五章 虹の極彩。すれ違う人。乗り越えるべき過去
最初の進路を取る時、参考となったのはダニエルの言葉だった。南の治安が悪いと言うことは、裏を返せば北は比較的治安が良いということだ。事実として、二人がつい先ほどまでいた町も大陸の北に位置する。北にも関わらず常夏に近い気候を持つのだから、より南がどれだけ暑いかは想像したくない。
さて、人が住む場所を決める時の理由は色々とあるだろうが、泥棒に入られやすい家と、入られにくい家が全く同じ条件であったとすれば、前者に住もうと思う人間はまずいないだろう。泥棒の入らない家から、入られやすい家に引っ越すなどはもっと考えがたいことであり、北に位置していたあの町から南下するなど、よほどの事情がある場合にしかないだろう。
となれば、まずは北を当たってみた方が良い。大きな街も比較的多いため、情報もそれだけ集まりやすいと考えられる。南に向かうのは可能な限り情報をかき集めてからにするのが得策だ。
最初の町の規模は、リーディエ達の住むものと同程度。住所を届け出していないのであれば、何かしらヤバいことをしているのではないか?と言うのはもちろんエリク。普通にエリアスという人物の名前を出して尋ねて回るのではなく、酒場のような多少アウトローな連中の集う場所に掛け合うのが一番、という結論が出た。
さすがに年端も行かない少女が入るのは難しい場所なので、ここに来るまでの三日分で使った食料を買い足しに行かせ、その間にエリクがうらぶれた酒場へと飛び込んだ。宿を取っていればその部屋で休んでもらうのが一番なのだが、残念ながらそこまで資金に余裕はない。ひと月分の給料の前借はしているが、いちいち宿に泊まっていれば、あっという間に底を尽きるのが目に見えている。
「よう兄さん。見ない顔だな?」
「ああ、ちょっと旅をしていて。なぁ、マスター。最近、この町に越して来た奴はいないか?ここ三ヶ月以内ぐらいだ」
「引っ越して来た奴か?そうだな……そんな情報を郵便屋とかじゃなく、ここに求めるってこたぁ、日陰者を探してるんだな?」
「名前しかわかってないんだけどな、郵便屋が握っている情報から漏れてるのは確かなんだ。エリアスさんって名前、わからないか?いや、もしかすると偽名を使ってるかもしれないんだが、三十代の金髪の男らしい」
「奇妙な探し人だねぇ。しかし、俺ぁ大抵の人の出入りを知ってるが、見たことも聞いたこともない」
「そっか。酒のいっぱいもやって行きたいところだけど、節約しないといけない身の上だから、タダで質問だけさせてもらってごめんな」
「なーに、そう言ってくれるだけで十分さ。最近の若い奴は――」
「あ、ああ、それから、この銃に見覚えはないか?」
「銃?ふむ、ずいぶんと立派なのはわかるけど、余計にわからないな」
完全な空振り。軽い落胆はあるが、こんなにも早く行方がわかるとも思っていない。足早に酒場を去ると、リーディエと合流するために市場へと向かう。
やや北上したとはいえ、この辺りの風景は元いた町とそれほど大きくは変わらず、南国の果実を実らせる特徴的な形をした木々が目立つ。つまり、長細い先の尖った葉を無数に持つ枝が放射線状に広がり、星型のようにも見える。
より四季のはっきりとした地域に住む人間にとってそれは馴染みが薄く、今でも少し不思議に感じられるものだ。
建物の壁は白く、石畳も茶色がかったほぼ純白。空は青く、木々は深緑色。その全てが鮮やかな美しいものに思えるのは、この国に来た時のことを思い出していたかもしれない。
当時のリーディエは、話しかければ答えはするものの、自分から話しかけるようなことは絶対になく、会話も成立しているのかそうでないのかいまいち不明瞭な、淡々とし過ぎたものだった。容姿の可愛らしさはあっても、態度があまりにも悪いのだから可愛いという印象は他人に与えない。あの時の彼女にこの風景は目に入っていなかったことだろう。あるいは、全て灰色に映っていたのに違いない。
じんわりと腕に汗をかきながら歩いていくと、遠目からでも目立つ――いや、見落とすはずがない、小柄な少女がそこにはいた。旅装は郵便屋の制服ではなく、以前エリクがプレゼントした私服だ。そこに黒いマフラーを巻き、カバンは郵便屋の黒い革製。南国の暑い夏をマフラーなんて巻いて過ごしているのは彼女ぐらいだから、たとえ彼女がぱっとしない外見でも目立ったのだろう。
「よ、リーディエ」
「エリク。どうだった?」
「空振りだった。まあ、そう順調な旅にはならないよなぁ」
「そう。気楽に行こう」
「だな」
頷きながら、軽く苦笑する。軍隊ならば、“迅速な行動”や“効率重視”といった言葉をスローガンにして、“気楽に”や“気楽な”なんて言葉は絶対に使いたがらない。リーディエがすっかり軍の支配から解放されたのだということが、何よりもその言葉によって証明されていて、エリクはとにかくそれが嬉しかった。
「さて、じゃあもうちょっと北に行ってみるか」
郵便屋の地図は正確だが、小さな村までは載っていない。それに比べ、どこかからダニエルが確保し、フォンスの手によってリーディエ達にもたらされた地図は、人口が十人ほどしかいないような集落まで掲載されている。信頼の出来る機関によって発行された物ではないのだが、正規品より使いでがあるのは確かだ。これがあれば、たとえ小さな村に件のエリアス氏がいても問題はない。
「うん。行き先は、エリクに任せる」
「じゃあ、届けるのはおまえに任せるな」
「任せて」
馬を使わない長旅。二人とも可能な限り荷物を軽くしているため、それ等を運ぶために労力は割かないで済むが、とにかく長距離を歩いて移動するのは町暮らしが当たり前だったエリクには難しい。しばらく進む度に休憩を入れなければ溜まったものではないのだが、一方でリーディエは疲れ知らずで果ての見えない草原や街道を走り続ける。あの黒いマフラーを美しく風に遊ばせて。
そこで考えたのは、とりあえず彼女に先行してもらい、適当な休憩場所を見つけて休ませる。そこにエリクが追い付いてから、太陽の傾き具合を見て更に進むか、今日はそこで野宿をするかを決める、という進み方だ。野宿をすれば宿代はかからないし、温かいので寝袋なしで寝ても風邪をひくことはない。夜盗の心配は、どちらか(主にエリク)が起きて番をしていれば良い。
二人の歩くペースの違いを上手く埋め合わせ、どちらかが無理をしなくて済むので、中々にこれは上手く行っている。「届けるのをリーディエに任せる」と言うのは、この進み方をしている以上、町があれば先にリーディエが着く。首尾よく行けば、彼女の到着し次第、手紙の配達が出来るという訳だ。現在はエリアスがどの町に住んでいるのかわからないので、上手く行くことはないのだが。
「お、ドライフルーツも色々と売ってるな。甘い物は大切だし、これなら日持ちもするだろう。買って行くか」
「うん。……あ、アンズがある。ね、これ買って良い?」
「はは、おまえ、すっかりアンズが好きになったんだな。俺達の国だと高級品だったけど、ここじゃ珍しくもなんともないなんて、所変われば品も変わる、ってやつか。良いぜ、安いし美味いからな」
「ありがとう。すみません、これください――」
黄色い果実の干物を一袋分購入し、嬉しそうにするリーディエ。この旅は、あくまで手紙の配達、そして行方知れずのダニエルの夫の捜索を目的としてはいるが、少女らしい感情を取り戻したリーディエにとっての初めての旅行だ。彼女が楽しみ、見聞を広めることが主なる目的だとエリクは言いたい。もちろん、無駄遣いをしていては旅費を使い尽くし、緊急の仕事をしなければならないだろうが、エリクは自分の細工の腕に覚えはある。飛び入りの石工で稼いでも良いと思っていた。
「どうしたの?」
少し、呆けた顔をしてしまっていた。つまみ食いをしていたリーディエが気付く。
「いや、おまえは可愛いな、って」
「……ありがとう」
「ん?いつもの、言わないのか?」
「エリクがナンパなのは、今更口に出さなくても良い、周知の事実」
「う、うぐっ……その扱いの方が、クるものがあるぜ…………」
「あ、はははっ」
口を開き、目を細めた笑み。目の端には悲しみではなく、笑顔の涙が溜まっている。
夢のように不思議で、幸せな光景だと、エリクは感じていた。
草がなく、むき出しの大地を駆ける少女。
可憐さと同時に力強さもその姿からは感じ取ることが出来、揺れる白いポニーテールと黒いマフラーという二本の尾っぽは、どこか幻想的に見える。白に光、黒に闇を見るのはいささか単純過ぎる情緒だが、始まりの世界の混沌を思わせるツートンカラーはぴったりと少女にマッチしていて、軽やかでありながら疾風迅雷の速さを持った走りを見せる彼女は、天の使者のようですらあった。
右足を出し、即座に左足が前に出たかと思うと、次の右足が、更には左足が。どうやら少女は、普通の人間が一歩進む時間で二歩、三歩と前に出て行くような機敏さを持っているらしく、それでいて息も全く上がっていない。もうかれこれ、一時間は休みなしに歩いているというのに。
これだけの体力と脚力は、もちろん天性のものである。才能がなければ、どれだけ訓練してもここまでの俊足は実現しない。だが、訓練――それもまた、彼女の場合は普通の人間と比べることが出来ないだけの量を積んでいた。
それも、教官によって徹底的に教え込まれたのではなく、日々の異常な生活の中で自主的に積むこととなったものだ。敵兵をまく時、単独で敵の布陣を調べ上げ、その場から撤退する時。エトセトラ、エトセトラ……。
死地で磨かれた才能も、今となってはこうして平和的な目標を達成するために使われているのだから、人の運命というものはわからないものだ。そう言えば、神を信じないスタンスを貫いている彼女の友人である錬金術師は、この運命めいたものをどう解釈しているのだろうか?
「……さすがに、暑い」
体力的にはまだまだ大丈夫だが、炎天下を走るとなると、すさまじい量の汗が噴き出してくる。半袖ブラウスはぐっしょりと濡れ、体は強く水分を求め始める。近くには木陰も何もないが、これ以上走るのは厳しそうだ。崩れ落ちるようにその場に座り込むと、ブラウスの袖口を緩め、空気を服の中へと送る。
水筒に口を付けて中の水を喉へと流し、スカートを扇いでなんとか体の冷却に努めた。
「ふぅ、リーディエ、やっと追い付いた、か……」
遅れてやって来たエリク青年は、リーディエよりも消耗が激しいらしい。傍らに倒れると、水をがぶ飲みする。
「エリク……下、汚いよ?」
「うがー、髪の中に砂が入ってじゃりじゃりしやがるー……」
「バカ。横になりたいなら、言ってくれれば良いのに」
「え?」
「膝枕ぐらい、する」
呆然。すさまじく魅力的な提案を受け、すっかり思考が停止してしまったようだ。が、頭をぶんぶん振るって砂を飛ばすと、急に真顔になる。
「是非、頼むっ」
「……うん」
リーディエは素直に頷くと、膝を折り、肉付きの薄い太ももをさらけ出す。そのままエリクの首の下へと足を挟み込ませ、まるで赤子をあやす母親のように彼の頭頂部に手を置いた。
「どう?」
「あ、ああ。意外と柔らかくて、すべすべしてるな」
「そ、そう?」
「すっごく気持ちいいよ。もう少し日差しが弱かったら、このまま寝れそうなんだけどなぁ」
「あたしの足が痺れるから、それは駄目。ちょっと休んだら、ゆっくり行こう?とりあえずもっとちゃんとした休める所を見つけたいし」
「はは、それもそうだな。こんな細い足をずっと枕にしてやったら可哀想だ」
その後も少し話をして、リーディエの足が痺れない内に二人は立ち上がると、次の町を目指してまた歩き始めた。
三日分を歩き、この国、この大陸の中でも最大と呼べる大きさの街に辿り着くと、やはりエリクは酒場へ、リーディエは市場へと向かう。干したアンズは糖分を求めて道中で食されることが多く、嗜好品としての用途は完全に失っていたのだが、それはそれで結果オーライというものだろう。
似た類の物をこの街で買い直すのもそう困難なことではなく、好物の黄色い果実の乾物はすぐに見つかった。ただし、若干この街は物価が高いらしい。見た目上の値段はそう変わらないのだが、量は少なく感じられた。これが都会というものか。
諦めてこの出費を、他の食料を安価な物で揃えることによって埋め合わせることを決意する。とは言え、日持ちのする食料は味も値段も似たりよったりで、切り詰めるところはあまりない。せめてもう少し味のバリエーションがあれば良いのだが、菌の繁殖を防ぐためにどれも強い塩味だし、食感は一律で悪い。つまり、若者でなければ噛み切れないのでは、と思うぐらいの硬さだ。
それ等の干し肉にはもちろん脂身などはないし、硬いパンもそう美味い物だとは言えない。食事に楽しみが見出せないとなると、それだけで士気は下がってしまうのでせめて何か工夫を凝らしたいが、残念ながら鍋などの調理器具は全て自宅だ。煮込めば干し肉からは良いダシが取れ、それでちょっとしたスープも出来ただろうに、鉄の塊を持ち運ぶことを嫌った怠惰が招いた悲劇がここにある。
そうなれば、焚き火をして肉やパンを直火で焼くぐらいしかないのだが、これにも飽きてしまった。そもそも、水分のない食べ物を焼いたところで柔らかくなるようなことはなく、塩味が強過ぎるので味付けも意味をなさない。必然として、味の変化はドライフルーツに求められることとなった。
「……すみません、もうひと袋、アンズをもらえませんか?」
「はい、毎度ありー。お嬢さん、好物なのかな?」
「ええ、旅の中で果物は貴重ですし」
「あー、確かにそうだねぇ。バナナの木はそこら辺にあるけど、あっという間に腐っちまう。その点、ドライフルーツは良いね。ただ、瑞々しさには欠けちまうのがねぇ」
二律背反。日持ちさせるためには乾燥が必須だが、そうすると口の周りを濡らすほどの瑞々しい果実は食べられない。だが、そうした果実は持ち運びには向かない。可愛い子には旅をさせよと言うが、本当に旅は過酷なものだと実感する。
逆に、この旅を終えて町に帰る頃には、また一回り大人になっているのだろうか?
そんな風に考えながらエリクを待っていると、すぐに彼はやって来た。どんな情報を仕入れて来たかは、その顔でわかった。前の町のように、空振りではなかったようだ。
「エリク」
「リーディエ、こいつのことなんだけどな」
そう言って、拳銃を取り出す。ダニエルから預かって持って来たこの武器だが、かつてこんなに小型の銃はなかった。ここ十年ほどで急速に発展、普及して来た武器だ。初期型は暴発なども多かったそうで、依然として銃は大型のライフルが主流だったのだが、今の物はかなり改良されているらしい。リーディエもエリクも、そのことを知識的に知っているだけで、戦場で実際に自分達が手に取ったのはどれもライフルだったのだが。
「ジャンさんの名前は知らないけど、どうもそれらしい軍人風の男の目撃情報があったんだ。群青に金糸で刺繍の入った軍服。間違いないだろ?」
「…………うん」
下級兵士には制服など、あってないような物だった。事実としてリーディエはより軽装の普通の服を着ていたし、きちんとした服装をしていても行軍の最中に乱れることが多い。だが、その兵士を使う側の人間は嫌みなぐらいに美しい身なりをしていて、下士官は群青色の制服。上士官となると、それに金糸で階級を表す刺繍が入れられている。佐官となると、更に勲章などの装飾が入って派手になるはずだ。
他国の軍では制服の色が異なるため、まず間違いなくリーディエ達が、そしてダニエル夫妻が所属していた軍のものなのだろう。
「で、その男が道を街の人に聞いていたんだが、その行き先が妙なんだ。どこだと思う?」
「普通にいけば、あたし達の町だけど……」
「それが、メンディスの街だ」
「名前は見たことがある気がする……確か、南にある大都市?」
今持ち歩いている地図にもその名前はあるし、何よりもリーディエにとってその街の名前は、住民から預かる手紙の宛先として見ることが圧倒的に多かった。この国の南は治安が悪いということもあり、小さな町が群集しているのだが、メンディスという街は巨大な都市で、南の物流の中心となっている他、大規模な軍隊も駐屯している城塞都市だ。
市壁は高く強固であると同時に、火器や矢で外敵を狙い撃ちにするための塔も備え、やや物騒な雰囲気を醸し出す街という噂があり、家に妻を残した夫が向かうような場所とは考えがたい。それも仕事の一環だったのだろうか?
「ああ。商人はよく行くけど、決して穏やかじゃない評判のある街だ」
「それは、どれぐらい前の情報?」
「二週間前、これは確かな数字だ。で、それだけの時間があれば、今頃はここからでもその街には着いているらしい。今からすぐに俺達が向かって、相手が動かなければ、追い付くことも出来るだろうけど」
「うん。じゃあ、すぐに発とう。エルは本当についでで良い、って言い方だったけど、すごく寂しそうだったから、出来るなら旦那さんを探し出してあげたい」
「ま、肝心の手紙を届ける相手の情報もないしなぁ。準備を整えたら、とっとと行くか。せめて片方は目的を達成しないとな」
「最終的には、どっちも達成してみせる」
リーディエはあくまで頑なで、その表情には迷いがない。以前よりずっと雰囲気が柔和になった彼女だが、真剣な表情はより険しさを増したように見えていた。機械的に命令を処理しているのではなく、自身の胸の内から湧いた使命感に従った行動だからだろう。
それに対してエリクは表面上でだけは溜め息をつくが、どこまでも彼女を支えるつもりで、買い足された食料の入ったカバンを背負った。
進路を南に取ってからの旅路は、しばらくの間に限って言えば波風立たない平和なものだった。
背の低い草の生えた空が眼前には広がり、整えられた街道の左右には牧場らしき杭の打たれたスペースの中に、何種類かの動物が見える。ウシやヒツジ、それからヤギ。馬小屋もあるようだ。
牧歌的な風景の中をリーディエは休まず歩き続ける。町を出てから二週間が経過したが、一度北に行って戻って来たので、地理的にはほとんど進展がない。ただし、利得の計算抜きに助けたいと思っている錬金術師の夫の情報を握った今、北への長旅も全くの無意味ではなかったということだ。
もちろん、“伝え人”と名付けられた役職に就いたリーディエにとって、必ず達成しなければならない目的は手紙の配達であり、決してそれを忘れることは出来ないのだが、有力な情報もなく歩き回るより、先に解決出来そうな方に向かった方が良いのは考えるまでもない。
――和らぐことのない日差しが照り付け、リーディエの白髪がきらきらと輝く。まるでダイヤモンドのように。
そこから飛ぶ光の飛沫の正体は汗であり、依然としてこの南の国を徒歩で旅することの辛さは変わらない。夏が中々過ぎ去ってはくれないので、もしかすると全ての仕事を終えても尚、太陽は赤々と燃え続けているかもしれない。そう考えると気も滅入るというものだが、弱音の一つも吐かずにリーディエは足を動かす。そんな彼女を遥か遠くに認めるエリクも、彼女に負けないように。そう必死になって前へと進んだ。
一心不乱に行く間に草原は遠く後ろにあり、次に見えるのはただただ地平線のみ。殺風景な風景の中、街道だけが確かに続いている。道を外れればそこは砂利だらけで、この土には養分などありそうにもない。
自然の恵み豊かなこの大陸において、そこだけが邪神の血に穢されたかのように嫌な空気が流れていた。そんな痩せた地に村や家があるはずもなく、よく見ると遠景にのみ小さな一軒家がある。休憩所の類だろうか。エリクを引き離してずいぶんと歩いていたので、あの辺りで一度休憩を入れても良いかもしれない。
そう考えながら意外にもしっかりとレンガで組まれた小屋を訪れると、中の広さは大人の男性が三人ほど横になれるほどと、旅人の一夜限りの宿としては十分な出来に思える。先客もおらず、日暮れには少し早いが今夜の寝床はここに決めた方が賢明だろう。
「エリク。今日はここで寝ない?」
後ろを行く青年が追い付くまで待ってから、リーディエは小屋を指差しながら提案した。
簡素な屋根は雨風を凌ぐのには適さないだろうが、空は呆れるほどの快晴。後数日は雨の心配がなく、そもそも今までの野宿は何もない場所(精々が木陰)で行っていたので、きちんとした建物があるのは嬉しい限りだ。
「うーん、そうだな……」
名案だと思ったリーディエだが、エリクの反応はいまいちだ。いつもの楽観的な彼であれば、手を叩いて喜んで良いと思うのだが。
「何か問題があるの?」
「あると言えば、ある。確かに良い休憩場所だとは思うけど、この辺りは明らかに治安が悪そうだ。地図を見た感じだと日が暮れるぎりぎりまで歩けば、もうちょっとマシな所に出れるだろうし、早めに通過するのが吉じゃないか?」
「エリクがそう思うなら、それで良いけど。疲れてない?」
「正直に言えば、足はとっくに棒だなぁ。でも、こんなくたくたなところを襲われたりしたら、それこそ一たまりもない。とっとと行こうぜ。出来る限りリスクの少ない所で休もう」
「わかった。ゆっくり、二人で行こう」
「いや、だから急いだ方が良いんだって。俺も大の男なんだから、ちょっとは無理が利くし」
「……本当?」
珍しく眼光鋭く、真剣な表情で詰問する。茶色の生身の瞳も怖いが、義眼に至ってはまるでそれが本物の目であるように、不思議な光を帯びていて、どこか悪魔めいた末恐ろしささえ感じられる。そう言えば、目が宝石で作られている悪魔もいたはずだ。
「あ、ああ。どうしても無理なら、その時は言う。それで良いだろ?」
「絶対の絶対?」
「ぜ、絶対。俺、あんまり嘘つかないだろ?」
「確かに、あんまり」
「……絶対と言えないのが、情けないトコだよなぁ」
断言出来ないのは、リーディエのためなら無謀なことだってやってのけてしまいそうだから。そして、その結果として穏やかではない事態に陥ることも、男性として平均的な能力しか持たないエリクなのだからあり得てしまう。決して、エリクが不誠実な男性だからという訳ではない。きっと。
ともかく、必死の説得でリーディエも疑いの眼光を逸らし、次の瞬間にはいつも通りの穏やかな瞳でエリクのことを見た。義眼の恐ろしい輝きも元に戻っているのだから、人の気持ちによって、その顔の見え方はいくらでも変わってしまうのだと言うことがよくわかる。
今のリーディエは正真正銘、町の誰もが可愛さを認め、溺愛してしまう少女郵便屋だ。可憐で儚げなイメージからは想像も付かないほどの意志の強さと、精神的なたくましさを兼ね備えている。今考えると、それは決して後天的なものではないのだろう。ここ数週間でそんな意志力が鍛えられるとは考えがたいからだ。
「じゃあ、行こう」
「ん、行くか」
束の間の休息を経て、再び街道を進む。影の位置から判断すると、時間にして三時頃だろうか。夏の陽は長いので未だに蒸し暑さはあるが、涼しい風がたまに吹き、それが白髪とマフラーとを躍らせる。そうして風を全身で感じるのがリーディエは嫌いではない――いや、空気の塊へと走って突っ込むことで風を感じるよりも好きだが、荒野と言っても差し支えのないこの地域に吹く風は、涼しさと同時に厄介な砂や砂利を含んでいる。目に入るといけないので生身の右目を庇いつつ瞼を閉じると、まるで自分が風と同化しているような心地がした。
風に、自然の中に、体が溶け込むような感覚、と表現出来るだろうか。手先から少しずつ体が糸のようにほどけて行き、最終的にはその糸の体が風に吹き飛ばされると同時に風の一部となる気分だ。これもまた、悪い気分ではない。
横倒しにされそうになる風なので、風に乗って走るようなことは出来ない。だが、自分自身の体を疾風へと変身させるように走り抜けると、更に気分は良くなった。走ることが唯一の取り柄だと思っていたリーディエだが、それは正確には違うのかもしれない。走るのは特技であると同時に、趣味。いや、自分の生きがい。もしかすると、そこに明確な意味がなくても、それはそれで良いのかも――いや、きっとそうだ。
走るだけで心は満たされ、その結果として誰かの助けになるのであれば、もう何も言うことはない。そして、あの町はなんと小さく、狭かったのか!どの戦場よりも障害物のないこの平原は広大で、自由で、心の求める全てが用意されている。何もないからこそ。
ほのかに黄色い色を帯びていた光が、オレンジ、赤とその色を変えて夕日となる頃になると、周囲はまたその様相を変えていた。実はもう一時間も前から荒野を抜けていたのだが、あまりにも走ることに夢中になり過ぎていて、そんな些細なことには気付いていなかったのだった。高速で移り変わる景色を目で追うことは、既に諦めていたからだ。
「……エリクは、追い付けるかな」
左手側……地図上は東の方向に広がるのは広大な森林地帯。その逆の西は山脈が見えた。これがこの国と隣国とを区切る境界線だ。そう思うと、故国から船で海を渡って来たこの国も、ずいぶんと小さいのだと感じられる。ここから二人の人間を探すことなんて、そう難しいことではないのかもしれない。そんな錯覚すら生まれた。
地面には朝歩いていた草原のよりも背の高い草が生え揃い、その上に身を投げ出すと、ネコジャラシのようなその先端が頬をくすぐる。長い髪には、数え切れない量のゴミが付いたことだろう。ブラシはきちんと持って来ていたが、この手入れは大変そうだ。
などと考えながら、リーディエは夢を見た。その内容は覚えられなかったが、幸せな目覚めを迎えられたことから、少なくとも悪夢ではないのだろう。
「んっ……エリク」
「おはよう。と言っても、もう夜だけどな」
「ずっと、寝てたの?」
「俺が着いた時には、それはもう幸せそうに。それから、一時間は経ったかな」
辺りをよく見ると、既に夜の帳は降り、世界は闇色のベールを被っていた。野外の生活は町中でのそれとは大きく違い、人間にも野生動物と同じリズムで行動することを要求する。つまり、夜が来たら後は寝る他ない。ついさっき起きたリーディエには酷なことだが。
「そう……あ、ありがとう」
「二度寝するにも、腹が減ってたら辛いからな」
硬いパンを手渡されると、それをそのまま三口ほど齧り、また袋に戻す。相変わらず小動物的な食べ方をするリーディエだが、その胃袋の許容量もウサギ並なのか、あれだけ走った後でもほとんど食事は要求しなかった。一応、申し訳程度に干し肉にも歯を入れて塩分を補給すれば、後はもう水に口を付けるだけで良い。
「しかし、おまえは燃費が良いよなぁ」
「食べ過ぎると、逆に動くのが辛くなるから」
「それでも、俺からすると食べなさ過ぎるように見えるぜ?成長期なんだから、もっと食べないと――胸も育たないぞ?」
「え、ええ!?」
反射的に自分の胸を見ようとして……ほぼ平坦な見ごたえのない景色を知って、落胆する。
「エリクはやっぱり……大きい方が良い?」
「ぶっちゃければ」
「そこは気を遣っても良いのに」
「い、いや、リーディエにまでそれを要求しているんじゃないぜ?ほ、ほら、おまえはオンリーワンな存在なんだ」
「胸のあるあたしと、胸のないあたしだとどっちが好み?」
「前者……じゃなくて、後者が良いぞ!うん!」
ダニエルとも似たような話をしていたが、正直なところを言えば、リーディエとしても後少しだけなら太りたいところではある。その方が見た目にも健康的だろうし、やはり年頃の少女として、発育が良いとは言えない胸に関しては思うことがある。
他にも、身長も少しは欲しいし、すらりと長い足には憧れる。身近な所で言うと、ダニエルの背は決して高くはなく、全体的に見れば小柄な方なのだろうが、それよりもリーディエは小さいので、せめてそこには並びたいところだ。その方が、エリクと一緒にいても絵になるだろう。今のままではやはり、兄妹どころか親子のように見えてしまう。
「そう言えば、牛乳とかおまえ好きだったか?あんまり飲んでるの見たことないけど」
「好きとは、言えない……。ちょっとなら良いけど、コップ一杯も飲むと気持ち悪くなる」
「てっとり早く大きくなるのに、牛乳は最適なんだけどなぁ、苦手なら仕方ないか」
「他には何かある?」
「まあ、小魚とかか?」
「それなら好きだけど、もう十分食べてる気がする……」
どうしようもない、と言うことなのだろうか。家族の身長のことは覚えていないが、きっと父母も同じように背が低かったのだろう。そして、母の胸は慎ましやかだったのだろう。そう思わなければやっていられない。
「よし!寝るか!」
「……うん」
空気が悪くなり始めた辺りで、それをリセットする都合の良い言葉。いっそ清々しさがあるが、まだ頭が覚醒しきっていない今なら、リーディエもすぐに眠りに就くことが出来そうだ。
「おやすみ、エリク」
「ああ、おやすみ。リーディエ」
靴やカバンで踏み固めてくすぐったさを抑えた草のベッドに、二人は体を横たえた。今夜はエリクもすっかり疲れていたので、警戒を保ったまま眠ることは出来ない。だが、この辺りには町も点在している。賊の類は現れないだろう。
確証など一つもないただの思い込みを信じて、エリクもまた夢へと旅立っていった。
最初に気付いたのがリーディエだったのは、未だに斥候としての鋭敏な感覚を備えていたからだろうか。それとも、単純に休息を長く取っていたので、眠りが浅かったからだろうか。いずれにせよ深夜、彼女は草が揺れる音を聞いた。風が奏でるのではない、不自然に歪められたその音を。
その音はどんどんと近付いて来ていて、間違いなく自分達に向かっているのがわかる。追い剥ぎと見て間違いはない。
――ここで、もしリーディエがただの十五歳の少女であれば飛び起きて騒ぎ立て、エリクを必死に起こそうとしただろう。相手から見ても、今から襲おうとしていた相手がこちらに気付いたとなると、そのまま襲撃することを諦める可能性がある。一見すれば合理的な策にも見えるだろう。だが、そんな理屈が通用するのはその道に逸れて日の浅い新米盗賊までであり、何十人という旅人から金品を巻き上げているベテランが相手なら、その興奮を煽って危険度を高めるだけだ。
瞬時にその判断をしたリーディエはじっと息を潜め、気付いていないふりをしながらも、音を立てずに荷物から中折れリボルバーを引き抜く。試し撃ちはしていないが、きちんと弾は六発装填されている。
いくら悪人とはいえ、いきなり相手を撃ち殺してしまおうとは考えていない。威嚇のために撃ち、こちらが何の備えもない楽な獲物ではない、と知らしめることが出来ればそれで十分だ。わざわざリーディエが声を張り上げなくても銃声がエリクを起こすだろうし、銃で武装した少女と、長身の青年――それも、ナイフ一本で戦う術を心得た――がいれば、どうとでもなる気がしている。相手の数も五人はいない。三人ほどか。
「へへ、よく寝てやがる」
「可愛い娘もいるぜ。こいつは高く売れそうだ」
「おいおい、そんなもったいないことして良いのか?」
「いや、でも最近は酒も満足に飲めないしなぁ」
「馬鹿、こういう娘っこに酌をさせるのが良いんじゃねぇか」
「で、その酒はどうするんだよ?」
「んなもん、金を奪って買えば良いんだよ。見た感じあっちの男はケチ臭そうだが、ちょっとは持ってるだろ」
聞こえて来た声はどれもよく似た、三十から四十ぐらいの男性のものだが、微妙なトーンの違いから四人いるのがわかる。寝込みを襲うということで、得物も取り出していないようだ。先制攻撃からの立ち回り次第で、いかようにでも出来ると確信する。
「よし、じゃあこの娘を人質に……」
一人の男の獣じみた腕がリーディエに伸びる。少女はそれを気丈にも平手打ちで振り払うと、すぐに拳銃の引き金を振り絞った。明後日の方角に銃口が向いたそれは、けたたましい銃声と共に鉛の凶弾を吐き出す。反射的に賊達の視線がそちらに向くのに合わせてリーディエは、自分に腕を伸ばした男の足を思い切り蹴り付けた。人並み外れた速さで大地を蹴る健脚が、筋肉に守られたそれに確かな鈍痛を響かせる。
「んなっ!こ、このガキャ――ぐおぉ――!」
矢のように飛び上がったエリクが、男の鳩尾に肩を突き刺す。そこで大男は失神してしまい、得物である大型ナイフはエリクの手に渡ることとなってしまった。
「さて、と。俺様の女に手を出すなんて、ずいぶんと気のデカい奴等だな?次はどいつがタマ潰されたい?」
自身のナイフも抜き、両手に凶器を握ったエリクが挑発的に言い放つ。すぐにリーディエはその後ろに隠れ、しかし威嚇のために銃の引き金から指は外していない。
「こ、この野郎……」
「次はあんたか。良いぜ、愚息をこま切れにしてやる」
「んだとぉ!」
仲間をやられた怒りに任せて、手斧を持った男が地を蹴る。が、その足元に銃弾が撃ち込まれ、動きを止める隙に距離を詰めたエリクに頭を蹴飛ばされ、そのまま大地に転がされてしまった。泡を吹いて意識を失う。
「良い狙いしてるな」
「ライフルを撃つ訓練は受けたから。……反動で、腕が痺れそうだけど」
「はは、不必要に火力が高そうだもんな」
二人の仲間を失い、残りの賊はこのまま背を向けるか、蛮勇を振り絞って向かって行くか、思案しているようだ。我が身の保身を考えれば逃げるべきなのだろうが、仲間を見捨てるということは、孤立することを意味する。大いに悩むところだろう。
「別に、このまま逃げるならそれで良いぜ。この仲間二人も、担いで行ってやれ。後、参考までに言っておくけど、俺もこの娘も元軍人だ。兵長を任されたぐらいの腕だぜ?」
明らかに話を盛っているが、寝起きに二人も男を倒してしまったエリクの腕は、何も知らない相手を騙せるほどのものには見える。リーディエも、この夜盗達への最初の行動からして一般人でないことは相手に知れているだろう。
「わ、わかった。俺達も痛い思いはしたかねぇ。すまなかった、謝るから見逃してくれ」
「賢明だな。俺も、あんた達をここでいたずらには傷付けたくない。ただ、交換条件ぐらい飲んでくれるな?なに、別に金が欲しいとは言わないさ」
「な、なんだ」
「あんた等はこの辺りを根城にしてるんだろ?ってことは、盗品を売り払う行き付けの故買屋とか、裏のルートにも繋がりがあるはずだ。そこでなんだが、最近この辺りにやって来たエリアスって人、もしくはジャンっていう軍人に心当たりはないか?軍人の方はともかく、エリアスってのは堅気じゃなさそうなんだけどな」
それにしてもエリクも、寝起きなのに機転が利くものだ。普通、見逃してやった賊から裏の世界の事情を聞くような発想をするだろうか?少なくとも、リーディエではとても思い付かない。彼女は半ば呆気にとられるように、交渉を続けるエリクを見ていた。
「さ、さぁ。俺は聞いたこともねぇよ。なぁ、兄弟?」
「あ……いや、そう言えばエリアス、そいつの名は聞き覚えがあるぞ。なぁ兄ちゃん、そいつの年はいくつぐらいだ?」
「二人とも三十代だ」
「よし、ならきっとあいつで間違いねぇ。仕事仲間から聞いた話なんだが、メンディスの近くに身なりの良い男の旅人が一人歩いていたから、十人近くで取り込んでやっちまおうとしたんだ。そしたらそいつ、兄ちゃんみたいな軍隊仕込みの体術で、みーんな足腰立たなくさせちまったって言うじゃねぇか。俺ぁ、あんたを見てそいつの再来かと思ったね」
「十人を一人で、か。まぁ、盛っている話だろうけど、夜盗を撃退したのは確かなんだろうな。……ってことは、その男はそのままメンディスの街に?」
「さぁ、俺は当事者じゃねぇし、仲間は皆伸びてたからよ、そいつがその後どこに行ったのかは知らねぇよ。名前はそいつがご丁寧に名乗ったらしくて、噂になってたんだけどな」
「『我こそはこの国に名をとどろかせるエリアス卿なりぃ!』とか言ってたのか?……どうも、信頼出来ない話だな。ま、協力ありがとう。もう行って良いぞ、これからは喧嘩売る相手には気を付けろよ」
エリクが威圧的な視線を賊達から外すと、倒れた仲間を引きずって闇の中へと引き下がって行った。
それから今度こそ安心して眠り直して、夜は更けていく。
朝が来て、二人の進む速度は更に上がった。
探し求めていた相手が、メンディスの街にいる可能性が高い。もっと難航することを予想していたため、ある意味で拍子抜けではあるが、早く自分達の町に帰れるのならそれ以上のことはない。どう頑張っても五日間は必要な距離だが、四日で全ての旅程を終え、厳しい城塞都市の全貌を街の外から臨む。
石と鉄で作られた巨大な街は、夕日を背に悪魔の城のような風格をかもし出していた。これを一つの英雄譚とするならば、今から勇者達は魔王の城に挑む――とでもモノローグが入っていることだろう。
会いに行くのは悪の覇王ではなく、少しばかり特殊なバックグラウンドを持つ男性二人と、やや盛り上がりには欠けるシチュエーションだが……一応、相手はしょぼい賊ではあるもののウォーミングアップの戦闘を終え、緊張は高まりつつある。ここでお目当ての人に会えなければ、再び情報集めからやり直さなくてはならない。それに今度の情報収集は順調に行くとは限らない。ここで決着を付けたいところだ。
門で衛兵に怪しげな荷物がないことを確認され、赤く焼ける街の中に入ると、何はともあれ宿の確保に向かった。ここの宿はいかにも高そうだが、これだけ大きな街を後数時間で見て回れるはずもない。一日、二日はかけて探し回らなければならないだろう。
それでも、可能な限り質素な部屋を取り、その足でエリクはまたもや裏通りへと向かう。リーディエの方はと言うと、この街の郵便局を訪れることにした。旅に出る前、エリアス氏はまだこの街に来ていなかっただろうが、今になって情報が入っているということは十二分にあり得る。
「エリアスさん?ふむ……その名前は届けられていませんね」
「では、他に新しく届け出された名前は?もしかすると、偽名を使っているかもしれないので」
彼女を迎えたのは、フォンスより年上らしい男性の職員だった。体つきもかなりしっきりしているが、その口調は丁寧で、優しげだ。
「他の届け出は――ガスパールさんという男性が、ふた月ほど前に」
「時期は、合ってる」
思わず呟きが漏れる。賊にすらエリアスという自分の名前を名乗る男が、わざわざ偽名を使って街に住むとは考えがたいが、そんな思い込みでチャンスをふいにしてしまう訳にはいかない。一応、確かめておくべきだ。
「家の場所は?」
「予備の地図がありますので、これをどうぞ。しかし、遠方からご苦労様です。あなたはまだお若いのに、本当に仕事熱心でいらっしゃる」
「いえ――あたしは、あたしがするべきだと思ったことをしているだけですから」
「するべきこと、ですか。ああ、ウチの新入りにも聞かせたいものです」
残念ながら不真面目な新人を迎え入れてしまったのか、日に焼けた健康的な肌の職員は頭をぼりぼりと掻いた。リーディエはそれに曖昧な苦笑いでお悔やみを申し上げ、局を後にする。外はもう宵闇の時間になっていたので、これ以上の活動は諦めて宿の部屋へと戻る。ほどなくしてエリクも帰って来て、互いに成果を話し合った。
「あたしは、この街の郵便屋が使っている地図を借りた。どうやら、ガスパールという人が新しく越して来たみたいだけど」
「おお、すごい成果だな。俺の方は、ざっと酒場を当たってみたけど、大した成果はなかったよ。ただ、不思議とこの街には退役軍人や逃亡軍人が集まるような区画があるらしい。その辺りはちょっと治安も不安だけど、当たってみる価値はありそうだ。後、情報屋だって言う、物乞いみたいな爺さんにも気まぐれに金を握らせておいた。ま、こっちはタチの悪いたかりだろうけど、全くの無駄にならないことを祈るよ」
到着初日の成果にしては、どちらもまずまずと言ったところだろうか。エリクの得た情報に関しても、悲観するほどのものではない。明日の朝からするべきことも、とりあえずは決まった。後はどれだけの情報を掘り当てることが出来るかだ。
ひとまず今夜は、約ひと月ぶりとなる柔らかいベッドで深く安らかな眠りを楽しむ。しかし、目を瞑ったかと思えばすぐに朝は来ていて、時間を奪い取る魔女と同室しているかのような心地がした。
翌日は、雨だった。
多くの人がそうだろうが、リーディエもまたそれと同じように雨の日は好きではない。定期的に落ちる雨音を聞くのは嫌いではなかったが、傘を持ちながら歩くのは好きになれないし、濡れるのはもっと嫌だ。そもそも、傘を差していても長い白髪は濡れてしまうのだから、雨の全てを受け入れることの出来る日は、彼女が髪を短くしない限り訪れないことだろう。
旅の必需品として荷物の中に入っていた傘を広げ、雨をしのぎながら地図の示すガスパール氏の家を探すと、それは昨日エリクが持ち帰った情報にあった治安の悪い地域にほど近い所にあり、どうして彼がこんな決して便利ではなく、また安心して眠れるかどうかも怪しい場所に住居を求めたのか、新たな疑問が湧き上がってくる。
ここに来るまでにいくつも空き家はあり、わざわざここにする必要はなかったはずだ。金がなかった?わざわざ引っ越して来たと言うのに、それはちょっとおかしな話だ。とすると、どうしてもここでなくてはならない理由があるのだろうか。
その理由を考えてみようとして、途中でやめた。直接会って話す他はない。彼が探し求める人物であれば良いのだが。
「ごめんください」
一目見て粗末な造りだとわかるその家のドアにノッカーはなく、軽くノックをするだけでばらばらになってしまいそうなほど、老朽化が進んでいるような印象を受けた。
少しして、返事がやって来る。
『はい?』
「郵便屋です」
全くの嘘でもないことを言ってドアを開かせると、正体不明のガスパール氏は貴族のごとき見事な金の長髪を持った美形の男性だった。青い双眸は理知的な光を宿し、身を包む服にも気品が溢れている。いよいよこの場には似つかわしくない気がして来た。
「おや、あなたは?いつもの配達の方ではないですよね。時間も違いますし」
「リーディエといいます。ガスパールさん、で間違いはありませんか?」
「ええ。なんのご用で?」
リーディエがただならぬ配達人であることは、雰囲気で感じ取ったらしい。瞳には訝しみと同時にわずかな戸惑い。それから焦りのようなものさえ見える気がした。
「唐突で失礼ですが、ガスパールさんは最近この街に引っ越して来たんですよね?以前に住んでいたのはどちらでしょうか」
「え?――えっと、北の田舎町ですよ。名前を言っても、ご存知かどうか……」
確かな感触があった。つい最近越して来た、北からの旅人。年頃は三十代。全ての条件が合致する。
さて、ここまで来れば間違いでも失礼がないように、上手く相手が偽名であるかどうかを聞き出すだけだ。エリアスという名前をぶつけて、どう反応するかを見てみれば良い。ただ、下手な切り出し方をすればこちらが不審に思われてしまう。この場にエリクがいないのは大きな痛手だった。彼ならば、適当に上手い方法を実践して見せただろう。
「ガスパールさんの本当の名前は、エリアスさんですよね」
――しかしながら、この場にあの青年はおらず、リーディエはまだ無遠慮なところがあった。後先考えず、思い付いたことをそのまま口にしてしまう。確信があるからこそ言ったのかもしれないが、それにしても豪胆。無謀。エリクがいれば爆笑するほどの“馬鹿正直”者だ。
「なっ、どうして、それを……」
「やっぱり」
いきなりそんなことを言われて、相手も驚いてしまう。もしも彼が生まれた時からガスパールという名前で生活している人間でも、いきなり今の名前を偽名かなどと聞かれれば、大いに狼狽したことだろう。だが、彼はどうやらそうじゃないらしい。その顔に浮かんだ驚愕の色は、他人が知るはずもない真実を看破された時に見せるものだった。
「あたしは、あなたのことをほとんど知りません。その名前と、賊を撃退したという逸話ぐらい」
「じゃあ、なんでこんな所にまで?誰にも行き先を告げなかったし、相当苦労したはずなのに、どうして……」
「あなたに、お手紙があります。それを届けに来ました。……えっと、それだけです」
「あ、ありがとうございます。……しかし、本当にそれだけのために?」
「この手紙は、行方知れずとなったあなたの前の住居である、あたしの住み、働いていた町に届けられました。普通なら、そのまま廃棄されていたんだと思います。けど、あたしはこの手紙があなたに届けられないことが、許せなかった。だから、あなたを探してここまでやって来ました」
拍子抜けしたような顔のガスパール……いや、エリアス氏も、じっとリーディエの想いを聞く内に、その瞳をわずかに潤ませた。優しさを感じるその顔立ちから受ける印象通り、かなり涙脆い人らしい。
そして、手紙を受け取りながらリーディエの小さく白い手を握り返した。柔らかく滑らかな手を、顔とは異なり年相応にくたびれた皮の厚い手が包み込む。それに不思議なくすぐったさを感じながらリーディエも、少しだけ涙を流して頬を赤くした。“伝え人”としての初の仕事は、これで果たされたことになる。
後は、もう一つの目的を果たし、帰るだけだ。ここまで来たら、エリクの方が成果を上げてくれそうな気がする。
「あなたは、この手紙の中身を既にご覧に?」
「まさか。郵便屋が配達する手紙の封筒を開けるなんて」
「……この手紙の内容の重要さも確かめずに、ここまで労力を割いてくださったんですか?」
「書いている内容なんて、あたしには関係ないです。全ての手紙は届けられるべきだから、届けたんだから」
迷いのない言葉を受けて更に感銘を受けてしまったようで、エリアス氏は顔を背けて手紙を開いた。それに目を通し終えると、遂に紙上に涙の粒を落としてしまう。その様子だけで、よほど大事な知らせなのだろうということがわかった。もしかすると、悲報だったのかもしれない。
手紙を届け終えた以上、これ以上自分がこの場にいる必要もない、そう感じたリーディエは頭を一つ下げ、ドアノブに手をかけた。軋みながらそれは開き、外界の空気と光を室内へと送り込む。
「あの、少しお待ちください」
「はい……?」
「手紙を、お預かりしていただいても構いませんか?」
「え、ええ。返事を今書くのですか?」
「いいえ、この手紙に返事はいらないということです。ですが、私がこの手紙を受けて、ある人に手紙を書く必要が出て来ました。これは、私の子どもを預かってくださった……まあ、その子どもから見れば乳母となる女性からの手紙です。私の娘は、大きな病気をすることもなくすくすくと育ち、もう六歳になると。簡単な肖像画もありました。……本当に、可愛い子だ」
エリアスが手招きをするので、リーディエもその手紙の余白に描かれた肖像画を見る。すると、確かに親と同じ柔和な顔つきの可愛らしい少女だ。癖のない髪も父親に似ており、髪が黒く塗られていることから察するに、父の金髪ではなく母方の色を継承しているらしい。
「この手紙を届けてくださったあなたには、私の家の決して単純ではない事情をご存知になる権利があるでしょう。手紙を書き終わるまでの間の時間潰しにでも、お聞きください」
「は、はい。そういうことでしたら」
椅子も勧められてしまったので、腰を下ろしてじっくりその話を聞く体勢になる。究極的には赤の他人の話だが、父母を亡くし、その記憶まで失くしたリーディエにとっては興味深い話だ。聞くのは嫌ではない。
「そもそも私は、とある国の軍人でした。それも、兵を指揮する立場にあり、当時は心ない判断を下すことも数え切れないほどありました。……その内に人を人として見ない軍と、自分のやり方に耐えられなくなってしまって、同じように国に背く意志を持っていた女性と共に国を逃げ出したのが五年前のことです。私達は結婚をしていませんでしたが、既に子どもはいたのですよ。それがこの肖像画の子です。
私は逃げ出す時、まだ歩くことの出来ない娘を今の乳母に託しました。私もその女性も、いなくなることは大きな軍の損害でしたから、血眼で軍は追いかけるはずです。しかも私も彼女も、必要とされたのは頭脳だけでしたから、腕や足をいくらか失っても問題はありません。どんな手段で逃亡を邪魔されるかわかりませんでしたから、子どもを抱いて行けるはずもありませんよね。それに、私の腕には既に彼女を抱いていたのです。彼女はその日の直前の事故で、足を片方失っていましたから」
「――!」
大人しく聞いていたリーディエが、その一言で大きく動揺する。それはまるで――いや、間違いなく――。
エリアスは気付かず、言葉を続けた。
「乳母となった女性は、私の知り合いの信頼出来る方でしたし、軍と直接的な関わりもありませんでした。子を人質に、再び軍に招請されることもない、ということでひとまずは安心が出来ました。そして、海を隔てたこの国へと逃れ、しばらくは平穏に生きていられました。が、二年の月日が流れて、どこから知ったのか、私達の下に軍からの手紙が届きました。
――内容は、再び私に軍を指揮してくれと言うもの。当然、私は断りましたが、手紙だけでは許されず、直に私は国へと向かい、きちんと理論を立てて協力の意志がないことを示しました。しかし、一年限りは仕事をしてくれと懇願され、遂には折れてしまったのです。
そして二年前、元の町へと戻りました。そこで私は、ある賭けをしました」
「……賭け?」
生真面目そうなエリアス――いや、ジャン=ポール氏には似つかわしくない言葉に、リーディエが顔をしかめる。
「そう、一年の間、名前を変えて妻とは別の家で生活し、もしも町中で彼女と会うことがあれば、私は彼女との運命を信じ、再び彼女との生活を始めようと思ったのです。もしも会えなければ、私と彼女は一緒にいる運命ではないと考え、町を去るつもりでした。そして、結果はご覧の通りです。
――尤も、こんな賭け、初めから答えは見えていたのです。妻は杖がなければ歩くことは出来ず、自分の家の周囲からほとんど動かないのです。対して私の仮の住まいは、かつての家から遠く離れた場所。万に一つも会うことがないように自分から仕向けたのです。私はもう、彼女に会う資格などないのだから」
「……どうして、そんな風に思えたの?あなたは、エルと愛し合っていたから子どもを作って、結婚したんでしょ?どうして、今更会わないでおこうなんて、考えられるの?」
「リーディエさん……!?」
静かに体を震わせながら立ち上がった少女を見て、再びジャンは驚愕した。彼女が妻の名前を言い当てたため。そして、自分とは何の関係もない家族の問題に、ためらいもなく立ち入って来たため。
「あなた、エルが寂しがってないとでも思ってるの?確かに、エルはいつも明るかったし、あたしに結婚していることを教えてくれたのも、旅立つのが決まってからだった。けど、あの人は人一倍寂しがりなんだよ。独りが怖くて、だけど、自分の力じゃ誰も探しに行けなくて、猫を飼ってそれをあなたの代わりにしていた。そんな人だって、あなたが知らなかったなんて言わせないよ!?」
「落ち着いてください……!もちろん、私だって彼女の下に帰りたかったです。ですが、私はあの町に流れ着いて、結婚することを決めた日、もう二度と人殺しには加担しないと誓いました。彼女も同じ誓いを。だけど、私はそれを破ってしまった!……血に汚れた手で、再び愛しい人の体を抱けますか?今になって、子どもの前に姿を現し、だっこしてあげることが出来ますか?血まみれの両手で!」
「そのままでは、抱けない。けど、人は変われる。永遠に手にこびり付いた血があると思う?」
「一人や二人を殺めた程度では、そうでしょうね。しかし私は、たった一年で数十万と殺す命令を下した。十万人の血液を浴びて、それが落とせますか?十万人と、その家族の怨嗟を背負った人間が、変われると思いますか?……変われるとしたら、それは狂人になるだけですよ。もう二度と、妻を愛し、子を愛することなんて出来ない。むしろ、怯えさせるだけなのです」
「違う!……あなたは、一度全てをやり直せたんでしょ?」
これまでに一度も出したことないような大声を出し、リーディエの喉はほとんど壊れていた。それでも、同じくかつてないほどに感情を高ぶらせ、恨み言を連ねるように叱り付ける。その勢いはいつまでも衰えない。
「あたしは、三年の間、兵士としての全てを叩き込まれて、それに心の芯まで染められていた。けど、たった二ヶ月で、あたしはここまで変われた。過去は必ず、乗り越えられるものなの。支えてくれる人がいてくれれば。……あなたは、あたしとは比べ物にならないほどの物を背負わされたのかもしれない。でも、エルがいてくれるでしょう?あの人は、きっとそんなことぐらいであなたを軽蔑したりはしないよ。それどころか、あなたを抱きしめて、泣いてくれる。……あたしだってわかるんだから、あなたもわかっているんでしょ?」
「……私は、勇気がありません。再び彼女の前に顔を出す。そして、自分のやったことを告白する」
「うそ。本当に勇気のない人は、愛する人と国を逃げ出そうなんて考えないよ。それに、その人と結婚をしようなんて、考えないよ。言い出せないよ。……あたしも、一緒に町に帰るから、会いに行こう?エルに」
喉を引き絞って声を出し切った末、何度も上手く発声出来ずに声を詰まらせながら、しかしリーディエは言葉を止めることはしなかった。苦しさと、大きな感情の波のままに涙をぼたぼたと零し、震える手を伸ばしてジャンの手を掴もうとする。濁流に飲まれそうな人間を、必死に救い出すように。
「私に、再び愛される資格があるの、ですか?」
「ないと思っているのは、あなただけ。一度は愛を誓い合ったんだから、それが失われていることは絶対にない。その証拠を、あたしは見て来た。町を出るあたしに、あなたの使っていた銃を渡して、出来れば探してくれって、頼んだんだもん。探し出して欲しい相手のことを、愛していないと思う?」
「私に直接会って、縁を切ろうとする可能性も……」
「ねぇ、いい加減に怒るよ?あたしはあなたの半分も生きてないけど、あなたがうじうじしてる意気地なしだってのはわかる。そのことを怒られても、しょうがないよね?」
「…………ごめんなさい」
「その言葉は、お願いだからエルに直接伝えてあげて。こんな手紙も、いらないから」
深く頭を下げ、がくりと机に項垂れたジャンの手元にあるペンの乗った紙切れを、リーディエはくしゃくしゃに丸めて捨てた。それから、彼女がジャンに届けた手紙をきちんと封筒に入れ直す。
「あたしがそうしたように、この手紙はあなたがエルに届けてあげて。……用意が出来たら、郵便局に来て。一緒に行こう」
そう言い残して、リーディエは宿に向かって行った。
後から合流したエリクが、精魂尽き果てたような表情の彼女を見て、病気を疑うほどに驚いたのは言うまでもない。
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実際には「色」は前章までよりもかなり減っていると思う章です。ですが、虹や極彩という言葉を使ったのは、人一人一人が全て違う「色」を持っている、その表現にこの言葉がぴったりだと思ったからです
白にも黒にも分類出来ない、様々な人が出て来る章ですので