彼女の口からは歌声しか流れ出ない。彼女の耳には音楽しか聞こえてこなかった。風の音も、脚を浸す川のせせらぎも彼女の耳に入れば全ては旋律となって彼女の中に響いた。
とはいえ出鱈目な音の連なりで一つの曲にはなり得ていない。流れ出る旋律も歌とも言えず、何かの意味のあるものではなかった。
だが彼女は、この世に現れ出たときからずっと音楽だけを聴き、口からは旋律を密やかに響かせて川辺に佇んできたので、そのことを不思議ともなんとも思ってはいない。その思考も全て旋律でなされた。彼女には音楽以外の音は存在しなかった。
やがて川辺近くにも人が住み始めた。彼らに彼女の姿は見えず、希に旋律に気づく人も少し首をかしげて、すぐ立ち去ってしまう。
ある日、ひとりの若い牧童が川辺に現れ、小さく粗末な手製の琴を奏でた。その調べを耳にした彼女は、初めて音楽を知った。
以来、その口からは川辺を渡る風の音が流れ、その耳に入る音の全ては人が耳にするものと等しくなった。
しかし、牧童は二度と現れなかった。
音楽を失った彼女はほどなくこの世から消えてしまったが、もとより気づくものはなかった。
(完)
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「SFファン交流会」の企画「超短編マッチ箱」に投稿した、500字の超短編です。