一 ・ 家族
狂える赤月は、無垢なる暁によってその幕を閉じた。
意識の戻らないセアルとレンを休ませるために、ラストは身を潜める場所を探した。
ガイザック将軍を倒し、アレリア将軍を縛り上げて放置してきたものの、城内にはまだ宰相が残っている。
レニレウス公爵から受け取った外套を羽織っていれば、すぐさま見つかる心配は無かったが、いずれにしても二人が目覚めるまでは、安全な場所に移動しなければならない。
「どうしたもんかな……」
ラストは思考を巡らせた。傍にある朽ちた屋敷は、彼が六年間過ごした懐かしい家だ。この屋敷は皇宮区と商業区の境にあり、子供の頃はよく塀を越えて商業区へ忍び込んだものだ。
ひとまず屋敷へ運び込もうと立ち上がった時、路地からこちらを窺う老人の姿が目に入った。
こんな早朝から皇宮区を、しかも逆賊とされた侯爵家の屋敷周辺をうろつく者など普通はいない。
老人を警戒して、ラストは悟られないように身構える。
「どうかなさったんですかの。急病人のようにお見受けしますが」
老人はラストの用心を気にも留めず、気さくに話しかけてくる。
「ああ……。連れが倒れちまったんで、どこかで休ませようかと」
我ながらつたないウソだとラストは思った。
辺りには兵の死体が山と転がっている上に、セアルは衣服に返り血を浴びているのだ。
この老人は宰相の手先だろうか。それとも皇宮内に勤める一般人だろうか。どちらにせよ、人目についてしまったのは、彼らには非常に都合が悪かった。
「……そうですか。私の店がすぐそこにあるもので、よろしければ休まれたらどうでしょう」
老人の意外な言葉に、ラストは迷った。罠かも知れない。だがこのままここに留まるのも同等に危険だ。
ラストのためらいに気付いたのか、老人はさらに続ける。
「ちょうど皇宮の厨房に、生鮮を納品した直後なんですよ。下男もおりますから、運ぶのを手伝わせましょう」
ラストは腹を括った。何かあれば、自分が二人を守るしかないだろう。罠でも何でも、今は乗る以外に手は無かった。
老人の誘いで訪れたのは、屋敷の裏手に店を構える、食糧品の総合問屋だった。
セアルとレンを奥で休ませてもらっている間、ラストは客間で老人の話し相手をする事になった。以前の経験からしても、二人は丸一日眠っている可能性がある。
出来るだけ情報を引き出しておく必要もあり、老人の話を聞くくらいなら問題は無いだろうと判断した。万が一こちらを詮索してきた場合は、ごまかすつもりでいた。
帝都を離れていた十年間について、ラストは注意深く聞き耳を立てた。
侯爵家の断絶、崩れた城の再建など、ある程度把握している情報が多く、そこまで有益な話は無い。
ラストはふと暖炉に飾ってある、家族の肖像画に目をやった。若い頃の老人とその妻、娘の姿が描かれている。
老人は肖像画に気付き、懐かしそうに呟いた。
「私の、一番幸せだった頃の絵です。妻も娘も、もうこの世にはおりません」
その言葉に、ラストは返事が出来なかった。
「娘が十六の時に、さる貴人のお目に留まりましてね。その方のお子を生んだのですが、その責めを負って一度は身代の召し上げを受けたのです。今となってはお赦しが出て、こうして商売も出来ますが、当時は妻にも苦労をかけたものです」
「そうか……。孫にあたる子は元気なのか?」
「ええ。恩赦の際に、祖父として名乗りを上げる事を禁じられましたが、元気でいてくれるならそれで良いと思っております」
微笑を絶やさず語る老人に、ラストは物悲しさを憶えた。
「いつか会えるといいな、その子に」
その言葉に、老人は嬉しそうに微笑みを浮かべた。
予想通り、セアルとレンは昏々と眠り続けた。ラストも老人宅へ泊めてもらい、次の日ようやくレンが目を覚ました。
さすがにこれ以上留まるのは老人に迷惑がかかると思い、ラストは潜伏先を移る事にした。
「世話になった。少ないけど受け取ってくれないか」
ラストは老人に銀貨を数枚握らせようとした。しかし老人は頑なに拒否をする。
「いいえ。これは受け取れません。私があなたを助けたかっただけなのですから。どうか収めて下さい」
老人の行いに対し、ラストは疑問を抱いた。
「どうしてオレたちを助けようと思ったんだ? それが分からないと納得出来ない」
「あなたが困っていたからです。それだけではいけませんか」
老人に悪意が無いのは、ラストには分かっていた。優しさに満ちたその表情に、祖父がいたとしたら、こういう人なのかも知れないと彼は思った。
「ありがとう。いずれまた礼に来るよ」
「はい。お待ちしております」
セアルを担ぎ、レンを連れて夕闇へ紛れるラストの背中へ、老人は呟いた。
「どうかお元気で。ラストール様」
ラストとレンは老人の店を離れ、商業区にある酒屋の倉庫に忍び込んだ。別れ際に持たせてくれた食糧で、ある程度は食いつなげるはずだ。
老人がくれた情報では、二日前に宰相が消えた噂があるとの事だった。遡ると、血月の夜に消えたという話になる。
「いっそ城内に乗り込むのもアリかもな……」
未だ目を覚まさないセアルを抱え、ラストは途方に暮れた。返り血に染まっていたセアルの衣服は洗濯され、今は真新しい服が着せられている。
ふいに、窓の外で何かが動いた。真夜中の暗闇の中、動き回るものなどそうは無い。
倉庫にレンを残し、ラストは小剣を手に外へと忍び出る。
ゆっくりと辺りを見回し、気配を探す。だが人影らしきものは見当たらない。
その時、倉庫から顔を出したレンが声を上げた。
「ねえラスト。カラスがいるよ」
こんな夜更けにカラスがいる訳がないと、ラストは指し示された方向を見やる。そこには果たして、一羽のカラスが行儀よく座っていた。
「まさかしゃべったりしないよな、このカラス」
何かを思い出したようにラストは呟いた。
「カラスだってしゃべるよ?」
「やっぱりアンタか」
自分の予想がはずれなかった事にうんざりし、ラストは人語を解するカラスを睨みつける。
「何しに来たんだよ。取り込み中だから帰ってくれ」
「ひどいなあ。キミたちを探しに来たのに。宰相には追跡用の使い魔をつけて追い払っておいた。城にサレオスを連れて来ているから、そこまで来て欲しい」
「セアルの兄貴か。こんな形でまた会う事になるとはな」
ラストは途方も無い因果に嘆息する。
カラスに導かれるように、ラストはセアルとレンを連れて商業区を離れ、皇宮を目指した。
二 ・ 再会
十年ぶりの皇宮は、ラストにはとても凱旋と呼べるものでは無かった。
五将軍の内二人は死亡し、兵にも死傷者が多数出ている上に、皇帝の間の内部は全焼に近い。宰相によってこうむった被害は甚大だった。
商業区から皇宮区へ至るまでに、帝都で三度目の夜が明けた。
昨晩一睡もしていないレンは眠そうに目をこするが、それでも一生懸命ラストについて来る。
城に到着してすぐに出迎えたのは、マルファスとサレオスだった。十年の月日も、純血種であるサレオスをまるで変えなかった。
「お久しぶりです殿下。立派になられましたね」
「あんたは、あの頃のままなんだな……」
そう言いかけて、ラストはすまないと口にした。その様子にサレオスは微笑で返す。
「我々精霊人は停滞した時を生き、緩やかに滅ぶ種ですから。成長が許されるのは、人間だけです」
サレオスはラストから弟を預かり、ぽつりと呟いた。
「いずれ人間は大陸だけでなく、世界を手に入れるでしょう。その頃には神も無く、精霊人や獣人族は消えてしまっているかも知れません」
それだけ言うと軽く会釈をして、サレオスはセアルを奥へと運んで行った。レンはセアルを気にして、その後へと続く。
彼らの後姿を見て、マルファスが口を開いた。
「やはりセアルには、顕現の負荷が大きいようだね。正直どのくらいで目を覚ますのか、僕にも想像がつかない」
「アンタにも分からないんじゃ、お手上げじゃねえか。宰相だって、いつ戻って来るかも分からないのに」
「あいつはもう戻って来ないと思うよ。式鬼の大半を破壊しておいたし、そこまで脅威では無くなったのもある」
マルファスの言葉に、ラストは驚いた。
「そこまで追い詰めておいて、何でトドメ刺さないんだよ」
「僕では倒しようが無いのさ。宰相が関わっている正史でも残っていればいいんだけど、今伝えられているのは、皇帝家に都合のいい偽史ともいえる」
「勝者が正義、か……」
ふと脳裏をアレリア将軍の言葉がよぎる。
「そういやアレリアの野郎を旧地下水路に放置して来ちまったけど、アイツどうなったんだろ」
「アレリア将軍なら、レニレウス公爵が救助していたよ。アレリア公爵に引き渡して、皇子が謹慎させたそうだ。……噂をすれば影か。僕は退散するとしよう」
見ると奥から独特な風貌の男が歩いて来る。間違いなくレニレウス公爵だ。
「その左手の傷、後で診てもらったほうがいいよ」
そう言うと柱の陰に溶け込むように、マルファスの姿は見えなくなった。
マルファスと入れ替わるように、レニレウス公爵がラストの許へとやって来る。
「ごきげんよう、ラストール君。先程黒い軍服の方がこちらに見えたと思ったのですが」
「……急用があるようで、帰ったよ」
「そうですか、それは残念です。あの方が宰相から、銀盤の王器を取り戻して下さったそうなので、受け取りたかったのですが」
ふてぶてしい奴だとラストは思ったが、それはおくびにも出さず話を続けた。
「こっちにはいつ着いたんだ。姉上はどうしてる?」
「宰相から帰還の催促が来てうるさかったので、昨日到着するように調整しました。セトラ侯爵はどうしてもこちらへ同行したいとの事でしたので、お連れしています」
相変わらず危ない真似をする姉に、ラストは呆れる。宰相がいたらどうするつもりだったのか。
「そうか。悪いけどもう少し預かっててくれないか。オレはこのまま宰相を追うつもりだ」
「勝算がおありなので?」
微笑の中にも鋭い眼光を向け、レニレウス公爵が訊いて来る。
「思い当たる事があるんだ。今はそれに賭けてみるつもりでいる」
そのまま城内に向かおうとするラストに、レニレウス公爵が声をかけた。
「そういえば、皇子と皇女が貴方に会いたがっておられましたよ。近日中に夜会の場を設けて下さるそうです」
案内役の侍女が現れ、ラストを宮殿内へと導いた。レニレウス公爵の言葉に振り向くことも無く、ラストはその場を後にした。
侍女に案内されラストが着いたのは、城の奥にある迎賓館の一室だった。
国賓をもてなすために造られたこの建物は、城から見て左側に位置していた。右側には皇帝の一族が居住する後宮がある。
彼が将軍であったのは三ヶ月程度だったのもあって、迎賓館に入る事は一度も無かった。執務室や会議室など、主要な房室は城内に集中していたためだ。
「こちらをお使い下さい」
二階の角部屋を示すと、侍女は会釈をして去っていった。
部屋に入ると、内部は応接室に書斎、寝室から成り立っていた。書斎の机を見渡すと迎賓館と城内が描かれた小さな案内図がある。
ラストは図書室の確認をした。案内図を見ると、迎賓館と城内にそれぞれ一箇所ずつあるようだ。
「早いところあの日記を探し出さないと……」
そう呟き、彼は迎賓館の図書室へと一人向かった。
三 ・ 目覚め
サレオスは迎賓館内の一室にセアルを休ませた。
この建物の二階は主に男性客のために設えられたもので、サレオスとマルファスもそれぞれ部屋を借り受けていた。
それがマルファスの顔利きによるものであるのか、宰相を放逐した貢献によるものなのかは分からなかったが、今となっては有難い話だった。
もっとも当のマルファスは、異界に身を置いているのではないかと思うほど、館内で見かける機会は少なかった。
未だ目を覚まさないセアルに、サレオスは不安を抱いた。
傷を診ようと胸元を開けると、皮膚が変色している事も一因ではあった。一緒について来たレンに訊ねても分からないと言うばかりで、サレオスは途方に暮れる。
その時、どこからともなくマルファスが現れた。神出鬼没な彼に慣れているのか、サレオスは動じる事も無く見立てを続ける。
「思ったより侵食が進んでいるようだね」
マルファスの言葉に、サレオスは返事をしなかった。
「いずれ目を覚ますだろうけど、自分の意識を保つ事すら、すでに厳しくなっている状態だろう。再びあの力を使ったら、正直どうなるか僕にも分からない」
「だから彼らに同行しようというのか。その剣を欲したのも、セアルを……」
ふいにサレオスは口をつぐんだ。レンのような小さい子供がいるそばで、最後の言葉を吐けなかった。
大人たちの不穏な空気に怯えるレンを見やり、マルファスは優しく声をかけた。
「このくらいの子を見ると、何だか娘を思い出してしまうな。ごめんね。怖い思いをさせて」
レンの頭を撫でながら、マルファスは微笑んだ。
「そうだ、後でラストールとアーシェラを診てくれないかな。二人とも状態がおもわしくないようだ」
「アーシェラ……。あの人が。生きておられたのか。よかった……」
十年前を思い出し、サレオスは安堵した。生きては帰れないであろう死地に、女性を置き去りにしてしまった罪悪感が、彼をずっと苛んでいたのだ。
その時、微かにセアルが動いた。
驚き見つめる三人に、セアルはうっすらと瞼を開ける。
「ここは……」
状況を把握出来ないセアルに、兄が説明をした。
「まだ動ける状態ではないから、休んでいなさい。ここはお前に割り当てられた寝室だそうだから、ゆっくりしていればいい」
サレオスの言葉に、セアルは微笑んだ。
「私は他のけが人を診てくる。無理だけはしないように」
そう言い残し、サレオスは部屋を後にした。それを追うように、マルファスもその場から消え失せる。
残されたレンは、そっとセアルの横へと近づき、椅子へと腰掛けた。
「セアル……。ごめんね、わたしのせいで」
レンは小さな手で、セアルの右手を握り締める。生命のぬくもりを感じる指先に、レンは安堵した。
「平気だよ。それにあれはレンのせいじゃない。ガイザックは、護るべきものが弱点だと言っていたけど、それは違うと認識出来た」
微笑を交わすと、セアルはそのまま眠りへと落ちていく。レンもその手を握り締めたまま、いつの間にやらまどろんでいった。
マルファスの勧め通り、サレオスはラストールとアーシェラを訪ねた。
訪ねた頃には、すでに陽は正午を指し示していた。
ラストールは出かけているのか部屋におらず、三階にあるアーシェラの部屋へと向かった。
ドアの横に付けられた札を確認しノックをすると、亜麻色の髪に新緑の瞳をした女性が顔を出した。あの日と変わらない、アーシェラの姿だ。
目を見張る美しさは遜色なく、サレオスの心を捕える。
「お久しぶりです。アーシェラ様がご無事と聞き及びまして、ご挨拶に参上致しました。お元気で何よりです」
心の内を悟られぬよう、微笑みながらサレオスは挨拶を交わした。十年の月日は、人間にとっては長い時間だ。すでに記憶の彼方へ追いやられているかも知れないし、恨まれている可能性もある。
こうやって自分が彼女に対して会いに来たのも、もしかしたら罪悪感からかも知れない。様々な想いを交えながら、サレオスはアーシェラを見る。
「……十年前の、あの時のお方。あ、すみません……。どうも術にかけられてから、自分の記憶のはずなのに、曖昧なところが多いもので。失礼をお許し下さい」
「お加減はよろしいのですか? しばらくの間、城内に診察室を構えさせて頂いておりますので、よろしければ一度お伺い下さい」
彼の言葉にアーシェラはにっこりと微笑む。輝くと表現するに相応しいその笑顔は、夏の木漏れ日に似ているとサレオスは思った。
自室へ戻る途中、サレオスは廊下でラストールとばったり顔を合わせた。
「殿下。どちらにいらっしゃったのです。お留守のようでしたが」
「わざわざ来てくれてたのか。悪かったな。調べ物があって本を探してたところなんだ」
それだけ言ってそそくさと去るラストに、サレオスは声をかける。
「左手の傷、ひどいんじゃないんですか。そのまま放っておいたら壊死しますよ」
縁起でも無い言葉に、ラストは青い顔をして振り向いた。
無理やりラストを診療室まで引っ張って行き、彼の左手を診た瞬間サレオスの表情は曇る。
「どうしてここまで放っておいたんですか。消毒して縫合しましょう」
サレオスは傷を丁寧に洗い、強めの酒で消毒を施し始めた。針と糸を用意し、眼鏡を通して薬草の配合書を睨む。
その中から一頁を選び出し、赤茶けた液体の入った小瓶を並べた。
「何その、変な色の汁……。嫌な予感しかしないんだけど」
「薬木の葉を煮出した液ですよ。なかなか手に入らない貴重品で、私も使うのは初めてですが気にしないで下さい」
実験動物かよと思いながらも、手際のよさにラストの不安は薄れる。傷口に薬液をたらすと、しみる痛みが走った。
しばらく時間をおくと痛みは薄れ、サレオスは針に糸を通して傷口を縫い始めた。
「これはコカと言って、気温の低い乾燥地帯で栽培されている植物なんです。葉はお茶になるようですが、多少麻酔作用もあるそうなので」
確かに、熱をもってずきずきしていた傷の痛みも、先程からあまり感じない。
「終わりました。傷が塞がれば抜糸しますから、五日間ほど経過観察しましょう。その間は、傷が広がるような事はなさらないで下さいね」
「五日か。そのくらいあれば本を探して終わりそうだな」
包帯を巻かれた左手を見やり、ラストは呟いた。
「それにしてもセアルがあんたの弟とは思わなかったよ。世間は狭いんだな」
「私も同感です。弟は迷惑などかけていませんか」
「これといって無いけど、無茶が過ぎるぜあいつは。事の始まりも、あいつが奴隷泥棒をして、追いかけて行ったところからだしな」
「それは完全に犯罪ですね……。そんな子に育てた覚えは無いんですが」
弟の行動にサレオスは呆れ、深くため息をつく。
サレオスの様子にラストはふと笑みをこぼした。
窓の外を見ると、すでに日は傾き、空は翳り始めている。ラストは礼を述べると立ち上がり、そのまま城の図書室へと向かった。
四 ・ 統一王の手記
ラストは城内の図書室をくまなく探し回ったが、目的の日記を探し出す事が出来なかった。
古い文献に関しては、公開していないのではないかとも思ったが、蔵書されている場所に心当たりが無い。
書棚を見ながら彼は途方に暮れる。日もすでに没し、光鉱石ランプのほのかな灯りでは、背表紙を確認するのも難しかった。
仕方なく自室に戻ると、文箱に蝋で封印された書簡が入れてある。紋章は皇子のもので、二日後に催される晩餐会の招待状になっていた。
皇子と皇女には会いたかったが、宰相の弱点を知る上で、いつか夢で見た統一王の日記を確認するのが先決だと、ラストは考えた。
光鉱石の灯りを目にし、ふとある事を思い出した。十年前に侵入した地下廟のホールだ。
何故あのホールは、文字も読めるほどに明るく照らされているのか。あの奥にある神殿には、一体何があるのか。
居ても立ってもいられず、ラストは人目を忍んで外へと出た。城の敷地内に井戸跡を見つけ、そこから旧地下水路へと侵入する。
夜半の地下は肌寒く、初夏である事を忘れさせる気温だ。
自らの足音だけを耳にしながら進むと、最奥にくたびれた縄梯子が垂れ下がっているのが見えた。
きしむ縄に足をかけ、ゆっくりと昇る。昇りきった先にはドームが広がり、頭上からは何十万という数の光鉱石が、天上の星さながらに燦々と輝く。
神殿の裏手にある井戸から降り立ち、表側へと回り込む。
ラストが立ち入った十年前からは誰も訪れなかったのか、石段には積年の埃が重なっていた。
神殿の岩戸を開き、かび臭い内部へ足を踏み入れると、そこにはまるで変わらない二枚の絵と本棚、書斎さながらの小さな机と椅子が見えた。
ここは永遠に刻が止まっているのだろう。室温や湿度の影響もあるのだろうが、絵や書物の劣化がほぼ見られなかった。
備え付けの光鉱石ランプで書棚を照らすと、そこにはぎっしりと書物が詰め込まれている。
幾冊か取り出してみると、何の変哲も無い戦略書や布陣図、交戦日誌などだった。
あてがはずれた事に、ラストはため息をついた。ここも違うなら、あとはどこがあるのだろうか。
何気なく書棚に目を戻すと、奥に何か光るものが見えた。手を入れて探ると、四隅を金具で鋲止めされた、いかつい本が出て来た。
表題は特に無く、ただ淡々と冊数分の連番が振ってあるだけだ。
開いてみると、流れるような筆記体で日々を事細かに綴ってある。本陣の変遷、兵站から師団編成、まれに個人的な意見などが端々に書かれている。
ぱらぱらとめくって流し読みをしていると、ある部分から急に子供が書いたかのような、のたくった文字が目に入った。
非常に読み取りにくい文字にも関わらず、ラストはその部分が気になった。
一文字一文字拾い上げながら読むラストの表情が、次第に変わっていく。
あらかた読み終えると、ラストは地下廟を後にした。もと来た道を戻り、自室へと入る。
「人より怖いものなんざ、この世には存在しないのかもな」
ふと呟き、寝台へと寝転がった。
窓の外を見やると、薄ぼんやりとした東の空が、太陽の訪れが近い事を知らせている。
ほんのひとときだけと目を閉じ、彼はしばしの眠りへと落ちていった。
窓から照りつける陽光に、ラストは目を覚ました。
日の高さから、正午を少し過ぎた辺りだろう。そろそろ起きなければと、だるい体を無理やり起こす。
明日の夜は、皇子主催の晩餐会に顔を出さなければならない。
皇子や皇女に対して、これほどうらぶれた姿を晒したくないと思いながらも、ラストはぼんやりと窓の外を見つめた。
ふいに人の気配に気づき、そちらへと振り向く。どこから入り込んだのか、そこには室内をきょろきょろと見回すマルファスがいた。
「……何でアンタここにいるんだよ。むしろどうやって入った」
寝起きで機嫌の悪いラストを尻目に、マルファスは無言で辺りを探し回っている。
「フラスニエルの日記を見つけたでしょ。持ち出してくると思ってたのに。持ってきてないの?」
「墓場にあるもんを勝手に持ち出せるかよ。どうしてあんなもんが欲しいんだ」
「あの手記にはいろいろ書いてあるはずだからね。例えば、宰相が統一王を恨むようになった経緯とか」
微笑の中にほのかな冷たさを見出し、ラストは寒気を憶えた。
「歴史を見てきたアンタの方が詳しいだろう、そういうのは。オレからは何も言う事は無い」
そっけないラストの言葉にも、マルファスは微笑みを絶やさなかった。
「明日の夜、僕は帝都を発つつもりでいる」
マルファスは窓の外を見やりながら、淡々と言葉を続けた。
「キミたちが宰相を追うつもりなら、ここから北西にあるアドナの古代神殿遺跡に来て欲しい。案内役にカラスを置いていくよ」
それだけ言うと、マルファスの姿は霧のように掻き消えた。代わりにその場には、一羽のカラスが残されている。
「しゃべったりしないよな」
ラストの言葉にも、カラスはただ小首をかしげるばかりだった。
五 ・ 待宵草
晩餐会の前日、セアルの滞在する部屋に衣装の入った櫃が届けられた。
差出人は皇宮庁名義になっており、中には一式の礼服が詰められている。
厚い襟に重厚なつくりの黒いコートとスラックス、薄絹織のネクタイ、手袋などがあり、見たことも無い衣装にセアルは目を丸くした。
袖を通してみると、寸法を測ったかのようにぴったりと合う。ただ自分にあまり似合う服装だとは思えず、そのまま箱へと戻した。
そこへ隣室のサレオスが訪ねて来る。
「セアル起きているか? ああ、ちょうどよかった」
いつもと変わらない兄の様子に、セアルは安堵を憶える。
父が死んだあの日から、兄に恨まれていても仕方ないという気持ちが、彼の中には常にあった。
それが自分の窮地に駆けつけて来てくれた事で、許されているのではないかという感覚に陥る。ただどうしても、宰相を追う前に謝罪だけはしておきたいとセアルは思った。
「明日の夜会で着る衣装が届いただろう。着方は分かるな。後、皇子や皇女以外に公爵なども御来席のようだから、粗相の無いように」
「あ……。兄さん」
そのまま去ろうとする兄を呼び止め、セアルは口ごもる。
弟のその様子にサレオスは振り返り、ぽつりと呟いた。
「父さんの事なら、もうお前が気にする必要は無い。本人も本望だったと思う。お前の母さんをとても大切にしていたから」
そのままサレオスは窓へと寄った。二階へと運ばれる風は緑の香りをはらみ、心地よくそよぐ。
「あの人はきれいな女性だった。感情も奪われ、言葉も話せない状態だったけど、いつも微笑みだけは絶やさなかった」
初めて聞く生前の母親像に、セアルは戸惑った。
「今まで話していなかった事だから、無理もない。あの人の左胸には、『従属の印』があったんだ」
従属の印という言葉に、セアルはどきりとした。あれは確か、深淵が口にしていた契約の事だ。
「その言葉通り、術師に従属させるための古代禁術。術師の言葉以外には従わないし、恐らく耳にも入っていないだろう。ただ彼女がしっかりと握っていた剣だけが、その身元を証明出来た」
「じゃあ……。父さんは母さんと何も話せなかったのか」
「そうでも無かったんじゃないかと思っている。あの人が亡くなる直前、父さんの手を握って離そうとしなかった。言葉は無くても、幸せな四ヶ月だったと思う」
兄の語る、見も知らぬ母と、その人を愛した父に、セアルは思いを馳せた。最期まで自らを語れなかった人に対する無言の愛とは、どれほどだったのだろうか。
「ありがとう……。教えてくれて。教えてくれなかったらきっと」
知らないまま死んでいた、と続けそうになり、セアルは言葉を切った。宰相を追うその先に、生きている保障など無い。もう一度あの力を使えば、次こそは二度と目覚めないかも知れない。
それ以前に、自分自身が深淵の器と成り果てるかも知れないのだ。
話題を変えようと、セアルはふと頭に浮かんだ事を口に出した。
「そういえば、ここで目覚めた時に知らない服を着せられていたけど……。俺の体にある傷、見た?」
「傷を診るのが医者の務めなんだから、見たさ。壊死でもしているのかと驚いたけど、マルファスによれば侵食が始まっているとか」
兄の言葉に、セアルはそうか、とだけ呟いた。
「ひとつだけ、頼みがあるんだ。レンを……預かってくれないか。兄さんが俺を育ててくれたように、あの子は俺にとって大切な妹なんだ」
サレオスは別段驚く様子も無く頷いた。弟の気質を考えれば、予想がついていたのかも知れない。
黙りこくる二人の間を、初夏の風だけがそよぎ、ぴたりと凪いだ。
皇子主催の晩餐会は、落ち着いた中にも華々しい、趣のあるものとなった。
暗色を室内に配した色調に、白の長テーブル、高天井からは光鉱石のシャンデリアが四隅へと伸びる。
セアルにとっては見知った顔ぶればかりで安堵したが、そもそもこういった社交の場に出席するのが初めてなので、落ち着くわけが無かった。
さり気なく辺りを見回すと、奥には皇子と皇女、セアルと反対側の席にはレニレウス公爵、ラストの姉アーシェラが並んでいる。
セアル側にはラスト、サレオス、レンがおり、マルファスの席も用意されてはいたが、本人は在席していない。
全員が席についたところで、皇子が挨拶の言葉を述べ始めた。おっとりとして気弱そうに見えるが、どことなくラストに似た雰囲気を持つ少年だ。
隣に座する皇女も、皇子によく似ている。恐らく双子なのだろう。結い上げた黒髪に胸元の開いた夜会服、青い首飾りを添えている様は、凛とした皇女の美貌をさらに引き立てている。
ふいに皇女と目が合ってしまい、セアルは焦った。女性をじろじろ眺めるなど、失礼極まりない。とはいえ、すでに目が合ってしまったからには逸らすわけにもいかず、彼は微笑み返した。
その様子に皇女が紅潮するのが見えた。怒らせてしまっただろうか、とセアルは自省する。
皇女にどう謝罪するか考えているうちに、料理が運ばれて来る。森では見かけることの無いものばかりだ。
とりわけ目を引いたのは、羊肉に香草で風味をつけ、直火で焼いてある料理だった。果実をベースとしたソースで彩られ、見た目にも華やかだ。
兄の方にちらりと目をやると、彼は感心したように料理を眺めていた。いずれ、似せようとして作った不思議な料理が卓に並ぶのは、想像に難くない。
晩餐会は和やかに進行し、最後にお茶が配される。
この後はテラスへ移動して、立食型夜会になるとの事だった。テラスにはいくつか卓が用意され、給仕が酒や果物を配している。
多少形式ばってはいないものの、堅苦しいのがまだ続くのかと思うとセアルは気疲れしたが、それはラストも同じなようだ。
ふいにラストが皇子へと近づいていった。話ながら、彼は皇子に何かを手渡そうとしている。皇子はそれを拒んでいるように見えたが、宵闇の中では窺い知れない。
皇女が皇子の傍から離れ、一人手摺へと近づいたのを見て、セアルは皇女に挨拶をしようと思った。先程の非礼を、詫びなくてはならない。
セアルが近づくと、皇女は驚いたように振り返った。
「驚かせてしまって申し訳ありません。私はセアル・セトラ・カイエと申します。先程の非礼をお詫びしたく参りました」
形式に沿った挨拶をし、セアルは皇女の反応を待った。
「……あなたの事は伺っています。ラストールお兄様を、いつも助けて下さったそうですね」
皇女は手摺から夜空を見上げた。待宵草の花冠を思わせる金色の月が、彼女を優しく照らす。
「先程お兄様から聞きました。すぐにでも逃げた宰相を追うつもりなのだと。あなたもそうされるのですか」
セアルは言葉も無く頷いた。その応えに皇女は目を伏せる。
「そうですか……。どうかお二人ともご無事でお戻り下さい。私、待っていますから」
それだけ言うと、皇女は一礼をし皇子の許へと戻った。セアルも先程までいた場所に戻ると、心なしかレンの視線が痛い。
「ねえ、セアル。ああいう感じの人が好きなの?」
いきなり鋭く突っ込まれ、セアルは動揺した。
「いや、好きとかじゃなくて……。挨拶は重要だから! だからその……」
自分でも何故ここまで狼狽しているのか分からず、セアルは口ごもる。
「いいもん。わたしだってセアルの事待つんだから。もう、連れて行ってくれないでしょ」
サレオスの背後に隠れて顔だけ出しているレンに、セアルはハッとする。
「うん……。もうこれ以上は危ないから、連れて行けない。きっと帰って来るから」
「約束だからね。帰って来なかったら怒るからね……」
サレオスの裾を握って涙をこらえるレンの言葉に、セアルは頷いた。
六 ・ 闇路
テラスで皇子と話す機会を得たラストは、指輪と自らの名に対する返上を求めた。
帝都と同じ名を示すガレリオンは、元はと言えば帝位継承権のある男子が持つものだ。
二君には仕えられないと言ったダルダン公爵の言葉通り、ラストはここで自分が返上しなければ、また国を乱すだろうと思った結果だった。
皇子は少し考えた後に、一切を拒否した。
「宰相に利用された私には、皇帝の資格など無いのです。先帝の子として生まれついても、民を統べる能力が無い。日々怯えて人形のように生きてきた私は、次に誰が宰相となっても、口も出せないでしょう」
力なく笑う皇子に、ラストは何も返せなかった。
「せめて、その指輪は全てが終わる日までお持ち下さい。個人的な意見としては……兄様に皇帝となって頂きたい」
その言葉に、ラストは心を決めた。
「分かった。帝都に戻って来たら、その時に考える。明日の朝、ここを発つ予定だ」
ご武運を、と呟く皇子に別れを告げ、ラストはセアルの方へと戻ろうとした。ふとその時、彼の目に皇女が入った。よく見ると、彼女の目線の先にはセアルが映っている。
「どうしたんだアウレリア。何かあったのか」
急にラストに声をかけられた皇女は驚いて彼を見た。彼女は慌てて扇で隠すが、その顔は赤い。
「何でもありません。お兄様には関係ないことです」
「何もないのにそんな顔する事ないだろ? ……まさかお前、あいつに惚」
そう言いかけた瞬間扇がしなり、骨木の鳴る音が辺りに木霊した。来賓は皆振り返り、扇でしたたかに打たれたラストは呆然とする。
「わたくし、これで失礼致します」
頬を赤らめたまま、皇女は早足にテラスから立ち去った。未だ呆けているラストに、セアルが声をかける。
「どうしたんだ? 随分怒ってたようだけど」
状況を理解していないセアルに、ラストは苛立ちをぶつけた。
「うるさいっ……オレは、オレは絶対認めないからな!」
半ば涙目になりながら、ラストも会場を後にした。
残されたセアルは、唖然としながらその場に立ち尽くすしかなかった。
夜明け前、未だふてくされるラストに呼ばれ、セアルは彼の部屋へと向かった。
部屋でまず目に入ったのは、堂々とど真ん中に陣取るカラスだった。
「マルファスが置いていったんだよ、そのカラス。宰相を追うつもりがあるなら、そいつが案内してくれるんだとさ」
返事をするように、カラスは鳴き声を上げる。
「まずは北西の神殿遺跡とやらに行かないとならないようだな。どれだけの道程になるか分からないから、準備は念入りにして行くしかないな」
二人で打ち合わせをし、セアルは荷造りに部屋へと戻った。
ラストも自分の荷を点検した後、思い出したかのように左手を見た。
癒着しているかどうか分からなかったが、ラストは包帯をはずして糸を切り、そのまま引き抜いた。素人目にも、問題がなさそうに見える。
「待ってろよ。今度こそ引導を渡してやる」
左手を握り締めながら、彼は明け方の月を睨んだ。
マルファスに追われ、クルゴスはほうほうの体で、北西の山中にある城砦へと辿り着いた。
直線距離にすれば二日二晩ほどだが、ここへ徒歩で至るには、古代神殿遺跡から廃都ブラムを経て、さらにそこから北上してエルナ峡谷へと踏み入らなければならない。
『死』の名を冠する代行者、シェイルードを恐れながら、クルゴスは山岳遺跡へと入った。
冷たい石壁をつたい、奥にある玉座の間へと進むと、そこにはまさに主が座している。長い黒髪に聖銀の王冠を戴き、彼はクルゴスを睨めつけた。
「クルゴスよ。お前はいつも厄介事を引き連れて来るようだな。王器も奪われ、マルファスにも勝てぬ者など、私には必要ない存在だ」
「畏れながら、シェイルード様」
ただひたすら怒りを鎮めてもらおうと、クルゴスは必死になる。
「どうか、わたくしめを助けると思ってお願い致します。いずれ王器を取り戻すために、こちらから打って出ます故、今しばらくはここに身を寄せさせて下され」
「王器を持たぬお前は、必要ない存在だと言ったはずだ」
玉座で頬杖をつきながら淡々と応えるシェイルードに、クルゴスは恐怖を感じた。
「そうだ。お前は我が王冠の力を忘れたわけではあるまい。全ての言語を理解し、全ての文字を読み取り、全ての心の内を聞き取る。この王冠ある限り、お前の考えなどお見通しよ」
自分の言葉など歯牙にもかけぬ上位者に、クルゴスは返答出来なかった。
銀盤の王器は全てを反射する力を有している。それは王冠の読心能力すら例外では無かった。
今の状態ではクルゴスは裸同然であった。心の内を全て暴かれ、隠し事など何ひとつ出来はしない。
「もう良い。どの道お前は尾けられていたのだ。無力なお前にも分かるだろう? 同属の気配が」
シェイルードの哄笑に、クルゴスは気配をようやく感じ取った。いつから尾行されていたのか。その気配は代行者のものでしかない。
「面白くなってきたというものよ。いずれはあのカラスとも、決着をつけようと思っていたところだ」
抜け殻のような巨大遺跡に、男の笑い声だけが木霊した。
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創作歴史と創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。武器戦闘をメインにしてあり、魔術はあまり描いていません。男主人公。15463字。
あらすじ・神の箱庭・西アドナ大陸。古の神をその身に内包した少年セアルは、自らが箱庭を破壊するために作られた存在と知り、神の代行者と対立する道を選ぶ。
異形となったガイザック将軍を倒したセアル。時を同じくして、マルファスは宰相を帝都から放逐していたが……。