「ふんふんふ~ん♪」
目の前の鏡に跳ね返るくらい調子のよい鼻歌を響かせて、阿求は服に袖を通す。
それは普段から身につけているような和服ではない。秋冬もののやや厚手な花柄のカーディガンだ。内側に純白のワイシャツを組み合わせている。
「ちょっと袖が長いかなぁ。でも、とても軽いっ」
鏡に映る己の上半身を、阿求は嬉しそうに検分する。そして次に、足下に折り畳んでいたプリーツスカートを、腰元に合わせた。
「こっちの裾は大丈夫そう。色合いも悪くないし、この組み合わせは候補の一つね。さぁ次は――」
阿求は、満足した表情でスカートを畳み直し、足下に置いた。そしてカーディガンを脱ぎながら、今は障子戸が閉じた縁側に向けて声を上げた。
「すみませ~ん! 着物の着付けを手伝っていただきたいのですが……」
「お安い御用ですわ」
「みぎゃー!?」
阿求の声が屋敷の女中に届くよりも前に、障子戸の隙間にスキマが開き、その内側から八雲紫が出現した。唐突な出現に驚いた阿求は、バナナを踏んで滑ったかのような勢いで、尻餅をついた。
「ごきげんよう。お色直しの最中失礼しますわ」
「お、お久しぶりです……せめて障子戸の外から声をかけてください……毎度毎度心臓に悪いですよ」
「あら、声は障子戸の外から発しましたよ?」
「タイムラグがなさすぎますって!」
そこで阿求は紫の視線に気づく。つっこみを入れる阿求に対して、紫は違うものを見ているように感じられた。
「貴方、ショーツなんて持ってたのね」
「昨年の誕生日に紫様から頂いたもので……ッ!!」
自分の今の姿に気付いた阿求は、顔を真っ赤にし、あわてて足下のスカートをたぐり寄せて、下半身を覆った。
「ああ、そうだったわ。貴方ほど記憶力がよろしくないものでして」
「う、うう……」
「まぁまぁ、女同士なんですもの。下着や裸体を見られた程度、蚊に刺された程度でもないでしょう」
「まぁ……そうですが……」
だが、阿求はなんとなく納得がいかない。どうにも、この妖怪の好奇の目で見られるのと、他の女性から見られるのとでは、天と地ほどの差があるように感じられる。
「秋も深まり、日中でも冷えてくる頃です。早く服を着なければ。眼福のお礼に、着物を着させてあげましょう」
「……あんまり触らないでくださいよ?」
阿求は立ち上がって、箪笥の上に置いていた着物を紫に差し出す。紫がそれを広げる間に、阿求はスカートとワイシャツを脱ぐと共に畳んで、着物と入れ替えるように箪笥の上に乗せた。
「そのブラも、私の贈り物だったわよね」
「そうですね。一式セットのを三色頂きました。普段は着けませんけれども、洋服の時はそちらのほうが都合がいいです」
「下はともかく、上はさらしに代えなくてよいの?」
「着心地を確認するだけですから、代えるのは脱いだ後ですね」
「わかったわ」
阿求は、紫に背を向けて両腕を持ち上げる。それに合わせて紫は、開いた着物を阿求に纏わせていく。
本格的な和服の着付けというのは時間がかかるものだが、どういう手管を用いたのか、紫の手によるそれは、瞬く間のうちに終わった。
「……なんか、手の数が明らかに二本を超えていた気がするのですが」
「気のせいよ。さぁ鏡をご覧なさい」
何ともいえない気色悪さの余韻をぬぐい去りながら、阿求は鏡の前に立った。
「秋の花が盛りだくさんね。普段に比べたら随分派手なこと」
「秋祭りに着ていくつもりですから、これくらいでもいいかなぁと」
「祭り?」
紫は少し怪訝な顔で訊ねる。紫が阿求に着させた衣装は厚手な作りで、きっちりとした着付けを要するものであり、騒がしい祭りに着ていくようなものではない。結婚式などの式典に着ていくならまだわかるが、夏祭りの浴衣とは訳が違う。
「今度の秋祭りに着ていく服を選んでいたのですよ。この和服はお気に入りなんですが、変ですかね」
「秋祭りって、大通りが屋台と人混みで占拠されるでしょ? その中を着物で歩くのは、無謀よ」
「うーん、やっぱりそうですか。そうなると洋服を着ていった方がいいかなぁ」
「貴方が洋装で出歩くというのも、私からすれば不思議に映るのだけど……そんなにめかしこんでどうするというの?」
「それには順序立てて説明が……って、その前に、紫様は一体どのようなご用件で? 本当に久しぶりに来たかと思えば、堂々と覗きをされるなどと」
阿求の言う通り、紫とはしばらく顔を合わせていなかった。今年初めの三者会談や幻想郷縁起の再編にも、紫が姿を現していない。バイオネットがらみでも、最初に端末を押し付けてきた後は、式神の藍を遣わせてきただけであった。
「覗きとは心外ね。ようやく暇を作ったので、少々顔見せにやってきたのですわ」
「お忙しいとは聞いていましたが……私の部屋で立ち話というのもなんですし、客間の方でお茶でもどうですか? 私が着替えるまでそちらでお待ちになってください」
「あら、普段着の着付けはよくて?」
紫が薄ら笑いで両手をわきわきと動かすのを見て、阿求は冷や汗をかきながら言った。
「そっちはいつも一人で身につけていますから、先に行っていてください」
「ちぇ~」
十分ほど経って、阿求は客間に座っていた紫と改めて対面した。
「さて、何から話をすればいいのやら」
「じゃあ、私の方から先に連絡事項でも」
紫は阿求の淹れた紅茶のカップを揺らしながら、口を開いた。
「貴方にはちょっと残念なお知らせだけれど、近日バイオネットの一時休止を行います」
「へ? どういうことですか?」
「ちょっと問題が発生してねぇ。今のままだとバイオネットの利用に支障を来すかもしれないから、一度全システムを停止させ、点検等をしないといけなくなったのよ」
「なんと……」
面食らった阿求は、少し言葉に詰まった。今や毎日のように利用していたあのバイオネットが、もうすぐ使えなくなるなどとは、想像すらしていなかった。
「あ、この話はオフレコで。開始当初から携わっている貴方には先んじて教えておいた方がよいと思ったのだけど、予定では、バイオネットの休止宣言は花果子念報から発表されることにしているから。それまでは一応黙っておいてね」
「そりゃまた、なんでです?」
「ちょっとコネを作らせてあげただけのこと。時間差ですぐバイオネット上でも同じ情報が流れるから、周知については問題ないわ。全システム停止の一週間前に告知し、システム停止は、神無月の晦日……つまり今月いっぱいということね」
「ううん……一時休止と言うことは、再開はするんですよね?」
「ええ。原因究明がまだ完全にできていないから、予定は見積もれていないけど、とりあえず年明けにはなんとかしたいわね」
停止が十月末、再開が早ければ年明け、ということは、最低二ヶ月は利用できなくなるということだ。
その間、週に数回行ってきた、『Surplus R』との文通が途切れしまうことになる。
「そうですか……仕方ないとはいえ、残念ですね」
「安心なさい。私としても、この四ヶ月、思ったよりもすんなりと幻想郷とシステムが順応しあったことは、価値あることだと思っているし、できれば、今後とも続けていきたいわ」
阿求の表情を見て、紫は慰めるようにそう言った。
「こちらからもお願いします。バイオネットは、まだまだ多くの可能性を秘めていると、私は思っています」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
そこで一旦、阿求と紫は共に紅茶を飲んだ。
「さて、次は貴方の方からね」
「え?」
「衣装選びのことよ。お祭りとはいえ、いつもの貴方にしては随分とはしゃいでいたから、何か特別な事情があるのではないの?」
「そ、そんなに浮かれてました?」
「この家の女中達は奥ゆかしいわね」
阿求は紫の言葉に赤面した。家人に気を使わせてしまったかと思えるほど、今日の自分は浮かれていたのだろうか?
「まぁ、ちょっと……今度のお祭りに、以前から逢いたいと思っていた方が来られるかもしれないので、それで予行演習を」
瞬間、紫は目を見開いた。そして、おかしそうに口元を歪ませる。
「あらあら、貴方もとうとう家督を譲り手をどうするか考え始めたのかしら」
「何で家督の話に――って! 違います! 何故そういう話になるんですか」
疑問を否定に切り替えて、阿求は顔を赤らめて声を上げた。阿求からすれば、紫が言外に示唆しているようなことは、げすの勘ぐりに近い。
「なぁんだ、違うの。つまらないわ。『逢いたい』って漢字がいかにもそれっぽかったのに」
「深読みし過ぎですってば――ん?」
漢字? 感じではないか? だが、阿求が紫のイントネーションに引っかかっているうちに、紫は続ける。
「ふむ、じゃあそれ以外だとすると、どういうお方が来るのかしらねぇ。貴方がそこまで心躍らせる相手というのは、私の記憶にはそうはいないのだけれど」
「うーん、紫様がご存じかどうかは判じかねますね。私も今回初めてお会いすることになるのですよ」
阿求は懐に忍ばせていた魔法の巻物を取り出す。紫は目を細めた。
「それは十分使いこなせているようね」
「おかげさまで。ただ、転写する方法がもう少し簡便であったほうがよいでしょうね」
「今よりも高機能化するためには、端末自体を改修する必要があるから、しばらくはお預けよ。っと、話がずれたわ。それがどうしたの」
「ちょっと待ってくださいね……よし、これです」
阿求は巻物のある部分を紫に向けて提示した。
「アリス・マーガトロイドの人形劇……今度の秋祭りのイベントチラシね」
「はい。その脚本の原作者の方と、一緒に人形劇を見る予定なんですよ」
「原作、『Surplus R』――え?」
その名前を見た瞬間、ほんの僅かだが、紫は片方の眉を上げた。
「私、その方と文通しているんですよ。その方が書かれる小説が本当に好きで、手紙の遣り取りからも聡明で包容力のある人柄が偲ばれて、できることならば逢ってみたいなぁと思っていた矢先に、『Surplus R』先生の方からお誘いがきたんですよ!」
次第に阿求の言葉に熱がこもる。紅顔がほんのりと上気さえしていて、彼女の紅葉度合いが直に伝わってくるようだ。
「そ、そう――」
「だから、その記念すべき日のために、服を選んでいたというわけです!」
紫は、阿求の力説に、少しの間をおいた後、頷きを返した。
「なるほどね。それじゃあまぁ、なおさら堅い和服じゃなくて洋服の方がいいでしょう。どうせ、祭り全体も見て回るでしょ?」
「やはりそうですよね。あまり格式張っても先生を恐縮させてしまうかもしれませんし、なにより動きやすいですもの」
「洋装で出かける貴方というのもなかなか珍しいこと。ま、童のスカートめくりには注意しなさいな」
「今日の紫様は何故そっち方面の話ばかり――」
「気のせいよ……おっと、名残惜しいですが、そろそろ行かなくては」
紫はあからさまに優雅な振る舞いでカップの中身を干すと、しゃなりと立ち上がった。
「あら、もうお帰りですか?」
「とりあえず、貴方の顔が見れただけでも十分だったからね。それにしても……」
紫は言葉を切り、まるで和紙の紙吹雪がふわりと舞うようなあくびを見せた。眦にうっすら涙すら浮いている。
「ふぁぁ……バイオネットの対応なんかで最近忙しくてねぇ。睡眠時間が八時間切っているのはゆゆしいことだわ。今シーズンは冬眠したら、異変が起こっても絶対に起きてやらないわ」
「まぁ、冬も近いですものね」
阿求は、縁側越しに庭を見る。今日は日差しが強く暖かいために、窓を開けはなっているが、寒さは確実に迫ってきている。
幻想郷の冬は厳しい。山奥の豪雪地帯に位置する幻想郷は、11月頃から本格的な雪が降ることも珍しくはない。
この度人里で行われる秋祭りは、秋の収穫を祝うと共に、目前に迫る厳しい冬を迎えるための英気を養う意味を持つ。秋の実りに感謝しながら大いにはしゃぎ、雪に閉ざされる季節に備えるというわけだ。
「では、またお会いしましょう。それまで息災でいなさい」
「紫様も、お元気で」
阿求は三つ指ついて頭を下げ、スキマを開いて立ち去る紫を見送った。幻想郷の日常生活では決して聞くことのない異様な甲高い音が通り過ぎると、紫の姿は影も形もなかった。
音を合図に阿求は姿勢を戻すと。
「さってと、着ていく服は大体決まったから……次は、当日の具体的なプランを考えましょっ」
阿求に別れを告げた紫が次に姿を現したのは――稗田の屋敷の瓦屋根の上だった。稗田の屋敷は特別高い建物というわけではないが、敷地が広いため、建物の内側の屋根であれば、地上から姿を伺われることはない。
何故、紫はここにワープしたのか。それに特別な意味はない。ただ、次の予定に移る前に、どこでもない場所で、一拍、一呼吸入れる間が欲しかった。ここは、ある程度人里を一望できるため、そういった気分にはちょうどよかった。
阿求との顔合わせをすぐに辞したのは、阿求に言ったとおり、バイオネットがらみで忙しいからである。これからすぐ、またバイオネットの問題解決の仕事が待っている。
しかし、紫は気がかりのため、少しだけ物思いに耽った。
「『Surplus R』――まさかね」
阿求が、秋祭りで逢いたがっている人物。バイオネットによって、外の世界で言うところの「オフ会」が実現するという事象は、バイオネットの企画者である紫としては興味深い事象である。
だが、それとは別に、紫には懸念があった。その感情は、御阿礼の子という古い付き合いの友人に向けての心配と、稗田阿求という少女に向けての半ば親心めいた老婆心とがない交ぜになった、微妙にして複雑なものだ。
紫自身は、『Surplus R』に対して何か思うところがあるというわけではない。バイオネット管理者としては、一人当たりの文章量としてはトップを走っているアカウントであるな、という程度の認識である。
しかし、管理者という都合上、紫は通常ユーザーにはわからない、バイオネットの裏側の情報を把握している。つまるところ、紫は『Surplus R』がどこでバイオネット端末を利用しているかがわかるのだ。
勿論、それは重要なセキュリティ情報であり、紫自身口外するどころか、進んで調べることさえ決してしない。ただ、仕事をする中で、どうしても知り得てしまうことがある。
そう、紫はとある人物からのサポート要請によって、『Surplus R』が何者なのかを特定してしまったのだ。厳密には、多分間違いないだろうという妥当性のレベルだが、あえてそれを検証はしない。それは、紫のプライドが許さない。当人の尊厳を傷つけるからだ。
だが、知ってしまったことを忘れることは容易ではない。故に、迷った。楽しそうにかの人物との邂逅を待ち望む彼女の心に、不安を差し込んではしまわないか。しかし、言わなければ、阿求に害が及ぶかもしれない――。
結局、紫は話を流した。珍しく、今でもその判断が正しかったのか、紫は自問を続けていた。
あるいは、今この瞬間、少しだけ予定を変えて、手を回すことはできなくもない。かの人物と「話を付け」、阿求との顔合わせを白紙に戻させる。阿求には無念さを味あわせてしまうことになるが、それでも、予想されうる最悪の事態を避けるには、いたしかたない――。
「――考え過ぎか」
やはり自分は疲れている。睡眠時間が減っているだけではないだろう。バイオネットの異変の謎は未だに判然としていないからだ。その苛立ちが、思考をささくれ立たせているように思えてきた。
ものは考えようだ。秋祭りは、多くの人妖が集まる。予定では博麗の巫女、霊夢も参加する(というか、様々な事情でさせる手はずだ)。そんなところで、人を襲ってはいけないルールを破り暴れるようなことがあれば、真っ先に取り押さえられる。秋祭りは、その日だけ、ある意味幻想郷でもっとも安全な空間となる。
それならば、たとえかの人物に危険性があったとしても、最悪の事態は未然に回避できる。いやそもそも、かの人物が阿求に害をなしに現れるという前提も、見方を変えれば思いこみだ。阿求が言うとおり、かの人物もまた、本当にただ阿求と一緒に人形劇を見たいだけかもしれない。
何より、かの人物は、愚かではない。
そこを、信用してもいいかもしれない。
「何かあったとしても、若気の至りで済んでくれると思いたいところね」
考えの整理がついた。紫は、今度は音を立てることもなく、その場から姿を消した。
阿求は女中に茶器の片づけを頼むと、自室に足を向けた。部屋には、まだ確認していない、祭り当日の屋台の配置図、催し物の予定表がある。それを頭に納めた後、当日の予定を構築するつもりだ。
今年は、精力的に布教活動を行う命蓮寺、守矢神社に、かの豪族三人組まで出展するというかつてない混沌とした状況の顕現が予想され、里外からの人手も幾分か増えることが予想される。永遠亭の出張販売と因幡の餅つき、河童のバザー、秋の神様の登場も定番である。
スペルカードルール制定後、着々と増え続けるあまたの勢力が集う人里の祭りは、もはや幻想郷全体を挙げた一大祭典と言っても過言ではない。その場に行くだけで、価値がある。
人形劇の開演時間が昼の時刻であるため、その開演前一時間のうちに『Surplus R』と落ち合い、数々の魅力的な出展を見て回るつもりだ。
それはどれだけ楽しいことだろう。阿求の想像と期待は、自室へと向かう一歩一歩ごとに、果てしなく膨らんでいく。
新たな記念すべき幻想郷の記憶の一ページを、憧れの人と共に見つめることができる。なんと幸せなことだろうか。
もうすぐ、かの人と会える。
秋祭りは、目前だ。
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twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。
前>その19(http://www.tinami.com/view/528332 )
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