日本陸軍における対戦車車両の系譜
●戦車支援車「砲戦車」の登場
輸入戦車による研究経て、戦車の国産化を実現しつつあった昭和初期の段階で、日本陸軍は「軽戦車」「中戦車」「重戦車」の戦車整備が必要であると認識していた。軽戦車にはイギリス軍の巡航戦車に相当する快速の「機動戦車」と指揮・連絡に任ずる「補助戦車」が、中戦車にはイギリス軍の歩兵戦車に相当する車両が必要であり、これに堅陣突破用の重戦車を加えた戦車体系を考えていた。
この戦車体系を念頭においた戦車開発が行われるのは九七式中戦車以降となるが。すでに開発されていた九五式軽戦車は「機動戦車」「補助戦車」としての運用に耐えるものであり、速力以外では八九式中戦車も歩兵直協任務に十分な性能を持っていた、開発中の試製九九式重戦車とその問題点の解決を目指した百式重戦車は、陣地突破用の重戦車としての性能を発揮できると考えられていた為、日本陸軍は一応の戦車体系を整えることができた。
しかし、昭和十年以降この戦車の体系に「砲戦車」と言う新しい概念が加わる。この砲戦車は、砲兵・歩兵関係者から提案された概念で必ずしも決まった概念では無かった。全体的に、対速射砲戦闘を主眼とする車両を考えられていた。
砲戦車の構想は、高価な戦車を速射砲との戦闘で失うわけにはいかないと言う、消極的な理由からで、初期の構想として山砲級火砲を搭載したオープントップの戦闘車両がイメージされていた。こうした中、九五式重戦車改造の十糎自走砲とジロ車や八九式中戦車改造の十糎自走榴弾砲が試作された。
この砲戦車という構想は、重戦車のコスト面と技術面の問題からの開発難航に苦慮していた参謀本部に受け入れられ、戦車より強力な火砲と装甲を持ち速射砲制圧を主任務とする車両として、砲戦車は研究が続けられた。
75mm山砲級火砲を全周旋回可能な砲塔に搭載するホイ車と75mm野砲級火砲をオープントップの固定戦闘室に搭載するホニ車はこうした思想によって開発された車両である。
開発の先行していたホイ車は、昭和十四年段階で「九九式戦車支援車」と称されており、九七式中戦車の車台を利用した日立製試作車も、新車台の三菱製試作車と共に「試製砲戦車」もしくは「砲戦車」と呼ばれていた。
これに対して、やや遅れて試作が開始されたホニ車の開発動機は明らかではない。対速射砲戦闘ならば、ホイ車の75mm山砲級火砲で十分であったのにも関わらず75mm野砲級火砲を求めたのは、おそらく諸外国の自走野砲に刺激を受けたものと思われる。能力的に砲戦車としての適性が認められ、その方向で発展・開発が模索されたと考えられる。
ホイ車とホニ車が根本的に異なる形態にも関わらず一括して「砲戦車」と呼称されているのは、砲戦車の運用が十分に具体化されていなかったからであろう。
ともあれ、砲戦車というカテゴリーの出現により、日本陸軍に戦車より強力な火砲を搭載する車両群が出現したという事実が、後に機動対戦車戦隊なる特異なポジションの組織を出現させる事になる。
●対戦車戦闘車両としての「駆逐戦車」
速射砲陣地の制圧にあたる大火力車両は、対戦車戦闘にも転用可能と早い段階で認識されていた。ホイ車が具現化された昭和十三年の時点で、対戦車戦闘力のために野砲級火力を搭載する戦車案が戦車部隊関係者から提案されていた点から見て取れるであろう。
具体的な車両開発に繋がる動きとしては「戦車委員会」の資料に、ホイ車とともに「クイ車」という聞き慣れない名称の車両が確認できる。「クイ」の「ク」は「駆逐」を意味し「戦車駆逐車」を表している。
「クイ」という名称の車両はこの時の一回で消えるが、日立製ホイ車試作一号車が完成する見込みが立つと再び駆逐戦車が議論されるようになる。この駆逐戦車は敵戦車の「屠滅に任ずる」車両と定義され・「トイ車」の名称が与えられている。
名称こそ異なっているが、トイ車は実質的にクイ車と同一の案であり、名称の変更は一度放棄された「クイ」という名称が、同時期に構想された「空挺戦車」に使用された為とされている。ちなみに、トイ車はホイ車の砲塔に長砲身57mm砲を搭載する車両として計画されていた。
具体的な検討がなされたトイ車であるが、この車両の記録も昭和十五年で途絶える。しかし、トイ車の記録が途絶えた事は、駆逐戦車の開発が途絶えた事を意味するものでは無かった。昭和十六年度の研究計画には、新たに「駆逐戦車・甲」「駆逐戦車・乙」という2種類の駆逐戦車が確認できる。この2種類の駆逐戦車は、トイ車同様に対戦車戦闘を主眼として構想され、主砲には新開発の57mm砲を搭載予定であった。
詳しく見ると、駆逐戦車・甲は試作中のホイ車の七糎半戦車砲を48.5口径の試製五十七粍戦車砲甲に換装した旋回砲塔を持つ車両であり、駆逐戦車・乙は固定戦闘式のホニ車の設計を流用して57口径の試製機動五十七粍砲を搭載した車両として計画されている。
一見して分かるように駆逐戦車・甲はトイ車そのものであり、駆逐戦車・乙はホニ車の駆逐戦車化案である。これは、一連の駆逐戦車の構想や議論の中に現れた各案を具体化したものある。しかし、この駆逐戦車の名前も昭和十七年度計画では姿を消してしまっている。
「砲戦車」から「駆逐戦車」・「屠滅戦車」と名称と運用を変えつつ継続された対戦車戦闘用車両の系譜が一旦途絶えたのには理由がある。だがそれを知るためには、砲戦車によって支援されるべき対象であった中戦車の開発が同じ時期、どのようにあったかについて知る必要があるだろう。
●混乱する八九式中戦車の後継開発
最初の国産戦車であった八九式中戦車は、登場当時では世界水準の性能を持つ戦車であった。だが歩兵部隊の自動車化が進むにつれ、低速の八九式中戦車では歩兵を追従出来ない事が指摘され、後継車両の開発が進められことになった。
しかし、八九式中戦車の後継車両開発は、スムーズには進まなかった。参謀本部の推す小型で低コストなチニ車と、戦車学校等が推す高コストではあるが大型で重装甲なチハ車が対立したからである。新型戦車の迅速な調達を重視してチニ車を推す参謀本部と、性能面で余裕のあるチハ車を推す戦車学校の主張は、それぞれ理由があるだけに容易に結論が出なかった。
結局、この対立は日華事変の勃発によって予算面での制約が無くなった事からチハ車に軍配があがり、チハ車は九七式中戦車として生産される。しかし、それは暫定的な措置と考えられ参謀本部では九七式中戦車の後に続く新戦車はチニ車と同思想の軽量廉価な戦車を構想していた。
これは、昭和十四年に発足した「戦車研究会」において参謀本部から提出された戦車体系案の中で、戦車団の主体に位置付けられた「新中戦車」が「十頓級ニシテ乗員三名」としている事からも明らかである。
この新型中戦車が、参謀本部案のチホ車である。参謀本部のチホ車案は九七式中戦車より一回り小さい車体に、九五式軽戦車と同系列の発動機を積み、長砲身の57mm砲を搭載するものとされていた。ただ、砲については「已ムヲ得サレハ四十七粍迄低下」とあるように、口径の縮小も許容されており、実際に完成した試作車には47mm砲が搭載されていた。発動機が九五式軽戦車と同系列なのは部品の共有化によるメリットを重視した為である。このように参謀本部のチホ案は廉価である事を重視され、軍全体の近代化の為にまずは戦車の数を揃えたい参謀本部の思惑が見て取れる。
対して戦車学校側は、九七式中戦車を原型とした戦車学校のチホ案を提案して、参謀本部と対立した。戦車学校のチホ車案は九七式中戦車よりやや軽量化した車体に新開発のV8ディーゼル発動機を搭載し主砲は参謀本部案のチホ車と同一とされた。
このまま何事も無ければ、九七式中戦車の後継は軽量型もしくは廉価型の戦車になっていただろう。だが、昭和十四年に発生したノモンハン事件と布哇王国仲介による日中停戦条約締結は、その後の戦車開発に大きな影響を残すことになる。
ノモンハン事件の戦訓から、日本陸軍が従来想定していたより戦車対戦車の戦闘が頻繁に発生する事を認識し、戦車開発や運用を見直す事になったからだ。チホ車の開発計画もこうした流れとは無縁で居られる筈も無く。チホ車の計画が現状に沿わない事から問題点の解消の為チヘ車が開発される事になった。
●駆逐戦車を包摂する中戦車
前述のようにノモンハン事件の影響により、チホ車の開発は放棄された。しかし、チホ車砲塔をベースに新型の47mm砲砲塔を搭載した九七式中戦車の試作車両が製造されている。九七式中戦車への47mm砲砲塔搭載は本格的な生産を考慮したものでは無く、次期中戦車としてのチヘ車へのテストを目的としていた。しかし、試験車両を受け取った戦車学校・騎兵学校での評価は高く、太平洋戦争開戦後に急遽「新砲塔チハ」「九七式中戦車改」などと称する車両が開発・生産される事となった。この事により、九七式中戦車は対戦車能力を重視した設計へ変化した事になる。
一方チヘ車の主砲に関しては、歩兵用地上対戦車砲と同様に47mm砲と57mm砲が比較競技されていた。この問題は、歩兵部隊の急速な機械化により重量的な問題点が解決され地上用対戦車砲として57mm砲が一式機動五十七粍砲として採用され、同盟関係にあった布哇王国の情報筋から世界の特に欧州での戦車開発の恐竜的進化の過程が伝えられ、地上砲と弾丸を共有する便宜と47mm砲では威力不足として48.5口径57mm砲である一式五十七粍戦車砲が採用される事となった。
こうして採用され一式中戦車となったチヘ車だが、一見して分かるように昭和十六年度研究方針の駆逐戦車・甲がスライドしたものである。
駆逐戦車・甲が名称を変えて存続した一方で、駆逐戦車・乙が姿を消しているが、これは一式砲戦車ホニ車の装備する九〇式野砲の能力に十分な対戦車能力があると判断された事がある。
駆逐戦車の名称が姿を消したのは、中戦車・砲戦車の砲力が駆逐戦車の能力を内包し、駆逐戦車と中戦車が機能的に融合してしまったからである。
さらに、他国の戦車事情の推移、特にアメリカ軍のM4重戦車(M4中戦車)の情報と存在は、早い時期から一式中戦車の対戦車能力の限界を感じさせ九〇式野砲改造の戦車砲「二式七十五粍戦車砲」搭載可能なように急遽改良が施されこれを「一式中戦車改」「チヘ改」として量産された。
また、一式中戦車改はM4重戦車に対抗できるものとされていたが、その能力は十分とは言い難く後継戦車「チト車」の開発が急がれた。この後継車両に搭載が予定されたのが「七十五粍戦車砲(長)」と称される56口径75mm砲である。この砲は初速が850m/sで一式徹甲弾を使用時の貫徹能力は1000mで80mmとM4重戦車に対して十分な効力がある砲だった。
その後、チト車の開発の遅延・さらに後継車両である「チリ車」の計画の前倒し・チト車の開発の遅れの穴を埋める為に一式中戦車改を全面改修し「七十五粍戦車砲(長)」を搭載した「三式中戦車チヌ車」の出現などがあった。
この計画・開発の流れから日本陸軍にとって中戦車の任務は対戦車戦闘を内包したものとなり駆逐戦車単体での開発は途絶えるかに見えた。
●機動対戦車戦隊としての車両開発
中戦車の計画・開発が対戦車戦闘を考慮し、他国の戦車同様に恐竜的進化を歩み始めると、思わぬ問題が出現した。それが重量に起因する輸送問題である。
島国と言う日本の条件から揚陸・・・特に輸送船のクレーン能力や架橋能力の限界は頭の痛い問題であった。当時、日本の平均的なクレーンの能力では15t程度の能力しか無く九七式中戦車(15t)九七式中戦車改(15.8t)程度で限界となっていた。
そんな事情から、軽量な車体に強力な対戦車砲を有する対戦車車両の開発が急遽要望された。
この対戦車車両は、かつてのトイ車や駆逐戦車・甲の様に中戦車と共闘し中戦車の対戦車能力の低さをカバーする意味合いの物でなく、中戦車の展開が遅れた地域への進出を目的とし中戦車が展開するまでの間、敵戦車を撃退する為の物である。
その様な要望から昭和十六年、日本陸軍に対戦車戦闘を主眼とする部隊・機動対戦車戦隊が設立された。当初この部隊は、九七式中戦車改を中心に装備していた。
しかし、九七式中戦車改では輸送面で十分な機動力を確保出来ない事と戦車部隊との装備の取り合いが発生し、新たに機動対戦車戦隊用の対戦車戦闘車両の開発が急がれた。この車両は、機動力を第一として輸送の為に軽量・小型である事と対戦車能力の十分な火砲を搭載する事、迅速に開発・配備が行える事とした。
迅速な開発が求められた結果、既存の戦車・装甲車の改修が行われた。まずは、旧式化した八九式中戦車に三八式七十五粍野砲をケースメイト搭載した対戦車自走砲が開発され、これを、試製特七糎半装甲野砲とした。10t程度の重量に旧式とは言え十分な対戦車火力を持つ野砲を装備する車両だったが、運動性能が低く機動対戦車戦隊には不適当とされた。しかし、既存の車両に固定戦闘室を設け強力な火砲を装備するスタイルは後に開発する車両の道筋を示した物だった。
続いて、九五式軽戦車・九二式重装甲車・九四式軽装甲車などやや旧式化した車両・修理目的で後方に回された車両などが改修される事になった。
その中でも、九五式軽戦車に固定戦闘室を設け九七式中戦車改と同様の百式四十七粍戦車砲を装備した試製四十七粍対戦車自走砲の評価が高く、二式機動四十七粍対戦車砲(タイ車)として採用される事となった。ただ、47mm砲では対戦車能力に不安があるとして並行して、タイ車の戦闘室を大型化し一式中戦車と同様の一式五十七粍戦車砲を装備、さらに帯幅を広く改良し走行性能を改善した二式機動対戦車砲改(タイⅡ車)が開発される事となった。
タイⅡ車のサイズと重量(12t)は15tクレーンでの吊り上げ・鉄道輸送での不具合は無かったが、機動力と言う点では港湾能力・輸送船の性能から5tクレーンでの吊り上げが可能な事が望ましいとされた。重量5t以下との要求に適合した装甲戦闘車両となると、重装甲車・軽装甲車が上げられるが、これらの車両には対戦車能力は無く対戦車能力を付加する余裕も無かった。空挺部隊用に九四式軽装甲車の設計を元に開発された「らく号四十七粍装甲速射砲クハ車」があったが、これは運用に車外に補助兵が必要な上に、走行性能が劣悪で空挺作戦以外で使用は不可能と判断されていたし、先に試作されていた九二式重装甲車・九四式軽装甲車の改修車は一式三十七粍戦車砲の搭載が限界であった。
これらの事から、新規設計の対戦車戦闘車両の計画が上がった。この車両は、速射砲搭載軽装甲車ソト車の設計を元に開発。車体上面に床を設け、速射砲をそのまま搭載するソト車と同じスタイルだが、ソト車が37mm対戦車砲(九四式三十七粍砲・一式三十七粍砲)の搭載が限界であったのに対し、車体の拡大・発動機の強化が行われた新車両は試製機動四十七粍砲・一式機動五十七粍砲・ゲ式七十五粍対戦車砲・三八式野砲・九〇式野砲などが搭載可能で十分な対戦車能力を与える事が出来た。ソト車同様に砲を車載したまま射撃が可能で、むろん砲を脱駕して、砲単独で布置する事も出来た。
車体と砲を分離する事で、重量軽減を目指した本車は「対戦車砲搭載軽装甲車タト車」として採用された。車体重量は4.8tで固定武装として車体前面に機銃を装備していた。
タト車は、走行性能に若干の不安が有ったものの5t未満の重量と搭載火砲に依存するが十分な対戦車能力を持つ車両だった。
生産が容易であった事・島嶼作戦における展開能力の高さから太平洋戦争初期には機動対戦車戦隊にかなりの数が配備されたが、戦争中期ころには同盟軍の港湾・輸送船・クレーン能力が向上した為、軽量化に特化し過ぎたタト車は戦闘車両としての取り回しの不便さと輸送任務に適した形状の車体の汎用性の高さから第一線を引いて行く事になる。
独創的な対戦車車両であったソト車・タト車だったが、軽量である事が求められ過ぎた為に戦争初期の活躍という短命であった。それに対しタイⅡ車やその発展型の三式機動対戦車砲タロ車などの軽戦車に固定戦闘室と対戦車火砲を装備したスタイルの対戦車車両が日本の対戦車車両の主流となっていった。
●M6重戦車の影響
太平洋戦争初期、米軍の主力戦車はM3軽戦車・M3中戦車だった。これらの車両に対して同盟軍の対戦車火砲は十分な効力を発揮していた。しかし、米軍はすでにM3中戦車を踏襲しながら性能を向上させたM4中戦車を開発しており、同盟国軍でもその情報を割と正確に掴んでいた。それ以上に問題だったのは、M6重戦車(同盟国側でもT1重戦車の情報からM1重戦車と誤解していた。)の存在だった。重量50t以上・最大装甲厚100mm以上のこの怪物を撃破するのは容易では無いと考えられていた。
当初、このM6重戦車はアメリカ機甲軍に酷評を受けていた。その理由は、トランスミッションが脆弱で走行性能がおぼつかず、備砲の3インチ砲はM4中戦車・M3中戦車に搭載された75mm砲M3に比べてやや強力であるものの圧倒的と言うわけでも無く、自慢の装甲防御力も本車に内包された多くの欠点を補えるほどの物では無かった。にもかかわらず車重は57tにもおよび、その輸送には多大な労力が必要だった。
それだけの苦労をしても、戦場で必要とされる戦車か?と言えばそうではない。というのがアメリカ機甲軍が出した結論だった。
しかし、太平洋戦争が推移して行く内に事情が変わり始めていた。アメリカ軍のM3軽戦車・M4中戦車で同盟国軍陸軍を圧倒できるとした予想に反して同盟国軍は十分な対戦車火力を有し、多くの戦車と戦車兵が犠牲となった。
前線では、M4中戦車よりも強力な戦車の要求が高まり1943年に少数ながら無理を推してM6重戦車が太平洋戦線に配備される事となった。
最大装甲厚101mmの本車は、同盟国軍の持つ対戦車火砲で撃破するのは非常に困難だった。特に対戦車戦闘の要である三式中戦車チヌ車の56口径75mm砲でも不十分だった事が大きな問題となった。さらには機動力を重視した結果、中戦車より火力の劣る機動対戦車戦隊の持つ火砲では余程の好条件でなければ対抗は不可能と考えられ早急な対策が求められた。
また、将来登場するであろうさらに強大な戦車に対抗する為に対戦車自走砲は、輸送・展開能力を重視した物から、対戦車火力を重視した物へと変化してくことになった。
●重駆逐戦車と軽駆逐戦車
M6重戦車の出現から日本陸軍の対戦車戦闘車両の開発は重量・輸送の呪縛から解き放たれるかに見えたが、島嶼作戦が基本となる日本軍にとって機動力は重要な問題であった。
そこで、従来通りの軽量化を重視した軽対戦車戦闘車両と敵重戦車撃破を重視した重対戦車戦闘車両の並行開発の流れとなった。
重対戦車戦闘車両は、タイ車などの設計を元に中戦車ベースに開発が進められる事となった。
昭和十八年、陸軍兵器行政本部主催の検討会で新たに対戦車任務用の10cm自走砲の開発が提案された。具体的には「口径十糎半ニシテ射距離1000米ニ於テ装甲200粍ヲ貫通シ得ル」自走対戦車砲である事とされた。この案に対して、現在の技術では達成困難と考えられ条件を緩和するべき、との意見もあったが、欧米列強の戦車の発達を予測した結果、この要求性能は必要であるとの事で提案どおりに決定した。
車体は、四式中戦車チト車を利用する事を計画していたが、搭載予定の55口径10.5cm砲の重量は5t近くになり、タイ車などの設計では十分な戦闘室が設けられない・ノーズヘビーになり足回りがそれに耐えられない可能性が浮上し、従来の対戦車戦闘車両の配置と異なり車体前部に機関室を設けその後ろに操縦室・戦闘室が設けられた。
それに対して、軽対戦車車両は昭和十七年にドイツより渡った穿孔榴弾を主体としロケット・無反動砲を主兵装とする事となった。これらの兵器は軽量で、簡易な構造・反動も極めて少ないので既存の軽戦闘車両に簡単な改造を行うだけで搭載が可能だった。
特にドイツから技術提供された8.8cmロケット発射器43型は閉鎖器が付いており、利便性が高く、有効射程も長いので期待された兵装だった。
また同じくドイツより技術提供が成された無反動砲は、携行用の81mm砲と外装式45mm砲と車載用の105mm砲と75mm砲が開発された。車載式の有効射程は1000mに上り穿孔厚は130mm以上と極めて強力なものだった。
その他に、日本独自の低反動対戦車兵器として噴進爆雷と呼ばれる20cm対戦車ロケット砲なるものもあった。これは、二十糎噴進弾を利用した対戦車兵器で大重量の弾頭重量を持って敵戦車の装甲を文字通り叩き壊してしまおうと言う代物だった。
これらの兵器は既存の軽戦車の砲塔を廃し、砲塔ターレットを塞ぎその上に直接搭載される事が多かった。
敵重戦車を意識し大口径対戦車火砲を搭載した重駆逐戦車と機動力を重視し本格的な部隊の展開までの繋ぎの意味合いの低・無反動砲を搭載した軽駆逐戦車の2本立てが日本対戦車戦闘車両の基本スタイルとなった。
●重駆逐戦車の誤算と帰結
M6重戦車を意識し完成した十糎半機動対戦車砲カト車だったが、30t戦車クラスとしては無理な設計であった四式中戦車の車体を利用したため大重量砲の運用に耐えれず不具合が続出した。
その為、早い時期から次期主力戦車チリ車の車体を利用した十糎半対戦車砲の設計が成されていた。この車両は、五式中戦車チリ車が生産開始直後に全面再設計が行われると言うアクシデントで、すでに生産されてしまい兵器としては不適格とされた五式中戦車の車体を利用する事になった。車体中央に固定戦闘室を設けたデザインでドイツの重駆逐戦車ヤクトティーゲルに類似した設計となっている。これを、五式十糎半砲戦車ホリ車とした。
また、生産性から主力戦車である五式中戦車改チリⅡ車の車体利用した砲戦車も計画されており、こちらは10.5cm砲とさらに強力な海軍十年式十二糎高角砲を対戦車砲に転用した長十二糎対戦車砲搭載の2種類がある。車体デザインも大幅に異なり機関室を前方に戦闘室を後方に収める配置だった。デザイン的にはドイツの駆逐戦車フェルディナントに似た感じとなっている。10.5cm砲搭載車を五式十糎半砲戦車改ホリⅡ車、12cm砲搭載車を五式長十二糎砲戦車ホリⅢと呼称していた。
これらホリ車シリーズを持ってアメリカ軍重戦車に対抗しよう試みていたが、ここで思わぬ誤算が生じた。倒すべき相手が物理的に居なかったのである。
その理由はアメリカ陸軍の明確な持論であった。それは第一次大戦でアメリカ陸軍がヨーロッパで戦った際の戦訓に基づくもので、必要性と実用性という二つの指標を用いて装備を評価するという物である。限られた輸送能力を用いて外地の戦場に送られる装備は、絶対に必要とされるものでは無らない。その絶対に必要とされるものは、信頼性と機能性に富んだ、実用性に優れた物でなければならない。
この絞込みにより、M6重戦車は不要と判断され太平洋戦線に送られたのはわずか18両(一説には25両)と極めて少なく。さらにM26パーシングの開発と採用は極端に遅れ、M4A3E2ジャンボの生産は現場の要望よりずっと少なくされてしまった。
むろん、この絞込みがあったからこそアメリカ陸軍は合理的な兵器体系と補給体系を確立できたと言える。
しかし、相手を失った日本重駆逐戦車達は容赦なくM4中戦車にその牙を向ける事となった。だがそれは、重駆逐戦車としては不本意な相手ではあった。
さらに、日本中戦車の体系も追い打ちになった。チリ車・チリⅡ車は56口径75mm砲を主砲としていたが、本命とされた五式中戦車改Ⅱ「チリⅢ車」にはチリ車同様に大柄な砲塔を装備しており九九式八糎高射砲(45口径88mm砲)を改造した五式八糎八戦車砲を主砲としていた。
この砲塔は、さらに強力な砲を搭載する事を考慮され、海軍の九八式八糎高角砲の転用戦車砲(60口径76.2mm砲)や九二式十糎加農砲改造の戦車砲(45口径105mm砲)が搭載されており、この時点で重駆逐戦車の能力に匹敵する装甲貫徹能力を有していた。
世界的にも走・攻・守が高いレベルで維持された主力戦車と言う概念が広がっており、日本陸軍もその潮流に乗りつつあった。
重駆逐戦車は中戦車ひいては主力戦車と言うカテゴリーの中に再び取り込まれる事となったのである。
●軽駆逐戦車の進化
一方、中戦車の展開出来ない状況に対応する軽駆逐戦車は中戦車の進化の影響を受けることは無かった。
既存の戦車に簡易な改造で搭載可能な低・無反動砲は制約も多いが有力な対戦車兵器として認識されていた。
当初は九五式軽戦車や九八式軽戦車の砲塔を撤去しそこに複数門の低・無反動砲装備する旧式装備の再利用車両が主力だったが、低・無反動砲の火力は対歩兵戦・陣地攻撃にも十分な破壊力を有し対戦車戦闘以外にも活用される様になると急速に需要が高まり新造車両にも搭載されるようになった。
また、車載用無反動砲の拡散筒は砲身・砲尾と軸線がずれてあるので、密閉式砲塔に搭載可能と言う特徴があった。この特徴を生かし密閉砲塔に4門の無反動砲を装備した物が開発され九七式中戦車・一式中戦車・四式軽戦車・五式軽戦車などに搭載された。密閉旋回砲塔に装備された事で利便性は高く。軽戦車より高い火力は対戦車戦闘以外にも活用され各種任務に重宝された。
噴進爆雷は軽戦車に簡易的な木製発射台を付けたものから、一式中戦車の車体を利用した本格的な密閉固定戦闘室を装備した駆逐戦車トロ車などが登場しており、その大弾頭を利用して米戦車を文字通り屠滅していった。
さらに、大戦末期にはドイツのルールスタールX-7ロッカプヘン対戦車誘導弾をライセンス生産権を取得し、同盟軍共同で改良・生産。これを、特殊飛行標的『蟷螂』として軽量装甲車などに発射カタパルトと共に搭載し評価試験・実戦投入を行っている。
特殊飛行標的『蟷螂』の構造は、直径15cmの弾体に先端から信管・2.5kgの弾頭・ジャイロ誘導制御装置・固体ロケットエンジンを積み、弾体には両側面に長方形の翼と下部に垂直翼、垂直翼の尾部に簡単スポイラーを設け、発射器からの誘導ワイヤー2本は水平翼の翼端の整形部に結ばれていた。
誘導は目視誘導で噴射炎を見ながら位置を確認しジョイスティックで射手が誘導する方式が取られていた。実戦での評価は使用環境や射手の練度に依存する誘導方式から不評だったが、戦後の対戦車戦闘車両の道筋の一つを示していた。
このように、重駆逐戦車が中戦車に内包されたのに対し軽駆逐戦車はその任務の特異性から順当に進化を続け戦後もその血脈を残す事となった。
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今まで作った物、これから作る物に対する言い訳的な物です。
「丸」に掲載されていた記事を利用しています。