No.555615

最速の伝え人 三章

今生康宏さん

各章のサブタイトルには、色が含まれています
初めは無彩色でしたが、ここに来て鮮やかな色となりました
「世界の見え方が変わる」とは、日常生活の中でもあることだと思います。“ブルー”なんて表現が日常の語彙にありますしね

2013-03-16 01:48:26 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:267   閲覧ユーザー数:267

三章 緑。広がる世界。生まれ変わるあたし

 

 

 

「ちょっと待ってね。時間はかかるけど、絶対に上手くやってみせるから」

「別に急がない。エルが満足いく仕事をして」

 三日の後、リーディエが郵便屋として働くことは決まり……かけていた。

 と言うのも、俊足で体力もある彼女が配達の仕事をすることは問題なかったのだが、いくら手紙を届ける仕事と言っても、人に物を届ける以上、最低限の人とのコミュニケーションはある。その過程で、リーディエの片目の問題が挙がったのだった。

 人は見た目で判断してはならない、なんて名言はそこら中でもてはやされているが、実際のところ、第一印象は大事であり、郵便屋のように否応なく顔を合わせる相手は、無難な姿をしている方が良い。それが片目を失い、眼帯をしているようでは彼女の事情を知らない町民は、不審に思うことはあれど、積極的に好意を持つことは少ないだろう。

 そこで、急きょ義眼を調達することになった。エリクの給料の支払いがまだなので、そんな金はなかったが、ダニエルがガラス細工も出来るということで彼女に頼むと、料金は後々で良い、と仕事を受けてくれた。

「エル、本当にありがとう」

「いいよいいよー。リーディエちゃんに郵便屋の仕事を紹介したのはワタシだし、無駄だと思ってたガラスの加工技術も活かせて良かったよ。ただ、どうしても専門の人みたいに素早くは出来ないけどね」

 錬金術はもちろん、ガラス細工の知識も全く持たないリーディエには、ダニエルがかき回している釜の中身のことは欠片もわからない。ただ、赤く煮えたぎったそれは粘性が強く、それがガラスの元なのだろう、ということだけはわかった。

 既に眼孔の計測は済んでいて、それにぴったりと合う義眼の大きさは判明している。後はガラスを成形し、また目の代替品として不自然ではない物に仕上げなければならないのだが、凄腕の錬金術師(?)であるダニエルにとってもそれは難しく、ガラスを溶かすことにも多くの時間をかけ、確実に仕事を進めてもらっている。

「よし、それじゃ、いくよ」

 鉄の棒を釜へと突っ込み、適当な大きさのガラスを絡め取る。真っ赤に熱されたそれは、話には聞く火山のマグマのようにも見え、目の形を作り出す作業をするダニエルは、魔女風の衣装も相まって、まるで地獄の悪魔の手先のようにすら見えた。

「き、奇麗な形になってるかな……久し振りにするから、ちょっと自信ないかも」

「真球でなくても、良いんじゃない?」

「そ、そうだけど、リーディエちゃんに捧げる一品なんだし……。ふぃー、こんな感じ!これが多分、ワタシの限界!」

 三つの失敗作を作り上げた後、一つのガラスの球が出来上がり、金台の上にそれが乗せられる。先客である失敗品も全て同じ台の上に転がされており、四つもの目玉大の球があるという、ぞっとしない光景だ。

「体感だけど、大きさはこれで合ってるはず……。まだ熱い内に、大きさと形を整えて……うん、これで大丈夫」

 赤く燃えていたガラスは、時間の経過と共に冷え固まり、透明になっていく。リーディエ達の国においてガラスは庶民の物となっていて、もちろんそれなりに値は張るが、普通に生活の中で見ることが出来ていた。が、そこより海を越えて南に位置するこの国のガラス加工技術は未熟で、まだほとんど人々の間には浸透していない。

 だからガラス窓などは貴族のためだけの物であり、もうずいぶんと輝くガラスなど見ていなかった。これがこれから自分の目となる訳だが、リーディエはどこか客観的に輝く宝石のようなそれに、少女らしい感動を。美しさを感じていた。

 着色の成されていないガラスの目玉は、周囲の景色を球形に歪めて映している。そんな当たり前のことを不思議に感じ、幻想を見ることが出来るほどに、彼女の心は優しく解されつつあった。

「リーディエちゃんの目は、茶色だよね。ちゃんと着色剤は……あ、あれ、嘘」

「どうしたの?」

「あ、あるにはあるんだけど、すっごく黒ずんでて……明らかにこれ、本物の目とは違う色に仕上がっちゃうと思うんだよね。けど、この町でガラス細工に使える着色剤なんて手に入らないし……」

「色なんて私は、気にしないけど」

「いやいや、リーディエちゃんは気にしなくても、ワタシがすっごく気にしちゃうよ。元はと言えば、眼帯に良い印象がないから、義眼を入れるって話なんだし……」

 ガラス球に感動は覚えるが、やはり未だに元斥候の少女は、世間から浮いているきらいがある。

 そもそも、彼女にしてみれば眼帯をしているのがいけない、という心理もよく理解出来ず、義眼の片目の色がおかしくても、それほど大きな問題ではないように思えてしまう。

 しかし、ダニエルにとってのそれは大問題だ。なんとこの国は未だに「目には目よ、歯には歯を」という古代の法が生き続け、更に盗みや詐欺を働いた罪人は、体の一部を奪われる、という残虐な刑罰が残存している。殺人者は複数の部位を奪われるが、これについては一人殺せば絞首、二人以上殺せば斬首と決められているリーディエの祖国に比べると、案外軽い罰となっているが。

 つまり、目や腕が片方ないというのは、この国では罪人を連想させ、日常生活にも支障を来たしかねない。しかもリーディエは極近所の住人には受け入れられているが、結局のところは“よそ者”であって、あまり眼帯や義眼をしている姿は見せるものではない。そうでなければ、迫害の対象に容赦なくされてしまう。いや、既にそのような風潮はあるのかもしれない。

「うーん、それか、リーディエちゃんは元から片目が違う色だった、という設定にしても良いかもしれないね。そうすれば、眼帯をしていた理由も説明が付くし、それを外した理由は、郵便屋をするから、とか適当に誤魔化せば良いもん」

「設定……」

「ここは平和な町だけど、残念ながら差別とかはあるんだよね。ううん、平和な田舎だからこそ、自分達の常識外の存在を排除しようとするのかもしれない。上手く世を渡っていくには、人を騙すことも必要なんだよ」

「騙すことには、そんなに抵抗はない。でも……」

 ゆっくりと、自分の気持ちを心の中で咀嚼し、言語化していく。ダニエルとは話し慣れているはずなのだが、それ以前に自分の意見をまとめて言葉にすることが、まだリーディエには上手く出来ない。

 ダニエルもそのことはわかっているので、次の言葉が出て来るのを気長に待ってくれている。今手元にある材料で、可能な限りリーディエの本来の瞳の色を再現出来ないか、頭を捻りながら。

「私が目を失ったのは、エリクを助けたから。その事実を隠すのは――えっと」

「そのことに関して、誇りみたいなものがあるんだね」

「多分、そう。私が彼を助けなければ、私は今でも軍にいた。自由を……知らなかった」

 唐突に与えられた束縛からの解放はそれまでの常識を崩壊させた。それによって戸惑わされることも多い。だが、今のリーディエはそれを受け止め、少しずつエリクとの生活を楽しもうとしていた。

「だから、ある種の勲章として、私は自分がこの左目を失ったという事実を残しておきたい」

「そっか……。うん、そうだよね」

 「強いよね、リーディエちゃんは。ワタシとは大違いだ」誰の耳にも届かないように呟き、ダニエルは視線を義眼とその着色のための薬品に視線を戻す。

「でも、片目を失った姿が醜いだろうということもわかる。エル、義眼の色は、あなたが一番奇麗だと思う色にして欲しい」

「えっ?右目と比べて、違和感の少ない色じゃなくて良いの?」

「うん。むしろ、不自然である方が良いと思う。完全な義眼を作ってしまうというのは、それこそ私が目を失ったことを隠してしまうような気がするから……。それで、目の色が違うことについて触れられたら、ある人を救うために失ったと、事実を話す」

「リーディエちゃん。たとえ美談であってもそれは、戦争とは縁遠い人にとって嫌悪する対象だよ。自分から言うべきことじゃない」

「人を騙すのは良い。けど、自分自身を騙し続けるのは、何事にも耐え難い苦痛」

 毅然として言い放った言葉は他でもない彼女の本心であって、それを聞いて尚も真実を隠し通すよう忠告出来るダニエルではない。むしろ彼女の気高さに感服し、着色剤を探る。奇麗な色を、と頼まれたからには最高に美しい義眼を作りたくなるのが、厄介な職人としてのプライドという物だ。

 考え抜かれた末、ダニエルが最後に取った色。それは森林の色を溶かしたような。あるいは翡翠の色を奪って来たかのような、翠色だった。早速それを失敗作の一つに塗り付け、リーディエに見せる。

「どうかな?リーディエちゃんの白髪にもよく映えるし、すごく奇麗だと思うの」

「エルが良いと思うのなら。それでいい。私はあまりそういうのがわからないから」

「じゃあ、これにしちゃうね?ふぃー……これもまた、地味に緊張するよ」

 実際、その言葉通りに筆を握るダニエルの手は震え、最初の一筆を入れるのに多くの時間を要した。逆に一度筆を付けてしまうと、するすると緑、白、黒の三色が透明な目玉の上に乗せられ、未熟だった義眼はより生々しい物へと変容していく。

 やがては自分の眼孔に収まることになるそれを見つめながらリーディエは、意外(失礼だ)にも丁寧に仕事を進めていくダニエルの技術と、そのセンスに小さく息を漏らす。彼女に全てを頼んだとはいえ、ここまで見事だとは思わなかった。錬金術師がガラス細工をするなんてイメージに合わないし、普段のダニエルの言動、挙動から見ても繊細な仕事は似合いそうにないためだが、人は誰しも二面性を持っているのだろう。ガラス球と向かい合う錬金術師は、いつもの緩んだ顔ではなく、引き締まった職人の顔をしていた。

「うん、これで良い。後は乾いて、馴染むのを待って……入れてもらうことになるんだけど」

「問題がある?」

「あると言えば、あるんだ。出来れば、義眼を入れる時は麻酔をしてあげたいんだけど、今ここにある用意じゃ顔にして安心な麻酔はかけられないの。腕とか足なら出来るんだけど……」

「医者にはないの?」

「錬金術師ぐらいしか取り扱ってない、毒草を使った麻酔だもん。薬を売る商売をしている医者が毒を使うなんて、あり得ないでしょ?」

「それなら……」

 少しぐらいは我慢する。その言葉はすぐそこまで出かかっていたが、その口をダニエルの指が抑えた。それから、もう一方の指を自分の口に持っていく。

「この目を取る時にも、相当痛い思いをしたんでしょ?美少女は痛がるべきじゃない、それがワタシの哲学。だから、これ以上リーディエちゃんは痛がらないで」

「じゃあ、どうするの?」

「荒療治には変わりないけど、そこは錬金術師のする仕事だから、許してね。その分、やり慣れていることだから失敗はないよ。――詳しくは明日、義眼を入れる当日ということで」

「わかった。……エルのことは信じているから、安心して待ってる」

「うっ、うん!はわー、リーディエちゃんは本当になんか、こう……純朴だなぁ!」

 ダニエルは軽く身悶え、そのまま失敗作の義眼達を体で跳ね飛ばしてしまいそうなほどだった。

「へぇ、麻酔なんてのがあるのか。錬金術師ってなんでもやれるんだな」

「うん。エルは、すごい」

 エリクが帰ってから、夕食の席。早速リーディエは自分が入れる義眼が完成したこと、毒草から麻酔が出来るらしいこと、やはりダニエルがただ者ではないということ。その全てを話した。

 素直に感服するばかりのリーディエだが、エリクの方は少しだけ世の中を穿って見ている。彼女よりずっと楽天的に見えるかもしれないが。

「それにしても、何者なんだろうな。そりゃあ軍の研究室には錬金術師がわんさかいるだろうが、ただのいち研究員とは思えないし、だからと言って上の立場にいた人がこんな町に隠れ住むことを許されてる、ってのもおかしい。話を聞く限り、性格……いや、性癖面を考えなければ、何が何でも軍が手元に置いておきたい人材だろ」

「事情は人それぞれ。あたしも、あまり人には話せない事情を抱えている」

「いや、そうなんだけどな。俺も、ダニエルさんが悪人だって言ってる訳じゃないんだ。ただ、信用したいからこそ、知っていることを増やしたいと言うか……」

 正直な所を言えば、彼女に深く関わり過ぎることで今の生活が壊され、再び血生臭い生活に戻らなければならないことが何よりもエリクにとっては恐ろしい。リーディエにこれ以上波乱の人生を歩んでもらいたくはないし、怪しげな友人は作りたくないのが本音だ。

 一方で、リーディエはほぼ完全にダニエルに心を許している節がある。それもそのはず、多くを語らず感情の起伏にも乏しい彼女だが、それはあくまで後から形成された斥候としての人格。元の少女の心にとってみれば、姉代わりになるような年上の女性を求め、それに懐くのもそうおかしなことではないはずだ。人並みの幸せをリーディエに与えたいエリクとしては、悩む所である。

「(俺の方でもう少し話してみて、自分で判断するか)」

 最終的に行き着いたのは、自分から何らかのアクションを起こすという、シンプルにして確実な解決法だ。人伝に話を聞くばかりでは、本当の相手の息遣いは伝わらない。ダニエルがどんな顔をして、どんな声のトーンで、リーディエや他人と話しているのか。それを確かめるのが必要なことだ。

「よし、じゃあ明日は仕事を休んで、リーディエと一緒に行くよ。しばらくは急ぎの仕事もないし、許してくれると思う。それが無理なら、上手く時間を会わせて休憩を取れば良いし」

「別に、一人で大丈夫。怖くない」

「え?……は、ははっ、リーディエ、怖いのか?」

「ち、違う。エリクが、あたしが怖がっているって勘違いしているんじゃないかって……」

「そうかそうか。じゃあ、泣き出さないように、ちゃんと傍で見守っててやるな」

「だから、違う!」

 夕日のように赤く染まる少女の頬を見て、改めて青年は想った。

 この娘の生気に溢れた顔を、瞳を、再び曇らせてはならない、と。

 翌日。リーディエの事情を話したところ、親方もすんなりと休みを取ることを許可し、リーディエにとっては三回目、エリクにしてみれば再びとなるダニエル邸の訪問。

 暗く迷路のような裏路地を奥に進んだ所にあるその家は、立地条件だけなら怪しげな魔女の住処そのものだ。そう、立地条件だけであれば。

「エル、私。エリクもいる」

『いらっしゃーい!今ちょっと手が離せないから、勝手に入って来てー!』

「わかった」

 住人は常にこんな風に間の抜けた話し方をする隻脚の錬金術師。姿形は古き良き魔法使いの装束で飾り付けられていても、彼女自身は至って明るく、従来の魔女や錬金術師のイメージにはそぐわない。

「どうも、リーディエが世話になっています」

「あ、石工の、エリクさんだよね。今日はリーディエちゃんの付き添い?お仕事は頼んでなかったよね」

「ええ。泣き出したらいけませんから」

 まさか、これ以上親交を深めて良い人物かを見定めるために来た、と言えるはずもない。改めて会った時点で既に、少なくとも表面的には善人であることが確定したようなものだが、

「あたしは泣かないって、言ってるのに……」

「うふふっ、心配になっちゃうよね。空っぽの瞼の下に、ガラス球をはめ込むって言うんだから。でも、大丈夫。ワタシだってリーディエちゃんみたいな美少女に痛がって欲しくはないから、きちんと用意はしてあるの」

「昨日も言ってたけど、何?」

「じゃじゃーん、これでーす」

 陽気に指で示されたのは、ついさっきまで匙でかき混ぜられていた、小瓶の中の液体だ。深い緑色をしたそれは、一目見るだけで薬草の類を煎じた物だとわかる。

 話の流れから察するに、麻酔薬だと考えるのが自然だが、そのための材料は切れていたはずだ。

「ワタシ達の業界では“夢見の薬”って呼んでる代物なんだけどね。簡単に言えば、これを飲むとしばらくの間、意識が朦朧するの。夢と現実の境を見失って、起きながら夢を見て、現実の痛みを感じなくなる。元はと言えば、どんな痛みにも屈しない狂戦士を作るための薬だったかな」

「狂戦士……」

 改めて、彼女が軍の研究室に所属していたという事実を認識させられる。痛みを恐れず、どれだけ傷付けられても敵に向かっていく兵士。それは軍が理想として求めるだろう。そして、その研究は錬金術師の手によって成就していた。恐ろしい真実だ。

「大丈夫。本来的に含まれていた興奮剤としての材料は抜いてあるし、口から摂取する麻酔薬と思ってくれれば良いよ。十分もすれば、痛みを感じなくなる。もう十分経てば眠気が襲って来て、次に起きたら薬の効果も切れて元通り、っと」

「本当に大丈夫な薬なんですよね?」

 これからリーディエの口に入る物なのだから、エリクの口調は真剣なものとなる。一応、丁寧な形を装ってはいるが襟元を掴んで問い詰めたいぐらいだ。

「ワタシが実験台になっても良いよ?目を入れるだけなら、誰でも出来ると思うから。エリクさんは手先も器用そうだし」

「そ、そこまでは良いですけど。俺もリーディエも、薬とかそういうのに関する知識はまるでありませんから、気になって……」

「うん、仕方ないよね。でも、ワタシが仮に毒を用意していたとして、ここでリーディエちゃんを毒殺して意味があるかな?目撃者もあって、この家を調べればすぐに証拠だって見つかる。口封じのためにあなたをどうにかしようとしても、ワタシはこの足。逃げるのも難しいし、大人の男の人なら、報復に出ることだって簡単だよね。この細い首の骨をへし折るぐらい、片手でも出来ると思うよ」

 普段のダニエルの間延びした、いかにも温厚そうな話し方からは想像も付かないほどの早口。常軌を逸した本人ならざるような口調で告げられた言葉達は、考えられ得る限りの最悪の未来だった。そのあまりの剣幕に、思わずエリクもたじろぐ。

「ご、ごめんなさい。そこまで疑うつもりは……」

「ううん、気にしてないし、それで良いと思う。――ワタシ、一年や二年錬金術師をしている訳じゃないもん」

 険悪になった空気は、年齢不詳の錬金術師の悲しげな独白で締め括られた。リーディエと同じ……あるいはそれ以上の悲劇がこの術師の背後にあるのは、最早誰が見ても明らかだ。

「エル、始めて。あたしは、信用するから」

「リーディエちゃん。……エリクさん、良いですか?」

「俺は、彼女を守るつもりで、ここまで来ました。だけど、彼女をその名目の下に縛り付けるつもりはありません――」

 エリクが与えるのは自由。ただそれのみ。軍を出て得た自由に、新たな規則は、新たな束縛は必要ない。彼が口を挟むとすれば、リーディエの命が脅かされる事態になった時だけだ。

 今回は、あるいはその危険があると考えられた。在野の優秀な錬金術師という謎めいた人物、その調合する薬、背後にある過去。全てを受け入れ、手放しで友人として歓迎するほどにエリクは愚者ではない。だが、それにしても、今は彼女を信用したいという気持ちがあった。

 それは、悲劇的な過去を持つゆえの憐憫?同郷らしいことによる、よしみ?――どちらでもあるし、どちらでもないのかもしれない。

「――先生、お願いします」

「ふ、ふへっ!?せ、先生って、現役時代も呼ばれたことないんだけどっ。普通にエルで良いよー、それに、堅っ苦しい敬語もいらないって」

「いえ、せめて今日だけは。リーディエを頼みます、先生」

「だから先生はいいって!恥ずかしいなぁ、もう」

 頬だけではなく、顔全体、耳まで真っ赤に熟してしまう。軽く突けば、風船のように空気が抜けてしまいそうだ。

 緊張し、冷え切っていた空気はみるみる内に温まっていき、引き締まっていた大人二人の表情からも力が抜け、どちらからともなく、笑い声が漏れる。

「似た者同士」

 小さく少女が呟いて、彼女もまた柔らかく微笑んだ。

 完成した義眼を入れる作業は、予定通りにダニエルの手によって行われた。義眼も、昨日完成したての頃よりも多少手が加えられ、その瞳の部分はより生身に近く、また、一度入れたら中々抜けないよう、形も少し整えられているようだ。さすがにうつ伏せに眠るようなことがあれば不安だが、日常生活の中で下を向くぐらいなら、目が抜け落ちることもないと言う。

「なんだか、変な感じ」

 薬によって本当に痛覚は鈍り、自分の片目に義眼を埋め込まれるのを見ていたリーディエは、そう呟いた。

 実眼そっくりに作られているとはいえ、本来なら人体に存在しないはずであるガラスの塊を失った目の代わりに入れるのだから、体に違和感がないはずないのは道理だが、その様をまじまじと見つめるリーディエも中々に豪胆なものだ。むしろ、エリクの方が目を背けてしまい、その現場を見ることは出来なかった。

「しばらくしたら、馴染むと思うよ。一週間ぐらいは、激しく動いたりしないでね。実際に働くのは違和感が取れてから。もう少ししたら、地図を届けてもらえると思うから、この町の地形をしっかりと覚えてね。郵便屋さんが地図を頼りに届け先を探しているようじゃ、格好悪いよ」

「う、うん。わかった」

「じゃ、一旦おやすみ。エリクさん、ベッドは地下にあるから、そこまで運んでもらえるかな?リーディエちゃん、すごく軽いと思うけど、さすがに杖を持ちながら片手で抱えるのは無理だから」

「わかりました。本当、ありがとうございます。先生」

「う、うぅー。もういい加減やめてよー、それ。エリクさん、二十三ぐらいでしょ?」

 一仕事終えて緊張が解けたのか、またもや顔全体を完熟させたダニエルが抗議する。同性相手には積極的な愛情表現をする彼女だが、異性に何か言われるとすぐに赤面してしまう癖があるらしい。あるいは単純に褒められ慣れていないのか。

「俺の年ですか?二十四ですけど」

「ほらー!ワタシとそんなに変わらないじゃん!なら、先生とか敬語とかはなし!今からなし!」

「じゃあ……エル、で良いのか?」

「そうそう。ワタシもエリクって呼ぶからー」

「で、エルの年は?」

「……それを訊きますかね」

「訊きますとも」

 自称女好きであるエリクに、女性の年齢を尋ねることが失礼だというデリカシーがない訳ではないが、あくまで話の流れで、冗談として質問する。ダニエルは逡巡の後、意を決したように口を開いた。

「リーディエちゃんに内緒なら、言っても良いよ」

 青年の腕に抱かれた彼女は、既に意識を失いつつあった。たとえ今何かを聞いても、記憶には残らないだろう。薬のためか、普段よりもその寝姿はあまりに無防備で、本人に気付かれずなんだって出来てしまいそうだ。もちろん、エリクがおかしな真似をするはずもないのだが。

「女同士で年を隠すことって、意味あるのか?」

「だ、だって。リーディエちゃん、めちゃくちゃ若いんだもん」

「俺にしてみれば、若いってより幼い、だけどな。……こんな娘が使い捨ての駒みたいな役目をさせられて、本人はそれに疑問すら抱かなかったなんて」

「鳥の雛の性質に、すりこみ、というのがあるよね。彼女にとってはつまり、軍が従うべき親だったんじゃないかな」

 ただし、本当の親や家族を殺された上で出来た親だった。しかも、その無情な殺戮者こそが新たな親だなんて――!

「エリク。ワタシは、十五年、軍の研究機関の一員として働いていたんだよ。こっちに移って来て五年。その区切りの良い年に、あなた達と出会うなんてね。ワタシは決して神を信じないけど、運命のレールがあらかじめ敷かれているのなら、それを用意した存在はとんでもない悲劇作家だよ。いや、あるいは喜劇作家かもしれない。またあるいは、悲喜劇の天才、かな」

「えっと、つまり二十年錬金術師を?何歳からなんだ?」

「十歳。人にはまあ、天才少女とかなんとか、散々に言われましたなー。どれも空虚な賛辞だ。ワタシは人殺しのためにこの頭を持って生まれたんじゃない。だから、最後に自分自身で作った新型の爆弾がこの足を吹き飛ばした時、ある意味で快感があったんだよ。これで自由になれるのなら。あるいはその自由を謳歌出来る地が、この世ならざる場所であったとしても」

 薬品の片付けを行いながら、恐らく彼女本来の言葉で過去が語られた。その頭脳を活かす分野の自由を許されなかった女性の、苦悩の物語が。

「ねぇ、エリク。ワタシのこと、リーディエちゃんに話さないでね。ワタシも、リーディエちゃんの過去は聞かないから」

「お互いがある程度の予測は出来ているのに?」

「それでも、ね。あなたに色々と背負わせちゃうのは申し訳ないけど、どうしようもないお節介焼きだからこそ、祖国を離れてこんな所にまで来ているんでしょ?」

「は、はは……そこを突かれると、もう何も言えないな。でも、俺に後悔はないよ。親兄弟、友達連中のことは今でも夢で見る。もう、夢の中でそいつ等は死んでるんだけどな。それでも……俺は俺の意志でここまで来た。リーディエもお節介で連れて来たけど、今は納得してくれてる……っぽい。ここはちょっと不便だけど、良い親方にも会えたし、女の子も可愛いし良い所だよ」

 最後におどけてみせると、期待通りにダニエルは吹き出す。一時間前、険悪なムードを作り出していた二人とは思えない、息の合ったやりとりだ。

「おやおや、では、御年三十になられるおばさんも、もしかして狙われているのですかな?」

「たった六歳の差だし、何よりあんたは見た目がすごい若い、話し方も声も可愛らしいし、結構好みだなー」

「ふふっ、本気にしちゃうよ?」

「俺は女の子には嘘をつかないんだ」

「じゃあ、ワタシは子じゃないから圏外だね」

 二つの笑い。全く事情を知らない人が見れば、カップルだと思ってもおかしくはない、そんな和気藹々とした会話。では、エリクの抱えるリーディエは少し大きな娘だろうか?

 いい加減にエリクは彼女をベッドに寝かせに行き、会話は中断されたが、彼が一階に戻ると、再び恋人めいた和気藹藹とした会話が展開される。

 「似た者同士」――リーディエの言葉は、恐ろしく的確だった。

「どう?似合ってる?」

 昼と夜が七回あって、確かに義眼を入れていることにリーディエが違和感を覚えなくなった頃。遂に郵便屋の制服が、先輩となる以前からいた配達人の手によって届けられた。

 

「リーディエさん、で間違いないかな?」

「うん。あなたが、フォンスさん?」

「そうだよ。はー……話には聞いていたけど、エルが気に入る訳だ」

「……?」

「すごく可愛い、ってことだよ。彼女は男なんかより、可愛い女の子の方が数百倍も好きなんだ。折角、僕という色男が友人にいるのにね?」

 改めて、黒い制服に肩掛けカバンをかけた先輩の姿をよく見る。年の頃はエリクと同じか、少し上。全体的に線は細く、筋肉質ではないが、溌剌とした元気に溢れている感じがある。それにリーディエも数は少ないものの、彼が働く姿は何度か目撃していた。よく走り、よく話し、町中に笑顔を振りまいている好青年。そんな印象を受ける男性だ。顔も間違いなく男前に分類される。

「よろしく、お願いします」

 そんなフォンス青年が色男かどうかの議論は巧みに回避し、ひとまず挨拶でお茶を濁すとする。いや、事実として挨拶は大事だ。エリクに何度も何度も言われた。

「うん、よろしく。じゃあリーディエさん、この服を着て、明日の四時に来てくれないかな」

「……朝の?」

「ううん、初日は夕方の仕事だけをお願いするよ。だけど、出来れば早起きの訓練もしてもらえると助かるね。僕達の仕事は、朝と夕方の四時から二時間ほど働く、究極的にはそれだけなんだよ。でもその分、一日四時間の勤務時間は、普通の仕事よりずっと過酷になるから」

「過酷なのには……慣れていると思う」

「ははは、心強いよ。正直、君のような小さな女の子に任せるのは気の毒かと思ったけど、噂通りのすごい子だ」

「すごい?」

「先輩に、いきなりタメ口だもんね」

「あっ……」

 会話経験の乏しさが顕著に出る。軍にいた頃は、そもそも誰とも話さなかった。事務的な会話は単語を主体に行い、そこに敬語も崩れた言葉もない。一兵卒の間で交わす会話は、年上に対してどれだけ失礼な口を利いても、暗黙の了解的に許されていた。軍隊とは、そういうものだ。

 だが、既にここは軍ではない。郵便屋の制服は、軍服とも似通った物ではあるが。

「うそうそ、気にしてないよ。なんとなく、それで君のことがわかったしね。君は君らしく、仕事に励んでくれれば良い。僕もなるだけサポートするからさ」

「私が、助けるのに」

「人手が増えてくれるだけで大助かりだよ。僕も体力には自信があったけど、昨今の忙しさは過労死、なんて言葉が見え隠れするほどだったからね。じゃあ、僕はこれで行くよ。おやすみなさい」

「おやすみなさい。また明日」

「うん、少しぐらい遅れても良いから、万全の状態で来てね」

 手を振り別れて、そして冒頭へ。

 郵便屋の制服は、兵士に指揮する人間の軍服に酷似した、とにかく真っ黒い服だ。揃いの色、材質の帽子もあり、カバンも支給品があるらしい。どうやらそれは前任者の物らしく、あまり奇麗ではないが、これぐらい使い込まれている方が革も柔らかくなり、使いやすいというものだろう。型崩れなど何のそのだ。

 さすがに服はかなり小さな新品が用意されている。女性の、しかも年端もいかない少女が着るのだから、大人の男の物が使い回せる道理はない。丈を直すのにも限界はある。

 それに袖を通し、帽子もきちんと被り、カバンをかける。小さな郵便配達人の完成だ。

「おー……中々似合うなぁ」

「本当?」

「ああ、様になってる。白い髪に黒い服、ってのも良いな」

「それは良かった。手紙を届ける人に、悪い印象を与えたらいけない」

「容姿を気にするのは、実務的な理由でだけ、か?」

「うん。可愛い服は、エリクに期待してる。誕生日のプレゼントだから」

「その話、まだ覚えててくれたのか。でも、俺が服を用意しようとしてるなんて、よくわかったな?」

「エルが言ってた」

「……あの人、人の心が読めるのか?――本当にありそうで笑えねぇ」

 そんな魔術めいた可能性を吟味せずとも、エリクがプレゼントとして服を選ぶことぐらい、少し頭を捻れば考え付くことだろうか。事実として、エリク自身が少し考えて簡単に決めてしまったことだ。

 だが、男物の服ではなく、少女らしい華やかな服を身にまとう。それが何よりも、リーディエが自由を手にしたことの証になる気がして、他に良いプレゼントなど思い付かなかった。あるいは、義眼もまた候補にはなったかもしれないが、既にそれはエルによって強制的にローンを組まされてしまった。利子は一割で良いらしいが、担保はリーディエを保護する権利だと言う。つまり、ローンを踏み倒そうとすれば、リーディエはエルの家に引き取られることとなってしまうのだ。

「うん……動きやすいと思う。長ズボンは気になるけど」

「隠密行動を心がける必要はないから、擦れる音なんて気にしないで良いんだぜ?」

「そうだった」

「おいおい、音も立てずに忍び寄る郵便屋って、怖過ぎるだろ」

「本人が知らない間に、手紙が届けられている?」

「郵便屋じゃなく、幽霊騒動になるからやめてくれ」

 最近になって明らかになったことだが、リーディエは天然ボケな所があるのに加え、意外と冗談や楽しいことには乗ってくる。まだわかりやすく笑顔を見せたり、見るからにテンションを高くしたりするようなことはないが、歪められる前の性格が確実に浮き彫りとなって来ていて、その変化がエリクにはとにかく嬉しいこととして映った。

 もうすぐ、彼女を軍から連れ出して三ヶ月が経とうとする。その間にリーディエは、真っ当な仕事も見つけ、本来の人格も取り戻そうとしていた。

 彼女の保護者を自称する男として、喜ばずにはいられない。嬉し涙すら滲むほどだ。……大げさではなく。

「じゃあ、リーディエ。今日は早めに休むか?」

「そうする。明日は早速、四時に起きようと思う。仕事は夕方の分だけで良いみたいだけど、体を慣らさないといけない」

「お、おお。……いきなりハードだなぁ、俺は付き合いきれないかも」

「頑張って一人で起きる。郵便屋として働くことを決めたんだから」

「強いな、リーディエは」

「エリクも、石工の仕事を頑張ってる」

「そうだな、お互いしっかりやろうな」

 小柄な白髪少女は、やはり守られることは似合わないのかもしれない。制服を着た瞬間から、いきいきと、活力に満ち溢れるようになった気がしていた。

 そして朝。エリクが目覚めると、リーディエのベッドは既にもぬけの殻。宣言通り、四時かそれに近い時間に起きることには成功したらしい。現在時刻は七時、決して早いとも言えない時刻なのだが。

「んー、リーディエ、起きてるのか?」

 家にいない可能性もあるが、背筋を伸ばしつつ、少し大きな声で家中に呼びかける。ほどなくして声は返って来た。

『起きてる』

 事務的でそっけない返答。さすがにここにまで態度の軟化を求めるのは、多くを望み過ぎだ。

 そもそも、これが本来な彼女なのかもしれない。気の利いた言葉の一つも欲しくはあるが、逆に多弁過ぎるリーディエというものも想像するのが難しい。いや、気持ち悪くさえある。

「ん、おはよう」

「おはよう」

 白髪の少女は、鏡台の前で見つかった。なんとまだ夕方の仕事が始まる半日も前だというのに、既に黒い仕事着に着替えている。さすがに帽子はしていないが、ブラシで長い髪を梳かしたりして……その様は、ある言葉で表現することが出来る。

 “浮かれている”――まさか、リーディエに対してこの言葉を使うなどとは、夢にも見ていなかったが、滅多に見ない鏡に映る自分の姿を見ながらめかし付けるその姿は、初仕事前の緊張と嬉しさの混ざり合った、年頃の少女そのもので……。

「は、はは、可愛いな、おまえ」

「可愛くない」

「いや、可愛いって」

「エリクが言うとチャラい」

「うおっ、いつの間にそんな言葉を……いや、またエルが出典か」

 無言で首肯。リーディエがここまで「自己」を確立させるのに、あの錬金術師は間違いなく必要不可欠だった。今も必要だし、出来るならばずっと交流を持っていたい。しかし、彼女が色々な言葉をリーディエに吹き込んでしまうこと、それだけはエリクにとって不都合があった。現にこうして、地味に心を抉る言葉を吐かれてしまう。

「エルやおまえがどんな印象を俺に対して抱いているかは知らないけどな、俺はこう見えて、女は好きだが一途なもんだぜ?今もほら、おまえ以外の女は目に入れてない」

「子どもは恋愛対象外。大人の女の人は違うんじゃない?」

「くっ、日に日に口が達者になっていくな……。いや、でもここに来てから俺、すっかりナンパが楽しくなくなったし、女遊びはめっきり減った。健全なもんだよ。おかしな話だよな、一回死ぬ思いをしたんだから、その反動で楽しみまくっても良いってのに」

「機能不全?」

「よし、一回エルにはがっつりと指導を入れるべきだな」

 しかし、これは実際に不思議なことだった。戯れとしてダニエルには一度色目を使ったし、事実として彼女が魅力的な女性だったのも確かだが、この町に腰を落ち着けてからは女性と真剣に付き合ったり、夜を共にしたり、そういったことは何一つとしていない。女性に興味を失った訳ではないし、機能は好調だ。だがなぜか不思議と欲求が湧いて来ない。やはり、リーディエにかかりきりだからだろうか?彼女が仕事にも慣れ、ひとまずは手がかからなくなれば、彼は彼の遊びを楽しむ余裕が出来るのだろうか?

 未来のことを考えても答えは出ない。来年のことを考えると、悪魔が嘲り笑う、ということわざもあったが、正にその通りか。

「ところで、どういう意味?」

「何がだ?」

「機能不全って」

「…………エルに訊……かれたら困るな。その、なんだ。女に興奮しないというか、その……常に萎えてる、みたいな?」

「同性愛も認めるべきだと思う」

「せ、説明が悪かったな、そういうんじゃない。俺は男に興味はない。ともかく、男にとっては結構、屈辱的な罵り言葉なんだ。俺をからかうために言うのは良いけど、間違っても他の男の人には言うなよ」

「わかった。エリク専用」

「俺には言い続けるんだな……」

 ダニエルもさすがに意味は伝えず、使うタイミングだけを教えたのか。いずれにせよ余計な知識には代わりないが、ひと月も前のエリクは、リーディエとこのようなボケと突っ込みの応酬、つまりはコントのようなやりとりが出来るとは思っていなかった。笑い混じりに話すことが出来るのは、やはり彼女のお陰か。

「なんか、あの人には素直に感謝出来ないけど」

 これだけ恩があるのにそう思うのは、やはりあの人物の人柄が起因しているのだろう。ある人を紹介する際に“性格に難アリ”という表現は頻繁になされるだろうが、あの錬金術師については“性格と性癖に難ありまくり”とする他はあるまい。

 あえて他の言葉を使うのなら“残念美人”か。見た目は悪くないし、基本的には心が広く、優しく、聖女のような人物ではあるのだ。基本的には。

「人の性格は、気候にも左右されるって言うよな……。温厚な性格は、この温暖な気候が作ったとして、あの尖りっぷりはやっぱり、生来のもの、か……?ほんと、惜しい人だよ」

「エリク。もうそろそろ仕事?」

「ん、八時前か。なら、ちょっとパンを齧ってもう行くか。リーディエ、初仕事、頑張れよ」

「うん。善処する」

「……その玉虫色な発言も、エルか?」

「上官が言ってた」

「大人の世界って汚いよな!俺も、子どものままが良かったよ!」

 なぜだか思いきり泣きたい気分のまま、エリクは家を出て行く。父親と大喧嘩し、陽が落ちた町を家出して走る思春期の少年のように。

「一応、ボケだった……本当は、頑張る」

 まだコントはリーディエに難しいということだろうか。役者同士の息がぴったりと合わなければ、アドリブは成功してくれない。

 今しばらく、ダニエルを相手に練習をする必要あり、といったところだ。

 はて、リーディエの夢は喜劇役者だったか?あるいは、大道芸人だったのだろうか?

「あたしは、郵便屋。手紙を届け、受け取るロマン溢れる仕事」

 ダニエルの言葉を復唱し、身嗜みを整えるのに戻る。長い白髪は、いくら手入れをしても足りないように感じられるのだから。

 時の流れを比喩的に表現するならば、何にたとえるのが最適だろうか?

 その解答を得るためには詩人を頼る他はないだろうが、満ち足りた生活の中で紙面と向き合う詩人が、真に民衆の情緒を理解しているのか、と考えれば疑問は残る。最良の答えは、一般民衆それ自身が、彼等の生活の中で見つけるべきだろう。

 リーディエの場合は、川だと考える。

 川は行軍の上で、恐ろしくもあり大事なものでもあった。川向こうから狙撃を受ければそれだけで一団は半壊するが、水が補給出来なければ人は生きてはいられない。水の補給には池も利用することは出来るが、小さなものの場合、敵軍が毒を流している危険がある。その点、川の水はまだ安心が出来た。それでも毒見番は必要で、その仕事は経験が浅く、大して軍の役に立たない少年兵が選ばれたのだが。

 川のせせらぎの音や、その美しさではなく、そういった思い出が先に蘇ってきてしまう分、リーディエは不幸なのかもしれない。あらゆる自然の美しさを、素直には鑑賞出来ないのだから。

 それでも、時にゆるやかに、時に激しく流れる川は、彼女が時間の概念を語る上で一番初めに思い起こされるのだった。今日この日の川の流れはとにかくゆっくりで、早く夕方になれば良いのに。そう何度願ったのかは知れない。

 一秒一秒を待ち望み、また次の一秒を楽しみにする。行き過ぎた“期待”は傍から見れば狂気じみているかもしれないが、彼女はとにかく仕事をしたかった。誇りを持ってすることの出来る、やり甲斐のある仕事を。かつての彼女が、軍隊において全てを捧げていた斥候の仕事と同じように。

 全ての人間にとってそうかはわからないが、リーディエにしてみればただぼんやりと日々を過ごす、その短調な日常こそが異常であり、狂気の産物であり、精神の堕落を進めることに他ならない心地がしていた。

 

 三時を過ぎれば、最早じっとしていることは出来ない。

 本日何度目なのか、それはリーディエ自身にもわからないが、長髪にブラシを通し、可能な限り奇麗にポニーテールを結う。そこに制帽を被る。白と黒のくっきりとしたコントラスト。モノクロームの名画のようにすら見えるが、瞳は燦々と輝いている。片方は茶色。もう片方は翡翠色。すなわち義眼。

 精巧に作られた偽りの瞳は、色彩以外の点で生身の物と区別が付かない、唯一本物に劣る点があるとすれば、視力を持たないということだけだ。だが、既にリーディエは片目だけで見る世界に慣れている。最初は確かに不便を感じたが、今ではそれほど不自由を感じていない。郵便屋としての仕事にも大きな支障が出るとは思えなかった。

 対人問題も、特に今のリーディエにはそれほど心配するべきことではない。なぜかと言えば、今日の彼女は嬉しさで胸がいっぱいであり、知らない人と出会い、話すことへの戸惑いなんて感じている余裕はなく、ただただ、歓びの感情だけがあった。立派な郵便屋の服をまとって、人の役に立つ仕事をする。なんと素晴らしい仕事なのだろう。

 ――そう、軍隊に同行するより、どれだけ人のためになることか!

 胸は躍った。鏡の前でポーズを決め、時計の秒針が進むことを楽しみ、仕上げとして白い手袋をはめる。ただの布で出来ているはずなのに、絹の肌触りに感じられた。希望と期待が世界を美しくしてくれている。自分一人では、世界はモノクロでしかなかった。白い髪と黒い軍服が描き出すだけの世界だった。

 それなのに自分以外の人との出会いの中で、世界はこんなにも鮮やかに、目が痛いほどに変容してしまえた。これがきっと、正しい世界。人並みの世界。痛みも苦しみも、きっと絶望だってある。けれど喜びと楽しみと、希望に溢れた優しい世界。

 三時三十分を回った。静かに立ち上がると、ドアを開けて外へと出て行く。黒い制服によく合う黒のマフラーを。唯一のモノクロ世界の遺品を首に巻いて。

 地図は頭の中に入っている。

 教会や少しお金を持った人の大きな家が建ち並ぶ北区。商店通り(マルシェ)があり、多くの人々の家がある中央区。リーディエ達の家はここの南寄りの場所にある。南区には職人通りや警察署が。ダニエルもここに住んでいる。エリクが働く工房もここだ。

 町は市壁で囲まれ、門は南側に一つしかない。当然ながら手紙は町の外からも届けられる物なのだから、郵便局は町の南に位置していた。特に深いことを考えずに南下すれば、リーディエの勤め先には辿り着く。

「こんにちは。お疲れ様です」

「やあ、こんにちは。ちゃんと来てくれてありがとう」

 新人配達人を、フォンスは笑顔で迎えた。昨晩のやりとりでもわかったが、彼は温厚で人当たりの良い好人物で、人と人の間を繋ぐ郵便屋に相応しく感じられる。リーディエが目標としなければならない人だ。あらゆる点で。

「さて、少し早いけど、来てもらえたのなら配達を始めようか。仕事の配分は、単純にざっくりと半分ずつで良いかな?」

「うん。早く慣れないといけないから、たくさんしたい」

「わかった。じゃあ、これだけお願いするよ。仕分けは町の南か北かではなく、西か東かでしているんだ。変に思うかもしれないけど、ここの伝統だから許してね。……まあ、今日まで僕一人でしていたから、大して意味はなかったんだけど」

「私の分は……東?」

「そう、明日は西の分をお願いするよ。とりあえず、実際の地形を覚えて、ある程度は人の顔も覚えてもらわないとね」

「地図の上ではそこそこ頭に入っているけど……頑張る」

「初めはきついと思うけど、急ぎの手紙はないはずだから、ゆっくりとでも確実にね。――よし、じゃあ行こう!リーディエ局員の初仕事だ!」

「局員……」

 その言葉に、得意を感じる。決して大きな建物ではなく、手紙を分けて置く棚と、回収のための大きな麻袋の他には机しかない、こぢんまりとした仕事場。だが、間違いなくこの郵便局の職員の一人である。それが嬉しくて、誇らしくて、自然と少女の頬は緩んでいた。

「おお、あんまり笑わない子だって聞いたのに、良い笑顔だ。手紙を届ける人にも、その調子でね」

「前向きに検討する方針で」

「は、はは」

 指摘されてみると、もう笑顔は消えてしまっていた。ただし、その頬は酒気帯びのように染まっている。ただ恥ずかしくて笑みを打ち消しただけだ。

「いってきます!」

 顔を火照らせたまま、局を出る。夕暮れの近付いた町は、夏といっても少し肌寒く感じる。そこで長袖の制服は大いに助かるし、マフラーもただのおしゃれのための道具以上の活躍を見せてくれた。

 

 白い石作りの家の建ち並ぶ通りを横切り、名前の知らない木の横を突っ切って、最初の届け先へ。既に平面上では町の住人の名前とその家の場所は覚えている。ただし当然のことながら、そこに住む人の顔については、肖像画付きの地図ではないのだから知る由もない。事実として、リーディエは自分自身の名前が、響きや字面だけであれば王侯貴族だと思われても不思議はないほど、荘厳で美麗なものだと自覚している。親が何を思ってその名を付けたのか、幼少期の記憶の大半を忘れ去ってしまった今、知ることは出来ないが。

「ダグさん。いらっしゃいますか?」

 義眼を馴染ませるための日々で何十回と練習したその文言を、ノックと共に口にする。想像よりも小さな声になってしまったが、自分にしては声を張った方だ、と無理矢理正当化する。そもそも、金属のノッカーは室内に大きな音を伝えてくれるはずだ。

『ほぉーい』

 どこか間の抜けた声。扉が開かれると、その声の持ち主が恰幅のいい親父だと判明し、なんとなく納得がいく。

「お手紙です」

「おや、あんたは初めて見る子だね?」

「はい。今日から局で働くことになったリーディエです」

 ここまではあらかじめ想定していた会話。全く初めての相手との会話にやはり抵抗があるが、なんとか事務的に処理することは出来ている。

「へぇ……まだ若いのに、大変だねぇ」

「若いからこそ、配達は出来ると、思う」

「わっはっは、それもそうだね。じゃあ、手紙、ありがとさん。これからはいつもの兄ちゃんだけじゃなく、可愛い嬢ちゃんも来てくれる、って覚えておくよ」

「か、かわっ……!」

「ウチには子どもがいないから、カミさんも喜ぶだろうよ。今日はちょっと病気をして寝てるんだけどね」

「そ、そう。お大事に」

「どうもありがとう。リーディエちゃんも、頑張り過ぎて怪我や病気をしないようにね」

「わかった。……それじゃ」

 押し付けるように手紙を渡し、速攻でその場を立ち去る。日焼けをしていない白い肌は、ちょっとした赤面も他人に伝えてしまう。きっと、あの中年男性にも見抜かれてしまっていたことだろう。

 やはり、率直に褒められてしまうと、たとえそれがお世辞であったとしても体が反応してしまう。火照った頬を冷やすために全力で駆け抜け、いくつもの景色を置き去りに行くが、必死に走ると余計に顔が上気するようだった。

「これから行く所でも同じことを言われたら、どうしよう」

 どうしようもない。そして、現実は。

 

「こんな可愛い子に手紙を運んでもらえるなんて!」

「いつもの兄さんもいい男だけど、お嬢ちゃんも可愛いねぇ。ウチの子にしたいぐらいだよ」

「ねぇ、君、どこの子!?」

「このまま家でゆっくりしていかないかい!?ああ、まだ回らないといけない家がある?残念だなぁ!」

 

 それなりに広い町ではあるが、主戦場となった森ほど足場は悪くなく、平原ほど広大ではない。それに受け持ちは町の半分。いくらそこを走り回っても、ほとんどリーディエの足は疲労を訴えなかった。だが、半分ほど郵便物を配り終えた頃、既にリーディエは満身創痍だった。その顔から朱色が抜けることはなく、長いポニーテールがくたっとするほど汗で濡れている。……冷や汗で。

「精神が、持たない……」

 人の美的センスはそれぞれだ。ある人が美しいと思った物が、ある人にとっては醜く映るかもしれない。またある人が偉大と認めた絵画が、またある人にとっては子どもの落書きよりも才能を感じられない物かもしれない。

 つまり、万人が共通して美しいと認めるものなどありはしない。あるとすればそれは、美の本質、のようなものだろう。人の感性ではなく、魂そのものに訴えかけるような、圧倒的な美。それは神にしか成し得ないのではないだろうか。成し得ないはずではなかったのか!

「可愛いって、可愛いって……」

 百パーセントだった。何が?――リーディエを初めて見た人の返した言葉が、だ。

 誰もが白髪で片目の色の違う少女のことを、好意的に受け入れてくれる。義眼を入れる必要がなかったのでは、と思わせてしまうほどだ。そしてそれは、リーディエを大いに疲労させる。精神的に。照れによって。

「お、リーディエ」

 植え込みに腰を下ろして少し休憩していると、よく見知った声が語りかけて来た。金髪の青年、見間違えるはずもないエリクだ。

「エリク」

「朝はあれだけはりきってたのにお疲れみたいだけど、やっぱりきつかったか?」

「……ある意味で」

「含みがある言い方だな?」

「肉体的には大丈夫。全然苦じゃない」

「じゃあ……」

 言わずもがな。

 あらゆる職場において、対人問題はあるだろう。自給自足の生活でもしない限り、人が生きる限りは誰かと会話し、人生を交えなければならない。ましてや郵便配達はその極みで、多種多様の人物と仕事のために顔を合わせる。疲労が溜まることの覚悟はしていた。リーディエの精神は頑強であるつもりだった。そう、罵声や欲望を剥き出しにした言葉に対しては。

「可愛いって、皆に言われる」

「はは、まあ、そりゃあな。十五歳の女の子が手紙を持ってくるんだから、びっくりするよ」

「びっくりするのは、あたしの方。恥ずかしくて、まともに相手の顔も見れない」

「ふっ……はははっ、そうかそうか、本当おまえ、褒められるの苦手な」

「笑いごとじゃない。仕事に支障をきたす」

「んなことない、んなことない。そうだな……おまえに対して皆は、『おはよう』や『こんにちは』みたいなノリで『可愛い』って言ってると思えば良いんじゃないか?そう、様式的に」

 二ヶ月以上一緒にいれば、いい加減にエリクも彼女の扱い方に慣れてくる。軍でのことを引きずるようで少し心は痛むが、一つの様式として機械的に理解させてしまえば、驚くほど素直にリーディエはそれを受け入れることが出来る。今回もそれで乗り切れるはずだ。

「様式的に……わかった」

「じゃあ、テストな。リーディエ、可愛いよ」

「……チャラい」

「感想を言えとは言ってないぞ!?」

「けど、今のあたし、赤くなってない?」

「ん……まあ、普通だな」

 むしろ不意打ち気味に罵倒(?)されて驚いたのはエリクの方だ。表情から次に何を言うか読み取れないものだから、ふんだんに語彙を増やした今、どんな言葉が飛び出してくるかは手品師の持つ道具袋以上にわからない。

 天然でこの有様なのだから、もう少し作意というものを覚えたらどうなるか……そうなった時点で、表情も豊かになっていそうな気はするが。

「よし、じゃあ、残りの仕事も頑張れるか?」

「やってみる。相手の褒め言葉は、挨拶代わりのもの……そう身構えていれば、きっと」

「ん、俺はもう行くな。まだ仕事が終わった訳じゃなくて、ちょっとした買い出しに来ただけなんだ」

「エリクも頑張って」

「おまえに応援してもらえれば、百人力だよ。じゃあな」

「……チャラい」

「素直な感想だぜ!?」

 別れ際に追撃を喰らい、ずっこけそうにもなりながら二人は別れる。立ち上がって歩き出したリーディエの表情は、明るかった。

「おやまあ、可愛らしい!」「どうも」

「君に届けてもらうために、毎日でも自分への手紙を出したいくらいだよ!」「やめてください」

「君、何歳?結婚する?」「十五。結婚はしない」

「リーディエちゃんのファンクラブ、作っていい?」「面倒なのでやめて」

 

 機械的に全ての届け先を捌ききる。どうも変態的な欲求を持つ男性が老いも若いも問わずいた気がするが、一度完全に認識の仕方を変えたリーディエにとってそれ等は、本当に「こんにちは」や「ありがとう」となんら変わらない、単純な好意を示す言葉になっていた。

 全ての配達を終えると、夕日は西の空に。太った月は東の空に顔を出していた。もう間もなく、満月の夜がやって来る。

 滲み出した赤インクのような太陽の名残に、静かに放たれる純白の月光。家々から漏れる光もあるが、二つの天体の光を受けた町は存外に明るく、帰り道に迷うようなことはなかった。

 まずは郵便局に戻る。既にフォンスは配達を終えているはずだ。

「お疲れ様です」

「おかえり、リーディエちゃん。大丈夫だった?色々と」

「特には」

 素直な彼女でも、少しぐらいは強がることはある。それに、エリクのアドバイスを受けた後は本当に、何の問題もなく仕事を遂行出来たのだから。

「なら良かった。じゃあ、お疲れ様。届けられなかった手紙はなかった?」

「誰かしらは家にいてくれていた。もしも誰もいなかったら、明日に回すか、近場の人にお願いすれば良い、これで大丈夫?」

「うん、留守の場合はそれで良いよ。もしも引越しや、残念ながら亡くなられていたら、事だけどね」

「そっか……」

 引越しはともかく、手紙を届けるはずだった相手が既にこの世にいなかったら。

 再び強く感じた“人の死”について、しばらく考え込んでしまう。手紙を出した相手は、当然その手紙が相手に読まれるものとして書いている。それなのにも関わらず、その相手が死んでいる。病気で死んでいればもちろん悲しいが、まだ諦めも付きそうではある。ところが、野盗に殺されたり、徴兵されて戦場で死んでいたりしたら?心が壊れそうなほどの悲劇によって、自分で自分を殺すことを選んでいたら?

 ……暗い思考は終わりを見せず、次々と残酷な仮定の未来が描き出される。次いで、想像しなくても良いのに惨たらしく死んだ人の亡骸が浮かび上がった。

 よくよく見てみるとそれ等は全て、長い白髪を持っている。白い髪に、茶の瞳。片目はないか、義眼がはめられていて、その色は澄み渡るような緑。髪は一本の尾のように結われていて、傍らには黒いマフラーがあって!そのすぐ傍には、金髪の青年の亡骸までもが!!

「リーディエ、ちゃん?」

「……………………っ」

 思考から戻って来た時、リーディエの瞳には涙があった。枯れていたと思い込んでいた、純粋な悲しみの涙が。

「大丈夫。届けられない手紙は可哀想だと、思っただけ」

「うん……そうだね。そこで人と人との関係が、途切れてしまうことだってあるんだから」

「私は、それを途切れさせたくない。むしろ、繋げたい」

「大変なことだね、それは。けど、そうだな。僕達はそれを初心とするべきだ。……一日目の君に、長くやってる僕が教わってしまうなんて」

「説教みたいに言って、ごめんなさい」

「そんな。でもリーディエちゃん、本当に大丈夫?……すごく、悲しい顔をしていたけど」

「変なことを考えていただけ」

 涙を拭い、雫のフィルター越しではない世界を見つめる。小さな仕事場であっても、その視界には色が広がっていた。両目で見る世界より、片目で見る世界の方が美しく感じられるのは、心境の変化がそうさせるのだろうか。以前よりもその目が切り取ることの出来る世界は、格段に狭くなっているはずなのに。

「狭いからこそ、小さいからこそ、鮮明に見えるのかも」

 最後に新たな仕事場と先輩に頭を下げ、新人郵便屋は家路を急いだ。

 あの悪夢の記憶は消えてくれない。つい一時間ほど前に会ったばかりなのに、もう一度顔を見なければ、とても安心することは出来なかった。外は既に月光が支配する夜。血のような夕日は空にいない。

 道に残る臭いを辿る犬のような足取りでリーディエは、ただただ家を目指した。迷い子のように、十年来の家族の場所へと戻る中年兵士のように。

 夏の夜は静かで、遠くの酒場の賑わい声は届かなかった。

「エリク!」

「ん、おかえり。どうし――」

 リーディエは家の中に逃げ込むように入ると、ついさっき戻ったところらしく、椅子に腰かけるエリクの胸に飛び付いた。動物が親の体に自分の体を擦り付けて甘えるように、その胸にぐりぐり頭を擦り付ける。帽子は既に落ちてしまい、髪も一瞬でぐしゃぐしゃになった。

「何か辛いことでも、あったのか?」

「なかった……。ううん、あったけど、なかった」

「哲学だなぁ。俺、そういうの苦手なんだけど」

 どこよりも安らげる場所で、改めて涙がこみ上げて来ていた。それは遂にぽろぽろとこぼれ落ちると、点々と、やがては広い範囲に渡って、エリクの服を湿らしていく。

声を押し殺し、小さな体を震わせて涙するリーディエを、エリクはただ背中に手を回して支え続けた。今まで流さなかった涙を。忘れてしまっていた悲しみを。全て流し終え、彼女がより自分自身に素直になれるようになるまで。

「エリク。あたし、怖かった」

「うん」

「死んだ人には、手紙が届けられない。そのことが。……不思議。あたしには、手紙をくれる友達もいないのに。自分が死ぬのが、すごく怖くなった」

「……うん」

「それで、それ以上に……エリクに死んで欲しくない、って思った。あたし、エリクが死んだら、どうしたら良いかわからない」

「……そっか」

「あたし、エリクと一緒がいい。いつまでも。離れ離れになんか、なりたくない……」

「ならないよ。おまえみたいな可愛い子、俺が手放す訳ないから」

「でも、明日急に盗賊に襲われたりしたら……」

「俺だって、一度は軍にいたんだ。素人なんて返り討ちさ」

「病気をしたら……」

「エルがいるだろ?下手な医者にかかるより、あの人の方がよっぽど良い薬を用意してくれそうだ」

「エリクは……死なない?」

「ああ、死なない。もちろん、リーディエも、俺が死なせない」

「よかっ、た……」

 最後に一雫の涙を落とし、少女は目を閉じた。すると、そのまま静かに寝息を立ててしまう。走り回ってお腹も空いただろうに、ひと欠片のパンも口に入れず。

「わんわん泣いて、疲れて寝て……まるで赤ん坊だな」

 生まれたての子にしては重い少女を抱いたまま、ベッドまで運んでやる。風邪をひかないようにと毛布をかけてやると、目元を輝かせたままの彼女はいよいよ深い眠りの底へと落ちていった。静かに、満たされた笑顔で。

 この瞬間、リーディエは生まれ変わったのかもしれない。

「リーディエ。いい夢、見ろよ」

 ぐっしょりと涙に濡らされてしまった服を着替え、エリクは一人で食事を済ませた。

「んっ……」

 朝四時。リーディエが空きっ腹で目覚めると、きちんとテーブルには夕食兼朝食が用意されていた。エリクは当然と言えば当然だが眠っている。

「エリク、ありがとう。……大好き」

 相手が起きていたら絶対に言えないような言葉を囁き、パンと昨晩の残りであろうスープを温め直して口に入れると、身嗜みを整えて家を出た。郵便屋の制服も着たまま寝てしまったのだが、さすがにそれはエリクが脱がせてくれたらしい。皺にもなっておらず、軽くはたくだけで着ていくことが出来た。後は帽子を被り、マフラーを巻けば十分だ。

 少し肌寒い早朝の町は、夜とは比較にならないほどの沈黙に包まれている。空気は澄み渡り、太陽が昇りきっていないため薄暗く、今が朝か夜かの区別も少し付きづらい。無人の大通りは死街(ゴーストタウン)じみていて、小鳥だけが唯一の住人のようだ。

 植え込みの草花には朝露が。吹き抜ける風は木の葉の音楽を奏で、石畳が靴に踏まれて鳴る音と不揃いなアンサンブルを生む。

 朝の郵便屋の仕事は、新聞の配達だ。と言っても、新聞を取るためにはそれなりの対価を支払う必要があり、その出費は結構馬鹿にならない。そこで、この町では近所の三から六軒ほどの家の内、一軒が新聞を取り、それを複数の家の住人が回し読みをしている場合が多い。もちろん、金銭的に余裕のある人の多い北区は別々に取っているのだが。

 また、リーディエ達の国では当たり前だった“郵便受け”だが、この国ではあまり普及していないのか、単にこの町が遅れているのか、やはり金持ちの家にしかない。そこで手紙は直接その家の住人に手渡ししている。

 ここからはリーディエの推測に過ぎないが、もしかすると郵便受けが利用されていないのは、盗難の恐れがあるからなのかもしれない。後進国であるところのこの国の治安は、あまり良いとは言えない。この町はまだ安定している方であり、衛兵も信頼をおけるが、町によったら衛兵が賄賂を受け取り、夜盗と結託しているという噂さえある。

 広い意味で言えば、リーディエは軍人として「敵」と戦い、国全体を守っていた。そんな立場にいた人間としては、人々の生活を脅かす無法者を野放しにするばかりか、協力する衛兵の心理が理解出来ない。自身が金銭に執着がないのもあって、賄賂を受け取ることがそこまで重要なのかも、理解に苦しんだ。

「おはようございます」

 そうこう考えている内に、郵便局にまで辿り着く。既に局は空いていて、先輩郵便人が自らペンを取り、書き物をしていた。

「おはよう。昨日はゆっくりと眠れた?」

「ま、まあ。フォンスさんは、手紙?」

 泣いて泣いて、最後にはそのまま夕食も抜きで眠ってしまった、などとはさすがに言えない。

「うん。たまには、妹にね」

「妹がいるの?」

「故郷にね。と言っても、もうリーディエちゃんよりも大きくて、嫁入りは秒読み、ってぐらいの年なんだけど。いや、もしかすると、入れ違いになって結婚の報告が来たりして」

「結婚……」

「リーディエちゃんには、まだ想像付かないか。僕もまだ、一緒になる人を見つけられていないし、真剣に見つけるつもりもなかったりするんだけどね。これじゃ駄目かなぁ」

 結婚。男女が結ばれること。

 まだ寝起きでいまいちはっきりしない頭でそのことを考えたところ、リーディエは自分とエリクが抱き合う姿を想像してしまい、即座に頭をぶんぶん振ってその妄想を消し去った。昨日の悪夢的な想像も含め、少女らしい繊細で影響されやすい感性の持ち主である彼女は、ちょっとしたことで大変な妄想をしてしまう。

 ……そう、繊細な感性が。

 その時、リーディエは一人ではっと気付いた。自分は人の言葉にいちいち大きく心を動かされている。褒められれば照れて、切ない話を聞かされると、自分に置き換えて涙を流し、恋の話となると突飛な妄想をしてしまう。それは一般的な年頃の女子の典型とも言える反応。

 剥き出しの感性が刺激されて生み出す、大きな心の動き。長年、リーディエに欠けていたもの――。

「いつの間に、こんな風になっていたんだろ」

 エリクに手を引っ張られ、この国、この町に来てから?彼とよく話すようになってから?ダニエルと出会ってから?義眼を入れ、郵便屋として働くことを決めた頃から?あるいは昨日、実際に働き始めてから?

 答えはわからない。わからないが、それもまた一つの心の反応。少女は驚き、同時に喜びを感じていた。

 心を縛り付けていた鋼鉄の鎖は解け、自由自在に動かすことが出来る。軍では余計なものとして排除された感情を、抱くことが出来る。泣き、怒り、喜び、楽しむことが出来る。そして今、仕事の出来ている自分は楽しい。エリクやダニエルと会えることは嬉しい。人が死ぬのは悲しい。悪業には憤りを感じる。

 心の内から溢れるような温かな感情に、リーディエは柔らかく笑っていた。それを見たフォンス青年は、訳がわからないながらも、笑みを返す。――笑顔は伝播し、それと同時に喜びの感情は連鎖していく。

「今日はまた、格別に良い笑顔だね」

「うん……。あたし、なんだかすごく嬉しい。あたし今、自然に笑ってるよね?」

「本当、最高の笑顔だよ。失礼だろうけど、君がこんな風に笑えるなんて、思わなかった」

「そっか。あたし、笑えてる……。笑ってるんだ」

 笑顔でいられる、それが嬉しい。だからこそ、更に笑顔は深まる。それはまた誰かの笑顔を呼び、それが嬉しくてやはりリーディエは笑う。負の連鎖、螺旋はいくらでも見つけられる。だが、喜びの無限連鎖を作ることもまた、そう難しいことではない。自分の喜びを示すため、ただ笑えば良い。笑う余裕がないからこそ、悲しいことにばかり目は向かい、表情から光は消えていく。

「よし、じゃあ、この明るい気持ちのまま、新聞を配ろうか。はい、結構多いけど、頑張って運んでね」

 新聞は手紙に比べればかさ高く、同時に重い。だが、数自体は昨日に配達した手紙より少ないため、回る家の軒数も少なくなる。それほどきつい仕事にはならなそうだ。今はもう心配しなくても良いことだが、届ける相手も寝ているため「可愛い」と言われることもなく、軒先に置いておけばそれで良い。こんな朝早くから泥棒もいないし、新聞を奪ったところでそれほどの利益にはならないから、狙われることもないはずだ。

「いってきます」

「配り終えたら、そのまま家に帰ってくれれば良いよ。また夕方四時に来てくれれば良いから、それまでしっかりと体を休めておいて」

「わかった」

 黒いマフラーが、淡い色彩の町に翻る。白いポニーテールが太陽を受けて光の飛沫を散らし、この日も小さな郵便屋は駆けていった。顔には自信に溢れた笑みを浮かべて。

 決して派手ではないが、可愛らしくも美しい、小さなイチゴの花のような笑顔を。


 
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