No.539053

記憶録「夢ヲ想モウ」⑤

グダ狐さん

亡くなった人は戻らない。巻き戻すことはできない選択が迫られる。博識は、どのような答えをもってアヤツと向き合うのだろうか――。

半年近く長引いてしまいましたが、この作品はこれで終わりです。相変わらずの終わり方で申し訳ありません。まだ閑話つづけたいな~とかそろそろ本編書きたいな~とか想ってますので、よろしければ気長に見てください。

2013-02-02 15:20:06 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:300   閲覧ユーザー数:300

 さてどうするものかと、家の中で俊加博識(としかひろゆき)は独り呆けていた。

 この一日だけで色々とあり、処理が追いつかない。正直に言うと疲れた。曾祖母の荷物を片付けを行いに慧閑(えひま)村に訪れ、アヤツに出会い、人が殺され、大樹が傷つき、そして殺して欲しいと囁かれた。一日に起きるイベントとしては十分すぎるだろう。

 背中を丸めてどこに定めるわけでもなく視線を泳がし、心に生まれた空虚感に気力は抜け落ち、けれどずっと一つのことを考えていた。

 誰かを殺す。

 僅かながら誰かを憎んだことはある。それでも誰かを殺したいとは思わなかった。想像できる理由のない殺害理由とすれば通り魔や無差別ぐらいか。彼らがどのような気持ちで見知らぬ人を手に掛けたかは分からない。知る気も起きない。

 倫理的にも社会的にも他者に与える死は罪だというのに、この手を汚してまで誰かを殺していい意味と価値はあるのだろうか。

 ならば人を生かしたことはあるのか。

 否、ない。宗教のように生きる価値を与えたり、大衆に意味を説いたり、その生に意味があると語ることなど、普段の生活に身をおく者であれば触れることさえないだろう。

 

「はあ……」

 

 もう何度目の溜息だろうか。

 人の生き死にについて、本気で考えたことなどなかった。誰かを生かし、誰かを殺し、その意味を考えるというのは正直しんどい。人は生きるべくして生きている。生の意味を見出さなくても人は生きていけるし、死は遠からず訪れるものだ。それが早いか遅いかは、それこそ神のみぞ知る運命だろう。

 それだけで、人は納得できるだろうか。

 ふと立ち上がって家を出た。

 二度と光が灯ることはないだろうと、わずかな思い出を残して博識は闇に紛れた。

 本来、この地に祟られた存在は忌み嫌われるためにいた。

 犯した業をなくすため。他人に擦り付けるため。新しい未来を開拓するため。様々な思惑はあれど、かつての住人の身勝手な思い付きから始まった。

 血を血で流すという空想。

 死を死で償うという妄想。

 全ての罪を背負って悪と祟られ、無名の英雄によって打ち倒される。無名であるが故に英雄の存在に意味はなく、邪神のみが罵られるために祭られた。罵倒を受け続けるために社は建てられた。

 年月と共に忌まわしい妄想は忘れ去られ、代を重ねるごとに罵倒の参拝は数を減らし、そのまま消え去るはずだった。

 だが、忘れ去られていた神はたった一つの願いで転生した。

 

「どのようなモノが奉られているのか知らないのに、貴方様は願われた」

 

――彼女が欲しい。

 あまりに馬鹿らしく、苦笑してしまいそうな平凡な願いだった。悪意も善意もない。単なる本音だろう。どこの神社でも願われているようなものを、こんな山奥の朽ち果てた社に願ったのだろうかと今でも思う。

 だから、つい、彼女は聞いてしまった。聞き入れてしまった。

 今の事態が惜しい。こうなる結末だったとしても、もう少しだけ続いていればと思わざるを得ない。そう望めば望むほど、心が苦しい。

 しかし、そんな苦しむ夢は終わる。自身の断罪を願った幻想が終わりで締めくくられるように、愛し愛されたいと想うこの感情もまた終わりを迎える。

 悲しい。それ以上に、また誰かを殺めてしまうことの方が悲しく恐ろしい。

 罪を裁くための殺人鬼などこの世には必要ないのだ。

 

「――私に死を、くだらない悲劇に閉幕を」

 

 今宵は満月。

 深まった夜は丑三つ時。照らし出されたステージは時刻を迎えようとしていた。

 コツコツと重い靴音を鳴らし、月光りを浴びながら影が現れた。

 

「やっぱりここにいたか、アヤツ」

 

 少しやつれただろうか。しかし、そうとは感じさせないほど眼ははっきりと開き、雰囲気だけが昼間の尾を引いているのだろう。それさえ除けば普段と変わらない。

 俊加博識。

 ごく普通の人間で、ごく普通の願いをし、しかし最悪の物語に巻き込まれた青年だ。

 

「むしろ、よくここだとお分かりになりましたね」

 

「勘だよ。アヤツは元々ここにいたんだろ。なら、またここに来ればいるかなって」

 

 アヤツの元となった存在は神社に奉られていた。憎悪と嫌悪と羨望ばかりが渦巻いていた場所だが、長い間そこにいた場所でもあった。どこかに行くにしても、彼女が知っている場所となれば曾祖母の家か神社しかない。

 彼はそう考え、そして間違っていなかった。

 

「どうにもできないのか? 死んで死を償うのは法律で決まってるように分かるが、それだけが償う手段じゃないだろ。生きて償うことだってできるはずだ」

 

「違います。それでは永遠にこの物語は終わりませんよ。私の死という形で締めくくられる以上、このまま行き続ける限り、物語に縛られ続けられます。たとえこの村を出たとしても、私は心の奥底に隠した罪を持つ人たちを殺し続けるでしょう」

 

「だからって諦めていいもんじゃないだろ」

 

 なおも博識は喰ってかかる。

 

「人が生きようとすることに間違いはないだろ」

 

 優しさではなく本能として、理不尽な死を必死に否定して生きろと言う。人なら当然の反応だろう。彼もそれに見習い、希望を見出すように強い眼差しを向け、必死にアヤツに呼びかける。

 それでは意味がない。

 

「曾お祖母さんが亡くなられた時、貴方様は何も感じなかったらしいですね。死に涙を流すこともできず、揺れる感情もなく。けれど、本当にそうだったんですか? そんな自分に、何も感じなかったのですか? そうたとえば、他人と違う反応をする自分に……」

 

 話せば話すほど夏風が雰囲気を重くベタつく。なびく風は空を曇らせ淀ませる。

 その空の下で、ドス黒いモノが芽生え始めている。小さな、とっても小さな塊だ。片隅にぽっと出たそれは、それ以上大きくなることも小さくなることもなく、鼓動にも似た脈動を繰り返しながらぽつんと浮かんでいる。

 

「ソレガ、ドウシ――」

 

 生まれた黒い塊に向けて矛が無意識に伸び、すんでのところで意識的に止めた。

 

「そんな小さな罪悪感にすら、私は反応してしまうのですよ」

 

 この世界の人間は、ほんの僅かな悪を抱えて生きている。年少時の盗み、ほんの些細な喧嘩、ズルのための嘘。忘れてしまってもちょっと拍子で思い出してしまう、そんなわずかな罪悪にさえ物語は動き出してしまう。

 人の形をした罪悪探知機。

 愛嬌はよく、美しく彩られ、一度動けば罪のみを殺し続ける殺人人形。

 アヤツが自身を表現すれば、過大であることも含めてこうであり、それだけで否定するに値する。

 

「それでも、生きてほしいと思いますか? 他人の死を尊うこともできない貴方様が他人の生を願いますか?」

 

 喉元に矛を突き付けられた博識に問う。

 彼の中で罪悪感とは別の感情が芽生え始めた。生きろと願うべきか殺すべきかとの挟間に揺れているのが手に取るように分かる。葛藤と緊張で硬直する体の奥底から絞り出すように、震える口を開く。

 

「は~い、そこまで。これ以上、俺のダチを追い込まないでくれる?」

 

 しかし、そこに割り込む声が一つ。

「貴方様と対峙する理由はございませんし、それは望むところではございません」

 

「そこまであいつに拘ることないだろ。俺はあいつを人殺しにしたくねえんだ。殺されることが望みなら、誰だっていいだろ。ほらここにイケメンが一人さ」

 

「物語をなぞるのであれば。それでも問題はないでしょうがお断りします」

 

「その心は?」

 

「あの方を愛するが故に。あの方に救われたが故に」

 

「だってよ。お熱いことで」

 

 突きつけられていた矛がしゅるりと離れていく。

 ほっと胸を撫で下ろし、変わらない漂々とした口調で話しかけてくる声の方へ振り向く。

 一足先に家を出たはずの松永大貴がそこにいた。

 

「お前……大貴、今までどこにいたんだよ」

 

「寄り道。いやぁ、思いのほか準備に遠出になったから時間食っちゃってさ。これだから田舎は困るね、ちょっとした買い物でも大仕事だったよ。まぁ実際の大仕事はそっちじゃないんだけどよ」

 

 でさ、と大貴は言葉を区切る。 

 

「どうする主人公。歪んだ愛はミステリー小説の領分だ。でも、犯人を追いかけ捕まえるのが警察の仕事なら、事やらかしたバケモノを降すのが俺たち降魔師の仕事。そして、そこにいる女はすでに事をやらかしていて、抵抗も見せた。改めて聞くぞ博識。どうする? お前ができるのは退くか頼むかだ」

 

「俺は――」

 

 迫られる選択肢。

 二つの視線に挟まれ、言葉が詰まる。

 何を選んでも辿り着く結末はアヤツの死で、この対立は過程を巡っての維持の張り合いだ。結果のみを求めれば、博識の出演はありえない。死にたいと願うアヤツと殺したいと動く大貴とで関係は成り立っている。第三者など認めず、素直に客席に座らせて傍観させれば、物語は滞りなく終わるはずだった。

 物語を捻じ曲げるイレギュラーを認め、尚且つ、選択権を任せているあたり、どうにも釈然としない。

 

「……どれも選ばない。アヤツは人に願われて生まれたんなら、俺の願いで現われたのなら、同じようにまた願いたい。生きてほしいって」

 

 それでも声が掛かった以上、自分の主張が提示できる。

 客席から感想を述べるのではなく、自らの意志で違う物語を描き出すことができる。

 二人が見ることなく切り捨てた望むを口にすることができる。

 

「まだそのようなことを……」

 

「がっかり、て言わないけどよ……」

 

 共演者はそれを認めない。

 声高らかに訴えた言葉も、二つの嘆息を吐かれてしまう。

 分かりきっていた。彼らが求めた答えが出ない限り、いくら言葉で着飾ろうと否定してくるだろう。綺麗ごとのオンパレードなど事実の前には霞んでしまう。魅力的な言葉も現実の前には屈してしまう。

 それが世の中というもので、夢と希望を謳っていいのは子供だけなのだ。

 いつの世も、自己を貫き通せるのは力ある者だけ。

 

「いんや。ただ、そう言うならこっちも強行するしかないって話だ」

 

 もはや聞く耳もなしと。

 大樹は腕で空を払い、幾つもの紋様を生み出す。大きく広く展開されたその数五十を超え、よくよく見ればその一つ一つが小さな紙切れを中心に生まれている。メモ用紙だろうか。適当に描かれた文字を元に発現した魔法陣が輝き、魔弾の嵐が放たれた。

 博識の横をすり抜けて、向かい先は当然――

 

「アヤツ!」

 

 対して、アヤツは袖から伸ばした四つの紐で迎撃。

 しなやかに振るわれるそれは虫を落とすように魔弾を打ち払う。一歩の後退もせず、アヤツは涼しい顔のまま溜息を漏らした。

 

「鬱陶しい……掃います」

 

 魔弾を撃ち払っていた紐の一つが大きくうねる。

 咄嗟に頭を抱えたその上を、轟と魔弾を蹴散らしながら魔法陣の一角を薙ぎ払った。それだけで総数の一割ほどの簡易魔法陣たちが砕け散る。元々耐えられるだけの強度は持ち合わせていない魔法陣だ。一本だけとはいえ、駆逐されるのは時間の問題だ。

 ――が、二つ三つと重なった爆音を後に破砕は途絶えた。

 しゅるりと戻る紐の先に、必殺の矛を含めた数メートルは存在しなかった。

 

「まずは一本っと。いくら繰り返してもらっても構わないぜ。そのために数を揃えてばら撒いたんだ。何十分の一くらいですり抜けられるだろ」

 

 昼間と同様、あの布陣の中に機雷が仕組まれていたようだ。

 

「裏を返せば、その壁を失えば丸裸となりますが、その覚悟はお有りで?」

 

「それまでには終わるさ」

 

 崩れない自信有り気な表情が見下ろす先。一際大きな光が弾幕の光に紛れて輝いている。

 適当に描かれたメモ用紙ではなく、びっしりと描き込まれたA4程度の紙を用いた魔法陣。さらに三重で重ね合わせたそれは、間に火花にも似た魔力が飛び交い、今か今かと解き放たれる時を待ち侘びている。

 

「相乗効果による増幅……ですがそれは、すでに貴方様の許容を超えています。それでは放つ前に自身の身が持たず、自滅します」

 

「後から来たのは、まさか……」

 

「おうよ! 随分と時間掛かっちまったけどな」

 

 やる気と自信で満ちた顔で肯定する。

 

「本命さえできちまえば、いくら砕かれようと惜しくない。綱渡りだけどよ、あんたと対峙した時点で死ぬ可能性大なんだ。やられるくらいなら、やっちまえってな!」

 

 愚弄にして愚直だ。

 この舞台に愚策で立ったのも、あの一撃を練りこんでいるのも、死ぬ可能性を見越して、けれど勝つことを前提にしている。作戦として破綻している。それでも構わず、大樹は危険域に突入した魔法陣に魔力を注ぎ込んで反応が加速させる。

 このままどちらかが確実に死ぬ。

 方や、自らの死を望む少女。

 方や 自らを顧みない友人。

 どちらにも死んで欲しくないと行動したのに、結果が現れない。博識は元から能動的な人間ではないことは悲しいことに自負している。それでもまだ足りないという。まだ動けという。結果は遠く、過程は見当たらない。

 

「それでお前が死んだら意味がないだろ。降魔師は軍人じゃないのに、命掛けてどうする」

 

「降魔師ってのはそういうもんだ。民間か公共かの違いだけで、中身なんて軍人みたいなもんだ。このご時勢、身の丈以上のことは望むなよ。武器を取れ、敵を殺せ、命を張れ。こんなことをするのは、俺たちだけでいいんだよ」

 

 それは彼なりの気遣い、降魔師の家系に生まれ力を引き継ぐことを強いられた人間故の責任なのだろう。

 だが、それは強者でなければ自らの道を切り開けられないという傲慢な考え方だ。

 納得できるだろうか。

 

「望んで何が悪い」

 

 あの日。曾祖母の葬儀の日。

 周囲が粛々とする中、彼だけが自分の感情に疑問を感じていた。

 博識は涙を流すことはなかった。悲しいとさえ思えなかった。人の死を尊うと知識で知りながら、それでも心が揺れることがなかった。

 だから忘れようとした。こんな非日常を忘れて、日常に戻ろうとした。

 それがいけないことなのか、今でも分からない。

 でも、だがしかし――

 

「人の生き死にってのは、そう簡単に割り切れるもんじゃないだろ。死んでいい、殺していいなんて聞きたくもない。死んじまったら、もう何もできないし、してやれないんだぞ」

 

「それじゃあお前は何ができる? 異能もない。覚悟もない。ましてや殺す覚悟もない」

 

 どちらかが死ぬのを、ただじっと見ているだけなどできるはずがない。

 

「馬鹿してるダチを殴るぐらいはできるだろっ!」

 

 荒れ狂う弾幕の中を博識は駆け出す。

 

「おまっ! 今動くな――!!」

 

 魔弾たちが目前に迫る。当たらないギリギリの所が狙われていただけに、自分が狙われている気分になる。当たれば無事ではない、なんてレベルではない。良くて即死。悪ければ消滅だろう。怖くないはずがない。いくつもの光が通り過ぎていくたびに肝がひやりと冷える。

 

「博識様――!!」

 

 死んだ自分と見下ろす他者。光のない眼差しに無様と漏れる嘲笑。理解されず慕うものはおらず、誰かの思い出にいることもできない。過去に置き去りにされたまま酷く朽ち果てた先には影も形も残らず。光の当たらない自分の姿に、涙を流してくれる人はいますかと幻想が訴える。

 アヤツの声に、意識が引かれたのか。昼間に交わした言葉が胸を打つ。

 それがいけなかった。

 見えなかったでは済まされない一撃を、肩に受けてしまった。

 

「ああ――!」

 

「だから……ああ、全符止まれ! 止まるんだ!」

 

 ドクンと打ち付ける衝撃が五感が消えうせ、一瞬の間を置いて激痛に全てが掻き乱される。

 叫ぶ雑音に紛れて擦れる足音が聞こえる。近づく石畳から上を見上げれば険しい顔をした大貴が何か叫んで迫る。

 浮いていた魔法陣たちは光を失って符を散らしている。一つだけ、一際大きな光だけが残っていた。まだ何かしようとしている。大量の魔法陣を停止させても、それだけは保険だと維持している。

 大貴の中では戦いは終わっていないのだろう。自らの責務を全うしようとしているのだろう。

 だが、それでは意味がない。博識はこの戦闘を止めたいがために動いたというのに、そのまだ戦おうとする意志がどうしても癪に触る。

 曖昧な意識ということもあったのだろう。

 ブチッという音が、初めて聞こえた。

 

「いってぇぇんだよ」

 

 躊躇なし。手加減なし。遠慮なし。

 倒れるのを強引に踏み出した足で支え、勢いのまま跳ねるように身体を前へ押し出してのフルスイング。それがちょうどよく博識に向かっていた大貴の顔面にめり込み、悲鳴も奇声も上げる間もなく吹き飛んで背中から落ちた。

 勢いが残ったまま倒れこもうとする身体が後ろに引き寄せられる。と思ったらそのままぺたりと腰が落ちた。腰には手、背後には涙を浮かべた顔。どうやら、アヤツが抱き止めてくれたらしい。

 肝心の大貴は、受身は取ったようには見えなかった。拳が直撃したせいか、大貴はその一撃で意識を失ったようだ。

 

「とりあえず、どっちかが死ぬのやめてくれた?」

 

 もう無茶をしなくていいからか、はたまた大貴が動かなくなったからか。脱力して後ろに問うと、アヤツは溢れる鮮血に気にも留めず止血しようと必死に肩を抑えて離さない。その頬には、溜めていた涙が流れ落ちていた。

 

「それで貴方が死んでは意味がありません。私には癒すことは……殺すことしかできないのですよ」

 

「不当な願いのせいだろ。そんな願いで生きてるから、そんなことを言うんだろ。それなら、今頃その手を離してるじゃないか」

 

「そ、それは……貴方様には生きて欲しくて……私を殺して……」

 

「でも、俺は殺すつもりはない」

 

 怯える声を否定する声はとても弱々しく覇気がない。どっと疲れたからだろう。

 だが彼女の願いははっきりと否定された。どんなに懇願されようと、博識はアヤツを殺さない――殺させないと。

 

「曾祖母さんが亡くなった時さ、俺には関係のないことだって感じたんだ。しばらくすれば、また日常に戻って、勝手に時間が流れていくもんだと思ってた。でもそれって、ただ眼を背けて忘れようとしてただけなんだろうな。子供の頃、あんなに大切にしてもらったのに、もう年だからとか、そんな理由で切り捨てていいはずじゃないのにさ」

 

 残された曾祖母の家には、埋もれていた思い出があった。

 明るい笑い声が残っていた。

 懐かしいにおいが残っていた。

 来なければ永遠に忘れていただろうものが思い出のままに。

 

「アヤツに出会って、一緒にやってなかったら、俺は眼を背けたままだったよ。忘れ去られるのは辛いだろうな。でもさ、忘れないからと言って死を看取るのはもっと辛いって」

 

 自らの想いを強く打ち出す。

 

「お前は誰かに願われて生まれてここにいるんだろ? なら、俺が願うよ。生きてくれ。誰かを殺すためじゃなくて、いま俺を、そしてこれから色んな人を生かすために生きてくれ」

 

「……叶うのでしょうか? 生きて、貴方様といて、笑っていられますでしょうか?」

 

「俺の願いを聞いてくれたから、こうして体を持てたんだろ。なら、信じてくれよ」

 

 それ以上、アヤツは何も言わなかった。

 ぎゅっと抑えていた肩から手が離される。もう血が溢れることはなかった。痛みもない。

 見れば、燃え焦げて開いた服の穴から真新しい肩が顔をのぞかせている。おびただしい鮮血に塗れている周囲に、そこだけが白い肌が広がっていた。

 もう涙も流さない。

 流れるのは時間だけ。ゆっくりと一歩ずつ一歩ずつ。

 静寂が包み、奏でる夏の虫が動き出す。

 こうして理不尽で醜悪な逸話の幕は閉じる。

 悪夢を見た村に光が差す。

 時刻は――丑三つ時なり。

 

「太陽……? そんなまさか、まだ夜中だというのに……!」

 

 日輪は輝きを増しながら上へ上へと昇りながら村を照らし出し、真昼と変わらない状況を強引に作り出してしまった。狂気の悪夢を上回る異常の昼夜。祝福を示す光が畏怖に塗り替えられていく。

 

「貴女が表に出てきてでも私の存在を認めない、ということですか」

 

 急速に昇る太陽を見つめて、アヤツが博識をゆっくりと降ろして立ち上がる。

 一人行こうとする彼女を追うと起き上がろうとするが力が入らない。怪我のせいか疲労のせいか、身体が上手く動かせない。

 天高く上り詰めた日輪は残酷な光をもって全てを見下ろしている。何よりも温かみを感じさせるはずの力を、この太陽にはない。焼き尽くし、畏れ慄かせ、絶対の君臨者として立ちはだかる畏怖の存在としてそこにいた。

 

「アヤツ……あれは、一体なんなんだ……?」

 

「……本物の神様ですよ。よほど彼女は例外を認めたくないようですね。まさか彼女自ら私を降そうだなんて」

 

 せっかく貴方が願ってくださったのにと、立ち止まったアヤツは肩を落とす。

 博識を一瞥する顔に涙はなかった。

 ただ少し眉を落として、微笑んでいた。

 

「そんな悲しい顔をしないでください。だって貴方様は――博識は証明してくれたじゃありませんか。願えば叶うと。私は誰かを殺す存在ではなく、いま貴方とこれからを生かす存在だと。その願いを嘘にしないためにも、貴方は必ず守ってみせます」

 

 自分がどのような顔をしているか、もう容易に想像できた。思考だけが入り乱れてぐちゃぐちゃと掻き乱され、何か言いたいのに口の中で喘いでばかり。はっきりとした言葉はなく、哀咽が溢れ出す。

 

「また会えますよ。だって、私の願いはもう一度叶ってるのですから。そのくらいの奇跡、また起きますから」

 

 太陽と向き合いその背中が遠ざかるのを、ぼやけた視界の中で追う。

 彼女は戻らない。もう立ち止まらない。

 初めて誰かを生かすために巫女は立ちはだかる。他でもない、博識のために。

 

「大御神よ。貴女が何を持って降そうとするかは分かりません。しかし、私以外の者にも渾名すのならば、この命を賭してでも阻止します」

 

 敵対の意志を示したアヤツに対し、太陽は熱でもって応える。肌寒い夜風を沸騰させ、吹き付けられた木々が灰となって飛び散る。四つの矛を大きく広げて防ごうとするも、光に呑み込まれるまでもなく燃え尽きていく。

 存在するもの一切を焼き尽くそうとするのは憤怒か神罰か。

 夜を否定し覆した光に包まれ、博識はそこで意識が途絶えた。

「ここが例の場所か。ふむ、更地というよりは爆心地だな」

 

 山の中を歩いていると、急に視界が開けた。

 否。正確にはその先に道はなかった。

 

「それで、私に見せたかったものとはこれか?」

 

『ええ。この慧閑村でちょっとしたイレギュラーが起きたのよ。不祥事ってとこかしら。もう処理は終えているけど、貴女にも見せておきたくてね。で、どうかしら景那。何か感じるものはあるかしら?』

 

 眼前に広がるのは抉られた大地。豊かだっただろう緑はなく、村と称される集合体の痕跡など見る影もない。クレーターの方が正しい。処理と呼ぶには暴力的すぎる光景だった。

 何か感じるものと言われて、景那は吐息を漏らす。感想となれば何もない。求めている解もそれではないため、言葉にしたところで馬鹿にされて終わるだけで癪だ。

 では何かないかと周囲を見渡す。

 当然あるのは破壊の跡地だけ。地図にも乗っていたはずのものはもうない。

 というのに、クレーターの最奥に花束が一つ置かれていた。

 誰かが置いたものだろう。人里から遠く離れたこの場所まで足を伸ばし、この花束が何を示しているのか。何かの哀悼の意なのだろう。何かを哀れみ、何かを忘れず、何かを大切にしようとする表れなのだろう。

 もっとも、彼女には何の意味もないものだ。

 

「いや、何もないな」

 

『――そう。ならもういいわ。戻ってきなさい』

 

 会話を切り上げて踵を返す。

 夏の風に長い髪をなびかせながら、景那はその場を立ち去る。

 ふと、懐かしい匂いに振り返れば花束は止め具が外れて空に舞っていた。


 
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