序章 愛しき日々の儚さは
もう何も聞こえない。
耳を劈くような、砲による轟音も、怒号も悲鳴も、死に逝く者たちの断末魔も。
戦場の真っ只中に居ると云うのに、音だけでなく、辺りに漂っているはずの硝煙や血の臭いも感じられず、ただただ、静かだった。
「--もう良い。苦労をかけた」
その声は、顔を覆っている白布のせいか、低くくぐもっていた。
この瞬間(とき)まで付き従ってくれた忠実な側近たちの手を借りて輿を降り、土の上に膝を突いて、天を仰ぐ。
病の為に盲いた瞳には何も映らなかったが、その顔に降り注ぐ柔らかな日差しを確かに感じて、彼は瞼を伏せた。
己は存分に生きて、闘った。遺すべきものも、遺せた。
思いがけず病に冒され、半ばで夢を諦める羽目にはなったが、こんなふうに穏やかな気持ちで逝けるのなら、悪くない人生だったと言えるだろう。
心残りがあるとするならば、この大事に戦局を読み切れなかったことだ。そして、もう一つ--
「五助。治部は」
傍らに控えているはずの側近の一人・湯浅五助に問うてみるが、五助は掠れた声で短く、
「この乱戦ゆえ……」
と答えたきりであった。
「そうか」
頷いて、彼は『治部』が陣を構えているはずの笹尾山の方角に向き直る。
--嗚呼。
いろいろと面白かったよなぁ、佐吉--
その口許から、僅かな笑みが零れる。
今際の時にまでこの胸の内を占めるのが、遺していく妻や子のことでなく、友と過ごした幾年(いくとせ)であることが可笑しかったのだ。
だが、無理もない。未だ年端もゆかない少年だった頃から、ずっと『治部』と共に在ったのだから。
あの頃は互いに若く、それゆえに輝かしい未来を信じて疑わず、理想に燃え、希望に満ち溢れていて、ただひたすらに幸福だった。
天下を望む主君(あるじ)のために、主君の野望を己の夢とし、叶えようとする『治部』のために、何よりも、その背中を守るために、幾多の戦場を駆け回った。
賤ヶ岳、四国、越中、九州。そして--小田原。
それは甘くもほろ苦く、だが、確かに満たされていた日々の記憶だった。
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いつもの刑部×治部です。関ヶ原での回想から始まります。本編にはヌルめのエロがありますのでご注意ください。
※この本は完売しました。