***
「そろそろじゃないでちか? もう一時間近く飛んでるでち」
「地図ではもう騎士団領に入ってるんだ。だからこの辺だと思う。ただ俺も一回も来た事は無いっていうかこんなに森ばかりだと……」
シアの背中から地に視線を落とせば、やや薄い霧とそれ以外は深い森林だけ。騎士団領の中でも特別立ち入り禁止地域に指定されていた場所に既に入り込んでいることには間違いない。地上から行けば、そびえ立つフェンスと屈強な歩哨が何百人と動員されている。曹長クラスでも入れず、確か同期の連中が忍び込む遊びを慣行して一カ月の軟禁刑になったことを思い出した。
こんな木ばかりの場所の、何を秘密にしているのか理解不能だ……と思い始めた矢先、
「あれはなんでちか?」
「どこだ……あっ」
森にカモフラージュされるように、巧妙に塗装された、しかし明らかな人工物が目の前にくっきりと像を浮かばせていた。注意されなければうっかり見落としていたかもしれない。目的のものかどうかは分からないが……、
「とりあえず確かめてみよう。あそこにシュカが居るかもしれない」
「了解でち」
上空三百メートル以上はある位置から、施設目指してシアが降下を始める。耳たぶの裏を風が切り裂くように通り抜けていって、風圧に目を細めるその視野で無骨な緑色の屋根をした建物の全体像を捉えたところで、その片隅から迫り出して外部に出ようとする何かが見えた。
それは、学校で見た軍事演習動画の確か……そう、空からの防衛戦術の演習に出てきたものだ。陸用に使うものとはまるで違う、口径は大きく上空へ角度が無くても飛距離の出るようにとナナメに伸びた筒。何に使われるのか、一瞬で理解した。
「シア! 高度を上げてくれ!」
「……なんででち?」
「いいから、とにかく上に!」
それでようやく、翼を縮めていた降下態勢から両翼を開いて上昇に転じた。その直後、視界の端でピカッ! とおよそ雷光のように筒が光ったかと思えば、顔のすぐ横に幾筋の鉄塊が唸りをあげて飛んで行ったのを感じた。
「!? な、なんか飛んできたでち!?」
「……あれは軍用の対空射撃だ。そう易々と侵入させてはくれないらしい」
「落ち着き払ってる場合でちか! あわわ、また飛んできたでち、と、とりあえず退避!」
一気にまた高度が上がった。対空射撃は口径が大きく、散弾というわけでもない。軌道が素直で、距離が遠ければまず当たらない。
しかし、当たらなければどうということではない、なんて話では済まない。向こうが弾切れになってそれで沈黙してくれればいいけれど、そうでなければ待っていても目的は達成できない。俺達の目標はあくまでも、あの施設に居る可能性の高い、シュカを連れ戻すことだ。
「……どうするかな」
対空砲火の射程外から逃れて、一度地上に降りて徒歩で侵攻する方法もあるが、辺りを森林に囲まれている上に時間が掛かる。地上戦力をわざわざ相手にするにも心もとない。
能力で射撃を無効化できればいいが、俺の風楼はそんなに射程の長いものじゃない。ましてやあんな鉄の塊をぶっとばすには、相当の対価が必要な気もする。
「うーん……」
「一応、策は無いことは無いでち」
上空で旋回しながら、シアが呟いた。
「その策は?」
「………………猪突猛進」
「侵入する前に死んじゃうだろ……」
確かに軌道は素直だから運が良ければ無傷で通過することもできる。地上に降り立てば対空砲火は関係ない。が、それはあくまでも多数で特攻隊のように突っ込む際にやることで、単騎でそんなことをしたら愚策だと糾弾されるに違いない。
「一つ、約束してほしいでち」
「ん? 何だ突然」
「絶対に、シュカを助けて欲しいんでち」
「何をいまさら。絶対に助けるさ……あの子は、俺にとって大事なだけじゃ済まされないほど、大切な存在なんだから」
「さらっとくさい台詞をはく奴ほど信頼ならないでち。ま、今はもうお前一人しかシュカを助けるやつが居ないわけでちから、我慢するでちけどね」
「シアも一緒に来るんだろ?」
「…………」
「おい、どうしてそこで黙る」
しばしの沈黙の後。
「わたちは、自分が何なのかも分からない、ただゴミのように打ち捨てられて、変な翼の生えた廃棄物として生を終える運命だったでち。その奈落の底から救い出してくれたのが、お前の追っている子でち。お前がどう思っているのかは知らないでちが、わたちの生に賭けて、お前をシュカの元に届けるのが、今のわたちのすること」
やや間を置いて、シアは続けた。
「――わたちは、一緒にはきっと行けないでち」
「どうしてそんなこと言うんだよ?」
俺の問いには答えず、シアは再び、対空砲火の筒が牙を向くエリアへ、降下を始めた。当然、その牙達はこちらに照準を定める。
「おい! 話を聞け――」
今までよりも風を強く感じる急降下。風圧をまともに受け、うまく喋れない俺のすぐ横を、今度は本気で狙いを定めた弾丸が連続して過ぎて行く。シアは器用に幾多の砲火を潜り抜け、施設へと接近していく。目視でようやく入口のような、大きく口を開けたエントランスが見えた。
「……いいでちか、合図したらわたちから飛び降りてそのまま中に入るでち」
「シアは……どうするんだよ?」
まさか――とは思ったが、
「わたちはお前が降りた後に能力を展開させるでち。太陽神の力を使えば入口に邪魔物が湧いて来ても関係ないでちから――アッ!」
「シア!」
左翼の端に穴が開いていた。一瞬だけぐらつくが、スピードは衰えない。
「羽が……」
「大丈夫でち! さぁ、入口が近いでちよ!」
「そんなこと言ったってシア――」
誰かのために、誰かが犠牲になるなんて、そんなのダメだ……と言おうとして、
「わたちは死なない! お前も死ぬな! そしてシュカを救えでち!」
「シア……」
弾幕は激しさを増す一方で、羽への弾痕もそれに伴って、無視できない数になっていく。けれどシアの、どう考えても強がっている、嗚咽の混じったその声を聞いて、首を縦に振らないわけにはいかなかった。
「分かったよ。俺は絶対、あいつを助ける。だから……お互い無事で、またあの街に帰ろう」
「……口先だけはごめんでちよ。後、十秒でち」
下がり続けていた高度が一旦止まり、空中で大きく横に旋回。元居た場所に弾幕が通り過ぎていく。全弾直撃すれば、死を免れない。入口が見えた。再び降下。今度はもう、ほぼ地面と垂直に落ちる。
あと五秒。右翼にも傷。
三秒、二秒……ぐらついた。一秒。
「今でち!」
合図。それでも高さは二十メートルはある。飛び降りた。
大丈夫、俺には風楼がある。さっき、みっちり練習はした。
帰ってこい……妖精!
「『風楼』!」
脳シナプスを解放。肌の周りを風がまとわりつく感触。落下を続ける俺の体に風のカーテンが巻き付いて、辺りの森林をざわめかせながらゆっくりと……地面へ降りて行った。
落ちながらふと上を見上げる。
大きな黒翼が、幾多もの対空射撃を至近距離で受けて羽根を散らしていた。
「……シアっ!」
「――愚問ッ! ……能力『太陽(カラミ)神炎爆(シアティ)』!」
対空砲火の砲筒に向かって、紅に近いオレンジ、それこそ太陽のような光を纏ったシアがぶつかっていく。
端から端へ、次々と。
壁を抉る太陽の弾丸は、勢いを止めない。施設の壁についた半分以上の砲筒と一緒に、入口からわらわらと出てきた歩哨を巻き込んで、やがて大地を揺るがす大爆音を残して……視界一帯が全て、濛々と立ち込める煙で埋まった。
俺の周りだけは風が渦巻いている。煙はその風で俺に近づけない。
動くものが何も居なくなった地上に無事着地して、
「シアー!」
思わず声を張り上げた。あんな特攻隊のようなことをして無事であれば良いのだが、返事は無い。
「……っ」
唇を強く噛みしめた。自分の身を犠牲にしてまで、彼女は俺を送り届けてくれたのだ。約束は、果たさないといけない。
体を引いて止まない後ろ髪を無視して、煙がやや晴れたエントランスへと、走った。
施設内部。
あれだけ派手にやらかして、なんとも手薄な警備だろう。無骨な緑色で鉄製の床を叩く俺の足音だけが通路に響き、それ以外の音は無い。電灯の光が弱くて視界が悪く、人気の少ない夜中の山道を走っているような感覚だ。
それに一番の異変はと言えば、『風楼』に従えていた風が、明らかに減ったことだろうか。建物の中なんだから、『風』の能力の自分にとって、苦手な場所になるということだろうか。これだと、使えるようになったばかりの能力だけに頼るわけにもいかない。双剣を持ってきておいて良かった……。
奥に進んで行く。兵士の一人でさえ気配を感じない……半分助かりつつ、半分は異様な雰囲気で飲まれそうになる。
このどこかに、シュカが居る。
そう思えば、一旦緩めた足もまた先を急いだ。
やたらと長く感じた一本道をずっと走って、数分ほど経ったろうか。
施設内だと言うのに、急に薄い風がざわめき始めた。
足を止める。それでも足音は止まなかった。ゆっくりと歩いているような、一定のカツーン、カツーンという音が……俺を飲み込もうとしていそうな暗闇から聞こえてくる。
きっと敵だ。額にじわじわと汗が滲んでいく緊張感。腰元の愛剣に手を掛けた。
そして、闇から姿を現した――相手は、俺の見知った顔をしていた。
「……大将」
「やあ、久方ぶりだなフラウ。もう少し時間が掛かるかと思っていたが……とんだ伏兵を用意していたらしいな、感服に値するよ」
大将ラインハルトは落ち着いていた。まるで、この通路一帯が、あの騎士学校の修練室のように。これから一対一で剣を打ちあう訓練の時のように、俺を真っすぐ見据えている。いつも身に着けていた装備を身に纏い、肩からは大剣の柄だけが見えている。俺の目の前でこの間捨てた愛剣の、スペアか。
「今更俺から色々言うことはありません。ただ、一つだけ――シュカを、返してください」
ため息一つ。
「確かに、お前の求めるものはこの施設内に私が運んだ。が、一つ言うなら、黒幕は私ではない」
「あなたに指示できる人間が居るとでも?」
大将は、騎士団、ひいてはこの国家の軍事勢力下で三本の頂点そのもの。直接命令を下せるのは、居ないと言ってもいい。
「それはあくまでも『軍部的』な要素だな。見るべきものは、そうではない。世界には軍部意外の勢力がどれだけあると思っている? 無論、贖罪などする気は無いが、彼女を私自身が必要とするため……というのは間違いだ」
「では、やはり」
忌々しき名を出そうとした。
「全てを話すのは、まずお前が力を見せてからだ」
右手一本。背負っていたモノを振り降ろす。離れているのに、空気を斬る音がここまで届いた。感じる、圧倒的なプレッシャー。
「あなたを倒せば、全部教えてくれるんですね?」
「勿論だ。私がお前と――騎士団全てに反旗して隠していたこと全部、お前に託そう! だがそれは、私を超えてから……だ!」
跳躍。真っすぐ、俺目がけて飛んでくる。ぶつかる瞬間、
ガキィィン!
スラッシャー二本と大将の剣が交錯する。純粋な腕力では埋められない差がある。じりじり、押される。
「……どうした。新たな力を、風楼を、手に入れた筈だろう」
「そんなの分かって……!?」
なんで大将までもが風楼の事を知っている?
「しまっ……!」
「ぬぅうっ!」
気が逸れた。一気に押し切られて後ろに弾き飛ばされる。
追撃だけは避けなければ。飛ばされたあと、瞬時に転がりながら後退した……視線を上げると大将は、俺を冷徹な視線で見つめているだけで、追い打ちを掛けてこなかった。
「……甘い、甘いぞフラウ。私はこんな弱さを見る為に騎士団に入れたわけではない」
「…………っ」
「何でリトルプレイヤーとしての能力を知っているのか、とでも言いたげな顔をしているな。話してもいいが、やはりそれは私を打ち倒してからだ。不用意に情報を与えて混乱されても困る」
大将はもうなにか、俺の全部を知っている風だった。
ならばなおさら倒さないといけない。倒さないと、先に進めないことは元より、大将の裏に黒幕が居るのなら。
「次は一切手を抜かないぞ。お前は能力でもなんでも使うといい。私を倒せなければ、それで終わりだ。あのリトルプレイヤーを助けることもできない」
再び、大剣を中段に構えた。そこから感じる殺気は尋常なものじゃない。さっきとは、レベルが違う。
ただ、俺だってここでみすみすやられるわけにはいかない。絶対に。
立ち上がる。正面に見据えた。
――風楼。
騎士学校時代に大将と打ちあった時、圧倒的な間合いの詰めるスピードと腕力でまったく叶わないことを知っている。ここは屋内で、風量はそんなに多くない。できることは限られているが、その埋まらない差を埋めるには……?
「来ないなら、こっちから行くぞ」
また体格とは考えられないスピードで間合いを詰められる。
単にそれを受けただけではさっきと同じだ。向こうとは攻撃に掛ける質量が違う。ならば、
打ち合わずに、風のサポートで跳躍を強化。後ろに下がりながら、大将の頭上より高く、飛んだ。
「ぬぅっ!」
すぐに上段斬りへと転じられたが、俺には当たらない。空振りに乗じて空中から強襲した。素早い身のこなしで反転、避けられる。着地。
半身で態勢が崩れている。風楼で急加速、大将のものより速い詰めで両袈裟を放った。片腕一本だけで横に寝かせた大剣で防がれた。反動で手が痺れる。
大将とて、片手で打ち合おうとは思わないようだ。互いに再び距離を取って、拮抗。
「ふむ……太刀筋、立ち回り。屋内という不利な条件下でもそれほど使いまわせるとは、流石だな」
「伊達に四年も学校に通っていませんから」
「ふはは、そうだったな!」
また神速の詰め。避けるしかない。
上空に退避。上段斬りを避ける。反撃。着地。後退。
三回ほどこれをやって、しかし一度も攻撃を当てることができなかった。
使っている負荷がそんなに大きくないとは言え、大将は肉体的な疲労だけなのに対して、俺は着実に『対価』を払い続けている。時間が長引けば確実にジリ貧になってしまう。
俺の方から攻めざるを得なかった。
だが、正面から見る限り、大将に隙は見られない。ただでさえ横幅のそんなに無い通路、横に回り込むなど、とてもじゃないが出来ない状況だ。
「どうした? 足が止まっているようだぞ」
「…………」
プレッシャーが凄まじい。大将はいとも簡単に、俺に間合いを詰めてくるのに、俺はいざ攻めようとすれば、どんな手段を考えても能力無しでは手詰まり。圧倒的な体格と、面積の大きな鋼鉄が、この狭い通路で大将に大きなリードを生み出している。
策も思い浮かばず、膠着したままの空気の中、大将が口を開いた。
「一つだけ、聞いておくとしよう」
口を開きながらも、プレッシャーは揺るがない。
「お前が今追って、助けに向かおうとしている少女と、既に思いだしたであろう……お前が昔、友以上の存在として迎えていた少女は確かに同じ存在だ。では、お前が助けたいと思うのは、過去の少女か? それとも現在の少女か?」
「――今や昔なんて関係ない」
「ほう……」
「俺は、確かにその昔、リトルプレイヤーだったのかもしれない。自分の夢にみたとおりのことをやってきたのかもしれない。けれど今のシュカを見たのは、そのシュカを想ったのは、昔の俺じゃない、今の俺です。だから過去も現在も関係ない。昔の俺は昔の彼女を助ければいい。今ここであなたと相対している俺は、今の彼女を助けに行く。それだけですよ」
思い出したところで、失ったものは戻らない。
それに昔俺がそうだったと言う事実を知っていても、俺が今の彼女を救いたい、また一緒に居たいと思わなければ、きっとここには居なかった。騎士学校で模擬刀をぶんぶんと振り回しながら何かの妄想だと思い込んで、また日常に戻っていった、だろう。
「なるほどな。そこは私の目論見とは違ったわけだ。だが、良い解を得られた。試験だったなら、今の解答には及第点を付けたいところだ――さて、不躾な時間を作ってしまったな。続きをやろうか」
さっき以上に感じる、直線的な攻撃の意図。ちょっとでも動いて隙を見せれば餌食になる。地上で勝ち目が無いのなら……やはり空中戦に賭ける方が分がある。
そしてなによりこちらから行かないと、あの圧倒的な詰めの速さを殺さなければ。
風の力を借りれば、多少はその速さに近づけるだろう。纏った僅かな風楼を……背へ。
「来ないなら、こっちから行きます」
ピクリと大将の眉が反応した。今だ。
「だぁぁぁあああ!」
足が地を長く離れ、宙を浮いているようだった。地面すれすれを滑空。スラッシャーを抜く。想像以上の速さ、まるで乗り物のような速度だ。大将は動かず、俺の攻撃を待ちうける。正面から受け、かち合うつもりか。
「――しっ!」
その場から一歩前に出た大剣と二本の剣が交差した。散らばる金属音。そのまま鍔で押してくるかと思いきや……大剣は横に振るわれた。
「ぬぅんっ!」
「ぐっ!」
足を不完全な態勢にしていたせいで、ほぼ互角だった剣先の力差の拮抗が崩れる。横に押されながらやや後退。そのままバックステップを踏んで二、三度距離を開けようとしたが、
「ふん、ぬっ!」
左から袈裟。その後猛烈な斬り上げ。上段からの振り降ろし。
ほとんど間を置かない詰めが、想像以上に速い。まともに三回、打ち合った結果大きく後ろに弾かれた。
「うぉおおおおおおおおお!」
間髪入れない追撃。これはかわせないと、頭が判断した。距離にして5メートル、二秒で決着はつく。
構えは下段。直線突きか、振り上げか。
目前に大将が迫った。大剣の圧力を感じる。
上、だ。上しかない。攻撃が近く、かつ下段。足から胴へ集中されている。
瞬時に風楼を起動。背に纏わせていた風楼を、そのまま上方向へ。
「っ――!」
跳んだ。跳ぶ瞬間、大将の神速の斬り上げが見えた。俺の胴に吸い込まれるように斬りかかってくるそれはしかし、目の前で急に高度を上げた俺には届かない。
大将の表情が驚きに染まっている。
「な、に――」
「うぁぁあ!」
防御は無い。抜いたスラッシャーは綺麗な半楕円の軌跡を描いて大将の両肩へ。抵抗もなく、軌跡のまま肩口から胸の上を、ざっくりと斬り伏せた。
「ぐ、ぁああ」
大将の叫び声。
分厚い肉体の確かな手ごたえと共に、そのまま大将の背丈を飛び越えて着地。その直後に、硬い床の上にドシンと、質量ある物体が落下する音を聞いた。遅れて、大剣が落ちる音もする。
振り返る。大将の体は、緑色の床に横たわり、それ以上反撃の気配を見せなかった。
両つがいの剣を鞘にしまい、しかし警戒は解かずに、大将の元へと駆け寄った。大将は両肩から血を流し、だが息はしっかりしているようだった。
「大将……俺の、勝ちです」
「そのようだな」
大将は軽く首を横にずらして、俺の顔をその視界に捉えると、荒く息を立てながらも静かな、落ち着いた表情でそう返してきた。そして、
「はぁ……はは、負けた、か……想定通りとはいえ、流石と言わざるを得ないか……いや、少しは、はぁ……嫉妬してしまうな。まだ成人に至っていない若者に、私が敗北を知らせられようとは」
虚空に腕を伸ばし、空気を強く、握りしめる。
肩からは今すぐ命に関わるほど多いとは言えないものの、決して少なくない量の赤い液体が肩から髪を伝い、床を染めていっている。
「肩の傷が……」
「問題ない。この程度、私に関わった者が今回失くした血に比べれば、僅かなものさ……それよりも、フラウ。お前は勝ったのだ、知りたいことを聞くが良い。私の知っていることならば、全てお前に答えよう」
大将は俺のまだ知らない、知りたいことを知っている。大将を倒した以上、この施設のどこかに居るシュカをすぐにでも探しに行きたいところだけれど、聞きたい話もある。
「大将はどうして……シュカを連れ去ったりしたんですか?」
「あの少女が必要だったのは、私の意思ではなく私を指示する人間……正確に言うならばこの施設の長、私達は室長と呼んでいる。そいつは、昔のお前も良く知っていた。何よりもリトルプレイヤーの発展、発達にその研究の全てを捧げる、狂った男、さ」
「室長……」
父のことか。
「それと私の目論見がもう一つ。あの少女を連れ去ることで、フラウ。お前が確実にこの施設に助けにくるだろうと踏んでいた。地図を見たのだろう? あれを置いて行ったのは私なんだ」
「じゃあ、俺の能力とか、俺がリトルプレイヤーだったってことを知っていたのは……」
なにせ、俺はちょっと前まで騎士団に居たのだ。リトルプレイヤー討伐を目的とする騎士団に。その長の存在に近い大将がそれを知っていたのなら、俺になんらかの迫害が加えられていたと言っても過言では無かったのに。
「私は騎士団の長として大将の地位を貰う前、この施設で研究を続ける室長と、ちょっとした因縁があったのだ。それ絡みで関係を持つようになり、大将位を頂く前から、リトルプレイヤーの存在をある程度許容していた。それで、昔この施設によく出入りしていたお前も知っていたのだよ。その頃に私は室長関連で騎士団に入ることになった。今話すが、騎士団は表面リトルプレイヤーを討伐する、市民のための軍団となっているが、その運営するトップは、リトルプレイヤーを研究する室長自身だ。私が大将位として、下をまとめたのは元々兵戦力として鍛練していた以上に、あやつの意向が大きい。……それにもう思い出したのだろう? 最後、心を失ったお前の想い人に敗北して近くの湾に身を投げた……それを助けたのは私だ。騎士団に入って貰ったのも、父が亡くなっていると言伝したのも私の意向だ」
「…………全部、手のひらで踊っていた? 室長とやらの?」
「そう考えても間違いではない。事実、お前の父は死んでは居ない」
「俺を作った、室長こそが……父さん、だから」
「そうだ」
「…………」
つまりは騎士団ってのは、仮初めの集団で。シュカを連れ去った黒幕によって運営されているだけのハリボテだった。
あまりにも信じられがたい事実だけれど、腑に落ちないこともある。
「ん……でも、大将がシュカの元に来たってことは、シュカがあそこに居ることを知っていたんですよね? そして、俺も同じ街に派遣された」
騎士団の、所属する隊や遠征する地を決定するのは幹部、つまり将官クラスの中でも上位の人間しかありえない。なら大将は俺がスラムに来ることを知っているはずだし、わざわざシュカと俺を突き合わせることは、シュカになんらかの影響を与える可能性があることは考えられているはず。何より俺がリトルプレイヤーだって知っていたら、騎士団から離反することだってちょっと考えれば分かることだ。それは、大将の上の存在である黒幕にとって、得ではない。少なくとも俺は、幼少時の話だが……最強のリトルプレイヤーの一角であったのだから。
「当たり前だ。あいつは……室長は、シュカの能力をずっと欲していた。何せリトルプレイヤーの中でも最大級に規格外の、時に干渉する力だ。だからこそ探していたし、私も探し、そして随分と前に突き止めていた――が、あいつ自身にはずっと知らせて居なかった。居場所を伝えたのはつい最近だ」
「それは何故……?」
「私と室長が、敵対しているからだ。あいつは私を従えているつもりだろうが……私はあいつに対して、反旗を翻すことができる日を待っていた。我が愛娘、フランを人質に取られた忌々しいあの日からな」
「……は?」
今、大将はフランと言った?
しかも…………娘?
「なんだ。お前にずっと付かせていただろう? そもそも昔、面識があったではないか……フランは室長に、実験台としてリトルプレイヤーにされた人質だ。そして私は、ずっと娘を取り戻すため、この日を待っていた。再び最強のリトルプレイヤーとして、フラウ……お前と、シュカの二人がここに戻る日をな」
「ちょっ、ちょっと待ってください。そんなバカな!」
「混乱させたのならすまない。今の話を全て信じてもらえなくても構わない。ただ、私は本質的にはお前の敵では無いということは知っておいて欲しい……」
「そんな……」
自分のことでさえ思い出したばかりだというのに、敵に回したはずだった大将のことや、フランのことまで頭が回るはずもなかった。
あいつが、妹同然だった子が、リトルプレイヤーだった?
しかも室長の下に就いていた大将の子供で、そして大将は室長に実は敵対していた?
「無理を承知で頼んでいる。娘を――フランを、あいつの手から解放してやってくれないか。私ではあいつには勝てない……が、今のお前ならあいつの野望を砕くことができると、信じている」
大将が俺の足に手を掛けた。まだ血が滲み出て完全には止まっていない体では、ほとんど力を感じないどころか、微弱な震えが伝わってくる。
その足元の腕を見て、少しばかり頭の中で色々な想いが暴れ回った。
痛めつけられたシュカのあの顔。
共に鍛練に励み、妹のような存在で隣に居てくれたフラン。
剣を振るい、稽古を付けてくれた目の前の大将。
しばらくの間そうしていて、一つの答えに辿りつく。
「そうか……」
全部、救ってしまえ。
結局の所、俺は甘いまんまで……好きな子をずっと独りぼっちにするくらいの酷い奴だ。
今更格好良く一つを選ぶくらいなら、がむしゃらにもがいて全部背負った方が似合うじゃないか。
「全部を信じるわけじゃないです。でも、俺はシュカを追ってここに来たから……そのついでに、だと思ってください」
闇がさらに深くなっている先を見据えて大将に背を向けると、自然と大将の手は離れた。もう、振り向かない。
二歩三歩とゆっくり離れると、背後から嗚咽に混じって、「頼んだ……」と擦れた声が聞こえた。
大将と分かれて数分。特に分岐も無く突き当たった所には、いかにも奥に重要な物が隠されています、と言わんばかりの仰々しい鉄扉が待ち受けていた。
廊下も天井も、老朽化を放置されていたのか扉の周りは塗装も剥がれてボロボロだが、その扉だけは少し前に取り換えられでもしたのか、暗い闇の中にあって銀の輝きを放っている。
そんな扉の前に辿りつき、手を掛ける。
外見だけは厳重そうに見えるが、鍵も何もない。試しにちょっと力を入れれば、簡単に開きそうなことは分かった。後は心の準備だけ――
「ありゃ? フラウ兄ぃ、もう来てたんだ」
「!?」
突然聞こえた声に後ろを振り返る。眼前1メートル、ほんのすぐ先に……あの特徴的な金髪に紅い眼を妖しく光らせるフランの姿があった。
「そんなに驚かないでよ~。敵さんじゃないんだよ?」
「フラン……」
大将から話を聞いたせいで、これでも動揺は少ない方だった。外見だけは、いつもの元気なフランだ。だが、戻った記憶と新たに知った事実が、フランの『裏』をありありと映し出して見せていた。
「お前も、リトルプレイヤー……だったんだな?」
首は縦に振られた。しかも、特に否定する素振りも無い。あくまでも淡々とした口調で、
「そーだよ。ていうかフラウ兄ぃ、まだ全部思い出してないんだ。シュカちゃんのことだけなんだね、残念」
「大将から聞いただけさ。昔の俺とは、知り合いだったみたいだけど」
「ふーん……知り合いだけ、か」
『知り合い』の言葉に反応したのか、少しだけ暗い表情を見せるフラン。それも一瞬で、
「ま、それも今のうちだよね。きっとフラウ兄ぃも私のこと思い出すはずだよ」
と、微笑みながら言う。
妙な違和感があった。
大将はフランを人質だと言った。つまり室長と敵対している(と言った)大将とは違い、フランは恐らく室長側のリトルプレイヤーということだ。
最も懸念されるべき事項。
「フランは……俺の敵になっちゃう、のか?」
それだけは避けたかった。いきなりさっき誓ったことが頓挫してしまうことになるからだ。
ところが意外にも、フランは首を振った。
「ううん、私はフラウ兄ぃを愛してるからね。フラウ兄ぃの味方だよ、いつまでも。それは室長が命令しようが聞くつもりはないし」
「そ、そうか……」
ほっと、心の底から安堵する。
大将にしても、誰にしても、親しい人に剣なんか向けたくは無い。だからフランが敵じゃないことは、傷つけなくても良いと言う意味で救われた。ただ……それもつかの間。
「うーん、あんまり時間潰してる暇ないし。そろそろ案内してあげるよ。この扉の奥の――地獄に、ね」
ガシャア!
俺が扉を開くよりも前に、フランが鉄扉に片手を添えた……と思った次の瞬間には、猛獣がそこの通路から走ってきて扉に追突したような破壊跡が残され、無理やりに歪められ半ば折れ曲がった鉄扉は、中央にちょうど通れるくらいの大穴を開けていた。穴の先に、通路と同じような色をした床と、巨大カプセルのようなものが見える。
「…………!!」
「開いたよ。さぁ行こうよ」
呆然と扉を見る俺を余所に、フランは一人で奥に入っていく。
足元を見ると、下半身が少し震えていた。緊張か、超次元的な力を見たせいか。
……しっかりしろ。もうすぐなんだから。
自分を奮い立たせ、フランの後を追った。
最終章 君と共に人形でありたい
「……どうもこんな所まで邪魔をしにきてくれてありがとう、と言うのが適切かな? フラウ、直接見るのも久しぶりだなぁ。随分と大きくなった」
あの通路からすると想定以上に大きい部屋の中、その最奥に……目指していたものの姿と、その隣。口を開いた男は室長か――若そうに見える風貌とは裏腹に髪の少ない頭が特徴的な白衣のいでたちで、俺は迎えられた。こいつが、黒幕。
「室長、お迎えはしっかりとしてあげましたよ」
「フラン……お前には力づくの言葉しかないのか? まぁ、いいんだがね。あんまり能力の無駄遣いはやめたまえ。ついさっきも壊れる寸前だったのを、ラインの頼みで直してやったばかりなのに。レディーには慎みが大事だ」
はーい、とかったるそうな声でフランは、室長と呼んだ男の傍に駆けていく。俺も、その姿がしっかりと見える所まで近づいた。
距離にして5メートル。男の表情までしっかりと見てとれる。当然、その隣でなぜか無表情に、俺に対して何も言わないシュカと、さらにその後ろに居るフランまで。
「…………っ」
この目の前の室長が、俺の居ない所でシュカになんらかのことをしたのは間違いない。昔の記憶でも、こいつは俺からシュカを奪って、リトルプレイヤーにしてしまったのだから。
俺の睨みの効いた視線を受けても、室長は飄々としている。
「そんなに睨まなくてもいいじゃないか、怖いなぁまったく。これでも私は君の、血の繋がった父親なんだよ? 君は長く忘れていたようだけどね」
知ってるさ、そんなこと。既に夢で見たことだ。
「俺はあんたの事なんか何一つ知らない、知ろうとも思わない。血縁上で繋がっていたとしても、そんなの今の俺とあんたの間ではもはや関係無い」
「おやおや私の元を離れている間に冷たい人間になったことだなぁ? あ、一応ラインの指導下には居たのか。あいつの影響かな? それとも――」
じろ、と横に居るシュカに視線が送られ、
「この子と再会したから?」
顎をくい、と指先で持ちあげる。
「シュカに触るな!」
「おっとっと。これは素敵なナイト様の復活のようだね。いやー実に懐かしい。あの時も、お前はまるで自分の宝物にしていたおもちゃを遊びに来た友達に壊されたかのように喚き、叫び、暴れ、絶望したね? そしてそれはとても……高価だ。二回目に買ってもらうことは許されないおもちゃ。取り戻そうと私に歯向かったが、私のものとなったおもちゃに、君は負けた」
腰からスラッシャーを引き抜いた。切っ先を……まっすぐ、目の前の男に。
「黙れ。それ以上言うとコレを室長……お前の喉笛に突き刺してやる」
「やれやれ、血の気の多い人間は損をするよ? ……それに」
室長は短いため息と共に、挙げた両手を首の後ろに回し、
「あんまり生意気な事を言ってると、私も手加減はしてあげないかもよ?」
ドスの効いた睨みで、俺に返してきた。
「……っ」
ただのひょろひょろの研究者とは思えない。この殺気は、大将に引けるとも劣らない。だがそうかと思えば、
「っはははは! そーんな、緊張した表情をするな。別に私が今すぐお前をどうこうする気は無い。この子さえ手に入れば、能力的に劣り、しかも自我のはっきりして扱いにくい駒になってしまったお前は私の研究にはもはや必要ないからなぁ? もしこのまま帰るのなら、無事に返してあげよう。望むならば血縁のせめてものはからいとして、一生困らないくらいの財を分け与えてやってもいい。どうだ? 悪い条件ではないだろう?」
ニヤニヤと薄気味の悪い笑みを浮かべて、俺を挑発でもしているつもりか。
「俺には、シュカ以外望む物はない。シュカを取り返せないのなら、この先どんな金持ちになろうと、そんなの意味の無いだけだ! ……とにかく、今すぐシュカを返せ。怪我をしたくないのならな」
「はは、良いだろう。そこまで言うのなら私とお前と、どちらに従いたいか彼女に問うと良い。もし彼女がお前を選ぶようなことがあれば……まぁそんなことは無いだろうが、そのままプレゼントしてあげよう……ほら」
室長に背中を押され、その隣に並んでいたシュカが俺と室長のちょうど真ん中に出る形になった。変わらない、銀細工みたいにこしらえられた髪、妖精と見間違ってもいいくらい幻想的な儚さの肌、輪郭。ただ、街で共に生活した時のようなはつらつとした人間味のあるあの表情はまるで無い……その風貌だけが取り残され、本当にショーケースに飾られる、命無い人形みたいな表情を俺に向けていた。
「シュ、カ」
「…………」
返事が無い。見上げる視線は固定されたまま俺に注がれているが、そこに感情は存在しない。
「あいつに何かされたんだろ? それは分かりきってる……だけどもし俺の言葉が聞こえてるならお願いだ、返事をしてくれ! 迎えに来たんだ、一緒に帰ろう」
「…………」
「――シュカ。君は私とそこの少年、どちらを選ぶかな? そこの少年は、君を手に入れたいらしいが」
背後から口添えした室長に、シュカが口を開く。
「……私は室長、あなたの元に集うリトルプレイヤーです。対象の人間に興味はありません」
「な……」
思わずシュカに駆け寄っていた。無表情を貫き通す姿の、両肩に手が伸び、がくがくと強く揺さぶってしまっていた。
「おい、そんなこと本気で言ってるのか!? 確かに俺じゃ役不足かもしれないけど、街にはセトナさんも、ミャーも待ってる! シアだってシュカを助ける為に……」
次の瞬間、視界はぐるりと反転していた。
正面から上向きの圧力を受け、まさに腹を『く』の字に曲げ、その瞬間には痛みは無かったが、俺がシュカにふっ飛ばされたことを把握したのは、緑色の床に強く腰を打ちつけて、俺を見下す冷たい視線と目を合わせてからだった。
「っ痛……」
「はっは、惨めだなぁフラウ。初恋の女に振られる男と言うのはこんな感覚なのかな? かくいう私も、お前の母親には幻滅した故に離別したがな。いやいや、実に愉快」
室長の嘲笑が耳に刺さる。
「シュカに……何をした……」
「何も。ちょっと口を割らせる薬だけは飲んでもらったけどね。でもそれはお前も何回も飲んだことがあるものだよ? ただ彼女は、自分で自分の事を想い出して、それを私に知られて、これから何が起こるのか……お前の身に何をされるのか。全部理解して絶望して――結果、このような体になったわけだ。全ては必然の下にある。彼女の想いを実は無駄にしたのはお前だったね? ……ぬっふ」
きっ! と睨みつける。だがその視線を遮るようにシュカは俺の前に立った。
「さて、お遊びの時間はもうおしまいだ。私は高みの見物をするつもりだったのだが、私のおもちゃに執着される男が周りに居るのは好ましくない。――四年前の再現といこうか。お前は、また愛を向ける女に刃を向けられる。その後逃げようがどうしようがは勝手だが、今度彼女を手にするのは私だ。研究の為に、な」
「お前、はぁあああああああ!」
頭の箍が外れた。瞬時に風楼を起動。前に立ち塞がるシュカを飛び越え、棒立ちの室長へ、一閃――。
何の障害も無く、ただ白衣と眼鏡と肉と骨と忌々しいあの顔を切断……する筈だった、両の手に持った鋼剣はしかし、その通りの未来を描かなかった。
代わりに、柔らかい肉質をその刀身に感じる。僅か数瞬で、有り得ない距離を縮めて室長と俺の間に入った……シュカの手、だった。少しだけ切れた痕。切り口から数滴、ぽたり。
「なんっ……」
防御しようともしていない室長。表情は剣を前に、緩やかだった。
「彼女が今味わっている絶望を、お前も味わうと良い。絶望的な戦力差、自分が攻撃できない歯がゆさを。私はそれを見物していようじゃないか」
「ぐうっ!」
憎たらしい言葉を、下からの猛烈な突き上げで吹き飛ばされながら聞いた。シュカに殴られる寸前、彼女の目が一瞬だけ見えたが……それはもう、敵として俺を見る目だった。
既に戦闘の火ぶたは切って落とされた。先ほど大将とやりあった時のように、初手の手加減が貰えるわけではない。今のシュカに、俺の言葉は届かない。
すぐさま風楼で、宙に浮いた自分の体をなんとか支えた。しかし、シュカの姿はどこにもみえない――刹那、今度は空中で腹に蹴りのような圧力。なんの摩擦も無い場所で衝撃を食らって、俺はまた後ろに飛ばされ、床に腰を頭を、強打した。
「……室長に仇なす対象は、破壊? そう、破壊」
十メートルほど離れた所で、瞳から光を失ったシュカが呟く。
俺は床に倒れている。その視界に捉えた銀髪が残像を残してまた、消えた。
同時に衝撃。遅れて、轟音と共に、背中に再度衝撃。
「――っ」
今度は苦悶の声さえ上げることができなかった。息が詰まり、正常な呼吸を取り戻すまで数秒。背後には、フランがさっき破壊して大きく口を広げた扉があった。その破片に服が引っ掛かり、腕当てには大きく傷が。もう少し薄ければ、貫通して肌まで到達していたかもしれない。
たった数フレームの間に、俺は二度も吹き飛ばされた。脳は理解する。答えは単純だ。
シュカの能力、瞬間切断――。
攻撃のモーションも、姿も、攻撃方法すら把握できない。俺がそれを視認するフレームを、きっと切断されているのだろう。まるで瞬間移動と変わらない。
既に力の入らなくなりかけている対の剣を構えようとして、はたと気づく。
もし彼女の攻撃が見切れたとして、俺は剣を彼女に身体に突きつけられるのか?
室長の言っていた、絶望。夢の中で俺がそうだったように。
今の彼女は、俺の知る彼女ではない。だが、それはあの室長に何かを仕組まれてこうなっている……と推測されることで、外見や肉体はたまた、眠っている彼女の本来の心は彼女そのものだ。たとえば、俺の繰り出した攻撃が彼女の腹を深く抉ったとしたら。
元に戻るなんて保障は無い。彼女を助けたい俺にとって、安易な選択はできない。その時点で既に勝機が擦り減っているが、さらに彼女は……強い。
ただそれを認めてしまえば、俺はここに来た意味が無くなってしまう。なら、どうにかして彼女を傷つけないという策が必要だ。
腰を持ちあげた。シュカは俺から一定の距離を取ったままじっとしている。攻撃する時に自分はどんな距離があっても瞬時に詰められるし、室長との間に入って俺が彼に肉迫するのを、何より第一に阻止している、合理的な間合い。
既に節々が痛み始めている体を、その絶対的な壁に守られた室長はあざ笑う。
「頭の中で必死に作戦とやらを考えているのかな? はっは、それも残念ながら前と同じだ。お前はあの時、実に一時間以上も絶対的不利な状況で、この子の攻撃を受け続けたんだ! だが結局、良い方法は見つからず、最終的にちょっとだけ私が隙を見せてあげたら考え無しに突っ込んできた。断言しよう、今回も一緒だよ」
一緒じゃない。そうはさせない。
今度こそ、君を救うんだ。
***
私は夢の中から自分を引き摺り出され、奪われて……抜け殻のようになってしまった裸体を放り出して、水の感触も、色も臭いもしない、けれど確かに何かが流れている物体の上に背を乗せて、昔誰からか聞いた物語に出てくる大きな桃のように、何の思考もせず目的もなく、誰も止める事が無ければやがて最果ての滝つぼへと、終焉を迎える。そんな感覚。
このまま、私の魂、なんてものが無くなってしまうとして。
それは仕方のない事なのかな、とまで思ってしまう。
私は、絶望の支配する生を受けて、
そこからたった一筋の希望の光に、掬いあげられる。
でも私を助けた光は私の代わりに闇に呑まれてしまっていて、私もまた闇になった。
闇になってもなお私を取り戻そうとした光は、闇になってしまった私に排除される。私はまた絶望する。
私は逃げた。
逃げた場所で、絶望からもまた逃れた。希望を得ることはできなかったけれど、いつ絶望にか引き戻される恐怖に震えたけれど、それでも逃げ続けた。
その先で、闇に呑まれた弱々しい光を見つけた。光は段々と大きく力強くなって、私に再び希望をもたらそうとした。
それを闇は見逃さない。また、光は呑まれそうになった。
私は知っている。
絶望を知るくらいなら、何も思わず、何も感じずに……ただ自分が消えて、それで光が違う所で光自身の希望を知ってくれれば、それはそれで幸せ、なんだと。
だってもう、次は無い。
次に闇に呑まれてしまえば、光はもう元には戻らない。おそらく、死と言う方法をもって。あの闇を引き連れる男は、そういう人間だから。
あの男は、私さえ手に入れば、光は要らないと言っていた。
だから、私はどうなってもいい。光が助かれば。
『……なんで勝手に一人で決めるの?』
頭の中に浮かんだ、もう一人の私が言う。
『二度目は助かるかもしれないよ?』
そうかもしれない。
でも、どうやって? 闇に眠った私と、光が共に在れる最高の状態になるには、光が闇を倒さなければいけない。それは、光を危険に晒すことと同義。
それにきっと光は迷う。今の私は私じゃない。変わってしまった私は、たぶん光に刃を向ける。
望んじゃいけないことなんだ。
私と彼が、共に人形で無く、自分の足で歩いて行くことなんて……。
『――シュカ!』
一瞬だけ、聞こえた。
閉じかけた瞳を開いた。が、やはりここはまだ自分の眠っている意識の中。現実に戻れたわけでは無かった。幻聴だろうか。
ううん、やっぱりやめよう。
一度決めたことを振り返るなんて未練がましい。だから幻聴なんて聞こえるんだ。
私はたった一瞬だけでも、光に触れられて良かった。だから、もう――消えよう。
***
「――で、お前の策もそろそろ、尽きたかな?」
「くっ……」
あれからどれくらい時間が経ってしまったんだろう。
とにかくシュカを傷つけないことだけを一番に置き、それ以外でできることを全て試した。
単純に呼び掛け続け、隙を縫って彼女の体に直に触れ、あるいは風楼を、あくまで微弱ではあるが彼女が覚えているかもしれないと思い、シュカの目の前で何度も舞わす。
その他、幾多もの方法を試し続けた。俺の体は彼女に切り刻まれ続け、だが倒れはしなかった。
「さすがに成長した分だけ耐えるねぇ。もっとも、今回の彼女は何も持たせていない、武器を手にせずにお前を圧倒してるんだから、銃剣を与えた前回より早く死なれちゃ困るんだけどさ。……でもいい加減見飽きたよ。私はラインほど戦闘狂ではないし、彼女を手に入れたことで早速試したい研究もあるんだ。諦めて今すぐ帰ってくれないかな?」
「断るって言ってんだろ! 俺はシュカを諦めない!」
「やれやれ……親に似ず残念な性格だ――いや、研究を諦めずに続けてきたと言う点ではやはり親譲りなのかな? まぁそんな遺伝的な繋がりはどうでもいい。お前が去る気が無いなら、ものの数秒で終わらせてやろう」
「やめろ……何をするつもりだ!」
室長は、俺からの直線的な攻撃を阻止しようとその前に立っていたシュカの肩に手を掛けた。シュカの表情には変化は無いが、右肩に回された手には、小型の注射機が握られていた。
「何を? 見てれば分かるさ」
その注射針が、シュカの白くさらけ出された首筋にぷすり、と挿し込まれる。
「――、ァ」
びくん、と体が跳ねる。ふらっと力が抜けたように軽く前へ体を傾斜させ、
「おい――」
「ははは! フィナーレだ! もう手加減する必要は無い、さっさと殺してしまえぇ!」
室長は叫びと共に、シュカの前へと短剣を二本投げ入れる。そして、一撃が飛んできた!
「っぐ」
打ち合う。一発二発三発四発。シュカの瞬間切断が連続して発動される。俺の目に、彼女が移動する軌道は見えない。ただ、直前の位置から攻撃を予測してスラッシャーで防御しているだけに過ぎない。たまに予測が外れ、腕の皮は切れ頬に血筋が走る。
手数で圧倒されてはたまらない。室内に僅かに発生する風で風楼を作り、自分の体を宙に浮かせて一息ついた。が、少し気を抜いた直後、
「うっ!」
正面から重い打撃を受けた。地上四メートル程度、とてもジャンプで届く距離じゃない。
叩き落とされるようにして地上に降りる。また止まらない攻撃が始まる。態勢の崩れた俺では、もはや防御を固めるだけで手いっぱいだった。
――あの注射で、シュカの攻撃が激しさを増していることは明らかだった。それは俺がより傷を負って死に近づくと言う事以上に、シュカの『対価』が今この時も、どんどん増えていっている、それに等しい。
セトナさんから教えて貰った『対価』。度を過ぎて使えば段々と人間性は失われ、そして最後には完全な、人格の消失。すなわちその時点で、もう二度と前のシュカは戻らない。
「…………っ」
俺がやられるとしても、それだけは絶対に避けないといけない。
こうして考えている間に、時間はどんどん無くなっていく。チャンスは一度きり、その一度で試せる、最後で一番大きなことをやってやろう。それでダメなら、俺は彼女を生かして死ぬのも、また一つの選択肢だ……できれば、選びたくは無かったけど。
「おいシュカ、聞こえないフリをしてるみたいだけど、ちゃんと聞いてくれよ?」
瞬時にしか姿の見えない、荒れ狂う濁流のように激しい短剣の舞踊を受けながら俺は叫ぶ。
「ずっと……待っててくれたんだよな。俺達が初めて会った、あの街で。俺が情けないせいでシュカの手を離してしまったけど……」
剣舞は止まらない。頬に一つ、決して浅くはない傷が増え、痺れる痛みが走る。
「思い出したんだ、全部。それは今更なのかもしれないけど、シュカを置いていって、自分はのうのうと遠い場所で見当違いなことをやってて、謝っても許してもらえないかもしれないけど!」
シュカの影の向こうで、室長が腹を折り曲げ、声を殺しながらも笑っているのだろう、そんな様子が見える。構うもんか。
「……だけど、こんな奴の言いなりになるなんて絶対ダメだ! そこには『何も』ない! そこに行ってしまったら、今まで会ってきた人達……セトナさんやシアも、俺も! 裏切ることになるんだぞ! いいのか、それで!」
ああ、自分で言っておきながらすごく虫の良い話だ。こんな自分勝手な奴を他人で見賭けようものなら、俺は辟易してやまないだろう。
「それに、俺は約束したはずだ。あの街でシュカが街で迫害された日に、俺は盾になるって。もう、こんなになってる時点で約束を守れてないけど、でも……俺はこの身が滅んだって構わない、でもシュカ。君のことだけは、君の心だけは、絶対に殺させやしない!」
縦からの変化に対応できない。剣が上に弾かれる。
「だから……戻ってこい!」
ふと、シュカの表情がちょっとだけ緩んだ気がした。
おかげでそのたった一瞬だけ、動きが止まる。姿が見える。
俺は相棒である二本の鋼を宙に手放した。シュカの目線が僅かに剣へ注がれる。と同時に、風楼を足元に。
小さな竜巻が床から噴出する。ほとんど組み合った状態の俺達の下でとぐろを巻いて、それは集中力の留守になっていたシュカの細く白い脚を浮かせるのには十分だった。
シュカのバランスが崩れる。予期せず宙へ浮いたのだから当然だ。重心が後ろに逸れ、体が背中から床に吸い込まれていく――それを俺は、両の腕でしっかりと、抱きとめた。シュカの手に握られた短剣にははばかることなく。
ぐさ、と深く、横っ腹に刃物が浸食していく感じがした。でも不思議と、痛みは無い。それは別に鍛えているから痛みが軽減されたとか、極限状態にあって痛覚が無いとかじゃない。痛みを感じる以上に、俺は柔らかく暖かいものに包まれたその感覚を感じていたから。
時間と世界が、ちょっとの間だけ止まった。
俺とシュカは、お互いの唇と唇を合わせていた。はたから見れば、一方的に俺がそうしたようにしか見えなかっただろうけど。
一時間にも、二時間のようにも感じたその間、シュカはまったく抵抗をしなかった。やがて、
「んっ……んん!?」
シュカはがばっと顔を立たせ、俺達の唇は再度離れた。だがそんなことは些細で、これまで感情を表に出すことの無かったシュカの顔に、驚きの表情が色濃く映る。そればかりか、ため池の底のように黒く濁った澱みがかっていた瞳が明るさを取り戻していた。
思わず、心臓がどきりとする。腹に刺さっていた短剣がカラリと音を立てて落ちる。
「シュカ!」
「は、はれ……フラ、ウ? どうして私、ここに戻っ……」
俺の腕をするりと抜け、ぺたん、とお尻から床につく。じっと上目遣いで数秒、俺を見つめたあと、自分の頬を手で軽く撫ぜるように触れて、
「戻って、これた?」
「シュカ……シュカ、なんだな!?」
問いかけに、ぼうっとしたまま反応しようとしない。せっかく、あのおかしな状態から戻ったと思ったのに――と一時戦慄した。が、それはすぐに流れ去る。
「フラウ……私、私……っ」
シュカの両頬に、幾筋もの涙が通り過ぎては顎を伝ってぽた、ぽたと落ちる。体を震わせ、感情を押しこめるようにしていたが、床に落ちた水滴の粒は増えていく。そうして顔を再び上げたシュカの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ははっ……あー、なんか前とそっくりだ」
まるでそう、あの雨の中シュカを見つけた時と同じように。
「何が、よ……。それに……ばか、こんなところまで来ちゃって……ぐす」
「さっき言ったこと聞いて無かったのか? 約束を守りに来たんだよ」
「それにしたって……こんな、絶対危険な所なのに……。来て欲しく、無かったのに」
消え入りそうな声だ。
「シュカは、そのまま起きることなくて、俺と二度と会えない方が良かったか?」
「そんなわけないじゃない!」
今度は一転して、涙声の混じる、強い声。
「そんなわけない……ほんとに、ほんとにもう一度……顔が見れて、良かった……でも、あいつが、言ってたの――私さえ手に入れれば、フラウには何もしないって。思い出したの。昔、私が黙ってあいつについて行ったのは、あいつに隠れて私と一緒に住んでたフラウを、処分しようって……言われたから。そんなの思い出したら、助けに来てなんて言えない……! ただでさえ、フラウはあのいけすかない大男にボコボコにされてたし……」
俺に力が無かったからだ。シュカに、守って欲しいと言わせる力が、無かった。
「しかも私と一緒に来なくても、もっと幸せな道が、あったはずよ? そこにいる……金髪の子とカップルになって、結婚とか……する未来だって、あるはずだったのに。なんで来ちゃったの。何も知らないフリをして生きて、そういう道を選んだって」
「――ダメなんだ。それじゃあ、ダメなんだよ」
「なんで……?」
「シュカが絶望と希望を繰り返したように、俺の小さい頃は絶望に塗れた日々だった。それも、受ける方じゃない、与える方で。室長の手駒としてあくせく働いて、人間らしいことは何一つとして教えられてこなかった。そんな俺は、シュカに惹かれた。忘れた間も、賑やかな同僚と充実した戦闘訓練に勉強、リトルプレイヤーへの負の想いを抱きながら、どこか欠落したものが見つけられずに過ごしてた。そしてそれは、シュカじゃないと埋められないんだよ」
どんなに姿形が可愛くて、器量は少しおっちょこちょいだが、俺に好意を寄せてくれるフラン。だが、彼女とデートまがいのことをしていても、俺自身がどこか違う場所を見ているというか、多分頭のどこかで、シュカのことを気にしていたのかもしれない。
「どうして、どうして分かってくれないの! あいつは危険で、私さえあいつの元に行けばフラウは安全で……」
「分かってないのはシュカの方だ!」
「――っ」
「室長が危険? そんなことは分かってる。あいつは曲りなりにも血のつながった親で、何年もその下で生きてきた。第一、室長のことだ。恐らく、シュカがそのまま手に入ったとして、俺を警戒して身柄を探し、潰しに来ると考えるのはたやすい。同じ危険なら、一人より二人だろ」
「…………」
「俺が嫌いならそうだと言ってくれ。なにせずっとずっと、忘れてたんだ――もしそうなら俺は」
「……好き」
一言だけ。それだけで、俺の心臓はどくりと跳ねた。
「え――」
シュカが中腰の俺の体に飛びついてくる。肩に頭を乗せ、涙に濡れた顔を擦りつけるようにしながら、泣いた。
「嫌うわけない、じゃない……っ、どれだけ忘れてたって、私の隣には……一人しか居なかったんだから……ぁ」
すぐ傍で、シュカの息遣いが聞こえる。すすり泣くシュカの頭に手を回し、抱きしめ返す。安堵、そう安堵だ……敵陣のど真ん中に居るにも関わらず、俺は腹から流れる自分の赤い液体も、脅威となりうる存在がすぐ近くに居ると言うことも忘れて、それに包まれていた。
しばしの間そうしていて、そして、終わる。
「あーはいはい。茶番はそれぐらいにしておいてもらおうかな? 小学校のお遊戯会並みの演出で、あくびが出るかと思ったよ」
パンパン、と手を叩く音。離れないシュカの体越しにその音のした方を睨みつける――言うまでもない、愉快なものを見たとばかりに口元を横に捻じった、恐怖感のある笑みを纏った室長、だ。
だが、シュカはもう室長の影響下から逃れた。今彼の言葉にシュカが体を震わせ、否定の意図を示していることが何よりの証だ。つまり現時点で、俺は室長との勝負に勝っているのだ。
「そんなにあくびが出るなら自分の部屋に帰って寝たらどうだ? その間に、俺達は帰らせてもらうけど」
「なに、研究者たるもの徹夜なんてしょっちゅうだよ。ましてや貴重な研究サンプルが手に入りかけている今日、睡眠欲に従ってしまうなんて愚の骨頂だ」
こいつ――まだシュカの事を。
「勝負はついたはずだぞ、室長……いや、父さん。お前は負けたんだ、シュカはここには残らない!」
「ほう……試合がまだ終わってないにも関わらず余裕だなフラウ。いくら差があろうと、途中で寝ぼけるウサギは走り続けたカメに負ける。それと同じだぞ?」
なんだこの、まだ自分が圧倒的優位にあると、さぞ言いたげな余裕は。
不気味。
せせら笑うこのひょろひょろの体格の影に潜む、狩猟者とでも言うべき不穏な気配。大将のプレッシャーとも、シュカが戦う時に垣間見せていた殺気のようなものとも違う。あくまで今は滝を登る前の鯉。しかしすぐにでも竜になれる、そんな余裕を表わしている。
「確かに見事だよ、フラウ。約束通りそいつはお前に返そう。もっとも、無事に此処を出られれば、の話だがな」
「…………」
室長の横にはフランが控えている。フランは俺の敵にはならない、と言っていたが、室長をマスターと慕っている以上、向こうの言う事を聞く算段が高い。数的には二対二。しかしシュカはさっき力を使いすぎて、リトルプレイヤーとして戦うには危険過ぎる。室長が戦わないにしても、ボロボロの俺とフラン……どんな戦力差があるのか。扉に大穴を開けていることから、戦闘型の能力を持っているのだろうけど……。
「ああ勿論、一人でも二人で向かってきても構わない。ただ今度の私は手加減ができないから……綺麗な体のまま死ねるとは思わないようにしておいたほうがいい。おいフラン、あのプラスミドを一本、ついでに残りの予備も全部用意しておけ」
「はぁい……って、本当に使うんですか?」
「つべこべ言わずに全部だ。持ってこい」
「でもでもぉ、あれはまだ未完成だって――」
「聞こえなかったのか? 持ってこいと言っているんだ」
あくまで静かな声ではあるが、明らかにフランを恫喝しているのが分かった。慌ててフランは、すぐ近くの棚をなにやらガサゴソと探しては、やがて何かを室長に渡したのが見えた。
何をするつもりだ……?
「ふむ。とりあえずは一本やってみるか」
そう言うと、受け取った中から一本だけを取り出し、栓のようなものを外す。先端にはキラリと鋭く光る短い棒が飛び出していた。それをおもむろに自らの首筋へと持って行き、
「……っふ、う――」
躊躇うことなく、そのまま突き立てる。飛び出た部分を指で押しこみ、一瞬だけ電撃が走ったかのように痙攣を起こす。その動きで、室長が持っているのは注射機だと分かった。中に何が入っているのかは知れないが、何でもない物な訳が無い。
すると変化が顕れたのはそれからおよそ数秒後。警戒したまま固まる俺をよそに、室長の状態に明らかな異変が起きた。
「ヴ、ぅ、あッ……!」
何を言っているのか分からない奇声と共に、見るからに異常だと分かる、腕の膨張。身に纏っていた白衣がすぐにパンパンになり、やがて縫い目から引きちぎられその内部を露呈した。
それは、人間の……いや、生き物の腕とは思えない。俺の二倍、三倍とまで言ってもおかしくないくらい巨大化した両腕。しかも生気なんて言葉を失わせる、紫と黒の混じりあった非生物的な、もっと言えば気持ち悪い色。表面は血管が縮れて浮き上がり、その様子に元の血管が耐えられていないのか……所々から出血。腕を伝い、さらに異様なものとなる。
腕だけであれば良かったのだが、それは時間を追うと共に室長の体全体へと広がり、首より上は大きさは変わらないが同じ模様に染まり、両脚は腕と同じく腫れ、やはり同じように黒紫色と、出血をもたらしていた。
「な、何だ……!?」
「…………っ」
腕の中でシュカがもぞ、と動き、そして同時に室長に対して恐怖感を覚えているのが分かった。というか、この姿に恐怖を覚えない者なんか、数えるほどしか居ないだろう。そしてそいつはきっと、心臓が鉄で出来ているに違いない。それくらい、俺が今この目で見ているものは、『化物』と形容するに等しいほど、おびただしい姿だったんだから。
「クック……、あぁ。確かにこの可笑しいまでの高揚感はぁ……、完成品とはとてもぉ……言い難い、なぁ……」
声ですら、別人。まだ活気のある壮年とは程遠い、しゃがれて、くぐもった老人の声。
「説明をしてあげよぉうじゃないか。何が起こったのか教えないのはフェアじゃないからなぁ? せめてものハンデだ……コレ、この注射機に入れてあったものは、私がこの四年……ずっと研究して研究して、ようやく被験者の脳から抽出したものだ……」
化物と変わり果てた室長は、嬉しそうに続ける。
「リトルプレイヤーに出来るのは、子供だけだ……そうでないと、良い能力を発現できねぇどころか、ナノマシンに細胞を食いつくされて廃人になってしまう。これは五人かな? 十人かな? それぐらいつぎ込んで、全員――死んでしまったよ! 愉快だろ? ハハハッ!」
「なっ! 平然と、人を殺したって言うのかよ! その研究とやらに!」
俺の言葉にも、意を介する素振りを見せない。
「別にお前とて人の事を言えまい。既に忘れ去った昔、十や二十では足らない数を無にせしめてきただろう。それがたった数えられるほど、問題無いさ」
「そっそれは――」
「私に言いつけられたからだって? ふん、何とでも言うがいい。とにかく、その成果がコレだ」
悠然と、血の色に染まった片腕を掲げた。
「見ての通り成人した私でも、こうしてリトルプレイヤーの能力を得ることができる。もっとも、実際に自分で使うのは初めてだがな。なるほど、超人的なパワーを手に入れた人間の気持ちが分かった気がするよ。腹の立つ奴、立場上死んでほしい人間、あるいはライバル……それらが、非力な私であっても実力的に上回ることを可能にできる――さしずめ、付加型のリトルプレイヤーと言うべきかな?」
つまり室長は、あの注射機は、打つことでリトルプレイヤーと類似した性質を帯びることができ、そして今……俺やシュカと同等の力を扱えるようになった、そう言いたいのか。
「まぁ、そんなところだ。さて――私の研究成果をご覧に頂いたところで、そろそろ始めようか」
室長が破れて地面に転がった白衣を隅に蹴飛ばし(その白衣が飛んだ距離が既に常軌を逸していた)、一歩前に踏み出した。どうやらフランは見ているだけで、室長に続く様子は無い。……というより、少し怯えている?
「シュカ、シュカは離れててくれ」
少し前はすぐにでも御せそうなくらいの非力な人間でしかなかったが、今目の前に居るのは未知の力を持った敵。消耗しているシュカを、危険な目には合わせたくなかった。ところが、
「わ、私も戦える、から」
袖を掴んでそう訴えかけてくる。
「無理だ……そんな体じゃ。ただでさえ『対価』を使いすぎてる。もし危険になったら俺を置いて逃げてもいい。大丈夫、俺が守るから」
「でも……」
「俺が信じられないか?」
目をじっと見た。
「……っ、な、なんでそんなに自信たっぷり……し、信じてるけど!」
「そうか。なら分かってくれるよな」
「……死んだら地獄まで追い掛けてやるんだから」
はは、そりゃ怖いや。
「気を付けてね。あいつ、本当に何してくるか分からないから。例え私が一人でやれてても、今のあいつに渡り合えるか分かんないくらい……それぐらいの気がするの」
「おう、守りたいものがあるからな。今度は――負けない」
「――おしゃべりは終わったか?」
鉤爪のように長くなった指先をこちらに向けながら室長が言ってきた。
「ああ。続きはお前を倒してからだってな!」
つがいの相棒を腰から抜いた。それが戦闘開始の合図になる。
唐突な踏み込み。太さも長さも巨大化した腕が上から叩きつけられる。どれぐらいの力があるのかは分からない。様子見を兼ねて、まずは後方に回避。空振りした腕は床を打った。その直後。
「んな!?」
石材で出来ている筈……少なくともそれなりに丈夫に作ってあるはずの緑色の床。それがたった、巨大化したとはいえただの素手1発で、すぐそこに大砲を撃ち込んだかの如く、抉れた穴が出来あがっていた。
「はは。驚いたか? これが私の得た能力、『破壊(キリン)殺戮(グ・マ)機構(シーン)』さ。お前に持たせた『風楼』なんかよりも随分と直線的だが、これを実験的に扱わせてみれば非常に使いやすそうでね。その名の通り、どんな標的でも破壊する力を与える。すなわち相手が十の硬さを持ってようが百の硬さを持ってようが、触れたものが壊れる以上の力で壊す。例え、石や宝石でも……な」
なんて、能力だよ……っ!
続いて横殴りに腕を振り回しながら俺に突っ込んでくる。今の話が本当なら、かち合うのは愚策だ。避け続けなければならない。
だがそこまで脅威的だとは思わなかったのは、室長自身の動くスピードが、そんなに速くは無いということだ。むしろ体がデカくなっている分だけ軌道を読みやすく、かつ遅い。これならまださっきのシュカの方が相手にするには辛かった。
とは言いつつも、こっちだって効果的な攻撃方法があるわけじゃない。相手のリーチが長いせいで懐に入れないし、相打ちではこっちがやられるのだから。
それに風楼を起動しようとしても、やはり閉ざされた室内。セトナさんに習った時のように、屋外で自由に集められるのに対し、ここでは俺の呼びかけに集ってくれる風自体が少ない。間接的に攻撃手段として使うには、心許なさすぎた。
「どうしたどうした! 避けるばかりでは勝てないぞ?」
「ちっ――」
そうは言っても当たれば終わりの攻撃を避けるので精いっぱい。攻撃し疲れて動きが鈍りでもすれば勝機も見えそうだったが――
「そら! そら!」
目の前を次々と巨大なジャブが通り過ぎる。それをただ避ける。バックステップ。後方に壁。左に回避。壁に腕が直撃。穴が開き、無残にも崩壊した壁の瓦礫がガラガラと音を立てて落ちる。
何度もそれを繰り返し、それでも室長の動きに衰えは見られない。逆に俺は息が切れてきて、少しずつ回避の度に、顔に感じる風が強くなってきた。それだけギリギリになってきているということだ。
同じことをやっていれば確実に体力が尽きて、やがて捉えられる。こちらから何かしかけなければ、と思ったところで室長の振り回す腕がピタリと止まった。
「うーむ。やはりこれだけではそれほど力を得られない、か……たかだか小蠅一匹、仕留めるのに時間が掛かるとは」
自分の腕を見つめながら、憎しみのこもった声でそんなことを呟く。そして、
「フラン。追加だ、持ってこい」
遠くで見ていたフランに――先ほどの注射機だろうか、それを要求した。
「えっえっ、残りも打つんですか……?」
「それ以外に何がある。それとも、お前もやってみるか?」
ふるふる、と首を振ってフランは室長の元に駆けていく。手元に持っていた残りを全部……室長に渡した。
その全部の栓が、乱暴に抜かれては地面に落ちて行く。その様子を俺は戦慄しながらただ、見つめていた。――見てくれだけは隙だらけ。視線は俺よりも注射機に注がれているし、今踏み込めば、簡単に間合いに飛びこめる。実際、さっきまで手が出なかったことを考えれば唯一無二のチャンスに思える。しかし……その巨体が纏う不穏な圧力、ヘタに手が出せない。
そうしているうち、器用に指の間に挟まれた針を、まとめて一気に……同じ場所、首筋へ突き刺した!
「――うっ、ぐっはぁああああ……、来たぁ……ははははぁ、来た来たぞぉ……。これが、私のっ、チカラ! 溢れるまでの、私が手にしたっ、チカラがぁ!」
大きく体を震わせ、咆哮。後ずさりする俺の元に、薬品が押し込まれて空になった注射機の残骸が転がってくる。それから起きることはもう予想できていた。予想できていても、
「なんだよ、これ……」
そう漏らすしかなかった。
ただでさえ巨大化していた腕に脚。みるみるうちに、さらに太さも、長さも大きくなっていく。それと共に、変化していなかった胴と顔まで……空気を詰め込んだ風船のように丸みを帯びながら膨らみ、そして手足と同じく、紫に色を変え、浮き出した血管から、赤ではなく紫色になった液体が次々と飛び出しては輪郭を濡らす。眼球は膨らんだ顔に陥没してしまってほとんど見えなくなった。口鼻は縦に捻じれ、入学前の幼児が自分の両親を似顔絵に書いたものでさえ、まだマシなくらい原形を留めることができていなかった。
髪は海の生物の持つ触手みたく自在にダンスを踊り、全身のバランスは生物として崩壊している。比喩無くして、まさに化物と、そう呼ぶにふさわしくなった瞬間だった。
「ぐぉぉおおおっ!」また咆哮、と同時に広げられる、腕だったもの。
耳障りな、木造の建築物を無理やり壊すような音を立て、胸から、腕から、膝から――白い尖った棒がいくつも飛び出した。骨、だろうか。
生唾が飲み込めない。心臓が飛び出しそうになるのを、実際にそうなるわけでもないのに手で押さえこみたくなる。絶叫したい、でも逃げるわけにはいかない。すぐ傍にはシュカが居るのだ。
「どうだ……驚いたか? なんだ、やけに小さく見えるな。これほどまでにちっぽけな、ははは! まるでゴミのようだな!」
化物が俺を見下ろす。身の丈は膨張し、三メートルに到達している。かろうじて、睨みつけられる眼球が顔に陥没しているから、その威圧感を受けることはないけれど。
ずしん、と一歩踏み込むたび、床が沈む。地響きが轟く。
「はっ――、そんなにでかい図体、どうせ攻撃も……」
鈍いんだろ、と言いかけて、言えなかった。
目に止まらぬ速さで、十分に離れていたはずなのに距離を詰められ、なお長くなったリーチでの攻撃。間一髪のところで横に回避したが、さっきまで立っていた所には深々と、爪のようなものが突き刺さっていた。
「で、攻撃がなんだって?」
縦に捻じられた口が僅かに横に伸びる。恐らく本人は笑っているつもりなのだろう。
「ちっ……」
これは、まずいぞ……。
ただでさえ防戦一方だった展開に、さらなるリーチの強化と、速度の上昇。避けに徹すれば一発、いや二発防げるかどうか――
「ぬわっ!?」
追撃も速い。顔の前を巨大な腕でのフックが通り過ぎ、前髪が数本飛んで行った。……注射を追加する前とは段違い。このままでは、避けられない!
向こうがスピードを上げたのなら、こちらも上げるしかない。僅かな風楼を自分の足と床の間に挟んで少しだけ浮かせ、これならまだ……。
「残念ながら、この圧倒的な戦力差、お前の微々たる力では無理だよ――風楼なんていう、室内の限定された空間ではまったく意味を為さない能力なぞ、純粋な殺意の前には無に等しい」
「な……」
目の前で右から左に、巨体が横切った。いや、見えたのは自分の目が付いて行かなかった故の残像で、瞬きしたその僅かな間で、フックを放ったばかりで右に流れていた体が、左に逃げようとした俺のすぐ前に現れていた。
さらに間もなく、視界が紫に埋まる。体当たりか拳を突き出したのか、何かは分からないが攻撃が来たことだけは分かった。咄嗟にスラッシャーを交差して顔を守るのが精いっぱいだった。
頭の中身ごと揺れる衝撃が、その次の瞬間にやってきた。
金属の鳴き声を同時に聞いた。
宙を舞っていた。紫の頭より上に飛んでいた。
「ぐ、ぁ……っ」
背中から叩きつけられ、肺の中の空気は全て押し出された。骨の軋む音。筋のひき千切れる音。全身が雷に打たれたように、一瞬で一気に痛みがほとばしった。
遅れてカランカランと、虚しく床の上を跳ねやがて伏す、鉄の音。
視界のすぐ横にあったその発生源は、今両手に持っているものの先っぽだった。
ずっと振り続けた愛剣。その対。両方が……あの攻撃でポッキリと折れ、転がっていた。手元にはもう、柄の部分しか残っていない。かつて鍛冶屋に無理を言って限界まで硬く、しかし細く作ってもらった、折れることに対しては相当強かったはずのこいつが、無残に散った。
「終わりだな――死ね」
直進してくる巨体。飛び跳ねる。両手の握りこぶし。頭の上で作られ、巨体と共に落ちてきた。とてつもない質量が、倒れた俺に向けて殺意をぶつけてくるのが分かった
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