人馬一体という言葉がある。
文字通り、乗り手である騎手が馬と一体化してしまったかのような、素晴らしい動きを指す。しかし、白蓮の目の前に広がる光景は、その言葉では語り足りないだろう。騎手と馬が一体となっているのは、もはや当然のこと。それに加えて、彼らは部隊としても一つになっているのだ。
軍馬一体、そう言えるのかもしれない。こんな光景は滅多に見られるものではないだろう。部隊がまるで一頭の馬のようなのだ。目の前にあるものを全て蹄で踏み潰し、薙ぎ倒し、一掃する。相当に苛烈な調練を積んでいるに違いないことは容易に想像出来た。
しかし、こちらも負けてはいないだろう。
小高い丘の上から白蓮は敵部隊を見下ろしていた。
数は目測でおよそ二千。敵は総数一万騎であると聞くから、五分の一程度だ。何隊にか分けてこちらの出方を窺っているのだろうか。動きは整然としていて、そこから狙いまでは見抜くことは出来ない。
自分は三千騎を率いている。翠もまた同様だ。白騎兵、黒騎兵と名付けている。出来ればどちらの馬の色も統一したかったのだが、さすがに馬が足りなかった。だから具足だけは白に統一している。翠も旗下の兵士には黒の具足を纏わせている。
遊撃隊同士の戦いには挨拶などない。本隊の方がぶつかったと知らせてから既に戦いは始まっているのだ。斥候を何十騎も出して、ひたすらに敵の場所を探る。敵も同じようにしている。どちらが先に補足するかの勝負であった。しかも、そこには敢えて敵の斥候に見つかったふりをして、誘い込もうとする罠も含まれているのである。
通常の戦いの何倍もの緊張感に絶えず晒され、小休止の際にさえ、五百以上の兵士を見張りに立たせなくてはならないのだ。兵士たちに掛かる負担は重いであろう。兵糧も少なく、取れるときに馬上で取るのだ。そのため、調練の段階からそれに耐えられる訓練もさせている。
斥候から報告が入ってから、一刻程度でその場所に来ることが出来たのは幸運だったのだろうか。報告によると、敵は小休止を取っていたようで、動き出したのはついさっきということだろう。それでも敵の誘いなのかもしれないという疑いは払拭できない。
「将軍、周囲に敵影はありません」
「そうか」
斥候部隊を率いていた者からの報告に、白蓮はただそう答えた。
周囲といってもそこまで広範囲というわけにはいかない。確実にないとは言い切れないのだ。騎馬隊を率いるようになってどれくらいの年月が経っているのだろうか。幽州で烏桓族を相手にしていたのが遠い昔のように思えた。
馬が好きだった。幼い頃からずっと馬と共に生きてきた。豊かな武家に生まれ、何頭もの馬を所有していたのだ。両親は学問をさせたがったが、幼少期は外でずっと馬で駆けていることが多かった。それから盧植の許で学問を修めた。桃香と出会ったのはそのときが初めてだった。
「駈足」
短く告げる。
そこから何も考えない。一度、決めたのだ。迷ったらそこで動きが鈍くなる。その隙を見逃してくれるほど、今回の敵は甘くはない。
丘を一気に駆け下る。相手の部隊もこちらの存在に気づいてから、部隊を動かそうとしたが、既に遅かった。自らが先頭に立って、敵部隊へと突っ込む。自分が鍛えに鍛えた兵士たちだ。動きは相手に劣っているとは思っていない。
ぶつかる。しかし、こちらの動きを見抜いていたかのように衝撃を散らしてくる。それでも喰らいつく。目の前にいた兵士の首を刎ねる。部隊の端っこを抉るように刈り取っていく。相手に与えた損害は微々たるものだろう。
敵も動く。敵の指揮官の姿は見えない。おそらく総指揮を務める霞こと張遼は、ここにはいないのだろう。いれば嫌でも目に入る。存在感が他とは圧倒的に違うのだ。好戦的でもあり、自分の部隊と分かれば一目散に自分を狙って来るだろう。
荊州で一度ぶつかったことがあった。そのときは麗羽の救援のためだった。霞本人が率いたわけではないが、その部隊を完全に破ったのだ。それからさらに厳しい調練を積んだと報告を受けている。兵士が何人も死ぬ程だったという。あのときと同じとは考えない方が良いだろう。
お互いに平行に駆ける。ぶつかる機を窺っているのだ。しかし、敵から気を感じない。そこでこれが相手の罠だと確信する。ならば、それを逆手に取るまでだ。気付いていないふりをして、こちらを狙って潜行している部隊を狙う。それが霞本人の率いる部隊であれば尚更、そこで撃破しなくてはいけないだろう。
一度敵部隊に突っ掛かる。それで伏兵に気付いていないと思ってくれれば僥倖だが、そうはいかないだろう。実際にぶつかっておきたいところであるが、そこで乱戦になってしまえば敵に機を与えかねない。
左方向に砂塵、と部下から報告があった。
ここから目視出来るということは、即断しなければならないだろう。相手の騎馬隊の速度は異常に速い。気付いたときには目の前にいた、なんてことも冗談抜きであり得ることなのだ。半刻と経たずに接敵するだろう、と白蓮は計算した。
対峙していた敵の部隊に突っ込む。部隊を縦に断ち割り、そこから退路を作り出すのだ。しかし、それは見せかけである。そんな簡単に通してくれる筈がない。こちらから陣形を崩して、別の方向へと逃げる。新手の部隊の方向とは真逆である。勿論、敵は追撃を仕掛けようとこちらを追ってくる。これで挟撃される可能性を潰したのだ。
敵が追撃を仕掛けた瞬間を狙って、部隊を反転させる。不意を突かれた敵が陣を乱したのを、白蓮は見逃さない。今度こそ敵を二つに割り、半数を取り囲んで攻め立てる。しかし、増援の部隊が間近に迫っている。すぐに包囲を解いて、敵との距離を取る。
増援は勢いのままこちらに突っ込むことはせず、この場にいた部隊と合流してこちらの様子を窺っている。この部隊にも霞はいない。指揮官はかなり冷静な人間であろう。だが、じりじりと気を放ちながら、こちらとの距離を詰める機を探っている。
次の瞬間、真横から漆黒の影が飛び込んできた。
戦闘の気配を察したのか、翠の黒騎兵が現れたのだ。敵部隊に突っ込むと、先頭を駆ける翠の銀閃が振るわれ、血飛沫が舞う。突破力と果敢な指揮は白蓮でも舌を巻く程のものである。それ以上に、翠は戦への嗅覚が鋭かった。それは勘と言っても良いのだろうが、白蓮にはない才能である。そんなことを思っている間に、敵が算を乱すのがすぐに見て取れた。
――好機……っ!
馬腹を蹴って敵に突っ込む。遅れずに部下もついて来ている。自らが選んだ兵士たちだ。一人一人と話をし、調練を視察し、自分の部隊に組み込んでからも、白蓮が持てる技術を全て伝えたと言っても良いのだ。自分が駆け出す瞬間を見逃す者など誰もいない。
剣を掲げて気合を放つ。片方の手で剣を振り、もう片方の手で敵から奪った戟を振り回す。足の力だけで馬を操ることくらい造作もないことだ。敵から繰り放たれる槍をかいくぐりながら、両手で応戦する。
潰走させられるか、そう思ったとき、背中に電撃が走った。
「伝令っ! 翠に撤退を――」
そう告げようとしたときには翠も戦線から離脱を図ろうとしていた。さすがに機敏であった。部隊を三つに分けて、それぞれが別の方向へと駆け始める。それを翠、蒲公英、向日葵が率いているのだろう。部隊を独力で纏めることの出来る指揮官が三人いるのは彼女たちの強みである。
白蓮もすぐに退路を確保した。隊列を整えたまま翠に続く。自分が敵の指揮官ならば三人の中で最初に翠を狙うであろう。蒲公英も向日葵も騎馬隊を率いる将として相当の腕を有しているが、それでも翠には及ばない。大将には能力以上の何かが必要なのだ。それを翠は持っていた。
左方向より、それは来た。
紺碧の張旗。霞の率いる本隊だった。
先頭を駆ける女傑こそが張文遠である。猫のように細めた瞳は嗜虐的に煌めいており、その目線は果たして自分と翠のどちらを狙っているのだろうか。率いている部隊は六千程で、最初の部隊と増援に来た部隊は囮だったのだろう。
前を走る翠の横に馬をつける。
「この数じゃまずいっ! 私が殿を受け持つから、お前は先に行けっ!」
「心配ないっ! このまま直進すれば、追撃を振り切った蒲公英と向日葵との合流地点に差し掛かるはずだっ! そこで張遼を叩くっ!」
「分かった! じゃあ、このまま……くっ! 翠っ! 敵が来るぞっ!」
六千の動きは見事なものだった。こちらの尻に喰らいついたら、それを放そうとはしなかった。敵を誘い込む動きを何度も行ったが、それに乗ってくることはない。しかし、それでいて、確実にこちらを包囲しようという動きを取り続けているのである。
霞という武将とは直接会ったことはなかった。しかし、反董卓連合での動きを見たときから、恐れにも似た感情を抱いていたのだ。騎馬隊を率いる将として、ありとあらゆる才能に恵まれている。そうとしか思えなかった。
翠は西涼で戦ったことがあるそうだが、ほとんど霞の部隊は母親である馬騰の部隊が動きを牽制していたらしい。しかし、あの馬騰と戦っても翠の部隊は壊滅することはなかったそうだ。それだけでも白蓮にとっては驚嘆であるのだ。馬騰の武人としての偉業の数々は、同じ騎馬隊を率いる者として何度も耳にしているのだ。およそ人間が出来ることとは思えなかった。
霞は激情に駆られて剛腕を振るうときもあるが、それ一辺倒というわけではない。今もこうして包囲網を、時間を使って作り出そうとしているのだ。しかし、それを即座に捨てて強烈な突撃を敢行することを厭わない。極度の緊張が白蓮を包み込んでいく。
「後少し……っ!」
隣で翠が吐き出すように言った。
時間との勝負である。間に合わなければ最悪の場合、全滅する恐れもある。そのときは自分が殿を守って、翠を撤退させるつもりだった。まだまだ粗はあるが、指揮官として非凡なものを持っているのだ。自分と天秤に掛けた場合、翠の命の方を優先すべきだと判断していた。
「見えたっ!」
蒲公英と向日葵との合流地点であろう。そこを駆け去ると、すぐに両側から二人が率いる千の部隊が姿を見せた。二人ともこちらが危機に瀕していることをすぐに察し、左右から挟み込むように霞の部隊に圧力を掛ける。それでこちらは少しだけ距離を置くことが出来るのだ。
「よしっ! 反転するっ! 全軍、突撃準備っ!」
「白騎兵も続くぞっ!」
同時に反転し、霞の部隊に突っ込む。多少の犠牲は出るかもしれないが、ここは守りに徹してはいけない。一度、勢いを与えてしまうと、霞という武将を止めるのは相当な困難を伴うのだ。出鼻を叩く必要がある。
正面から強烈な圧力が掛かる。敵も同時に包囲網を放棄して、小さく纏まっているのだ。突破出来るかどうか微妙なところだろう。それでも前へと進むしかない。敵は完全に纏まり切れていないので、厚みもそこまであるわけではない。
右に紺碧の張旗が見えた。そこに霞はいるのだろう。
ここで霞を討ち取ることが出来れば、戦いは勝ったも同然である。兵力は一万と六千で開きはあるものの、部隊を率いる大将は自分と翠の二人いるのだ。刺し違えてでもこの場で霞を討ち取ることには価値があるのだ。
だが、その思考断ち割るかの如く、白蓮の横から刃が突き出された。白蓮の首だけを狙ったそれは、目にも留まらぬ速度で正確に真横へと振り抜かれたのだ。それを紙一重で避けることが出来たのは幸運であったと言わざるを得ない。白蓮のすぐ上を、それは通り過ぎ、髪の毛がはらりと何本か落ちた。
しかし、白蓮が驚いたのはその必殺の一撃ではなく、それを放った人物の方である。
「張遼っ!」
「おうっ! うちはここにおるでっ!」
舌なめずりでもしそうなまでに好戦的な瞳を白蓮に向けるのは、今まさに白蓮が討ち取ろうかどうか思案していた霞本人であった。牙門旗の許にではなく、単騎で敵の大将を討ち取りに行ってしまう辺りが、やはり霞らしい。
「さぁ、ここで終いにしようやっ!」
得物の飛龍偃月刀を自由自在に振り回す。何気ない動作でそれを行うが、一振り一振りが確実に白蓮の命へと迫って来るのだ。その剣圧だけで、白蓮の剣など簡単に折れてしまいそうだった。刺し違えるなどということすら甘かったのだと痛感する。個人の武では歯牙にもかからないだろう。
――こ、これはまずい……っ!
部隊同士のぶつかり合いの中で、巧みに個人の戦いへと引き摺り込まれてしまった。もしかしたら最初からこれが狙いだったのかと思ってしまう程である。翠の援護に回るどころか、自分の身すら守ることが出来ていないことに、白蓮はぐっと歯噛みする。
しかし、それでも白蓮は必死に霞に応戦する。本人は霞の相手になどなるはずがないと思っているようだが、もしもそれが本当であれば今頃は白蓮の首は胴と離れていることだろう。勝つことは不可能ではあるかもしれないが、それが負けることと同義というわけではないのだ。
「ちっ! 潮時かいなっ!」
飛龍偃月刀を脇に挟むように携えると、霞はすぐに自分の部隊への道を切り開いていった。両側から圧力を掛け続けていた蒲公英と向日葵の部隊が、突っ込む素振りを見せているのだ。これ以上の乱戦になったら、さすがに指揮に専念しないといけないと判断したのだろう。
しかし、戻ろうとする霞のその進行を誰も止めることが出来ない。おそらくは翠でも勝てるかどうかといったところであろう。特に馬上での戦いでは愛紗や恋くらいの実力の持ち主ではないと無理だ。
自分が死なずに済んだことに安堵する暇もなく、白蓮は部隊に指示を出した。敵の部隊から翠と共に一度離れ、蒲公英と向日葵の部隊と合流する。それで兵力の差はなくなるのだ。そこから指揮官同士の器量の勝負である。
個人の武では圧倒的に差があるものの、用兵術という点に関しては、それほど差はないだろうと思っていた。それでも自信を持って霞に負けることはないと言わない辺りが、白蓮の己の評価が如何に低いかということが見て取れる。
「三人とも、合わせるぞ」
「分かったよ」
「はい」
「了解」
四人で駆け出す。通常であれば、黒騎兵と白騎兵はお互いに独立した部隊であるのだが、ここぞというときには一つになって戦うのだ。連携して戦う調練も充分に積んでいる。それでも自分と翠たちでは持ち味が違うという理由で、常に行動を共にするということはない。飽く迄も敵を一気に蹴散らすときのみにするのだ。
すぐに後続の兵士たちも一つに纏まり始める。純白の具足と漆黒の具足を纏った兵士たちが混じり合う様は、上空から見ればほとんど溶け合っているように見えるだろう。白と黒の斑模様の部隊が火の玉のように霞の部隊へと突っ込んでいく。
「左翼より食い込み、中央まで進撃っ! その後、右後方より離脱するっ!」
一つの隊になったときの指揮権は白蓮に移る。翠の方が良いのではないかと言ったのだが、翠自身がそう希望したのだ。蒲公英や向日葵も同意した。自分が中央に腰を据えて、翠が前衛。蒲公英と向日葵が両翼を担う布陣である。
まずは翠がその突破力を存分に示す。槍のような鋭い一撃が敵の前衛を貫くのだ。蒲公英は西涼にいた頃から奇抜な動きを取っていたようで、突っ込むと見せかけて退き、退くと見せかけて突っ込むようなことが得意だった。それに翻弄されると、敵の陣形に綻びが出るのだ。向日葵はそんな蒲公英とは対照的に、とても堅実な指揮をする。幼い容姿とは裏腹に、騎乗の姿には、どこか風格すら見られるのだ。
翠が空けた穴を蒲公英と向日葵が広げる。並みの部隊であれば白蓮が敵に突っ込むまでもなく潰走してしまうだろう。この六千の遊撃隊で、おそらく二万の部隊を相手にすることが出来ると思った。しかし、それは飽く迄も並みの部隊の話であり、相手があの霞となると話は別である。
「翠に伝令っ! あまり突出し過ぎるなっ! 縦に伸び過ぎると、分断されて各個撃破されるぞっ! それから蒲公英には正面の敵ばかり見ずに、横撃に注意するようにっ! 向日葵にはもう少し前進して蒲公英と足並みを揃えるようにっ!」
翠のような爆発的な突破力も、蒲公英のような幻惑的な機動力も、向日葵のような重厚な圧力も持たない自分は、後方から冷静に戦況を分析する程度のことしか出来ないのである。それを歯痒くすら感じるのだが、それが四人の連携では一番の力を引き出せたのだ。
さすがに霞の鍛えた騎馬隊は精強だった。これだけの猛攻に晒されても陣形をほとんど崩せていないのだ。こちらが逆に引き込まれているようにも感じられた。霞自身は先頭には立っていない。いきなりこちらの首を狙うような真似をし、そして、今のようにじっと姿を隠しているのも、逆に白蓮にとっては不気味に映った。
それから二刻半程の間、双方とも一切退くことなく戦い続けた。戦況が泥沼化するのを嫌った白蓮の方から撤退を命じた。追撃はあったものの、こちらもしっかり備えをしたため、大して損害が出ないのを悟ったのだろうか、あまり厳しいものではなかった。
その日の夕刻、白蓮と翠はお互いの部隊からそれぞれ五百程度の見張りを立たせて、そこで野営をすることにした。夜襲を仕掛けられる可能性もないわけではないが、今日はかなりお互い消耗していることから、おそらくはないだろうと思った。
霞の騎馬隊と対峙するということがどれだけ厳しいものかよく分かった一日だった。今日は遊撃隊同士の単純なぶつかり合いに過ぎなかったが、これから先はそうはならないだろう。遊撃隊の本来の目的は敵軍の奇襲にある。斥候よりも素早く戦場を駆け抜け、敵の本陣にすら奇襲することが可能なのだ。
勿論、それは今回の決戦においても変わりはない。お互いが牽制し合っているので、そう容易に出来る話ではないが、本隊への奇襲というのもお互いが持つ駆け引きの一つなのだ。それを本能的に行うことの出来る霞は、やはり天賦の才を持っていると言わざるを得ない。
「白蓮、そっちの損害はどうだ?」
白蓮が幕営から出てくると、翠が声を掛けてきた。
「あぁ、そこまで多くはなかった。しかし、彼我の兵力差を考えると頭が痛くなるよ」
「あたしたちの予備兵は使えないって話だけど?」
「予備兵を使える程、戦況は余裕ないのだろう。先鋒同士も衝突したようだし、今は本隊も一人でも兵が惜しいだろうさ」
黒騎兵と白騎兵には千ずつの予備の兵が存在していた。そこまで含めれば、霞の騎馬隊との兵力差も多少はなくなるのだろうが、そもそも白蓮も翠も三千の騎馬隊で動くことを想定して調練を積んできたのだ。いきなりそれを四千にすることは、やはり慣れないという点で危惧するところがあるのだろう。
予備の部隊ではあるが、兵士の錬度に何ら問題はない。お互いの部隊に損耗が出たらそこから補充することが可能なのだが、今回の戦はこれまでのどの戦いよりも大規模であり、益州も江東も全ての力を投入している。予備兵もどこか別の部隊に回されているのだろうか。そこは詠の管轄下であり、翠も白蓮も知らされていない。
「全く、詠にも困ったもんだよな。あたしたちが手塩にかけて育てた兵士だっていうのに」
「まぁそう言うな。今回の私たちの動きも詠がいるから可能なのだから」
詠は遊撃隊の補佐を担当している。その働きは小さいものではなく、軍師として二人に策を授けることから、遊撃隊の兵糧の輸送まで担当している。さすがに詠本人は彼女たちと行動を共にすることはないが、こうして野営をしていると、どこからか所在を掴んでくるようで、さっきも兵糧や秣を運んでくれた。今は蒲公英と向日葵を相手に、霞の部隊の動きを分析している。
「……やっぱり強いな」
不意に翠が言った。
「正直なところ、私一人では絶対に無理だと思うよ。将としての器が違い過ぎる。翠たちがいてくれるおかげで、何とか対抗することが出来ていると思う」
「何言ってんだよ。白蓮が全体の動きを上手く見てくれるから、あたしは好き放題に暴れられるんじゃないか。あたしはまだまだ母様には及ばないと思うけど、益州に来てからずっと白蓮に調練を付き合ってもらって、かなりの手応えを感じているよ。それに母様とは全く違うけど、白蓮も白蓮で本当に凄いと思う。あたしたち三人でやっと太刀打ち出来るくらいなんだから」
翠は本当にそう言っているとは思っているのだが、やはり白蓮はどこか自分に自信が持てずにいた。まだ白蓮に何か言いたげな翠を、苦笑いを浮かべながら宥めると、白蓮は一人で兵士たちの間を歩いて見ていった。
兵士たちの表情はまだ暗いものではない。本当の死闘はこれからなのだと一人一人が自覚しているのだ。今日の戦いは単なる前哨戦。霞もまだ本気を出していないのだ。自分たちもまだ余力を残している。そこにどれくらいの差があるのかを、白蓮は考えないようにしていた。
白蓮の姿を見ると、兵士たちは直立して挨拶をする。堅苦しいことがあまり好きではない白蓮は、そんなことをしなくても良いと言うのだが、兵士たちの方が止めてくれないのだ。恐れられているのではなく、尊敬されているということには残念ながら気付いていないようなのだが。
将校たちと今日の戦いについて意見を交わし、兵士たちには労いの声を掛けた。ときには兵士たちが座っている場所に自分も座り、談笑することすらある。敵についての真剣な議論から、故郷に関する取り留めもない話まで、白蓮はいつも穏やかな表情でそれを聞き続ける。
兵士たちがそれぞれ夕食を取っているときに、白蓮は一人で膝を抱えて動こうとしない兵士を見つけた。傍から見ると特に変わったところはなく、単に食欲がないだけのように見える。激戦を潜り抜けた後は、身体が何も受け付けなくことがあるのだ。
しかし、白蓮はそっとその兵士の許へと歩み寄った。
「こ、これは将軍……」
立ち上がろうとした兵士を、白蓮は手で制した。
「どうかしたのか?」
「い、いえ、別に……」
白蓮はその兵士の隣に腰を降ろした。まだ十代の若い兵士だった。確か益州の田舎からわざわざ軍に入隊するためにやってきた青年だった筈だ。遊撃隊に兵士を組み込むとき、白蓮は兵士の顔と名前は勿論のこと、故郷や入隊した動機までも把握していたのだ。
「どこか怪我でもしているのか? 顔色も優れないようだが」
「そんなことはありません」
「では……?」
ふと白蓮は気付いた。確かこの青年は二人で入隊した筈だった。故郷の幼馴染らしく、兄弟のように育ったそうだ。二人揃って白蓮の遊撃隊に組み入れられたのは偶然だったが、二人はいつも行動を共にしていた。白蓮から見ても、微笑ましい程に仲の良い二人だった。
しかし、今はその相棒と呼ぶべき青年は側にはいなかった。
「そうか……。先の遭遇戦で」
「……あいつは俺を庇ったんです。俺たちは二人とも殿にいて、敵軍が背後に張り付いていて、俺が乗っていた馬は潰れかけていたんです。遅れそうになった俺を助けようとあいつは……」
兵士が俯いた。その瞳には涙はなかった。戦場で命が散ることなど当然のことだ。将校たちはよく兵士たちに、友の死に心を動かすなと言っている。感情で戦うことに意味はなく、一人の行動が全体の行動に影響することすらあるからだ。
「二人のことはよく見ていたよ。私には兄弟はいないが、きっと兄がいたらあんな風なのだろうと、羨ましく思っていたこともある。そうか、あいつも死んでしまったのか。これからもきっと多くの友が戦に散っていくのだろうな」
「俺は……泣きません。上官からもそう言われているし、泣いてしまったら、もう戦えなくなってしまうような気がして――」
「お前は私が死んだら泣くか?」
「え?」
「私は、きっと北郷や桃香が戦で死んだら泣くと思う。麗羽なんかが死んでしまったら、大泣きするんだろうなぁ。それこそ顔がボロボロになって、真っ赤に腫れてしまうくらいに」
白蓮は頬を指で掻きながら、苦笑して言った。
「友の死に心を動かすな。それは飽く迄も戦場においての話だ。今は戦いの中にはいない」
「しかし――」
「北郷や桃香が、こんなこと、縁起が悪いから何度も言いたくないが、もしも二人が死んでしまったら、多くの人間が、いや、国に住む全ての人間が泣くと思う。あいつらはそれくらい慕われているからな。私はそんなに多くの人間に泣いてもらえるあいつらが素直に凄いと思う」
白蓮は兵士の肩に手を置いた。
「お前は泣いていいんだぞ。いや、泣いてやれ。あいつの死に誰かが涙を流した。それはとても大切なことだ。死を悲しみ、泣いてくれる者がいる。あいつをそういう男にしてやれ」
「将軍……」
兵士は静かに嗚咽を漏らした。周囲の人間に気付かれないように、膝を抱えるようにして。しかし、白蓮は彼が座る地面の上に、大粒の涙の滴がいくつも落ちるのをしっかりと見ていた。
白蓮は誰に対しても自然体だった。地位や肩書のせいで、言葉遣いは多少変わることはあっても、接する態度自体は誰とも変わらない。一刀であろうと桃香であろうと、そして、名を残すことなく死んでいく彼らであろうと。そういうところが、白蓮が兵士たちに慕われる理由であるのだ。
泣き疲れて眠ってしまった兵士を、周囲の人間に幕営まで運ばせると、白蓮はふと夜空を見つめた。綺麗な星空が広がっていた。幽州で見た空と変わらない美しい光景が、白蓮は何よりも好きだった。大地は戦場と化し、血の海となっても、この満点の星空だけは変わらないのだ。
まだ初日が終わったばかり。死闘が始まるのはこれからなのだ。
あとがき
第百一話の投稿です。
言い訳のコーナーです。
めだかボックスの裸エプロン先輩の中の人が決まり、どのように演じてくれるのか楽しみで仕方ないです。というか、アニメはどこまで話を進めるのだろうか。一クールでマイナスの話までは出来ない気がする。そして、お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっが、一周まわって面白すぎる。妹ちゃんの中の人は、まだ十四歳らしい、末恐ろしい。
さて、戯言もこの辺にしておきましょう。
決戦編もやっと半分が終了し、今回から翠と白蓮の遊撃隊の話へと入ります。こちらは主に翠と白蓮に焦点を当てて、折り目折り目に霞などにスポットを当てようと思います。
麗羽様編は麗羽様たちの絆をメインに、江東編は孫呉の絆をメインに描きましたが、こちらの方は今のところ何をメインにするか決めておりません。おそらくは戦闘描写が多くなるので、そこをメインにするとは思うのですが、第一回目の今回は白蓮さんにスポットを当ててみました。
まぁ彼女だけが活躍するわけではなく、話的には翠たちの活躍も多くなると思いますが、やはり最初は白蓮さんをたくさん描きたいと思いました。そうしておかないと、いつの間にか書くのを忘れて終了ということに(ry
さてさて、白蓮さんと言えば、普通の人、影が薄い人でおなじみはありますが、本作品では普通に強い人です。というか用兵術だけに関して言えば、翠一人では勝てません。蒲公英と向日葵と協力してやっと対抗出来るということです。
まぁたった一人で幽州を切り盛りし、烏桓族から白馬長史として恐れられたくらいですから、凡庸な人間であるはずがありません。寧ろ、本作品でありましたように、麗羽様の方が平凡な人間なのです。
そんなわけで、今回は難しいことをさり気なくこなしてしまう白蓮さんを描きました。
騎馬隊を縦横無尽に駆けらせるのは当り前。まさかの霞との一騎打ちまで行い、翠たちと部隊を纏めると、三人を上手く活かそうと指示を飛ばしてしまうのです。部隊の兵士たち三千人――予備兵を含めると四千人ですが、彼らの名前と顔は勿論、そのバックグラウンドまでしっかりと把握している白蓮さん。そこに痺れる憧れ(ry
さてさてさて、そんな感じで遊撃隊編をスタートしたいと思います。騎馬隊同士のぶつかり合いというわけで、求められるのは臨場感あふれる戦闘描写でしょう。そこを何とか書き切ってこのお話を終端まで導きたいと思います。あまり過度な期待はせずに、ゆるゆりとお待ちくださるようお願いします。
では、今回もこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
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第百一話の投稿です。
白蓮の率いる白騎兵、翠の率いる黒騎兵。彼ら遊撃隊は霞の率いる騎馬隊と対峙していた。西涼の王、翡翠との激闘を制し、大陸最強を自称する霞たちとの死闘が、今、幕を開けたのである。
久しぶりの投稿になってしまいました。心機一転、こちらの話はいつも以上に気合を入れて描きたいと思います。それでは、どうぞ。
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