No.508356

Platinum Smile

たけとりさん

エリーさんの誕生日にも石流さんの誕生日にも間に合わなかったけれど、誕生日おめでとーってことでストエリ話です。

2012-11-15 01:16:00 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:1472   閲覧ユーザー数:1464

 

 エルキュール・バートンは、程良く冷ましたふかし芋を両手で口元に運びながら、テーブルの間を縫うようにして生徒達の皿にパンを載せてまわる石流漱石を目で追った。

 白いコック服に身を包み、時折生徒の談笑に応えながら、僅かな微笑を浮かべている。だがその横顔が、いつもより白く見えた。化粧をしているはずがないから、体調でも悪いのかと一瞬思ったが、機敏な動きで給仕を続ける様子からは、そのような気配は微塵も伺えない。

 彼の姿が壁の先に隠れて見えなくなると、エリーは手元のふかし芋へと視線を落とした。

 しっとり且つふかふかに蒸かされた芋には、胡椒が振りかけられていた。味付けは塩だけだったりバターだったりと毎回異なるが、調理具合はいつもと変わらない。

 気のせいかな……と思い直し、エルキュールはもぐもぐと芋を飲み込んだ。

 

 

 寮から出た生徒達が、続々と校舎へと向かっている。

 ミルキィホームズ達も、遅刻しないように教室へと足を進めていた。池の端の煉瓦道を談笑しながら通り過ぎ、校舎前の掲示板を通過する。いつもならそこで掃き掃除をしている石流とすれ違うのだが、今日はその姿がない。

 あれ、とエルキュールが眉を寄せていると、赤縁眼鏡の女生徒が、周囲をきょろきょろと見渡しているのが目に入った。掲示板の裏まで覗き込む様子に、先頭を歩くシャーロックが足を止める。

「おはようございます、ミルホーンさん」

 何してるんですかー?とシャーロックが言葉を続けると、彼女はゆっくりと振り返った。

「おはよう、シェリンフォードさん」

 穏やかな口調で挨拶を返し、それから小さく首を傾げる。

「いえ、石流さんがいないな、と思って」

「確かに……いつもなら、この時間はここで掃除をしています……」

 エルキュールが同意すると、ネロは鞄を手にしたまま、頭の後ろで両腕を組んだ。

「今日は別の場所を掃除してるか、食器洗いがまだ終わってないんじゃないの?」

 たまに居ない時だってあるじゃん、と笑っている。

「それは貴方達がしょっちゅう遅刻しているからじゃないの?」

 赤縁眼鏡の女生徒は呆れたように肩を落とすと、コーデリアは小首を傾げた。

「んー、でも、遅刻した時間にもよるけれど、大体この辺りでは見かけているような……?」

 顎に人差し指をあて、思いだそうとするかのように頭上を仰いでいる。しかしすぐに赤縁眼鏡の女生徒に視線を戻すと、コーデリアは小さな笑みをこぼした。

「考えすぎじゃないの?」

 石流は学院内の雑用を一手に引き受けている。だからある程度行動時間帯は決まっていても、例外が生じることもある。

 赤縁眼鏡の女生徒はそれに思い至ったのか、コーデリアの言葉に苦笑を返した。

「眼鏡のフレームを新しくしたから、石流さんに見て欲しかったんだけどな」

「あら、それなら朝食の時に見て貰えば良かったじゃない」

 コーデリアが柔らかな眼差しを向けると、女生徒は僅かに眉を寄せた。

「だって……何だかいつもより怖い顔になってて、忙しそうだったから」

 はぁ、と小さな溜め息を吐くと、小さく肩を落とした。

「じゃぁグラウカさん、シェリンフォードさんに譲崎さんにバートンさんも、また教室でね」

 今日は遅刻しないでね、と釘を差して、彼女は小走りに校舎へと駆け出した。その後ろ姿を見つめながら、ミルキィホームズも校舎へと向かっていく。

 ネロは両手を後ろ手に組み、後ろ向きに歩きながらコーデリアへと顔を向けた。

「もしかしてさぁ、委員長って、石流さんが好きだったりするの?」

 まさかねぇ、と眉を強く寄せるネロに、コーデリアは大きく頷いた。

「そうよ、結構有名だと思ったけど。知らなかった?」

「えー、そうなんですかー?」

 コーデリアが頷くと、シャーロックは目を丸くした。エルキュールは大きな瞳を瞬かせ、視線を足下へと落としている。一方でネロは、呆れたように顔をしかめた。

「うっわぁ、趣味悪いなー。っていうか見る目なくない?」

「そんな事は……ないと思います……」

 明け透けな感想を漏らすネロに、エルキュールが小声で反論した。

「私達には特に厳しいですけど……他の生徒には基本優しいですし……」

「だからミルホーンさん以外にも、ラブレターを送ったっていう女の子、結構いるみたいよ?」

 全部断られているみたいだけど、と話すコーデリアに、ネロは「うわぁ……」と肩をすくめた。そして身体を反転させ、正面へとくるりと向き直った。

「でもさ、なんでコーデリアがそういう事に詳しいのさ?」

 ネロが小さく首を傾げると、コーデリアは自慢げに胸を反らせている。

「だって、ミルホーンさんに相談されたことがあるもの」

「へぇー、凄いですー」

 素直に感心するシャーロックとは対比的に、ネロは苦笑いを浮かべた。

「やっぱ委員長は人を見る目がないよ。よりによってコーデリアに相談するなんてさ」

「ちょっと、それどういう意味よ!」

 声を荒らげるコーデリアに、ネロは小さな笑い声を上げた。

「そういう意味だってば」

 そして振り上げられたコーデリアの腕から逃げるように、校舎に向けて一目散に駆け出した。

「ネーロー、待ちなさーいッ」

 その後を、目尻を釣り上げたコーデリアが追いかけていく。

 二人の様子に苦笑しつつ、エルキュールはシャーロックと並んで歩いていたが、不意に足を止めた。

 赤縁眼鏡のクラスメイトの「何だかいつもより怖い顔になってて」という言葉が、妙に気にかかってくる。

「どうしたんですか、エリーさん?」

 急に立ち止まったエルキュールを、シャーロックは不思議そうに振り返った。エルキュールは曖昧に言葉を返し、目を伏せる。

 人が怖い表情になるのはどういう状況か、先日読んだ小説の中で主人公が色々と語っていた。まずは、怒っている時。それから正気を無くした時や、良からぬ企みをしている時。そしてーー何かに耐えている時。

 そのシーンを思い出すと同時に、いつもより白いと感じた石流の横顔が、エルキュールの脳裏に甦った。

 気のせいだったらそれでいいが、もしそうでなかったら。

「あの、先に教室に行ってて下さい……」

「え?」

 エルキュールは意を決したように顔をあげた。

 予鈴がなるまで、まだ若干余裕がある。

「すぐ戻りますから……っ」

 そう言い残し、きびすを返す。元来た道を逆走し、エルキュールは食堂へと向かった。

 校舎と繋がっている渡り廊下側から入ると、食堂はがらんと静まり返っている。人が動いている気配はなく、食器洗い機の音が、厨房から低く響いていた。

 各テーブルの上には、汚れたままの白いテーブルクロスが敷かれたままになっている。そして、床掃除がされた形跡もない。

 変だな、とエルキュールは感じた。いつもなら食事後すぐに床掃除が行われ、テーブルクロスが替えられている。

 余程急ぎの用事がなければ、石流がそのままにしておくはずがない。

 エルキュールは不安な眼差しで、人影のない食堂を見渡した。カウンターから厨房を覗き込むが、厨房奥に設置された食器洗い機が小刻みに振動しているだけで、石流の姿はどこにもない。

 銀色の箱のような形をした大きな食器洗い機の前には、鼠色のプラスティック製の器具に汚れた皿が綺麗に並べられていた。おそらく次に洗う分だろう。

 食器洗いの最中に席を外しているのか、石流の姿は食堂のどこにも見当たらない。

 やっぱり気のせいだったのかな……とカウンターから離れかけて、エルキュールは視界の片隅に入った白い布に目を留めた。

 厨房と食堂を繋ぐ扉近くの床に、石流が食堂で被っている白いコック帽が落ちていた。カウンターからは冷蔵庫や棚の影になって死角になっているが、丸みを帯びた帽子の端が僅かに覗いている。

 何故あんなところに落ちているのだろうと不審に感じたエルキュールは、足音を潜めてその扉へと静かに回った。

 観音開きの大きな扉をそっと手前に開くと、棚に隠れるようにして石流がうずくまっている。体育座りのように両膝を曲げ、壁にもたれ掛かるように頭を寄せていた。目は閉じられているが、肩が大きく上下し、荒い呼吸を漏らしている。

「石流さん……?!」

 エルキュールが駆け寄ると、彼は薄く瞼を開いた。

「エルキュール・バートン……?」

 戸惑いと驚きで向けられた瞳は、焦点が合っていなかった。まるで酔っぱらっているかのように、頬に赤みが差している。その頬を、汗が一筋流れ落ちた。

「何故、ここに……」

 石流は上半身を起こすと、背後の壁に背を預けた。

 口調はしっかりしているものの、切れ長の眼差しからはいつもの鋭さが消えている。

 少しばかり躊躇した後、エルキュールは石流の傍らに膝を付いた。そして彼の額に指先を伸ばす。触れてみると予想以上に熱く、思わず指を離した。しかしすぐに指先を滑らせるようにして掌で額を覆うと、かなりの熱を感じる。

「ひどい熱です……!」

「大したことではない。少し休んでいれば治る」

 石流はエルキュールの手を払うと、後ろ手で壁に手を突き、背を寄せて腰を上げた。しかしすぐに、壁にもたれ掛かったままずるずると滑り落ちていく。

「で、でも……ッ」

「もうすぐ予鈴が鳴るはずだ。お前は、早く授業に戻れ」

 再び腰を下ろし、壁に背を預けた格好で目を閉じる石流に、エルキュールは慌てた。

 まずは、教師か保険医を呼んでくるべきだろう。しかし職員室も医務室も、食堂からは遠く離れていた。それに呼んできても、そこから再び医務室に運ぶとなると二度手間になってしまう。

 それなら自分が直接医務室に担いだ方が早いと考え、エルキュールは手にした鞄を脇に置いて、揃えられた石流の両膝の下に左腕を差し入れた。そして右腕を彼の背中に回し、両足に力を込めてぐっと持ち上げた。

 石流の体格からかなりの重量を覚悟していたが、吃驚する程に軽い。 

 腕の中で、石流はぐったりとしていた。苦しそうに胸を上下させ、抵抗もしなければ、瞼を開けようともしない。

 エルキュールは石流を揺らさないよう気を付けながら、医務室へと走った。渡り廊下を過ぎ、途中で誰かに呼び止められたような気がしたが、一目散に廊下を急ぐ。

 そして目的地に辿り着くと、扉を肩で押し開いたーーつもりだったが、扉は戸口からぱかっと外れ、甲高い音を響かせながら、部屋の内側に向かって倒れた。

 医務室の中では、正面に位置する事務机に腰掛けた赤毛の女医が、コーヒーカップを口元に運んだ姿勢のまま、入り口に立つ彼女をぽかんと見つめている。

「エルキュール・バートンさん?」

 女医はコーヒーカップを机上に置いて椅子から腰を上げると、彼女と彼女の腕に抱かれた石流を見比べ、目を見開いた。

「貴方、トイズが戻ったの……?」

 しかしその言葉に構わず、エルキュールは外れた扉を避けて医務室へと足を踏み入れ、女医へと駆け寄った。

「先生、石流さんが……ッ」

 腕の中の石流を見せるように、女医に詰め寄る。

「あの、登校時間にいつもの場所に居なくて、おかしいなって思って食堂を見に行ったら床に座り込んでいて、それで熱が酷くて……っ」

 小声でまくし立てるエルキュールに、女医は目をしばたたかせた。しかしすぐに我に返り、エルキュールの頭を軽く撫でる。

「落ち着きなさい、バートンさん」

 そして白衣を翻すと、部屋の奥に並ぶ白いベッドを顎で指し示した。

「とりあえず、一番窓際のベッドに石流さんを」

「は、はい」

 その指示に従って、エルキュールは敷き布団だけ敷かれたベッドの上にそっと石流を横たえた。すると女医は、石流の腰の白エプロンと首元のスカーフを手早く外し、後頭部で結ばれた髪を解き始めた。

「あの、先生、何を……?!」

「何って……このままじゃ寝かせられないし、診察できないでしょう?」

 そして胸元のボタンを全て外し、上着をはだけさせると、白衣のポケットから聴診器を取り出した。

「エルキュールさんは、靴を脱がせて」

「は、はいっ」

 エルキュールは、石流の片足を軽く持ち上げると、長靴のような黒ブーツに手をかけ、そっと脱がせた。もう片方も同様に脱がせ、白い靴下を履いた長い脚を布団の上に戻した。脱がしたブーツをベッドの下に置き、この後どうすればいいのか狼狽えていると、棚にある体温計を持ってくるように女医から指示され、慌ててベッドから離れる。

 薬品の並ぶ棚の引き出しから電子体温計を取り出し、エルキュールがベッドの傍らに戻ってくると、女医は石流の胸元に聴診器をあてていた。

 石流は荒い呼吸を繰り返していたが、軽く眉を寄せるとうっすらと瞼を開いた。

「ここは……?」

「医務室です」

 女医の端的な答えに、石流はベッドに腕を突き、半身を捻って起きあがろうとした。

「まだ起きあがらない方がいいですよ」

 女医は背中を見せる石流の肩を押さえ、白い上着の隙間から背中へと聴診器を滑り込ませた。「大きく息を吸ってみて下さい」と幾つか指示を出しながら、聴診器を動かしていく。石流はぼうっとした面もちで素直に従っていたが、聴診器が背から離れると、ベッドの上に両手を突き、のろのろと上半身を起こした。そして膝を寄せてベッドから足を下ろそうとする。しかし女医はその動きを押し止めると、片手を伸ばして彼の顎を捉えた。

「バートンさん、石流さんの肩を支えて」

「あ、はい」

 言われるがまま、エルキュールは体温計を隣のベッドの上に置いて、石流の両肩に触れた。思っていたよりもコック服の手触りは柔らかい。

 倒れないように背後から支えると、女医は石流の顎を持ち上げ、「口を大きく開けて下さい」と指示した。石流が虚ろな眼差しでゆっくりと唇を開くと、女医は棒アイスを食べた後のような木製のへらを白衣の右ポケットから取り出し、透明な包装紙を破って、彼の舌の上に載せた。暫しその奥へと目を凝らしていたが、ゆっくりと抜く。そして破った包装紙と一緒に、白衣の左ポケットへと放り込んだ。

「はい、もういいですよ」

 女医の言葉に、石流はゆっくりと口を閉じた。うっすらと開かれた唇から、熱のこもった息を短く吐き出している。

 女医が石流の背に腕を回すのを見て、エルキュールは彼の肩から手を離した。石流は身じろぎ、「まだ仕事が」とうわ言のように漏らしたが、彼の身体はゆっくりとベッドに押し戻されていく。

 エルキュールは、隣のベッドに置いた電子体温計を再び手に取った。ケースから取り出して女医に差し出すと、女医は「ありがとう」と笑みを返し、石流の腕を持ち上げ、右脇に挟んだ。そして露わになった胸元や腹部に触れながら、「頭痛はありますか?」「ここを押さえると痛いですか?」「寒気はありますか?」といった質問を繰り出している。

 エルキュールは、ぽつぽつと答える石流に目を向けた。

 石流の長い黒髪が、白い枕に広がっている。

 髪を解いた彼を見るのは初めてだった。眉間に皺を寄せているものの、後頭部で髪をひとまとめにしている時よりも柔らかな印象を受ける。

 そのまま視線を落とすと、露わになった上半身が目に入った。胸元にはしっかりと筋肉が付いていて、肋骨の下は窪み、そこから腹部にかけてうっすらと縦に割れている。

 しょっちゅう肌を露出させる二十里と比べるとかなり筋肉質だったが、背後から抱きつけば両手首が交差できそうな程に腰が細かった。そこそこ厚い胸板を目にしても線が細い印象を受けるのは、そのせいなのだろう。

 二十里がモデル体型なら、石流はスポーツ選手のような肉付きだった。当然といえば当然だが、女の子の体つきとは全く違っている。エルキュールは、石流の上半身を触診する女医の手を目で追いながらしげしげとその身体を見つめていたが、やがて我に返った。

 真っ赤になりながら、露わになった上半身から顔を背けると、薄く瞳を開いた石流と目が合う。彼はそれでようやく彼女の存在に気付いたらしく、「何故、お前が」と不思議そうな声音をこぼした。

「バートンさんがここまで運んできてくれたんですよ」

 代わりに答えた女医に、石流は「どうやって」と言いたげに眉を寄せた。

「トイズが戻ったみたいですね」

「え?」

 言われて初めてエルキュールもその事実に気が付き、紅の瞳を見開いた。

 無我夢中だったが、冷静になって考えれば、トイズのない自分が体格差の大きな石流を担げるはずがない。

 エルキュールは、胸元まで持ち上げた自分の両の掌を見つめた。

「入り口の扉が綺麗に外されましたから、間違いないでしょうね」

 苦笑した女医に、エルキュールは縮こまった。恥ずかしさのあまり頬が熱くなり、両手で顔を覆い隠す。

「本当に、戻ったのか……?」

 石流の掠れた声に、エルキュールは僅かに顔を上げた。

 掌を少し下ろして顔を向けると、石流は熱で頬を上気させ、強く眉を寄せて見上げている。熱で潤んだような、それでいて心配そうにもみえる石流の視線に、エルキュールは頬から両手を離した。

 背後にあるベッドへと向き直り、端に手を掛ける。大きく息を吸い、吐き出した。そして持ち上げようとしてーー唸った。

「……あ、あれ?」

 ベッドはびくりとも動かない。懸命に腕を震わせるエルキュールに、女医は彼女の顔を横から覗き込み、首を捻った。

「あら?さっきは確かに目にトイズの光が宿っていたのだけれど」

 どうしてかしら、と腕を組む。

 そこに小さな電子音が鳴り響き、エルキュールはベッドの端から手を離した。振り返ると、女医が石流の右脇から体温計を取り出している。

 女医は表示された数字を確認すると、片眉をひそめた。

「我慢強いにも程があるでしょう」

 そして呆れた眼差しを石流へと落とした。

「これだけ熱があれば、かなり苦しいはずですが」

 石流は、無言で女医から顔を背けている。しかし、女医が「今日は一日、保健室で休んでもらいます」と宣言すると、両目を見開いて抗議した。

「確か注射なら、即効性の解熱剤があるはずです。それを頂ければ問題ありません」

 ベッドに肘を突き、再び半身を起こそうとする石流に、女医は冷ややかな笑みを浮かべた。

「よくご存じですねェ、石流さん」

 そしてベッドから浮かんだ石流の両肩を押さえ、押し戻そうとした。しかし石流は女医の手首を掴み、抵抗している。

「ドクターストップって言ってるのが分かんないかな……っ?!」

「かといって、ここで寝ているわけにはいかないと言っているッ」

 乱雑な口調へと変わり、険しい表情で睨み合う二人にエルキュールは狼狽えた。

「あ、あの……先生も、石流さんも止めて下さい……!」

 しかし均衡はすぐに崩れ、石流の肩がベッドへと沈んだ。小さな呻き声と共に、女医の手首から石流の指が滑り落ち、力が抜けたようにベッドへと投げ出される。

「……ッ」

 石流は強く瞼を閉じると、眉間に深い皺を寄せた。何かに耐えるように唇を真一文字に結び、目元を片手で押さえている。

「あの、先生……っ?!」

「大丈夫。この様子だと多分、目を回しているだけだから」

 女医は石流の両肩を軽く押さえた姿勢のまま、大きく息を吐き出した。

「バートンさん、冷蔵庫から冷えピタ持ってきてくれる?」

 エルキュールはベッドから離れ、薬品が並ぶ棚の横にある冷蔵庫へと足を向けた。一人暮らしで使うような小振りの冷蔵庫で、高さはエルキュールの胸元までしかない。

 上側にある縦長の扉を開くと、ペットボトルなどの私物に混じって、目的の物が一番上の棚で冷やされていた。箱からは取り出され、輪ゴムで一括りにされている。

 エルキュールはそこから一袋取り出すと、冷蔵庫の扉を閉めた。そして再びベッドの脇に戻って女医へと差し出したとき、大勢が駆けるような足音が耳に届いた。それらは医務室前でぱたぱたと止まり、「うわっ、何これ」と驚く男子生徒の声が響いている。

 エルキュールが医務室の入り口へと顔を向けると、部屋の入り口に倒れたままの扉を避けるように越えて、アンリエットが足を踏み入れていた。その背後では、根津たち男子生徒が、二十里海の指示に従って倒れた扉を持ち上げ、入り口に立てかけている。

「石流さんがエルキュールさんに運ばれたと聞いて来たのですが」

 アンリエットの後から二十里海と根津次郎が続き、さらに扉が外れた入り口からは、赤縁眼鏡の女生徒や他のクラスメイト達が心配そうな表情を浮かべ、ぼそぼそと囁きながら遠巻きに覗き込んでいる。

 その人混みから押し出されるように、シャーロックとネロ、そしてコーデリアが姿を見せた。

「あ、エリーさーん!」

「エリー、大丈夫?」

「石流さんをお姫様抱っこして運んでたって聞いたんだけど」

 口々に喋りながら医務室に足を踏み入れようとするが、入り口で二十里に押し止められた。

「君たちはこの先に入ってきちゃダーメ」

 病人がいるからね、と唇に人差し指を当てた二十里のジェスチャーに、ミルキィホームズだけでなく他のクラスメイトも慌てて口を噤んでいる。

 医務室奥に設置されたベッドに歩み寄ったアンリエットは、その傍らでおろおろと狼狽えるエルキュールを一瞥した。そして窓際のベッドに視線を移し、軽く眉をひそめた。

 ぐったたりと横になった石流の額には、女医が張り付けた冷えピタが載っている。だが、コック服のボタンは全て外され、上半身が剥き出しになっていた。そして露出した白い両肩を女医が押さえ、ベッドに押し倒している格好になっている。

「あの……これはどういう状況なのですか」

「すみません、ちょっと触診したばかりでしたので」

 しれっとした表情で女医が石流の肩から両手を離すと、石流はアンリエットの声と気配に、弾かれたように両目を見開いた。

「アンリエット様……?!」

「ご気分は如何ですか、石流さん」

 アンリエットの気遣う声音に、石流は慌てて身を起こそうとする。

「申し訳ございません……。すぐに仕事に戻りますので」

「だから、まだ起きあがらない方が良いと言っているでしょう」

 先ほどまでの乱暴な口調は形を潜め、女医は元の丁寧な口調に戻っていた。しかしその声音は厳しく、再び両腕で石流を押し止めている。

 その様子を眺めながら、根津はアンリエットの背後から回り込み、そっとエルキュールの傍らに近寄った。

「なぁなぁ、お前、トイズ戻ったの?」

 エルキュールが声を潜める根津へ顔を向けると、眉を軽く寄せた根津と目が合った。

「あの扉、お前のせいなんだろ?」

 指さす方へと視線を向けると、こちらを伺うクラスメイト達の背後に、立てかけられた扉があった。そして好奇心に満ちたクラスメイト達の視線が自分へと注がれている。

 エルキュールは赤面すると、慌てて顔を正面に戻し、両手で覆った。

「それが……その……一時的だったみたいで……」

 また消えたみたいです……と呟く。

 それを横目で伺いながら、アンリエットは女医に尋ねた。

「それで、先生。石流さんの容態は如何なのですか?」

「熱は高めですが、喉は腫れていませんし、インフルエンザではないと思います」

 女医は、石流のはだけた上着を整えながら説明を続けた。

「触診した感じだと腹部には異常は感じませんでしたし、呼吸器も正常でした」

 そしてアンリエットへと目をやると、軽く眉を寄せた。

「おそらく過労だと思われます」

 女医の下した診断に、アンリエットは大きく目を瞬かせた。

「過労……ですか?」

 信じられないと言いたげに、目を丸くしている。

「元々仕事量が大変なのはあるでしょうが、最近、かなり忙しかったのでは?それに、あまり眠れていないようにも見受けられますが」

 睡眠不足による過労と結論付けた女医に、アンリエットは石流へと目を落とした。

「心当たりはありますか、石流さん」

 柳眉を寄せたアンリエットに、石流は気まずそうに顔を背けている。その様子に、アンリエットは軽い溜め息を漏らした。

「あるのですね?」

 アンリエットが問いつめると、石流は観念したようにゆっくりと唇を開いた。

「その、二十里先生に……駄目だとは分かっているのですが、つい、続きをせがんでしまいまして」

 ぽつぽつと紡がれた石流の言葉の中に自分の名が出てきて、アンリエット達とは反対側の枕元から石流を覗き込んでいた二十里は、垂れ目がちの瞳を見開いた。

「それで、寝不足のまま朝を迎える事が、少々……」

「えっ、もしかして、アレの事かい?」

 石流の頬が赤いのは、熱のせいだけではなく羞恥も混じっているのだろう。強く眉を寄せ、目を伏せて押し黙っている。

 二十里はアンリエットに鋭い眼差しを向けられると、軽く肩をすくめた。その様子を眺めていた根津は、隣のエルキュールへ顔を向け、不思議そうに首を傾げている。

「どうしたんだ?お前、すっごく顔が赤いぞ?」

「な、なんでもないです……」

 耳元まで真っ赤にしながら両手で頬を押さえ、顔を伏せているエルキュールを一瞥すると、女医は二十里へと顔を向けた。

「もしかして職員室で流行中のアレ、今は石流さんの所にまで回っているんですか」

「おや、ドクターもご存じで?」

 二十里が目を輝かせて唇の端を持ち上げると、女医は小さく頷いた。

「私の学生時代にもクラスで流行った事がありますし。ものすごく長いですからね、アレ」

 気が付いたら朝になってた事があります、と女医は笑った。そして小さく咳払いすると、アンリエットへと向き直った。

「今年は残暑も厳しかったですし、日頃の疲れも溜まっていたんじゃないですか?そこにここ数日の寝不足が引き金になって、発熱したのではないかと」

 このまま今日一日休んでいれば夕方には熱も下がるでしょうと、女医は語った。

「とりあえずブドウ糖の点滴もしておきますから」

「しかし、それでは……」

 なおも食い下がる石流に、女医はアンリエットを見やった。その視線の意味に気付いたアンリエットが、小さく息を吐く。

「これは命令です。今日は一日、医務室で休むように」

 心配と呆れが半々に混じったかのようなアンリエットの眼差しに、石流もついに諦めたようだった。

「……申し訳ありません」

 うなだれる石流に軽く吐息を漏らすと、アンリエットはエルキュールに微笑を向け、それから医務室の入り口へと向き直った。

「エルキュールさん、それに他の皆さんも、もう教室に戻って頂いて結構です。一限目は自習にします」

 そして根津の方を向き、石流の部屋から着替えを持ってくるようにと指示した。

「それは別にいいけど……何で自習?」

 根津が首を傾げると、アンリエットは唇の端を大きく持ち上げた。

「一限目は二十里先生の授業でしょう?ですが、二十里先生には少々お話がありますので」

「ふーん?」

 根津は納得したような、しきってないような曖昧な表情を浮かべている。一方で、アンリエットはにこやかな笑みを湛えているが、目は笑っていない。

 エルキュールは不穏なものを感じながらも、再び石流へと目を向けた。彼は顔をアンリエットから背け、うなだれた表情で大きく息を吐き出している。

 が、熱で潤んだ瞳が、不意にエルキュールを捉えた。

 暫し無言で見つめ合う。

「……どうやら借りを作ったようだな」

「いえ、その……」

 戸惑いが含まれた低い声音に、エルキュールは口ごもった。

 こういう時、どう返せばいいのか分からない。

 真っ直ぐに自分を見つめ返す琥珀の瞳に、エルキュールは反射的に目をそらせた。

 

 

***

 

 

「さて、二十里先生。……説明して頂きましょうか?」

 二十里と連れ立って生徒会長室に戻ると、アンリエットは事務机に腰を下ろし、深い溜め息を吐いた。

「ボクは別に何もしてまセーン!」

 二十里は瞳を潤ませ、身を乗り出している。

 アンリエットは机に両手を置き、二十里を見上げた。

「ですが、石流さんがここ数日寝不足なのは貴方のせいなのでしょう?」

「まぁ、その。あんなに積極的に強請る石流君は初めてだったから、つい……」

 二十里はしおらしく目を伏せると、きりっとした表情で顔を上げた。

「だってェ、まさか貸した本を朝までずっと読んでるなんて思わないじゃないですかぁ!」

 ボクのせいじゃなーいと身をくねらせる二十里に、アンリエットは小さく溜め息を吐いた。

「いつからです?」

「ええっと……五日くらい前?」

 二十里は軽く首を傾げ、指を折って数えた。

「プロファイリングの先生からの借り物でしたけど、石流君が読んだことないって言うものだから、勿体ないと思いまして」

 珍しく石流君も興味を持ってたし……と二十里は言葉を続けている。

「やはり貴方のせいではないですか」

 アンリエットは再び溜め息を吐いた。

 ちょうど一週間前に、二日前に盗んだ美術品の予告状を出していた。その為の下見や準備を、石流はいつも通りに手分けしてこなし、潜入時も無駄のない動きで警察を返り討ちにしていたが、その時の彼に不審な様子はなかった。

 だが女医の診断によると、この熱ならば数日前から体調を崩していてもおかしくないという。

 アンリエットは、細い眉を大きく寄せた。

「ちなみに何の本です?」

「ガ×スの仮面でェっす」

 アンリエット様も読まれます?と懐から単行本を取り出した二十里に、アンリエットはにっこりと笑みを返しーー紫水晶のような瞳を大きく煌めかせた。

 

 

***

 

 

 視線の先には、正方形の電灯と木目の天井がぼんやりと浮かんでいた。

 白い靄に包まれているように朧気だが、畳の上に敷かれた布団に横になっているのが分かる。

 首を巡らせると、天井にまで届く大きな本棚が目に入った。その横には椅子が僅かに引かれた勉強机がある。その上にある窓には白いレースのカーテンが引かれていたが、僅かにガラス戸が開いていて、カーテンがひらひらと小さく揺れていた。

 額にから湿ったタオルが滑り落ち、眼前を覆い隠す。彼は横になったまま腕を上げた。指先でタオルを拾い、再び真上を向いた自分の額の上に載せる。

 夢を見ているのだと、彼は思った。

 これは実家にある彼の自室で、今住んでいる場所ではない。昔あった出来事を、脳内で反芻しているのだろう。

 しかし、頭の中には鈍い痛みが幕のように広がっていた。額が割れるようで、むしろ割った方が楽になるのではないかと思えてくる。

 襖の向こうには廊下があって、その先には下へと降りる階段があった。耳を澄ますと、ぱたぱたと誰か大勢が歩くような音が耳に入ってくる。

 あの襖の向こう、階段の下には大勢の人がいるのに、部屋の中には自分一人だけが取り残されている。

 頭痛の苦しさだけでなく、ただ無性に寂しいという感情が重なり合って、気付いた時には、目からはらはらと涙がこぼれていた。

 両の目尻から枕元へと静かに流れ落ちていく。

 声は出そうと思えば出せたが、出してはいけないと、彼は唇を噛みしめた。

 迷惑が掛かるから。困らせたくないから。みっともないと思われたくないから。

 理由はいくらでも思い浮かんだが、それでも胸の内に沸いた感情を押し留めることができない。

 涙が流れ落ちるままに任せて瞳を閉じると、木製の階段をリズミカルに昇ってくる音が微かに耳に入った。誰かが来る気配に、彼は掛け布団の裾で慌てて目元を拭った。

 足音は部屋の前でぴたりと止まると、すっと襖が開かれた。瞼を開けてそちらへと目を向けると、桶を手にした細い人影があった。逆光になって顔は見えなかったが、その人影が誰なのか、彼には一目で分かった。

 人影は音もなく彼の枕元へ近寄ると、手にした桶を置いて、両膝を揃えて腰を下ろした。

「辛いなら、呼んでくれて良かったのに」

 柔らかな声が、呆れたように吐息を漏らしている。

 唇の両端が小さく持ち上げられるのに目を留めて、彼は無言で目を伏せた。

 柔らかな手が彼の額に伸ばされ、その上にあるタオルをそっと拾い上げると、彼の目元を撫でるように拭った。そしてそれが離れると、桶の中からぱしゃぱしゃと水が跳ねる音が微かに耳に届く。

 彼は荒い呼吸の下で、小声で反論した。

 ーーだって、俺はーーだから……。

 すると人影はさらに呆れたようで、小さく笑うと、彼の頬を指先で軽く小突いた。

「そういう所はどっちに似たのかしらねぇ……」

 そして濡らしたタオルを、彼の額にそっと乗せた。水で十分に冷えたタオルが心地よく、彼はほうっと吐息を漏らす。

「こういう時くらい甘えなさい」

 ね?と小首を傾げる仕草に、彼は素直に頷いた。

 安心したせいか視界がぼやけ、再び目元から涙がこぼれ落ちる。人影は苦笑を漏らすと、額のタオルで目尻の涙を拭って、額を包み込むように掌を宛てた。

「良かった……朝より大分下がってきてる」

 熱に浮かされた額には、ひんやりとした柔らかな感触が心地良い。しかしその手が額から離れる気配に、彼は思わず自分の右手を持ち上げ、自分の額に押しつけるように、その掌の上に自分の手を重ねた。

 ーー待って。

 掠れた声に、人影は驚いたようにびくりと肩を震わせた。

 ーーもう少しだけ。

 縋るように見上げ、掌に力を込める。

 ーーもう少しだけでいいから、側に居て下さい。

 素直な感情を言葉に乗せると、人影は小さく頷いた。

 額に触れる小さな掌は、彼の額と掌に挟まれたままじっとしている。離れていく気配がない事に安堵した彼は、自分の手を重ねたままの姿勢で、僅かに首を動かした。

 逆光になってよく見えないが、人影はじっとこちらを見下ろしている。

 彼は穏やかな笑みを返した。

 そして睡魔に誘われるまま、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

***

 

 

 エルキュールは混乱していた。

 きょろきょろと周囲を見渡すが、石流が横になっている窓際のベッド以外は全て空いており、医務室の主は未だ戻ってくる様子がない。

 エルキュールはどぎまぎしながら、正面の石流へと目を戻した。

 穏やかに胸を上下させる石流の右腕には点滴の針が刺さり、細い管が伸びていた。その先はぶら下げられた透明なナイロン製の袋に繋がっており、袋の下にあるプラスティック製の小さな筒に、ぽたぽたと透明な液体が落ちている。

 石流の瞼は深く閉じられていたが、穏やかな笑みを浮かべていた。いつも気難しそうな面もちの彼にしては珍しく目尻が緩められ、唇は軽く持ち上げられている。

 喜色が強く浮き出た笑みを向けられ、エルキュールは意味もなく緊張した。頬が上気し、自分の鼓動が早鐘のように鳴っているのが分かる。

 落ち着こうと、エルキュールは深く息を吸った。そしてゆっくりと吐き出していく。

 唇を結んで、エルキュールは石流の額へと目をやった。

 そこには新しい冷えピタが貼られていて、その上に自分の右手が載っていた。そしてそれを押さえるように、石流の左手が重ねられている。

 自分の掌に触れる大人の男の掌の感触と重み、そして初めて見せる表情に、エルキュールは自分の頬がさらに熱くなるのを感じた。

 誰かに見られたらどうしようという焦りと、もう少しだけこのままでいたいという相反した感情が、胸の奥で複雑に入り乱れている。

 掌に触れる感触は軽かった。だからゆっくりと動かせば、目を覚まさせることなく自分の手を引き抜くことが出きるだろう。

 しかし、安堵しきった笑みを浮かべる彼の顔を見ていると、ほんの僅かな間に見せた、彼の縋るような眼差しと声音が思い出された。

 

 ーーもう少しだけでいいから、側に居て下さい。

 

 あれは誰に言ったのだろう。

 エルキュールは、眠り続ける石流の顔を見つめた。

 ほんの一時だけ薄く開かれた瞳は、どこか遠くを見つめているかのように、焦点が合っていなかった。だから寝ぼけていたのだろうと思う。だがその目尻からこぼれた涙と初めて聞く柔らかな声音に、エルキュールは戸惑いながらも反射的に頷いてしまった。

 どうして……と自問自答しても、答えは出てこない。

 結局、エルキュールは石流の額に手を置いたまま、枕元に立ち続けている。

 エルキュールは、石流の額の上に載せた自分の掌を見つめた。

 エルキュールにとって石流漱石は、「いつもお世話になっている人」であり「怖くて厳しい人」だった。そして「たまに優しい人」でもある。

 ミルキィホームズがトイズで次々と事件を解決していた頃でも、彼女たちが好き嫌いで食事を残したり、マナーが悪かったりすれば、容赦なく石流に睨まれた。だがそれは他の生徒も変わりないし、一部の大人達のように、感情の赴くまま理不尽に怒られたことはない。

 トイズを無くしてダメダメになってからは態度が一変した生徒や教師が多い中、彼の態度はある意味一貫して変わらなかった。

 それに、決して厳しいだけではない。

 風邪を引いた時は食事を芋からお粥に変えてくれたし、氷も分けてくれた。エルキュールが他のクラスの生徒達に嫌がらせを受けた現場に偶然遭遇した時は、相手を一喝して庇ってくれたこともある。

 相手が立ち去った後、人の気配がない校舎裏で二人きりになると、石流が低い声をこぼした。

「誰もが望んでトイズを持つわけではないし、自らが望むトイズを持つわけでもない」

 まるで自分の事を言われているようで、エルキュールが顔を上げると、石流は箒を持ったまま、黄金色から紅に染まりつつある空へ目を向けていた。

「どう折り合いをつけ、使いこなすかは自分次第だ」

 僅かに眉を寄せた横顔に、煌めく夕日が反射している。

 石流は、切れ長の目をエルキュールへと向けた。

「だからこそ、お前はここにいるのではないのか」

 淡々と告げられた言葉に、エルキュールは目を見開いた。彼の指摘は、ただ彼女の過去を見抜いているだけでなく、実感を伴っているようにも感じられる。

 エルキュールは、自分を見下ろす琥珀の瞳を見返した。

 金色の夕日を受けた瞳は、赤く染まった背後の空と重なりあって、宵の明星を連想させる。

 いつもは怖いと感じる眼差しが、この時だけは何故か違って見えた。吸い込まれるようにエルキュールが見つめていると、石流は目をそらし、帽子を目深に被り直した。そして無言で背を向け、振り返ることなくそのまま立ち去った。

 励まされたのではないかと気付いたのは、その後ろ姿が視界から消えた後だった。

 顔にも態度にも出ないから分かりにくいが、根は優しい人なのだろう。淡々と告げられた言葉から、エルキュールはそう感じた。

 だから女生徒に人気があるという話を聞いても、そうだろうな……と密かに納得した。

 赤縁眼鏡のクラス委員長をはじめとして、何人かの女生徒が放課後に石流に会いに食堂に通っていたり、ラブレターを送ったという話を耳にしても、その行動力が羨ましいと思うくらいで、自分には関わりのない、どこか遠くの出来事のように思える。

 エルキュールは、戸惑いながら石流へと視線を移した。

 指先でそっと石流の黒髪に触れ、軽く持ち上げると、指先からさらさらと滑り落ちていく。 

 エルキュールは小さく溜め息を吐いた。

 読んだことのある恋愛小説の主人公と比べてみても、自分が抱く感情と、恋に落ちたヒロインの感情は合致してこない。

 エルキュールは、再び息を吐き出した。

 医務室の入り口には、壊れた扉の代わりに紺色の長い暖簾が下げられていた。そして入り口から隠すように、ベッド前には白のカーテンが引かれている。

 時折、その廊下を過ぎる足音が響いたが、立ち止まる気配はない。

 エルキュールは、再び石流の顔を見つめた。

 目が合うとすぐに自分から顔を伏せてしまうせいもあって、こうして彼の顔を間近で見つめるのは初めてだった。食堂以外では常に帽子を目深に被っているから分かりにくいが、思っていたよりもまつげが長い。

 目尻から流れ落ちた水滴に目を留め、エルキュールは、スカートのポケットからハンカチを取り出した。軽く身を屈め、流れ落ちた跡をそっと拭き取る。

 エルキュールの長い黒髪が、石流の頬に掛かった。

 瞼が小さく揺れたが、目を覚ます様子はない。

 よく見ると、瞼の下で眼球が微かに動いているようだった。こういう時、人は夢を見ているのだと何かの小説の主人公がパートナーに語っていた。

 では彼は、どんな夢を見ているのだろう。

 エルキュールが目尻からそっとハンカチを離すと、石流の頬から滑り落ちたエルキュールの黒髪が、石流の黒髪と重なった。

「石流さん……」

 そっと彼の名を囁く。

 窓からの陽射しに反射して、二つの黒髪が小さく煌めいていた。同じ黒髪でも、質感や色合いが全く違うのだと今更ながらに気付く。

「石流さん……」

 エルキュールは石流の顔を覗き込んだまま、再び蚊の鳴くような小声で彼の名を呼んだ。しかし、彼は一向に目覚める気配はない。

 その様子にエルキュールは安堵し、ごくりと唾を飲み込んだ。

「そ、漱石さん……」

 普段なら決して呼ばない下の名前を口に出した。

 声は上擦り、唇は震えている。

「漱石さん……」

 もう一度、吐息を漏らすように囁いた。

 彼が浮かべている表情が、まるで自分にだけ微笑みかけているかのように錯覚して、意味もなく頬が熱くなる。

 再び唇を開きかけた時、不意にカーテンが開かれる音がして、柔らかな声が投げかけられた。

「エルキュールさん?」

「ひゃッ」

 エルキュールは息を呑んだ。反射的に顔を上げると、反対側の枕元にアンリエットが顔を覗かせている。

「珍しいですわね、貴方一人だなんて」

 そっとカーテンを閉じながら石流を見下ろすと、上半身を屈めて石流を覗き込むエルキュールと、石流の額に置かれた彼女の掌、そしてそれに重ねられた彼の手と表情に気付き、アンリエットは目をしばたたかせた。

「あ、あの、違うんです……っ」

 エルキュールは慌てて半身を起こすと、彼の額に手を載せたまま、真っ赤になりながら小声で弁明した。 

「あ、あの、新しい冷えピタに貼り替えたら、石流さんがちょっとだけ目を覚まして……、で、でも、誰かと間違えたみたいで……っ」

 あわあわとハンカチを掴んだ手を振り、他意がないことを主張する。

 しかし、石流の名前を呼んでいるのを聞かれたかもしれないという疑惑は、彼女をパニックに陥れた。

 そもそも何故あんな事をしてしまったのか、我に返った今でもよく分からない。

「ど、ど、どうしましょう……?」

 涙目で訴えるエルキュールに、アンリエットは苦笑を浮かべた。

「別にそのままで構いませんよ」

「はぅぅ……」

 赤面したまま唸るエルキュールを横目に、アンリエットは近くの椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろしている。

「エルキュールさんも、石流さんみたいに顔が赤いですわよ」

 アンリエットは、口元に小さな笑みを浮かべた。

「まるで熱がうつったみたいですね、ふふ」

 そう微笑する彼女からは、不審がったり咎めたりするような様子は微塵も感じられない。

 穏やかな笑みを浮かべるアンリエットに、動転したエルキュールも徐々に冷静さを取り戻した。何度か深呼吸を繰り返すと、高ぶった心地も落ち着いてくる。

 エルキュールが手にしたハンカチをポケットに仕舞うと、アンリエットが口を開いた。

「先生は?」

「その、昼食を買いに出かけられて……」

 エルキュールは、眉を八の字に寄せた。

「それでその間、石流さんを見張っていて欲しいと……」

「見張り、ですか」

 アンリエットは苦笑した。

 運び込まれた当初ならともかく、アンリエットに命令された以上、流石にもう脱走して仕事に戻ろうとはしないだろう。

 エルキュールも、アンリエットに釣られたように笑みを浮かべた。

「なんだか気持ちよさそうですわね」

 アンリエットは、穏やかな笑みを浮かべる石流を見つめている。

「多分……アンリエットさんと間違えたんだと思います……」

「私ですか?」

 エルキュールが、一瞬だけ目を覚ました時の石流の様子を話すと、アンリエットは目を瞬かせた。

 しかしすぐに、小さく首を横に振る。

「違うと思いますよ」

 その返答に、エルキュールは思わずアンリエットの顔を見返した。

 石流が温かな眼差しと笑みを向けるのは、この学院ではアンリエットだけだった。それなのに、違うと断言できるのは何故だろう。

 エルキュールの視線に気付くと、アンリエットは柳眉を僅かに寄せ、唇の端を小さく持ち上げた。

「石流さんのこんな表情、初めて見ますから」

 アンリエットは片手を伸ばすと、人差し指だけを伸ばして、石流の頬を軽くつついた。

「私の前では、こんな弱々しい顔には絶対になりませんからね」

 ふふ、と小さく笑って、アンリエットは石流の頬に触れている。目を覚ますのではないかと思ったが、口を挟むのもはばかられ、エルキュールは無言で見つめた。

 もしかしてーー怒っているのだろうか。

 しかし、石流が体調を崩した事に怒っているとは思えない。だとしたら、何にだろう。

 エルキュールが眉を寄せて思案していると、アンリエットは石流の頬を人差し指で軽く押したまま、微笑を浮かべた。

「石流さんは、自分には特に厳しい人ですから」

 そして、穏やかな眼差しを向ける。

「どのような夢を見ているのでしょうね……」

 その視線に一抹の寂しさを感じて、エルキュールは石流へと目を向けた。彼は未だに目を覚ます様子もなく、昏々と眠り続けている。

「あの……石流さんは、学院に来る前はどちらに?」

「さぁ……。そういえば、自分の事はあまり話さない人ですわね」

 エルキュールが遠慮がちに尋ねると、アンリエットは軽く吐息を漏らした。

「日本だけでなく、香港や北京、シンガポールなど色々回っていたそうですよ」

「そうなんですか……」

 断片的な情報だったが、エルキュールは小さく頷いた。

 海外を回っていたという話は意外だったが、だからこそ色々と美味しい料理が作れるのかな、とも思う。もしかしたら、そういった各地のホテルの厨房で働いていたのかもしれない。

「そろそろ予鈴が鳴りますね」

 アンリエットは石流をつつくのを止め、エルキュールへと顔を上げた。

「あとは私が見ていますから、もう教室に戻っても大丈夫ですよ」

「あ、はい……」

 エルキュールは、石流の額から自分の手を離そうと、上に載った彼の手を片手でそっと触れた。それはあっさりと持ち上がり、自分の手をするりと引き抜く。

 石流の手に両手で触れ、そのまま額に置くか、掛け布団の中に戻すかエルキュールが躊躇っていると、アンリエットは小さな笑みをこぼした。

「それとも、もう少しここに居ますか?」

「い、いえ、その……っ」

 エルキュールは赤面して首を横に振った。

 起こさないように石流の手をそろそろと身体の横に伸ばし、掛け布団の上に置いた。そして足音を立てないようにベッドの脇から離れ、そっとカーテンを開ける。

「失礼します……っ」

 なるべく音を立てないようにカーテンを閉めると、壊れた扉の代わりに吊された、紺の暖簾を潜った。

 廊下を数歩進み、足を止める。

 頬に両手を当てると、指先に熱い肌が触れた。

 ーーそんなに名残惜しそうな顔をしていたのだろうか。

 エルキュールはぷるぷると大きく首を振ると、顔を赤くしたまま、教室へ向かって駆けだした。

 

 

 

 ぱたぱたと小さな足音を響かせて、エルキュールが駆け去っていく。

 アンリエットは小さく吐息を漏らした。

 軽く眉を寄せて瞼を閉じ、先ほど耳にした微かな声音を思い出す。

 エルキュールが、詩を口ずさむように石流の名前を呼んでいた。

 しかも名字ではなく、下の名を。

 もしかすると、彼女は石流に特別な感情を抱きつつあるのかもしれない。だがあの様子では、まだ自覚していない可能性が高いだろう。

 アンリエットは瞼を開くと、石流へと視線を移した。

 料理、掃除、洗濯を完璧にこなせて、性格も容姿も悪くない。だから女生徒に人気が出るのは最もなのだが、想定外の状況に陥りつつある。

 アンリエットは、再び小さな溜め息を漏らした。

 彼が意図してやっているのならば、まだマシだった。ところが彼の言動を省みるに、何故自分が女生徒に囲まれるのかよく分かっていない節がある。

「朴念仁にも程がありますわ……」

 アンリエットは、静かな吐息を立てる石流を見つめた。

 常に彼が自分に向ける笑みとは異なり、まるで子供が安堵したような表情を浮かべている。

 アンリエットは手を伸ばし、石流の艶やかな黒髪に触れた。指先を絡めると、肩先まで伸びた長めの黒髪が滑り落ちていく。

「貴方のそういう真面目なところは、高く評価しているのですけどね……」

 そのまま人差し指だけを伸ばし、すべすべした頬を軽くつついていると、昼休みの終了を告げる甲高い鐘の音が響いた。その音に石流の眉が軽く寄せられ、瞼が小さく動く。

 アンリエットが慌てて手を戻すと、石流の瞼がゆっくりと開かれた。数度瞬きし、琥珀の瞳がアンリエットを捉えると、驚いたように見開かれる。

「……アンリエット様?」

 反射的に身体を起こそうとする石流を制し、アンリエットは微笑を返した。

「大分顔色も良くなりましたね」

「あの……ずっとこちらに?」

 申し訳なさそうに眉を寄せる石流に、アンリエットは軽く首を振った。

「いえ、私はつい先程、様子を見に来た来たばかりです」

 そう返すと、石流は「そうでしたか」とほっと息を吐いた。アンリエットに余計な負担を掛けまいと懸念しているらしい。

 そういう配慮はできるのに、何故自分の事に関しては鈍感なのか。

 アンリエットは、小さく息を吐いた。そして僅かの間躊躇った後、エルキュールが側に居た事実を告げた。

「エルキュール・バートンが、ですか……?」

 アンリエットの言葉に、石流は眉間に皺を寄せた。

「何故……?」

 心当たりがなさげに訝しむ石流に、アンリエットは内心呆れた。これが他の生徒ならば「心配を掛けた」と感じるのだろうが、彼女に関しては、そういう方面へ意識が回らないらしい。

 眼中にないと言えば聞こえはいいが、いわば敵である探偵として、ライバルとして強く意識しているということなのだろう。むしろ、そういう意味でしか意識していないのかもしれない。

「貴方の様子が気になったのではないですか?」

 倒れた貴方を見つけたのは彼女ですからね、とアンリエットが言葉を続けると、石流はさらに困惑したような面もちを浮かべた。

 おそらく彼は、エルキュールが自分達の正体を知らないということを完全に失念している。だから何故彼女が石流の異変に真っ先に気付いたのかも、そして彼女が抱きつつある感情にも思い至らないのだろう。

 アンリエットは、口元に微笑を浮かべた。

「そういえば、エルキュールさんが居た時に、一瞬だけ貴方が目を覚ましたそうですが、覚えていますか?」

「いえ……」

 エルキュールに向かって言ったという言葉や、石流が夢うつつの中で取ったという行動は伏せて口にすると、石流は思案するように目を伏せていたが、やがて低い声で呟いた。

「ですが、妙に触感のあるような夢を見ていたような気もします」

「どんな夢だったのですか」

 好奇心に駆られてアンリエットが尋ねると、石流は口ごもった。

「その……子供の頃の夢です」

 僅かに視線を揺らし、躊躇いながらもぽつぽつと口にする。

「子供の頃、今回のように熱を出して寝込んだ事がありまして、その時の事を夢で見ていました」

 思い出したというべきでしょうか、と石流は目を細めた。

 その言葉に思い当たる事があって、アンリエットは口元を緩めた。

「その夢の中に、誰か出てきたのですか?」

「……はい。とても懐かしい人でした」

 石流は唇を結ぶと、目元を緩めて天井を見上げた。

 曖昧な表現で濁してはいるが、エルキュールが言われたという言葉は、その人物に向けてのものだったのだろう。

 アンリエットは眦を緩め、石流を見下ろした。

「それにしても、もう少しちゃんと自己管理をしていただかなくては困ります」

「申し訳ありません……」

 アンリエットが小さく吐息を漏らすと、石流は首だけを動かして向き直り、面目なさそうに顔を伏せている。

「盗みすぎ、ですわよ」

「は?」

 アンリエットが片目を瞑ると、石流は顔を上げ、大きく目をしばたたかせた。

 

 

<了>


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択