ズズ……とお茶を啜る音が、静かな店内に響いた。渇いた喉に、久方ぶりの水分が通る。しかし、本来温かいはずのお茶はすっかり冷め切っていた。
「ん……もう昼か」
冷め切ったお茶のお陰で、ようやく随分と時間が過ぎていたことに気づいた。朝、起きてからから読みっぱなしだった本にしおりを挟んでから閉じる。
ずっと視線を落としていたからか、首から肩にかけてが酷く凝っていた。
「ふぅ……」
かけていた眼鏡を外し、一息つくかと立ち上がる。腕を伸ばしてみるとパキパキと首や肩が鳴った。
そばにあった南部鉄の急須に触れてみたが、如何に保温性の高い南部鉄とは言え朝からずっと放置ではさすがに冷えている。重みのある急須を持ち上げようとしたその時、店の扉が開いて一人の少女が入ってきた。
「霖之助さん、いる?」
入ってきたのは博麗霊夢。少し変わった、腋の見える巫女服を着た巫女だった。
霖之助と呼ばれた銀髪の男は眼鏡をかけ直し応える。
「やあ霊夢、いらっしゃい。いつでもツケの支払は受け付けているよ」
「また今度ね」
こともなげに流すこの傍若無人な少女に、霖之助は落胆の色を隠さなかった。
彼女は店内にある売り物の椅子に遠慮無く座ると、にっこりと微笑む。
「お茶まだ?」
「……今丁度淹れようと思ったところだからいいけどね」
「あら、いい急須ねぇ。前からあったっけ?」
「少し前に手に入れてね。道具としては珍しいわけでもないし、普通に使ってるんだ」
「……ホントに商売する気ないわね、霖之助さんって」
「そんなことは……ないと思うが」
この店、香霖堂は古道具屋の体をしている。店主である森近霖之助が拾ってきた妙な道具を売っているのである。
幻想郷にはない珍しい品物が並んでいるが、その多くは使い方のよくわからない謎の道具であり、店主である霖之助も使い方を知らない物が殆どだ。
それでも名前と用途だけはわかっている。彼は、触れるだけでその道具の名前と用途がわかる能力を持っているのだ。
元々変わった道具を扱いたい、という想いでこの店を開いたが、そんな道具を買おうという者は殆どおらず、客らしい客が来ることは稀である。せめてその急須なら売れるだろうに、と霊夢は思ったが口にはしない。その急須でお茶を淹れて貰う為に。
「ところで……魔理沙は来てないの?」
店内を見回しながら霊夢が尋ねる。
「魔理沙かい? 来ていないが、魔理沙に用事でもあるのかい」
「用はないけど、最近神社に来ないのよね」
魔理沙――霧雨魔理沙はここ香霖堂の常連で、霖之助の師匠の娘である。香霖堂の裏手に広がる魔法の森に住んでいる人間の魔法使い。尤も、常連とは言っても客として常連なわけではない。遊びに来て霖之助と話をしたり、料理を振る舞ったりと、店の物を買っていくことは少ない。それでも、全てをツケにして持っていってしまう霊夢よりは遙かにマシだろうが。
「魔理沙が心配で様子を見に来たのか」
「べ、別にそういうわけじゃないわよ」
照れているのか目を合わせようとしない。
霊夢は誰にも等しく接する、平等な人間だ。相手が人間であろうと妖怪であろうと、基本的にその態度を変えることはない。それでも、さすがに長年の友人である魔理沙は少しだけ違うらしい。
魔理沙を幼い頃より知っている霖之助にとって、そんな友人が魔理沙にいることが少し嬉しかった。
「そういえばうちにも最近来ていないな……魔法の研究に没頭しているんじゃないか?」
「それか、魔法の森のどこかで痺れてるかね」
魔法の森には魔法の材料となる化け茸が生息している。魔理沙はそれを元に魔法の研究を行っているのだが、時折その毒にやられて森の中で倒れていたりもする。魔法の森は瘴気のお陰で妖怪すら近づかないのでその点は心配ないのだが、それでも危険がないわけではない。正直、霖之助は気が気ではなかったが言ったところで聞くような娘でもなかった。
「魔理沙の家には行ってみたのかい」
「行ってないわ」
「行ってみたらどうだい」
「嫌よ。あそこ瘴気すごいし」
そう言ってお茶を啜る。
本当に行く気がないのかどうかはよくわからなかった。
「まぁ、そのうち顔を出すだろう。もしかしたら今にでも……」
と言ったところで店の扉が開いた。
「こん……にちは……?」
思わず二人とも入って来た人物を凝視してしまった。入った途端、注目を集めてしまった来訪者は面食らってしまう。
入ってきたのはアリス・マーガトロイド。魔理沙と同じく魔法の森に住む魔法使いである。と言っても、彼女の魔法使いと、魔理沙の魔法使いは意味合いが違う。魔理沙は職業としての魔法使いだが、アリスは種族としての魔法使い、妖怪の一種なのだ。
「なんだ、アリスか……」
「……何?」
「し、失礼しました、いらっしゃいませ」
あからさまな落胆を見せる霊夢と、慌てて店主としての体裁を繕う霖之助。アリスは二人を胡散臭そうに半眼で睨め付けた。
「それより今日はどんな用向きで?」
「人捜し」
「なんだ、客じゃないのか……」
「あなたねぇ……」
客じゃないと知った途端露骨に態度を変える店主に、アリスは怒るよりも呆れてしまった。よくこれで商売人を名乗っていられるものだ。
「はぁ……まぁいいわ。それより、魔理沙来てるかしら?」
その問いに顔を見合わせる霊夢と霖之助。
「魔理沙なら来ていないよ」
「神社にもね」
揃って答える様にアリスは何か居心地の悪さのようなものを感じたが、目的の為にぐっと堪える。
「そう……家にもいなかったのよね、あいつ」
「家にも……?」
「ええ、留守だったわ。一応、軽く森の中も探してみたけどいないし」
魔理沙の行動範囲は広い。よく出現する場所は神社と香霖堂だが、他にも紅魔館の大図書館や人里、地底や果ては冥界など、人間の割にはどこにでも出かけて行く高すぎる行動力を持っている。
「しかしどうして魔理沙を?」
「勝手に私の本を持っていったから取り返す為よ」
「またか……」
シーフとも揶揄される魔理沙は、よく勝手に人の物を持っていく。本人曰く死ぬまで借りてるだけだそうだ。
対象となる相手は全て人間ではない、長い寿命を持つ者達ばかりだからこその物言いだが、本人の許諾を得ていないのだから泥棒だ。
「ここにもいないのなら紅魔館かしら……」
「紅魔館にもいませんわ」
突然の声に全員が驚く。外からの声なら特に驚かないだろう。しかしその声は中から……霖之助の背後から聞こえたのだ、女の声が。当然、扉は閉まったままだ。
「ちょっと咲夜、そういう登場の仕方やめてくれる?」
現れたのは十六夜咲夜。悪魔の棲む屋敷、紅魔館でメイド長を務める人間である。
「面白いかと思って」
「面白くないわよ、種も仕掛けもわかってる手品なんて」
「種も仕掛けもありません」
「能力は使ってるでしょうが」
咲夜は時を操る程度の能力というとても人間とは思えない強力な能力を持っている。
時間を止めて店内に入り、きっちり扉も閉めてから霖之助の背後に回った、というわけだ。
「それで、紅魔館にもいないと言うことは」
「ええ、何日か前に大図書館に強盗に入って、それ以降来ていませんわ」
紅魔館の大図書館は魔理沙のお得意先……と言っていいのかわからないが、よくその被害に遭う。
大図書館の主であるパチュリー・ノーレッジは数々の本を蒐集しており、その蔵書は数え切れない。それを狙って魔理沙は泥棒に入るのだ。
「で、ここに来たのは?」
「ついでですわね」
「ついで?」
そう言った咲夜の手に、突然数冊の本が現れた。
「既に回収は終わっていたのね」
「自宅に行ったら留守だったようなので、仕方なく入らせて頂きました」
「……取り返す為とは言え、やってることは同じ泥棒じゃないか」
「メイドですわ」
メイドは人の家に勝手に入ったりはしないと霖之助は思ったが、そういえばいつぞやのロケット関連資料を買いに来た時は閉店後だったのに勝手に入っていたことを思い出した。
「アリスもそうすれば良かったのに」
「私は泥棒でもメイドでもないもの」
泥棒を薦める巫女というのも如何なものか。しかしこの巫女は強盗もかくやという勢いで香霖堂から物を持っていくのであまり変わらない。
「……とにかく、魔理沙はここにはいないよ」
「どこに行ったのかしら」
「あと行きそうなところといったら……ありすぎてわからないわね」
「もしかしたら、これがヒントになるかもしれませんわ」
そう言って咲夜が差し出したのは回収してきた本。それは結界に関する物と、外の世界に関する物だった。
この幻想郷は博麗大結界により外界から遮断されている。結界の向こう側が外の世界というわけだ。
ちなみにその結界の管理人である博麗の巫女が霊夢である。
「確か私のところから持っていった本も結界魔法のことが書いてあった気がするわ」
「……外の世界と、結界の本、ねぇ。これって最近盗んで行ったの?」
「ええ」
ふむ、と霊夢は考え込む。
「ま、とにかく魔理沙がいないならこんなところに居てもしょうがないわね。帰るわ」
「私も帰りますわ、ごきげんよう」
「……今度は客として来てくれることを願っているよ」
アリスと咲夜を引きつった笑みで見送る霖之助。塩でも撒いてやろうかと思ったがやめておく。
「……君は帰らないのかい?」
もう一人の客ではない少女に、嫌味を含ませて言ってみるが何も答えない。仕方がないかと諦め、まだお茶を淹れていないことを思い出しとりあえずお茶でも淹れようかと思ったところで、霊夢がすっくと立ち上がった。
「霖之助さん」
「ん?」
「なんだか嫌な予感がするから、魔理沙のこと頼むわね」
「は……?」
それだけ言うと霊夢は帰っていった。なんだかよくわからない霖之助はぽかんと口を開けたまま見送ってしまい、何を頼まれたのか聞きそびれてしまった。
「……嫌な予感って……嫌な予感がするなぁ」
霊夢はとても勘が鋭い。異変解決の際も、殆どその勘だけを頼りに異変の元を嗅ぎつけ解決してしまう程だ。
その霊夢が嫌な予感がすると言うのだから、霖之助も嫌な予感がしてしまう。
魔理沙を頼む。それはつまり、魔理沙の身に何かが起こりそう、或いは起こっているということなのだろうか。そう考え出すと、なんだか急に心配になってきた。
「外の世界に、結界の本か……ううん、もしやとは思うが、魔理沙……君は何を考えているんだい……?」
思わず呟いた独り言は、他に誰もいなくなった店内に溶けていった。
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