いつから気がついていたんだっけ。
いつから気がついていないフリをし続けていたんだっけ。
いつから……、いつからだっけな?
例えあたしが何かしたところでさ……何か変わることもなくて、ましてやあいつの想いが変わるわけでも鈍るわけもなくてさ。
だから――、気がつかないフリをしていたんだ。
それが一番あたしにとって、いや……あいつにとって良いはずであるからさ。
だから――二人、楽しく男女の関係になって手をつないで歩いていてもあたしは無視した。関係ないって思い続けていた。
だって、あいつのことじゃん。あたしがとにかくいえる立場になんかいない。
あいつを知っているのは、ほんの四年ちょっとで、対してあの男は十年以上さ。あたしよりもずっとあいつの事知ってて、あいつはそんな男を愛していた。
あの男の話をする時なんかはさ、あいつは嬉しい顔を見せるんだ。それもさ……綺麗な顔で笑うんだ。
――胸が締め付けてくるようにさ……痛むんだけど、あいつの笑う顔だけで胸の痛みが癒えていく気さえした。だから、よかったんだ。胸の奥がどんなに痛くなっても、あいつは笑ってくれるし、嬉しそうな声をあげてもくれたんだからさ。
あいつに心配をかけるのも、気を使われるのも癪だった。だから、あたしは気付かれないように適当に相槌を打っていたんだ。そこに意味なんてないのにさ。
思えば、あの時に止めていたら良かったのかもしれない。
いや、違うか……これで良かったんだ。あたしはあいつを幸せにできない。楽しい気分にできるけど、たったそれだけ。それだけであいつを幸せに出来るって思っちゃいないさ。
あいつはそんな簡単な人間じゃない。
「さやか……」
今――お前はどこで何をしているんだろう。
窓から見える景色は、夕暮れ時からちょうど闇の世界へと変わるところだった。
――あれは卒業まであと二ヶ月もない時のことだった。
いつもの喫茶店でパフェを堪能しながら、あたしとさやかは他愛もない話を繰り広げていた。誰それが付き合った、別れた。芸能人が離婚したなんて、学校でも話す内容がほとんどだった。
それでもよかった。さやかといられるなら何の話だって、楽しい気分でいられるから。
でもそんな温かいはずだった居心地の良い空間を、
「アタシさ、あの、その……。卒業したら、日本出るんだ」
さやかが冷たく変えた。
「えっ――」
息が詰まる。真剣な表情で何を言ったのか理解できなかった。理解したくもなかった。
「何だよ、それ? えっの?」
どうしようもなく、口が渇いて言葉が続かない。
「恭介のやつがさ、留学するって言うからさ……。アタシもついていこうと思うんだ。今まで黙ってたんだけど、試験も その……ね。問題なかったんだ」
恥ずかしがっているのかさやかの頬が赤くなっていくのが目にはいる。試験ってそんなもんいつのまに受けていたんだろうか? そんな素振りさえ見なかったのに……。
「留学って……! どういうこと……だよ」
日本を出るって……。そんなの聞いてないし。まどかたちからだって、聞いたことない話だぞ? 意味がわからない。確かにあの男は世間的に有名な演奏者だけどさ、どうしてさやかがついていく必要があるんだ?
――何か意味があるのか?
「それでさ……、アタシ結婚するんだ」
あたしの思考を鈍らせるかのようにそうさやかが呟いたのが耳に入った。
その言葉で何かわかった気がした。それもわかる自分がいやになるくらいで、
「結婚……? 出来るわけないじゃん!」
だから皮肉をいうつもりで反抗した。高校生が結婚なんて出来やしない。そんなやわな法律じゃないし、そんな現実もない。夢見る少女の戯言なんだろ?
でも、
「今はね……。結婚出来る歳になったら、海外でするの。その時にどこの国にいるのかわからない」
当たり前じゃんとさやかが笑う。そこまで馬鹿じゃないよとさえ、言う。
「そっか、それは良かったじゃん」
……混乱と戸惑いのせいか、言葉がうまくまとまらない。今まで合槌を作ることを繰り返していたせいか、
「おめでとうって、いえばいいのか?」
機械的な回答しかできなかった。しかもそれは肯定の意味で、あたしが望んで答えたかった回答ではなかった。話を合わせるために、勝手に作り出した言葉だった。
でも、さやかに一番良くて、望んだことなのだからと自分の考えなんて説き伏せた。そのために、今まで合槌なんて打っていたんだから。
「ありがとう。でもさぁ……あんたとこうして話せるのもあと数回もないんだよね。少し残念だよね。折角さ仲良くなれたのにね?」
卒業……? あぁそうか、あと二ヶ月であたしたちもあの学校からマミと同じように卒業するのか。長いようで短かった高校生活が……。
あたしはパパの手伝いをするから、進路なんて最初から決まっていただけど……。
そっか、さやかはそういう風に考えていたのか。
「それでさ、恭介のやつがさ――」
氷の溢れる音が聞こえた。というかそれ以上にガラスの割れる音が大きかった。
「あっ――」
その音が自分の落としたコップの音なのだと気がつくまで時間がかかった。いつの間に落ちていたのだろうか。わからない。
「わりぃ」
割れたコップの破片を拾おうとしたのを店員に止められ、姿勢を戻すと、
「何やってるのよ」
さやかの呆れた顔がこちらを見つめていた。
「いや、ぼーとしてた……かな?」
「なにそれっ! あはは」
相変わらず表情がよく変わるやつだと思う。おかげでこっちが何を考えていたのかなんて伝わることもない。
「いつ、行くんだ?」
「卒業式の日」
「そっか」
「もう、決めちゃったんだ」
この会話を機に、あたしとさやかは一切話さなくなった。
別に喧嘩したわけでも、仲が悪くなったわけでもなかった。ただ、お互いの時間が噛み合わなくなっただけ。
あたしはパパの手伝い。さやかは引越しと留学の準備。
特にさやかは忙しそうだった。
廊下から見えるあいつの姿は、教科書片手にずっと勉強していた。留学できるようにはなっているのだけど、それだけじゃ全然足りないことがあるとマミが言っていた。それもあってか、マミの部屋にさやかがいることが多かった。大学で勉強しているマミから教えてもらった方が効率がいいとかなんとか。これは確かまどかが言っていたような覚えがある。
でも、本当はさやかが――何をしているのかわからない。
聞いただけであたしは――見ていなかったから。
あたしは逃げたから。あいつがマミの部屋に行きそうな時は、教会に篭るか、ほむらの部屋に逃げていたから。
だから、会うことなんてなかった。教会に来たとしても他人として扱っていたと思う。
それにさ……。
留学っていうなら、勉強は必要だと思うし、やらないよりはやった方がいいと思う。なんせ言葉が違うんだから、文化も違うはずさ。
ここで当たり前のことでもさ、向こうじゃ意味のないことになるじゃん。
だから……、だから……邪魔にならないよう逃げたんだ。
出発当日、空港にはさやかのクラスメイト、あの男のクラスメイト、その他知らない奴が集まっていた。あたしはそれをマミと一緒に少し離れた位置で、さやかが次へ次へと変わる事に挨拶されていく様子を見ていた。
「いいの。佐倉さん? 何も話していないんでしょ?」
心配そうな顔をしたマミがあたしを見る。
「何で知っているんだよ。いつものお節介か?」
「そうね。そう思ってもらってもいいわ。鹿目さんと暁美さんに聞いたの」
「あいつらか……」
あいつらなら知らないことなんてないだろう。さやかと同じクラスメイトのまどか、ほむらなら――。そういった意味でいえば、違うクラスのあたしは場違いなのかもしれない。
知っている奴といえば、ほむらとまどか、マミ。そして、当の本人のさやかしかいない。
まぁ、マミなんかはあたし以上に知らない人と思われているんだろうけどさ。
「へんなこと考えていない? ほら、わたしが場違いでかわいそうだから一緒にいてあげるとか?」
「はぁ、ばかじゃないのか? あたしがマミをそんな風に思うわけないだろ?」
「そう? ならいいんだけど……。もうすぐ行ってしまうわ。未踏の領域へ羽ばたいていってしまうわ」
「そうかよ……」
あの男の両親がさやかたちに一声かけると、一度頭を下げて先に歩いていった。顔はとても嬉しそうに笑っていた。
晴れ舞台への旅立ちだから……か?
「じゃぁ、皆さん。こんなにも見送りに来てもらっちゃって、アタシは感謝感激ですよ! 今度帰ってくる時はみんなの知らないさやかちゃんになっていますので! よろしくやっちゃってくださいよ!」
さやかのはしゃぐ声が離れているここまで聞こえてくる。
「知ってるよー!」
誰かがつっこみをあげた。茶色の髪を持った奴だった。
「あははは、照れちゃいますな」
口元に手を置いたさやかの指には綺麗に光る指輪があった。
「さやか、きちんと挨拶しないとダメじゃないか? 僕たちいつ帰ってこれるかもわからないし……」
諭すようあの男がさやかの左肩を叩くと、頷き、
「みんなありがとう。向こうでも頑張ってくるよ」
「えー、そういうわけでありまして、美樹さやか行ってまいります!」
胸が一度だけ高鳴った気がした。あいつの声が耳の中で反射していく。行ってまいりますというただの言葉が反響して、あたしを刺激した。
気が付かないフリなんてもう……嫌だ。
だから、
「行ってらっしゃい! また会おうね」
手を振るあいつが一歩踏み出したとき、あたしは駆け出していた。
「杏子ちゃん……!?」
誰かの止める声が聞こえても関係なかった。あたしはもう自分を抑えることも隠すことも嫌になっていた。失うくらいなら、壊れてしまえばいい。そんな風にさえ思った。
でも、
「――やめなさい」
かけ出した身体は、すぐに掴まれたことにより強制的に止められた。掴まれた右腕を見れば、
「離せよっ! ほむら!」
そんな馬鹿げたことをした奴がいた。無表情で見下しているかのようにも見えた。
「彼女は彼女の道があるのよ。それを踏みにじるつもりなの?」
そんなんじゃ、そんなんじゃないんだよ。あたしはそんなつもりなんてない。ただ……、ただ声をかけたいだけ――。
「やめなさい、あなたの行動に意味がはたしてあるのかしら? あなたの行動は美樹さやかを惑わすだけよ、それに――」
黙れ、黙れよ! 聞きたくない!
「うるせぇ! 離せよ!」
腕を振りほどくと、さやかを見る。
歩き始めてたいして時間なんて経っていないはずなのに、豆粒のように遠くに行ってしまったかのように見えた。蜃気楼のようにさやかの姿が霞んでいくように見えた。
目に浮かんだ水が邪魔をした。そんなあたしの姿を、
「……?」
肩越しにあいつが振り向いたような気がした。
だから、あたしは息を吸い込んで走りだそうとしたのだけど……、
「何でだよ……! 何でなんだよ!」
足がコンクリートに固められたみたいに動かなかった。さっきまで走れたのに、身体が言うことを聞かなかった! ほむらに言われたからなのか? 違う、そうじゃない。そうじゃない。
わかんない。なんでだよ……どうしてなんだよ……!
「っ――」
さやかが行ってしまう……。あたしの視界から消えていってしまう……!
歩いても走っても飛んでも、さやかが遠くに……遠くに行ってしまう。もうたどり着けない場所に行ってしまう。触れられない、しゃべれない、遊べない。何もできなくなってしまう。
いやだ!
「さ、さやぁかっ! 行かないで!」
あたしは喉が焼けそうになり位の大声をいつの間にかあげていた。道行く人が足を止め、こちらを見てくるのがわかる。でも、
「ぐぅえぅ……、海外なんて行かないでいいから、ここにいてよ……。ずっとずっとあたしの側にいてよっ! ど、うしてだよぉ……」
もう止められなかった。せき止めていた感情が溢れていくだけだった。こんなことさやかが聞いても困るだけだっていうのにあたしの口は、
「やだょ……、あぐぅ……あたしはいゃだ……」
止まらない。
「なんで行っちゃうんだよ……。あ……、た、しを置い、ていか……ないでよ……」
「杏子ちゃん……」
「佐倉さん、大丈夫?」
近づいてきたまどかたちがあやしてくれても涙が止まらない。止まるはずもなかった。自分で止めることもできないんだから、当たり前だった。
「――やっと、しゃべってくれた。嫌われたんじゃないかって思ってたんだよね」
「そんなことは――」
頭を上げれば、いつのまにさやかがあたしの前に立っていた。涙越しでもわかる。
それは――あたしに温もりをくれる笑顔で。
「あたしは……ないっ」
あたしの頬に伝わる水の塊をさやかがそっと撫でる。
「一つだけさ……、心残りがあったんだよね、ほら……?」
「なぁ……に?」
「杏子がさ、アタシを避けているように感じてさ……。大事な友だちがどっかに行っちゃう感じがして、ね?」
「そんなこと……」
そんなことなんてない。あたしは……、あたしは……、だって……。
「あたしはさ、さやかが好き……大好き……なんだよ。あいつに取られたくない。そんくらい大好きなんだよっ……!」
「うん、知ってた。知ってたよ、杏子。あんたがとてもアタシを大事にしてくれたってのはさ……わかってたんだ。でもね――」
笑ってくれているはずのさやかの表情が曇った。やっぱり、言わなきゃよかった。
「わかってる。知っている。さやかはあいつが好きだなんてさ!」
あたしはそんな顔にさせるつもりで言ったんじゃないんだ。だから、笑ってよ……。
「うん、ごめんね。杏子」
「いいんだよ、行けよ……。ほら、あいつが待ってるんだろ?」
そうだ……。あいつの場所に行けば……。あたしじゃなくて……。
「うん、連絡しようね。親友だものね」
「うん……。あたしもする……からさ……」
「そうだっ、これを――」
さやかは髪の毛につけていた髪飾りをはずすと、
「あげるよ」
右手にのせてあたしへと、つきだした。
「いいの……か?」
大事な物って、昔聞いた覚えがあったけど……?
「あたしはあげられないけど……、あたしのものならあんたにあげられるよ、杏子」
「う、うん……でも、付け方わかんないや」
涙が溢れてくるのが、悔しいから笑ってやった。自分のことなのにさ!
「じゃぁ、ちょっと頭下げてみて」
言うとおりにすると、
「あっ――」
「本当は一番にさ、あんたに教えてあげたかったんだけど――」
あたしの頭はさやかの胸の中に抱きしめられていた。さやかの匂いがする。甘い紅茶のような、幸せになる匂いが。
「どうやって、説明したらいいかわかんなくてさ……。そのせいでこんな風にさ、辛い思いさせちゃうようでさ、ごめんね?」
「謝んないで……よ……さやか」
謝られたら、もう……。
「うん」
温もりが去っていくと、あたしの髪の毛が優しく撫でられたかと思うと、
「これでよしっと……、なんだ案外似合うんじゃん!」
「……そうかな?」
髪に違和感があった。普段付けない髪留めの重さ。さやかの想いが。
「うん、これでお別れだね。次はいつ会えるかわからないけど」
「さやかぁ……!」
あたしはその温もりを忘れないようにさやかを抱きしめていた。それは何秒、何分だったのかはわからない。永遠のようで、一瞬の出来事。そんなものだった。
大好きな匂いを、身体の温もりを忘れないようにしたかった。
そうして、あいつは行っちまった。大好きなあいつは、あの男と羽ばたいていった。
しばらくして、あの男が何かの賞を取ったとか、結婚したかなんて話を聞いたような気もする。
それもいつのことだったか、忘れてしまった。
「くそっ……」
いつの間にか泣いていたらしく、あたしの服は濡れて冷たくなっていた。あの時からどうしてか、こうやって思い出すとどうしても泣いてしまう。
別に悲しくも何とも思っていないのに……。
――嘘だった。
そう思いたいのに泣いてしまう自分が嫌だっただけ。
あれから、数年経っても何も変わらない自分が嫌なだけ。
そんな憂鬱な気分を場違いなチャイムがかき乱した。連続で押されたチャイムの音が響き渡る。
「むっ、誰かしら……? 佐倉さん出てくれないかしら、今手が離せないの」
目を向けてみれば、マミがフライパンを振り回しているのが見えた。晩御飯でも作っているのだろうか? 時間的にも、そんくらいか。
どんだけ、考えていたんだあたしは……。しかも、マミの部屋だってのに……さ。
「っやく、しょうがねぇな。マミは」
何も言わないマミの優しさが胸に痛い。だけど、
「そうかしら? 今日は佐倉さんの好物なんだから、期待していてね?」
なんだよ……。どうしてそこまでするんだよ。
ため息混じりの声をあげ玄関へ向かう。玄関前で待っている誰かは待ち切れないのか、二度目のチャイムを鳴らしていた。
「はやく、佐倉さん!」
「い、今行ってるからさ! 怒鳴るなよ!」
正直、面倒くせぇと思いつつ遊びにこさせてもらっている身としては何も言えなくて、涙を適当に拭き取るとドアを開いた。
「えっ――」
扉の向こうには、
「ただいま!」
長髪になって――どこか綺麗になったあいつがいた。
「上条さやか、帰還しました!」
数年ぶりかの――あの笑顔で。
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杏子とさやかが高校生になって、卒業するとしたらというものを書いてみました。