ぞわり、と春蘭は己に背筋に寒気を感じた。
江東の王、雪蓮、そして死域に入った兵士たちを相手取りながら確かに春蘭は己が何か嫌な予感を感じ取ったことを自覚した。しかし、それは目の前にいる雪蓮からではなく、勿論、その他雑兵の者でもない。どこか別の方角から感じたのだ。
――今のは……何だ?
戦いの最中、本来であればそのような思考の隙は出来るわけはないのだが、今の春蘭にはそれが可能だった。いくら雑兵どもが恐怖という人間に備わるべき感情をなくしたとしても、彼女の敵ではないし、自分の攻撃の隙間を縫うようにしか攻撃を放つことの出来ぬ雪蓮もまた同様に敵ではない。
多少の思考をする余裕すらあるのである。
勝負は時間の問題である。春蘭は万全の状態であり、いくらでも剣を振るうことが出来る。しかし、相手は兵の数には限りがあり、死域に入っていられる状態も長くはない。雪蓮の状態すらいつまで続くか定かではない綱渡りの状態である。
勝てる。
そう強く確信している。
雪蓮の首を刎ね飛ばし、群がる兵士たちを蹴散らし、本陣を一気に壊滅させる。後は秋蘭たちと益州陣営まで吶喊すれば、それでおそらくはこの決戦にも終止符が打たれる。長かった主の宿願がついに叶うのである。
と、そのときであった。
どっと鬨の声が上がった。
方角は右から。
しかも、鋒矢陣の側面を叩くことの出来る位置からであった。
鋒矢陣は前面に広がる敵を駆逐し、一気に勝負を決めることが出来るという利点があるが、同時に側面からの攻撃には弱い性質を兼ね備えている。いくら華琳の側近である春蘭と秋蘭が揃っていようとも、横から一気に攻められたのなら堪ったものではない。
しかし、どこの誰だというのだ。
敵から繰り放たれる刃の連撃を捌きながら春蘭は声の方をそっと見る。一瞬だけ目を細めて砂埃の舞う戦場の彼方へ見える謎の部隊の影。数はそこまで多くはない。ざっと五千といったところだろうか。
春蘭が眉を顰める中、ぐっと静かに握り拳を作ったのは冥琳であった。
――何とか間に合ったか……っ!
額にびっしりと玉粒の汗を浮かべる程の窮地。だが、孫呉の大都督、冥琳ともあろう者がこのまま黙ってそれを見ている筈がない。雪蓮だけでなく将校から兵卒に至るまでの皆が文字通り死の領域に足を踏み込んで、自分たちの勝利のために身体を
もう一度、確認しておこう。
冥琳という人物の優れている点においてを。
彼女が軍師として一流と言われるのは可能性の選択の速度が異常な程に素早く、並みの人間の数倍もの可能性について考慮し、戦場における情報を何一つ取りこぼすことなくそれを戦術に組み込むことが出来るということだ。
だが、逆に考えてみて欲しい。
並みの人間の数倍、優れた軍師すらをも上回るその可能性の範疇を考慮することが出来るということは、裏を返せば、他の軍師が考えることが出来ない可能性というものを戦術の中に組み入れることが出来るということになる。
勿論、その可能性は全てが実現出来るものではない。しかし、実現出来るものも当然あるのだ。好例として秋蘭の奇襲がある。あれは、風は勿論、冥琳にも想定外の出来事であったはずだが、秋蘭の華琳へのあまりの忠義から起こったものだ。
秋蘭の奇襲は彼女が別に狙ったものというわけではないが、冥琳はこれを意図的に起こそうとしているのだ。つまり、自分は想定内の範囲でも、風にとっては想定外の範囲のものを故意に起こそうとしているのだ。
その境界線は目に見えるものではなく、全ては冥琳の推測の域を脱しないものであり、仮にそれが風の想定内のものであれば、全くの無駄に終わってしまうのであるが、しかし、もしもそれが成功すれば風に打つ手段はないのである。
――最大の懸念は私の胸中を見抜かれてしまうことだった。
風は他人の心を見抜くのを得意とし、それを逆手に心理戦を挑んでくる。これまでの戦いの過程でそれはある程度防ぐことは出来ているが、絶対に安心と言い切ることは出来ない。だが、冥琳はそれを完全に防ぐ手を思い付いていたのだ。
「私たちの最大の弱点を将の少なさと思っているようだが、それはお前の大きな勘違いだ」
冥琳はふっと笑みを溢す。
そんなことに気付いていない筈がない。
気付いていて手を打たない筈がない。
「お前が私の心中を読んだとしてももう遅いのだ。最初はこの策は私の手から離れているのだから。私自身がその進捗状態を把握していないのだから」
そう。
冥琳が風の心理戦を完全に抑えるための手とは、実にシンプルなものだった。
「私の策は開戦前から既に始まっているのだ……っ!」
その手がまさか敵とほぼ同じとは思っていなかったが、と冥琳は心の中で苦笑する。思想が真逆な二人が結果的に同じ手段で敵の度肝を抜くということになるとは、何の皮肉だろうか。
さぁっと一陣の風を吹き去ると、戦場を覆っていた砂煙が消え、誰の目にもその旗が見えるようになった。春蘭の見立て通り、数は五千程度と大したものではないが、それでも士気は明らかに高いもので、今にも春蘭たちの横っ腹に突撃しそうな勢いだった。
その理由は単純。
彼らが掲げる旗、そこには『孫』の文字があったのだから。
「遅かったですよ、蓮華様っ!」
「私が……切り札?」
「そうです」
それは曹操軍との決戦の直前の夜だった。
雪蓮から留守を言い渡された蓮華は複雑な想いを抱いたまま自室にいたのだが、そこに冥琳が訪れて言ったのだ。あなたがこの決戦の切り札である、と。留守を任された自分がどうして切り札なのか理解出来ない蓮華に冥琳がその説明をした。
「蓮華様が留守をするというのは私たちが流す偽の情報です。といっても、実際に私たちと一緒に行動するということわけではなく、敵の目を欺くために少し遅れた出立になってもらいますが……」
「そ、そのことは……」
「勿論、他の者は知りません。知っているのは私と雪蓮だけです。益州陣営の人間にも知らせてはおりません。曹操軍も優秀な密偵を何人も抱えているでしょう。それらを出し抜くためには味方にすら悟られてはいけないのです」
まだ策略の一部も明かしてはいないのにもかかわらず、蓮華の瞳に強い意志が宿るのを冥琳は見逃すことはなかった。彼女もやはり先代の孫堅の娘であり、また雪蓮の妹である。その血に流れるものは激しいに違いない。
「分かった、任せてくれ」
そう、蓮華は言い切ったのだ。
そして、雪蓮たちの部隊を見送った後で、蓮華は悟られないように兵士たちを集めたのだ。といっても、この時点で大半の敵方の密偵はいなくなっており、残った僅かな者も思春たち直属の隠密部隊が駆逐したのだが。
「蓮華様? いかがなさいました~?」
隣に立つ穏に声を掛けられて蓮華ははっと現実に戻る。今でも雪蓮と冥琳からこの決戦の切り札として投入されることに現実味を感じておらず、既に目の前には戦場が広がっているというのに、つい考えに浸ってしまったのだ。
「む、何でもない。それよりも亞莎はまだ到着しないのか?」
「そうですねぇ~。もう少しだと思うんですけど……あ、来ましたよ~」
「遅れて申し訳ありません、蓮華様」
背後から肩で息をしながら、亞莎が駆けて来た。その様子から見て、恐らくは彼女の目論見は達成されていることが察することが出来たが、蓮華は念のため口頭で確認した。
「はい。あちらの方々も了承して下さいました。こちらの合図で動きます」
「よし……っ!」
ぐっと胸の前で握り拳を作る。しかし、その手は僅かにであるが、震えていた。口では自分に任せてくれと冥琳に言い放った。心ではこの大役を任せてくれた雪蓮たちに感謝し、必ず成し遂げてみせんと固く誓った。
だが、身体は正直であった。
「……蓮華様?」
その様子に気付いた亞莎が心配そうにこちらの様子を窺っている。
「私は臆病者だな。口で言おうと、心で誓おうと、いざ目前に戦場が迫り、私の動きで姉様たちの勝敗が決してしまうと思うと、無性に怖くなってしまう。私は言われた通り戦には向いていない。姉様のような王にはなれないのだと思う」
小覇王、雪蓮を姉に持つ蓮華は自分と雪蓮の違いにコンプレックスを感じていた。
袁術たちの謀により、一時期離れていたので、時間だけを考えれば、雪蓮ともっとも時間を長く過ごしたのは冥琳である。しかし、同じ王の目線で時を過ごしたのは蓮華だけしかいないのだ。他の者は家臣として接しているのだから。
そんな彼女は姉の絶大的なカリスマ性をこれでもかと言うくらい見ているのだ。雪蓮直々に自分の後継者は蓮華であると言われているが、実際に自分に王の座が移ったとして、果たして雪蓮のように家臣を纏めることが出来るのだろうか。
蓮華にはその自信がなかった。
「当り前です。蓮華様は雪蓮様のようにはなりません」
亞莎のその言葉に、思わず彼女を睨みつけてしまう蓮華。しかし、亞莎の表情はとても真面目なもので、それを見た瞬間、やはり自分は王の器にはないのだろうか、と心に不安が過ぎる。
「蓮華様は蓮華様です。雪蓮様にはなれません。無論、雪蓮様のように戦上手ではないかもしれませんが、それでも私たち家臣は蓮華様なら立派な王となれると信じています。王とは他人と比べるものでしょうか? 私は違うと思います。勝ち負けではなく、蓮華様は蓮華様らしい立派な王を目指すべきと思います」
亞莎のその言葉が深く身に沁み渡った。
自分は姉にはなれない。姉のように天性の戦の才など、よく見たところでないのである。だからこそ、蓮華は姉とは違うベクトルの王を目指せばよいのだ。武をもって乱世を制すのではなく、知をもって治世を保つ王を。
「……亞莎、済まない。泣き言などつまらないことを聞かせてしまった」
「いいえ、私こそ出過ぎた真似をして申し訳ありません。では、蓮華様、下知を」
「あぁ」
蓮華は視線を上げた。
自分には穏と亞莎がいてくれる。自分には戦を勝利へと導くような武も知もない。だから戦のことは二人に任せてしまおう。自分が出来ないことには固執はしない。自分に出来ることを精一杯やればよいのだ。
そう、今、自分に出来ることなど一つしかないのだ。
「進軍」
蓮華の言葉は短いものだった。
剣を抜き、それを頭上に掲げる。たったそれだけの行為だった。しかし、亞莎の目にはその姿に雪蓮の姿が重なったのだ。誰もがそこに従いたくなる、王としての後姿。蓮華自身は認めないかもしれないが、やはり彼女は雪蓮と同じ王の器を持つ人物なのだろう。そして、それは亞莎だけに限らず、彼女の背を見つめる全ての将兵もそう思っていたのである。
江東軍、最後の秘策。蓮華たちの奇襲が始まった。
蓮華たちは素早く部隊を前進させた。
奇襲は何よりも速度が肝要だ。こちらの姿も既に向こうに確認されているだろう。対応策を講じられる前に、敵の動揺を誘い、勝機をこちらに手繰り寄せる。蓮華は穏と亞莎に目配せをした。この戦を進めるのは若きこの二人なのである。
この場まで誰にも知られることなく進めたのは亞莎のおかげであった。江陵に残っていた僅か五千の兵士を率いて、一度長江を伝い襄陽方面へと向かったのだ。そして、商人団と欺くことで上陸し、そこから一気にここまで駆けて来たのだ。まだ中原ではそこまで名の知れ渡っていない亞莎たちだから可能なことであった。
「一番隊から三番隊までは私と蓮華様に従ってくださいっ! 穏様、工作部隊の方はお任せ致しますっ! そちらに近づかせないように、各隊を波状に広げて一気に吶喊しますっ!」
亞莎の声に応、と兵士たち力強く頷く。兵力の差など微塵も感じさせない勇猛果敢な姿である。その中で蓮華も剣を振り抜き、敵兵に向かって気合を放つ。戦運びは亞莎に任せる。自分もまた亞莎の命令に従う一人の兵士であるのだ。
春蘭の部隊の脇腹に突っ込む。蓮華が先頭だ。敵の表情が具に見て取れた。こちらの出現にまだ動揺しているのを隠し切れていない。目の前の兵士の首を一つ刎ね飛ばす。二人目の兵士を肩から一気に斬り下げる。周囲の兵士たちが自分に向かって来るのが見えた。恐怖心が首を擡げる。しかし、声と共にそこに突っ込む。自分たちも遅れまいと後ろから仲間も突っ込む。
前方の敵陣を粉砕することを意図とする鋒矢陣は横から圧力に弱い。抵抗はあったが、すぐに崩すことが出来た。しかし、敵の対応も早かった。すぐに兵力差の利を活かし、こちらの包囲しようと動き出している。
「蓮華様っ! 一度、下がりますっ! 穏様の準備も整ったようです」
頷き、敵の腹に剣を突き刺しながら、撤退の命令を出す。足で蹴り、剣を敵の身体から抜き出す。鮮血が自分の身体を穢す。熱い。身体の中が灼熱のように熱くなっている。しかし、頭は冷静だった。
直後、穏の部隊が動き出した。曹操軍の背後から火の手が上がったのだ。こちらに来るまでに沢山の油と草を用意してきたのだ。火計を得意とする穏に仕損じるということはない。炎は激しく燃え上がり、しかも計算したかのように風が煙を曹操軍の方へと流す。
敵の動揺が色濃くなる。その機を逃すことなく、亞莎は部隊を突っ込ませる。五千の兵士が一つの塊になって敵兵を圧倒する。それを後退してから二度繰り返した。明らかに敵が後退するのが分かった。雪蓮たちが息を吹き返したように押し返しているのだ。
蓮華には聞こえた。孫家の栄光の道のため、我が王の道の邪魔はさせん、と大声で叫びながら必死の形相で春蘭に喰らいつく兵士たちの声を。兵卒でありながら、春蘭という強大な相手を前にしている戦士たちの気合を。
自然と声を出していた。これまで出したことのないような叫びだった。徐々に頭が真っ白になっていく。徐々に呼吸が苦しくなる。疲労が身体を蝕んでいるのだ。だが、止まらない。身体は無意識に敵の斬撃を潜り抜けながら、敵兵を斬り捨て前へと進んでいるのだ。
志があった。そして、今このときがそれを成し遂げるときなのだ。
蓮華たちの士気は非常に高く、また蓮華自らがそれを率いているということが雪蓮たちの兵士の士気をも更に高くさせたのだろう。徐々に自分たちが押され始めていることに気付きながらも、風は冷静さを失うことはなかった。
――所詮は五千です。今は耐えるが上策でしょう。そして、しっかり反撃の機を待つのです。
春蘭は動いていなかった。相変わらず雪蓮と江東兵たちと戦っている。そこから離脱する気になれば可能だろうが、それでも動かないということは蓮華たちの奇襲はこちらを潰走させるには物足りないことを本能的に察知しているのだ。
一手足りない。
まさか敵にも増援があったなどと想定もしていなかったが、それでもこちらを潰すには至らないだろう。奇襲の部隊が雪蓮のような猛将であれば一気に覆されただろうが、そうでなかったことが幸いした。
それよりも気になるのは敵が行った火計である。こちらの背後に火を放ち、未だに轟々と燃え続けているが、その狙いが分からなかったのだ。こちらに動揺を与えるためだとしても、演出が派手過ぎで、何か狙いがあると思えたのだ。
――こちらの退路を塞いだつもりでしょうか。
そうだとしたら意味などない。最初から撤退するつもりなどないのだから。このぶつかり合いで江東軍を殲滅し、一気に決戦を集結させるつもりだ。自分たちには撤退すべき道など最初から残っていないのだ。
厄介なのがこの煙だった。風はそこまで強くないが、後衛から中衛くらいまでは煙に巻かれ、動きがかなり悪くなっているようだった。風が立っているところに煙が来て、ケホと小さく咳き込んだ。
出火している部分に大量の草が置かれているのだろう。火の手は依然として消える気配はなく、出火箇所は煙によってほとんど視界が遮られているようだった。しかし、それも敵兵の士気と同様にいずれは消えていくだろう。
風は周囲を固めてくれている将校に合図を出した。奇襲部隊に対しては、相手が一度後退するタイミングに合わせて、こちらも部隊を下げ、リズムを敵兵に合わせるように、と。春蘭たちには指示の必要はないだろうが、徐々に圧力を強くして、左右の部隊を率いる秋蘭と季衣たちが押し出てくるのに合わせるように、と。
これで勝負の決着はつくだろう。策を弄する必要はない。堂々と正面から敵を駆逐するのだ。蓮華の奇襲が冥琳の最後の手だったのだろうか。確かにそれによりこちらもある程度は被害を被っただろうが、勝利を揺るがすだけの一手ではない。
後少しだ。後少しで戦を終えることが出来る。戦を終え、乱世を終え、民の苦しみを止めることが出来る。華琳が頂点となって国を一つに纏め、自分はその許で忙しい日々を送ることになるのだろうか。その前に一度また稟と共に旅に出たいと思っていた。しかし、稟は首を縦には振らないだろう。華琳に心酔しているのだから、そこから少しの間だって離れるのは嫌なのだ。
と、そのときだった。
遠くに見えた春蘭がこちらを振り向いたのだ。偶然だったのだろうが、彼女と目が合ったのだ。だが、その目は自分を見ていない。後ろで燃え上がる炎を見ているのだ。そして、風もそちらに目を向けた瞬間、炎の中から何かが現れたのだ。
背中に感じていた悪寒のようなものが確信的なまでに強くなっていた。それと同時に蓮華の率いる奇襲部隊が出現したが、それではない。春蘭の額に汗をかかせているのは、彼らではない。それだけは間違いなかった。
この場から離脱しようかとも思った。何が起きるか分からない。そして、起きてからでは遅いのだ。しかし、奇襲部隊の出現、そして、それを蓮華が指揮しているということが、再び敵の軍勢に活力を呼び戻したのだ。
「ぬぅっ!」
雪蓮の放つ斬撃が鋭くなってきた。反撃してくる数も多くなっている。そして、周囲の江東兵たちがまるで自分を底なし沼に引き摺りこむ悪霊のように、執拗に絡みついてくるのだ。斬り、薙ぎ、払い、突き、屠り、砕き、穿とうと、彼らは諦めることはない。そして、彼らの動きは徐々にではあるが、雪蓮と連動するようになっているのだ。
離脱は出来ない。この場で雪蓮の首を落とさなくては敵に勢いを与えてしまう。だが、春蘭の本能は危険を知らせていた。正体不明の何かがこの戦場で起ころうとしている。それを止めることが出来るのは恐らく自分だけであろう。
背後から火の手が上がったと報告があった。謀略に関することは春蘭には分からない。風がどうにかするであろう。それよりも戦の匂いのようなものを必死に探ろうとする。何故か焦りのようなものが全身をざわめかせる。
雄叫び。
どこからか聞こえた。
自分の部隊が徐々に押され始める。自分が踏み止まっているところだけは死守しているが、間もなく包囲されてしまうだろう。しかし、それも一時的なことだ。敵の勢いは今が最大でもう下がるしかない。それまで自分がこの場を守り切るだけで勝利は決定するだろう。
風から伝令が来た。
秋蘭や季衣たちと上手く連携するようにとあった。言われるまでもない。
戦は上手くいっている。何も問題などあるわけないのだ。だが、胸のざわめきだけは治まることはない。手負いの雪蓮が相手であるということが、逆に春蘭の集中力を削いでいるようだった。相手が万全であれば、頭が真っ白になる程に戦いに熱中出来ただろう。
敵の火計。
狙いなど分からない。そして、そちらに注意を向けた瞬間、春蘭の肌に粟が生じた。突き刺さるような殺気。炎の中に何かがいる。即座に察した。獰猛な獣のような――否、獣などという表現すら物足りない。それは明らかに自分と同程度の力を持つ存在だった。
風に知らせねば。すぐに思い、視線を向ける。風もそれに気付いてくれたようだ。だが、対応することまでは出来ていない。当り前だ。軍師にはこの悪寒を感じることは出来ないのだから。だがもう遅かった。そいつは炎の中から現れてしまったのだ。
「関雲長っ! 我らが盟友、孫伯符殿の御助力のために推参っ! 曹操軍の弱卒どもよっ! 我が前に立つのなら、この青龍偃月刀の錆にしてくれんっ! 死にたくなければ道を開けよっ!」
そこから現れたのは愛紗だった。
何故、という思いよりどうにかせねばという考えの方が先に過った。軍神関羽。江東軍と同盟しているとはいえ、戦自体の連携は考えられなかった。兵の動きから何から違っているのだ。同盟したとしてもそれを合わせることは不可能なのだ。開戦当時から、思ったように益州軍と江東軍は別働隊として動いていた。
だからこそ、愛紗だけを援軍として頼んだのだ。それを行ったのは亞莎で、彼女は独断で益州軍の本陣に赴き、愛紗の増援を直訴したのだ。彼女もまた自分たちの奇襲では敵を一掃するところまでは出来ないだろうと分析していたのだ。さすがに五千の兵士では屈強な曹操軍と渡り合うことは出来ない。
援軍としての軍勢は頼むことは出来ない。そこまで大々的に動いてしまえば、敵の軍師に察知されてしまい妨害工作をされるに決まっているのだから。しかし、一人だけこっそりと来ることは当然出来る。そして、その一人の武人が一万の軍勢に匹敵する力を持っていれば問題は全て解決されるのだ。
亞莎の予想よりも遥かに簡単に愛紗はその申し出を受け入れたのだ。桃香の右腕にして義妹でもある愛紗が、戦中に桃香の側から離れることなど肯んずる筈はないと思い、当初は星に頼もうとしていくらいであったのだが、桃香が一言、雪蓮に協力してあげて、と言うだけで愛紗は頷いたのだった。
そして、その桃香の姿にも驚いた。華琳と決戦だというのに、全く気負った気配がないのだ。江陵で会談したときと全く同じ表情で、困っている友人を助けてあげようといった軽い感じで愛紗に言ったのだ。しかも、こちらの立場に配慮した上で、助けてあげて、ではなく協力してあげて、と言ったのだ。
やはり桃香もまた雪蓮と同じ王なのだろう。それが分かっただけでも、亞莎には価値があった。彼女は次の王である蓮華にとって、雪蓮とは違う意味で良い刺激になるのだから。この二人が手を取れば、益州軍と江東軍は固い結束を崩すことなどないだろう。
穏の火計の狙いは愛紗の接近を隠すためである。煙で視界を封じ、また火計が何かを狙ったものであると錯覚させるためのものである。それがまさか一人の人間を隠すためだけに行われたなどと思いつくはずもない。
二人の最終的な狙いは、自分たちの奇襲を隠れ蓑にし、本命は愛紗である。そこまで綿密に冥琳と話し合ったわけではない。自分たちに任せると言ってくれたのだ。この戦いの切り札は蓮華であり、それを形作るのは自分たちだと言ってくれた。二人はその期待に応えるために必死に事前準備を行ったのだった。
愛紗の参戦により、曹操軍の混乱は極みに達した。特に愛紗が出現した周囲はそれまで煙に巻かれて身動きが取れない状態にあったのだから、恐慌状態は相当のものだった。そこを愛紗は無人の野の如く、本陣に向かって突き進んだ。
冥琳、穏、亞莎、江東軍が誇る軍師陣の言葉なき連携が曹操軍の中枢を、曹操軍の勝利の二文字を大きく揺るがせたのだった。
雪蓮の肉体は限界を迎えていた。徐々に身体から生気が抜けていくのが分かる。血を流し過ぎているのだ。一応は止血を施しているものの、そんなものはとっくに効果を失っている。視界が霞み、剣先が震える。いくら呼吸をしてもし足りない。まだ春蘭に一太刀も当てることが出来ていないのだ。
それでも蓮華が来てくれた。機は今しかない。これを逃してしまえば確実に負ける。それは自分の死を意味し、自軍の死を意味する。敗北の二文字をここまで身近に感じたことが今まであっただろうか。
「終わりだな。もはや立っているのも限界だろう。いい加減、その首を私に寄越せ」
「……馬鹿……言ってんじゃないわ……よ」
「無理やりにでも頂くぞ」
「やって……みれば……?」
来る。上から来る剣圧を正面から受け止める。重い。軽く地面に足が食い込んだようだ。それ程までに強大な一撃。しかし、受け止められた。まだ戦える。連続で斬撃が襲ってくる。それを紙一重で避けると、そこで兵士たちが春蘭の身体に向かって突撃した。数人が一瞬にしてバラバラになった。それでもぐっと噛み締めて機を待つ。
「無駄だっ!!」
身体に気合を込めるだけで、周囲の人間が吹き飛ばされる。その身に触れることすら許さない。圧倒的な強さだった。自分が万全だったとしても、絶対に勝てると言い切ることは出来ないだろう。況や、今は負傷の身だ。だが、勝てるわけないという思いを無理やりに抑える。
だが、次の瞬間。
敵部隊に途方もない衝撃が走る。遠くで兵士たちが吹き飛ぶのが視界に映った。その中心にいる人物、漆黒の髪を結った女傑、愛紗がいるのだ。一瞬呆気に取られた。何故、彼女がここにいるのか。しかし、すぐに結論が出る。蓮華たちだ。彼女たちが何かしたに違いない。
遠くにありながら愛紗と目が合った。にこやかに微笑んだ。彼女は私たちを救いに来たのではない。ただ勝利を見届けに来てくれたのだ。
「ふふ……それじゃあ……かっこ悪いところは……見せられない……わね」
春蘭を見据えて剣を構える。
不思議と構えを取ることが出来た。自分の後ろに数人の兵士たちも続いた。誰も諦めていない。誰もがまだ勝利を望んでいる。不意に身体に力が湧くのが分かった。戦える。まだ戦えるのだ。
「関羽っ!!」
春蘭が叫んだ。その目はもう自分を見てはいない。
「貴様の相手は私でしょうがぁぁぁぁっ!」
跳躍し斬撃を放つ。
春蘭がそれを片手で弾こうとする。だが、その衝撃に身体が後退する。舌打ちをしながらこちらとの距離を詰める。見える。それまでは守るので必死だった筈なのに、その剣先まではっきり見ることが出来た。
身体を捻り、避ける。回転し、斬撃を繰り出す。打ち合いが始まる。それは五合、十合と続いた。こんなに打ち合いが出来たのは初めてだった。春蘭の顔色が変わるのが分かった。本気を出すのはこれからなのだろう。
「はぁぁぁぁぁぁぁっ!」
強烈な一撃、身体が吹き飛ばされる。駄目だ、衝撃を上手く逃すことが出来ない。しかし、そう思った次の瞬間、身体が止まった。後ろで兵士たちが支えてくれたのだ。それまで意識していなかった兵士たちの動きがここに来て手に取るように見えた。
後ろから数人が駆け出す。
前後左右から囲んで槍を突き出した。しかし、春蘭はそれを、身体を沈ませて容易に避けた。だが、そこに雪蓮は足を合わせた。春蘭の顔が雪蓮の足先に吸い込まれていった。鈍い音が鳴る。春蘭の身体が吹き飛ばされた。
初めて春蘭に攻撃を当てた。
兵士が駆け出すのを見て、無意識にその後を追ったのだ。どうやって近づき、春蘭に蹴りをお見舞いしたのかはっきりと憶えていない。だが、当たったのだ。それが事実として決然と残っている。
春蘭が即座に立ち上がる。血の混じった唾液を地面に吐き、口元を袖もとで乱暴に拭う。それと同時に身体から放たれる圧力が増した。空気がびりびりと震えた。大気が春蘭に怯えているのだ。しかし、自分たちは怯えてなどいない。
「孫策っ! 終わりだっ!」
どっと駆けて来た。周囲の兵士など見向きもしない。ただ真っ直ぐに自分に向かって突進してきた。正面からこちらも向かう。春蘭の斬り下ろしに合わせる。金属と金属がぶつかる甲高い音が鳴り、衝撃が周囲に撒き散らされる。だが、一歩も退くことはない。
背後。兵士たちが槍を突き出してきた。雪蓮からは見える筈はないのに、それを、態勢を下げて避ける。春蘭には急に槍が突き出されたように見えただろう。紙一重でそれを回避し、頭上から剣を振り下ろす。
撃ち落とした。そこから斬撃の応酬である。合間に兵士たちが剣や槍を突き出すのが分かった。見えているのではない。感じているのだ。それを利用する。孫家の絆。それを確かに感じた。一人ではない。皆がいてくれるのだ。
そう思った途端に、春蘭の強さが孤独に思えた。誰よりも辛い修練を己に課して、この武を磨き上げてきたのだろう。だが、所詮は一人なのだ。孤独の武なのだ。それはとても悲しい武なのかもしれない。そして、同時に自分もこの戦いまでずっとそうしてきたのだ。常に前線に身を置き、誰も近づけない圧倒的な武を誇ってきた。周囲には味方すらいないのだ。
互角、いや、負けない、いや、勝てる。
徐々に春蘭が防戦を強いられていた。剣も槍もこちらの方が多いのだ。一本で防ぐには限界がある。もう何合打ち合ったのか分からない。身体から汗が吹き出してきた。もう汗など出ないくらい疲弊していると思っていたが、まだ身体は動くのだ。動く限り、自分は、いや、自分たちは負けない。
「孫策ぅぅぅぅっ!」
春蘭の咆哮。鬼神の如く怒りに震え、一つしか残されていない瞳から炎が噴き出しているかのように激昂していた。渾身の突き、それが雪蓮の頬を掠めた。肉が削げ落ち、そこから出血する。しかし、前に出た。一歩前に出た。剣を振り抜いたのだ。
戦場が一瞬だけ静寂に包まれた。
そして、春蘭が地面に倒れる音だけが不気味に響き渡ったのだ。
春蘭の胸から脇腹にかけてを斬っていた。傷はそこまで深いものではない。命は取り留めているようで、立ち上がろうとしていた。しかし、無駄であった。腕の力だけで上体を起こそうとしていたが、ついに力尽きて意識を失った。
歓声が上がる。
自分が勝ったのだと気付いたのはそのときであった。
そして、不意に身体から熱が消え去った。剣を地面に突き刺して身体を支える。膝ががくがくと震える。立っていることが至難のことだった。だが、それでも勝つことが出来た。春蘭を倒すことが出来たのだ。
だが、勝利の悦に浸っている暇はない。
すぐに残りの部隊の掃討の命令を出そうとするが声が出ない。いや、よく見たら周囲の兵士たちも自分と同じ状態だった。既に尻餅をついて立ち上がれない者すらいた。それ程に死闘であったのだ。春蘭という大陸屈指の武将を相手にするというのはそういうことを意味しているのだ。
すぐに後ろから冥琳が駆け寄ってきた。笑顔で軽く手を振ると、ホッと安堵したような表情をし、すぐに自分の周囲の人間に指示を与える。春蘭を倒したが、まだ戦は終わっているわけではないのだ。
雪蓮は春蘭のところによろよろとよろめきながらも近づいた。この首を刎ねようと、剣を握ろうとしたが、ふと何かを思って鞘に戻した。
「雪蓮、殺さないのか?」
「ええ……」
そう一言呟いただけだった。
すると、冥琳の許に兵士が駆け寄ってきて、秋蘭の部隊が一千騎程を率いてこちらに猛烈な勢いで接近しているという。歩兵中心の祭の部隊では完璧な追撃は無理なようで、ほほとんど振り切られそうだというのだ。
春蘭の敗北が知れるにはまだ早い。おそらくは感覚的に察知したのだろう。秋蘭という武将は意外に感情的な人間なのかもしれない。ふと雪蓮は思った。ずっと冷静沈着な人間だと思っていたが、もしかしたら自分と似ているのかもしれないと思った。
「……帰るわよ。もうこっちの戦いは終わりよ。夏侯惇がこの状態では向こうも戦線を維持することは出来ないでしょう。無駄にこの場をこの女を斬って、怒り狂ったように抵抗されても逆に面倒だし」
「分かった。相手もそのつもりのようだな」
風の決断は早かった。こちらの前線も相当被害を受けていることを承知しているのだろう。後衛から徐々に撤退が始まっている。おそらくは秋蘭がこちらに来なくても、すぐに軍使を出して、春蘭の身柄を確保するつもりなのだろう。その軍使に自らがなっても良いと思っているのかもしれない。
相手の前線は春蘭が敗北したという事実が未だに信じられずにいるのか、完全に動きが停止してしまっていた。それ程に春蘭という存在が絶大的なことであったのだ。そして、彼女の損失は全部隊の損失と同義であるのだろう。
逆に彼女たちの敗因は春蘭一人に全て任せてしまったことにあるだろう。風ですら気付いていない、というか、無意識的なレベルかもしれないが、春蘭に頼り切ってしまっていたのかもしれない。それが彼女たちの圧倒的な強さであり、また、弱さであることも知らないままに。
春蘭は強過ぎたのだ。あまりにも強過ぎたのだ。
武将として強いということは確かに必要なことだった。しかし、あまりに力を手に入れてしまった彼女は、誰からも認められ、誰からも頼られ、誰からも敬われると同時に、秋蘭と離れて行動するようになり、華琳からは一部隊を、しかも、対江東軍部隊総指揮官という大役を任されてしまったのだ。
しかし、彼女に必要だったのは寧ろ力なんかではなかったのかもしれない。妹と共に過ごす時間、同僚から馬鹿にされる時間、そして、その光景を微笑ましげに主から見られる時間、そういうものが必要だったのかもしれない。武将として絶大な力を手にした春蘭は、力と引き換えにとても大切なものを失ったのだろう。
「冥琳、すぐに夏侯惇に適切な処置をしてあげなさい」
「いいのか?」
「いいわ。もしも、まだ彼女と戦う機会があるのならば、今度は全力で殺すだけだから」
「そうか」
勝った。
何故勝てたのだろうか。雪蓮はふとそう思った。しかし、分からなかった。分かろうとしても無駄だろうと思った。分からないならばそれで良い。今はただ勝利を噛み締めたかった。これまでの勝利とは違う気がした。数多くの戦いを勝ち抜いてきたが、何よりも重い勝利だと思う。相手が強大だったからではない。この勝利は自分の勝利ではないのだ。自分たちの勝利なのだ。
「……勝鬨を」
「……雪蓮。それでは周囲の兵士たちには聞こえないぞ」
雪蓮の声は涙で震えていた。
多くの犠牲を積み重ねて、自分たちは勝利したのだ。この場に無事な者など誰一人としていない。彼らのことは決して忘れはしないだろう。この戦いのことは決して忘れはしないだろう。そして、仲間というものがどれだけかけがえのないものかを決して忘れはしないだろう。
「……勝鬨をっ! 勝鬨を上げなさいっ!」
全ての兵士たちが叫んだ。喉が破れんばかりの声を放った。
勝者と敗者は常に存在する。
その戦いから数刻後に春蘭は意識を取り戻した。
いつの間にか馬車の中に寝かされていた。身体を起こそうとしたが、傷が激痛を発した。瞳だけを動かして身体を確認すると、具足は外されて包帯が巻いてあった。そこで自分が雪蓮に敗北したことを思い出したのだ。
また負けた。
兵力で圧倒し、戦の流れもこちらに傾き、しかも、相手は手負いの身だった。負ける筈などなかったのだ。いや、負けることなど許されなかったのだ。汚名を返上し、華琳の宿願のために必ず勝つとあれ程強く己に誓ったではないか。
それでも負けた。
斬られた瞬間の光景が目に焼き付いていた。自分の最大の突きを避けられたのだ。いや、相手も避けようとしていたのではないだろう。それでも自分の剣は相手の命を貫くことはなく、逆に相手に斬られてしまったのだ。
そして、何よりも屈辱的なことが一つあった。
――私は生かされたのか……。
意識を失っていたというのに、自分が未だに生きているということはそういうことであろう。殺す気になれば殺せたはずではないか。何故おめおめと生き延びているのだろうか。武将としてあそこで死ぬべきではなかったのか。恥を晒して生きるなど出来る筈はない。
「……姉者?」
「……秋……蘭……?」
気付いたら側に秋蘭が座っていた。戦は終わったのだろう。そして、自分が負けたのだ。自分たちも負けたのだろう。その横には風も座っていた。その表情は相変わらず何を考えているのか分からないものだった。それは風が自分の気持ちを気取られまいとしてやっているのだろうが、そんなに無表情な癖にそれだけ唇を噛み締めていたら、どんな感情を抱いているのかすぐに分かるというものだ。
手を握られていた。
温かな妹の手だった。秋蘭とこうして手を握り合うなんていつぶりのことだろうか。憶えていない。思い出せないくらい遥か昔のことなのか、それとも普段は意識していないだけなのか、それすらも分からない。
「姉者ぁ……」
秋蘭の瞳から涙が零れていた。それが自分の顔の上にぽたぽたと落ちた。どうして秋蘭が泣いているのか分からなかった。自分は生きているのに値しない愚か者だ。いっそのこと、この場で秋蘭に留めを刺してもらいたいと思うくらいだ。
「私は……」
声が自然と漏れていた。
「私は……負けたのだな……」
返事はなかった。
それが返事だった。
秋蘭の横に風の顔が出てきた。自分の瞳を覗き込んでいる。何を考えているのか探っているのかもしれない。そういうことは誰よりも得意な人間だった。この敗北は彼女に責任などない。自分が雪蓮を倒してさえいたら、何もかもが上手くいったのだ。
ぽたりと自分の頬に再び雫が落ちた。
しかし、それは秋蘭の涙ではなく、風の涙だったのだ。
風が泣く姿を初めて見た。お前は何も悪くない、そう言おうとしたが、上手く声が出せなかった。命を脅かす程の傷ではないが、それでも重傷であることに違いはない。風のしゃくり上げる声だけが馬車の中に響き渡った。
「姉者、もう姉者の側から離れない。何があっても、私が側にいる。もう姉者を一人に何かしない。強くなくたって良い。私は姉者のことが大好きだ。姉者のことを誰よりも誇りに思う。だから、姉者も私の側にいてくれ」
涙声で秋蘭が言った。
その言葉に春蘭は何故か救われた気がした。
同時に雪蓮に敗北した原因が分かったような気がした。
自分は秋蘭の気持ちが分からなくなっていたのだ。華琳と共に誰よりも長い時間を過ごし、お互いに何を考えているのか、考えようとしなくたって通じ合えていたのに、いつの間にか秋蘭が想っていることが自分には分からなくなっていた。
何とか力を振り絞って秋蘭の手を握りしめた。秋蘭も握り返してくれた。温かい。そして優しい。自分が忘れていた温もりだった。忘れてはいけない温もりだった。それを忘れてしまったから、自分は雪蓮に負けたのだろう。雪蓮はその温もりをずっと胸に抱いていたのだ。胸に刻みつけて自分に挑んできたのだ。
「……帰ろう。私たちの家へ。華琳様の許へ」
「あぁ……。あぁ……」
春蘭たちは敗北した。
春蘭が雪蓮に敗北した直後、風はすぐに撤退を決断した。自分が命に代えても春蘭の身柄を――例えそれが亡骸だったとしても、返還してもらおうと動き出したとき、秋蘭がその場に既に向かっており、江東軍側も春蘭に適切な処置を行った後にこちらに身柄を引き渡したという情報が入った。
追撃はなかった。正確には追撃をするだけの気力が残っていなかったのだろう。全ての兵士が死域に入り、全ての力を使い果たしたのだ。動くことさえ困難な者が多くいるのだろう。雪蓮たちは奇跡的な事柄を意図的に二度に渡って起こしたのだ。
その後、春蘭たちは戦線を維持することは不可能と判断し、防備に徹したが、間もなく華琳たちの本隊と合流した。春蘭が敗北したことに関して、華琳はすっと瞳を閉じただけで何も語ることはなかったという。そして、その夜、一人で春蘭がいる幕営を訪れたという。
雪蓮側も特に無理な攻勢を示すことはなく、愛紗を益州軍本陣へ返した。彼女に江東軍はしばらく休息の時間が必要で、本陣攻略は二、三日待って欲しいと伝えるように頼んだ。兵士たちの様子を直に見た愛紗はそれを受け入れたという。
春蘭と雪蓮、風と冥琳、曹操軍と江東軍の戦いはこうして幕を閉じたのだった。
何かを得るためには何かを失う必要があるとはよく言われることだが、得るものと失うもの、そのどちらがその人にとって必要なものか、それは、実際にそうしてみないと分からないものである。そして、分かってからでは遅いのであった。
あとがき
第百話の投稿です。
言い訳のコーナーです。
番外編を含めると、既に百話を超えていますが、本編のみでやっと百話を迎えることが出来ました。これも皆様が温かい目で見守り、声援を送ってくれた賜物だと思います。心から御礼申し上げます。
さて、その記念すべき百話にして決戦江東編が終了したわけでありますが、いや、何と申しますか、いろいろと謝罪すべき点が多く、申し訳ない限りで御座います。支援数もかなり低迷し、多くの読者様が作者を見限られたのだろうと思います。
寧ろ、公で非難の声を上げて頂かなかった点で感謝しなければならないでしょうね。そうされても仕方ないのかなとは思います。反省すべき点が多過ぎて、どこから謝ればよいのか分からないくらいです。
さてさて、そもそもこの江東編の根底にあったのは、二つの陣営の対比的に描写しようというものでした。雪蓮と春蘭、風と冥琳、そして、兵士たち。彼らの間には似通っている点と同様に、全く反対と言って良い点があります。それを上手く戦に絡めて描きたかったのです。
それが成功したかは置いておいて、そのせいで戦略的に整合性が欠けてしまった点はかなりの反省が必要だと思います。しかし、一つだけ言い訳をさせてもらえば、作者はそもそもこの戦いに明確な戦術など必要ないと思っておりました。
人間というよく分からない生き物はよく分からない理由で勝ち、そして同様に負けると思うのです。いや、そんなバカみたいなことを考えているから、こんな結末になってしまったわけですが……。そしてそんなバカみたいなことばかり考えているから、多くの読者様から見限られたわけですが……。
兵士が死域に入ったことも、蓮華が援軍として現れたことも、愛紗が援軍として現れたことも、雪蓮たちが勝つ理由にはなりません。一つ一つがなければ、雪蓮は春蘭に敗れ討ち取られていたでしょう。雪蓮が万全の状態であっても、逆に敗北していた可能性すらあります。今回の戦に起こったこと、それら全て目に見えないくらい細かく混ざり合い、雪蓮の勝利という結果を生み出したのです。
春蘭が敗北した理由も彼女が強過ぎたことと述べましたが、逆に彼女が勝っていれば、その理由もまた同じだったでしょう。何が原因となるか、それは結果を見ないと分からないのです。そして、結果が出てしまえば、原因を改めることなど不可能なのです。そこを掘り下げることが出来なかったことが、こんな結末になってしまった原因でしょう。全ては作者の文才のなさが原因です。
さてさてさて、全く無事ではありませんが、江東編を何とか書き切ることが出来ました。多くの読者様を置いてけぼりにしてしまったことは改めて謝罪致します。誠に申し訳ありませんでした。
江東編も終了ということで、心をリフレッシュするために、もう何から何まで洗い流すために、何も考えずに書くことが出来る「変態軍師」の方を一話また投稿したいと思います。勢いで書いた方が楽しいのだろうか、と最近思い始めてしまいました。末期ですね。
その後は、皆様お待ちかねの白蓮さんと翠の出番となります。そっちの方はどちらかと言えば戦術的要素がメインになるのかなと思います。本音を漏らせば単純に白蓮さんの活躍が書きたいだけです。
最後になりますが、この作品が百話まで続くことが出来たのは、全て読者様のおかげで御座います。この作品を投稿してから二年以上経ちますが、今まで長い間拙作にお付き合い下さいまして、本当にありがとうございます。物語はまだ続きますので、もしよろしければもう少しだけお付き合いして頂けると何よりも有難いことです。
では、今回もこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
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第百話の投稿です。
冥琳が繰り出す最後の秘策。そして、雪蓮と春蘭の壮絶なまでの死闘。戦いはついに終結する。勝利の女神はどちらに微笑むのか。雪蓮と孫家の絆は春蘭という稀代の武将を打ち倒すことは出来るのだろうか。
ついに百話です。長かった。そして、長いだけで作者は何も成長していなかった。自分の文才のなさが嘆かわしい、何度となくこの言葉を使いましたが、今日こそそれを強く実感した日はないですね。詳しくはあとがきで。謝罪の言葉が見つからない。鬱だ死のう。
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