三階の文芸部に行くと真奈美さんは、ゆるキャラ状態で本を読んでいた。今は子供に懐かれていないようだ。体育座りで、背中を丸めて本を読んでいる。
「二宮…」
声をかけてくるのは、足の速い小型肉食恐竜ヴェロキラプトル三島由香里だ。
「三島。どうした?」
そう聞くと、ラプトルは意外な表情をする。
「え?なに?ど、どうもしな…くなくもないけど…。なんで?」
「元気ないじゃん」
「…そ、そう、見える?」
「見える。大丈夫か?」
「大丈夫」
そうか、大丈夫か。じゃあ、いいか。元気がないとしても、俺に踏み込んで欲しくもないということだ。
そう判断して、真奈美さんのほうへと一歩踏み出す。
「あ、二宮」
「なんだ?」
三島に呼び止められた。
「な、なんで私…元気ないって思ったの?」
「三島が俺を罵倒も殴打もしてこないから」
ごっ。
天井の蛍光灯がブレて見える。切れのいいアッパーカットを喰らって、どぅと倒れる。床にクッション性のあるパズルカーペットが敷いてあるから大丈夫だ。
「元気出たじゃん」
倒れた獲物を見下ろすヴェロキラプトルを挑発する。さぁ、あと一歩俺に近づけ。俺の罠に踏み込んで来い。三島!
三島の右足が上がりかかる。引き締まったしなやかなメリハリのあるカーブだ。肉食獣の恐ろしくも美しい脚だ。
来い!
来るんだ!
そこで、三島の足が戻る。
「いつまで、寝転がってるの?起きなさい」
くそ。バレてたのか?あと、半歩近づいてくればパンツが見えるんだ。
「なんで、そこで止まってるんだ三島?怖いのか?銃なんか捨ててかかってこい」
「怖いわ。二宮のいやらしい視線が怖いわ」
「ノリの悪いやつだな。そこは、『ヤロォームッコロシテヤルゥー』だろう?」
「眉間なんか踏み抜いてやらないわ。ボールを吹っ飛ばしてやるわ」
「ごめんなさい。マジ、調子こいてました」
さっと、身体を翻して土下座だ。ボールを吹っ飛ばされてはたまらない。冗談じゃない。こんなところにいられるか、俺は帰るぞ!死亡フラグを立てて、真奈美さんを回収して少し早めに帰ることにする。
まだ、文化祭一日目の熱を持った校舎を真奈美さんと一緒に出る。駅への道すがら真奈美さんを見る。いつもと同じ魔眼じー。
「楽しんだ?」
ちょっと放置しすぎだったかなと罪悪感を感じながら聞いてみる。
こくり。肯定。
「…絵本。たくさん、見れたから…」
文化ではあるが、祭りとは少し違う文化祭の楽しみ方だ。
「…み、三島さんも、スイミー好きだって」
「三島と話したんだ」
「うん…三島さんが、『本好きなの?』って聞いたから頷いて、三島さんが『私もスイミー好き』って言ったから、『私も』って言ったよ」
わぁー。まなみちゃん。俺以外と一人で会話できたね。
電車の中で、携帯が短く震える。
美沙ちゃんからメールだ。
本文:《ひょっとして、もう帰っちゃいました?》
あれ?もうワンチャンあったの?今日のイベントは終了だと思っていたよ。しまった。
返信:《いや、ちょっと出てるだけ。一時間くらいで学校に戻るよ》
チャンスをあきらめない。だれか偉い人も言っていた。すぐに返信が来る。
本文:《一時間後だと、私、もう帰っちゃってると思います。また、明日も絶対に来てくださいね!それじゃあ、また明日!》
駄目だったか。しかたない…。
真奈美さんを市瀬家に送り届けて、自宅に戻る。一時間くらいして、妹も戻ってくる。いつもよりも少し遅い夕食。
それにしても、ゴスロリ衣装の美沙ちゃんも可愛かったよなぁ…。寝る前に布団の中で脳内再生する。ふと、思い出して携帯を開く。美沙ちゃんからのメールを呼び出して、『明日も絶対に来てくださいね』の部分を読み返す。ニマニマっと自然と笑みが浮かんでしまう。携帯を閉じる。文化祭のパンフを取り出し、シャープペン片手にチェックする。飽きた。携帯を開く。『明日も絶対に来てくださいね』を読み返す。ニマニマ。携帯を閉じる。今の俺、最高にキモチワルイな。
一日が終わっていく…。
翌日、目を醒ますと七時少し前だった。まず、なにはさておき玄関へ向かう。これを忘れてはいけない。
ほらみろ。
玄関先にしゃがみこんでいた真奈美さんに家の中に入ってもらう。その後で支度。
寝癖を直して朝食を摂って、真奈美さんを連れて学校へ行く。
昨日の熱気そのままの校舎に入る。
「まず、十時まで一階から順に攻めて行こう」
そう言って、真奈美さんを連れて一番近くの一年生の教室に突撃する。
「ここはやめよう」
すぐに教室から出る。
「待て、二宮。なぜ逃げる」
ゾッド宮元に制服の襟を掴まれて教室に引き込まれる。なぜもなにも、ゾッドだからだ。
「腕相撲で三連勝したら、景品がでまーす」
美沙ちゃんとは比べるべくもないが、それなりに可愛い一年生の女子がにっこり笑ってアトラクションに誘ってくれる。どうやら、腕相撲アトラクションをやっているらしい。その背後ではゾッド宮元が上半身裸で覆面を装着している。覆面の意味がまったくない。
「冗談ではない!あんなものに勝てるか」
「第一回戦の相手は私です」
一年生の女子がにっこりとわらって、肘をタオルに載せる。俺も席について、肘をマウントに載せる。
「さぁ、来い!」
「はーい。レディ…」
ちっちゃい手だな。むふっ。
「ごー。んっ」
一年生の小さな手にぐっと力が入る。はっはっは。いくら、俺が貧弱とはいえ、一年生の女子の力くらいには対抗できる。かといって、ここで勝ってしまってもいけない。ゆっくりと手の甲の方向にわざと腕を倒す。勝機ありと見た一年生がますますかがみこむ。襟元が素敵である。手に幸せ。目に幸せである。
そろそろか…。
腕に力を入れてあっさりと勝利する。
「あー。負けちゃいましたー」
「ありがとうございました」
勝負事の後には礼。日本男児として当然の礼儀である。本当にありがたいことであった。眼福。
二回戦。一年生男子が出てきた。眼差しに私怨が見える。さては、さっきの女の子に惚れてるな。仕方ない。負けてあげよう。うん。いいところを見せたいよな。
あっさりと負ける。
「あー。負けちゃったなー。残念だー」
潔く負けを認めて、席から立ち上がろうとする。アトラクションは堪能させてもらった。さぁ、次に行こう。そうする俺の肩を巨大なゾッドの手が制止する。
「俺、負けちゃったんです。二回戦負けですよー。敗退ですー」
「まぁ、そう言うな二宮。特別に三回戦に進ませてやる」
「いやいや。特別扱いなんていけませんよー」
「先輩、ぜひ挑戦していってください」
さっきの一年生男子が俺の退路を塞ぐ。このやろう。女の子の前で花を持たせてやったのに…。日本の先輩に対する礼儀はどうなっているんだ。最近の若者はこれだから困る。
「さぁ!やろうぜ、二宮」
目の前にのしかかるように、覆面レスラーの格好をしたゾッド宮元が座る。椅子が軋む。机の上には、大木のような上腕二頭筋と、砲弾のような三角筋が盛り上がって俺を迎えている。
がっ。
右手を掴まれる。もう駄目だ逃げられない。一瞬で負ける。それしかない。
「レディ…」
「ごー」
ふんっ。全力で腕を引く。ゾッド宮元の樫の老木のような腕はびくりともしない。ふざけんな。俺は腕を引いてるんだぞ。負ける方向に!それで、なんでびくりともしないんだよ。お前、やる気あんのか。
「おー。二宮、すごいな」
組み合わせた腕は次第に、ゾッドの手の甲を下にして動いていく。つーか。俺の手が引っ張られている。
「むははは、まけんぞぉー」
今度は逆に動いていく。だめだ。完全に遊ばれている。俺がどっちに力を入れようが関係ない。ゾッド宮元のなすがままだ。やめてくれ。これ以上、ゾッドとお手てつないでいたくない!勝ちでも負けでもいいから、早くおわらせてくれ。
「ほれほれーほーれ」
リズミカルに腕が右に左に振り回される。勝ちでも負けでもない間を行き来する。くっそ。
「おりゃっ」
リズムに合わせて一気に腕を押しこむフリをして一気に引く。
ばむっ。
勝負有り。
「あー。残念だなー。負けちゃったなー。さー。真奈美さん、行こうぜー」
ゾッドの手を振りほどいて、真奈美さんの背中を押して逃げ出す。
隣の教室は、デス屋敷。早くも悲鳴があがっている。残念ながら、ここは駄目だ。真奈美さんにはふさわしくない。受付を見ると、妹が昨日の赤いゴスロリ服で受付をしている。うちのクラスの男子が、妹に「後夜祭、だれと行くのー?」などと話しかけている。
「やめろバカ。それ、うちの妹だぞ」
「げ。二宮」
バツの悪い顔をして、とっとと退散するあたりの諦めのよさは褒めてやっていい。
「にーくん、真奈美っち、入っていくっすかー」
「刺激が強すぎるから、やめておくよ」
「マイルドにするっすよ」
「いや、信用できない」
「ひどいっすー」
さ。次、行こう。
真奈美さんを連れて片っ端から出し物を消化する。十時になる前に、一階は制覇しておきたい。十時になると、体育館のメインステージでブラスバンド部やら演劇部やらの出し物が連続して、一般の出し物を見る時間が合間の三〇分くらいだけになる。
十時からの演劇部の劇を見終わったところで、真奈美さんに疲れの色が見えた。
「少し、休憩する?」
こくり…。頷く。
「…こっちで…」
真奈美さんに手を引かれて向かった先は、体育倉庫。ああ、アレっすか?
昨日と同じく二人で跳び箱に入る。真奈美さんが跳び箱の中で、安堵したようなため息を一つつく。左手にひんやりとした感触。手の甲に乗った真奈美さんの指が痙攣するように小刻みに震えている。あ、そうか…。
震える指を握り返す。
俺の胸の下あたり。そのあたりに昨日から、真奈美さんを文芸部に放置した罪悪感があった。だから今日は全力で文化祭を一緒に見て回ろう。そう思った。でも、それはひょっとしたら自分の罪悪感を軽くしたい。そんな身勝手だった。真奈美さんにひどいことをして、その罪悪感でまた傷つけたのではないか…。
そんな、ごめんなさいをこめて手を握り返す。
「真奈美さんは、一人でいるのが好きなんだね」
「…うん…でも、ひとりじゃいられないから」
真奈美さんの横顔を見る。髪の毛しか見えない。
「…ひとりじゃ生きられない。ひとりで生きているだけじゃ…お父さんにも、お母さんにも、美沙にも心配かけちゃう。死ぬのも一人じゃできない。猫みたいに、見えないところへ行って、一人で死んでも迷惑をかけちゃう。生きていても、死んでも、いなくなっても迷惑をかけちゃう。生きるしかない。なるべく普通に…」
跳び箱の木枠に護られて、真奈美さんの静かな声が語る。死ぬことと生きることが並列にならぶ十七歳に似つかわしくない言葉がかび臭い空気に染みていく。
「わたし、ちゃんと部屋から出て、学校に通う。修学旅行にも文化祭にも出る。授業も受ける。普通に…普通に…」
悲痛な決意を感じさせる言葉が続く。ふと、修学旅行のときに広島で見た大和ミュージアムを思い出す。勝利か死かの不退転の決意。十七歳で二度と帰らぬ空に海に出て行った学生たち。同じ不退転の決意を持って、真奈美さんは部屋から出て、学校という戦場にいる。それを思い出させる。
「やめて…真奈美さん」
気がつくと、そんな言葉が口をついていた。その言葉に真奈美さんが、振り向く。前髪の間の鳶色の瞳が見開かれる。
「そんな、死ぬほどつらいことならしないでくれ」
ふと、美沙ちゃんの言葉が脳裏をよぎる。最初のころに、美沙ちゃんの狙った解決法。その易き道へと流れたくなる。だめだ。どれだけ傲慢なのだ。俺は。
「…もっと、ゆっくりでいいよ。出来る範囲で。出席日数も落第も、なにもかも忘れて…少しずつでいいよ」
「なおとくん…」
真奈美さんの肩が倒れてくる。左手を握ったまま、右手が俺の左腕を掴む。その頼りない手にぞっとする。跳び箱の中に吸い込まれた真奈美さんの死を語る言葉に抗う力のない手に…。
「…だめだよ。なおとくん…だって…」
「なんで、だめなんだ?」
「だって…落第したら、なおとくんが先に卒業しちゃうから…。そしたら、わたし…」
真奈美さんの両手が俺の左手を握り締める。弱弱しい力で。
「…そしたら、わたし今度こそ絶対に卒業できない。登校拒否で高校中退の引きこもりのコミュ障のニートになって、死ぬこともできなくて、将来の美沙の旦那さんにも『変なの』がいるって…」
「大丈夫だよ。真奈美さん。根拠ないけど…大丈夫」
目を閉じる。胸の中にあるものを見て、言葉を捜す。
「大丈夫…だれだって。俺だって学年四位の妹だって…なにがあるか分からない。明日、脳卒中を起こして寝たきりになってしまうかもしれない。だけど、心配なんてしてない。毎日、橋本や上野とバカやって遊んでる。たいていそんなもんだ。だから真奈美さんだって、たぶん大丈夫」
まぶたの裏に、ひとつの微かな根拠の欠片を見つける。これだ。
「……」
目を開くと、真奈美さんの瞳が目の前にあった。その奥を見つめて言う。
「俺にも真奈美さんにも…つなぐ手と寄りかかる肩があるから、手と肩しかないけど大丈夫」
「…うん」
そんな意味不明な根拠に真奈美さんがうなづいて、しがみつく手を緩めた。
跳び箱の中で、ふたり黙ったまま肩を寄せ合って座る。
不思議と、退屈だと感じなかった。遠くでブラスバンド部の演奏が始まった。
そのまま寝てしまったらしい。
ポケットの中の携帯電話に起こされる。開くと、美沙ちゃんからのメールだった。左隣では、真奈美さんが前髪の間から半眼を覗かせている。
「真奈美さんも寝てたの?」
「うん。寝ちゃった…」
疲れてたもんな。人がたくさんいたし。
あらためてメールを見る。
《どこにいます?もうすぐシフト終わるんですけど、お昼、一緒に食べませんか?》
心拍数が少し上がる。なんだか、最近、美沙ちゃんにフラグ立ってないかな。美沙ちゃんに!フラグが!立って!ないかなっ!?とても大事なことなので、二回言った。
「美沙ちゃんが、お昼食べようって…。真奈美さんも行く?なんなら、焼きそばかなにか買ってきて、持ってきてもいいけど?」
「……いっしょに行く」
「じゃ、行こう」
ごっとん。
「うわぁーっ!」
「きゃーっ!!」
いつのまにか体育用具倉庫に入ってきてた橋本と東雲さんが悲鳴をあげた。なんだ、こいつらあやしいな。文化祭の日に人気のない体育用具倉庫でなにやってんだ。
「おまえら、なにやってんだ」
あきれて、橋本にそう尋ねる。
「それは、こっちのセリフだ!二宮!」
そういえば、こっちは跳び箱の中から出現したのだった。
「よいしょ」
真奈美さんと二人、クールに跳び箱から出る。
瞬間、橋本と目が合う。お互いに頷く。。
無言の間に、男同士の約束が交わされる。一つの言葉も要らない、だがなによりも確実な合意が取り交わされる。
『おたがいに、ここでは会わなかった』
真奈美さんと二人で、デス屋敷に向かう。丁度、制服に着替えた美沙ちゃんが出てきた。
「よっ」
「あ、お兄さんっ。…お姉ちゃん?」
美沙ちゃんが、ぱっと笑顔をひらめかせて、すぐに疑問系になる。
「お姉ちゃん、学校来てたの?」
真奈美さんが、俺の後ろに隠れる。美沙ちゃんまで怖がることはないだろ。
「真奈美さん、朝からいたよ。真菜に聞かなかった?」
「お兄さんが、来たとは言ってましたけどー。そっかー。お姉ちゃんどこにいたの?」
跳び箱の中だよ。
「…と、とびばこ」
「跳び箱?」
美沙ちゃんが小首を傾げて、かわいさとクエスチョンマークを振りまく。
「跳び箱の中に入ってたんだ。真奈美さん、人に酔っちゃったから」
「お兄さんも?」
「まぁね」
「お兄さん、かわいそう」
哀れまれた。
「それより、お、お昼にしようよ!」
無駄に明るく提案する。一応、学食もやっているが、文化祭ならやっぱ出店で食べるのが王道だろう。三人で連れ立って、校庭の校舎よりにずらっと並ぶ出店に足を向ける。
すぐに「焼きそば」「たこ焼き」「ホットドック」「ジャンボフランク」のお祭りジャンクランチが、校庭に出された机の上に並ぶ。
ふと気がつく。
ジャンボフランク。
ジャンボフランク。
美沙ちゃん。
美沙ちゃん。
大事なことなので二回ずつ書いた。
「あ、美沙ちゃん。真奈美さん、フランク二本しかないから、一本ずつ食べていいよ」
食べていいよ、などと言っているが心の中はRECモード全開である。最高画質モードで、脳内HDDにガンガン書き込み中だ。
「お兄さん…?」
「はい?」
「後ろに三島先輩がいます」
「なにぃ!?」
振り返ると、本当に三島がいた。
「二宮」
「ひゃ、ひゃいっ」
ドッ。脂汗が噴出す。この流れは、三島に酷い目にあわされる流れだ。神様はけっして、美沙ちゃんにエロいことを考えた俺を見逃さないようだ。
「…フランク、一本余ったからあげるわ」
「は?あ、ああ、ありがとう?」
不審に思いながらも、三島からジャンボフランクを受け取る。
「食べないの?」
「い、いただきます」
ぱく。
ぱしゃ。ぱしゃぱしゃ。やたらとでかいデジタル一眼レフがフルオートで俺を連写した。撮影者は、シャープな顔立ちにださださのコートを着たお姉さんだ。
「紹介するわ。うちの姉の三島冬子」
「は、はじめまして。あなたが、あの受け顔くんね!写真以上にかわいいわぁー」
「姉のペンネームは高城ゆうき」
妙にテンションの高いお姉さんとは対照的に、三島が淡々と説明を追加する。
「あ、これ」
三島のお姉さんが紙袋を差し出してくる。
「二宮君の写真も参考にさせてもらったから、一冊さしあげますね」
お姉さん、にっこり。三島に良く似たシャープな顔立ちに、大人の笑みを浮かべる。
「……」
無言で受け取る。紙袋の中身は、普通の漫画雑誌よりも少し小さめの雑誌だった。
《♂♂ときめきマガジン♪》
《この男には躾が必要なようだ》
などのあおりが、表紙を飾る妙に手足の長い男性二人のイラストとともに表紙を飾っている。ずらりと並んだ作家リストの中に、ちゃんと『高城ゆうき』とある。
そうか…この中に、三島のお姉さんが描いた漫画が載っているのか。俺がジャンボフランクを咥えて、口からこぼれそうになったマスタードを舌で抑えてる写真を参考にした漫画が載っているのか。
「ありがとう…ございます。あ、あとで読ませていただきます」
複雑な気持ちで礼を口にする。
気がつくと、美沙ちゃんもジャンボフランクを食べ終わっていた。
三島のやつ。ろくなことしやしねぇ…。
「お兄さんは、今日は一日お姉ちゃんのお守りなんですか?」
そう、美沙ちゃんが遠慮なくたずねてくる。
「お守りってワケじゃないよ」
「…後夜祭まで、お姉ちゃん。学校にいるの?」
「……う、ううん。も、もう疲れちゃったから…帰ろうかな…」
さすがに、後夜祭は真奈美さんにはレベルが高すぎるだろう。
「そう?じゃあ、一緒に帰る?」
「……」
真奈美さんが一瞬フリーズする。地面を見つめて、ふるふる小刻みに震える。
あれ?
こわれたかな。なんかまずいこと言った?
「真奈美さん?」
しゃがみこんで、うつむく顔の真下から覗き込む。真奈美さんの表情を見るには、こうするしかないので多少変わった姿勢になるのは致し方ない。
どきりとする。久しぶりに見る真奈美さんの顔は、あいかわらずのセルロイド人形の顔。表情の消えた。完璧な造形。何度見ても心臓に悪い美しさ。
「…う、うん。一緒に、帰りたい…め、迷惑じゃなかったら」
よかった。漏らしてもないし、ちゃんとしたいことが言えてる。
「俺も、この危険なブツを早く部屋に隠してしまいたい。これを持ち歩いているところを誰かに発見されたら、恐ろしいうわさが立つ」
特に、佐々木先生に発見されるのは危険だ。
「じゃあ、美沙ちゃん。俺、真奈美さんを送っていくから」
「その後、また、戻ってきます?」
「…そうだな…うーん。後夜祭は出ようかな」
「…じゃあ、またメールしますね」
美沙ちゃんが珍しく笑顔を消して言って、すぐに不自然な笑みを付け加える。
片手で、ちいさく手を振る美沙ちゃんに見送られて、真奈美さんと学校を後にする。
真奈美さんのペースに合わせて、駅まで歩く。真奈美さんの指が、俺の指をつまんで、ひきよせて、腕が掴まれる。いつもよりも少し強く引き寄せられる腕。今日は疲れたんだな。学校が騒がしかったからな。
真奈美さんに左手を拘束されたまま、電車に乗り、市瀬家に向かう。一見、仲むつまじい高校生カップルに見えるかな?全面髪の毛カバーの真奈美さんでは、少し難しいか…。
そういえば橋本のやつ、いつの間にか東雲さんと体育倉庫で逢引きするところまで順調にフラグを立てていたとは、あなどれんやつ。東雲さん、かわいいし何よりFカップだ。
彼女か…いいな。
俺は、わりと女の子が周囲にたくさんいるわりに色恋には発展しない。いわゆるフラグが立たないというやつだ。真奈美さんとは、手をつないだり、抱きつかれたり、下着姿を見たり、いろいろイベントは発生しているんだが、なにせ真奈美さんだ。色恋じゃなくて奇行だ。美沙ちゃんは…ようやく変態レッテルを乗り越えたところだ。好感度は、おそらくマイナスを振り切っていた好感度メーターがようやくゼロに戻ってきたところだろう。あと、妹をカウントに入れる上野はどうかしてる。
真奈美さんの体重を左腕に感じながら、そんなことを考えているうちに市瀬家に到着した。
「それ、うちに…おいておく?」
その真奈美さんの言葉に、右手に持った紙袋に気づく。ああ、そうだな。浮いた噂の一つも立たない息子の部屋に、こんな本が置いてあったら両親を本気で心配させてしまう。これならまだ、エロゲの方がマシだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
真奈美さんに、自分がモデルになっているかもしれない漫画の掲載された雑誌を託す。
机の上に置かれたそっけない電波時計を見ると四時三十分だ。そろそろ学校に戻らないと、後夜祭の準備が始まるな。出なくてもいいかなって思うけど…。美沙ちゃんもちょっと気にしていたし、一応行くことにする。
学校に戻る途中で、美沙ちゃんからメールがあった。
本文:《今、どこですか?》
返信:《電車の中。あと、十分くらいで戻れるかな》
本文:《後夜祭が始まったら、屋上に来てくれませんか?大事な話があります》
あれ。俺、またなにかやらかしたかな。新しいエロゲは買っていないから、妹に新たな燃料を追加されたということはないはずだ。
とりあえず、《了解》と返事を返す。
学校に戻ると、一般来客に文化祭の終わりを告げるアナウンスが流れていた。校舎の中は、二日間の祭りの終わりに名残惜しさと熱気を残す空気に入れ替わっている。ところどころで、飾りが外され始めている。窓から校庭を覗くと、後夜祭の準備が始まっていた。片付けの進む焼きそばの屋台の横に、上野と寄り添う小さな影を見つける。八代さんだ。橋本と東雲さんほどあからさまではないが、そのおずおずとした距離感は特別な親しさのものだ。祭りのあとの、少し寂しげな喧しさの校舎の中でかすかな寂しさを感じる。
デス屋敷も片づけが始まっていた。中を仕切っていた暗幕とダンボールで出来た壁が取り外されて、マネキンが着ていた制服を一年生の女子たちが回収している。妹は赤いゴスロリ服のまま、マネキンの頭を透明なビニール袋にどんどん放り込んでいる。
「あ、にーくん。遅いっすよー。終わっちゃったっすよー」
頭を詰め込んだ袋を左手に、右手にもう一つ生首を持った真っ赤なゴスロリ服の少女が手を振る。なにかの悪夢みたいだ。
うちの妹、意外とゴスロリ服が似合うんだな。ああいう服って、フリルや飾りがたくさんついていてボリュームが増して見えるから、やせすぎな妹が着るくらいでちょうどいいのだと気づいた。
「あ。そーだ。九条っちー」
普通の学生服姿に戻った九条くんを妹が呼ぶ。
「どうした、二宮…。あ、先輩、失礼しました」
九条くんの落ち着きっぷりは、あいかわらず超高校生級だ。
「九条っち、にーくんと一緒の写真撮って欲しいっすー。カメラ持って来てっすー」
「そうか、じゃあ荷物預かろう」
「いいっすよー。早くするっすー。後夜祭始まっちゃうっすー」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
九条くんが、ロッカーからデジカメを取り出す。
「ほら、にーくん写真撮るっすよー。はい、チーズっすー」
妹が俺の左腕を抱え込んで、右手でピースする。
「本当にこの写真でいいのか?」
「いいっすー。ありがとっすー」
妹は上機嫌だ。九条くんが見せてくれたモニターには、生首の詰まったビニール袋と一緒に俺の腕を抱え込み、生首を髪の毛でぶら下げた右手の指を二本立てる真っ赤なゴスロリドレスの妹が満面の笑みで映っていた。
九条くんと一瞬目が合う。『妹が喜んでいるんだ。いいんじゃないか』『本人が気に入っていれば、それが一番の記念になると思います』。
「邪魔した分くらい手伝っていくよ」
「おそれいります」
九条くんの大人力はマックスだ。
仕切り壁の骨組みになっていた机を外して、下ろすのを一通り手伝う。
校内放送が、もうすぐ校庭で後夜祭が始まると告げる。校内に残った生徒たちが、ばらばらと校庭に出て行く。デス屋敷の解体もだいぶ終わっている。妹と九条くん、それと一年生たちに礼を言って、人の流れとは逆に階段を登る。途中から、ひと気がなくなり、ひんやりと気温まで下がった感じがする。暗い踊り場を上がり、屋上に続くドアを開ける。鍵はかかっていない。沈みかかった夕日に照らされた屋上。遠くに見える繁華街のネオンサインには、早くも明かりが灯っている。金網の向こうから、後夜祭の音が聞こえてくる。
さてと…。美沙ちゃんは、まだ来てないのかな…。
「お兄さん…」
そう思ったところで背後から、声をかけられる。
振り返ると、美沙ちゃんが立っていた。ゴスロリ姿だ。真っ黒なゴシックロリータドレスをまとった美沙ちゃんが、トワイライトを背景に立つ。美沙ちゃんのトレードマークのやわらかな笑顔も消えていて、あまりに似合うその景色に息を飲む。
「美沙ちゃん…」
「あの…」
美沙ちゃんは、それだけ言って止まる。
「…後夜祭、上から見ませんか?」
金網ごしに、校庭を見下ろす。校庭の特設ステージで軽音楽部がバンド演奏をしている。普通のポップスだ。けっしてデスメタルではない。横を見ると、ゴシックロリータの美沙ちゃん。綺麗な黒髪。
「お兄さん…私のゴスロリ見たいって言ってたから、着替えたんですよ」
「そ、そうなんだ…すごく似合ってる。めちゃくちゃかわいい」
暮れていく夕日までが、美沙ちゃんを飾る舞台装置に思えるくらいにかわいい。うつむいた美沙ちゃんの目だけが、上目遣い気味に俺を見る。美沙ちゃんの手が伸びて、俺の両手を掴む。
え?
心拍数が上がる。
遠くから、会いたいだの、会えないだの、二人の距離がなんとかと歌う歌声が聞こえてくる。
「お兄さん…昨日、私と文化祭回って、幸せでしたよね」
たぶん、それは間違いない。かわいい美沙ちゃんと文化祭を回る。古い橋を見に行ってみようと約束する。クレープを食べる。たわいのないことで笑う。それが幸せでなくてなんだろう。
「うん…」
「……」
美沙ちゃんが、そのまま黙る。目を伏せる。俺の両手を握ったままの手に、かすかに力が加わる。まるで、大事なものを落としたくないと言うように。
「お兄さん…」
「…う、うん」
また黙る。
「…お兄さん…」
ループしてないかな?
いつのまにか、夕日が最後の光を残してビルの向こうに沈んでいた。頭の上に、ぽつりぽつりと星が姿を現している。昼と夜のはざま。そのとき美沙ちゃんの目が開く。鳶色の瞳。
「お兄さん、私と付き合おうよ」
軽い言い方。真剣な瞳。汗ばんだ手が俺の手を握り締める。
マジか?
美沙ちゃんに告白されてんの?俺?俺が?美沙ちゃんに?
美沙ちゃんの真剣な瞳を見る。鳶色の瞳。
鳶色の…。
「美沙ちゃん…」
「はい…」
目を一度閉じる。そして、自分の胸の中を見つめる。その中にあるものを見つめて、目を開く。美沙ちゃんの瞳を見つめて、胸の中を伝える。
「…ごめん。俺は美沙ちゃんとはつきあえないよ」
(つづく)
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妄想劇場42話目。うおー。長くなったー。この後に続く妄想を書きたくて、そのタネ仕込みが不自然にならないようにするのにこんなにかかってしまいました。次回から妄想炸裂させますよ!エネルギー充填120%。次回を対ショック、対閃光防御姿勢でお待ちくだされ。
最初から読まれる場合は、こちらから↓
(第一話) http://www.tinami.com/view/402411
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