母が亡くなってから、いちおう家のことはやっていたからね。」
「でも、いつも不思議に思っていることがあるんですよ。お兄さんがバイクで亡くなっているのに、ひとり娘である翔子さんがバイクを乗ることを、よくお父さんが許してくれますね。」
「兄ちゃんがバイクで死んだって、誰が言ったの?」
「えっ、違うんですか?」
「兄ちゃんはビル工事の仕事で東北の現場に応援に行っていてね。あの震災で、津波に呑まれてしまったの。」
「…ごめんなさい変なことお聞きして。」
翔子は、仰向けになってうっすらと見える天井を眺めた。
「遺体のないお葬式だったから、父が辛そうでね…。ある日ニュースで見たの。津波で被災地から流出した瓦礫のうち、約150万トンが今も太平洋上を漂流しているって言うじゃない。これだけ時がたてば、瓦礫だけでなく、犠牲者の遺骨や遺品が北米の西海岸に流れ着く可能性もある。それで思ったのよ。もしかしたらアメリカ大陸の太平洋岸をくまなく走ったら、もしかしたら兄ちゃんの遺品でも流れ着いてるんじゃないかって。」
「翔子さん、本気で言ってるんですか?」
翔子の答えはなかった。しばらく返答を待っていた達也だったが、諦めて小さくつぶやくような声で言った。
「翔子さん、おやすみなさい。」
それらからふたりはもうしゃべることはなかった。
翔子は相変わらず寝つかれなかった。胸に秘めていたはずのことを、なんで達也に話してしまったのかと、自己嫌悪に陥って悶々としていた。すると、突然達也の腕が翔子の身体に被さって来た。
『こいつ殺してやる。』
物凄い形相で振り向くと、意外なことに達也はすやすやと寝息を立てている。え、単に寝相が悪いだけなの?翔子が戸惑っている間にも、身は寄せて来るし、足は掛けてくるし、翔子を抱き枕と間違えているような寝姿だ。
しばらく動かずに自分の頬にあたる達也の寝息を感じていたら、不思議と翔子も眠たくなってきた。
『こいつに抱かれると、へんな睡眠効果があるな…。』
翔子は次第に柔らかな眠りの園に入っていた。そして、悪夢も見ることなく、朝までぐっすりと眠った。
翌朝、翔子が目を覚ますと、雨も上がり明るくさわやかな日差しが部屋に注いでいた。見ると達也の布団はすでにたたまれている。達也は目覚めた時、自分のどんな寝姿を見たのだろう。翔子は気になりながらも、手ぐしで髪を整えて居間へ出ていった。
「おはようございます。」
翔子の朝の挨拶に、お祖母ちゃんは台所から、そしてお祖父ちゃんと達也は庭から明るく返事を返した。翔子が顔を洗って朝食の食卓に着くと、このトマトはお祖父ちゃんと朝一番に収穫したものだと、達也が自慢する。塩のかかった真っ赤なトマト。そして、魚の干物とみそ汁とお新香。静かに味噌汁をよそうお祖母ちゃん。畑の苦労の愚痴を言うお祖父ちゃん。とびきりの笑顔で盛んにトマトをすすめる達也。質素であるものの、この柔らかさと暖かさに包まれた朝食は、母とお兄ちゃんとそしてお父さんとで囲んだ、遥か昔の食卓の記憶を翔子に蘇らせた。
一宿一飯の礼を言って田舎屋を離れたふたり。警察署の駐輪所からバイクを引き出して、帰路についた。往路と同じように翔子の後に着いてバイクを走らせる達也ではあったが、復路では自分のライディングに余裕を感じたのだろう。そのうち翔子のバイクに並んで走ったり、前に出たり。ふたりのバイクの轍が、連れ添いながら、絡みながら、その軌跡を標す。ワルツを踊るかのごとくバイクを操って、翔子と達也は帰りのツーリングを楽しんだ。
「副長さん、今日は非番なんですか?」
不満顔の達也が、病院の入口で哲平を迎えた。
「いきなり病院へ電話してくると思えば、駐車券よこせなんて…。」
「いいだろ。俺様のバイクは駐輪スペースなんてチンケなところに収まる品物じゃないんだ。」
確かにプライベートで哲平が乗ってきたバイクは、ハーレー・ダビッドソン ナイトロッドスペシャル(VRSCDX)。水冷60度Vツイン1246ccエンジンで、240ミリの超ワイドタイヤを履く水牛級のバイク。ロングストロークが特徴のハーレー・ダビッドソンの他のファミリーに対し、こいつのエンジンはかなりショートストローク。回せば回すほど暴力的な加速を見せるという超ド級の代物だ。
「かっこいいバイクですねぇ。」
達也が駐車券を渡しながら、舐めるように哲平のバイクを眺める。
「触るんじゃねぇ。」
哲平が駐車券を奪って、達也にシッッシッをする。
「いいじゃないですか見るくらい…。でもこんなバイクで女性を誘ったらみんな乗りたがるでしょう。」
「俺は、一生に一度の女しかバイクに乗せない主義だ。」
「へーぇ…意外ですね。」
「ところで、コッペイの具合はどうだ。」
「ええ、彼もがんばりましたよ。手術後の経過は良好です。まだ動けませんが、麻酔が切れても、ベッドの上で痛さに耐えてます。」
「そうか…。でっ、ペケジェーの準備はどうなんだ。チャレンジは来週だぞ。」
「ええ、基本的なレッスンは終わって、今はララバイコースを走って走行順路を憶えています。」
「翔子のレッスンは厳しいだろう。」
「ええ、かなり厳しいですね。この前ツインドライブに行ったのはいいんですが、アクシデントがあって一泊になった時も…。」
「待て、お前今一泊って言ったか?」
達也はこれ以上正直に話したらこの場でハーレーにひき殺されると思い口をつぐんだ。
「いえ…患者さんが待ってるんで、失礼します。」
達也は慌てて病院の中へ逃げ込んだ。
別に悪いことをしているわけではないのだが…。哲平はあたりの様子を伺いながら、空き巣に入るがごとくコッペイの病室に忍び込んだ。哲平は怒りん坊のミカに遭遇したくないのだ。幸いミカの姿はない。コッペイを見ると様々な管につながれてベッドで寝ている。痛々しくもあるが、心臓の鼓動を示す生体モニターの信号音は、規則的で力強い。哲平もコッペイの容体に安堵するとともに、彼の頑張りを誇らしく感じていた。
「おう、コッペイ。頑張ったな。」
哲平がコッペイの額に手をやりながら挨拶すると、コッペイの目がパッと明るくなった。コッペイは、何かを言おうとしていたが、まだ思うように喋れないらしい。
「何も言わなくていいって、わかってるって。本当にお前は頑張った。」
哲平はコッペイの額を撫ぜ続けた。
「副隊長としては、お前を誇りに思うぞ。」
そう言いながら哲平は、自然に自分の目が潤んでくるのを感じた。
「これで、お前の勇気は本物だと実証された…つまりみんながわかったってことだな。だからその勲章として、これをお前に贈る。」
哲平は手に持った手提げ袋から古着のジャンパーを取りだした。背中に交差する雷と梅のワッペン。そして、左腕にキャプテンマーク。哲平の宝物だ。哲平はそれを掛け布団の上からコッペイの身体にかけてやった。コッペイは満面の笑顔でそれを受けた。
「早く体力を回復して、副隊長とともにショッカーを倒す闘いにいこうな。」
コッペイは大きくうなずいた。私服ではあるが、哲平は警察官として正式の姿勢で、ベッドに寝ているコッペイに敬礼を捧げた。敬礼とは、相手に敬意を表し、一般的には、組織の下位の者が上位の者に対して行う動作である。勇気を示したコッペイは、敬礼を受けるに値すると哲平は考えていたのだ。
「桐谷さん…。」
背後からミカが驚きの声が聞こえた。
「あっ、いない時に、勝手に病室に入って申し訳ありません。すぐ失礼しますから…。」
慌てて病室を出る哲平を、ミカは走って追いかけてきた。
「待ってください、桐谷さん。」
ミカに掴まれた腕など振り払うのは簡単だが、あまりにも華奢な指なので下手に動かしたら壊してしまいそうだ。哲平は仕方なく動きを止めた。ミカは哲平を逃がすまいと必死で抱きつく。
「桐谷さん…。」
ああまたこの香りだ。この上品で甘美で清潔な香りは、どうも自分を戸惑わせる。
「もうコッペイには付きまといませんから…安心してください。」
「違うんです。」
ミカは哲平を抱きしめている事に気付いて慌てて身を離した。
「テッペイのことでお礼を言わなければと思って…。」
「礼?」
「ええ、テッペイが手術を受ける気になったのは、桐谷さんの説得のお陰ですから…。」
「説得?説得なんかしてませんよ。コッペイが自分で受ける気になったんですから。それにコッペイとは男と男のタイマンの付き合いなんですから、お母さんからお礼を言われる筋合いもありません。」
この頑固な武骨さが、彼から女性を遠ざけている理由だ。少し困った顔をしたミカだが、今日はじっと我慢して言葉を続けた。
「とにかく、お礼に食事でもご馳走させてください。」
「だから、母親の礼は筋違いだと…。」
哲平の頑固さも度を越している。ミカもついにキレて語気を荒めて言い放つ。
「母親としての礼を受けられないならば、女としての私とデートしてください。それでも嫌ですか!」
言った方も言われた方もフリーズした。お互いしばらく見あうと、ミカは赤い顔を手で隠して消え入りそうな声で言った。
「断らないでください。恥ずかしいです…。」
「わかりました。正義の味方は女性を困らせません。」
なんとセンスの無い承諾の返事だ。哲平は我ながら嫌になった。
「桐谷さん、今日非番なんですよね。」
「ええ。」
「では、今夜7時にここで…。」
ミカは素早くメモを書いて哲平に渡すと、走るようにコッペイのいる病室に戻っていった。歳に似合わぬ少女走りしやがって…。ミカが残した香りを感じながら、哲平はそう呟いた。しかし、なぜ自分はこんなに緊張しているのだろうか。
ミカが指定したレストランに、哲平は約束の時間より早めに着いた。もとよりキュイジーヌなどという言葉を今まで聞いたこともない哲平である。フランス語で名前すら読めないレストランの席に着くと、相当場違いなところへ来てしまったと後悔し始めた。服装もライダーの皮ジャンにTシャツ。浮きに浮きまくっている。あたりを見回すと、他の客がこちらを盗み見している。哲平が劣等感にさいなまれている一方で、実は他の客たちはその長い脚と均整のとれた逞しい肉体が伺い知れる皮ジャンの男を、アクションスターの誰かであると囁き合っていたのが実情だ。そんなことは哲平にわかるはずもなかった。
白い室内の中で黒を主張するもうひとりの客が居た。見ると連れはいないようだ。しばらくするとその男は、ナイフとフォークを置き、ミネラルウオーターの入ったグラスを持ち上げ、ライトに透かし始めた。そして、鋭い声でギャルソンを呼ぶ。
「こんな雑菌が浮遊している水が飲めるか。さっさと変えてこい。」
ギャルソンが慌てて空のグラスを持ってきて、その男の前でミネラルウオーターを注ごうとすると、またその男が難癖をつける。
「そんな曇ったグラスに、俺が飲む水を入れるつもりか。」
哲平は呆れてその男を眺めていた。潔癖症も度を越している。切実な喉の渇きを知らない奴ほど、あんなことを言うんだ。
「GDでも吸って、死んじまえ。」
男が黒目がちな瞳を怒りに膨らませて呟いた言葉を、哲平は聞き逃さなかった。意味はわからなかったが、職業柄その男の顔を記憶のファイルの中に保管した。
「お待たせしてすみません。」
ミカがやってきた。薄いメイクにラベンダーのアイシャドーが印象的だ。上品で繊細な服でありながら、今日は多少肌の露出部分も大きく、セクシーな印象がある。哲平との食事の為におめかしをして来たのだろうか。
「別に…遅れてませんよ。自分が早く来すぎたんで…。」
店の雰囲気というよりは、ミカの華麗な出で立ちに気後れして、いつもの哲平らしさが出ない。ギャルソンがメニューを持ってきたが、カタカナ書きはあるものの、何が何やらさっぱりわからない。
「何かお飲みになります?」
「いえ、今日はバイクできましたから…。」
ミカとの会食を無事に終わらせるために、すすめられても飲まないようにわざとバイクでやってきたのだ。
結局、オーダーはミカに任せて、哲平は食事が来るまで水ばかり飲んでいた。
「今夜は母親じゃないはずなんですけど、テッペイの話しをしてもいいでしょうか?」
「どうぞ。」
「テッペイは桐谷さんにお会いしてから、なんか変った気がします。」
「そうですか…。」
「昔は大概のことはわかったんですが、桐谷さんにお会いしてからテッペイが何を考えているのか、わからなくなって…。」
「それって、自分を責めてます?」
「半分…。」
「まいったな…はっきり言いますけど、それは自分に会ったからではなく、そういう年頃になったんですよ。今、男になろうとしてるんです。」
テッペイは目の前の水の入ったグラスを飲み干した。
「今までは、お母さんが…。」
「ミカと呼んでください。」
ミカが毅然と哲平に言った。しばし言葉を飲んだ哲平ではあったが、ミカの勢いに押され言いなおす。
「今までは、ミカさんがコッペイを守っていたけれど、やがてコッペイは成長して、今度は彼が家族を守るようになるんです。」
「頼もしいような、寂しいような…。」
ふたりの間に、食事が運ばれてきた。どのナイフとフォークを使うのか迷ったが、面倒になった哲平はとにかく一番大きいナイフとフォークを掴んだ。哲平はナイフの扱いに苦闘しながら言葉を続ける。
「ふたりで寄り添って生きてきたから、気持ちはわかりますが、いつかコッペイが飛び立って行くことを、ちゃんと覚悟しておいてくださいね。」
「なんか、悲しくなってきました。」
「そんなことないですよ。ミカさんは女性としても本当に魅力的なんだから、死ぬまで連れ添える人はこれからでもいくらでも見つかります。」
「まだ女性として魅力があると思います?」
「ええ、充分。自分も名乗り出たいくらい魅力的ですよ。」
ミカの手が止まった。しまった。余計なこと言ってしまった。こんなことを口走るなんて、なにか取調室で誘導尋問されている気分だ。哲平は慌てて前言を取り消す。
「しかし、残念ながら自分は全く駄目です。やっぱり身の丈って大事ですから。」
「どういうことです?」
哲平はナイフとフォークを投げ出すと、両手の手のひらを上に向けてギブアップの仕草を見せた。
「ミカさんにはこんなレストランでも物おじすることなく、堂々とオーダーができるような、知的で上品な男性が相応しいです。」
その言葉を聞いて、ミカがいきなりナイフとフォークをテーブルに叩きつけた。突然何に怒りだしたのかと、哲平はミカの顔を覗き込んだが、予想に反してミカの顔は笑っていた。
「2次会に行きましょう。」
「2次会って…まだ食べ終わってないじゃないですか。」
「いいから行きましょう。」
哲平はミカに手を引かれてレストランから出た。
「どこへ?」
「今度は桐谷さんが好きなところへ。何処でも行きますから。」
「でも、タクシーとバイクじゃ…。」
「桐谷さんのバイクに乗せてって下さい。」
「えっ、でも…メットがありませんよ。」
ミカは、先程のレストランに少女走りで戻ると、安物のヘルメットを被って戻ってきた。
「大丈夫です。借りてきました。」
「そんな安物じゃ…。」
哲平は仕方なく、自分のヘルメットをミカにかぶせると、安物を自分の頭に乗せバイクにまたがった。
哲平の長い脚はハーレー・ダビットソンによく似合う。もとよりミカはこれから自分が乗るバイクはどんな価値のあるものか知る由もない。ただ、久しぶりに男を見てかっこいいと感じた。一方哲平は、自分のバイクに初めて乗る女が、翔子でなくミカであることに多少の抵抗はあったが、ミカの柔らかい身体と香りを背中に感じたとたん、そんなことどうでもいいと思うようになっていた。
哲平とミカを乗せたハーレーは、野太いエンジン音を立てて走り出した。
「キャーッ。キャーッ。」
もちろんバイクなんか初めて乗ったミカは、車線を変更する度に叫び声を上げた。風に膨らむスカートが気になったが、それを手繰り寄せる余裕などない。哲平は、そんなミカにまったく無頓着だ。しかし、哲平の身体にしがみつく腕と膝は、しっかりと彼の脇と肘でホールドしてくれている。なるほど、ミカの安全についでだけは、気遣ってくれているのだ。
水冷60度V型ツイン1246ccエンジンの振動は、身体の芯をしびれさせる。それはミカも感じることができた。そのせいでもないのだが、ミカは、逞しい哲平の背中にへばりつきながら、以前懐に抱かれたテッペイが、イチコロで哲平に参ってしまった理由がわかったような気がした。
ふたりの乗ったバイクは、波止場の屋台のラーメン屋に着いた。獰猛なエンジンがチリチリと音を立てながら息を休める傍らで、ミカと哲平はラーメンをすすった。
「小汚い屋台ですが…おいしいですか?」
「おいしいです。」
「正直に。」
「…ちょっと脂っぽいかも。それに量も多いかな。」
「やっぱりね。」
哲平はいきなりミカのラーメンに箸を突っ込むと、焼き豚と麺をつまみ自分の器の中に入れてミカのラーメンの量を減らした。彼の粗暴とも思える武骨さは、常にその根底に優しさがある。その優しさがわかっていたなら、あのゲンコツだって許すことができたはずなのに…。豪快にラーメンをすする哲平を見ながら、ミカはそう思った。
「もうひとつ正直に言っていいですか。」
「どうぞ。」
「正直…哲平さんに合わせるのは大変です。」
「でしょう…。」
「でも、これだけ正直にモノが言える人は哲平さんが初めてです。」
いつの間にか自分の名の呼び方が変わっている。どうせその意味を考えたところで、自分には到底分るまいと、哲平は器に残る最後の汁を口の中に流し込んだ。
「だから…もしよろしければ、哲平さんの携帯の番号を教えていただいてもいいかしら?」
ミカの言葉に、哲平は飲んでいた汁を喉に引っ掛けてむせってしまった。なんで『だから…』なんだ?やっぱり俺は女の考えている事なんてさっぱり分からない。
路上で待機していた次郎の業務用の携帯に、配送依頼メールが着信した。開いてみると、2本の仕事依頼。つまり2本持ちの仕事が来た。本来バイク便の配送は、仕事配分の公平性のため、荷受けして届けが終わるまで次の仕事が入らない、つまりひとり一本ずつというのが原則だ。しかしたまに、周りに待機ライダーがいないとか、配送の効率性が優先され、ほぼ同じ位置で荷受けする仕事が同時に2本来ることがある。一回の走行で2本分の仕事が出来るのだから、受けたライダーには美味しい。
「朝からついてるぜ…。」
次郎は、ほくそ笑みながらふたつの配送伝票を作成すると、まず一本目の荷受先に走る。
一本目は荷受け時間指定だった。時間通りに到着すると、およそ人が働いているとは思えない廃墟のような事務所の様子に、次郎は行き先を間違えたかと思った。しかし事務所のドアを見ると、配送依頼メールの特記にあるように、ドアのノブに手提げ袋がぶら下げてあった。手提げ袋の中には、確かに書類封筒と現金の入った封筒がある。
後請求の契約会社の配送依頼とは違って、個人の配送依頼では、その場で現金を支払うケースが多い。現金を確認すると、規定料金より多めだ。しかも、封筒に釣銭はいらないとの指示が表記されている。
「ダブルラッキー。」
次郎は、伝票の控えと領収書を手下げ袋に入れると、書類封筒を取り出して、次の荷受先へ急いだ。
次の荷受先では、荷待ちになった。ライダーを呼んでおきながら、配送する荷物の準備が出来ていない状態だ。次郎は、一本目の荷物をボックスに入れている都合上、早く配送先に走りたく、いらいらしながら2本目の荷物が出来あがるのを待った。
結局20分待たされて荷物を受け取ると、荷受先の担当から、先方に30分以内に届けて欲しいとの依頼。次郎は、2本目の配送を優先せざるをえなかった。
得てして偶発的な事象が重なり、計画したことが思わぬ結果を招くことがある。本来なら1本目は、次郎が受け取ってから30分後に先方に届くはずだった。それが2本目の荷待ちと配送優先で、先方に届くのに1時間半に近い時間を要することになったのだ。本当にバイク便を使いなれている人間だったら、一本目の配送依頼は荷受け時間指定ではなく、着時間指定をしていただろうに。
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バイクで出会った翔子と達也。弾丸翔子と異名を持つ彼女にバイクビギナーの達也が教えを請う。バイクを通したふたりの心のふれあいが、心の同化に深化していく中、毒ガスを使ったテロが発生。ふたりの命が危険にさらされる。真の勇気とはいったい何なのか…。恐れを退け、お互いの命を守りあうふたりは、本当に自分たちが求めている道先を見い出していく。女性には厳しいかもしれないけど、読んでいるうちにバイクが乗りたくなる恋愛小説です。