公園にやってきたボクらは駐輪場の脇にあるコンクリートの壁のところに立った。
ボクは彼女の写真を六条さんに手渡した。登山に出かける日の朝にボクが撮影したものだ。
まさかこれが最後の写真になるとは、ボクらは思ってもいなかった。
「彼女のお名前は沢渡さんでしたっけ?」
六条さんが尋ねる。
「沢渡 舞です」
六条さんはじっと写真を眺めた後、琥珀色の結晶を取り出した。
コンクリートの壁に当たるたびに小さな光がキラキラとまばゆい。
すこしづつ描かれてゆく、舞。
さらさらしたロングヘア、それをまとめるバンダナ。白いTシャツ。袖から伸びる、細くて華奢な腕…。
「六条さん」
「はい?」
「その目元のほくろは描かないでおいてくれますか?」
「え?」
「彼女、気にしてたんです。それ」
六条さんはちょっと考えた後、描きかけの赤い点をごしごしと消した」
軽い摩擦音を立てながら、彼女をなぞり続けるチョーク。タイトなジーンズに、スニーカー。
輪郭が仕上がり、細部を描き始める。
「そのチョーク、どこから来たんでしょうね」
「私にもわかりません。いつの間にかポケットに入っていたんです。でも多分…」
少し黙って、丁寧に舞の目元のあたりを書き終えると六条さんは言葉を続けた。
「わたしの念のようなものが、具現化したんじゃないかと思うんですよ。
以前は仕事もお金もなくて、食べるものさえ事欠いていましたから。
その欲みたいなものが、こういう形に結晶したのかなと。
想像ですけどね…」
舞の姿に陰影がつけられ、立体感が増してゆく。
「だから、こうして自分の利己心じゃなく、他人のためにこれを使うことで
私自身、このチョークの呪縛みたいなものから逃れられる気がしたんですよ」
ボクは本当にそうかもしれないと思った。六条さんの青白い顔に少しずつ赤みが差してゆく。
それと同時に壁の中の舞にも命が宿ってゆくように見えた。
チョークが残り少なくなり、空が少しづつ色を変え始める頃。絵が描きあがった。
ボクらは1,2歩後へ下がる。
壁の上に琥珀色の光が霧のように密度を持つと、形をとった。
風が懐かしいに匂いを運ぶ。そして。
階段を踏み外したときのように、よろよろ、っと2次元の世界からこちら側へ1歩が踏み出された。
「舞!」
「????」
きょとんとした彼女はしばし目をぱちくりさせる。
「あれ?え、と。宮本君?ここ、どこだ、っけ、な?」
六条さんがせかすように言う。
「早く。もうすぐ夜明けだ。注意すべき事は分かってるね」
「ええ、お話では日の光に当てると元に戻ってしまうんでしたね」
「そう。チョークは君にあずけておくよ。私にはもう必要のないものだから。
きっと何かの役に立つよ」
「六条さん本当にありがとうございました!舞、急いで!」
ボクは”はてな”マークを飛び回らせている舞子の細い腕を取って、走った。
「あわわわ~っ!」
ほとんど宙に浮いたような状態で走る、舞。
今日の最初の日の光がアパートを照らす前に、何とか舞をつれてドアを閉めることが出来た。しかしまだ部屋のあちこちから日が漏れている。ボクは思わず彼女をベッドルームへ押し込むと、シャッターとカーテンが下りていることを確認する。
「舞!太陽の光に当たらないようにベッドにもぐっていて!」
ボクはドアを閉めると、リビングの窓のシャッターを閉じ、キッチンの窓を通販のダンボールとガムテープでふさいだ。そして玄関の明り取りの窓。これでとりあえずは大丈夫。
ベッドルームの照明をつける。
「舞、大丈夫だよ。もう出てきてもいいよ」
舞は、そおっと毛布から顔を出すとベッドの上に正座をした。
「宮本君、そこに座って」
「あ、うん」
ボクも思わずベッドの下に正座をした。
おもむろに舞は話し出した。
「わ、わたしの人生で初めて事。宮本君と手をつないだこと。宮本君のアパートに入った事。そして、ベッドルームで二人っきりという事。この状況を、どう説明してくれるの?」
と、ボクら二人は顔から火を吹かんばかりに赤面した。ぽん!と頭から湯気が上がったに違いない。
「え、ええと…ちょっと話すと長くなるんだ」ボクはうろたえた。
「とりあえずコーヒーでも入れるから、待っててくれる?」
「う、うん」
もそもそ。再びベッドにもぐりこむ舞。
「どうしたの?」
「宮本君の匂い~…」
「嗅がなくていい、嗅がなくていい」
と、今度はなにやらベッドの下をごそごそ。
「今度は何?」
「健康な男子のベッドの下にはお宝があるという伝説が」
「ないから、ないから」
帰ってきた。まごうことのない舞が。
つづく
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"魔法のチョーク"で描かれた彼女が、2次元の世界から1歩を踏み出す。ただしチョークで描かれたものには約束があった。