「あ゛~~~っ!!!!!!!」
烏口の墨汁が定規に移り、恐怖の毛細管現象を引き起こす。
あっと言う間に原稿用紙が黒く染まる。無惨。
「とほほ~。また用紙無駄にしちゃったぁ~」
ビンボな中学生にとっては用紙一枚といえ無駄にできない。
月のお小遣いでコミックの単行本とスクリーントーンを買うので精一杯だ。
マンガって、お金かかる。
わたしが情けない顔してしょげ返っていると、ふすまが開いた。
「里美!また、マンガなんか描いて!」
「いいじゃんー。約束通り塾に入ったんだからさー」
ママはマンガが嫌いだ。わたしが描いているときには必ずやってきて小言を言う。
人が勉強してる時は絶対こないくせに。
「全くマンガのどこがいいのよ。どうせ趣味にするなら、もっと
芸術的なものがあるでしょ」
「マンガだって芸術だよ!」
「これのどこが芸術だって言うのよ」
「や、やだ、見ないでよ!人の原稿!」
ママはわたしが乾かしていた原稿を無造作に机にほうりだす。
「全く先が思いやられるわ。ねえ、ママと一緒にこれからカルチャーセンター
行かない?本物の芸術ができるわよ」
「やだ。フラワーアートなんてつまんない」
中指でめがねをずり上げ、ため息をつくママ。
「全く変なところパパに似ちゃったんだから」
「パパ?」
「そ。あなたのパパも昔、マンガ描いてたのよ」
「うっそー!パパが?」
「あ、そろそろ時間だからママ、行くわね。おやつは冷蔵庫に入ってるからね」
「あ、ちょっと、ママ!」
止めるまもなく、ママは鼻歌を歌いながら階段を下りていった。
「パパが...?」
意外だった。
あの、きまじめで無口で堅物で、テレビはニュースしか見ずに、新聞の切り抜き
だけが趣味というあのパパが?
「ただいま」
「あ、パパお帰り」
いつもの時間きっかりに帰ってきたパパは、これまたいつも通りにうがいをし、
手を洗うと食卓に着き、夕食を食べだした。
パパは家にいるときでもネクタイを外さない。次はパソコンに向かって残務整理
をするのだろう。
「あのさ、パパ...」
「なんだい?」
パパとはあまり会話をしないので、面と向かうと緊張する。
「パパ、昔マンガ描いてたって、ホント?」
「ママがそんなこと言ったのかい?」
パパのまっすぐな視線にぎくりとする。
「う、うん」
パパは視線を食卓に戻すと、箸を動かし始める。
「そう。大学ではマン研にいてね、コミケにも仲間のサークルと参加してたよ」
「同人誌描いてたんだ!」
「ママと結婚する前まではね」
「ママがマンガ嫌いだから、止めたの?」
「ああ」
わたしはさっきのママとのことがあったので、ちょっとムカついた。
「なんか、それってカッコわるいじゃん。マンガより結婚を選ぶなんて」
「でもマンガを取っていたら、里美は生まれてきてない」
「そりゃ、そうだけどさー、ホントにそれでよかったの?」
「もちろんだ。クサイ台詞だが、幸福な家庭がもてて十分満足だ」
わたしは不満だった。マンガを描いた人間がそんなにすっぱり止められるわけがない。
「ほんとーに、ほんっとーーーーーによかったの?」
パパはちょっと食事の手を休めると、言った。
「実は描きかけのマンガがあってね。それを仕上げられなかったのだけが
ちょっと心残りだったんだ。でも」
お茶をのむ、パパ。
「もうあれを描くことはないだろう」
その時のパパの表情を見て、わたしは「描けばいいのに!」という台詞を飲み込んだ。
なんだかそれ以上マンガについてパパと話すのが残酷なような気がしたから。
パパは マンガが 好きだった とっても 好きだった
でも。
わたしは自分の部屋へ戻ると机に向かった。
トレース台の周りに散らかった消しゴムのカス。
使いもしないのに、もったいないから取ってあるトーンの切りくず。
わたしはパパがペンを駆り、原稿を透かし、トーンを張り付けてる
姿を想像していた。
パパのマンガを一度でもいいから見てみたいと思った。
そして、そのチャンスは以外にも早くやってきた。
*
ゴールデンウィーク。
突然、ママに電話がかかった。
「パパ、九州の親戚が急に亡くなられたんですって。わたし、
行ってもいいかしら?」
「おれは行かなくていいのか?会社も休みだし」
「うん、大丈夫。無理しないで。パパは休み前に残業の連続だったんだから。
のんびり好きな事して、くつろいでいて」
「でも...」
「企業戦士は休息も仕事よ!ねっ、お願い。休んでちょうだい」
そんなわけで。
「いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
ママが4日間、不在。うふふふふふふふふ。
「パパー」
休んでいろと言われて休むパパではない。たまった新聞のスクラップを整理している。
「どうした?」
「うふふふふふふふー」
「何だ気持ち悪い」
「パパー。マ・ン・ガ。描こ?」
「里美。パパはマンガを止めたんだ」
「んなこと言ってー。心残りなんでしょ?描きかけのマンガ」
「ママがいない時にマンガを描いてたら、ママを裏切ることになる」
「でもママ言ってたじゃん。
『のんびり好・き・な・こ・と・して、くつろいでいて』って」
パパの右の眉がピクピクしている。もう一押し。
わたしはパパの開いているスクラップ帳をどけてみせる。
「あっ!こんな所にGペンがっ!」
もちろんわたしの左袖に隠しておいたもの。
うふうふ。うろたえてるぞパパ。
つかつかとパパのデスク脇にゆく。
「あっ!こんな所にトーンの61番がっ!」
もちろんあらかじめわたしが仕込んでおいたもの。
パパが、立ち上がった。
わたしの手からトーンを取り上げる。
(ま、まずったかな?)
焦るわたし。
パパはトーンをしげしげと見ると、財布を開いた。
「このメーカーのトーンは糊が弱くてダメだ。新しいのを買って
きなさい。ついでに原稿用紙とペンもな」
(やったーーーーーー!!!!)
わたしは画材屋へ自転車をとばし、パパの指定したメーカーの品物を買い集めた。
余ったら着服するために、多めに買ったのは言うまでもない。
家へ帰ると、パパはわたしの部屋のトレース台に向かい、カケアミを描いていた。
上手い。
線が違う。
わたしが描くような、自信のないヘロヘロした線ではない。
「買ってきたか?」
「うん」
「じゃあ、始めるか」
「え、と。ネームとかは?」
「全部頭の中に出来上がっている」
パパは原稿用紙に鉛筆でアタリをつけると、枠線と吹き出しを入れ、あっと言う間に
下描きを描き込んでゆく。
手際がいい。見る間にペン入れ前の原稿用紙が並ぶ。
「ほら、ぼーっとしてないで、テーブルを持ってきなさい。
アシスタントをやってもらうから」
「は、はい!」
階段を下りながら、わたしはドキドキしていた。
パパのマンガだ。パパのマンガだ。パパがマンガを描いている!
わたしは初めて「修羅場」を体験した。
ママが帰ってくるまでに作品を仕上げなければならない。
食事はカップラーメン。見る見る部屋が汚れてゆく。
初めての貫徹。午前の光が黄色く見えた。
しかしパパはペースを落とさない。
ペン先を五回も変えた。
パパが描くマンガは少女漫画だった。
意外だったのはそれだけではない。
わたしはパパがいろいろな表情を持っていることに驚いた。
キャラクタの表情にあわせて、パパの顔は笑い、怒り、そして泣いた。
そして、わたしも時々泣いた。
「リテーク!この背景やり直し!!」
「ひょえ~!」
パパの描き方は下描きとペン入れが同時進行で進んでゆく。ページが進んでも
わたしみたいにキャラ崩れがぜんぜんない。すごい。おまけにペン入れが超速い。
わたしはいつの間にかパパの背中をあこがれと尊敬のまなざしで見ていた。
しかし、ぼーっとはしていられない。ベタとトーン貼りはわたしの仕事。
うっかりしているとわたしの横にベタ入れ待ちの原稿がたまってしまう。
トーンもいい加減な削りをするとリテークがかかる。ドライヤー片手に何度も
トーンを貼り直した。
後半はさすがに疲れてきて、パパと一緒に初めてリポDを飲んだ。
苦くて、甘くて変な味。
そして。
ママが帰ってくる前日の昼過ぎに、24ページのマンガが完成した。
何度も何度もわたしは読み返した。
「パパ!すごいよ、これ!おもしろい!」
その時のパパの笑顔は、超カッコよく見えた。
「里美、ジュース、パパにはビールを買ってきてくれ。打ち上げだ」
「うん!」
「車に気をつけて行けよ」
カンが入った袋を下げて家へ帰ってくると、パパは庭にいた。
煙が上がっている。
「えっ!」
あわててわたしは庭に駆け込む。
スコップで掘られた湿った穴。その中で燃えていたのは、さっき
完成させたばかりのマンガだったのだ!
「パパ!どうして?!どうしてよ!!」
パパは微笑んだ。
「里美、ありがとう。おかげでお父さんすっきりしたよ。
実にいい気分だ」
そう言うとパパはわたしが下げている袋からビールの缶を取り出すと、
ぷしゅると開けた。
日の光がカンにきらめく。
「もういいんだよ。前にも言ったけどパパは今で十分幸福なんだ。
ただ、この幸福を得るためにあきらめたものを、パパはまだ
弔っていなかったんだ。里美のおかげで人生に本当の節目を
つけることができたよ。ありがとう」
パパは実においしそうにビールをのどに流し込んだ。
わたしの目から熱いものがぽろぽろ落ちた。
(いやだよ!そんなのいやだよ!どうして好きなことを止めなければ
いけないの?!そんなの絶対イヤ!それが”大人”になるって
言うことなら、わたしは大人になんてなりたくない!!)
青空の雲がにじんでゆき、淡い煙がゆらゆらと上っていった。
わたしは、袋を縁側へほおりだすと2階へ駆け上り、ベッドに突っ伏して大泣きに泣いた。
キイ
「あれ、ママ?明日帰りじゃなかったの?」
「うん。人手が足りててね、早く帰ってこれたの…これは?」
「おれの過去の弔い」
「…マンガ描いてたの?」
「ああ」
「…パパ、わたし、パパと付き合う前に付き合ってた男の子がいてね…」
「うん?」
「わたしとフラワパークにデートの約束してたのに友達が同人誌イベントのスペース
取れたからそっちへ行くって言い出して喧嘩しちゃって。
『わたしと同人誌とどっちをとるの?!』って言ったら『それ言っちゃおしまいだ』
って言われて…」
「ハハハハ」
「だから、パパに交際申し込まれた時、わざと意地悪で『マンガやめるなら付き合って
あげる』って」
「そういうことだったんだ」
「だからパパに『分かった、やめる』って言われたとき、すごくうれしくて、
帰って泣いちゃった」
「おおげさだなあ」
「そんなこと無いわよ、マンガ描きがマンガやめるってどんなことか分かってるつもりよ。
里美もいつか、そんな決定しなくちゃならなくなる日が来たらって思ったら…」
「心配は要らないさ。本人が決めることは本人が決めるさ」
「ありがとう、パパ」
「いまさら何を…」
*
それから7年が過ぎた。
あれから二度とパパがペンを握ることはなかった。
ママは相変わらずカルチャーセンター通い。今、フラワーアレンジメントに加えて
七宝焼きをやっている。
パパはこれまた相変わらず勤勉なサラリーマンを実践し、日曜日ごとに新聞を
切り刻んでいる。
そしてわたしは。
「あ゛~~~っ!!!!!!!」
やっぱりマンガを描いている。
終わり
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「うっそー!パパが?」堅物のパパが漫画描いていたなんて!ゴールデンウィーク。ペンを折ったはずの父親と娘がマンガを描く。家族それぞれの大切なものを描いた物語。