真恋姫無双 幻夢伝 第五話
「緊張するね」
「うん」
昨日の曇り空が嘘のように思えるほど、瑞々しい青色の空。綿あめのように浮かぶ雲が、遠い空に白の彩りを加える。透き通った空気の中、太陽光線が町中に降り注ぐ。それに刺激されたように、町人は昨日以上に張り切っているように見える。人々の熱気は町を包む。
そんな街中、大きな宿の前にポツンと小さい影が二つ、季衣と流琉が立っていた。ここは一昨日季衣が訪れた宿、つまり曹操たちが宿泊している所である。
二人は深呼吸をしてゆっくりと門に近づく。季衣は門番が変わっている事に気付く。
「何か御用か」
硬質な声に少し緊張する二人。その門番はこの前とは明らかに違う。決して空威張りしている訳では無い。しかししっかりとした身体つきからは自然と威圧感が湧き出る。もう一人、門の左側に立つ兵士の視線も刺さるかと思うほど鋭い。しっかり訓練されている兵士だな、と流琉は恐縮しながらも冷静に見ていた。
季衣が兵士を仰ぎ見て言う。
「曹操さまにご用があって来ました!」
「こ、これ!兄さまの手紙です。曹操さまに直接渡すように、と言われました…」
尻すぼみに声が小さくなりながら、流琉は手提げ袋から手紙を取り出した。少し細くなる門番の眼つき。もう一人の門番がスッと近寄ってきた。
「もしや許緒という名か?」
「う、うん!」
「では、そちらが典韋殿」
「はい。そうですけど…」
門番たちはニコリと(凄味があるが)微笑んだ。
「曹操様から承っておる。『許緒、典韋なる者が来たら、無条件で通すように』と。さあ、通られよ!」
二人はゆっくりと開く門を見ながら、そこまでの信頼を受けていることに喜ぶよりも、困惑している表情を浮かべていた。
汚れという概念そのものを追放したかのように美しい廊下を抜け、華琳の執務室へ案内される二人。きょろきょろと辺りを見回しながら歩く流琉に
「そんなに珍しそうに見ていると、田舎者ってバカにされるよー」
と季衣が言う。ムッとした流琉が振り向くと、季衣は得意げに鼻を鳴らしていた。
「季衣は前に来たことがあるから慣れているだけじゃない!」
そんな会話を繰り広げているうちに目的の部屋へたどり着いた。案内してくれた侍女に促されて入ると、中には華琳ら四人が勢ぞろいしていた。
「よく来たわね、許緒、典韋。入軍希望?」
「え?い、いや、その…」
「えー…と。そうじゃなくて…」
「冗談よ。どういった用件なの?」
しどろもどろになる二人の様子にクスリと笑う華琳。流琉は緊張の汗でべっとり湿った手をズボンで拭い、手紙を取り出して渡した。
「に、兄様からの手紙です」
「あら?」
少し訝しげに手紙を受け取る華琳。そしてそのまま静かに読み始める。季衣と流琉がじっと待っている間、春蘭と秋蘭が二人に親しげに話しかけてきた。
「門番が変わったことに気付いたか」
「は、はい!夏侯淵さま」
「なんか強そうに見えました」
季衣の言葉に春蘭は誇らしげに手を腰に当てる。流琉はデジャブを感じた。その様子はまるで大きい季衣だった。
「その通り!あれは我が軍の親衛隊の者だからな!前の近衛軍から来た門番と変えて正解だった」
「それは私の意見でしょうが!」
華琳の隣で控えていた桂花が噛みつくように春蘭に文句を言う。怒られた春蘭はぶつくさと「訓練したのは私だぞ」とかつぶやき、やれやれと秋蘭は桂花に口で勝てない姉を気遣う。穏やかな風が流れるこの部屋、季衣は何とも言えない心地よさを感じる。
ところがその空気は一変した。華琳は目つき鋭く二人に尋ねる。
「この内容、知っているの?」
「い、いえ!知らないです」
「返事をもらって帰るようにとしか…」
二人の後ろにいた幕僚三人は華琳の眼に怒りが灯ったことを感じた。華琳はばっと季衣と流琉の前に手紙を突き出した。
「読みなさい」
「は、はい」
戸惑いながら二人は手紙を受け取り読み始める。春蘭たちは二人の後ろからその手紙を一緒に読み始めた。華琳は考え込むように窓の外を見る。「思い通りになったとはいえ、これでは、ね…」とつぶやくその表情は苦々しい。
手紙には庶民とは思えないほど達筆な文体でこう書かれていた。
『曹孟徳様。私事により一人で遠くの地へ赴くことになりました。そこで許緒並びに典韋をお預けいたします。二人の荷物は私どもの家にまとめてあります。
二人をどうぞよろしくお願いします』
あまりにも簡潔な、そして重大な内容の手紙に一同は絶句した。季衣や流琉も驚愕しているところを見ると、彼女たちはこのことについて一切知らなかったことが読み取れた。桂花や春蘭は見る見るうちに顔を朱色に染める。
「な、なんなのよ、これ?!この男、どういう神経しているのよ!」
「当の本人たちに相談せずに決めるとは。ふざけるな!!」
秋蘭も眉間に皺を寄せて、言葉を吐き捨てた。
「物には頼み方もあろうに…」
それぞれ怒号を上げた三人はちらりと二人を見た。まるで人形に化けてしまったように、その背中姿はピクリとも動かない。華琳を含め四人はかける言葉が見つからなかった。
突然、季衣が部屋の外へ走り出した。
「季衣!」
「こら!待て!」
「姉者!追いかけるぞ!」
走り去る季衣を夏候姉妹が追う。場違いなほど穏やかな風。残された三人はその行方を呆然と見つめる。そして流琉は状況を理解し、その場で泣き崩れた。
「許緒!待て!」
「くっ!」
驚く通行人を後目に、疾走する三人の姿があった。季衣が人々の間を縫うように走り、夏候姉妹が人々を押しのけるように追う。天下に名の知れた夏候姉妹。その鍛えられた体は賊とは細胞レベルで異なるぐらいだ。しかしそんな彼女たちでも季衣に追いつくことが出来ずにいた。
((速い!))
二人は前を走る彼女の才能に驚愕していた。
しかし季衣は二人を気にも留めていない。それどころか彼女は、障害物となっている人々、走るたびに目に入る砂埃、そして時折転びそうになる小石さえ意識の範疇に無かった。ただ目的地、そして目的の人物のことだけを考えていた。
(兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん!)
今の彼女には体にまとわりつく太陽の光すら邪魔でしかなかった。
「兄ちゃん!」
季衣は到着するや否や、扉を開け放ち、中へ飛び入った。そのすぐ後からようやく追いついた夏候姉妹も中に入る。そこは中流階級が暮らす住宅街。昨日アキラが襲われていた場所の近くだった。
三人が入った薄暗い部屋の中、そこには人影はなかった。ただポツンと部屋の中心部に荷物が置かれている。季衣と流琉の荷物だ。
「兄ちゃん!どこ!」
それに応える声は無い。何度も愛しき兄を呼ぶ季衣の涙ぐんだ声がむなしく部屋に響く。
「本当に二人を置いて行ったのか、あの男は」
「ああ」
二人は怒りを通り越して、純粋に驚いていた。その二人の目の前では季衣がもう呼びかけることもせず、声にならぬ声を上げて泣きじゃくってしまった。三人の影が部屋の中へと音を立てずに伸びている。
しばらくして何事かと見に来たらしい初老の男が入り口を覗き込んできた。夏候姉妹が追い払うようにその見物人を睨み付ける。その視線に男は病気かと思うほど体を震わしたが、こわごわと二人に近づいて来た。
「何だ」
気の毒なほど怯える男は手紙を差し出した。
「こ、これを、許緒ちゃんたちに、わ、渡してくれと」
「よこせ!」
春蘭がひったくるようにそれを奪う。男はその勢いに負けて後ろに尻餅をつき、逃げるように立ち去った。その足元へ季衣が泣きはらした顔のまま駆け寄ってきた。
「見せて!」
今度は季衣が春蘭から手紙を奪い、封を開けた。春蘭と秋蘭は季衣の上からその手紙を覗き込んだ。
『今度の旅は危険なものになる。連れては行けない。すまない。必ず戻る。待っていてくれ』
「兄ちゃんの…ばか」
手紙をクシャクシャにしてしまった季衣の眼からは再び涙が流れ始める。春蘭は行き場のない怒り溜めこみ、地面を「くそっ!」と言いつつ蹴った。
だが、秋蘭はというと何か考え込んでいた。先ほどは気付かなかったが
(この筆跡、どこかで見たことがあるような…)
日が傾き、三人の影が長くなる。季衣はとうとう大声で泣き始めた。もうこの部屋に彼の姿はない。段々と冷たくなる風が入り込む家。床には涙でできた水たまりと、三人が暮らした思い出だけが消えずに滲みついていた。
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しばしのお別れです