「……ただいま~」
「あら、おかえりなさい、こいし」
談話室でいつも通り紅茶を飲んでいたさとりは、ドアの開く音に振り返る。こいしが、カーペットに沈みこんでいくような足取りで入室して来ていた。
「今日帰ってくるとは思わなかったわ。命蓮寺のお手伝いはどうしたの?」
「今日の分は終わったよ。で、明日またもう一度行くつもり」
「わざわざ戻ってくるなんて……忘れ物でもしたの?」
地上と地霊殿の行き来は、二つの点で容易ではない。一つは物理的な距離。もう一つは地底が荒くれ者の巣窟であるということ。
こいしの場合、無意識の力で、地底の妖怪達は障害にならないが、空間跳躍のような芸当が使えるわけではないため、物理的な距離だけはいかんともしがたい。こいしが度々家を空けてしまうのは、つまるところ地上と地霊殿の行き来に時間がかかるからだ。
命蓮寺に入信して以降、命蓮寺で合宿する事が多くなったのも、その方が手間がかからず、野宿する必要がないからである。
「ううん、そういうわけじゃないけど……」
「別に、命蓮寺で用事がある時は、無理して帰ってこなくてもいいのよ。そりゃ、帰ってきてくれるのは嬉しいけどね」
「……」
さとりは違和感を覚えた。どうも、こいしは先程から浮かない顔をしている。さとりはこいしの心を読むことは出来ない。しかし、流石に今のこいしの様子が、普段とはどこか違うことはわかる。普段のこいしは、空を眺めるような目線でふわふわと笑ってばかりだからだ。
「どうしたの? どこか具合悪いの?」
少し心配になってきたさとりは、ソファから立ち上がってこいしに歩み寄ろうとすると。
「……お姉ちゃんは、『Surplus R』って人、知ってる?」
「!」
一瞬だけ、さとりのスリッパ履きの足が、もつれるように止まった。しかし、大きく体勢を崩すことはなく、すぐにさとりはこいしの真っ正面にまで移動する。
「――よくわからないわ。その人、どなた?」
「小説を書いているんだって。そして、バイオネットに投稿してるって。お姉ちゃんと同じ趣味みたい」
「へぇ、そうなの――でも、小説を書くなんて、それほど珍しい趣味ではないんじゃない? ま、私は投稿なんて恥ずかしくてできないけれど」
(ちょっとちょっとちょっと――今日のこいしは一体なんなの!?)
いつもの落ち着き払った振る舞いの裏側で、さとりは冷や汗で凍り付きそうだった。
こいしがどういう意図で、どこまで考えがあって言っているかは、計りかねるところはあるが、彼女の言葉は、暗にさとりと『Surplus R』の関係を看破しているようなものだった。
「うーん、そうなの?」
「そうよ。私の小説なんて、そんな誰かに読ませられるものでもないし――」
「あ、じゃあさ、別のこと聞いていい?」
「何かしら?」
(いつもの心変わりかな……助かった)
さとりは心の中で冷や汗をなんとか拭おうとした――が。
「アルフレッドのこと、地霊殿の住人以外に話したことある? 私はないんだけど」
(!!)
ポーカーフェイスを維持するのも臨界点に近づいてきた。心臓の鼓動が早鐘のようだ。
こいしの無意識の力か。さとりが隠し通そうとしている『Surplus R』としての側面、それに肉薄する追求が、こうも立て続けに来るなどと、さとりは覚悟する猶予もなかった。
「な、なんでそんなこと聞くの……? 死んでしまったペットの話をしても、悲しくなるだけよ。好きこのんで誰かに話したりはしないわ」
「……そっか。そうだよね」
こいしは、突如踵を返した。
「ご飯になったら、呼んでね」
「え、あ、うん……」
こいしは、ふらふらと談話室を出て行った。
さとりは、一秒の逡巡の後、開きっぱなしのドアから廊下を歩くこいしの後ろ姿を見た。その背中には、普段の浮遊感がなく、どこかぎこちなかった。
こいしの姿が角に消えたところで、さとりは談話室のソファーに戻った。座った途端、ソファーの柔らかさに吸い込まれるように体全体が沈み込んだ。それは、先程の僅かなやりとりが、さとりにとって大きな疲れをもたらした印のようだった。
「ううん……詰めが甘かったかしら……」
冷静に考えれば、この間の作品投稿は迂闊という他なかった。こいしは、おそらく今日地上に行った時に、なんらかの拍子で『頼れるアルフレッド』の存在を知ったのだろう。それを糸口に、さとりが『Surplus R』ではないかと疑いを持つことは、誰だって容易なことだろう。
タイミングとしても、こいし達がバイオネットに興味を持ってすぐのことであったので、こいしが存在を知る確率は高まっていたはずだ。
「流石に、あの調子だと、確証を得ようと思えばすぐにできるわよね……ごまかしは逆効果になりそう」
こいしは意識こそ散漫であるものの、無意識の力故に、たやすく隠し事を見抜くことがよくある。意識を逸らそうとするほどに、こいしは逸らしたい方向に食いつく。
「まぁ……仕方がないか。その時は諦めるほかにないわね」
家族のこいしに正体がばれるのは、実際のところ、さほどのダメージがあるわけでもない。ただ、家族相手に隠し事をしていたという後ろめたさは拭えなかった。
「なんとか、口外しないように頼もう……チョコレートの禁制解除も検討かしら」
そうしてしばらく、さとりはソファに沈み込んだまま、言い訳の模索を続けた。
談話室でさとりが頭を捻っている間に、こいしは自室に辿り着くと、すぐさまベットに倒れ伏していた。
こいしの自室は、さとりの部屋に比べて、どこか殺風景だった。部屋の間取りは同じなのだが、姉の方が書斎めいて机や本棚、調度品が整然と置かれているのに対して、妹の方は申し分程度に家具とぬいぐるみが置かれているだけで、広く感じられる。
うつ伏せに寝転がって、こいしは煩悶としていた。
普段彼女と接している者は、今の彼女の眼差しを意外に思うかもしれない。その目は、いつもの焦点があっているのか定かではないものではなく、明確に何か一点を見つめていた。
そしてそれが、彼女自身の心にある問題に対して向けられているのだと、気づく者はいるだろうか。
(お姉ちゃんが、あの小説の作者なのは多分間違いないよね)
こいしは、実は既にさとりが『Surplus R』であることを、確信していた。
何故なら、彼女は今日、稗田阿求とアリス・マーガトロイドと会話した後、命蓮寺の用事を済ませ、地底に帰る前にバイオネットで確認を取ったからだ。先ほどの談話室でのやりとりは、合格したテストの答え合わせのようなものであり、さして重要ではなかった。
『頼れるアルフレッド』は、地霊殿の住人でなければ思いつかないような要素や描写がちりばめられていた。なにより、主人公の犬が実在したアルフレッドそのものとしか思えず、当事者であるこいしは懐かしささえ覚えた。
しかし、こいしにとっては、さとりが『Surplus R』であることは問題ではなかった。他ならぬこいしが、さとりに小説の投稿を勧めた覚えがあるのだ。それがきっかけであるにしろ、そうでないにしろ、こいしは、姉が小説を発表することを、少しも悪いことだとは考えていない。
また、記憶があやふやだが、思い返せば、バイオネットのサービスが開始されてから、姉の様子が時々おかしいことに気づけたかもしれない。隠そうとしていたとしても、こいしは別に不快には思わない。
こいしが悩んでいるのは、そういったことではない。
――『Surplus R』先生は……古明地さとりということなんですか!?
稗田阿求。あの人間の少女がそう叫んだときの表情が、声が、こいしには痛みのように焼き付いている。
あの表情を、こいしはどこかで見たことがあるような気がする。もう封じてしまって、朧気にも思い出せないが、そうだったという事実だけは心に残っている。
それはおそらく、かつて自分の第三の目が開いていた時、自分と対峙した人間が見せたものとそっくりなのだろう。
その事実が、こいしの閉じられた心の中で、膿んだ傷口の痛痒の如く呻いた。
「おかしいよ……それまで慕っていたはずなのに」
自分の姉は、さとりは、それほどまでに怖ろしい相手なのか?
確かに自分は、そのように思われるのがいやだから、他人の心を読まないように自分を変えた。
その結果、良いことはあったとは思う。地上に出ていっても大きなトラブルは起きず、様々な人妖と触れあうことができるようになった。
でも最近は、悪いことも見えてきたような気がする。自分が、不安定で面倒な存在であることを、近頃こいしは自覚するようになった。つまり、目を閉じること、開くこと、共に一長一短なのだと思うようになってきた。
だが姉はどうだ? 覚としてのハンデを抱えたままでいながらも、ずっと変わらずにあり続けていたさとりは。それに対して、新たに悪いことが何だと、どうこう言えるのだろうか……?
「お姉ちゃんは、なにも悪いことしてないし」
例えば、最初からさとりが正体を明かして何かをするのであれば、何らかの驚異を覚えるのは不思議ではないだろう。こいしもそうであれば納得はいく。
しかし、さとりが素性を隠した上でやったことは、ただ小説を見せただけだ。妖怪であれば、姿を隠して何か悪さをするのもありえるが、実際のところさとりはきっと悪事などしていない。
にも関わらず、さとりは恐怖されなければならないのか。こいしは、理不尽さを感じずにいられなかった。
そんなことを考え続けているうちに、こいしは気分が滅入ってきた。彼女がこのようにダウナーに傾くのは珍しいことである。第三の目を閉じた時点で、ネガティブな感情が抑制されるようになったからだ。
「こういうアルフレッドがいてくれればなぁ……モフモフしてたらいやなことなんてパッと忘れられるのに」
こいしも今は亡きアルフレッドをとても可愛がっていた。特にその綺麗な毛並みが大のお気に入りであり、自分の部屋にアルフレッドの寝床をこしらえ、よくスキンシップを図っていた。彼の感触を今でも覚えている。
『頼れるアルフレッド』でも、こいしをモデルにしたかのような登場人物が、物語のアルフレッドと仲良く遊んでいる姿が描かれていた。
憂さ晴らしにペットと遊ぼうと思い立ちつつ、こいしは億劫そうにベットから起きあがった。
「口笛吹けばジョニーは来るかな……ダニエルでもいいなぁ。でもちゃんとノミ取りしてるかな」
とりあえず犬のペットに絞って、こいしは誰を呼ぶかを思案した。
「……?」
ふと、こいしは部屋を見渡した。何かが近寄ってきたわけでもない。廊下から物音がする気配もない。
にもかかわらず、こいしはせわしなく瞬きしながら、部屋の様子を伺う。
何十回目の瞬きであろうか。その時こいしは、部屋の片隅に影を見た。照明によって生じた、調度品の影ではない。
瞬きを重ねるごとに、それは明確な形を成していき、数度のシャッターの後、何なのかが鮮明になった。
「――!」
こいしは息を呑んだ。
部屋の隅に実体化したのは――体を丸めて眠る、ラブラドールレトリバーだ。全体的に青白くぼやけたカーテンに覆われているように見えるが、その毛並みの色合いに、こいしは見覚えがある。
「アルフレッド!」
ベッドから飛び跳ねるどころか、低空で飛翔し、こいしはその幻影に接近した。
しかし、後半秒で手が届く距離、こいしが瞬きをしたところで、それは最初から存在しなかったように消えた。
「ふぎゃん!」
勢い良く飛びかかったこいしは、ブレーキをかけることも叶わず、顔面から部屋の角に激突した。視界が簡易プラネタリウムになる。
「うぅ~……一体なんなのぉ~」
部屋の隅で、かつてのアルフレッドのようにうずくまって、こいしは涙と痛みをこらえるのだった。
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twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。
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