No.489010

竜たちの夢 拠点1

一刀と愛紗(関羽)のお出かけ編。

拠点だからって甘い話ばかりでないのはお察し(

愛紗(関羽)についてもこれから少しずつ描写していくつもりです。

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2012-09-27 00:49:30 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:5688   閲覧ユーザー数:4864

 

 

 劉備軍の朝は静かだ。

 

 一刀などの首脳は朝早くに眼を覚ますが、それ以外の者は現代でいう凡そ八時頃に眼を覚ます。

その為、それ以前の時間は実に静かで、一部の者が鍛錬などを静かな環境で行うには最適な時間だ。

そして、劉備軍の武将達はその時間に鍛錬を始める者も少なくない。

 

 劉備軍における将軍的立場にある関羽雲長もその中の一人である。

得物である青竜偃月刀を手に舞う彼女の姿はまさしく武神と名乗るに相応しいものだ。

一刀さえ居なければ、劉備軍の顔となるのは彼女であったのは間違いない。

現にあまり表に出たがらない一刀の代わりに彼女が顔になっているのだ……その実力は間違いないものだろう。

 

 

「……まだだ。まだ、まだ……届かない」

 

 誰も居ない訓練場で静かにその速さと威力を併せ持つ一撃を繰り出せども、彼女のイメージする相手には一撃も届かない。

相手がどう動くかを想像しながらの訓練……所謂イメージトレーニングの発展系を彼女は行っている。

 

 想定している相手は劉備軍の力の象徴たる北郷一刀である。

イメージ相手でさえも、彼に本気を出させることができないことに彼女は思わず苛立つ。

彼が本気を出した処など見たことが無いし、仮に出されてしまえば彼女は一瞬で屠られる。

黄巾党二万を数秒で二万屠った氣弾と氣刃を相手にしては、彼女では勝つどころか生き残ることすらできない。

 

 軍神関羽などという呼び方が、関羽は嫌いだ。

確かに彼女は司馬懿以外を相手にして一度も負けたことがないが、司馬懿相手では全く歯が立たなかった。

彼女は司馬懿に届きえなかったし、それを圧倒する一刀にも到底届くことは叶わない。

それが、彼女には悔しいのだ。

 

 

「はぁ……はぁ……もっと強くならねば」

 

 一刀が孫権仲謀達を傘下に加えたことで、劉備軍の戦力は一気に増大した。

五千の兵を関羽、張飛、太史慈の三名で担うことになり、百程の劉備親衛隊を孫権、甘寧、司馬懿が指揮するというのが、先日決まった決定事項だ。

たった百だけの親衛隊ではあるが、五千余の中でも選りすぐりの防御のスペシャリストが選ばれている。

 

 孫権、甘寧は将としての実力は高いが、関羽などが相手では一溜りもない。

そういう意味では、司馬懿仲達が親衛隊に居るのは非常に心強いことだ。

関羽は余りにも自分と似ている彼女が苦手だが、その実力は折り紙つきである。

人中の呂布、馬中の赤兎馬とまで言われている呂布奉先とほぼ同等の力があると考えて良いだろう。

 

 そんな人物が劉備を守るのだから、それこそ数万の軍とぶつかっても、親衛隊は劉備を守り切ることができる筈だ。

親衛隊は生き残れないかもしれないが、劉備さえ生き残ればまだ次はある。

その次の為に、彼らは命を張って劉備を守るのだから。

 

 

「随分と熱心だな、関羽」

 

「! 北郷殿……おはようございます。今日もお早いですね」

 

「ああ、おはよう。関羽こそ早いな。張飛が起きるまでまだ二刻半はあるぞ?」

 

「軍の中核を担うのは私です。鈴々よりも更に厳しい鍛錬を積まねばなりません」

 

「その心意気は素晴らしいが、やるなら想像の敵ではなく本物を相手にした方が良いぞ」

 

 苦笑しながら関羽の訓練の欠点を言う一刀は、やはり爽やかだ。

こういう部分で地が出て来るのが彼の良い所でもあり、悪い所でもある。

ある程度彼と親しくならねば、彼がいかに優しいのかも、大器であるのかも分からない。

大器であることは親しくなくとも分かるかもしれないが、親しくなれば想定が甘かったことに気付くだろう。

 

 北郷一刀は気持ち悪いくらい魅力的だ。

関羽は彼に惹かれ始めていることを自覚しているし、その優しさも理解している。

彼は日頃氷のような冷たさで覆い隠しているつもりだが、ふとした拍子に地が出てしまう。

その時の彼は本当に無邪気で、見ている者皆を惹きつけるのだ。

 

もしかしたら、劉備の魅力の生みの親は彼なのかもしれない。

 

 

「ですが、北郷殿はお忙しいでしょう?」

 

「いや、そうでもないぞ。今日は非番だしな。ん? 待てよ?……そういえば関羽も今日は非番だった筈だが?」

 

「わ、私は……その……休日に何をすれば良いのか分からないのです」

 

「あー……それでいつも通り稽古をしていたのか? 稽古そのものは構わないが……休日に何をすれば良いか分からないというのは?」

 

「息抜きというのがあまり良く分からないのです。食事はある程度食べられるものであれば構いませんし、買い物なども、必要なものしか買いませんし」

 

 関羽の言葉に益々苦笑する一刀であるが、彼女の気持ちは分からなくもない。

彼は基本的に必要だから動く人種であるし、彼の行いは全てそこに起因している。

暇があれば街の警邏に加わるのも彼が、ここに住む者達との信頼関係を築く為に必要だからであり、彼が軍の主導権を関羽達に委ねているのも彼女達を育てる為だ。

 

 彼はこうするべき、こうしなければ、こうしたい、という義務と欲求を満たす為に必要なことをしているに過ぎない。

だからこそ、彼は関羽のように休みの過ごし方が分からなくなることはない。

休みもまた彼がこの世界をより良くする為に費やされており、彼はただそれだけを考えれば良いのだ。

 

 彼が街の者達と仲良くなれば、彼らの不満や満足を直に聞けるし、彼らから耳寄りの情報を貰えることもある。

餅は餅屋にとは良く言ったもので、専門の者は、下手な細作よりも多くの情報を持っているものだ。

彼はそういったものを得ることもでき、絆を深めあうことができるからこそ、休日に街に出たりする訳である。

 

 

「成程。良く分かった……武以外に関しては、お前は本当に不器用だな」

 

「うっ……面目次第もございません。直そうとはしているのですが、どうすれば良いか分からなくて」

 

「はぁ……今日は予定は入れていないのか?」

 

「はい、入れていませんが……」

 

「なら、もし良ければ、汗を流して一刻後に正門に来い。いくつか息抜きの仕方を教えよう」

 

 関羽は確かに真面目であるし、その真面目さが劉備にとって大きな助けになっていることは間違いない。

しかし、いつまでも張りつめていては、人間は麻痺し、壊れてしまうものだ。

たまにはその緊張を解すことをしなければ、心と体が剥離して死ぬ。

関羽にそうなられては、一刀が困る。

 

 彼は関羽のことを真名で呼びはしないものの、この三ヶ月でそれなりに知った。

彼女が不器用なことも、出会った頃の歪みを克服し始めていることも、彼は分かっている。

彼の眼は多くを理解し、多くを語る……だからこそ関羽を理解することができた。

多くを見透かしながらも、多くを語るその眼であるが故に、関羽達も彼を拒絶せずに居られる。

 

 ただ見透かすだけで何も映さない眼であったならば、関羽達は一刀をただ恐れていただろう。

彼が明け透けに多くをその眼で語ってくれるからこそ、彼女達は彼を恐れながらも尊敬し、信頼できるのだ。

多くを理解し、多くを語ってくれる彼だったからこそ、この軍はここまで成長した。

彼がフェアだからこそ、彼女達は安心して共に歩むことができる。

 

 

「ふむ……今日は特に予定もありませんし、お願いしても宜しいでしょうか?」

 

「了解した。それでは、一刻後に会おう」

 

「はい」

 

 一刀は微笑を浮かべる関羽に、同じ微笑で以て返すと、そのまま歩き出した。

これから孔明達の様子を見に行くのだ。休日とはいえ、一応皆の様子を確認しておくのが彼の日課だ。

休日であろうとも、仲間達のことを考えておかねば、いざという時動けない。

それを良く知っているからこそ、一刀はこうして皆の体調などを確認することを怠らないのだ。

 

 劉備の下に集った者達は皆才気溢れるが、まだまだ若い。

揺らがない者など、太史慈子義と程遠志を除けば居ないであろう程に、彼女達の心は不安定だ。

太史慈――知華はまだ二十を超えたくらいの年齢で、既に恐ろしい程の冷静さを手に入れているし、程遠志は一度名を全て捨て己を殺しただけあって揺るがない。

しかし、他の者は年相応の弱さを併せ持ち、壊れぬ様に一刀達が注意しておく必要がある。

 

 一刀が育て上げているのは能力だけではなく、心の強さも重要視している。

若者が不安定な心を持つのは当然のことであるし、それを支えるのが年上の役目であろう。

一刀は見た目こそ若々しいものの、年齢は既に二十台後半であり、関羽達とは十程の年齢差がある。

この十の差は大きく、一刀は皆にとっての保護者のようなものなのだ。

 

 

「あっ、おはようございます」

 

「お……おはようございます」

 

「おはよう。孔明、士元、調子はどうだ?」

 

「頗る良いです。北郷さん達のお蔭で無駄な仕事は殆どしなくて済んでいますし」

 

「わ、私も元気です! 北郷さんの教えてくださった方法で仕事が一気に効率化されましたから」

 

 暫くの間歩いていると、一刀は孔明と士元に出会った。

二人はかなりの量の政務を毎日こなしているが、中々良い感じで体調を崩さず居る。

一刀がそれとなく効率化の仕方を提案したりしている為もあるが、やはり彼女達が優秀であることが最も大きな要因であることは間違いない。

これ程の者を仲間にできたことは、劉備にとって幸運だ。

 

 他の勢力に行かれていたら、一刀達はこの天才二人を相手にしなければならなかったのだ。

単純な戦に関して言えば、一刀の武の前ではあらゆる策は無力であるが、この二人が搦め手を使ってこない筈が無い。

可愛い顔をして、かなりえげつないことを平然と思いつくのは彼も理解している。

 

劉備を失えばそこで全ては終わりであり、それを暗殺によって行うことをこの二人は躊躇しないであろう。

劉備のやり方に反することを理解して言葉には出さないが、言外にそういった搦め手を考えていることは漏れている。

だからこそ彼はこの勢力に二人を受け入れた劉備の判断を素晴らしいものだと思う。

 

 この二人は敵に回してはいけない。

 

 

「そうか。それは良かった」

 

「北郷さん、例の案件ですが、明日の昼過ぎにお話ししたいことがあります。お時間は宜しいでしょうか?」

 

「明日の昼過ぎか……分かった。部屋はお前達の政務室で良いか?」

 

「はい」

 

「よ、宜しくお願いします」

 

 例の案件というのは、一刀達が進めている計画についてである。

計画と言っても、これから他の勢力がどう動いていくかを考慮した上で、この陣営がどう動くかを一連の流れに纏めているだけだ。

この行動指針は、各諸侯の情報を纏めた上で、かなりの変更が加えられることになった。

 

 まず袁紹について、彼女の性格が想像以上に良いものであることが明らかになった。

王朝への忠誠心溢れる諸侯など、彼女を除けば馬騰くらいしか居ないと言っても良いくらいの忠臣ぶりだ。

董卓に関してもそうなのだろうが、あの勢力は頭である董卓が野心を持たない代わりに、賈詡が董卓を祭り上げようとしているそうだ。

 

よって、これらの予測を元に大まかな変更が生じることになった。

袁紹による侵略の可能性は殆ど無くなり、しかし董卓の居る中央に怪しい動きが出始めている。

他の諸侯は地道に戦力を底上げしているようだが、目立った動きは無い。

当面注意すべきは中央の動きのみであり、それ以外は捨て置いて構わないだろう。

徐州に居る曹嵩巨高については動向を確認しておく必要があるが、他はどうとでもなる。

 

 

「ああ、そうだ。今日非番なのは俺だけか?」

 

「ええと……北郷さん以外には愛紗さんと、孫権さんですね」

 

「ふむ……分かった。それじゃあ、二人共今日も仕事は程々にな」

 

「ええ、体調を崩さない程度に、しかし滞りなく進めておきます」

 

「が、頑張ります!!」

 

 一刀は片手を軽く上げながら二人に別れを告げる。

彼は基本的に頑張れとは言わず、程々にやっておけと皆に言う。

これは、あまり頑張ることを強いるのが良くないからであり、常に限界を超えたオーバーワークをさせない為の言葉だ。

今現在の全力を出して少しずつ上限を上げていくのは構わないが、完全に限界を超過し続けるのは認めない。

 

 いざという時に動けなくては、居ないのと変わらない。

そして、そのいざという時に動けるのは、常に進歩を忘れず、しかし振り切れてしまわなかった者だ。

デザインされたメニューをこなせとまでとは言わないが、ある程度目安をつけての訓練を行うのを一刀は推奨している。

 

 常に張りつめた状態で居られる程、人間は強くない。

 

 

「孫権も呼んでおくか……?」

 

 孫権仲謀は曲りなりにも北郷一刀の婚約者である。

そもそも今日彼女が非番であることを一刀が知らないことに問題がある気もするが、取りあえず彼は孫権も誘うことにした。

あまり彼女を邪険に扱うと孫呉がうるさいであろうし、彼もそうするつもりはない。

 

 既に彼は彼女を育て上げることを決めている。

彼が孫堅文台を生かしたことで孫呉での立場が無くなってしまった孫権を邪険に扱うことなど彼にはできない。

ただでさえ後ろめたいのに、これ以上後ろめたいことを増やすつもりなど彼にはないのだ。

 

 孫権はここに来てから、思いの外上手くやっている。

良く学び、良く遊び、劉備軍の皆との絆を大切にしている彼女は、一刀にとってとても好印象だ。

砂のように彼らが教えることを吸収してくれるのは、教える側としては実に嬉しい。

何よりも、彼女が今まで才能を抑え込まれていた状況から少しずつそれを解放していくのを見るのは、一刀にとって非常に楽しかった。

 

 

「ふむ……虎の子も存外悪くないな」

 

 孫権の成長は目を見張るものがある。

元々孫呉での教育の方向性が間違っていたというのもあるが、それを正しい方向に修正したくらいではこうはならないものだ。

それを考慮すると、やはり孫権が才気溢れる人間であることは間違いない。

彼女は素晴らしい原石であり、それを磨くのは一刀にとって実に楽しい作業だった。

 

 同じ慈しむ王でありながらも、劉備とは異なる、激しさを併せ持つ王に彼女はなるだろう。

その激しさは孫策や孫堅とは異なる、攻める為では無く守る為の激しさだ。

孫策達が武力による孫呉の発展を得意とする王ならば、彼女は内政によって呉の力を高めていくのを得意とする王であろう。

新しい風を入れることを忘れず、腐敗を排除できる守る王に、彼女はきっとなれる。

 

 呉の王となるには申し分ない処か完璧かもしれない。

地盤は孫策達が確立してくれる筈だ……後は、孫権がそれを治めるだけだ。

どのように治めるかは既に一刀達が教え始めている……細かい策も、それにあたる心持ちについても。

孫権がどこまで成長するかは彼女次第だが、それに関しては一刀は特に心配していない。

 

 あの娘は、王の器なのだから。

 

 

「さて……まだ部屋の中に居るようだな」

 

 一刀は孫権の部屋の前に来ると、その中に気配があるのを確認して、三度ノックする。

この世界では皆ノックをせずに部屋に入ってくるので、これは彼であることの証明である。

愛紗も一刀の部屋に入る時はノックをしてくれるが、それ以外の部屋ではしていないようだ。

そういう使い分けができる柔軟さは愛紗の強みであろう。

 

 ノックをして、少しして部屋の中で音がした。

一刀はその音が不定期で、おぼつかないように聞こえて、大凡の事態を予想する。

孫権が今どのような状態で、これからどうなるかを大体予想すると、彼はため息をついた。

 

 

「はい……どなた、ですか?」

 

「俺だ。どうやら眠っていたようだが……今時間は大丈夫か?」

 

「へ?……北郷殿?…………」

 

「?……孫権?」

 

「す、直ぐに着替えてくるから、待っていて!!」

 

 寝ぼけ眼で扉を開けた孫権であったが、そこに居るのが一刀であることに気付くと、顔を真っ赤にして扉を閉めてしまった。

寝ぼけている表情や寝間着姿を彼に見られてしまったことへの羞恥心がそうさせるのだが、一刀はそれに気づかない。

彼だからこそ孫権が恥ずかしいと感じているというのが、彼には分からないのだ。

 

 歪み始めた感覚を元に戻すには劉備を逆鱗にするしかないが、彼にはそれはできない。

思春が生きていて、彼を必要としてくれている已上は、彼は彼女に殉ずる。

本当は劉備が欲しくてたまらないのに、彼は思春に殉じようとするのだ……これを歪みと言わずして何と言う?

この歪みが彼の感情を麻痺させ始めているにも関わらず、彼はそれを止めることができない。

 

 それを愛紗達以外は知らずに、皆毎日を過ごしていく。

少しずつ北郷一刀が壊れていくことに多くは気づかず、気付いた者も何もできぬ無力感に苛まれる。

ただ一人愛紗だけが、未来を見据えて彼を救う為に動いているのだ。

無力感に苛まれながらも、戦い続けている……今までの数十万の外史のように。

 

 

「待たせてしまってごめんなさい!」

 

「別に構わないぞ。非番の日に朝早く起きている方が珍しい。今日は予定は入っているか?」

 

「入っていないけれど……な、何かあるのかしら?」

 

「二刻程したら、正門で関羽と合流して街に出かけようと思っている。孫権も来るか?」

 

「関羽と……?」

 

 期待していた分、孫権は実に複雑な気持ちになってしまった。

一刀が誘ってくれたのは嬉しいが、そこに関羽も居るのでは、逢引という訳ではないことになる。

彼女にとって、一刀と一緒に出掛けられるのは嬉しいことではあるが、そこに関羽も居るのだ。

孫権は関羽もことは嫌いでも苦手でもないが、少しばかり恨めしく思ってしまった。

 

 そんな孫権の乙女心など露知らず、一刀はいつものように仏頂面で孫権の返事を待っている。

彼は非常に冷静で、その冷静さに助けられることは多々あるが、やはり孫権としてはもう少し嬉しそうにして欲しい。

仮にも婚約者なのだから、一緒に居る時にそのような表情をされてはいくらなんでも不安になる。

 

 一刀はその眼で多くを語る為、そこから彼女は多くを読み取れるが、やはり表情にも出して欲しいのだ。

どこか一歩退いた態度をしている彼に、孫権はもっと素直になって欲しい。

彼女を嫌いならば嫌いだとはっきり言って欲しいし、その為ならば傷つくのは構わない。

優しい嘘程彼女が恐れるものは無いのだ。

 

 

「ここに来てからまだ一度も婚約者らしいことをしていないからな。嫌ならば、別に構わないが」

 

「嫌という訳ではないのだけれど……その……二人きり、というのは……駄目かしら?」

 

「ふむ……では、今夜孫権の部屋を訪ねても良いか? 今日は満月だ。月を肴に一杯やろう」

 

「それなら喜んで。お酒はこちらで用意した方が良いかしら?」

 

「いや、こちらで用意しておく。丁度先日良い酒を貰ってな」

 

 この世界の者達は酒が大好きだが、一刀は基本的に酒を飲まない。

既に二十を超えている為、彼が元々居た世界でも飲酒は合法であるが、それでも彼は酒にあまり執着が無かった。

孫権の話では孫堅、孫策、黄蓋は酒が大好物らしいが……彼にはその気持ちはあまり理解できない。

 

 北郷一刀は酔えないのだ……夢にも、酒にも。

アルコールを摂取しても酔うことができず、酔いから醒める感覚すらも彼は経験が無い。

その為、彼は酒を飲む際には度数などではなく、何で割るかという味付けを重視する。

彼にとってはアルコールも水と大差ないものであり、変わるのは味だけなのだ。

 

 そういう意味では、酒が苦手な者にも飲みやすいような酒を造るのが彼は得意だ。

流石に酒を造る暇など無いが、その製造法の知識を纏めるぐらいの時間はある。

酒にあまり興味が無かった故にそこまでの知識は無い一刀だが、知っている知識とこの世界での製造法を合わせて、いくつか考え出すことに成功した。

それもまだ誰にも見せていない為、今の処無用の長物であったりするが。

 

 

「そう……それじゃあ、楽しみにしているわね」

 

「ああ、なるべくご期待に添えるようにする。明日の政務に影響が出ない程度の時間に来る」

 

「分かったわ。関羽との逢引、楽しんできて」

 

「逢引?……関羽の件は、彼女に非番時の過ごし方を教える為だぞ?」

 

「あ~……やっぱりそういう処は貴方らしいわね」

 

 孫権は一刀がここまで鈍感である理由を知らない為、思わず呆れてしまう。

この鈍感さも彼が崩壊し始めている証なのだということを知らない彼女は、彼の鈍感さに苦笑できる。

既に壊れ始めている彼を心配する必要がない彼女は、彼に甘えていられる。

気付いている者がどれ程苦しんでいるかに、彼女は気づいていないが、それは罪ではない。

 

 そもそもそれに気づいているのはまだ愛紗だけだ。

誰よりも一刀のことを知り、不完全ながらも同じ竜であるからこそ、彼女は一刀の崩壊に気付けた。

この三ヶ月で彼は鱗を吐かなくなり、完全に成長が止まっているのだ。

思春を逆鱗に据えたが故にその成長が止まり、それどころか死へと歩み始めていることに気付いているのは、愛紗だけだ。

 

 だから、気付かない孫権に罪など無い。

 

 

「まぁ、良い。取りあえず、今夜ここに来る。準備はこちらでするから心配するな」

 

「言われずとも、待っているわ」

 

「それじゃあ、俺はそろそろ行く。今夜また会おう」

 

「ええ、また今夜」

 

 

 一刀は孫権に軽く手を振ると、そのまま歩き出す。

孫権の機嫌はいつも通りであり、彼としては下手な手を打たなかったようで安心した。

女性の心の機微には元々疎い彼ではあるが、感覚の崩壊によって益々それは助長されている。

その眼で以て何を考えているのかを読み取ることはできても、何故そう考えているのかを理解できないのだ。

これは非常に大きな欠陥だが、直す術を彼は知らない。

 

 否、本当は知っている……彼は既に己の崩壊に気付いている。

その原因が、偽りの逆鱗である思春を逆鱗に据えていることも、真の逆鱗である劉備を据えなければ、いずれ死ぬことも彼は知っている。

誰よりも己が死に近づいていることを彼は知っているのだ。

それなのに、彼は逆鱗を変えない。

 

 それは単に一刀が思春に殉じようとしているが故だ。

今まで彼は多くの者に真名に値するだけの誠意を見せてきたし、その信頼を勝ち取ってきた。

思春も彼を信頼してくれてはいるだろう……しかし、彼は思春の真名に対する重みをまだ返せていない。

二度の裏切りを無かったことにはできないし、その贖罪すら彼はなせていないと考えている。

 

 だからこそ、彼は思春に殉ずるのだ。

 

 

「……っ……」

 

 不意に訪れる吐き気に、一刀は抗うことなく吐いた。

口から出て来る鮮血を用意していた手拭で押えてこぼれぬようにしながら、彼はその場で暫くの間血を吐き続ける。

既に吐血に鱗が含まれなくなってから三ヶ月以上が経つ……そして、それが意味することを一刀は知っていた。

だからこそ、彼はそれを愛紗に伝えてはいない。

 

 愛紗にこのことを伝えれば、彼女は思春を殺す。

一刀が既にこの状態になっていることを彼女は知っている筈だし、彼がそれを話せば、容赦なく偽りの逆鱗を破壊するだろう。

愛紗は誰よりも一刀のことを大切にし、思春が一刀の死期を早めることも理解しているのだ。

彼を死なせない為に、原因である思春を殺すのは容易に想像できる。

 

 

「……させる……か」

 

 一刀は愛紗にそのようなことをさせはしないし、思春も死なせない。

愛紗も思春も彼にとっては大切で、愛おしい存在なのだから、どちらも失いたくはなかった。

まるで山のように揺るがない精神を持っている愛紗ではあるが、一刀の関することでは揺らぐ。

だからこそ、このことを話す訳にはいかない。

 

 一刀が劉備を逆鱗とすれば全ては解決するだろう。

誰よりも彼にとっての救いとなることが可能な彼女ならば、崩壊を始めた彼の心身を癒してくれる筈だ。

それをする方が遥かに簡単で、彼も苦しい思いをしなくて済む。

しかし―――それでは思春は死ぬ。

 

 

「……行く、か」

 

 一刀が必要としなくなった時、彼女は何の戸惑いも無く命を投げ出す。

思春はずっと前からそう決めていたし、一刀もそうであることを理解していた。

だからこそ、彼は彼女を逆鱗から外せずに居る……彼女を失いたくないからこそ、今のままで居る。

例えそのせいで自分が死に一直線に突き進むのだとしても、彼は思春を失いたくはないのだ。

 

 だからこそ彼はいつもと変わらぬ強い意志が垣間見える表情で進む。

何も変化していないと皆を騙し、内部で起こっている崩壊を誰にも気付かれないようにする。

皆が天下に向かって進む劉備に従って、日々力をつけている今彼は倒れる訳にはいかない。

まだ死にはしないし、思春も殺させない……そう己に言い聞かせて、彼は破滅の道を進んでいく。

 

 彼は何処にも行けぬ竜にはならなかったが、滅びゆく竜となってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関羽雲長は武人であることを第一として生きてきた。

まだ齢は十八程の彼女であるが、その大半は武によって費やされたと考えて良いだろう。

物心ついた頃から武の極みを求め、十歳頃に出会った一人の武人を目指してその後の十年程はひたすらに部に励んでいた。

その武人のことはもう覚えていないが、とてつもなく強かったのを彼女は覚えている。

 

 果たして、武を極めようとしたが為に戦闘経験は豊富である彼女だが、その代償として娯楽がまるで理解できなくなってしまった。

化粧もせず、友達と共に買い物に出かけもせずに、ひたすらに得物を振り続けてきたのだから、仕方のないことではあるが、彼女にはそういった類がまるで理解できない。

それこそ、食事も衣服も質さえある程度の水準を上回っていれば彼女はそれで良いのだ。

 

 だからこそ、彼女は一刀に娯楽の何たるかを教授して貰うことになったのだが――

 

 

「……いつもと同じ服か。他の服は持っていないのか?」

 

「はい。同じ意匠の服を揃えて貰ったものでして」

 

「あ~……もしかして、それしか着ていなかったりするのか?」

 

「折角頂いた服を使わないのもどうかと思いまして」

 

「……はぁ」

 

 

 早速その娯楽への無頓着さを露呈していた。

 

 そんな関羽に、思わず一刀はため息をついてしまう。

関羽は史実でも大分娯楽などから遠い人間であったそうだが、ここまでとは彼も思わなかった。

この世界には化粧など無い為、そういった点に関しては特に気にしないが、せめて服に関してはもう少し欲張って良いだろう。

服がいかに大切なものなのかを、彼女は分かっていない。

 

 

「関羽、服というものはとても重要なものだ。服を変えれば、気分も変わるんだよ。だから、常に同じ服を着るのは精神衛生上、あまり良くない」

 

「ふむ……気分転換する際には服を変えた方が良いということでしょうか?」

 

「その通りだ。まだその条件は満たされていないようだが、それは今日どうにかしよう。行くぞ」

 

「はい」

 

 衣服はただ身を守る為のものではない……いつの時代もファッションなどがあるのも、それを物語っている。

衣服は化粧と同じで、化ける為に存在するものであり、服を変えることで気分も変わるのだ。

明るい色や暗い色を選びたい時もあるであろうし、制服は己を切り替える為のものだ。

 

 朝廷でも、決まった衣服を着用し、持って入れる物が限られていることから、それは容易に理解できる。

この時代から既に制服というものは存在しており、それを着用しない者達の方がおかしいのだ。

そういう意味では、この世界の有名な文官は自由気まま過ぎるのかもしれない。

実質乱世なのだから、そのような細事に拘る意味も無いが。

 

 

「まずは何処に行くのでしょうか?」

 

「衣服を選びに行くぞ。代金は俺が払う」

 

「そ、それは北郷殿に悪い気が……」

 

「気にするな。どうせ殆ど使い道は無いんだ」

 

「は、はぁ……そうですか」

 

 一刀は幽州涿郡の太守である劉備の補佐に加え、様々な役職の補佐を行っている。

この城で最も働いているのは彼であり、その仕事量は劉備達全員分を足して漸く釣り合う程だ。

これは竜であり、睡眠を必要としない彼だからこそ可能な芸当であって、人間には真似できない。

竜の精神は人間よりも遥かに強靭で、人間であれば頭がどうにかなりそうな量の情報も受け止められるのだ。

 

 一刀が寝るのは一ヶ月で精々一刻程度であり、それだけでも彼には十分過ぎる。

有り余ったエネルギーはそれこそ彼が本気で暴れなければ少しも減らず、寝れないのだ。

そのエネルギーを発散することすらも、彼には叶わない。

竜が本気で暴れてしまえば、その場所の地形が変わる……それ程に圧倒的なのだ。

 

 そんな彼に全てを解き放ってしまうことなどできよう筈もない。

空にひたすらに氣弾を撃ち続けることも試してはみたが、一日くらいではとても消費しきれない。

三日三晩撃ち続けても空にならない気がするほどに、彼の力は無尽蔵に近い。

上限は確かにあるのだ……だがいくら消費してもすぐにまたそこに回復してしまう。

 

 

 

「関羽こそ、使い道が無いんじゃないのか?」

 

「実はそうなのです……まさかここまで何も使い道が無いとは思いませんでした」

 

「衣服は、いくつか店があるが……取りあえず全部回ってみるか」

 

「こういう場合、どのような服装を買うのでしょうか?」

 

「そうだな……大体は華やかな服を買うものだが、関羽の場合あまり華美でない方が見栄えが良いだろうな。どちらかと言うと、清楚に見えるものの方が似合いそうだ」

 

 関羽は間違いなく美人であるし、華やかな服装も似合うだろう。

しかし、一刀のイメージでは、彼女は派手な服装ではなく、小さく纏まった服装の方が似合いそうだ。

気高く、冷静で、しかし激情を併せ持つ彼女は、様々な服装が似合うだろう。

しかし、一刀はやはり華美な装飾の無い服が彼女に似合うであろうことを予測する。

 

 愛紗のイメージに引っ張られている部分もあるだろうが、二人は実際良く似ている。

外見だけでなく、冷静なようでとても激情家であることも、主のことを第一として己を殺すところも、本当にそっくりなのだ。

まるで同じ人間を見ているような錯覚さえ、一刀は覚えてしまうことがある。

 

 

「むむ……確かに私は地味な女ですが、改めて他人の口から言われると中々に堪えるものがありますね」

 

「地味というのは悪いことではない。飾り気がない様は、実に見ていて気分が良いぞ?」

 

「そ、そうですか……少し気恥ずかしいです」

 

「関羽は美人なんだから、もう少し自信を持てば良いだろうに。気難しい面も確かにあるが、俺ならば嫁に欲しいくらいだ」

 

「よ、よよよ嫁ですか!? ま、まだ心の準備が……」

 

 嫁という言葉に過敏に反応し、顔を真っ赤にする関羽はまさに年相応の女性だ。

こういった話に免疫がないのは彼女と愛紗の大きな違いであろう。

愛紗はまるで年寄りのようにあらゆる事象を冷静に見つめることができる……ある種達観しているのだ。

一刀に関することでなければ、一刀よりも冷静であることは間違いない。

 

 愛紗の年齢は一刀とほぼ同等の筈だが、その冷静さは貫禄が出ている。

その理由を彼は知らないし、愛紗も教えていない……言えば、彼は揺らいでしまうと彼女は知っているから、言えない。

彼女は一刀に愛されたいとは思っているが、そのせいで彼が傷つくのは嫌なのだ。

既に肉体関係を持ちながらも、二人の距離が変わらないのはその為であろう。

 

 

「……関羽、今のは例え話だぞ」

 

「えっ?」

 

「いや、だから今のはもしもの話であってだな」

 

「……そ、そうですか。お恥ずかしい姿をお見せしてしましました!」

 

「別に構わないが、もう少し落ち着きを持った方が良いかもな」

 

 顔を真っ赤にして謝る関羽の姿を微笑ましく思いながらも、一刀は笑う。

無邪気なその笑顔は、いつもの氷の仮面とのギャップも相まって、破壊力が高い。

関羽はただでさえ赤い顔を、その笑顔を見たせいで余計に真っ赤に染める。

少しずつ笑顔を見せる頻度が上がっているのは、彼が彼女に心を開き始めている証だ。

そして、彼に対して関羽が心を開き始めているのもまた、同様であった。

 

 一刀にとって愛紗は掛け替えの無い存在であり、それと瓜二つな上に同じ真名を持つ関羽はかなり親近感が持てる存在だった。

既に完成されている愛紗とは違い、まだまだ発展途上な彼女を見守るのは、彼にとっての楽しみの一つなのだ。

同じ姿と真名を持ちながらも、少しばかり違う道へと向かう彼女と愛紗は、実に見ていて面白い。

 

 

「それは、司馬懿殿のようにでしょうか?」

 

「あそこまでなれとは言わない。あの領域に辿り着くには途方も無い時間が必要だ」

 

「しかし、司馬懿殿はまだお若いでしょう?」

 

「ああ見えて、既に二十台後半だぞ? 俺も同じくらいの年齢だが」

 

「そうなのですか? お二人共随分お若く見えるのですね」

 

 一刀も愛紗も既に年齢は二十台後半であり、あと数年で三十路である。

竜である彼らからすれば、三十年など大した時間ではないが、人間からすれば非常に長い時間だ。

この世界の人間の平均寿命は約六十歳といったところで、三十年は寿命の約半分に値する。

だからこそ、この世界の人間達は夢を残そうと十台、二十台の内に必死になるのだろう。

 

 十五歳で元服するのはある意味妥当な判断と言える。

孫堅は既に三十台後半に差し掛かる頃であろうが、孫策達の年齢を考慮すると、今は亡き夫と結ばれたのはやはり十五の頃であろう。

二十になってもまだ結婚していない孫策や劉備達の方が、この世界では異端になる筈だ。

一刀と愛紗に至っては、もはや完全に行き遅れである。

 

 この世界での婚期は凡そ十五から二十五の十年間であり、一刀達は完全にアウトなのだ。

婚期というのは飽く迄建前であり、実際はその後に結婚することも珍しくはないそうだが、それでも一刀は年を取ったという実感を得てしまう。

訳も分からずこの世界に放り出されて、早十年余りもの時が過ぎたのだ……彼にとっては実に感慨深いことだ。

 

 

「関羽達の成長の速さを見ていると、自分の年を実感してしまうよ」

 

「北郷殿達も十分若いではありませんか。そのようなことを仰らないでください」

 

「そう、だな……」

 

 関羽は、一刀の表情に垣間見える儚さに、思わず叫びたい衝動に駆られてしまう。

彼の居場所はここだと、抱きしめて言い聞かせたい衝動を抱いてしまうのだ。

まるでそうしなければ彼が消えてしまうかのような、正体の見えない不安が彼女を支配する。

北郷一刀の圧倒的な力の前では全てが無力な筈なのに、彼が消えてしまうような気がするのだ。

 

 かつて愛紗が語った天下三分の計の欠点を関羽は半濁する。

それが現実になれば、きっと劉備の下に集った皆は驚き、しかし悲しまないだろう。

そうならないように一刀は動いている上に、愛紗はそれを止めない。

彼を止められるのは愛紗だけであり、関羽にはできない。

 

 

「北郷殿にはまだまだ教えて頂きたいことが沢山あります。どうか、今後も我々のことを見捨てないでください」

 

「妙なことを言うな……見捨てなどしないさ。少なくとも劉備が天下を取るまでは傍に居るつもりだ」

 

「そうですか……良かった」

 

 関羽にとって、北郷一刀は師であり、憧れの男性だ。

同じ容姿をしていて、しかし、あらゆる点で彼女よりも優れている愛紗の存在さえなければ、彼女はもう少し勇気を出せただろう。

一刀に支えられるだけで、彼を支えることのできない関羽とは違い、常に愛紗は彼を支えている。

同じ姿であるだけに、余りにも大きな差が彼女を臆病にしてしまう。

 

 一刀はそのようなことなど気にしないであろうし、笑顔で受け入れてくれるだろう。

しかし、関羽にはそんな簡単に割り切ることなどできない……それ程までに愛紗の存在は大きい。

どんなに彼女が彼に尽くしても、彼女以上に彼を支える愛紗の姿がある。

どんなに彼女が彼に近付いても、彼女以上に彼に近い愛紗の姿がある。

 

 まるでドッペルゲンガーのような二人は、同じ場所に居ることは叶わない。

 

 

「! ああ、あそこだ。まずは自分で選んでみるか?」

 

「う~ん……私には決められる気がしないので、選んで貰って宜しいですか?」

 

「そうか。分かった」

 

 一刀は関羽が選んだところでいつもと同じだというのを良く分かっていた。

まず彼が簡単な手本を見せて、後はそれを参考に彼女が選んでいけば良い。

服を選ぶのは、幼い頃は親がして、そこから子も真似て、やがて自分に合ったものを自分で探すようになる。

関羽にはその最初の真似をする機会がなかったに違いない。

 

 関羽はあまり過去のことを話そうとはしないし、一刀は言われずとも凡そは分かる。

記録に殆ど残っていないが、元々司隷に居た筈が、幽州に来たのだから、何かしらの衝突があったのだろう。

親はもう死んでいるかもしれないし、まだ生きているかもしれない。

しかし、どちらにしろ関羽はそれを振り返るつもりは少しも無さそうだ。

 

 

「ふむ……どれにするかな」

 

「いらっしゃいませー! おや、北郷様ではありませんか。今日は関羽殿と逢引ですか?」

 

「あ、ああああ逢引!?」

 

「バカを言うな。全く人目を避けていない時点で逢引ではないだろうに。ん?……関羽、そんな複雑そうな顔をしてどうした?」

 

「はぁ……誰のせいだと思っているのですか」

 

 関羽からすれば、一刀のこういう一面はあまり好きになれない。

戦う時、誰かと争う時、誰かを救う時、その眼は誰よりも多くを理解し、多くを語る。

それなのに、こういったことに対してはまるでそれが働かない。

本当は分かっていて、それでも分からない振りをしているだけなのでは、という疑念すら湧いてしまう。

 

 実の処、関羽は一刀に服を選んで貰えることがとても嬉しい。

まるでデートのようなこの状況に、彼女は内心ワクワクしているのに、彼はそうではない。

それが少しだけ悔しくて、悲しくて、彼女は不機嫌そうな表情でそれを隠す。

今はまだ二人きりではない……彼女の弱さを打ち明けることができるタイミングではない。

 

 

「?……まぁ、良い。今日は関羽に少しばかり娯楽を覚えて貰う為に来ている」

 

「そうだったのですか……確かに、関羽殿は仕事以外では殆ど街にいらっしゃるのを見かけませんね」

 

「む?……この服はいくらだ?」

 

「ああ、これですか……これなら、これくらいですかね?」

 

「……関羽、これを試着してみてくれないか?」

 

 一刀は不意に目についた服を関羽に試着するように言ってみる。

彼は衣服のデザインなどにそこまで精通している訳ではないが、彼が居た世界の水準はここのそれよりも遥かに高い。

この世界からすれば彼の眼は十二分に肥えている訳だ。

 

 

「これですか……分かりました」

 

「着替え終わったら呼んでくれ」

 

 心なしか顔が赤い関羽に服を渡すと、一刀は真紅の眼を閉じた。

いつ変わったのかさえも覚えていない、その眼はまさしく異形の眼であり、彼が人間として死んだ証だ。

十年前は時々現れるだけだった筈が、今や元々の茶色の眼を排除し、完全に彼の眼となった真紅の竜眼は、皆を恐怖させる。

 

 まるで至宝の如きその眼は、多くを語り、多くを理解する。

眼で会話をする竜らしいと言えばらしいのだろうが、目を失ったとしても竜には言葉がある。

ならば、何故目で以て会話するのか?……それは、幻想は視覚に最も強く具現化されるからだ。

 

 言葉は耳を通り、脳に入ることで幻想――ただの情報へとその形を変える。

竜の眼は、目から直接それを行い、言葉よりも遥かに多くを語ることで、すれ違いを極力減らしているのだ。

それでもすれ違いは起きる……それすらも完璧なものではない。

竜は多くを語り、多くを理解するが、全てを理解することはできない。全てを語ることも叶わない。

 

 心は己ですらも理解できないものだからだ。

 

 

「……そうだ。劉備達の評判はどうだ?」

 

「劉備様達の評判は、それはもう素晴らしいの一点です。勿論、北郷様もです。厳つい表情をしているけれど優しいひと、いう評価もありましたね」

 

「劉備達に関しては評判通りだが……俺に関しては、少しばかり異なるようだな」

 

「いえいえ、北郷様も評判通りだと思いますよ? そういう自己の過小評価はあまり宜しくありませんが」

 

「そうか……気を付けよう」

 

 一刀は自己肯定があまりできない人間だった。

人間として死んだ後も、彼は自己肯定が足りていない……自分で自分を認めることができないのだ。

他者の実力を正当に評価し、それを褒めることができるのに、自分を褒められない……これは非常に歪だ。

 

 人間はまず自分を褒めなければ、他者を褒めることなどできない。

どんなに褒めているように見えても、自分を褒められない者のそれはまやかしでしかない。

そして、北郷一刀のそれはまやかしではなく、本物であり、彼が己を褒められないのはおかしいのだ。

それは彼が元来持っていたものではなく、様々な要因が生み出した自己否定がそうさせている。

 

 元来の彼は、できないことはできないと割り切り、適材適所を良く理解している。

自分にできることはできる限りやり抜いて、できない部分はできる者に任せることができる人間だったのだ。

今もその本質は変わっていないが、彼の選択がそれを曇らせている。

元に戻る為には、彼は辛い選択をしなければならない……だからこそ、彼は戻れない。

 

 

「北郷殿、着替え終わりました」

 

「ん? そうか、いったいどんな風に――」

 

「ど、どうでしょうか?」

 

「……綺麗だ」

 

 思わず息を吞みながらも、一刀は静かにその言葉を紡いだ。

彼が選んだ服を来た関羽は、彼の予想を上回る程にその服が似合っていた。

一刀の中での関羽のイメージは、荒野に咲いた一輪の花であり、厳しい自然の中で力強く咲き誇っていかのようなその凛々しさが魅力的に見える。

愛紗はもはや永遠に枯れぬ造花の如き存在であるが、関羽はそれとは違い、終わりがある。

 

 確かに二人は殆ど同一人物のように見えるが、違う。

その根底は同じかもしれないが、積み重ねてきたものが異なり、それが違いを生み出す。

関羽は刹那を生きる人間であり、愛紗は永い時を生きる竜だ。

生き方がまるで異なる……刹那に精一杯輝こうとする関羽と、色褪せぬ輝きを持つ愛紗では余りにも異なる。

 

 例え同じ血肉を持っていたとしても、二人は別の存在なのだ。

 

 

「き、きき綺麗ですか!? 私が!?」

 

「ああ……綺麗だよ。やはり、素材が良い」

 

「おお、確かにお綺麗です。北郷様もお目が高い」

 

「これを買おう。ついでにそれとあれも」

 

「おお! ありがとうございます!」

 

 一刀は関羽に似合うであろう服を更に二種類選んだ。

娯楽を教えるという意味では、彼女に全て試着して貰うべきなのだろうが、彼はそうしない。

あまり時間ばかり喰うものは、彼女が好きそうではないからだ。

必要不必要で考えるのは構わない……後はただ、それを吟味する時間を少しばかり増やすだけだ。

 

 今回一刀が示したのは飽く迄手本であり、関羽はこれから自分に何が似合うのかを考え始めるだろう。

一刀が選んだ服を参考にするのだから、参考となるものは多い方が良い。

彼が三着を買うことにしたのは、そういう理由だ。

 

 

「三つ合わせてこのくらいでいかがでしょうか?」

 

「むぅ?……随分と安いな。三割程増やさないと損だろう?」

 

「北郷様達のお蔭で安心して商売ができますからね。このくらいの割引はしないと、恩返しにならないかな、と」

 

「そうか……では、有難く受け取ろう。丁度だ」

 

「毎度あり!!」

 

 一刀が代金を渡すと、店員は笑顔でそれを受け取った。

この街は随分と発展してきているが、同時に様々な混沌がやって来ようとする。

この店は違うが、中には悪徳な商売をしようとする輩も出て来るのは発展する場所の道理であろう。

そういった店などがどうかを監視する細作も用意してあるので、もしもこの街にやってきたのならば財布代わりになって貰うだけだが。

 

 一刀の眼は多くを理解し、特に悪意に対して敏感だ。

罪悪感、殺意、悪意、後悔……様々な負の感情を特に敏感に感知するが故に、裁く者としては最高の人材だ。

彼は弱さを受け入れ、しかし腐敗を許さない……竜は腐敗を許せない。

選り好みであることも、綺麗ごとであることも彼は理解している。

 

 北郷一刀は竜であり、人間を超越した存在ではあるが、完璧ではない。

彼だって選り好みをするし、嫌なものは排除しようとするし、笑いたい時は笑うし、悲しい時は泣く。

ただ、余りにも強大過ぎが故に、彼は障害など全て破壊して、それを行えるだけだ。

だからこそ夢物語のような、腐敗の無い世界に限りなく近い世界を実現できる。

 

 化け物として人間達に退治さえされなければ、彼は天下三分の計を実現できるのだ。

 

 

「荷物は俺が持つ。関羽はそのままで良いぞ」

 

「えっ? ですが……」

 

「こういう時は、男が荷物持ちで良いんだ」

 

「むむ……では、お願いします」

 

「またのご来店をお待ちしています!!」

 

 笑顔で二人を見送る店員に軽く手を振りながら、一刀はその眼を細める。

発展すればする程に皆は笑顔になっていくが、停滞してしまった時は厳しい。

誰もが希望を持てず、次にどうすれば良いのかが分からない状態になってしまうのだ。

そんな時代に先を読めるのは一部の天才だけであり、今はまさにそういう時代である。

真の乱世の始まりは、もうすぐ近くまで迫っている。

 

 黄巾党が現れた時から既に始まっていた崩壊は、もうすぐ実だけでなく名も殺す。

まさに王朝の滅びと、新たな王朝の誕生が起こる直前に、彼はこの世界に降りてきた。

思えば、最初からおかしかったのだ……整備された元の世界からここにやってきたならば、彼は多くの病気に対して抗体を持たず、すぐに死んでしまう可能性もあった。

だが、実際彼は生き延びて、二度目の人間の死を迎え―――竜になった。

 

 彼は暴風となって古いシステムを破壊し、その後に王に相応しい者がこの地を治めることになるだろう。

化け物は歴史に深く関わるべきではないかもしれない……しかし、彼は愛おしい者達の為にそこに関わる。

彼は愛することを恐れないし、逃げたりはしない……愛し、背負い、最後まで殉ずる。

 

 そんな彼だからこそ、愛紗は数十万の別離にも耐えられたのだ。

 

 

「関羽、次は向こうの店に行くぞ」

 

「はい!」

 

 誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも残酷な彼は、こうして皆の記憶に己を刻み付けていく。

彼の周りに居る者達は、より鮮明に、より生々しく、北郷一刀という存在を奥深くに刻み付けてしまう。

それはとても残酷なことだ。

 

 消えてしまうと分かっているものに心惹かれてしまうのは危険である。

そうだと分かった瞬間に諦める程度のものならば良いが、彼はそうではない……甘い果実なのだ。

その甘さを知れば、もはや離れることなど叶わない。

諦めることなど、できる筈が無い。

 

 彼と過ごす時間は楽しく、永遠に色褪せることがないと思える程のものなのだ。

だから、関羽はきっとこの一日を忘れない……忘れられなくなる。

北郷一刀と共に過ごした日々を大切にし、彼女は彼を愛するようになるだろう。

誰よりも彼を理解したいと欲し、やがてそこに至った時、彼女は知ることになるのだ。

 

 北郷一刀に愛紗と呼ばれる為の術を―――彼を司馬懿と同じ真名で縛る術を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が暮れ始め、もう後半刻もすれば夜が来るであろう時間、一刀と関羽は街から城へと戻っていた。

一刀の両手には、それなりの量の籠が抱えられている。

人間にとってはかなり重いかもしれないが、彼は竜であり、この程度の重さは何も持っていないのに等しい。

 

 あの後二人はかなりの店を回ったが、代金は全て一刀持ちであった。

関羽は自分で払うと言ったが、彼がそれを聞かなかったのである。

彼は今後関羽が自分で買い物に行く際に迷走することも考慮して、ここで余計な金を使わせないようにしているのだが……彼女からすれば、何とも肩身が狭い状況だ。

関羽は、何から何まで、一刀に与えられてばかりで何も返せないのは嫌だった。

 

 

「さて……今日はこんなところだな。かなり回ったが、どうだった?」

 

「とても有意義でした。娯楽の奥深さはあまり分かりませんが、いつもとは違うものを探してみるのも面白いものですね」

 

「人間は少しずつだが変わる必要がある……変わらなければ、腐ってしまうからな。勿論変わってしまってはいけない場合もあるが、できれば少しずつでも変わり続けることを勧める」

 

「はい、心に留めておきます」

 

「……そうか」

 

 実を言うと、一刀はこの世界に来てからとても寂しい。

この世界には、彼を否定してくれる者がまるで居ない上に、仮に居ても、その強さは彼にとって有象無象のようなものだ。

唯一愛紗や劉備達だけが、彼の歪みを否定し、変わるように言ってくれる。

しかし、彼女達は特別だ……一刀は、普通の者達にそうして欲しい。

 

 そういう意味では、孔明は彼にとって良い否定者になるかもしれない。

今は未だ幼い為力不足かもしれないが、いずれ立派な参謀となる彼女には、その素質がある。

何の容赦もなく彼を責め、その歪みを指摘してくれるかもしれない。

一刀を滅ぼすつもりで責めはしてくれないだろうが、それなりの刺激にはなるだろう。

 

 

「そういえば、北郷殿は街の者達に随分と慕われておられますが……何故城でもあのように振舞われないのですか? あちらの方で接してくださった方が皆もっと仲良くできると思うのですが」

 

「そうだな……例えば、俺が明日居なくなったらどうする? いくら探しても見つからなくなったら?」

 

「むぅ……その場合は、北郷殿の代わりを我々で担うしかありません」

 

「それだ。今のままなら、誰も悲しまないで済む。俺が居なくなっても、代わりがいくらでも居る」

 

「……それは逃げではありませんか?」

 

 北郷一刀は能力のみを買われた状態でなければいけない。

彼が居なくなっても、その代わりは能力的なものだけで埋められなければいけないのだ。

人間的なものは簡単に代替できないが、能力的なものは比較的簡単にできる。

いつかはこの陣営を去るつもりの一刀は、この陣営に能力だけを必要とされなければならない。

 

 しかし、それは酷く矛盾した考え方だ。

ここに集った者達は彼が助長させた劉備の信念の下に集った者達であり、この陣営そのものが彼の産物と言っても良い。

つまり、この陣営は元々彼の人間性が生み出したものであり、彼無しではここまで強大にならなかったのだ。

 

 確かに、劉備は彼無しでも進んでいったかもしれない。

北郷一刀という竜の支えが無くとも、やってこれただろう……様々な痛みを経験することは叶わなかっただろうが。

関羽達がそうさせなかったのは間違いない……彼女達に劉備の痛みを受け止めるだけの余裕は無かった。

劉備の下に集った者達は、確かに能力に優れているが、人間として未熟な者が多い。

 

 それに気付き、成長させたのは他ならぬ一刀だ。

 

 

「逃げ、か。確かにそうかもしれないな」

 

「北郷殿、我々は貴方に与えられてばかりで、今もまだそうです。ですが、いつか、この恩は全て返します。ですから――――受け取ることを恐れないでください」

 

「っ……」

 

「私には、北郷殿が何故そこまで受け取ることを恐れるのかは分かりませんが、それは卑怯です。与えるだけ与えて受け取らないのでは、健全な関係は築けません。与え、受け取り、初めて健全な関係性は生まれる。それを私に教えてくれたのは貴方だった筈―――違いますか?」

 

「……違わないな。俺がお前に最初に教えたことだ。忘れる筈が無い」

 

 ただ強請るだけでも、与えるだけでも駄目だと関羽に教えたのは一刀だ。

まだ出会ったばかりの頃に二人で偵察に向かった際にそれとなく言ったことを、ここで言われるとは彼は夢にも思わなかった。

一刀は驚き半分、嬉しさ半分で続きを聞く。

関羽がここまで成長したのならば、劉備も安泰であろう。

 

 

「北郷殿、確かに私達は貴方のように強くないし、賢くもありません。ですが、貴方が思っている程浅はかでもありません。我々から何かを受け取ることは貴方にとって穢れになるのですか?」

 

「いや、そういう意味ではない。俺はただ真名の重みを――」

 

「真名を受け取らずに、一方的に信頼を押し付けるだけでは、まるで真名を穢れだと思っているようではありませんか。北郷殿は我々から何かを受け取ることで穢れる、と言外に語っているように見えます」

 

「……不浄と神聖は意味は違っても、取る措置は同じだ。どちらも遠ざける」

 

「真名はまだ良いのです。我々も思うところはありますから。ですが―――何も受け取らないのは卑怯です」

 

 一刀は確かに、受け取ることを恐れている。

常に彼がより多くを与えている状態でなければ、失ってしまった時に悔しいからだ。

甘家の皆には結局まともに恩返しもできなかったからこそ、彼はそうなった。

別れてしまう前に与えきらなければ、彼は安心できないのだ。

 

 それこそが甘家が生み出した彼の歪みである。

与えることを最優先させ、受け取ることを躊躇してしまう……彼がそうなったのは始まりの場所が原因だ。

受け取り過ぎてしまうのを恐れて、受け取れなくなっている彼は、それを誰かに指摘して欲しかった。

 

 そして、それを今関羽がしてくれた。

 

 

「そうだな。まったくもってその通りだ。俺は卑怯だ……しかし、そういうのならば何か貰えると期待しても良いのかな?」

 

「えっ?」

 

「なんだ。口から出まかせだったのか?」

 

「そ、そんなことはありません! ただ、あっさり認められたもので、驚いてしまって……」

 

 一刀はずっと前から己の矛盾に気付いていた。

関羽がこうして言葉にしてくれるだけで、彼はそれを再確認して受け入れることができる。

彼は人間ではなく竜であり、変化を恐れない。

変化を恐れてしまえば、竜であることに恐怖してとっくに自害している。

そのような軟な精神では竜はやっていけないのだ。

 

 

「まぁ、すぐに何か寄越せというのも我儘だからな……恩返しとやらに期待しておくさ」

 

「は、はい! ご期待に添えるように頑張ります!!」

 

「しかし、関羽も成長したな。まさかお前に言い聞かされることになるとは思いもしなかったぞ」

 

「北郷殿のお蔭です。今まではただ貴方に導いて貰っていただけですが、今後は我々も貴方を支えます。ですから――共に桃香様を天下に導きましょう」

 

「ああ、そうだな……今後も宜しく頼むぞ、関羽」

 

「こちらこそ、宜しくお願いします。北郷殿」

 

 関羽と一刀は夕焼けの中、静かに固い握手を交わす。

同じ主の為に戦い、共に歩むことを誓うこの握手を二人は忘れないだろう。

漸く一刀を支えることができる領域にまで達した関羽は、その凛々しい表情を微かに緩ませ、微笑む。

それに合わせて、一刀も笑う……時折見せる、あの自然な笑顔でそれに応える。

 

 北郷一刀には司馬懿仲達が居て、愛紗という真名は彼女のものしか呼ばれない。

関羽はそのことがずっと気になっていて、真名を預けるのが怖かった。

愛紗という同じ真名を持つ者であっても、あまりにも大き過ぎる差がそれを躊躇させていた。

しかし、今日彼女は少しだけ前に進んだ……それは大き過ぎる差を埋めるには心許無い一歩だが、それでも彼女にとっては大きな一歩だ。

 

 どんなに能力が足りなくても、どんなに姿形が似ていても、真名までもが同じでも、二人は同一ではない。

だから、関羽はその迷いを振り切って、北郷一刀という存在を支える。

何度も司馬懿と己を比べてしまうだろう。何度もその差に苦しむだろう。

それでも、関羽は彼を支える―――今まで彼から貰った恩を返す為に。

 

 

 

 

 

 彼を愛することで伴う痛みを、彼女は今日受け入れた。

 

 

 

 

 


 
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