No.487443

フランドール、家を買う

春野岬さん

フランちゃんが家を買うお話。

2012-09-23 00:34:58 投稿 / 全9ページ    総閲覧数:4492   閲覧ユーザー数:4473

 

 

 

プロローグ

 

 

 飾り気のない内装からは客の気を引こうという意思が感じられない。

 

「いらっしゃい」

 

 店の主人はぼそりと呟き、すぐに手にした書物に視線を落とす。

 店内に並べられた商品は見たことのないものばかりで、値札に書かれた数字と釣り合いが取れているのかさえ判断はできなかった。

 香霖堂はそんな奇妙な店屋であったが小悪魔は嫌いではなかった。

 実用性のないものに価値がないとも限らないのは図書館の蔵書も同じである。

 

 何気なく棚を眺めていた小悪魔の目に止まったのは金属製の小さな機械。

 

「それは写真機さ。外の世界から流れ着いたものにうちの常連のひとりが興味を持ってね。それは彼女が手を加えてこっちでも写真を楽しめるように改造したものだ」

 

 店主がすかさず答える。客に興味がないのかと思っていたがそうではないらしい。

 

「写真機がこうして商品として店に並べられるようになるには、長く険しい道のりがあってね。僕がはじめて写真機と出会ったのはある雪の降る寒い日の……」

「あ、長くなるならいいです」

 

 小悪魔が遮ると、店主は言葉を詰まらせて眼鏡を指で押し上げた。

 

「うん。とにかくそれはここの商品の中でも自慢の一品だ。フィルムを使い切ったら持ってくるといい。知り合いの河童が現像してくれる」

「フィルム? 現像?」

 

 店主は再び身を前に乗り出した。

 

「そうか、そこから説明しなければならないようだね」

 

 思わせぶりに一呼吸置いて口を開く。

 

「フィルムには長い歴史がある。今では薄く伸ばした樹脂が用いられているがかつては……」

「使い方だけ教えてもらいませんか?」

「あ、ああ。うん……」

 

 店主は丁寧に写真機の使い方を教えてくれた。

 

 小悪魔は写真機の包みを大切そうに抱えて帰路を急いでいた。

 眼下に広がる湖は夕日を浴びて輝いている。

 最近は日が長くなってきたとはいえ、この時間になるとまだ肌寒い。

 早く写真機を試してみたかった。

 そもそも香霖堂へやってきたのは主に頼まれたインクを購入するためだったのだが、すっかり忘れてしまっていた。

 

 

 

 

 

1.写真機のある風景

 

 

 紅魔館は広い。

 フランドール・スカーレットが胸を張って知っていると言える場所など地下室と食堂くらいのものだ。

 赤い絨毯が敷かれた長く薄暗い廊下に並んだ重厚な扉たち。

 長年暮らしているのに何があるのか知らない部屋も多い。

 

 時々、興味が沸くこともあったが、フランドールは不用意に館の中を歩き回ろうとは思わなかった。

 廊下でメイドの妖精とすれ違い怯えた顔で見られるのは嫌だったし、何かの拍子に物を壊してしまって叱られるのもうんざりだった。

 ちなみに姉であるレミリア・スカーレットの部屋は最上階に位置しており、よほどの決心がないと訪ねることはできない。もっとも訪ねる気もないが。

 

 だから、その日フランドールが向かったのは図書館だった。

 図書館はいつも人気が少ないし、主は本に夢中で干渉してこない。比較的気が楽な場所なのだ。

 古い紙の匂いを嗅ぎながら、自分の身長の三倍はありそうな本棚の間を歩いた。

 本の背表紙を順に目で追っていく。意味のわかるタイトルの方が少なかった。

 知りたいことはたくさんあった。

 けれども、自分が何を知りたいのかよくわからない。

 無数にある本の中にこの憂鬱を解消してくれるようなものはあるのだろうか。

 フランドールは夢遊病のようにさまよい歩く。

 

「何かお探しでしょうか」

 

 振り向くと小悪魔が立っていた。腕に本を抱えている。

 パチュリーの読んだ本でも片付けていたのだろう。

 

「とりあえず休憩にしませんか?」

 

 フランドールはこくりと頷いた。

 

 小悪魔は図書館の入り口にあるカウンターテーブルに仕切られた一角を仕事場にしている。

 本の貸し出し手続きをするための場所らしいが、ほとんど来客がない上にたまの来客も勝手に借りていくので本来の役割を果たすことはない。

 

「どうぞ」

 

 小悪魔がカウンターの向こうからカップを差し出した。

 アールグレイの香りが湯気にのって立ち昇ってくる。

 小悪魔は黙って紅茶に口をつける。話題はない。

 フランドールは気まずくなるのを心配したが小悪魔は自然体だった。

 肩が凝ったのか自分の手で揉んでいる。

 いつもパチュリーの世話をしているので無口な者と一緒に過ごすのには慣れているのかもしれない。

 

 少しほっとして小悪魔の背後に視線を移した時、思わずフランドールは声を上げていた。

 

「何これ!?」

 

 小悪魔が背にしている壁面には大きなコルクボードが設置されている。

 以前、パチュリーのために探さなければならない本のリストがピンで留められているのを見たことがあった。

 しかし、今そこには異様な光景が広がっていた。コルクボード一面に写真が貼られていた。

 百にも届きそうな枚数の写真にはすべてパチュリーの姿が収められている。

 

「いいでしょう」

 

 小悪魔は椅子を回転させてボードに向き合うと、うっとりとした表情で眺めた。

 

「パチュリー様の日常を形に残しておきたくて」

「そ、そうなんだ」

 

 写真にはありとあらゆるパチュリー姿が写っていた。

 本を読んでいるパチュリー、食事をしているパチュリー、ベッドで眠るパチュリー。

 確かにパチュリーの日常には違いないが、あまりにワンパターンで変わりばえがしない。

 どうせ十年先、百年先だって同じ姿で同じ毎日を送っているのに違いないのだから、写真に収める必要が感じられなかった。

 

「ここに貼られているものだけではありませんよ。アルバムもあるんです」

 

 小悪魔は声を弾ませる。カウンターの下から取り出したアルバムは百科事典のように分厚かった。

 すでにパチュリー写真集にうんざりしていたフランドールは話を変えて回避することにした。

 

「これどうしたの?」

 

 小悪魔は再びカウンターの下を探る。

 そして、直方体の小さな箱のようなものをテーブルの上に置いた。

 黒と銀のボディがどこか大人っぽい。

 上部にある小さなつまみはフランドールが触れれば簡単に壊れてしまいそうだった。

 正面の丸いレンズはピカピカに磨かれていて、不思議そうにのぞき込むフランドールの顔が写っていた。

 小悪魔は写真機を構えるとフランドールに向けた。カシャリと小気味のよい音を立てる。

 

「これが写真機です。手順さえ覚えれば写真を撮るのはそれほど難しくないですよ」

「触らせて」

 

 小悪魔から写真機を受け取る。見た目よりは重くなかった。

 のぞき窓に右目を当ててみる。微笑む小悪魔がなぜか別の世界にいるように思えた。

 

「撮ってみますか?」

「いいの?」

 

 思わず声が大きくなった。

 

「フィルムはさっき私が撮影したので一枚目ですから。まだ十分あります」

「フィルム?」

「私にもよくわかりませんがフィルムというものがなくなると撮れないのです」

 

 覚えなければならないことは多そうだ。

 

「使い方を説明しますから、その後はフラン様の好きなように撮ってきていいですよ。フィルムがなくなったら私のところへ持ってきてください」

 

 フランドールにやりたいことがあるのは久しぶりだった。

 

 

 三日後。

 フランドールは図書館の玄関で小悪魔の帰りを待っていた。

 撮影すればすぐに写真が見できると思っていたが、そうではなかったのだ。

 フィルムを現像に出しに行き、一日空けてもう一度現像された写真を受け取りにいかなければならないらしい。

 外出もままならないフランドールはじりじりと待つことしかできなかった。

 

 

 玄関が開く。

 

「写真できた?」

 

 飛び掛るようにして出迎えたフランドールがすかさず訊くと、顔をのぞかせた小悪魔はぎょっとした様子で答えた。

 

「う、うん……」

 

 小悪魔が手提げから小さな紙袋を取り出す。

 なぜか浮かない様子だったが、今のフランドールにはどうでもよいことだった。

 引ったくるようにして受け取ると慌ただしく紙袋の封を開ける。

 

「なにこれ?」

 

 本当に自分が撮った写真なのだろうか。

 輪郭がぼやけて色はにじみ何が写っているのか判別するのさえ難しい。

 

「シャッターを切るときにぶれてしまったみたい。フラン様の手には写真機が少し大き過ぎたかな」

 

 フランドールはよろめくようにしてカウンターにもたれる。

 ボードに貼られたパチュリーの写真が憎らしく思えてきて、ほとんど無意識に能力を使っていた。

 コルクボードがひび割れ、はずれた写真が宙を舞う。

 

「あー! 何するんですか」

 

 こういう場合、紅魔館の住人であれば犯人はすぐにわかる。

 喚く小悪魔を無視しながらフランドールはテーブルの上の写真機を見ていた。

 壊してやろうかと心の中で呟きながら、手を伸ばしてカメラを掴んだ。

 

 

 ひんやりして気持ちがよかった。

 

 

      * * *

 

 

 パチュリー・ノーレッジが活字を目で追っていると、ふいにシャッターの音がした。

 また小悪魔かと思って顔上げるとフランドールの姿があった。

 

「どうしたの?」

「小悪魔に貸してもらってるの」

 

 無愛想に答える。フランドールが写真機に興味を示すとは少し意外だった。

 

「私を撮ってくれるの?」

「うん。ていうかもう撮った」

 

 久しぶりに見た子供らしい笑顔のフランドールだった。

 

「私も撮られちゃいました」

 

 そう言って差し出された写真には、本を両手に抱えて図書館を歩く小悪魔の姿が写っていた。

 小悪魔の一生懸命な様子が伝わってくる。

 

「よく撮れてるじゃない」

 

 パチュリーがほめると、

 

「練習したもん」

 

 短く言ってそっぽを向く。照れているようだ。

 

「最初は酷いものでしたけどね」

 

 小悪魔が茶化す。

 

「言わなくていいの!」

 

 とがめるフランドールであったが、本気で怒っている様子はない。

 この二人、いつの間にこれほど仲良くなったのだろうか。

 

「ここには写真集の蔵書もたくさんあるのよ。写真機の技術に関する本もあったはず」

「本当!?」

「小悪魔、探してあげなさい」

「いいですけどぉ」

 

 小悪魔が不満げな目つきでこちらを見ていた。

 

「なによ?」

「だって、私が写真を撮ってたときには何も言ってくれなかったじゃないですか」

「あなたは自分で探せるでしょう」

「それはそうですけど」

 

 フランドールが小悪魔の袖を引っ張った。

 

「ねぇ、小悪魔。もうすぐフィルム使い切るから、そしたら現像お願いね」

「はいはい」

 

 

 写真機を片手に駆けていくフランドールを見送ってから小悪魔に話しかけた。

 

「いいところあるじゃない」

 

 小悪魔がこういう評価を嫌がるのは知っていたがわざと言ってみる。

 

「別に……。私の仕事の範疇だと思ってますから」

 

 案の上だ。

 

 

 その日以降、図書館でフランドールの姿を頻繁に見かけるようになった。

 図書館の床に座り込んで写真集を熱心に眺めていた。

 時折、ページをめくる手を止めて、一枚の写真にじっと見入っていることもあった。

 はじめは本を破いたり、棚を壊したりするのではないかと案じていたが、そのような乱暴をすることは一度もなかった。

 

 胸に写真集を抱いて、まだその世界から抜けきっていない空ろな表情をしたフランドールに出くわしたことがある。

「もっとたくさんのものを撮ってみたいなぁ」

 

 ぽつりと漏らしたフランドールの呟きに、パチュリーはなぜか胸騒ぎを覚えるのだった。

 

 

      * * *

 

 

 洗濯物を干そうと庭へ出ると暖かい日差しが十六夜咲夜の体を包んだ。

 春の訪れに心躍るが、同時に日光に弱い主人のことも気になってしまう。

 

 ――お嬢様が外出する際は必ず日傘を持たせるようにしないと。

 

 考え事をしながらでも無駄のない動作で物干し竿に洗濯物を掛けていく。

 

「咲夜さーん」

 

 声の方向に振り返ると美鈴がこちらへ歩いてくるのが見えた。

 すでに洗濯物は干し終わり風に吹かれてたなびいている。

 日ごろから笑顔を絶やさない美鈴だが、今日はいつにもまして浮かれた様子である。

 デレデレと口元を緩ませた美鈴が差し出したのは一枚の写真だった。

 

「あら、かわいい」

 

 思わず無意識に口から出てしまい後悔する。美鈴はますます上機嫌になった。

 

「フラン様が撮ってくれたんです。上手く撮れているでしょう」

「そうね。被写体の門番さんが非常に無防備に見えるのが気にかかるけど」

 

 先ほどの「かわいい」を帳消しにしたくてつい嫌味を言ってしまったが、本当に写真はよく撮れていた。

 拳を突き出してポーズを決める美鈴の無邪気な姿からは、彼女の人懐っこい性格が現れていたし、その眼差しからは撮影者に対する愛情さえ感じることができた。

 

「い、いやいや。こうしていても周囲への警戒は怠っていないわけでして」

「冗談よ。それにしてもフラン様もずいぶん熱心ね」

 

 咲夜が怒っていないとわかったのか美鈴はほっと息をつく。

 

「夢中になれることがあるというのは良いことじゃないですか」

 

 たしかに写真を始めてからのフランドールは生き生きとした表情を見せるようになった。

 すぐに飽きると思っていたのだが、飽きるどころかその情熱は高まる一方のようだ。

 

「そうね。その通りだわ」

 

 言いながら咲夜は漠然とした不安を覚える。

 きっとフランドールは良い方向へと変化しているのだろう。

 しかし、変化することは不完全であることと同じだ。

 止まっていればあらゆるものは完全であり、逆もまた真であることを咲夜は知っていた。

 

 

      * * *

 

 

 紅茶とお菓子を載せたトレーを持って、咲夜は地下室へと続く階段を降りていく。

 扉をノックしドアノブに手をかけたところで、

 

「開けないで!」

 

 中からフランドールの叫び声が上がった。

 

「ど、どうされたのですか?」

「今大事なとこなの!」

「大事、とは? よくわかりませんが私に任せていただければ……」

「いいから。絶対ドアを開けないで!」

 

 これほどの拒絶の態度を示されるのは久しぶりである。

 昔は「殺す」「死ね」など罵声と共に追い返されるのは日常的なことであったが、ここ最近ではすっかりなくなっていた。

 フランドールと信頼関係を築くことができたのだと思っていた。

 全て咲夜の勘違いだったのだろうか。

 ショックでその場を動けずにいると、

 

「もういいよー」

 

 軽い調子で中から声が掛かった。

 咲夜が中へ入るとほのかにすっぱい匂いがした。

 

「ごめんね。現像中は光が入るとまずいんだ」

 

 フランドールは申しわけなさそうにはにかんだ。

 

「これからは写真の現像も焼き付けも自分でやることにしたの。待たされるのが嫌だし、小悪魔にも悪いし」

「そうだったんですか」

 

 机の上には液体を満たしたトレーがあった。匂いのもとはこの薬品のようだ。

 他にも何に使うのかわからない道具が並んでいた。

 机とベッドの間に紐が渡してあり、そこには洗濯物みたいに長方形の紙が吊るされている。

 

「なんだか大変そうですね」

 

 咲夜が言うと、

 

「手順さえ覚えちゃえばそうでもないよ。それに焼き付けの時に工夫できることもたくさんあるから」

 

 根気強く、向上心に満ちたフランドール。

 これも以前は見られなかったフランドールだ。

 

「もうそろそろ乾いたんじゃないかな。ほら、これ咲夜にあげる」

 

 差し出された写真を見て咲夜は震えた。もう美鈴のにやけ面を馬鹿にはできない。

 フランドールには申し訳ないが写真の出来栄えなんてどうでもよかった。

 

 いつの間に撮ったのだろうか。写真には洗濯物を干す咲夜の姿が収められていた。

 かつて憎まれ、時には憎むこともあった彼女がこうして自分を撮ってくれた。

 そこには間違いなく被写体への親しみがあった。

 だからもうそれだけで十分だったのだ。

 

 

      * * *

 

 

「こーんなでっかいのがいるんです」

 

 右手にナイフ、左手にフォークを握ったまま美鈴がめいっぱい両腕を広げる。

 

「あの湖にいるのは小振りの淡水魚だけのはずよ」

 

 パチュリーが疑わしそうな目をして言った。

 美鈴はフフンと得意げに笑う。

 

「パチュリー様の情報は大昔の文献か何かでしょう。私のは最新の生きた情報ですから。湖の主ではないかという噂もあります」

「発信源がどこの誰かもわからないような噂話より本に書かれていることの方がよほど信憑性があると思うけど」

 

 愛する本を貶されたように感じたのかパチュリーは語気を強めた。

 隣で小悪魔がなだめる。

 

「今日、湖を回ってめぼしいポイントを押さえてきましたから。明日は本格的に調査に乗り出しますよ」

「美鈴……仕事は?」

 

 咲夜に氷のような視線を向けられて美鈴は乾いた笑い声を上げる。

 そのやりとりを眺めながら、フランドールはあることが気になって会話に参加できずにいた。

 

 レミリアが先ほどから一度も口を開いていない。つまらなそうに緩慢な動作でスープを啜っている。

 

「ねぇ」

 

 唐突にレミリアが言った。その硬い声色に騒いでいた面々が押し黙る。

 

「最近、あちこちで何かやってるそうじゃない」

 

 自分のことを言っているのだとフランドールは理解した。

 

「写真のこと?」

「楽しい?」

「うん、……楽しいよ」

「写真ってどうも好きになれないのよ。あれに写っていることが他の何にも勝る真実だなんて見当違いも甚だしい」

 

 フランドールは何も言わなかった。

 

「写真を見ながら『あの頃はよかった』なんて考える者が多いのも嫌だわ。辛気臭くて」

 

 すでに皆が食事の手を止めていた。

 おそらくフランドールが反論すれば楽しい夕食に留めをさすことになるだろう。

 

「まぁ、いいわ。あなたのことだから、どうせ写真機もすぐに壊してしまうでしょう」

 

 我慢の限界。

 フランドールは椅子を蹴って立ち上がった。大きな音に視線が集まる。

 

「私、紅魔館を出る」

 

 絞り出すようにして言った。

 咲夜が息を飲んだ。美鈴が呆気にとられたような表情でこちらを見ていた。

 レミリアの顔は怖くてすぐには見られなかった。

 

「もっと色々なものを見たいし知りたい。そして、写真に撮ってみたいの」

 

 衝動に任せて言っているだけではない。ずっと考えていたことだった。

 

「何を言ってるの? ここ以外にあなたが生活していける場所なんてあるわけないでしょう」

 

 レミリアが声を荒げた。瞳にはぎらぎらと怒りの色が浮かんでいる。

 

「お姉様……」

 

 言わなければならないことはたくさんあった。

 けれども、一つも言葉にならなかった。

 言葉は苦手だ。写真の方がずっといい。

 

 フランドールは駆けだした。

 ずっと見ないように努めていたが視界の隅にはレミリアの姿があった。

 食卓に置いた両手の指先がかすかに震えているのを見た。

 

 脇目もふらず廊下を進み、地下へと続く階段を降りる。

 自室へ入るとベッドに飛び込んだ。

 

「ごめんなさい、お姉さま」

 

 布団の中で謝った。

 

 

      * * *

 

 

 このまま眠ってしまおうと努めたが、気が高ぶってできなかった。

 布団を頭まで被ったまま、じっと何か耐えるように目を閉じていた。

 すると入れ替り立ち替り部屋の前に誰かがやってきてフランドールに語りかけるのだった。

 

 美鈴が言った。

 

「外に写真を撮りに行きたいのであればいつでもお供しますよ。お嬢様には内緒で」

 

 咲夜が言った。

 

「フランドール様が興味を持たれる物を全て紅魔館に集めてみせましょう」

 

 パチュリーが言った。

 

「レミィは自分が写真を撮ってもらえなかったから拗ねていただけよ。明日になれば忘れているわ」

 

 

 彼らの言うことはどれも正しくて優しかった。

 だからこそ、自分はもうその正しさの内側にいられないことを思い知ってしまうのだった。

 悪いのは私なのだ。

 

 ベッドから這い出し、裸足で冷たい床を歩く。

 地上へと伸びる階段にはすでに薄く朝日が差し込んでいた。

 

 

 

 

 

2.ひとり空の下で

 

 

 図書館は今日も変わらず静かだった。

 しかし、昨晩のフランドールの一件が小悪魔の胸をざわつかせていた。

 紅魔館の居心地が悪くて、フランドールがこちらへ逃げ込んでくるのではないかと思っていたがはずれのようだ。

 上の空でも習慣づけられた体は淡々と仕事をこなす。

 パチュリーに本を届け、パチュリーの読みおえた本を書架へと返す。

 書架とパチュリーの間を何度か行き来した頃、扉を開け放つ大きな音が聞こえた。

 やっときたか。

 小悪魔は抱えていた本を床に置いて駆け出す。

 けれども、扉の前に立っていたのはフランドールではなく咲夜だった。

 

「フラン様を見なかった?」

 

 珍しく咲夜の表情に焦りが浮かんでいた。

 

 

 * * *

 

 

「で、本当にいないの?」

 

 レミリアが抑揚のない声で言った。

 

「隅々まで探しましたが見つかりませんでした。それに金庫が空っぽです。お嬢様の日傘もなくなっていました」

「そんなことが聞きたいんじゃない。なぜ誰も止めなかった?」

「申しわけありません。里へ買い物に出ていました」

 

 咲夜が頭を下げる。

 

「まったく気付きませんでした! すいません」

 

 美鈴も深々と頭を下げる。土下座でもしそうな勢いだ。

 

「咲夜がいる限り、誰にも気付かれずに館を脱出することは不可能に近い。咲夜が不在の時間帯を狙った計画的な犯行ね」

 

 パチュリーが顎に手を当てながら言った。

 

「裏口からこっそり出られたら美鈴にも察知するのは難しいでしょう。この状況でフランを止められる可能性があったのはレミィ、あなただけじゃないかしら?」

「ぐっ」

 

 レミリアが言葉を詰まらせる。

 小悪魔は口を開いた。

 

「やはり昨日の一件が原因でしょうか」

 

 おそらく誰もがそう考えているだろう。

 他の者が口にしづらそうだったので言ってやった。

 パチュリーが咎めるような視線を送ってきたが気付かないふりをする。

 小悪魔の言葉にレミリアは一瞬だけ傷ついたような表情を浮かべたが、すぐに口の端を歪めて押し殺したような笑い声を上げた。

 

「ははーん。どうせ、この内の誰かがフランドールの手助けをしているんでしょう」

 

 誰も答えない。

 

「あの子にこんな計画性も度胸もあるわけないじゃない。怒らないから早く名乗り出なさい」

 

 小悪魔はパチュリーを見る。パチュリーは咲夜を見る。咲夜は美鈴を見る。視線が四人の間を交錯する。

 複雑に絡み合うアイコンタクトの結果を代表で咲夜が伝えた。

 

「誰もいないみたいですね」

「まさか。本当にいないの?」

 

 余裕を取り戻しつつあったレミリアの表情から血の気がなくなる。

 

「フランは本当に今一人ってこと? バカッ、何やってるのよあんたたち」

「結局怒るんですね」

 

 美鈴が呟いた。

 

「いいから早く探しにいきなさい」

 

 レミリアはヒステリックに叫んだ。

 

 

      * * *

 

 

 空を飛べば誰かに見られる可能性があった。だから、フランドールは歩いた。

 あえて森の中を抜ける険しい道を選んだ。

 大きな木々に囲まれて先が見えない。

 湿った柔らかい土のせいで靴はすでに泥だらけである。

 

 聞き慣れない鳥の鳴き声が不気味に響き渡る。

 見渡しても姿は確認できない。鳴き声のした方向に写真機を向ける。

 野鳥を撮影するためというよりは心を落ち着けるためにシャッターを切った。

 

 写真機を使う時に邪魔なのが日傘だった。

 森の中は日光が和らぐので畳んでいたが片手が塞がることに変わりはない。

 それでも捨てるわけにはいかないのだ。自分の体質が恨めしい。

 

 袈裟懸けしたバッグにはありったけのフィルムと現像液・定着液の薬ビン、紅魔館の金庫から盗んできたお金、そして一枚の地図を入れていた。

 図書館からくすねてきた幻想郷の地図には、あらかじめ赤い丸で囲んでおいた箇所があった。「人間の里」である。

 もうどれくらい歩いたのだろうか。時計を持っていないので分からない。

 どこまでも続く同じような景色に不安を感じはじめた頃、ようやく変化があった。

 木々がまばらになり、やがて視界が開けてくる。遠くにぽつぽつと屋根が見えた。

 フランドールは決意を込めて日傘を広げた。

 

 

 目の前に古い家があった。

 外壁は黒く変色して木目が分からないほどだった。

 紅魔館の十分の一よりもっと小さい。

 しばらく遠巻きに様子を伺っていたが人間のいる気配はない。

 そっと近づいてみる。塀や門のような遮るものは何もなかった。

 

 勇気を出して引き戸に手をかけてみる。拍子抜けするほど簡単に開いてしまった。

 日傘を畳んで足を踏み入れる。

 

 中はがらんとしていて空気は埃っぽかった。

 天井の梁にはいたるところに蜘蛛の巣が張っていた。

 こういうのを「廃墟」と呼ぶことは知っている。

 図書館で廃墟の写真集を見たことがあった。

 

 フランドールは夢中になって写真を撮った。

 玄関から一段高いところに板張りの広い床がある。

 中央には四角い穴が空いていたが何のためにあるのか分からない。

 家具と呼べるのは部屋の隅に置かれた箪笥だけだ。

 奥には二階へ続く階段もあった。

 

 おそるおそる床へ上がる。一歩進むたびにギシギシと音が鳴った。

 階段の手すりに触れると掌が真っ黒になった。

 振り返ると床にもフランドールの足跡がくっきりと残っている。

 

 

 階段に足をかけたとき、背後で物音がしたかと思うと玄関の扉が勢いよく開かれた。

 フランドールは思わず声を上げそうになった。

 人間だった。太った女の人だった。

 花の模様に彩られた派手な着物を身にまとっている。

 

 隠れようもなくフランドールはすぐに見つかってしまった。

 

「おや、どこの子だい?」

 

 フランドールは返事ができなかった。

 太った人間を見るのは初めてで何だか怖かった。

 

「あ……、ごめんなさい」

 

 やっとの思いで言えたのはそれだけだった。

 女の視線がフランドールの羽を捕らえる。彼女が息を飲むのがわかった。

 

「よ、妖怪! いつの間に住み着いたんだい」

 

 汚いものを見るような目で睨みつけられる。

 

「出てっておくれよ! こんなぼろ家でも私の財産なんだ。妖怪には渡さないよ」

「待って!」

 

 フランドールは叫ぶように言った。

 ゆっくりと距離を詰める。

 女が引きつるような声を上げて後ずさりした。

 

「待って。何もしないよ」

 

 もう一度言う。しかし、女の怯えた様子は変わらない。

 フランドールは慌てて鞄に手を突っ込むと、中で散乱している紙幣をかき集めた。

 

「こ、これを」

 

 両手いっぱいの札束を差し出す。

 女は目を見開き、喚き散らすのをやめた。

 視線が札束とフランドールの顔を行ったり来たりする。

 額には汗が浮かんでいた。

 

「化かそうっていうんじゃないだろうね」

 

 フランドールは首を横に振った。

 

「ここに住ませてほしいの」

 

 お金が足りなかったのだろうか。

 緊張しながら返事を待つ。

 

「こんなチビ、大して危険もなさそうじゃないか」

 

 女は呟いた。

 フランドールに対してではなく自分に言い聞かせているようだった。

 

「特別に許してやるとしよう。そのかわり里で人間を襲ったらどうなるかわかってるだろうね」

 

 蔑むように鼻を鳴らす。

 フランドールは何度も頷いて了承の意思を示した。

 女が札束を器用に一枚ずつ捲りあげる。

 数えおわるとその結果に満足した様子で、足早にこの廃屋から出て行く。

 フランドールのことなどもう見向きもしなかった。

 

 女の背中が視界から消えたところで、フランドールは大きく息を吐いた。

 心臓がバクバクと鳴っている。やっぱり知らない人間と接するのは怖かった。

 里の中央に行けば、もっとたくさんの人間がいるのだ。

 自分から望んで訪れたくせにおかしいかもしれないが気分が悪くなりそうだった。

 

 二階には部屋が一つあるだけだった。床一面に草で出来た絨毯が敷かれている。

 奥に薄い扉で仕切られたスペースはあるがこちらは狭すぎて部屋とは呼べない。

 (後に草の絨毯を「畳」、狭いスペースを「押し入れ」と呼ぶことを知る。)

 一階よりも天井が低いせいか窮屈な印象があったが、長年地下室で暮らしていたフランドールにとってはこちらの方が落ち着くように思えた。

 

 玄関に転がっていた竹箒で床を掃き、蜘蛛の巣を取る。

 箒の使い方は咲夜の真似をしたつもりだがうまくできているだろうか。

 舞上げた埃を出そうと窓を開けると、外はすでに夕焼けに染まっていた。

 

 

 フランドールは朝から何も食べていなかった。

 食料を持ち出すことまで気が回らなかったのだ。

 緊張の連続でクタクタだったが、最後の気力を振り絞って家を出た。

 

 里の中心へ向かって歩く。

 街路はすでに薄暗く店が閉まってしまわないかと心配になる。

 日傘は必要がなさそうなので置いてきた。

 背中の羽はぎゅっと縮めて服の中に隠している。

 少し痛いが我慢するしかない。

 

 大きな通りに出た。石畳の道に靴が音を立てる。

 何度か人間とすれ違ったがフランドールを気に留める者はいなかった。

 食べ物の匂いに惹かれて一件の店を覗くとショーケースの中にコロッケが並べられているのが見えた。

 

「こんにちは」

 

 恐怖心に食欲が勝ち、カウンターの奥に呼びかけると返事と共に男が出てきた。

 

「お嬢ちゃん、一人でおつかいかい?」

「これください」

 

 コロッケを指差しながら言う。

 鞄の奥からくしゃくしゃの紙幣を取り出すと、手を伸ばしてカウンターの上に置いた。

 男は紙幣を広げて訝しそうに眺めた。

 紙幣から顔を上げると、次はフランドールの顔をじっと見る。

 

「お嬢ちゃん、見ない顔だな」

 

 低い声で言われてフランドールはぎょっとなった。

 その瞬間、力んだせいか背中の羽が服からびょんと飛び出してしまった。

 それを見て、次に顔色を変えたのは男の方だった。

 

「てめっ、妖怪か!」

 

 顔を真っ赤にして紙幣をフランドールに投げつける。

 

「妖怪に売るもんなんてあるか」

 

 フランドールは慌てて逃げた。

 男が追いかけてくるような気がして必死に走った。

 振り返って男の姿がないことを確認したときには、すでに大通りの外れまで来ていた。

 深く息を吐いて呼吸を落ち着かせる。

 

 ――ここ以外にあなたが生活していける場所なんてあるわけないでしょう。

 

 レミリアの言葉が頭をよぎった。

 呪いみたいなその言葉を必死にかき消す。

 すると次に浮かんでくるのは紅魔館の優しい家族の顔で、かえって泣きそうになった。

 今すぐ帰って謝れば許してくれるのではないかと思った。

 

 涙が零れる前に手の甲で拭った。

 ダメだ。みんなが許してもたぶん私自身が許せない。

 フランドールは顔を上げた。

 鞄に入っている未使用フィルムの重みを感じる。

 せめてこれを使い切るまでは帰れない。

 

「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」

 

 突然、後ろから声をかけられる。振り返るとひとりの老人が立っていた。

 

「あ、あの、ご飯買わないといけなくて」

 

 しどろもどろになりながら答える。泣いているところを見られてないといいけれど。

 

「そうかい」

 

 お爺さんは大きく頷く。

 そして、すぐ近くのお店を指差して言った。

 

「それなら寄ってくかい?」

 

 お爺さんに合わせてフランドールはゆっくりと店へ向かって歩いた。

 看板の文字は掠れていたが、かろうじて「べーカリイ」と読むことができた。

 

 店に入ると小麦粉の甘い香りに包まれる。

 質素な造りの陳列棚にはわずかなパンが載っていた。

 店の奥は一段高くなっていて、そこにお婆さんが腰掛けていた。

 

「本日最後のお客さんだ」

 

 お爺さんは少し楽しそうに呼びかけた。

 

「ええ」

 

 お婆さんが優しく微笑む。

 フランドールはフランスパンを選んだ。いつも紅魔館で食べている種類である。

 フランスパンを紙袋へ入れてもらって紙幣を渡す。

 お婆さんがおつりを数えている間にお爺さんがやってきて、紙袋にもうひとつパンを入れた。

 

「おまけだ。売れ残りだが」

 

 そう言って笑うとフランドールの頭をぽんぽんと撫でた。

 

「ありがとう」

 

 フランドールは店を出た。 

 おつりをワンピースのポケットに入れて、歩きながらふと紙袋から突き出したフランスパンを見て、そしてずっと羽を出したままだったことに気付いた。

 何だかじっとしていられなくて走って帰った。走りながら頬が緩んだ。

 先ほど必死に逃げてきた道なのに、今は踊るような足取りで駆けていく。

 暗くなければ視界に入るもの全てを撮っていたかもしれない。

 ポケットの硬貨が楽しげな音を立てる。

 真上にはどこまでも続く夜空が広がっていた。

 

 

      * * *

 

 

「で、どうします?」

 

 美鈴は遠ざかるフランドールの背中を見つめながら隣に尋ねた。

 

「どうするもなにも……」

 

 咲夜は頭痛でも押さえるかのように額に手を当てていた。

 フランドールは人間の里に向かったのではないか。

 レミリアを除く四人の意見は同じだった。

 紅魔館を出てまでフランドールが撮りたかったのは「人間」なのではないかと考えたからである。

 他に当てもなかったのでとりあえず人間の里に来てみたところ、あっさりと廃屋の周りをウロウロするフランドールの姿を見つけてしまった。

 

 すぐに捕まえようとしなかったのは、二人ともフランドールが取る行動に興味があったからだ。

 

「後をつけたりするんじゃなかった」

 

 咲夜が嘆いた。

 

「あんなところを見てしまっては、ねぇ……」

 

 無理矢理連れて帰るなんてできない。美鈴は珍しく溜息をつく。

 

 それでも、紅魔館のメイド長は決断した。

 

「あなたはここに残ってフラン様を見守りなさい」

 

 美鈴は咲夜の横顔を見つめた。

 

「お嬢様にどう説明するんです?」

「これから考えるわ」

「了解。どうなることやら」

 

 何が最良の選択かなんて誰にもわかりはしない。

 

「ところで咲夜さん」

「何?」

「さっきの総菜屋、コツンとやってきてもいいですか?」

「ダメよ。人間の里で妖怪が力を使うのはルール違反でしょう」

 

 もちろん美鈴もわかっている。

 「冗談ですよ」と言おうとしたが、先に口を開いたのは咲夜だった。

 

「だから私がやるわ」

 

 かわいそうに。美鈴は総菜屋に向かって手を合わせた。

 

 

 

 

 

3.はたらくフラン

 

 

 家出をしてから一週間が経った。

 

「あんパン三つください」

 

 フランドールの食事は朝・昼・晩全てこの店のパンと決まっていた。

 中でもお気に入りなのがあんパンである。

 初めて訪れた時におまけでつけてもらったのがきっかけで好きになってしまったのだ。

 

「お爺さん、ふうちゃんが来ましたよ」

 

 お婆さんが店の奥に向かって声を張り上げた。

 フランドールはここでは「ふうちゃん」と呼ばれていた。

 老夫婦にとってはフランドールという名前がどうも覚えづらいそうだ。

 

「元気でやってるかね」

 

 お爺さんはいつもフランドールの頭をぽんぽんと撫でる。

 

 

 帰り道は気の向くままに歩いて、目につくものに写真機を向ける。

 着飾ってしとやかに歩く女の人、声を張り上げながら屋台を引く物売りのおじさん、川辺ではしゃぐ子供たち。

 皆それぞれ違った表情をするということがフランドールにとっては新鮮だった。

 

 

 その日、二階の部屋で焼きつけしたての写真を眺めていると、窓を叩く音がした。

 ついにこの時がきたかとフランドールは身を硬くした。

 咲夜、それとも美鈴か。レミリアが直接来ることはないだろう。

 騒ぎを起こすのは避けたかったが最悪の場合、戦闘になることも覚悟しておかなければならない。

 

 フランドールが窓を開けると人影が飛び込んできた。

 身構えたフランドールが目にしたのは全くの見知らぬ誰かだった。

 そいつは薄い金属の板をこちらに向けて言った。

 

「写真家さん、捕まえたっ」

 

 金属の板からピローンと間抜けな音が鳴った。

 

「誰?」

 

 紅魔館の住人でなかったのは幸いだったが、面倒なことになっているのは変わりがない。

 突如現れた紫リボンの女の子はなぜか得意げな顔をしていた。

 

「私は姫海棠はたて! ご存じ花果子念報の記者よ」

 

 全然知らないし。

 

「どうしてあなたの居場所がわかったのか、種明かしをしてあげましょうか」

 

 誰も訊いてないし。

 

「私の念写能力は幻想郷で撮影されたあらゆる写真を見ることができるの」

 

 フランドールの返事を待たずにはたては語り始めた。

 

「たまたま紅魔館に興味が沸いて検索をかけてみたら、ここ最近で撮られている写真が急激に増えているじゃない。はじめは文あたりが潜入しているのかと思ったけど、それにしては対象に接近しすぎている」

 

 部屋の中をうろうろしながら話を続ける。

 

「気になって紅魔館の周りをうろうろしていたらメイドの妖精たちが噂をしていたわ。長年、幽閉されていた悪魔の妹――フランドール・スカーレットが失踪したってね」

 

 

 はたてはずいぶんと饒舌だった。フランドールが口を挟む間もない。

 

「そこでもう一度画像検索をかけてみたら、ちょうどあなたが家を出た日を境に紅魔館では全く写真が撮られていなかった。紅魔館の写真がなくなった代わりに、どこの写真が増えたのか。それさえ調べればあなたの居場所を突き止めるのは簡単だったわ」

 

 自慢の推理を披露できて満足したらしい。

 はたてはフランドールの反応を待っている。

 

「私のこと新聞に書くの?」

「それもいいわね。『悪魔の妹、人里に潜伏!?』みたいな見出しで」

「そっか」

 

 フランドールは素っ気なく言った。

 次の瞬間には、部屋の四隅全てにフランドールが立っていた。

 これで命知らずな記者さんがどういう行動に出ようとも逃がすことはない。

 

「そんなに色んな方向から見つめないでよ」

 

 はたては周囲を見渡しておどけるように言った。

 

「冗談だって。本気で記事を書くつもりなら写真はこっそり撮ればいい。こうしてあなたの前に姿を現したりしないよ」

「じゃあ何が目的なの?」

 

 フランドールは分身を引っ込める。

 

「私たち組まない? あなたが写真を撮って、私が記事を書く。一緒に新聞を作るの」

 

 意外すぎる提案だった。

 

「わ、私は新聞なんて興味ないよ」

「少しなら報酬も出すわよ。いくら持っているか知らないけれど、ここで暮らしていくならお金が必要でしょう」

 

 あまり気にしていなかった。

 いや、気にする余裕がなかったのだけれど、たしかにお金は必要だった。

 この家を買うのに紅魔館から持ち出したお金をほとんど使ってしまっている。

 鞄の底に残った数枚の紙幣も数日もすれば食費で消えてしまうだろう。

 フィルムや現像液も補充しなければならない。

 

「決まりね」

 

 悩むフランドールの様子を見てはたてが言った。

 彼女の思惑通りになるのは気に入らないけれど、とりあえず試しにやってみることにした。

 

 

      * * *

 

 

 翌日の夜、再びはたてがフランドールの家を訪れていた。

 壁に貼られた五枚の写真にはどれも女の子が写っていた。

 

「こいつらが命蓮寺のメンバーよ。顔と名前を覚えておくように」

「命蓮寺って里のはずれにあるお寺?」

 

 入ったことはないがその存在くらいはフランドールも知っていた。

 

「そう。まだ歴史の浅いお寺なんだけど、里の人間からはずいぶん親しまれているみたいね」

「ふうん。妖怪なのにすごいね」

「最近、その命蓮寺に不穏な動きがあるの」

 

 はたては声のトーンを落とした。

 

「たとえば?」

「木材屋に大きな箱を作らせていたのよ。雲居一輪がそれを担いで命蓮寺に運び入れるところが目撃されているわ」

「……それって不穏なの?」

「その箱は人間を何人も入れることができるくらい大きなものらしいの。善良な寺院を装い人間をおびき寄せ、箱に詰めてどこかへ売り飛ばそうとしているのかもしれない」

 

 まさか、とフランドールは思ったが否定もできなかった。

 自分が世間知らずなだけで世の中には理解できないような悪事が存在するのかもしれなかった。

 そして、それを暴くのがはたてのような新聞記者の仕事なのかもしれない。

 

「今夜、私とあなたで命蓮寺に潜入し、真相を突き止めましょう!」

 

 はたての熱意は理解したが、フランドールには先に言っておかなければならないことがあった。

 

「でも、ひとつ問題があるよ」

 

 それも致命的と言っても良い問題だ。

 

「光がないところだと写真が撮れない」

 

 はたては少しも困る様子がなく、

 

「ああ、そのこと? そろそろ来るはずなんだけど」

 

 はたてが薄型写真機を開いて時間を確認した時、

 

「こーんばんはー」

 

 外から声がした。窓から下を見るとリュックサックを背負った女の子が立っていた。

 

 

「やあやあ、はじめまして。河城にとりです」

 

 ぺこりとお辞儀をするにとり。

 はたてと違って礼儀正しい。

 

「フランドール・スカーレット」

 

 名乗っただけなのに、にとりは仲のよい友人に久しぶりに会ったかのように親しげな表情で近づいてきた。

 にとりがこちらに向かって手を伸ばした。

 人見知りのフランドールは思わず一歩後退する。

 にとりが掴んだのはフランドールの首にかけられた写真機だった。

 

「うんうん。使い込んでくれてるねぇ」

 

 写真機を色々な角度から眺めながら満面の笑みだ。

 フランドールはきょとんとしていた。

 

「これを作ったの私なんだ」

 

 こんな普通の女の子が作っていたとは驚きだった。

 もっと長い髭を蓄えたお爺さんみたいなのを想像していた。

 この子がいなければ写真に出会うこともなかったのだ。

 

「あ、ありがとうございます! すっごくお世話になってます!」

「どうして敬語!? 私の方こそたくさん使ってもらえて嬉しいよ」

 

 にとりは笑った。

 

「さて、今日はそんなフランドールさんに素敵なプレゼントだ」

 

 パンパンに膨らんだリュックサックを降ろして中に手を突っ込んだ。

 取り出したのは四角くて黒い色をした手に収まる大きさの機械だった。

 

「それなに?」

「ちょっと写真機貸してくれる?」

 

 写真機の上にガチャリと取り付けられた。

 犬の頭が生えているようで不格好に見える。

 にとりはそれをおもむろに構えてシャッターを切った。

 薄暗い部屋に閃光が走る。

 

「ストロボ機能さ。これで光源のない場所でも写真が撮れるんだ」

 

 にとりは得意顔で説明を続ける。

 

「シャッターと同調するから特別な操作は必要ない。その代わり、シャッター速度は六十分の一以下にはできないから注意してね」

「すごいすごい!」

 

 思わず叫んでいた。

 日の光が苦手なフランドールにとって暗闇での撮影が可能になったことは大きい。

 

「さらにもういっこ新機能」

 

 言いながらシャッターボタンの上に取り付けられたツマミを巻いている。

 そして、カメラを床に置いて手を離す。

 ジジジと金属が擦れるような音が鳴り出し、少しの間の後シャッターが切られた。

 

「おおー!」

 

 フランドールは感嘆の声を上げる。

 

「セルフタイマーって言うんだけど、報道カメラマンのフランドールさんにはあまり使い道がないかもね。外の世界でも記念撮影なんかで使うことが多いみたいだしね」

 

 報道カメラマンというものになったつもりはなかったが、たしかにフランドールにはあまり使う機会がないかもしれない。

 

 

      * * *

 

 

 午後十時――。

 

 眠る町を撫でるみたいに風が吹いている。

 木々の影がひとつの生き物みたいにうねり葉擦れの音を立てた。

 命蓮寺は他の民家から遠く離れたほとんど森に近い場所にあった。

 寺そのものはさほど大きくはないにも関わらず、敷地だけは異様に広い。

 塀の中は殺風景な砂地が広がっていて、その中央に何かの忘れ物のように寺が建っている。

 

 フランドールとはたては敷地の角でしゃがみ込み、じっと息を潜めていた。

 遠巻きに見つめる命蓮寺に何かが起こる気配はない。

 シャッターチャンスを逃すまいとカメラを両手で握りしめていたけれど、時間が経つにつれて緊張が緩んできた。

 プロはこういう時でも集中力を切らしたりはしないのだろうな。

 そう考えながら隣を見ると、はたてが退屈そうにあくびをしていた。

 

「静かすぎるわね」

 

 フランドールの視線に気付いてはたてがキリッとした表情を作る。

 

「今日は何も起こりそうにないね」

「甘いわね、フラン。これだけ静かだと逆に不自然ともいえるわ」

「そうかな。もう寝てるだけなんじゃ……」

「いくわよ!」

 

 フランドールの言葉も聞かずにはたてが動いた。

 姿勢を低くしながら忍び足で進む様は絵に描いたようなコソ泥である。

 恥ずかしいのでフランドールは普通に小走りで追いかける。

 家屋の扉に張り付くようにしてはたてが屈み込む。

 

「何してるの?」

「鍵を開けるのよ」

 

 はたては針金のようなものを鍵穴に押し込んでいた。

 もはや言いわけのしようのないほど泥棒の姿だった。

 そのくせ本当に開けられるのかどうかも定かではない。

 はたては鍵穴を覗き込みながら必死の形相で針金を動かしている。

 

 フランドールは溜息をひとつ吐くと扉の鍵に意識を集中させた。

 やがて「目」を見つけると掌へ移動させて握りつぶす。

 鍵穴から金属がひしゃげるような硬い音がした。

 扉全部を壊さずにすんでよかったと胸を撫で下ろす。

 

「ふふん」

 

 はたては自分の手柄だと勘違いしたらしく得意げな表情でこちらを見ていた。

 何も言わないことにする。

 音を立てないようにそっと引き戸を滑らせる。はたてが着いてこいとジェスチャーをする。

 板張りの廊下を摺り足で進む。右手に質素な襖が現れた。

 はたてがそっと襖をずらして覗き込む。

 すぐにフランドールに向かって首を振った。

 何もなかったらしい。

 

 すぐ隣にも部屋があった。

 同じようにはたてが襖に手をかけた時、廊下の奥から足音が聞こえてきた。

 

 ――誰か来る!

 

 はたては素早かった。

 フランドールの手を引くと、先ほど覗いた部屋の襖を開けて中へ飛び込む。

 ぴしゃりと襖を閉めて息を潜めた。

 

 足音がこちらへ向かってくる。その一定のリズムを刻む低い音はフランドールたちが隠れていることなどお見通しだと責めているようにも感じられた。

 祈りが通じたのか足音は隣の部屋の前で止まった。

 

「聖、準備が整いました」

 

 襖を隔てていてもはっきりと聞こえた。

 「準備」という単語に反応してフランドールとはたては顔を見合わせる。

 白蓮という名前にも聞き覚えがある。たしか、ここで一番偉い人の名前だ。

 

 隣の部屋で何かが動く気配があった。

 はたては襖に耳を付けて様子を探ろうとしている。

 体重をかけすぎて襖が外れやしないか心配になる。

 

「行きましょう」

 

 白蓮のものと思われる声が聞こえた。

 これで呼びにきた「誰か」と白蓮は部屋を出て廊下の奥へ行くのだろう。

 張り詰めていた空気が少し緩んだ。

 

 けれども、安心するのはまだ早かったのだ。

 また別の誰かの足音がこちらへ向かってくる。

 白蓮たちとすれ違い、そしてフランドールたちが潜む部屋へと近づく。

 

 はたてがいち早く反応した。

 棒立ちだったフランドールは、はたてに抱きかかえられるようにして部屋の奥へ運ばれる。

 そのまま二人で押し入れに飛び込んだ。

 押し入れの襖が閉まるのと、部屋の襖が開かれるのはほぼ同時だった。

 

 フランドールは狭い押し入れの床に仰向けに転がっていた。

 上には、はたてが覆い被さっている。

 重たくても押しのけるわけにはいけない。

 すでに襖一枚隔てた先に何者かがいるのだ。

 今は呼吸すら控える必要があった。

 

 畳を踏みしめる音でこちらへ移動してくるのがわかった。

 密着したはたての体から熱と緊張が伝わってくる。

 フランドールは思わずはたての上着の裾をぎゅっと握った。

 

「ご主人、何をしているんだ?」

 

 遠くから声がした。先ほど白蓮に呼びかけていた声と同じだ。

 

「いや、ちょっと探し物をね」

 

 すぐそこにいる誰かが返事をする。

 

「またなくしたのか?」

「いやー、ははは」

 

 照れ隠しのような笑い声。

 

「あとで私が探しておくから。そんな空き部屋を探しても何も出てこないよ」

「そ、そうですよね」

「行きましょう、ご主人」

 

 遠ざかっていく足音。

 二人は同時に止めていた息を吐き出した。

 押し入れから転がり出る。

 

「危なかった……」

 

 この仕事は想像していたよりもハードだ。

 

「ドキドキしたね」

 

 まだ緊張が解けきっていないのか、はたてはぎこちなく笑った。

 服は乱れ顔は汗まみれ、それでも瞳はギラギラ輝いている。

 

 それを見てフランドールはもう帰りたいなんて言えなくなってしまった。

 その代わり彼女に向けてシャッターを切った。

 

「ちょっと! 何ふざけてるのよ」

 

 はたては焦っているが、もう付近には誰もいないはずだ。

 

「ふざけてなんかないよ」

 

 真顔で返す。

 

「まったくもう。そろそろ行くわよ」

 

 フランドールは忍び足のはたてに続いた。

 すでに十分な報酬をもらっているので文句は言わなかった。

 

 

 ゆっくりと廊下を進む。

 曲がり角や部屋を横切るときは、その先に誰もいないか慎重に確認する。

 その時、前を行くはたてがうっかりつまづいた――ように見えた。

 違う。フランドールの足下もぐらりと揺らいでいる。

 慌てて壁に手を付いて体を支える。

 

「何!?」

 

 はたてが四つん這いのまま声を上げる。

 不安定な床、ほのかに感じる重力。

 

「浮いてる!?」

 

 フランドールはカメラを握りしめた。

 はたてがよろよろと立ち上がる。

 

「たぶん寺そのものが浮かんでいるんだ」

「どうする?」

「ここから出るわ。外から写真を撮りましょう」

 

 はたてが廊下を引き返す。フランドールも慌てて後に続いた。

 すでに振動は収まりつつあった。

 離陸が完了し安定した飛行へと移ったのだろう。

 廊下を駆け抜けて、二人は玄関から外へと飛び出した。

 

 振り返って驚いた。

 先程まで潜入していた寺院のシルエットが、星空の下で大きな船のものへと姿を変えていた。

 船体に付着した土がぼろぼろと落下していく。

 これをつかって白蓮たちは何をするつもりなのだろう。

 はたてに付いて船の上空へと飛び上がる。すると船の先端の辺りで何かが月明かりを反射するのが見えた。

 

「フラン、あれ!」

 

 はたての指示を待つまでもなく、フランドールはカメラを構えていた。

 そして、月光を反射しているのは水面であることに気付く。

 甲板の上に大きな木枠が設置され、そこに水が張ってあるのだ。

 その中に数人の女の子が浸かっていた。

 誰も服を着ていないように見える。

 

「お風呂……? そうか、露天風呂だよ!」

 

 はたてが興奮して叫んだ。

 言われてみると水面から湯気が立ち上っているのが確認できた。

 フランドールはすばやくピントを合わせるとシャッターを切った。

 ストロボが豪快な音を立てて船上に光を叩きつける。

 

 フレームの中で女の子たちが騒ぐのが見えた。

 あれだけの光を発すれば誰だって気付くだろう。

 それでもフランドールは撮影を続ける。

 

「フラン! そろそろ引き上げるよ」

 

 はたてが叫ぶ。「もう少しだけ」と言いかけたとき、レンズの前を湯気のようなものが遮った。

 

「まずっ、一輪と雲山だ」

 

 はたてがフランドールの襟首を後ろから掴んで引っ張る。

 その直後、さっきまでフランドールがいた場所を気体でできた拳骨が風を切りながら通り過ぎていった。

 それを見て、さすがのフランドールも我に返る。

 船から離れるために全力で逃げた。

 

 

 我が家まで逃げ帰ったフランドールは、さっそく写真の現像に取りかかることにした。

 はたては部屋の隅に置かれた机に向かって原稿を書いている。

 話しかけないでほしいと言われていた。

 疲れていたけれど、とても今すぐ眠る気にはなれなかった。

 黙々と作業を続ける。

 

 

 押し入れを改造して作った暗室で一通り現像を終える。

 這い出てみると、はたては先ほど見たときと同じ姿勢で部屋の隅に座っていた。

 しんとした部屋の中でペンと紙の擦れる音だけが響いている。

 

 悪くないなとフランドールは思った。

 取材はいろいろとめちゃくちゃだったけど楽しかった。

 今のこの時間も居心地が良かった。

 

 それに、もしかしたら――はたては館を出てから初めての友達になるのかもしれない。

 

 

 はたての原稿が出来上がった頃には、すでに外が白み始めていた。

 焼き付けまで完了していた写真を二人で吟味して一枚を決める。

 

「もうすぐ河童も目を覚ます頃だろう。印刷所に行ってくるよ」

「うん」

 

 フランドールは目を擦りながら返事をした。

 

「刷り上がったら一番にフランに見せに来るよ」

「わかった」

 

 

      * * *

 

 

 花果子念報の最新号『命蓮寺、真夜中の密かな楽しみ。空飛ぶ露天風呂!?』は大きな注目を集めたらしい。

 

「次号を楽しみにしてるお客さんも多いんだ。固定のお客さんが付くっていうのは嬉しい反面、気が引き締まるねぇ」

 

 はたては得意顔で語った。

 新聞のことはよくわからない。

 けれども、自分の写真が大勢の人の目に触れたと思うと、今まで味わったことのない高揚感を覚えるのだった。

 

 

 

 

 

4.はたてとフラン

 

 

「ほら、起きてよ。はたて」

 

 フランドールは机に突っ伏して眠っているはたての肩を揺すった。

 

「んにゃ?」

 

 はたてはフラフラと頭を起こし口元のよだれを拭う。

 

「今日は朝一番で新聞を配りに行くんでしょ。『文々。新聞』より早く届けるんだってはりきってたじゃん」

「うー」

 

 ゾンビのような声でうめく。

 

「これ、朝ごはん」

 

 そう言って、強引にはたての手にパンを握らせる。

 もそもそと半分寝たまま口へ運んでいる。

 

 はたては夜中まで原稿を書いていることが多い。

 そのため基本的に寝起きが悪く、フランドールは彼女がきちんと覚醒するまで世話を焼かなければならない。

 交代で行うことを約束していた朝食の買い出し係も、気づけばいつもフランドールになっていた。

 

「私、写真を撮りに出かけるから。はたても早くそれ食べちゃいなよ」

「フラン待って」

 

 はたてがこちらへ手を伸ばす。

 

「ん?」

 

 上目遣いで首元を押さえる。

 

「ネクタイやって」

「甘えるな、バカ」

 

 そう吐き捨ててフランドールは部屋を後にする。

 

 

 フランドールが花果子念報の専属カメラマンになってから二週間ほど経っていた。

 その間に発行した新聞は七本になる。二日に一本のペースである。

 はたては日刊が理想と言っていたが今でも十分すぎるほど忙しい。

 紅魔館にいた頃と比べれば時間の過ぎる速さがまったく違う。

 やるべきこともやりたいことも山ほどあるからだ。

 

 

 あの様子では、はたてに次のネタ探しをする余裕はないかもしれない。

 何かはたてに提供できるネタがないか辺りを見渡しながら歩く。

 大通りは人が多いからちょっと怖い。

 お店を見るのは楽しいけれど、お店の人に声をかけられるのは苦手。

 川辺は好き。川を眺める人の顔は大抵いつも優しいから。

 

 

 すでに、一度フランドールが撮ってきた写真をもとに、はたてが記事を書いたことがあった。

 里でたまたま見かけた本当に些細な事件を収めた写真だったけれど、はたてが記事を書いて新聞に変わると、記録という形になって残る。

 おおげさに言えば里の歴史の一部となるのだ。

 そうなると自分の写真が何だかとても価値のあるものに思えてくる。

 気付けばフランドールは新聞作りにはまりつつあった。

 

 

      * * *

 

 

 フィルムを使い切るまで写真を撮ってから家へ帰ると、机に向かって記事を書くはたての姿があった。

 

「あれ? 新聞を配りに行かなかったの?」

 

 尋ねるとはたてが笑顔で振り返る。

 

「行ったよ。いつもより多めに刷っていったのに、あっという間に捌けちゃった」

「やったじゃん」

 

 フランドールは手を叩いた。

 

「それじゃ、もう次の記事?」

 

「うん。まだ、写真がないから明日付き合ってくれる?」

「いいよ」

 

 それ以上、会話はなかった。

 集中しているはたての気を散らせたくなかったし、フランドールも今日撮った写真を現像しておきたかった。

 押し入れの襖を開けて、体を潜り込ませる。

 

 

 フランドールが現像を終えて、寝る支度を整える頃になっても、はたてはまだ書きものをしていた。

 よく集中力が続くものだと感心してしまう。

 

 フランドールは二つ並べて敷いた布団の片方に入って、寝転んだままカメラの手入れを始めた。

 ストロボをカメラから外して、その金属の表面を布で拭く。

 フランドールは手を止めた。

 

「ねぇ、このストロボってはたてがお金を出してくれたんでしょ。にとりから聞いた」

 

 フランドールは写真機の頭に生えた素晴らしい部品を撫でながら言った。

 

「ん」

 

 はたてが記事から顔を上げずに返事をする。

 

「どうして私のためにそこまでしてくれるの?」

 

 はたては万年筆を置くと、両手を上げて伸びをした。

 

「私、ずっと家に籠もって記事ばかり書いてたの。写真は能力を使えばいくらでも手に入ったからね」

 

 姿勢を崩してフランドールの方へ向き直る。

 

「ライバル仲間の影響で家を飛び出したんだけど、空回ってばっかで全然上手くいかなかった」

 

 はたての声は小さかったが、この部屋の静けさの中では十分聞き取ることができた。

 

「やっぱり私には引きこもり記者の方が向いてる。もう諦めようって思ったとき、あなたのことを知ったの」

 

 ランプがはたての背後にあるせいで彼女の顔は逆光になっていた。

 どんな表情をしているのか伺うことができない。

 

「勝手な話だけど、あなたに賭けてみることにしたの。あなたが頑張るなら、私もまだ頑張れる気がする。そう思った」

「……ふうん」

 

 顔が熱くなった。

 はたてからも自分の表情が見えていないことを願う。

 

「怒った?」

「別に」

 

 怒りなんて微塵もなかった。

 ずっと、はたてと一緒に新聞を作っていけたら――本気でそう思う。

 でも、それは叶わないだろう。

 いつか、いやもしかすると明日にでも紅魔館に連れ戻される日が必ずやってくる。

 そうなった時、はたてに迷惑をかけてしまうかもしれない。

 

 

 ――悪いのはまた私だ。

 

 

      * * *

 

 

 最近は妖怪の山にいるよりも人間の里にいる時間の方が長い。

 訪れるたびに山の自然が春の姿へと近づいていっているのがわかる。

 はたては見晴らしのよい岩場に腰をかけて、次の記事のことをぼんやりと考えていた。

 

「花果子念報の記者さんがこんなところで何をしているのでしょうか」

 

 振り返ると射命丸文がいた。

 にやにやとうさん臭い笑みを浮かべながら、細く突き出した岩の先に片脚で立っている。

 

「印刷が終わるのを待ってるのよ。どうせあなたも同じじゃないの?」

「むむっ、良い推理ですね。そのとおりです」

 

 おどけたように言って飛び上がると、空中で一回転してからそのままはたての隣に座った。

 スカートが捲れて下着が見えるのにもお構いなしだ。

 

「そうだ! 私の新聞見てくれた? 命蓮寺のやつ」

 

 はたてが訊くと、

 

「見ましたよ。あれは正直やられたと思いました」

 

 珍しく素直な答えが返ってきた。

 

「命蓮寺住人の大胆にしてひそかな楽しみを見事に暴きたてている。しかも、ちょっとえっちな興味をそそります。素晴らしい」

 

 いや、そこまで考えて書いたわけではなかったのだが。

 それでも悪い気はしなかった。

 文に褒められるなんて初めてのことじゃないだろうか。

 何だかくすぐったくてモジモジしていると文が言った。

 

「でも、最近の花果子念報で一番だったのは今週の初めに発行されたやつですね」

「今週の初め? それってもしかして子犬の記事?」

 

 驚いて聞き返す。

 

「そうです。あれはよかった」

 

 意外だった。あのような地味な記事を文は好まないと思っていたからだ。

 

「あれはフランが……」

 

 そう言いかけて、慌てて口をつぐむ。

 聞こえていたはずなのに文は何も言わなかった。

 その文の態度を見て確信する。

 

「知ってたの?」

 

 文は口元を八手の葉で隠しながらはたての耳に近づけた。

 

「もちろん。あなたが他人と組んだことにも驚きましたが、組んだ相手にはもっと驚きました」

「記事にする気?」

 

 小声だったが語気は自然と強くなった。

 

「いいえ、今のところは。そっとしておいた方がもっと面白くなりそうですから」

「ふん、なるほどね」

「良いパートナーを見つけたみたいですね」

 

 そう言う文の表情は優しかった。

 

「うん」

 

 だから、はたても素直に返事をする。

 

「さっきの子犬の記事もね。先にあの子が写真を撮ってきたのよ。偶然その場に居合わせたらしいんだけど」

「その写真を見て、記事を書かずにはいられなかったのよ」

「写真だけじゃないですよ」

 

 文が言った。

 

「あなたの文章もよかった。何ていうか……、あなたらしいと思った。ちょっと飾り立てすぎな気もしたけどね」

「実をいうと、あの子の写真があると記事を書くのが楽なんだよね。写真が書くべきことを語ってくれてるように思える時があるんだ。念写で写真を探していたときはこんなこと一度もなかったのに」

「ふうむ、なかなか興味深い話ですね。パートナーがいるだけでそこまで作業効率が上がるのでしょうか」

 

 言いながら文は立ち上がった。

 

「それじゃ、次の取材もあるので私は行きます」

「そう」

「ひとり寂しい射命丸。けれども、まだまだあなたの新聞に負けるわけにはいきませんから」

「望むところよ」

 

 飛び立とうとする姿勢のまま文は動きを止めた。

 

「はたて」

 

 こちらに背を向けたまま名前を呼ぶ。

 

「先ほど私が『もっと面白くなる』と言ったのは、ただの勘ではありません」

 

 硬い口調だった。

 

「フランドールの家出がいつまでも許されるとは思えません。そもそもこれまでの紅魔館の方針からすれば、すぐにでも連れ戻しにくるはずなのです」

「わかってる」

「紅魔館で何が起こってるかはわかりませんが覚悟だけはしておいた方がいい。フランドールに家へ帰るよう説得するか、それとも彼女を匿って紅魔館と敵対するのか。決めなければならない時がくるでしょう」

 

 冷たい風が目の前を吹き抜けていった。

 何か答えなければと口を開きかけたときには、すでに彼女の姿はなくなっていた。

 はたてはそのまま残って、風を浴びながらフランドールのことを考えた。

 

 

      * * *

 

 

 明日の朝、配る新聞はすでに仕上がって部屋の隅に積んである。

 今夜は、はたても筆を置いていて、フランドールの隣の布団に座ってくつろいでいる。

 現像したばかりの写真を二人で見ながら、他愛もない話で盛り上がっていた。

 

「フラン、ちょっといい?」

 

 はたてが急に真剣な表情になって言った。

 

「どうしたの?」

 

 フランドールはたじろぐ。

 

「写真展を開いてみない?」

「しゃしんてん!?」

 

 と一応驚いてはみたものの、

 

「ってなに?」

 

 はたては布団の上へ、大げさにひっくり返った。

 

「なんで知らないのよ、もう。ようするにあんたの写真を飾ってたくさんの人に見に来てもらうってこと」

「知らない人もくるの?」

「知らない人も知ってる人も来るわよ。花果子念報でも告知するし、文にも宣伝してもらうつもりだから」

 

 フランドールはうつむいた。

 

「それはダメだよ」

「お姉さんに見つかるから?」

 

 問い詰めるような口調だった。

 

「うん」

 

 はたては布団の上にあぐらをかくと、再び真剣な顔を取り戻して言った。

 

「私、これからもフランと新聞を作っていきたい」

「私だってそうだよ。だから……」

 

 はたてはフランドールの言葉を強い口調で遮った。

 

「どうしてフランがこそこそしなきゃならないわけ」

「それは……」

 

 フランドールは口ごもる。

 

「やりたいことがあって家を出て、今は私と新聞を作る仕事をしてる。それだけだよ。何も悪いことなんてしてないじゃない」

「本当に私、悪くないの?」

 

 はたては真っ直ぐな視線でフランドールを見ていた。

 

「フランは悪くない。だから、もっと堂々としてたくさんの人に写真を見てもらえばいいんだよ」

 

 はたてはフランドールの肩に手をかけた。

 

「でも、はたてに迷惑をかけちゃうかもしれないよ」

「迷惑だなんて思わない。私自身がフランの写真展を見てみたいんだから」

 

 はたてのそのストレートな一言でフランドールは決心した。

 ここで逃げるようなら、はたての友達だなんて名乗れない。

 

「私、写真展やってみたい」

 

 

      * * *

 

 

 冷たい風の中、買い出しから帰ってきた咲夜は手揉みしながら門をくぐる。

 そこに美鈴の姿はない。

 この違和感にはいまだに慣れることができずにいた。

 

「ただいま戻りました」

 

 言いながら扉を開けると、玄関にレミリアが立っていた。

 仁王立ちである。

 

「フランはどこ?」

 

 その一言で、咲夜はついに嘘がばれたということを悟った。

 

「あなた、フランは魔理沙の家で暮らしてるって言ってたわよね」

 

 咲夜は何も答えない。

 

「見てきたけど、どこにもいなかった。付き添っているはずの美鈴の姿もなくて、いたのはのんきにキノコを煮込んでる魔理沙だけだったわ」

 

 誤算だった。

 レミリアの性格上自分から見に行くことはないと考えていた。

 

 それほどフランドールが心配だったということだろうか。

 尋ねてみたかったが、それをしたらおそらく本当に殺される。

 

「言え。どこにいる?」

 

 レミリアの声色が変わった。

 その怒気を含んだ声を聞いて背筋に悪寒が走る。

 

「人里です。フラン様は人間の里で暮らしてらっしゃいます」

 

 レミリアの瞳が見開かれる。

 

「お前がここまで馬鹿だとは思わなかったよ」

 

 吐き捨てるように言ってレミリアは咲夜の脇を通り抜けようとした。

 

「待ってください!」

 

 咲夜は叫んだ。

 玄関の扉に伸ばしたレミリアの手を掴む。

 

「先ほど人里で美鈴から近況を聞いてきました」

「フラン様が写真展を開かれるのです」

 

 

 

 

 

5.展覧会

 

 

 家を飛び出してから毎日のように撮り続けてきたので、確認するまでもなく展示する写真は腐るほどあった。

 あとはそこから出来の良いものや思い入れの深いものを選ぶだけである。

 フランドールが苦労したのは会場の設営の方だった。

 

 

 この家に住み始めてから、ほとんど二階のみで生活してきたので一階は手つかずで残っている。

 このスペースを利用しない手はない。

 しかし、これまで手つかずであったということは当然掃除もしていないわけで、とてもじゃないがお客様を呼べるような状況ではなかった。

 

 

 ほこりを掃き出し、床と壁を隅々まで雑巾で拭いた。

 春がそこまで来ているとはいえ、まだ水は冷たい。

 雑巾を洗うときには、刺すような痛みを我慢しなければならなかった。

 

 

 展示の方法についてはにとりが相談に乗ってくれた。

 写真は十六倍に引き伸ばされ木製パネルに貼り付けられて、ただの写真から作品へと変わる。

 日の目の当たる場所へ引っ張り出されて、写真たちが少し恥ずかしがっているように見えた。

 

 

 瞬く間に一週間が過ぎて、気付けば当日の朝だった。

 紅魔館にいた頃と時間の感覚が全然違うことに驚く。

 これまでフランドールにとって時間は遙か彼方まで先へと伸びる平坦な長い道のようだった。

 けれども、今では足元から崩れていく脆い砂の橋みたいだ。

 

 

 レミリアは来るだろうか。

 

 

      * * *

 

 

 空から眺めると今にも朽ち果てそうに見える古い家屋――ここが写真展の会場だという。

 文は少し不安になりながら地上に降りる。

 

 受付には所在なさげにフランドールが座っていた。

 これが悪魔の妹と呼ばれ、恐れられてきた妖怪の現在である。

 気付かぬうちに世界は変化していく。

 記者としてその変化を見逃さないように努めたいものだ。

 

 そんなことを考えていると、奥からはたてが姿を見せた。

 

「いらっしゃい」

 

 それだけ言って中へと促す。

 屋内は外からの見た目よりか綺麗だった。

 壁に沿って等間隔に写真が貼られている。

 

 

 まず目に入ったのはにとりの写真だった。

 金属の箱に工具を突っ込んで格闘している姿が写っている。

 いつもヘラヘラと笑っている愛想の良いにとりからはほど遠い。

 己の腕と経験だけを信じている職人の顔だ。

 

 

 はたての写真もあった。

 原稿用紙に向かうはたての横顔である。

 その表情は真剣そのもので、ペンで文字を書いているだけなのに全身に力が入っているのがわかる。

 その懸命な姿は痛々しくもあり、美しくもあった。

 おそらく、この時フランドールがシャッターを切ったことすら気付かなかったのではないかと思う。

 

 

 そして、文の写真である。

 撮影の方は合意の上なので、展示されていても驚くことはない。

 しかし、文はそれを見て頬が熱くなるのを感じた。

 立ったまま手帳を広げてペンを握っている。

 上目遣いの視線は相手のわずかな変化を見逃すまいと鋭く輝いていて品がない。むき出しの好奇心。

 ――そうだ、これが私だ。文句あるか。

 

 

 フランドールの目は被写体の「孤独」を見逃さない。

 程度の差こそあれ、人は誰でも孤独を抱えて生きている。

 それは簡単に人前では見せようとしないし、あるいは本人すら無自覚であることも多い。

 それでも、フランドールは相手の表情やしぐさからそれを敏感に読みとり、フレームに収める。

 まともにコミュニケーションも取れない癖に、他人のことは正確に観察しているのだ。

 

 

「よお、文じゃないか。お前も来てたのか」

 

 入り口に魔理沙と霊夢が立っていた。

 

「もちろん来ますよ。私はこの写真展の宣伝担当ですからね。魔理沙さんだって、私の号外を見てここへ来たんじゃないですか」

「そういや、そうだったぜ」

 

 魔理沙は三角帽子を取ってニヒヒと笑った。

 

「私は魔理沙に無理やり連れてこられたのよ」

 

 言うほど嫌がっているようには見えない霊夢である。

 

「で、どうでした?」

 

 手帳を取り出し、記者モードになって質問する。

 

「いやあ、フランのやつにこんな才能があったなんてな。正直驚いた」

 

 魔理沙が素直に褒めるのは珍しい。

 

「あなたも撮ってもらいたいと思いますか?」

「ああ、もうフランに予約を取り付けてきた」

「霊夢さんはどうですか?」

「私はいい」

 

 霊夢は顔の前で手を振った。

 

「なぜ?」

「何だか怖いじゃない」

 

 神も悪魔もねじ伏せて、数々の異変を解決してきた無敵の巫女。

 その内側に隠れた弱い一面を見た気がした。

 

「なんだそりゃ?」

 

 魔理沙が茶化す。

 

「お前の写真ならみんながほしがるぜ。玄関に貼っておけば妖怪避けになる」

 

 

 じゃれ合いながら去って行った二人を見送ったところで、入れ替わるようにやってきたのは、従者に日傘を持たせて優雅に歩く少女だった。

 大惨事の予感にゴクリと唾を飲み込む。スクープのチャンスなのにちっとも嬉しくなかった。

 

 

      * * *

 

 

 フランドールには、その気配だけで誰が来たのかわかった。

 

「おじゃまするわよ」

 

 懐かしい声。

 受付に座るフランドールのことなど、目に入らないかのようにレミリアは中へと入っていった。

 その代わり、後を付いてきた咲夜が深々と頭を下げる。どこか疲れた表情をしていた。

 続けて、パチュリーと小悪魔に入ってきた。

 二人はフランドールを見て少しだけ微笑んだ。

 フランドールはレミリアの背中を目で追わずにはいられなかった。

 私が見てきた外の世界――お姉さまの目にはどう映るのかな。

 

 

 レミリアは順に写真を見ていく、時折、立ち止まって凝視することもあった。

 他の誰に見られるのよりも緊張する。吐き気がするほどだ。

 

 息もできないような長い時間の後、レミリアが歩いてきて、フランドールの前に立った。

 フランドールは立ち上がることもできず、ただレミリアを見上げる。

 

「で、これがなに?」

 

 展示された写真に手のひらを向けて言った。

 

「品のなさそうな妖怪や、小汚い人間の写真が何になるというの?」

 

 フランドールは震えた。

 もしかしたら、写真を見せればレミリアも分かってくれるかもしれない。

 そんな夢みたいなことを馬鹿みたいに考えていたのだ。

 紅魔館を出てから、たくさんの人に出会って助けてもらった。

 ここに並んでいる写真にはその人たちの姿が収められている。

 レミリアにはそれを見てほしかったのだ。

 

「さ、遊びの時間は終わり。咲夜、ここの後始末はあなたに任せるわ」

 

 咲夜は何か言いたそうに口を開きかけたが、レミリアはその返事を待たなかった。

 

「行くわよ」

 

 レミリアがフランドールの腕を掴む。

 

「いや、離して!」

 

 フランドールは振りほどこうともがいた。

 

「わがまま言うんじゃない!」

 

 レミリアの怒声が合図になったかのように展示されていた写真がパネルごと弾けとんだ。

 一つが弾けると伝染するみたいに、次から次へと粉砕されていく。部屋中を木片が舞う。

 もう全て壊れてしまえばいいんだ。

 その光景を見ながら、フランドールは暗く愉快な感情に満たされつつあった。

 全て粉々して消し去ってしまえば、何もかも元通りになるかもしれない。

 気付いたら紅魔館にいて、外の世界のことなんて考えることもなく、地下の冷たい床の上で毎日を過ごすフランドールに逆戻り。

 お姉様もこれで文句はないでしょう。

 

 けれども、その時フランドールの背中を包むものがあった。

 

「もうやめな」

 

 はたてに抱きすくめられていた。その声を聞いて我に返った。

 自分の息が荒く、全身が酷く強ばっていることに今さらながら気付く。

 部屋の惨状を見て、状況を理解する頃には涙がこぼれていた。

 

「だから言ったでしょう。あなたが人の中で生活するなんて無理なのよ」

 

 レミリアが言った。どこか涙声のようにも聞こえた。

 

「あんたにフランの何が……」

 

 はたてがフランドールを庇おうと口を開く。

 しかし、それよりも先に動いた者がいた。

 

 パチュリーがレミリアの頬を叩いた。

 大きな音と突然の出来事に、その場にいた全員が硬直した。

 もちろん一番驚いたのはレミリアに違いない。

 頬を押さえて呆然とパチュリーを見つめている。

 

「咲夜、傘」

 

 パチュリーが振り返って言った。

 

「は、はい」

 

 咲夜が日傘を渡すと、パチュリーはレミリアの手を引いて、そのまま外へ出て行ってしまった。

 さすがの咲夜もどうして良いかわからずうろたえてる。

 

「お、お嬢様……」

 

 追いかけようとしたところを小悪魔が手で制した。

 

「パチュリー様に任せましょう」

 

 僅かな間があって、

 

「そうね。その方がいいわ」

 

 咲夜は悲しそうな表情で呟いた。

 

 

      * * *

 

 

 街道に咲いた白い花のような日傘。

 その下で柄を持ったパチュリーと、それに寄り添いレミリアが歩いていく。

 

 

 咲夜と違ってパチュリーは、傘をレミリアの頭上に掲げてくれたりはしない。

 彼女が傘の真ん中に収まっているので、レミリアはパチュリーにくっつかないわけにはいかない。

 非常に歩きづらいわけだが、もしかするとこれはパチュリーなりのレミリアへのお仕置きなのかもしれない。

 レミリアはパチュリーの横顔をちらりと盗み見る。

 いつも通りの無愛想な表情からは何も読み取れなかった。

 

「あたたた」

 

 突然、パチュリーがうずくまった。

 

「パチェ!? どうしたの?」

「さっきので手首折れたかも」

 

 虚弱体質の魔法使いの手首には、ビンタをするだけの強度がなかったらしい。

 どうしてよいのかわからず、レミリアはただオロオロしてしまう。

 数分後、パチュリーはなんとか持ち直し再び歩き始めた。

 日傘はレミリアの方が持つことにした。

 

「ねぇ、パチェ。この場合、私は謝った方がいいのかしら」

「いらないわ。叩いたのは私の方だし」

 

 素っ気ない口調だった。

 

「じゃあ、せめてお礼を言わせて」

 

 レミリアは消え入るような声で言った。

 

「ありがとう」

 

 

      * * *

 

 

「あんたたち、これ以上変な真似をするじゃないよ」

 

 精一杯凄んで見せるが、三人は怖がる素振りもなくきょとんした表情ではたてを見ている。

 

「私たち天狗の力、知らないわけじゃないでしょう」

「『私たち』って、もしかして数に入れられてます?」

 

 物陰に隠れていた文が恨めしそうな声を上げた。

 

「とにかく、フランは渡さないよ!」

 

 はたては写真機を構えた。

 正直なところ勝算はなかったが、隙をついてフランドールを逃がすくらいはやってみせるつもりだった。

 

 メイド服が一歩前へ出る。はたてが反応し、身構えた時にはすでに背後に回られていた。

 何が起こったのかわからず、呆然としながら振り返るとメイド服は竹箒を構えて立っていた。

 

「美鈴、小悪魔。あなたたちもお願い」

 

 三人は散らばった木片を集めはじめる。

 

「あれ?」

 

 どうやら、ただ掃除をしているだけらしい。

 三人の手際は良かった。はたてが尋ねる間もなく掃除を終えてしまった。

 そして、再びはたての前へとやってくると深々と頭を下げた。

 

「申しわけありませんでした」

 

 メイド服が続ける。

 

「このような事態を招いてしまったのは私のせいです。私がつまらぬ浅知恵でフラン様が人里にいることを隠そうとしたばっかりに」

「はぁ」

 

 事態が飲み込めず、はたてはどう答えてよいのかわからない。

 すると、フランドールが顔を上げて鼻をすすりながら答えた。

 

「いいよ。私のためを思ってしてくれたんでしょう」

 

 そして、今度はフランドールが頭を下げた。

 

「私の方こそごめんなさい。黙って家出して、お金も盗って。本当にごめん」

「それはもういいですよ。私たちがフラン様の思いを、真剣に受け止めてあげられなかったのがいけなかったんです」

 

 結局、予測したような事態には一切ならず、はたてに丁寧なお辞儀をして三人は帰っていった。

 嵐が去った後の静かな部屋に二人は取り残された。

 フランドールはずっと黙り込んでいる。

 きっと姉のことを考えているのだろう。

 

 はたては何と声をかければよいのかわからず、

 

「無理しなくていいからね」

 

 それだけしか言えなかった。

 毒にも薬にもならない間の抜けたその一言はいつまでも部屋の中を漂って、はたてが無力であることを思い知らせるのだった。

 

 

 

 

 

6.スカーレット・ナイト

 

 

 夜更けのダイニングルーム。

 集まってみたものの誰も口を開こうとしない。

 柱時計の振り子だけが五人に決断を迫るかのように規則的なリズムを刻んでいる。

 美鈴は目の前に置かれたティーカップの底を見つめていた。

 このままずっと、こうして重苦しい時間を過ごしていても何も解決しないことはわかっていた。

 ティーカップに残った滴が乾き、こびりついて落とせなくなる前に洗い流してしまったほうが良いのだ。

 

「さて、はじめますか」

 

 おどけるように言ってみる。

 

「は?」

 

 空気を読めと咲夜がにらんでいる。

 けれども美鈴は続けた。

 

「挙手をお願いします。フラン様がここを出ていくのに賛成の人」

 

 美鈴はピンと手を上げて見せる。

 他の一同は面食らった様子であったが、やがて咲夜と小悪魔がおずおずと続いた。

 

「では、フラン様が出ていくのに反対の人」

 

 当然、残る二人に視線が集まる。

 レミリアはつまらなそうに頬杖をついていた。

 パチュリーは分厚い本に視線を落としていた。

 

 レミリアは頬杖をついたままの姿勢で口を開いた。

 

「美鈴、まさか多数決だなんて言わないでしょうね」

「もちろん。そんなつまらないこと言いませんよ」

 

 それを聞いてレミリアがニヤリと笑った。

 この日初めて見るレミリアの笑顔だった。美鈴も笑い返す。

 

 二人のやりとりの意味を他の面々も理解していた。

 今のはただのチーム分けである。

 ここにいる連中にはまどろっこしい話し合いなど意味がない。

 シンプルでわかりやすい方がいいのだ。

 

「ちょっと待ってください!」

 

 小悪魔が慌てた様子で言った。

 

「パチュリー様はレミリア様の方に付くんですか!?」

 

 パチュリーは表情を変えることもなく、

 

「何かおかしいかしら。レミィは私の親友よ」

「だって、さっき思いっきり引っ叩いてたじゃないですか」

「あれはスキンシップよ。体を張った、ね」

 

 パチュリーは包帯を巻いた手首をさすった。

 

「そんなの変ですよ。あの後、二人の間に何があったんです?」

 

 必死に問い詰める小悪魔にパチュリーはうんざりした様子でパラパラとページを捲った。

 すると、本の間から一枚の紙がはらりと落ちてテーブルの上を滑った。

 美鈴はそこに魔法陣が書かれているのを見てぎょっとする。

 

 紙から強烈な閃光が放たれた。目の前が白に染まる。

 視界が戻ったとき、レミリアとパチュリーの姿はどこにもなかった。

 

「やってくれますね」

 

 この狭い部屋では、レミリアは得意のスピードを生かすことができなかったはずだ。

 おそらく、戦いやすい場所で待っているのだろう。

 

「行きましょう」

 

 咲夜はすでにナイフを構えていた。

 

「パチュリー様は私にやらせてください」

 

 小悪魔からは普段の上品さが感じられない。

 嫉妬と怒りに満ちた表情は、名のとおり悪魔のようだ。

 二人とも完全に臨戦態勢である。

 

「楽しい夜になりそうだ」

 

 レミリアの真似をして言ってみた。

 

 

      * * *

 

 

 レミリアは中庭にぽつんと立っていた。

 その姿だけなら親とはぐれた子供のようにも見える。

 冬の終わりの冷たい夜風が、彼女のスカートを揺らしている。

 

 美鈴と咲夜が近づいていくと、

 

「待ちくたびれたわ」

 

 つまらなそうに呟いて夜空を仰いだ。

 やる気がなさそうに見せているが、美鈴をごまかすことはできない。

 すでにレミリアからは強い殺気が感じられた。

 

 咲夜の方をちらりと見ると、ナイフの切っ先をレミリアに向けるようにして構えていた。

 それは、咲夜が先に前へ出るという美鈴へのサインだ。

 長年共闘していくうちにできた二人の間だけの決まりごとである。

 

「すぐにはじめましょう」

 

 言うと同時に、美鈴は右足で勢いよく地面を踏みつけた。

 地面を伝わせた気が向かった先はレミリアではなく、中庭の隅に置かれた鉄製の丸いガーデンテーブルである。

 美鈴の気によって吹き飛ばされたテーブルはレミリアを襲った。

 レミリアはそれを簡単に弾き返す。それで十分だった。

 そのわずかな動作の間に咲夜がレミリアの正面まで距離を詰めている。

 

 一直線にレミリアへ向かっていった咲夜とは異なり、美鈴はレミリアに対して回り込む軌道で向かっていった。

 レミリアに距離を取られて弾幕を張られるような展開は極力避けたい。二対一の利が薄くなる。

 もっとも手っ取り早く決着をつけるには咲夜が隙を作り、そこを突いて美鈴が気を込めた拳を直撃させることだ。

 咲夜もその結論に達したはずだと美鈴は疑わなかった。

 

 美鈴がレミリアまで五歩の距離に到達した時、空気にわずかな違和感があった。

 咲夜のナイフがレミリアの頬をかすめて傷を作っている。

 それだけではない。

 宙にはレミリアを取り囲むように無数のナイフが出現していた。

 咲夜が時を止めたのだ。

 

 至近距離から向かってくるナイフを、レミリアは恐るべき反応速度でかわしていく。

 もちろんその間に、美鈴は距離を詰めていた。

 ナイフを注視している間、レミリアの位置から美鈴は死角になる。

 咲夜のナイフの配置は緻密に計算されてる。

 

 すでに気は十分練られていた。

 美鈴は速度を落とさずレミリアに突っ込んでいった。

 拳を振り上げた瞬間、レミリアがこちらへ向き直るのが見えた。

 美鈴が来ることが読まれていたのだ。

 それはナイフに対して無防備な背を晒すことにもなるはずだったが、レミリアは体を捻って全てを避けきった。

 捻った体勢を戻しつつ、その勢いで美鈴に向かって鋭い爪を繰り出す。

 

 レミリアのような怪物じみた身体能力を持ち合わせていない美鈴は、為すすべもなくカウンターを喰らうしかないはずだった。

 しかし、そうはならなかった。

 横から何かがぶつかったかのようにレミリアの体勢が崩れていた。

 このような状況を作り出せるのは一人しかない。

 美鈴は驚いていた。おそらくレミリアも同じだろう。

 先ほど時を止めてから、まだほとんど時間が経過していないのである。

 一定の間隔を空けなければ、咲夜は時を止めることができないはずなのだ。

 

 

 美鈴は以前、咲夜に尋ねたことがある。

 間隔を空けず無理に時を止めるとどうなるのか、と。

 心底嫌そうな顔で咲夜は答えた。

「脳みそが雑巾絞りされてるみたいに頭が痛くなって鼻血が出る」

 

 

 形勢は再び逆転し、無防備に相手の一撃を待つのはレミリアとなった。

 美鈴はキツい一撃をレミリアに叩き込んだ――はずだった。

 レミリアの軽い体はゴム毬のように弾かれて地面を転がっていく。

 しかし、美鈴にはわかっていた。

 レミリアを倒すに至るほどのダメージは与えられていない。

 わずかに踏み込みが甘かったのだ。

 

 美鈴の踏み込みを鈍らせたのは、幾度となく修羅場をくぐり抜けてきた経験と長年レミリアを傍で観察してきたことで得られた情報によるものだった。

 ようするに、早い話がビビったのだ。

 

 チャイナドレスの胸の下あたりに、パックリと真横に亀裂が入っていた。

 あとわずかでも奥へ踏み込んでいたら皮膚が、もしくはその中身までもパックリいかれていたかもしれなかった。

 己のビビリ根性に感謝しなければならない。

 

 本来であればどう考えても、あの状況からの反撃はありえないことだった。

 しかし、そのありえない存在が我が主なのである。

 

 

 咲夜の姿を探すと、美鈴の背後に平然と立っていた。

 

「もう一度行くわよ、美鈴」

 

 言い終わるのと同時に咲夜の鼻から赤い雫が垂れる。

 咲夜は恥じらう素振りもみせず、それを親指で拭った。

 その無骨な所作と可憐な容姿のギャップに、美鈴は震えるような感動を覚えた。

 

 いつまでも彼女の姿を見ていたい衝動を抑えつけ美鈴は駆け出す。

 レミリアの周囲で巨大なエネルギーがはじけ飛ぶ。

 降り注ぐ弾幕の中に美鈴は飛び込んだ。

 

 

      * * *

 

 

 小悪魔は角を曲がる前からパチュリーが近くにいることを感じとっていた。

 そして、その予感のとおり、長い廊下の先にパチュリーの姿を発見した。

 

 

 異様な光景だった。

 

 

 赤い絨毯の上には数え切れないほどの本が無造作に散らばっていた。

 本棚をひっくり返えしたかのような惨状に、図書館の管理を仕事としている小悪魔は思わず眉を潜めた。

 また、小悪魔の知るかぎりこの廊下に本棚など設置されていた覚えはない。

 そして、その本の小道の奥ではパチュリーが椅子に座って、やはり本を読んでいる。

 いつの間に持ってきたのかわからないが、その椅子はいつも図書館でパチュリーが愛用している椅子である。

 

 遠目に見たその様子は日常のパチュリーそのものだ。

 彼女の背景だけが図書館の本棚から廊下の突き当たりに変わっていた。

 

 小悪魔は当然罠だと判断する。

 おそらく、この場に落ちている本にはパチュリーの魔力が込められている。

 うかつに近づけば至近距離で攻撃を受けることになるだろう。

 ここは一度迂回して反対側から攻めるべきだった。

 

「アハッ」

 

 小悪魔は声を上げて笑った。

 パチュリーは試しているのだ。小悪魔の力を。そして、小悪魔の愛を。

 

 小悪魔は正面から突っ込んでいった。

 まるで意思を持っているかのように、散らばっていた本のページがめくれて弾幕が放たれる。

 瞬く間に廊下は危険地帯となった。

 壁が削れて粉塵が舞い、窓ガラスが吹き飛び派手な音を立てた。

 小悪魔は嵐のように襲い掛かる無数の弾を紙一重でかわしながら進んでいく。

 

 ――どれだけ長い間、あなたを見てきたと思っているんですか?

 

 パチュリーが本に施したトラップの特性も、配置するときの癖も把握している。

 いくらすさまじい弾幕でも次に何が来るのかわかっていれば、避けることは難しくない。

 

 相手の思考をなぞりながら体を動かすのはダンスを踊ることに似ていた。

 ステップを踏むように小悪魔はパチュリーへと向かっていく。

 全身でパチュリーを感じることができて幸福ですらあった。

 

 そうして小悪魔は廊下を渡りきろうとしていた。

 もうパチュリーは目の前である。

 魔法を詠唱している気配はなかった。平然と本を読むふりをしている。

 小悪魔がトラップの道を踏破することは想定していなかったようだ。

 

 勝利を確信する。

 今から詠唱を始めたとしても小悪魔が辿り着く方が早い。

 小悪魔はパチュリーに飛びかかった。パチュリーが手で身を庇う。

 そして、小悪魔はその手首に巻かれた包帯を目にした。

 ダイニングルームに集まる前、自らのビンタで負傷したパチュリーの手首を手当てした時のものだ。

 

 直後、パチュリーの体が後ろへと傾いた。

 椅子から転げ落ちたのかと思ったが、そうではなかった。

 パチュリーの座っている椅子の足が浮き上がり、弧を描いて小悪魔の顎を強かに打ったのだ。

 

 予期せぬカウンターをくらって小悪魔は床に転がった。意識が遠のいていく。

 

「椅子にも魔法が施してあったのは気づいてたかしら?」

 

 上からパチュリーの声が聞こえる。

 

「それにしても、あなた。思ったとおり、私の傷を見て攻撃をためらったわね」

 

 声が近くなり、頭を撫でる手の感触があった。

 

「どれだけ長い間、あなたを見てきたと思ってるのかしら。全部お見通しなのよ」

 

 小悪魔は気を失った。

 

 

      * * *

 

 

 土の匂いを嗅いでいた。

 美鈴は泥だらけで地面に転がっていた。

 全身の痛みを堪えて身をよじり体を起こす。まだ立ち上がる元気はない。

 近くに咲夜が仰向けに倒れているのが見えた。

 彼女から発せられる気は弱々しかったが命に関わる危険はなさそうだった。

 少し安心する。

 

 レミリアがふらつく足取りで二人の傍へ歩いてきた。

 

「あんたら、よくもやってくれたわねぇ」

 

 弾幕を掻い潜り二発も重たいのを叩き込んだのだがレミリアを倒すには至らなかった。

 あらためて、我が主の強さを再認識させられた。

 

「いやいや、お嬢様の方が百倍くらいやってくれてますって」

 

 立っているのが辛そうなレミリアの様子を見て、美鈴は何とか武人としてのプライドを保つことができたと思った。

 

「お疲れさま」

 

 パチュリーが歩いてくる。こちらは衣服の乱れすらない。

 背後にはいつも通り付き従う小悪魔の姿があった。

 いつもと違うのは彼女がぐったりとうな垂れた様子で、浮かぶ椅子に座らされていたことくらいである。

 

 レミリアは月を見上げていた。満月には少し早い月だった。

 

「どうして、みんなわかってくれないのかしら」

 

 そう呟く横顔は己の不幸を嘆く可憐な少女のものである。

 そして、レミリアは深く息を吸い込み、

 

「フランー! 愛してるぞぉー!」

 

 夜空に向かって叫んだ。

 

 ――直接言え、ばーか!

 

 美鈴だけでなく、その場にいて意識のある者は全員そう思ったに違いない。

 レミリアにその勇気があったならフランが家出することも、こうして美鈴たちが地面に転がされることもなかっただろう。

 

 レミリアは美鈴たちに振り返る。

 

「決めた! 私、フランと直接対決するわ」

 

 高らかに宣言した。

 

「た、対決……。正気ですか」

 

 レミリアとフランドールが本気で戦えば今日のようには済まない。

 紅魔館どころか幻想郷そのものが危ないかもしれない。

 

「もちろん。そうでもしないと決着がつかないでしょう」

「それはそうかもしれませんが」

 

 フランドールが戦うことを一番恐れていたのはレミリアではなかったか。

 

「咲夜、フランに手紙を書きなさい」

 

 咲夜さんならさっきあなたがぶん殴ったばかりでしょうが、そう美鈴がたしなめようとすると、

 

「かしこまりました」

 

 いつの間にか復活した咲夜がレミリアの傍に立っていた。

 洗練された立ち姿も健在である。

 

 どこまでもタフな仲間たちを前に、美鈴は苦笑するしかなかった。

 

 

 

 

 

7.ホリゾント・ホワイト

 

 

 写真展から半月が経っていた。

 フランドールはあれから一枚も写真を撮っていない。

 今も部屋の隅で寝転がりながら昔の写真を眺めている。

 

「食べないの?」

 

 はたてがちゃぶ台の上のあんパンを見ながら言った。

 あの日以降、買い物に行かなくなったフランドールの代わりに、はたてが買ってきてくれている。

 

「んー、食べさせて」

 

 口を開けて催促する。

 

「だーめ。こっちへ来なさい」

 

 仕方なく、フランドールは畳の上をもそもそと這ってちゃぶ台の上に手を伸ばした。

 

「あのねぇ、フラン。いつまでそうしているつもり?」

「ふぇ?」

 

 突然、尋ねられてフランドールはあんパンを咥えたまま固まった。

 

「花果子念報も販売部数が増えてきたとはいえ、まだまだ安定して利益が出せているわけじゃないのよ。働かない人を養うほど余裕はないの」

「そんなぁ。はたて、ヒドい。無理しなくていいって言ってくれたじゃん」

 

 食べかけのパンを置いて、フランドールは正座をしているはたての足に擦り寄った。

 

「ヒドくない。甘えないの」

 

 はたてはフランドールを払いのけて立ち上がった。

 支えを失ったフランはベチャッとうつ伏せに倒れ込む。

 

「えーん。はたてに見捨てられたら、私死んじゃう」

「ばか」

 

 はたては嘘泣きをするフランドールの尻を踏みつけてグリグリする。

 

「私、ひとつわかったの」

「え?」

「結局、あんたの中心にあるのはレミリアなんだよね」

「どういう意味?」

 

 押さえつけられて起き上がれないため、はたての顔を見ることもできない。

 

「あんたにとって写真はレミリアに認められるための手段に過ぎなかったのよ。だからあの時、レミリアに真っ向から否定されて、もうやる気がなくなっちゃったんでしょう」

「そんなことは……」

「ないって言える?」

「うう」

 

 反論できなかった。

 

「私は誰に何を言われても自分の好きなことをやめたりしない」

 

 はたての足が緩んでフランドールは起き上がることができた。

 

「私とずっと一緒に新聞作りたいって言ってくれたの。あれ、嘘だったの?」

 

 見上げたはたての表情は寂しそうだった。

 

「嘘じゃない、嘘じゃないよ。でも、すぐにはちょっと……。ごめんね」

 

 今のフランドールには謝ることしかできなかった。

 

「ごめんくださーい」

「わっ、何?」

 

 しんみりとした空気に、突然割って入る能天気な声。

 窓から顔をのぞかせたのは美鈴だった。

 

 

      * * *

 

 

「よっこらせ。お邪魔しますね」

 

 窓をまたいで美鈴が入ってくる。

 

「非常識ねぇ。何で玄関から入ってこないのよ」

 

 はたては不機嫌そうに言った。

 

「はたても、最初はそこから入ってきたじゃん」

「うっ」

 

 美鈴は畳の上に正座すると深々と頭を下げた。

 

「先日は大変失礼しました」

「大丈夫、もう気にしてないよ」

 

 それよりもフランドールは美鈴が何のためにここへきたのか、気になっていた。

 

「本日、伺ったのはレミリア様からの手紙を……、おっとその前にいいですか」

「何?」

「フラン様は、はたてさんの前だとずいぶん甘えん坊なんですね。あんなフラン様、初めて見ました」

「み、見てたの!?」

「ええ、なかなか声をかけるタイミングが見つからなくて困りました」

「いつもあんなことしてるわけじゃないよ。今日はたまたまそういう気分だっただけで」

 

 顔が熱い。

 フランドールは話題を変えようと必死になった。

 

「ところで、お姉様の手紙がどうとか」

「ああ、そうでした」

 

 美鈴が胸元から手紙を取り出す。

 渡されたフランドールは恐る恐る封を切って、便せんを開いた。

 咲夜の字で数行、用件だけが書かれていた。

 

「紅魔館で決闘をしたいって」

「決闘!?」

 

 フランドールの呟きを聞いて、はたてが声を上げた。

 

「決闘って、あなたたち姉妹が本気で戦ったらとんでもないことになるでしょうが」

「私、行くよ」

「フラン!」

 

 フランドールがあっさりと決めてしまったので、はたてが慌てる。

 

「ちゃんと考えなさいよ。行ったが最後、もう帰って来れないかもしれないのよ!」

 

 はたてがフランドールの手首を掴む。握る力は強い。

 

「でも、行かなきゃ! 行かないと私、前へ進めないよ」

 

 フランドールは、はたてとにらみ合った。

 

「フラン様、本当に変わられましたねぇ」

 

 緊迫した空気の中で、美鈴がしみじみとした口調で言う。

 水を差されて二人は落ち着きを取り戻した。

 はたてはフランドールの手首を離すと、今度は優しく手のひらを握った。

 

「大丈夫なの?」

 

 フランドールは頷く。

 

「はたての言うとおりみたい」

 

 自嘲気味に笑う。

 

「結局、今の私の中心にあるのはお姉さまなんだと思う」

 

 フランドールは嬉しかったのだ。

 戦うためとはいえレミリアに呼んでもらえたことが。

 

「でも、それも今日でおしまい」

 

 必ずお姉さまを倒す。

 そして、この場所――フランドールの家に帰ってくる。

 

 フランドールは心配そうに見つめるはたてに笑いかけた。

 

 

      * * *

 

 

 フランドールが紅魔館に足を踏み入れるのは約二ヶ月ぶりである。

 長い年月、フランドールを閉じ込め、同時に守ってもくれていた場所へ帰ってきたのだ。

 しかし、思っていたよりも感動はなかった。

 もちろん懐かしさはあるけれど、フランドールはもう自分が別の場所でも生きられることを知っていた。

 大切なのは入れ物ではなく中身である。

 

 

 玄関では咲夜が待っていた。

 

「お帰りなさいませ。こちらへどうぞ、荷物はお持ちしますわ」

 

 フランドールが背負ってきたリュックサックの中身はもちろん滞在するためのものではない。

 写真機と撮影に使う機材である。

 写真に関するものを全て持ってこい、というのがレミリアの指示だった。

 フランドールは咲夜に付いて長い廊下を歩く。

 応接間も食堂も通り過ぎてしまった。

 レミリアはどこで待っているのだろうか。

 

「ところでフラン様」

 

 咲夜が正面を向いたまま話しかけてきた。

 

「館を出られてから、お食事やお掃除はどうされていたのですか?」

「食べ物はいつも同じお店に買いに行ってる。お掃除は咲夜の真似をして何とかやってるよ」

「そうでしたか……」

 

 咲夜が立ち止まり振り返った。

 

「それでは、私はもう必要ないのでしょうね」

「え?」

 

 咲夜は笑顔だった。

 

「こちらでお嬢様がお待ちです」

 

 促されてフランドールは扉に手をかけた。

 咲夜の表情がわずかに曇ったのを見たような気がして、もう一度確かめようと振り返る。

 しかし、咲夜はすでに姿を消していて、彼女がいた場所にはフランドールのリュックサックだけが残されていた。

 

 

      * * *

 

 

 扉の向こう側は真っ白な空間だった。

 窓も家具もなく白一色の壁紙。

 館内の赤い景色に慣らされた目には、かえって色鮮やかに映った。

 そして、その白の世界にレミリアだけが立っていた。

 

「久しぶりね、フラン」

「お姉様」

 

 しばし見つめ合った。

 でも、何も言葉は出てこなかった。

 

「さっそく始めましょうか」

 

 フランドールは身構える。

 レミリアを見ると、これから戦おうという気配は感じられなかった。

 

「どうしたの? 早く準備なさいよ」

「え?」

 

 レミリアが何をしたいのかさっぱりわからない。

 

「何をとぼけているの。わざわざ、こんな部屋まで作らせたというのに」

「そう、さっきから気になってたんだけどこの部屋は何なの?」

「本当にわかってないのね」

 

 呆れたように溜息をついてレミリアは続けた。

 

「ここはホリゾントルームよ。河童に大事な写真はこういう部屋で撮るものだと聞いたから作らせたの。これなら私以外に何も余計なものが写らなくて済むでしょう」

「へぇ、そうなんだー。って、お姉様の写真を撮るの? 私が!?」

 

 フランドールの反応を見て、レミリアが悪戯っぽく笑った。

 

「鈍感ねぇ、あなたは写真家なんでしょう。それなら、写真で勝負しなさいよ」

「な、なるほど」

「私を満足させる私の写真が撮れたらあなたの勝ち。撮れなかったら私の勝ち」

 

 ごくりと唾を飲み込む。

 

「あなたが勝ったらあなたの好きにさせてあげるわ。ただし、私が勝ったら紅魔館に帰ってきてもらうわよ」

 

 フランドールにとって一番難しい写真の題材が目の前にあった。

 

 

 様々な角度からレミリアを見つめる。

 ファインダーを覗いて表情を伺う。

 三十分が経過しても、フランドールは写真を一枚も撮れずにいた。

 

「ねぇ、もうこのポーズ飽きてきちゃった」

 

 肩に日傘をかけて作り笑いを浮かべていたレミリアが、その姿勢を崩して文句を言った。

 

「だったら好きなポーズでいいよ」

 

 フランドールが焦りを隠しながら言うと、

 

「好きなポーズって言われてもねぇ」

 

 不満そうに傘を畳み、真っ白な壁に背中を預けて腕を組んだ。

 

「ねぇ、フラン」

「なに?」

「紅魔館の外では何をしてきたの?」

 

 突然の質問に、どこから話せば良いのかわからず慌ててしまう。

 

「えーと。初めて自分でパンを買ったよ。はたてと友達になったし、にとりとも仲良くなった。にとりっていうのはこの写真機を作った子で、他にも何でも作っちゃうんだよ。はたてとは一緒に新聞を作るお仕事をしてるの。まだあんまり売れてないんだけどね。二人でお寺に忍び込んだときは……」

 

 気がつくとレミリアが静かに笑っていた。

 

「楽しかった?」

「う、うん。たぶん」

「よかったわね」

 

 その瞬間、レミリアはこれまでフランドールが見たこともないような穏やかな表情をしていた。

 安堵と諦めが入り交じったような大人の顔だった。

 それを見て、なぜかフランドールの胸は締め付けられるように痛むのだった。

 

「そんなことより、あなたさっきから一枚も撮ってないじゃない」

 

 すでにレミリアはいつもの調子に戻っている。

 フランドールはその呼びかけにも上の空だった。

 

「ねぇ、フランってば。あなたの負けでもいいの?」

 

 これまで撮ってきた何百枚という写真、そこに写る人々の顔が次々と思い起こされていった。

 そして、フランはあのレミリアの表情の意味を理解した。

 

 

 レミリアはフランドールを手放すことに決めたのだ。

 

 

 フランドールは泣き出しそうになるのを必死で堪えた。

 それはフランドールが望んだことであるはずなのに、悲しくてたまらなかった。

 

「ねぇ、ちょっと。大丈夫?」

 

 ファインダー越しに写る姉の姿が愛おしかった。

 それでも、フランドールはシャッターを切らなかった。

 今、撮らなければならないものは他にある。

 

 

 フランドールは写真機を三脚に取り付けるとセルフタイマーを作動させた。

 

「どうして、あなたがこっちに来るのよ」

「いいからいいから」

 

 騒ぐレミリアを写真機に向き直らせるためにしがみつくと、フランドールは笑顔を作った。

 シャッターの音が終わりの合図のように鳴り響いた。

 

 

 

 

 

エピローグ

 

 

 はたては自分の写真機に表示されたじゃれ合う姉妹の姿を眺めていた。

 

「ふうん。この写真でフランが勝利がしたってわけね」

「そうみたいですね」

「ま、たしかに良い写真だわ。これ」

「紅魔館ではすでに家宝扱いです」

 

 美鈴は恥ずかしそうに笑う。

 はたてと美鈴はフランドール家の裏で立ち話をしていた。

 美鈴は本日をもってフランドール監視の任から解かれるのだそうだ。

 帰る前に一度、二人だけで話がしたいと美鈴に誘われたのだった。

 

「でも、たまたまセルフタイマーっていう裏技が効いたからよかったものの、勝負のルールが酷すぎるわよ」

「レミリア様を満足させるレミリア様の写真を撮る、ですか?」

「そう。結局のところ、それってレミリアのさじ加減でしょう」

「そうですね。はたてさんの言うとおりだと思いますよ」

 

 美鈴は素直に認めた。

 

「ただ、お嬢様はもともと負ける気だったみたいなんです」

「どうしてそう思うの?」

「河童さんたちに白い部屋を作ってもらった時、私たちにも内緒でフィルムをたくさん発注してたみたいなんです。届いてませんか?」

「ああ、そういえば届いてたよ。フランも喜んでた」

 

 フィルムは、毎日撮りまくっても一年は持ちそうなくらいの数があった。

 さすがの河童たちでも三日で納品というわけにはいかないだろう。

 勝負の前から注文があったというのは本当なのかもしれない。

 

「レミリアも少しは姉らしいところがあるみたいね」

 

 はたてが小馬鹿にしたように言うと、美鈴は少しムッとしたようだった。

 

「レミリア様も普段はお優しい方なんですよ」

 

 お優しい方は人の展覧会をぶち壊したりしないと思う。

 まあ、直接壊したのはフランドールだったけれど。

 

「ただ、今回まずかったのは、やはり写真なんです」

 

 美鈴は眉間に皺を寄せた。

 

「館にいた頃、フラン様は他の住人の写真は撮っておきながら、レミリア様の写真だけは撮ろうとしませんでした。それでレミリア様が機嫌を損ねてしまったのです」

 

 その話だとあまりフォローになっていない気がする。

 ようするに、レミリアは写真を撮ってもらえなかっただけで拗ねてしまうような子供だったということだろう。

 

「じゃあさ。もしフランが早々にレミリアの写真を撮っていたら、何事もなく済んでたってこと?」

「おそらく」

 

 美鈴の話を聞きながら、はたては妙な違和感を覚えていた。

 

「その話ちょっとおかしいわよ」

 

 はたては写真機を操作した。

 フランドールがこれまで撮影してきた写真を検索し、日付順にソートをかける。

 

「ほらこれ。フランドールが初めて撮った写真」

 

 美鈴は表示された写真をいぶかしげに眺めていたが、やがて「あっ」と声を上げた。

 

「ピンボケしてるけど、ここに写ってるのレミリアでしょう」

「間違いないと思います。寝ているところを撮ってたんですね」

 

 決闘などと大げさなことをしなくても、初めからフランドールが一番撮りたかったのはレミリアだったのだ。

 美鈴は写真機を見つめたまま固まっていた。

 

「正直驚きました。決して自分からはレミリア様には近づこうとしなかったのに」

「ま、私もあなたもただの姉妹げんかに巻き込まれただけってことかもね」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

「こまったものです」

 

 ひとしきり笑った美鈴は右手を差し出した。

 

「はたてさん、フラン様のことをよろしくお願いします」

 

 仕方なくはたても右手を差し出す。美鈴の握る力は強かった。

 

「会っていかないの?」

「はい」

 

 美鈴は軽く手を振ると背を向けて歩いて行った。

 フランドールをずっと守り続けてきた人が去っていく。

 はたてはその後ろ姿から目が離せなかった。

 託されたものの重さに身震する。

 そして、後から沸き上がってきたのは押さえきれないほどの決意だった。

 

「よっし、やるぞぉ!」

 

 目いっぱい声を張り上げた。

 

「うるさいよ、はたて。何叫んでるの?」

 

 二階から声がした。

 フラン――気付いていないかもしれないけどあんたは愛されてる。

 でも、これからもっともっとたくさんの人に愛されていいんだ。

 

「フランー。そろそろ行くよー」

「はーい」

 

 階段を駆け下りてくる足音。

 玄関から虹色の羽がぴょこんと顔を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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