数時間――秋山の時計で測ったところによると3時間足らず歩いたところで、突然、森が途切れていた。
くっきりと見えない境界線が引かれたように、そこから向こうには生き生きとした緑に生い茂る葉も、木から発せられる樹脂の匂いや地面から立ち昇る湿った匂いも、なにもなかった。
あるものは、からからに干からびた倒木の残骸と、枯れ草の塊。そして、乾ききった土と、砂埃である。
そこには、湿気や潤いといった生き物の気配といえるものは、欠片もなかった。
「ここから先は、水のない死んだ土地です。あの者たちは、アヴァールから水を奪ってしまった。豊かだった水の源を断ってしまった。そのためにここから先はこんな風になってしまったのです。私たちが歩いてきた森は、かろうじて生き残った部分に過ぎないのですが、あそこも死に絶えるのにそう時間は掛からないでしょう」
死が国土を侵食しているのだ。
これが、国を滅ぼすということか、と秋山は慄然とした。
振り向けば、そこにはまだ緑滴る森が存在しているというのに。あれもやがては尽きるということなのか。
この幼い姫の犯した罪というのは、いったいなんなのだろう。
秋山は、乾いた地面に立ち尽くした。
「こんな土地じゃ、俺の持ってきたポンプは、まるで用なしだな」
砂漠にポンプはある意味必需品だが、それも、水脈を掘削して水が出てくればの話だ。井戸もないようなところに、ポンプだけあったって仕方がない。水脈探知機で水脈を探し当てることくらいは出来るかもしれないが、掘ることが出来なければ意味がない。
いや別に、こんなところにポンプを売りに来たわけではないのだが、つい営業の癖で――。秋山は苦笑いした。こんなときに自分が〈会社人間〉であることを自覚するとは。
そんな思いなどお構いなしに、ガルダンは歩みを進める。
やがて枯れた倒木の間に、石積みの人工的な建造物らしきものが見えてきた。足元は、砂に埋もれかけてはいたが、石畳のように固くなっている。この世界へやってきて、はじめて踏みしめる革靴で歩きやすい地面だった。
整然と並べられた敷石が、まっすぐに彼らの行き先を案内している。
少し向こうに、両脇に一抱えほどもある太い意志の柱が、天を突き上げて一本ずつそそり立っているのが見える。柱の間には石の梁が差し渡されていて、まるで神社の鳥居のようである。
「まさか、こんなことでここへ来るとは思わなかったわ…」
アミンターラがそれを仰ぎ見て、懐かしさと後悔の入り混じったような声でつぶやいた
「どのみち、ここは叩いておかなければならなかったのだから、ちょうどいい機会かもしれません」
ガルダンが静かにその呟きを受け取った。
「まさか、あれの使い方を、あの者たちが会得していたとは」
アミンターラの声に、悔しさがにじむ。
「なんとしてでもあれを取り戻し、ユースケ殿を、向こうの世界にお戻しするのです」
「わかっております、アミンターラ姫」
まるで、その場に二人しかいないような会話が交わされた。ある覚悟を決めた者たちに特有の張り詰めた空気というか、部外者には触れることの出来ない絆を、秋山は否が応でも感じる。
それに、この土地から発せられる禍々しい気配は、都会暮らしの文明人である秋山をして、十分感知できるものだった。
この二人――自分を含めると三人――は、これからとてつもない危険な領域へ足を踏み入れようとしているのだ…。赤の他人の自分のため――だけというわけでもなさそうなのだが、こんなことになって、本当に申し訳ないと秋山は思う。
石の門柱の真下にやってきたところで、ガルダンは、一度そこで立ち止まった。
「ここまでです、姫」
ガルダンの絞り出すような、声。
「我らには、これ以上は進めません」
「わかっています」
アミンターラは答えた。
「待ちましょう、時が来るまで。でも、その時間ももうすぐです」
アミンターラはガルダンの背から降りると、西に傾いた――この世界でも、太陽が傾く方向を「西」と呼ぶとすればの話だが――淡いオレンジの光を見た。
もうすぐ、ガルダンは人間の男に戻り、アミンターラは人形に姿を変える。
そうすれば、あの門を越えることが出来るのだろうか。
「あなたは、私たちのそばにいないほうがいいわ」
アミンターラが、秋山の方に向き直って言った。
「私たちはこの時間、無防備になってしまう。もし、そのときに敵に襲われでもしたらあなたを巻き添えにしてしまう。けれどここまで来たら、もとの世界に戻る出口はすぐそこですから」
「何なんですか」
秋山は訊ねた。
「ここに出口があるんですか?」
「ええ。ここはアヴァールの聖域のひとつで、『影の鏡』を安置してある場所です。『影の鏡』を通れば、あなたは元の世界に帰れます」
アミンターラは一気に答えた。光がこの世に残っている間にすべてを伝えようとしているのだろう。
「この聖域の奥に『夜の神殿』があって、その一番奥の間に『影の鏡』が置いてあります。もし私たちがいなくても、そこへ行って」
「そこって、どこへ?」
「『鏡の間』です。夜の間にそこにある鏡を通るのです」
アミンターラは一切の無駄を省いて、秋山に言い聞かせた。まるで因果を含めるように。
「ちょっと待ってくださいよ、ここまで来て私をほったらかしにする気ですか。その場所まで連れて行ってくれるんじゃないんですか」
秋山はふいに不安になる。見捨てられる、という危機感や不安からではない。彼らの言葉の端々に、ただならぬものを感じるのだ。彼らは命を盾にしようとしている。
「心配するな。俺たちはそれほどやわではない」
秋山の胸のうちを見透かすように、ガルダンが答えた。
「とにかく、今は私たちから離れて。でも、あまり離れすぎないで。光と闇が入れ替わったら出てきてかまいません。ガルダンがあなたを連れて中に入ってくれるでしょう」
開いているほうの目を閉じて、ガルダンがこくりとうなずいた。
「だが、『鏡の間』まで行くには、いろいろと手続きが必要だろうな」
ガルダンは不敵に笑った。
「手続き?」
「ああ、手荒い手続きだ」
〈戦闘〉ということか。
「あんたは姫様を守って、どこかにじっとしていてくれると、ありがたい」
「敵を倒したら、ちゃんと連れて行ってくれるんだろうな」
「もちろんだ」
「じゃあ、姫をお守りして、どこかに隠れていますよ」
アミンターラに笑いかける。
姫は、優雅な物腰で秋山に挨拶を返した。
「もうすぐ、光と闇が入れ替わるわ」
アミンターラが言った。
秋山は言われたとおり、倒れている巨木の陰に身を潜めた。
大地の端に太陽の末端が差し掛かった瞬間、地面を揺るがすような咆哮が聞こえ、秋山は思わず震え上がった。
いったい何が起きているのか、覗いて見ようかとも思ったが、恐怖がそれを押しとどめた。
今朝方は、それどころではないくらい深い眠りについていたのだろうか、それとも、秋山を気遣って、遠く離れたところで変身が行われたのか。
とにかく、太陽が完全に没してしまうまでの数分間、その苦しげな雄たけびは続き、秋山は目に涙が溜まるかと思うほど、激しく胸を揺さぶった。
やがて、闇が辺りを包み込んで、完全なる静寂が訪れた。幸いにして闇と光のあわいに敵の襲撃はなかった模様だ。
秋山は、おずおずと巨木の陰から顔を出した。闇の中にぼんやりと、人の姿に戻ったガルダンが歩いてくるのがわかった。秋山は立ち上がって木を乗り越え、ガルダンのもとに歩み寄った。
ガルダンは静かな目をして立っていた。
「姫を、頼む」
左腕に抱えた人形と化したアミンターラを、そっと秋山に預けた。
「荷物は?」
なにか言葉を交わしておきたい、と秋山は他愛のないことを訊ねる。
「それなら、あそこの陰にまとめておいた。それがどうした?」
「いや、なんでもないよ。また、旅を続けるんだろうと思ってさ」
秋山は笑った。
ここで彼らとは別れることになるんだろうが、彼らの旅は終わらないだろう。少なくとも、この場所で終わってほしくないと、秋山は心から思った。
ガルダンは門の中に足を踏み入れた。やはり、人の姿に戻らねばこの門はくぐれなかったのだ。秋山はその後姿を黙って見送った。
いったい誰が、彼らにそんな制限をかけたのだろう。「呪い」というやつだろうか。それが、「やつら」の仕業なのか、祖国を滅ぼしてしまったという、アミンターラに科せられた罰のなのかはわからない。
いや、罰ならばアミンターラひとりでよかろうはずなのに、敵の傭兵であるガルダンまでが、なぜ?
秋山は、改めてふたりが背負っているものを思って、いたたまれないものを感じた。
ふと、可奈恵のことが懐かしくなり、些細なことで喧嘩をしてしまったのが、今になって悔やまれた。
あの二人に比べたら、俺たちなんて、子供の恋愛ごっこだ。
――あれ?
と、秋山は思った。
あのふたりが恋人同士だなんて、いつ思い込んだんだ?
アミンターラ姫は、まだ本の子供で…。
いや違う、と秋山の記憶の端っこのほうで、何かが瞬いた。
この姿も、あの姿も、姫の本当の姿ではない。
アミンターラ姫は、本当は・・・。
その直後、奥の暗闇から緊迫した空気が押し寄せてきた。
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秋山を元の世界に帰すため、ガルダンとアミンターラは「禁断の地」へと足を踏み入れる。
物語は佳境へ。