【17】
1
「――狗がいる」
昼間の日差しに似合わぬ冷徹な光を眸に湛えて、虚は言った。
城の庭の東屋には、座した人影がふたつ。
桂花は思わず視線を逸らして、誤魔化すように茶を口にした。
「アンタじゃなくて?」
強がるように挑発的な声を出してみた。気を張る必要はない。何より、恍けたような返答をする必要もない。虚の意図するところは正確に理解している。
桂花が唯一嫌いでない男は、依然その双眸に冷静かつ獰猛な気配を宿している。空気が張りつめている。その緊張は、桂花がわざわざ呆けてみせたくなるほどだった。
換言すれば、息苦しかったのだ。
「陳留を嗅ぎまわっているのがいる」
「今更でしょ。華琳さまに注目していない諸侯なんていないわ。間諜なんて幾らでもいる。拙いところは対策してあるから。アンタの心配は無用よ」
「――流石は荀彧だな」
虚は茶化すでもなく真剣に言った。
「だが、雑魚ばかりでもないぜ」
「――どういうことかしら」
「御庭衆が始末し損ねた」
桂花は怪訝そうに眉根を寄せた。
「御庭衆――アンタが作った子飼いの細作部隊ね。華琳さまからの評価は上々のようだけれど?」
「相手はかなりの凄腕だ。諜報だけのために、それだけの凄腕を寄越すとは思えない」
虚は静かに手を組み合わせた。
「華琳さまに刺客が向けられていると、そう言いたいわけね、アンタは」
「そうだ。俺からも言っておくが、華琳が外出を控えられるよう予定を調節して欲しい。長老会なんかは来月でいいだろう?」
「――はあ、仕方がないわね。良いわ。で、その刺客の始末にはアンタが出張るんでしょ?」
「ああ、近いうちにやる」
短い返答であったが、そこにはぞっとするような殺気が籠っていた。
桂花は卓の上の焼き菓子に手を伸ばした。虚が自らこしらえてくれたものだった。
ひと口頬張る。
香ばしい甘さが口の中に広がった。少しだけ、ほんの少しだけ幸せな気分になったのは――きっと菓子が予想外に美味しかったせいだ。
「大丈夫なの?」
「信用しろよ。ただ、戦闘だけなら兎も角、相手は隠密に優れている。二、三日、というわけにはいかないかもしれない」
「アンタ、自覚あるの?」
桂花は呆れたように言った。
この男は頼りがいがあるようで――実は案外抜けている、と思う。
「また痩せたわ、アンタ。食事はちゃんととってるの?」
「――ああ」
「下らない嘘はやめなさい。流琉が言ってたわ、アンタ、近頃食が細いって。平気そうな顔するならね、隅々まで演じきって、騙し切りなさい。下手な演技は周りの心配を煽るだけ。それとも構って欲しくて半端な演技をしているのかしら」
「すまない」
桂花は嘆息する。
茶碗を握って、虚の目の前に翳した。
「こんなの用意するくらいなら、もう少し自分に気を遣いなさい。皆アンタが疲れてんのに気付いてるんだから」
「悪かったよ」
掠れた声で虚は言った。
「……高かったでしょ。これ」
茶からは独特のにおいが漂っている。
「知っていたのか」
「有名な薬茶だもの」
この男は。
「昨日は、遅かっただろう」
「へえ、私の部屋の明かりを観察してたわけ?」
気遣ってくれたのだ。
昨夜遅くまで桂花が作業していたのを知っていて、わざわざ値の張る薬茶を淹れてくれたのだ。
だから、桂花は呆れている。
もう少し。
この男はもう少し、自分のことに気を回すべきだ。
「――あ、ありがと」
けれども、感謝はしている。そしてそれは言葉にして伝えなければならないことだと理解している。
理由は分からないが、どこか癪だ。悔しいような、照れ臭いような気分になる。
ただしかし、そのような個人的な感情ゆえに礼を失してはならないのだ。
――私は、荀文若なんだもの。
「ん?」
「だ、だから! あ、あ、あ――ありがとって言ってんのよ! 一回で聞きなさいよ! このお茶……私の、その」
「ああ、荀彧のために淹れた。疲れは、取れそうか?」
虚はそう言うと、白い歯を見せて笑った。
「だから、それを言ってんのよ。私に気を遣ってる暇があるなら、もう少し自分に気を回しなさい。元気な振りが下手糞なんだったら、本当に元気になればいいだけ。それくらい分かりなさいよ」
「――きみは」
虚は小首を傾げる。
「案外、面倒見が良いんだな」
桂花は、耳が熱くなった。
「ば、馬鹿じゃないの? いいえ、聞いた私が間違い。アンタは馬鹿ね。賢いくせに大馬鹿よ! いつ、わ、私がアンタの面倒を見たってのよ! いい? 私は確かにアンタを認めてる。アンタは男だけど、嫌いじゃない。でもね、だからって、ちょ、調子に乗らないでちょうだい!」
虚は肩を揺らして笑い始める。
気に入らない。
この男はこうしていつも余裕ぶるのだ。
余裕など――さして持ち合わせていないくせに。
「な、何笑ってんのよ!」
「いや、怒ってる荀彧は中々可愛いぞ」
「……はぁっ!?」
「華琳が気に入るのも納得の可憐さだ。ただ、あまり怒ると皺が増える。気を付けてな」
気障なセリフを言い放って、虚は席を立った。
何てことを言うのだ、この男は。
「ばっか! ばかばかばか! 大ばか者! 変なこと言うな!」
虚はまだ笑っている。
いつの間にか、先ほどまでの殺気が消えていた。
怯えていたのを、気づかれたのだろうか。
「刺客の件は、何とかする。荀彧もなるべく外出を控えてくれ。――ああ、焼き菓子の残りは食べてしまって構わないから」
小さく手を上げると、自分の茶碗だけを持って、虚は城内へと戻って行った。
庭の東屋には人影がひとつ。
頬の火照った桂花だけが残されていた。
――何なのアイツ! ああやって茶化して。人が折角……いやいや、違う! 絶対! ぜーったい、心配なんてしてやらないんだから!
2
四日が経った。
「外出するなってね、私もいろいろあんのよ。あの馬鹿男」
愚痴を垂れながら、桂花は書店で本を選んでいる。
その書店は今しがた馬鹿呼ばわりした男から教えて貰った店であった。
なんだか癪だ。
「ん? 新刊――」
見出しの付いた本を手に取ってみる。
『簡易応急手当指南』と表題されたそれは、家庭などでも簡単に行うことが出来る怪我の正しい対処法について記されたものだった。
勿論、虚の記したものの写しである。
それとは別に、軍医向けに本格的な『医術行軍携』というものがあって、それは極秘扱いになっている。
「これ、写しが出ていたのね」
桂花はそう呟いて、それを棚に戻した。桂花の部屋の棚には、虚の記した本が全て揃っているのだ。彼は、桂花が種類を問わない読書家だと華琳から聞きつけたらしく、暇があったら読んでくれと、毎度律儀に新作の写しを届けに来るのである。
「……ほんとに、バカ」
桂花は呟くように言った。
周りへの気配りは出来る癖に、一番かわいがらねばならないはずの己が身は、蔑ろにする。
自己管理が出来ないというわけではないのだろう。能力としては問題ないはずだ。
単にものぐさなのか。
それとも――自分を労わるに値する存在だと思っていないのか。
意識的にしろ、無意識的にしろ、もしそうだというのなら、その認識は改めさせねばならないだろう。
あの男は今の曹操陣営に必要不可欠なのだ。
倒れられでもしたら、立ち行かなくなることも少なくない。よしんば強引に補てんできたのだとしても、士気には確実に問題が出よう。あの男は、鬼として恐れられていると同時に、英雄として崇められてもいるのだ。
桂花は小さく嘆息すると、勘定を済ませて店を後にした。
日は随分と高い。
「――長居しすぎたかしらね」
呟くように言って、桂花は市場から横道に入る。
走るのはそれほど速くない。
ただ、急いで城に戻らねばならない刻限ではあった。
ゆえに、近道をすることにしたのだ。
近頃は三羽烏を中心にした警邏隊の働きもあって、少々裏道に入っても物騒なことはない。何より喰うに困っている陳留の民というのが珍しくなりつつあるのだ。悪事を働かずとも腹が膨れるのだから、犯罪率は自然と下がろうというものだ。
砂っぽい空気の小道を行く。
空気が乾燥している。
右に、左に折れて、城へ急ぐ。本の包みが意外に重くて辛い。
そんなことを考えていた時だった。
奥の道から広い道へ戻るその途中――人気のない道中。
鈴の、音がした。
覆面の人物が立っていた。
ぞくりと、背中に嫌なものが走る。
「荀文若殿とお見受けする」
覆面が言った。
同時、覆面は砂色の外套から紫色の曲刀を取り出した。
「私怨はないが――死んでもらう」
刺客だ、と思った時には、桂花は本を捨てて走り出していた。
甘かった。
やはり虚の忠言通り、城で大人しくしているべきだったか。
近道が悪手だったか。
否、護衛でも連れてくるべきだったのだ。
「――ッ!?」
そんな桂花の思考を――激痛が遮断する。
左脚が――短刀で貫かれている。衣服が血に染まっていく。
痛みに足がもつれ、転倒する。
口の中が切れ、砂と血の味がした。
「逃げても無駄だ」
緩慢な足取りで、兇手が迫る。
桂花は強引に立ち上がり、左脚を引きずって歩き出す。
「いたぶるのは趣味ではない。苦痛なく終わらせるゆえ、大人しくしてくれ」
瞬間、覆面の刺客が疾走を開始する。
桂花は逃げる。
死ぬわけにはいかない。
主曹孟徳の覇道はこれからなのだ。
筆頭軍師たる自分はまだまだ役に立つことが出来る。
人気のあるところまで逃げることが出来れば、こちらの勝ちだ。
必死だった。
しかし、はやるばかりの気持ちも痛む足には通わず、左脚は再び身体を支えきれなくなった。
無力に倒れ伏す。
刺客が迫る。覆面の奥に煌めく鋭い眼光が桂花を射ぬく。
兇手が曲刀を引いた。
刺突の構えである。
桂花は懸命に這って逃げる。
生にしがみ付く。全ては己の役目を果たさんがため。曹孟徳の覇王の御座を支えんがため。
そして――。
――あの馬鹿男に説教のひとつでもくれてやるんだから。
先ほどは言いきれなかった。
やはり、あの男にはしっかり叱ってやる人間が必要だ。
風ひとりでは荷が重いだろう。
何より、風も華琳も、最終的にはあの男を甘やかすのだ。
だからあれは自分を苛むことを止めない。
ゆえに。
――仕方なくよ。仕方なく。私が叱り役になってあげるんだから。
そう思って、桂花は苦く笑った。
煌めく切っ先が迫っている。
死の先端が迫っている。
荀彧は。
荀文若は。
桂花は――阿呆ではない。
だから、理解はしているのだ。
自分はここで終わるのだということを。諦められぬという主観的な事情とは別のところで、きっちりと諒解している。
荀彧はここで死ぬ。
だから、苦笑するのだ。
この最期の瞬間に、主である華琳のことを思い出したのは、当然だ。
だが、もうひとり脳裏に過ったのが、あの男だとは。
――叱り役になってやる、つもりだったんだけどなあ。
そんなことを思った。
しかし、そんな思いも、肉薄する鮮血の瞬間を押しとどめることは出来ない。
桂花は小さく息を吐いた。
そして。
非情な凶器の切っ先は。
皮を破り。薄い脂を掻き進み。肉を裂き、骨を抉って、赤い血をまき散らした。
桂花の衣服に、生臭いしぶき飛び散り。
桂花はその身体を痙攣させた。
がくがくと身体が震えている。
真っ赤な液体に身体を汚されて、抗えない神経の反応が全身を支配していた。
四肢から力が抜けていく。
力だけではない。
魂までもが抜けていくようだった。
――ああ、情けないわね。
呆けた貌を、涙腺から溢れた液体が汚している。
血に汚れ、涙に汚れ、砂に汚れたその顔を拭うことも出来ない。
身体中が弛緩していく。
どうしようもなかった。
もう微塵も動けそうになかった。
どこまでも惨めで、情けなく、無様で、恥ずかしかった。
けれども、力が入らないのだ。
肩から先、膝から下がなくなってしまったかのようだ。
にも拘らず、身体は重いのだ。
本当におかしなものだ。
本当に――安堵という感情は、おかしなものだ。
漆黒の男が立っていた。
兇手の凶器は、男の手の平を貫き、桂花の寸前で停止していた。
桂花の身体を汚したのは、漆黒の男の血飛沫であった。
刺客は驚愕している。
どこからともなく現れた漆黒の男に狼狽している。
その隙を逃す男ではない。
気が付いた時には、男は素早く刺客の覆面をはぎ取っていた。
兇手は赤い衣の女であった。ひとつに束ねた髪に白い布を被せている。程よく日に焼けた美しい女だった。
漆黒の男は、けれどもその女の美しい顔を微塵の躊躇もなく殴りつけた。
女は得物を手放し、横の壁に叩きつけられる。白い布が飛び、髪がほどける。
崩れ落ちそうになる女の腹に、男は追撃の鉄拳を叩き込む。
女は顔を大きく歪めて、次の瞬間には激しく嘔吐した。
男はそれでも許すことはなく、女の長く美しい髪を鷲掴みにすると、彼女を壁へと押し付けた。
女は口元と赤い衣服を吐瀉物で汚している。
男は女の口に手ぬぐいを強引に押し込んで、彼女の頬を思い切り掴み上げた。舌を噛ませぬためだろう。女の美しい顔が男の握力に歪む。
そこで初めて、男――虚は口を開いた。
「荀彧、遅くなった。こいつの気配は悟っていたんだ。俺の手落ちだ」
詫びるような口調だった。
しかし男は女刺客から視線を逸らさない。それだけで雑兵程度なら射殺せてしまいそうなほど、冷徹な眼差しが女刺客を貫いている。
「だい、じょぶよ」
「強がるな。事が澄んだら処置する。安静にしていろ」
燃え上がる激情を無理に抑え込むような彼の声が――嬉しかった。この男が自分のために怒っている。それが嬉しかったのだ。
虚は目を剥いて、猛獣のように女を睨み付ける。
彼に相応の理性が備わっていなかったのなら、女はすでに喰い殺されていることだろう。
「誰の差し金だ。答えろ」
女は黙っている。
「分かっているだろうが一応告知をしておいてやる。しゃべらないなら、おまえを待っているのは拷問と薬だ。人として、女として美しく死にたいだろう。――言え」
傍らで座っている桂花が気を失いそうになるほどの殺気を、虚が放出する。
その重圧に女が表情を歪める。
けれども、それでも女は口を割らなかった。
その反応を見て、虚は――桂花の予想を裏切り――実に愉しそうに、そして邪悪に哂った。彼の美しい白い歯が、これほど恐ろしく見えたことはなかった。
普段飄々と優しげな彼が、それでも己を悪鬼だと称する所以を、桂花は目の当たりにしていた。
虚はぐっと女の双眸を覗き込んで、言葉を続ける。
「じゃあ、俺が言い当てていってやろう。おまえはただ黙って聞いていればいい。楽なものだろう?」
虚は朗々と芝居じみた調子で言葉を紡ぐ。
「この時期、おまえほどの細作を放って荀彧を狙わせた。曹操の警備が手厚いことを知って、彼女の手足を削ぎに来たのだろうな。欲をかいた馬鹿な諸侯のしでかしそうなことだ」
まず、と虚は一層嬉しそうに、口角を釣り上げる。
「劉玄徳ではない。俺はあれに一度会って話をしている。あれは刺客を差し向けるような女ではない。少なくとも今はな」
女は依然黙している。
「袁本初でもない。あれは見栄と矜持の塊だ。下衆な手は打たん。やるなら正面からだ。つぎに陶謙。あの老人でもない。あれに今刺客を送る利点はほぼない。評判を聞く限り、愚策を打つような暈け老人ではないようだ。皇甫嵩他朝廷連中でもない。あれは曹孟徳を上手く使いたい類の連中だ。何進が呼んだ董卓も然り。あれは朝廷内の掃除に執心しているらしい。外敵を増やす真似はせんだろう」
さあ、絞られてきたぞ――と虚は肩を揺らして笑った。
「残る諸侯で、今手を打ってくるような馬鹿は――袁術くらいのものか。しかし、あそこの大将軍、張勲は馬鹿でないと俺は踏んでいる。だが、袁本初を動かせなかった袁家取り巻きの老害どもが、袁術を突いたと考えればまあ、それなりに面白い筋は立つ。どうだ?」
女は何も答えなかった。しかし、虚はその反応に満足げに頷いた。
「そうか、やはり袁術か。老害どもの愚物振りは聞き及んでいたがまさかこれまでとはな。だが、袁術配下にこれほど優秀な細作がいるとは聞いていない。さしずめ、お抱えの孫家に下請けを出したのだろう」
虚は御庭衆に集めさせた情報をもとに話を進めている。桂花のもとにも御庭衆からもたらされる情報は集まっているがその量と制度は悍ましいものがあった。そのせいか、女刺客の顔色が幾らか悪い気がする。天から大陸を見下ろしているかのように話す虚が不気味なのだろう。
そしてだからこそ桂花には分かる。今回の件が袁術の差し金だという虚の推測は当たっているのだ。しかし、何故彼が確信して言いきれたのか、それは分からなかった。
「そうか、やはり孫家か」
虚は愈々残虐に笑って言い放つ。
女は反応しない。
しかしやはり、虚は確信しているようだった。今の彼は、さながら予言を放つ占い師、否、妖術師だったか。
そう言えば以前、風に彼が妖術師の芝居をして野盗を追い払った話を聞いた。
妖道仁斎と言っていただろうか。
「だが、誇り高い孫堅殿が刺客など送ろうか。袁家に押さえられているとはいえ、彼女は豪傑でありまた強靭な矜持の塊だと聞く。孫家再興の機会を虎視眈々と狙ってはいるのだろうが、とはいえ、矜持を穢してまで、再興の時を急いたりするものだろうか。察するに、今回はあの孫策殿の差し金。孫家の末姫孫尚香殿が軟禁先から移されたとも聞いた」
そこで流石に女刺客の顔が変わった。
「何だ、孫尚香の軟禁場所が変わったのを、おまえは知らなかったのか。そうだ、孫家の末姫は、孫家の将を剥がれて別の場所に移されている。指導したのは袁家の老害どもだ。今孫家を刺激すべきでないこと、袁術はともかく、張勲は悟っているだろう。愚かな老害どもに頭を悩ませている頃だろうなあ」
虚はいつになく楽しげに言った。
言外に「その点俺の主は良いぞ」とでも自慢しているような口ぶりだった。
「さて、袁家の老害に突かれた孫策が今回の黒幕であることは分かった。哀れな姉の苦肉の策か。同情はしてやる。――さて、では次に、おまえの名前を聞くことにしよう。この時期、孫策がここまで信頼し、かつ凄腕で、おまけに『女』か」
虚は『女』の部分を強調した後、「季衣や流琉の例もあるからな」と呟いた。桂花には何のことなのかよく分からなかった。
知っているかもしれんな、とこぼした後、だめもとか、と言って虚は質問を再開した。
「凌操」
虚はじっと女を見ている。
「の子、凌統――は、まだ生まれていないか。いや、全てが同じではないからな」
などと言っている。
女は黙っている。
「では、呂子明――はまだ荒くれのままかもしれんな」
虚は女の眼を捉えている。
「周幼平」
そこで虚の表情に変化があった。
「おまえ、まさか――周幼平か?」
虚は鋭く女を見つめる。
「いや、違うな。次だ」
暫し、思案して、虚は次の名前を口にした。
「よもやとは思うが、甘興覇ではないだろうな」
女はやはり一切反応しない。
だがその質問の直後、虚のはさも可笑しいと言いたげな声を上げた。
「そうか、おまえ。あの甘興覇か。船から降りたゴロツキが、今では細作の真似事か。何だその顔は。細作の素性が割れているというのは由々しき事態か? まあ、気にするなたまたま知っていただけだ。――甘興覇。先祖は南陽出身であるが、巴郡に移住してきた。不良の若者を集めて派手にやっていたそうじゃないか、鈴の甘寧。そうか、ならば凌統の父、凌操はすでにおまえが討ち取ったのだな、黄祖のところにいる頃に。どうだ、孫家の居心地は?」
気が付けば女は瞠目していた。
酷く汗をかいている。
「これだけ訊ければ十分だ」
そういった後、虚は甘寧の鳩尾に拳撃を喰らわせ、彼女を失神させた。
「慧、いるな」
その声の直後、灰色の少女が姿を現す。涼伯だった。真名は、慧と言ったか。
「あい。あーしは、ここにいますよ、おにーさん」
「この女を牢に放り込んでおけ、舌はかませるな」
「りょーかい。ねえ、拷問するならあーしにやらせてよ。……おにーさんを刺した女だ。ぜってえ許さねえ。生皮ひん剥いて殺してやんよ」
美しい顔立ちに残虐な気配を漂わせて慧は言う。
「華琳の裁定を待つ。壊すなよ」
「おにーさんの命令は絶対。あーしだって、それくらい弁えてるよ。――じゃあね」
慧は甘寧を抱えて、素早く姿を消した。
虚はそこで小さく嘆息すると、桂花のもとに駆け寄ってきた。
「遅くなってすまない。相手に考える隙を与えず詰問したかった」
虚は手早く桂花の着物を引き裂いて、短刀を抜いた。
鋭く痛む。
「毒はないから安心しろ」
「どうして、わかんのよ」
「きみの顔色を見ればすぐに分かる」
真面目くさった顔で、虚は言った。
少し、頬が熱くなった。
虚は真新しい布を取り出して、器用に裂き、桂花の脚に巻いた。
「帰ったら薬草を調合する。以前世話になった村の村長に教えてもらったんだ。多分、傷痕は残らない。綺麗な身体で、また華琳に可愛がってもらえるぞ」
優しく笑んで、虚は言った。
「……ごめんなさい」
桂花は意図せず、傷付いた虚の手を取っていた。
虚は目を丸くしている。
「きみが俺に謝るなんて……」
「な、なによ! 私だって、あ、あ、謝るくらいするわよ! 今回は護衛を連れてなかった私の落ち度……だし」
両手で、虚の手を握る。
桂花もお返しにと、手ぬぐいを取り出して、そっと彼の手に巻いた。
「……痛むでしょ」
桂花がそういうと、
「――痛いのは、慣れているよ」
そんな言葉が返ってきた。
虚の顔は一層白く、笑っているのに、寂しげに見えた。
「さあ、きみの本を拾って帰ろう。道端に捨ててあったの、荀彧のだろう?」
「そうね。早く拾わないと、罰が当たるわ」
「きみは本が本当に好きなんだな」
「当然よ。全知ならぬこの身。全ての知識に対して謙虚でなくてはだめなの」
「なるほど、だから隠れて料理の練習なんかしてたのか」
みるみるうちに、桂花の頭が茹っていく。
「あ、あ、あ、アンタ――なんで、知って……」
「いや、何でと聞かれると、見掛けたからとしか言いようがない」
荀彧は案外抜けているなあ、自分が見えていないぞ、と言って虚は笑った。
この男にだけは言われたくない言葉だった。
「でも、上手くできたら華琳に食べさせてやると良い。きっと喜ぶ」
「そうね。――あ、アンタも、残り物なら食べさせてやっても良いわよ」
それは楽しみだなあと、虚は笑った。
「よし、帰るぞ」
ひと息気合を入れると、虚は桂花の肩を抱き、脚の下に腕を差し入れて、抱え上げようとする。
「ま、待って! あ、歩くから!」
「馬鹿言うな。歩けるわけないだろ」
「だ、大丈夫に決まってんでしょ! 私は荀文若よ! 痛――ッ!!」
無理に立とうとして、激痛が左足に走る。
「あのなあ、足が痛いのに荀文若も曹孟徳もない。痛いものは痛い」
そう言いながら、半ば強引に虚はこちらを抱えようと思った。
しかし、桂花も女だ。
今――抱えられては非常に困る事情があった。
乙女の誇りに関わるのだ。
しかし手傷を負った少女が、優しい悪鬼に抗える筈もなく。
結局、桂花は軽々と虚の抱え上げられてしまった。
衣服越しにでも分かる彼の胸板に、不覚にもドキリとしてしまった。
「は、放して!」
「こら暴れるな」
それでも暴れる。
見られても、触られても、分かってしまうから。
しかし昼の日差しは容赦なく、その秘密を暴露する。
桂花がへたり込んでいた辺りの地面に濡れたような染みが出来ている。
桂花の着物の内腿が、血でないもので、濡れてしまっている。
恐怖と、不安と――そして安堵がもたらしてしまった、乙女にあるまじき失態の痕跡であった。
それが他でもないこの男に露見してしまった。
足を刺された痛みより、胸の奥が痛かった。
恥ずかしかった。
知られたくなかった。
桂花は思わず帽子を脱いで、顔を隠した。これ以上みっともないものを見せるわけにはいかない。
泣き崩れた貌など、絶対見せてやるものか。
「……見たわね」
恨みがましく言う。
もう――暴れる気は失せていた。
虚は何を応えるでもなく、桂花の身体を抱えたまま歩き出す。
「恐かったな」
「こ、恐くなんてなかった!」
「不安だったな」
「ぜんぜん! 不安なんかじゃなかった!」
「痛かったな」
「へっちゃらに決まってるでしょ! わ、私はね――」
筆頭軍師、荀文若なのだ。
敵に襲われ死にかけて、その挙句、失禁するやら泣きわめくやら。
そんなことがあってはならない。
あってなるものか。
そう思う。
思うのだけれど――そんな強がりとは別のところで、全てを見られてしまったこの男に……たい思いがあった。
認めたくないけれど。
認めてしまうのは、少し癪で、悔しいけれど。
それでも、彼の腕の中は――とても居心地が良かった。勿論そんなこと、言ってはやらないけれど。
――ああ、それにしても。
恥ずかしい。
顔から火が出そうだ。
衣服に染みが出来ているのだ。当然――臭うのだ。
それでも虚は嫌な素振りひとつ見せず、バカにするでもからかうでもなく、寧ろしっかりと抱きしめてくれている。
すっと、彼の手が、器用に桂花の髪に差し入れられた。
そのまま優しく、短い髪が梳かれる。
「今日は、風呂の日じゃない」
「し、知ってるわよ。そんなこと」
「だが、俺の屋敷には特別製の風呂がある。今頃は慧が沸かしているだろう。それくらいの気は回すやつだ」
入って行くと良いよ、と虚は言った。
「湯殿での世話は風に任せよう。その間に、俺は城に――華琳に報告しておく」
「あ、アンタ――そんな勝手にね」
「今日は休め。屋敷にはあの薬茶もある。あれを飲んで早く休むと良い。眠れないようなら、良いものもある」
そう言って虚が微笑んだ――気がした。
ぐしゃぐしゃの顔は上げられそうにないので、本当のところは分からない。
「――な、何よ。良いものって」
「俺の世界の民話をな、纏めてみたんだ。子供の識字率を高める手助けにならないかと思って。大人でも十分楽しめるぞ」
正直、とても気になった。
自分でも現金なものだと思う。
でも。
「あ、アンタがどうしてもって言うなら、い、行ってあげても良い……けど」
「そうか。じゃあ、どうしても」
ぐっと桂花を抱く虚の手に、力が籠った。
「借りは、荀彧の料理で返してくれればいいぞ」
間の抜けた声で、そんな馬鹿なことを言い始める。
甘興覇を詰問していた時とは別人だった。
「……け」
「毛? 毛がどうしたんだ?」
本当に大ばか者だ、この男は。
「け、けけ、け」
「毛ケ家?」
「け、桂花で良いって、言ってんの!」
ぐしゃと帽子を握り潰して、桂花は叫ぶように言った。
「そうか――じゃあ、俺の旧い名前も許しておくよ。知っていると思うけど――北郷一刀。好きに呼んでくれ」
「アンタに相応しい呼び方を考えておいてあげる。か、覚悟しておきなさい」
そういうと、虚は喉を鳴らして愉しそうに笑った。
虚の胸に、頬を預ける。
意図したわけではない、と内心で言い訳しながら。
首が疲れただけなのだと、胸中で呟きながら。
彼のことを何と呼ぼうか、考えてみたりする。
北郷一刀、は長いわね、だとか。
北郷、ではきつすぎるかしら、だとか。
かずと――なんて絶対無理、だとか。
別にそう呼びたいわけじゃないんだから、だとか。
虚の屋敷に戻るまで、桂花の心の中は酷く慌ただしかった。
《あとがき》
ありむらです。
まずは、ここまで読んでくださっている読者の皆様、コメントを下さったかた、支援をくださった方、お気に入りにしてくださっている方、メッセージをくださった方、えっとそれから……兎に角応援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
皆様のお声が、ありむらの活力となっております。
今回は桂花視点で話を進めていきました。
完全な拠点回は、ありむらには荷が重いので、ほのぼのを書きつつ、本筋進めてしまいます。
ありむらは結構桂花さん好きです。
それでは今回はこの辺で。
次回もご期待ください。
ありむらでした。
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独自解釈独自設定ありの真・恋姫†無双二次創作です。魏国の流れを基本に、天下三分ではなく統一を目指すお話にしたいと思います。文章を書くことに全くと云っていいほど慣れていない、ずぶの素人ですが、読んで下さった方に楽しんで行けるように頑張ります。
魏国でお話は進めていきますけれど、原作から離れることが多くなるやもしれません。すでにそうなりつつあるのですが。その辺りはご了承ください。
あと私の描く一刀さんは悪鬼と相成りました。皆様が思われる一刀さんはもういません。ごめんなさい。
それでもいいじゃねえかとおっしゃる方。
ありむらは頑張って書き続けます。どうぞ、最後までお付き合いの程をよろしくお願い致します。