No.470795

竜たちの夢2

取りあえず続きます。




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2012-08-16 01:07:31 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:8366   閲覧ユーザー数:7410

 

 血、血、血――何処を見ても血だらけだ。

 

それが、眼を覚ました一刀が最初に思ったことだった。死後の世界にしてはあまりにも感覚が生々しい。

二度目の死を迎えた筈の彼は、己が横になっていること、更には布団の中で寝ていたことに遅れて気付く。

 

上手く動かぬ体に鞭を打って首を動かしてみると、天井も壁も、彼が居る部屋のあらゆる場所が血に塗れていた。

一刀はこの光景に見覚えがあった。丁度首を切られた者の動脈から噴水の様に溢れ出す血しぶきは部屋をこのように彩ってしまう。

 

 

「ここは……どこだ?」

 

「お目覚めになりましたか?」

 

「っ!?」

 

 一刀は不意に誰も居ない筈の部屋で声をかけられ驚いたが、ゆっくりと声のする方を見遣った。

すると、そこには全身を黒い服で覆う女性の姿があった。黄金になり切れぬ燻った色の瞳が彼を真っ直ぐ見据えている。

女性はその黒髪を横で束ねており、その姿に一刀は妙な既視感を感じた。

 

 まるで何処かであったことがあるかのような既視感は、彼を混乱させる。

 

 

 

「あなたは? それに、ここは?」

 

「私は姓を司馬、名を懿、字を仲達と申します。ここは司馬家の別荘でございます」

 

「そうですか。司馬の……って、司馬!? 貴方が司馬懿!? あの司馬八達の!?」

 

「司馬八達という名は存じ上げませんが、私が司馬懿です」

 

 突然歴史上の有名人の名を出され混乱する一刀の問いに、くすりと笑いながらも女性は返答した。

その笑みに妙な親近感を感じながらおも、一刀はこの司馬懿の存在に驚いていた。

史実では司馬懿はまだ生まれても居ない筈なのだ。それが何故既に存在し、元服しているのだ?

 

 一刀はこの世界が史実をなぞらない可能性を考慮してはいたが、もしも本当におおまかな流れすらも異なるのだとすれば、彼の知識は役に立たない。

先日出会った孫家の女性に伝えた忠告も意味をなさない可能性が出てくる。

 

 

「あの……俺はどうしてここに?」

 

「河の近くを通った時に貴方が岸に打ち上げられているのを見つけたので、ここまで運んできたのです。御傷の手当もしておきました」

 

「そうですか。ありがとうございます。お蔭で助かりました」

 

「いえ、お気になさらないでください。私がしたくてしただけですから」

 

 感謝の言葉を述べる一刀に対して、司馬懿はその整った顔に柔らかな笑みを浮かべて応える。

絶世の美女とも言える彼女の姿は、この血だらけの部屋にやけに不釣り合いだ。

一刀は少しばかり戸惑いながらも、再び口を開く。

 

 

「ええと……この部屋が血だらけなのは、俺が運ばれてくる前からですか?」

 

「いいえ、貴方が来てからです。覚えていらっしゃらないようですが、貴方をここで運んできて一週間程経っています。その間非常にお苦しみになって何度も血をお吐きになったもので、このように」

 

「そ、そうだったんですか。それは、申し訳ありませんでした。今は手元に何もありませんが、必ず弁償します」

 

「いえ、良いのです。この屋敷は元々そういう場所ですから」

 

「そういう場所……とは?」

 

 己の血でこの部屋が彩られたことに内心驚愕しながらも、弁償する旨を一刀は主張するものの、司馬懿はやんわりとそれを拒んだ。

その理由が気になった一刀は、聞いてよいものかどうか迷ったものの、聞いてみることにした。

 

 

「ここは司馬家の血族の最後を看取る為の屋敷なのです。療養する為の別荘というのが表向きですが、実際は手遅れな者が最後を静かに過ごす為の場所です」

 

「そ、そうだったんですか。もしや、自分も?」

 

「いえ、貴方は間違いなく回復に向かっております。ご安心ください」

 

「そうですか。俺は益州の巴郡臨江県に居たんですが、ここは何処なのでしょうか?」

 

「ここは、巴東郡。巴郡の丁度北東に位置している場所です」

 

 巴東郡ならば、巴郡の隣なのでそこまで遠い場所ではない……そのことに一刀は安堵した。

あの夜自分は死んだものだと思っていたが、生きていたのだ。己の無事を知らせに行かなければなるまい。

 

 司馬家の者が何故ここに居るのかは気になるが、一刀は今はそのことは考えないことにした。

司馬家の本拠は河内……つまりは、北部だ。洛陽の傍に本拠を構える者がこんな場所に居るのは不自然過ぎる。

司馬家が忍び足で近づく戦乱の影に気付かぬ筈も無いのに、いったいどうなっているのだろうか?

 

 

「ああ、そうでした。御名前を聞いていませんでしたね」

 

「あっ……すみません。名乗って貰ったのに名乗らず。俺は北郷一刀と言います。姓が北郷、名が一刀です。字と真名はありません」

 

「字と真名が無い? もしや、そういう類の環境下で育ったのですか?」

 

「えっ? あ、いえ、俺が元々住んでいた国ではそういう風習は無かったんです。だから、そういう類の者ではありません」

 

 司馬懿が言ったそういう類、というのは幼くして親を失ったか、もしくは捨てられた者のことを意味する。

姓、名、字まではどうとでもなるが、真名は己で勝手につける訳にも行かない。

だから、真名が無い者は親に捨てられたか、親を幼くしてなくしたかのどちらかの人間だ。

 

だが、一刀はどちらでもない。元々この世界の住人ではないのだから当たり前だ。

 

 

 

「そうですか。真名も字も使わない国があるとは驚きです。宜しければ、北郷様の居た国についてお話いただけませんか?」

 

「別に構いませんが、きっと眉唾ものだと思われますよ?」

 

「それが信じられるかどうかを決めるのは私です。御心配せずお話ください」

 

「……そうですか。分かりました……」

 

 やけに食いついてくる司馬懿を訝しみながらも、一刀は自分が居た国、即ち日本について語り始めた。

どんな制度があって、どんな人間が居て、どんなことがあって……そんな本当に他愛の無い話に、司馬懿はうんうんと頷きながらも目を輝かせる。

 

 その姿に一刀は何処か懐かしさを覚え、更に話を続けていく。

今度は己の世界だけでなく、この世界に来て知ったこととの対比を織り交ぜ、互いの違いや共通点を強調し、この世界の良い所と悪い所を示していく。

そんな一刀を優しく見守りながら、司馬懿は優しく相槌をうってくれた。

 

 

「成程。実に興味深い話です。北郷様は、本当にこの世界がお好きなのですね」

 

「……そうですね。元の世界が嫌いな訳ではありませんが、この世界から去ってまで戻りたいとは思っていません」

 

「そうですか。なんだか、私と似ていますね」

 

「似ている、とは?」

 

 何処か自嘲気味に言う司馬懿の姿に違和感を覚えながら、一刀は問うた。そうしてくれと彼女が言外に言っている気がしたからだ。

そんな彼の行動は正しかったのか、司馬懿は少しだけ楽そうな表情になって、言葉を続けた。

 

 

「もう気づいていらっしゃると思いますが、司馬家の私がこんな所に居るのはおかしいことです」

 

「ええ、確かに河内に居る筈の貴方がここに居るのは不自然だ。ですが、何故?」

 

「実はですね……大変お恥ずかしい話なのですが、勘当されてしまいまして」

 

「えっ!?」

 

「昔から色々と親とは衝突していたのですが、先日ついに勘当を言い渡されてしまい、既に使わなくなったここに流された、というのが私の現状なのです」

 

 

 苦笑しながらそう言う司馬懿の姿は確かに自嘲しているように見受けられるが、一刀には何処か清々しているようにさえ見えた。

司馬懿仲達なる人物が、何故このような辺境の地に飛ばされなければならないのかは彼には分からないが、家の事情はそれぞれだ。

一刀が口出しできるものではない。

 

 

「それは大変ですね。しかし、それならば俺なんかに構っている余裕はないんじゃ?」

 

「ふふ、こう見えても河内に居た頃はかなりお給金を頂いておりまして、このまま隠居生活を始めても問題ないくらいには余裕があります」

 

「そ、そんなにあるんですか……流石は司馬殿ですね」

 

「司馬懿で構いませんよ、北郷様」

 

「それじゃあ、俺も一刀でお願いします。様はつけないでくれると嬉しいです」

 

「そうですか。それでは一刀様とお呼びさせていただきます。それと、今の私は官位を持たぬ身ですので、敬語はお使いになられないようにお願いします」

 

 名を許してくれた司馬懿に応えようと名を許した一刀であったが、それに対して司馬懿は様付けで呼んでくる為、思わず苦笑する。

一刀からすれば、かの司馬懿仲達にため口を聞くのは躊躇われるし、なにより様付けで呼ばれるのはいけない気がしたのだが、本人は気にしないようだ。

 

 

「はぁ……この口調で良いのかな?」

 

「はい、それでお願いします。私もその方が楽ですから」

 

「司馬懿さん、すまないけど、馬を貸して貰えないかな? 巴郡の臨江県に戻りたいんだ」

 

「その臨江県についてなのですが…先日とある邑で大規模な火事が起きて、完全に焼け落ち、壊滅したそうです」

 

「えっ?……その邑の名前は!?」

 

 一刀はまさかという思いを胸に、恐る恐る尋ねたが――司馬懿の口から紡がれた名に脱力した。

彼が落ちてきたあの邑の名前だった。彼が思春と共に過ごしたあの邑の名前だった。

彼を迎え入れてくれた甘家のあった場所だった。彼が二度目の死を迎えた場所だった。

 

 

「う……あ……嘘、だ……」

 

「残念ながら本当のことです。何方かお知り合いが?」

 

「俺の……家族だ」

 

「っ!……申し訳ありません。無神経なことを言ってしまいました」

 

「いや…良いんだ。俺は―――」

 

 一刀は恐ろしかった。甘家の皆が死んでしまったことが、思春が居なくなってしまったことは確かに悲しい。

だが、同時に分かってしまったのだ。それを苦しいと思っている筈なのに、心の何処かに余裕があることが。

 

 初めて人間を殺した。この手でその命を奪った。それでも、彼は動じなかった。動じることができなかった。

大切な人が死ぬのは初めてではなかった。目の前で失ったこともあった。それでも、以前ならば彼は悲しめた。心を悲しみで一杯にすることができた。

 

それが今の彼はどうだ?大した虚無感も喪失感も無く、ただただ上辺だけ悲しんでいる。

麻痺するには早過ぎる。壊れるには早過ぎる。ならば答えは一つしかない――彼の本質がそうなのだ。

それは拒絶すべき可能性だが、一刀にはそうすることは叶わない。偽の感情など、彼には抱けなかった。

 

 

「……自分の家族同然の者の死を悲しめないのは、おかしいことなんだろうか?」

 

「それは人それぞれですが、私個人としては―――何の問題も無いことです」

 

「問題無い?……どういうことだ?」

 

「そもそも家族と家族同然では格が異なります。本当の家族の死を前に、そのような反応はできません」

 

「確かにそうかもしれない。だけど――俺はこんな冷血漢で居たくない!俺は……なんで、泣けないんだ……っ!」

 

「泣けない己を憎むその心が冷血である筈がありません。一刀様はお優しい」

 

 司馬懿は苦しそうに言う一刀をあやすように、静かに言葉を紡ぐ。

人間としては歪んでいるであろう彼に、その在り方は間違いではないと囁く。

それは益々人間としての彼を混乱させるが、同時にどこかで納得させる。己が他者とは違うのだという事実を突き付ける。

 

 それが悲しい。それが悔しい。一刀は二度目の死を迎えた日、己の中に生じた変化を認めるのが怖かった。

認めてしまえば、それは彼の吐血と共に吐き出され続けたあの鱗の存在を肯定してしまうようで、嫌だった。

だが、彼女――司馬懿の言葉は、そんな彼の駄々を捻じ伏せる様に、現実を叩きつけてくる。

 

 一刀は理解してしまった……彼女は彼が必死に仮面を被り続けているのを見破っていることを。

ただ生きたかった。ただ笑っていて欲しかった。だから、彼は今までの自分を演じ続けた。

変わっていく己の行きつく先が化け物だと悟ってしまったが故の、自己防衛だった。

それを見抜かれた。知られてしまった。初対面の司馬懿に。

 

 

「俺は優しくなんかない…ないんだ。将来を誓った筈の女の子が死んだかもしれないのに……泣けないんだ。悲しいのに……辛くないんだ」

 

「大丈夫です。それはただの防衛行動でしかありません。貴方は本当は悲しい。本当は泣きたい。ただ、泣けば多くのものを失った事実を受け止めることになるのが分かっているから、貴方はそうできないのです。貴方は弱い。でも――優しい」

 

「う…あ…」

 

「泣いても良いのです。貴方は確かに多くを失ったかもしれない。ですが――貴方はまだ生きている。生者は希望を捨てることは許されないのです。絶望は捨て去るしかないのです」

 

「うん……ちょっとだけ……このままで居てくれないか」

 

 司馬懿の厳しく、だが的確な言葉に、ついに一刀の涙を堰き止めていたものは崩れ去った。

人間でなくなっていく己を泣けない理由としようとした彼の防衛本能は彼女の言葉によってその存在を暴かれた。

 

 それはいとも簡単に砕かれ、彼の涙を抑えていたものは消えてしまう。彼を現実から引き離すものは無くなってしまう。

だから、彼は泣いた。この世界に来て初めて踏み入れた邑の消滅に、親しかった皆の死に、変わってしまった己に。

彼を見守る司馬懿の口元に浮かんだ笑みの意味も知らぬまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとう……」

 

 泣き止んだ一刀が最初に司馬懿に告げたのは、彼女への感謝の言葉だった。

それに対して少しばかり驚きながらも、司馬懿は柔らかな笑みを浮かべて静かに頷く。

その洗練された動作は実に美しく、一刀は不思議と落ち着いた気持ちになれた。

 

 

「お役にたてたならば幸いです。それで……これからどうなさるおつもりですか?」

 

「……この大陸を回ってみようと思う。俺は強くなりたいんだ。もうこんな思いをしたくないし、させたくない」

 

「成程。ですが、路銀や馬はどうするおつもりですか? 徒歩で進むのは愚の骨頂ですよ?」

 

「……あ」

 

 

 大陸を回るとすれば、ある程度行き先を絞ってもかなりの路銀と馬が必要になる。

馬でも何日も野宿することも多いのだから、食糧もそれなりに必要となるが、一刀はそういったものを完全に失念していた。

司馬懿に言われて初めて気づくくらいには計画性の無い己に思わず頭を抱える一刀であった。

 

 

「ふふ……お考えになっていなかったのですね。私個人としては、お渡ししても良いと思っているのですが、如何です?」

 

「えっ?……で、でも司馬懿さんにはもう一週間もお世話になっているんだろう? だったらこれ以上甘える訳には――」

 

「でしたら、こういうのはどうでしょうか? 私と一緒に大陸を回り、一刀様は私のお供として行動する。その見返りとしてこちらは路銀、馬、それに食糧を提供する、と言うのは」

 

「う~ん……ありがたい提案だけど、それだと司馬懿さんに利点が無いんじゃないかな?」

 

「ご心配なく」

 

 実に魅力的な提案に内心頷きたい一刀であったが、司馬懿の厚意に甘え過ぎるのは良くない。

だからこそ、彼はいったい何の利があるのかを問うてみたのだが、そんな彼に対して司馬懿は笑顔と共に心配無用と言うと――突然偃月刀で切り付けてきた。

 

 

 

「――!?」

 

 どこにあったのか、いつ取り出したのかも分からないそれが、明らかに並みの兵どころか将並み……いや、それ以上の速度で振り下ろされる。

一刀は驚きながらも、本能の赴くままに、それに反応した。

両腕に力を込めて刃の腹の部分を両側から抑え、ギリギリの処で刃を止めたのだ。

俗に言う真剣白刃取りというものだ。

 

 いったいどれだけの力が込められていたのであろうか?一刀が受け止めた刃には、間違いなく彼の体を両断し得る程の重さがあった。

これを自分が受け止めたことに一刀は驚き、もしや既に自分は一刀両断されていて、夢を見ているのではという疑問すら湧く。

 

 

「司馬懿さん……いったいこれはどういうことなんだ?」

 

「この通り一刀様は私の一撃を息一つ乱さすにお受けになられました。私はこう見えて、一般の将とは比べ物にならない豪傑でございます。その全力の一撃をこうも簡単に防がれたのですから、護衛としては十二分な実力でしょう」

 

「……もし俺がこの一閃を止められなかったら?」

 

「哀れ、一刀様はひでぶっ、という奇声と共に真っ二つになっていたでしょう」

 

「おおい!?」

 

 良い笑顔で物騒なことを言う司馬懿に一刀は抗議の声を上げながらも、その獲物を見遣った。

青い竜の装飾が施された偃月刀は、一刀の知る限り関羽雲長の獲物である筈だが、何故司馬懿が持っているのであろうか?

そもそも司馬懿が生まれるのはまだ後で、ここに字を持った状態で居るのはおかしい。

 

 やはり史実とは大分違った展開になってしまっているとなれば、思春が生き残っているという可能性が激減してしまう。

歴史の強制力なるものが働いているならば、まだ希望はあるが、それも定かではない。

下手に希望を見出そうとすれば、それが虚で会った時の絶望も大きい。

弱い一刀には思春の生存を願いながらも、望むことはできなかった。

 

 

「これで納得いただけましたか? 今の一撃、並みの将ならば体が真二つですから」

 

「……それは分かるけど、俺はそんなに強くないって」

 

「ふふ、では手合せしてみますか?」

 

「……良いの?」

 

「はい。強くなりたいと思う方の手助けをするのは臣下として当然の務めです」

 

「そうか。それじゃあ、頼んでも良いかな?」

 

 これ程の武を持つ者と戦えることはそうない。その機会を得たことに興奮していた一刀は気づかなかった。

静かに頷く司馬懿が今なんと言ったのかを聞き取りはしたが、その意味を理解できなかった。

 

司馬懿は確かに臣下だと言った。だが、先程司馬懿は、今現在彼女は官位についていないとも言った。

これが意味するものに一刀は気づけなかった。彼は混乱していたからだ。

この滅茶苦茶な展開に驚き、常の彼ならば気付いた違和感を見落としていたのだ。

 

 その証拠に、一刀は己が病み上がりであることも忘れ、司馬懿に続いて中庭に出ていた。

己の眼で一般の将以上であると確認しておきながら、万全の状態どころか最悪に近い状態でぶつかるつもりなのだ。

いつもの彼ならばしっかりと体を休めてから挑んでいた筈である。

 

 しかし、そうであることは叶わなかった。

彼は己が二ヶ月半の間過ごした邑がなくなったことで動揺している。

思春達ともう会えないかもしれないことが、彼を焦らせている。もう二度と同じ思いはしたくないという決意が彼を推し進めているのだ。

 

 

「一刀様、一番お得意な獲物はどれですか?」

 

「剣で頼む。ああ、それで良いよ」

 

 数本ある剣の中から、己の身長、体重とあったものを一本受け取ると、一刀は試しに両腕で振ってみた。

すると思いの外軽く感じたので、今度は片手で振ってみる……が、結果は変わらない。

 

 仕方ないのでもっと重いものを使うことにしたが、やはり差は殆ど無い。

手拭一枚分あるかないかの違いしか彼の手には伝わらず、どの剣もしっくり来ない。

しかし、彼の眼にはそれらは十二分な強度を持っているように見受けられるので、仕方なく一番重いものを使うことにした。

 

 

「司馬懿さん。ここの剣はやけに軽いけど、そういう作りなのかな?」

 

「いえ、標準以上のものばかりです。軽いと感じるのならば、それは一刀様の力が強大な為でしょう」

 

「だと良いんだけど……さて、準備は良い?」

 

「はい――いざ!」

 

 青竜偃月刀を構える司馬懿の姿に一刀は思わず息を吞む。どう見ても、そのしなやかな動きは文官のものではない。

成程、確かに彼女は一般の将とは比べ物にならない。まるで隙が無い。

一刀の眼は彼女の動きを常にスローモーションで捉えるが、その中に無駄が少しも無いのだ。

 

 先程の一撃を見る限り、彼女の一撃は一刀が本気で回避すれば躱せないものではない。

だが、連撃の合間を抜けて逆に彼の方から一撃加えるのは難しいであろう。元々一刀は攻撃があまり上手くないのだ。

防御に関してはそれなりに自信があるが、攻撃に関しては間違いなく防御と比べると一段階見劣りする。

 

 しかし、いつまでも受けの一手では駄目だ。時には短時間で修羅場を潜り抜ける必要もある。

その時、ゆっくりと相手の攻撃が来るのを待つのは自殺行為だ。だからこそ、一刀は攻めを学ばねばならない。

この司馬懿の鉄壁を崩してこそ、彼は初めて一人前になれるのだ。

 

 

「……っ!」

 

「!……せいっ!」

 

「っと!」

 

 まずは重さも速度も彼の中では平均的な一撃を繰り出すと、司馬懿は見事にそれを弾いた。

そのまま流れるように返し技を放ってくる彼女の動きを見極めながら、一刀はすぐさま剣でその軌道を逸らす。

思春の攻撃とは異なり、圧倒的重さを持つその一撃に剣が悲鳴を上げる。

 

 しかし、一刀はそのまま剣を滑らせながら司馬懿の懐に踏み入る。

その突進速度に驚きながらも司馬懿は青竜偃月刀の柄で一刀の一撃を弾く。

しなやかではあるが、やはり剛の型であることを確信した一刀はその押し返しに対して力を抜いた。

 

 司馬懿の力によって押し返される剣を流れる動作で逆手持ちしそのまま弧を描くように下から彼女の無防備な胴体を狙う。

それに驚きながらも、司馬懿は剣の柄を片足で蹴り、その反動で一刀から距離を取った。

ほんの数合のやりとりだが、この間に一刀は彼女の型を理解した。

 

 

「行くぞ……そこっ!」

 

「くっ!?……はぁ!」

 

「!……見えた!」

 

「なっ!?」

 

 一刀の持つ剣は既に限界が近い。これ以上下手に彼女の一撃を防ぐことはできそうもなかった。

それ故に、一刀はすぐに勝負を決めることにした。武器が壊れてしまえば彼の負けなのだから、ここは挑戦するしかない。

 

 一刀が横薙ぎに振った剣を司馬懿は柄で弾くと、そのまま返す刀でお返しと言わんばかりに横薙ぎの一撃を放ってきた。

その速度も重さも、直撃すれば即死は確約される程のものだが、一刀はそれに敢えて向かった。

 

 彼の眼にはすべての一撃がはっきりと見えている。後は、彼の体をそれについて来させるだけだ。

一刀はかつて思春が彼の横薙ぎの一撃に対して行った技術を脳内で再現し――真似た。

まるですり抜けたかのように彼の真上を青竜偃月刀が通ったのを確認もせず、そのまま司馬懿の無防備な懐に彼は袈裟切りに剣を振る。

 

 

「っ!!――えっ?」

 

「――!!」

 

 そんな奇をてらった筈の彼の一撃であったが、司馬懿はギリギリ柄の部分をその軌道上に持って行くことに成功した。

しかし、それにしっかりと力を加える余裕など彼女にはなく、この一撃で態勢を崩され、次の一撃で敗北する未来を彼女は見た。

 

 だが、一刀が袈裟切りに振った剣は青竜偃月刀の柄に当たった途端にその部分から砕けてしまった。

その様子に両者共に一瞬固まるが、すぐに気を取り直し―――司馬懿は一刀の喉元に青竜偃月刀の切っ先を向けた。

 

 

「……参った。流石に強い」

 

「いえ、今回は武器の差が勝敗を分けただけです。武器が同等だったならば、私が負けていたでしょう」

 

「そうだと嬉しいんだけどね。それなら既に力はあるということになるから」

 

「ふふ……大丈夫です。一刀様のお力は既に将を超えておりますが故」

 

「……どうだか」

 

 司馬懿の言葉に一刀は苦笑しながら、砕けてしまった剣を見た。

一刀の眼から見ても、この剣は決して悪くないものだった。

それをこうも簡単に破壊するとは、やはり将の中の将と言うべき領域の技に思える。

やはり何かがおかしい。司馬懿は何故ここまでの武を持っているのだ?

 

 彼女は存在そのものが歪みだ…まるで一刀と同じ、この世界の理から外れた存在のようだ。

これ程の武を持ちながらも、何故彼女はこのような辺境の地に追いやられた?

一刀は司馬懿という少女が本物なのかどうか、疑惑を持たざるを得ない。

彼の眼には彼女は寧ろ―――

 

 

「一刀様」

 

「――!! なんだい?」

 

「少しばかりお話をしませんか?」

 

「……良いよ」

 

 木陰に座って、隣をぽんぽんと叩く司馬懿が歳不相応に見えた一刀は苦笑しながらも彼女の隣に座った。

この世界は何かが大きく歪んでいるが、それは彼も同じだ。一刀は存在そのものがイレギュラーなのだから、司馬懿を疑う資格は無い。

 

 

「一刀様は竜というものをご存じですか?」

 

「ん?ああ、神獣の一種だろう? 高祖である劉邦の出身地も相まって漢王朝の象徴になっているんだったか?」

 

「はい、一般的にはその解釈で構いません。ですが、その竜とは飽く迄想像上のものです。一刀様―――本物の竜について、興味はございませんか?」

 

「本物の……竜?」

 

 一刀は司馬懿の口から紡がれた言葉の意味を理解しかねていた。

本物の竜、と彼女は言ったが、彼には本当に実在するとは考えられない。

大抵そういうものは大蛇などの実在する生物を元に生まれる幻であって、現実には存在しない筈なのだ。

 

 しかし、一刀は司馬懿の口調がそうは言ってないことをはっきりと理解していた。

彼を見遣る彼女の眼も、鋭い黄金となっており、先程とはまるで異なるものを感じさせる。

それは決して嫌なものではなかったが、それを見ていると己が隠している何かが外に出てきそうな気がして、一刀はただただ恐ろしかった。

 

 だが、同時に彼の中で渦巻くその何かが彼に続きを聞くことを促す。司馬懿の眼を見ろと、彼の眼を縫い合わせる。

何かが変わっていくのを少しずつ実感しながらも、一刀は彼女の瞳を見続けた。

その言葉から続きが発せられるのを待ちながら。

 

 

「はい、竜とは全ての人間の祖とも言える存在です。遥か昔、竜の血を飲んだ人間を祖として、人間は覇気を手に入れたのです。覇気を扱えるのは、竜の血を色濃く受け継ぐ者のみ。だからこそ、王の器とはこの血の濃さで決まるのです」

 

「へぇ……なら、竜そのものは大層凄いんだな」

 

「勿論です。竜の持つ氣はその気にならずとも常人ならば発狂、覇気を持つ王の器達すらも恐怖させることができます。そして、竜が本気になれば――人間はその心の形を保てない」

 

「むぅ……それだと、王の器達にもそういうことを引き起こす危険性がある訳か。諸刃の剣だな」

 

「はい。ですが、余程心が弱っている状態でなければそんなことは起こりません。人間では限界がありますから。いかに竜の血を受け継いでも、その肉は得られませんが故」

 

「成程。そういうものなのか」

 

 言うなれば竜の血は飽く迄人間と共生しているだけで、人間が自由に扱うことはできない訳だ。

しかし、一刀はこの世界では氣を操る者が居るというのを甘家で聞いた。それは別の問題なのだろうか?

 

 

「氣を操る人間も居るらしいけど、それに関しては?」

 

「あれも飽く迄人間技です。まず氣の量からして、人間は竜の足元にも及びません」

 

「氣の量か……ちなみに、どのくらい違うのかな?」

 

「そうですね……未熟な竜でもざっと一万の人間に相当します。成熟した竜ならば、もはや人間からすれば無限に等しい量でしょう」

 

「それは凄いな……しっかし、竜にも未熟なのが居るんだな」

 

 人間の一万倍の氣を持つとは恐ろしい限りだが、一刀はそれよりも竜にも成熟の概念があることの方が気になった。

まるで蛇のような鋭さを見せる司馬懿の眼を見つめながら、彼はそれを問い、彼女が応える。

 

 

「はい、竜は最初人間の姿をして生まれてきます。暫くの間は人間として生きますが、やがて鱗を人間の血と共に吐くようになり、最後には本来の姿、つまりは成熟した竜となるのです」

 

「……司馬懿さん。その話は本当なの?」

 

「はい。一刀様がご懸念していることは存じております。一刀様―――既に貴方は、竜としての己に気付いていらっしゃる」

 

「どうして……そこまで分かる?」

 

 司馬懿はまるで歌でも歌っているかのように、軽やかに竜について語り、一刀を恐怖させる。

彼女の言う竜と己との共通点の多さに、彼はもはや確信を持たざるを得なかった。

 

 

―――自分は人間では無い。

 

 

 一刀は己の中で何かが切り替わるのを感じながら、司馬懿にその真意を尋ねた。

いつもの彼とはまるで違う、重過ぎる低音の声は、常人ならば恐怖のあまり口も聞けない状態になりかねないものだ。

そんな重圧を、しかし彼女は微笑と共に受け止めた。

 

 恐怖するどころか寧ろ嬉しそうな表情と共にその口を開き、彼女は彼に応える。

恐怖を払いのける為に事実を知ろうとする彼を慈しみ、見守るように微笑む。

そんな彼女の姿は酷く歪で、だが美しかった。

 

 

「私も竜なのです。だから、同じ竜である一刀様のことを理解できます。その苦しみも、喜びも、孤独も、全て私は受け止めることができます」

 

「……しかし、その証拠はないだろう?」

 

「証拠ならば、ここに」

 

「!……鱗、か?」

 

 己も竜なのだと微笑みと共に告げる司馬懿への猜疑心を隠さずに問いただす一刀に、彼女は彼の思わぬ形で応えた。

司馬懿は上半身の服を、下着を残して脱ぎ去ってしまったのだ。

流石に恥ずかしいのか前を隠しながら司馬懿は背を向け、肩甲骨辺りにうっすらと浮かぶ鱗を一刀に示した。

 

 そんな彼女の姿に少しばかりドキリとしながらも、一刀はその漆黒の鱗をそっとなぞった。

冷たく、堅い感触が一刀の手を出迎え、彼の心臓の鼓動を加速させる。

彼の頭はこの状況に混乱しているが、彼の中の何かは確かに彼女が同族だと告げているのだ。

 

 

「はい。これが竜の証です。一刀様の背にもこれと同じものがありました」

 

「……成程。確かに、俺の背中にもあるようだ。しかし、司馬懿も竜だったとすると……」

 

「はい。私は司馬家の血を継いではいません。養子だったのです」

 

「……だから簡単に流されたのか。あの部屋の血は、俺の血だけでは無かった訳だな?」

 

「お気づきになりましたか。お恥ずかしながら、そういうことになります」

 

 一刀は己の背中にも同じ感触を得た為、司馬懿の言葉が嘘ではないと思うことにした。

竜だのどうだのという話は眉唾物だが、司馬懿が彼にそのような嘘をつくことに意味は無い。

籠絡するには怪し過ぎ、寧ろ不信感が増すだけだ。

 

 だから、一刀は司馬懿を信じることにした。彼女が竜ならば、勘当の理由も納得がいくのだ。

血が繋がらないだけではあまりにも軽い理由であったが、実際は化け物を追放することが目的だったのだろう。

 

 彼女がこの屋敷に飛ばされたのは、彼女が一刀同様に血を吐き続けていたからに違いない。

一刀が寝ていたあの部屋に染みついた血は、彼の血と言うにはあまりにも染みつき過ぎていた。

 

 

「すると、司馬懿は既に成熟したのか?」

 

「いえ、私は残念ながら成熟できない竜だったようです」

 

「成熟できない竜?……そんなものまで居るのか」

 

「はい。一刀様とは違い、私の吐く鱗は一度たりとも大きくなってくれませんでしたので」

 

「……確かに、少しずつ大きくなってはいるが、そんなものなのか」

 

 どうやら司馬懿の言葉を聞く限り、一刀達の体験している吐血に伴う鱗の排出は、蛇の脱皮のようなものらしい。

まるで爬虫類にでもなった気分だ、と一刀は苦笑する。

そんな彼の姿を見た司馬懿もまた、柔らかな笑みを浮かべて彼を見守る。

 

 一刀は己が竜であるなどという妄言を信じたくはなかったが、それは妄言ではなかった。

そうと分かれば受け入れるのは簡単だ。一刀はほんの一瞬で己が人間ではないことを受け入れた。

だからこそ、彼は思う。

この力を、いったい誰の為に揮えば良いのだろうか、と。

 

 

「はい。だからこそ、私は一刀様をこうしてお招きしたのです。竜になり切れぬ竜、司馬懿に生きる意味をお与えください。真なる竜の御傍に仕えることをお許しください」

 

「……良いのか? 俺は、司馬懿さんと同じ成熟できない竜かもしれないんだぞ?」

 

「構いません。この目的も夢も無い命、一刀様の為に使わせてください」

 

「そうか……ならば、真名を捧げろ。それで以て、何処にも行けなかった竜を俺だけの為に彷徨う竜にしてやる」

 

「はっ! 私の真名は愛紗と申します。今後一生の忠誠を、この真名にかけて誓います!」

 

 司馬懿の言葉が意味するものを一刀は理解した。人間にも竜にもなり切れぬ化け物は、居場所が欲しいのだ。

誰かの為に在りたい。そうすることで、己が居なくても良い存在ではないと証明したい……まさに一刀と同じ考え方だ。

 

 だからこそ彼は司馬懿――愛紗を臣表面上は下として迎え入れながらも、一人の同志として迎える。

その歪みを己の歪みに重ね、痛みも喜びも分け合える同志を手に入れたことを喜ぶ。

 

 

「この愛紗、眼も髪も血も、知も武も、心も、あらゆるものを一刀様に捧げます」

 

「……その覚悟、確かに受け取った。愛紗、いきなりで済まないが旅の準備を始めてくれ。すぐにでも、この大陸を回りたい」

 

「御意。二日で終わらせます」

 

「ああ、頼む」

 

 関係が変わった途端に自然と口調が変わる己の柔軟性に驚きながらも、一刀は愛紗に旅の準備を頼む。

ここは彼女の郷だ。彼女に任せるのが最も良い。

一刀自身が遣り繰りすることも不可能ではないが、それをすれば彼女は悲しむ。

 

 一刀が逆の立場であったならば、そのような態度をされては堪ったものではない。

臣下として迎え入れられた直後に、そのような対応をされてしまえば、己の存在価値を疑いたくなる。

一刀ならば耐えられるが、彼女が同じかどうかは分からない。

 

無暗に傷つけてしまうことだけは、彼は避けたかった。

誰かの為に他の誰かを傷つけるのはまだ許せるが、誰の為にもならない行動で他者を傷つけるのは、彼には許せない。

己が必死に生き延びる為に他者を傷つけるのは良いだろう。生き残る為に足掻いているのだから。

だが、遊びで傷つけるのは、そこに意味など無い。己が愉悦のみの為の殺傷など許せない。

 

 

「一刀様、少し宜しいでしょうか?」

 

「ん? どうした?」

 

「はい。一刀様のお体についてなのですが、まだ万全な状態ではございません。この二日間は出来るだけお休みいただきたいのです」

 

「ああ、分かった。先人の言葉には素直に従おう」

 

「ありがとうございます」

 

 確かに、愛紗の言う通り一刀は本調子ではない。一週間の間何も食べなかった上に、吐血を繰り返していたのだから、当たり前だが。

そんな状態で愛紗と手合せをしたのは無謀とも言えるが、意識が戻ってからの一刀は目に体がしっかりとついてきている。

 

恐らく殆ど最悪とも言える状態で、今まで宝の持ち腐れだった眼を生かせているのだ。

その事実が、一刀はほんの少しだけ嬉しかった。

自分が人間では無くなることへの恐怖はまだ残っているが、それ以上に彼は、力を得たことが嬉しいのだ。

 

 一刀としては、この世界で生き延びる力を得た後は、この世界が平和になることに貢献できれば幸いだ。

今はまだそれには至らない部分が多過ぎるが、それでも彼は確かに一歩前に進んだという実感を得ていた。

それが、嬉しかった。

 

だから、彼は忘れることにした。

 

竜が人間に理解されぬことも、愛されぬことも、何もかも忘れて、ただ笑った。

 

 

 この瞬間、彼は確かに己が人間として死んだのを理解したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一刀様、準備が整いました。今すぐに出発が可能です」

 

 二日後の朝、朝食を終えた一刀に、愛紗は跪きながら準備が終わったことを告げた。

仮にも司馬家の者がそう身軽に動ける筈も無いのだが、それを彼女は可能にしてしまった。

たった二日であらゆるしがらみを振り切った彼女の仕事の速さには、一刀も驚かざるを得なかった

 

 一刀が彼女と同じ立場であったならば、もっと解決に時間がかかっていた筈だ。

そもそも彼の場合は引く手数多にはならないが、仮にそうだった場合はこんなにも早く処理できなかったのは明白だ。

改めて、一刀は司馬懿仲達の有能さを理解した。

 

 

「ありがとう。流石は愛紗だな。お蔭ですぐに動ける」

 

「いえ、この程度訳ありません」

 

「……愛紗、俺はどんなに否定されても褒める時は褒める。それは忘れないでくれ」

 

「!……御意」

 

 口では褒められる程のことではないと言いながらも、愛紗の表情は緩んでいる。

彼女は一刀に褒められて嬉しいのだ。これは一刀の想像でしかないが、恐らく彼女はまともに褒められたことが無い。

いや、それどころか一人の存在として真正面から向き合って貰えたことが無いのかもしれない。

 

 一刀は決して稀代の天才ではないが、そのくらいは読み取ることができるつもりだ。

司馬懿仲達は既に傷だらけで、その傷を彼は愛でてやらねばならない。そうしなければ、彼女を従える主として相応しくない。

だから、一刀は伝えるのだ。彼は彼の価値観で彼女を褒めると、労うと。

 

それこそが、王の器の一つであることに彼自身はまだ気づいていない。

 

 

「馬は?」

 

「こちらでございます。一刀様の為にとっておきの馬を用意しておきました」

 

「とっておき? どのくらいの――」

 

 愛紗に導かれて、荷物を持ちながら一刀が進むと、不意に地響きのようなものを感じた。

その源はどうやら二人が進んでいる方向のようで、何やらただものではない存在感を感じさせる。

一刀はその正体を見極めようとして、驚愕した。

 

 辿り着いた場所で彼が見たのは、通常のものよりも一回りも二回りも大きい黒馬だったのだ。

それだけならばあまり驚愕には値しないが、その馬はあまりにも異常だった。

その毛はまるで燃えているかのように逆立ち、四肢は蜃気楼が生じる程の熱を発しているのだ。

その目はまるで地獄の業火のようで、一刀はその異常さに思わず見とれた。

 

 そんな彼をただただ黒馬は見据える。息をする度にその口から漏れる熱もまた蜃気楼を生み出し、いかに圧倒的な熱量を放出しているのかが分かる。

この黒馬を一言で表すならば、地獄への先導であろうか?一刀には、この黒馬はこの世のものとは思えなかった。

 

 

「これは――素晴らしい。愛紗、この馬の名は?」

 

「蜃気楼でございます。今までは私しか乗れませんでしたが、一刀様ならば私以上に使いこなせるかと」

 

「蜃気楼か……良い名だ。本当に良いのか? こいつは間違いなく名馬だぞ?」

 

「はい。私にはこの蜃気楼には劣りますが、そこに空蝉という名馬がおります故」

 

「そうか。それでは、ありがたく貰おう」

 

 名前が意味する結末を感じながらも、一刀は蜃気楼に触れた。嫌われていた場合、この時点で蹴り殺されるであろうが、蜃気楼は抵抗しない。

一刀は軽くその見事な毛並みを撫でてやると、背中に飛び乗る。

できればしっかりとした鞍がある方が安定性は良いのだが、そうも言っていられない。

 

 幸い彼の記憶には鞍の造形などはある程度残っているので、それなりの技術を持つ者に再現させることも不可能ではない。

再現できれば、馬にしがみつくことに集中力をあまり割くことなく他の動作が可能になるのだから、やっておいて損は無い。

 

 

「かなり色々と詰め込んでいるな。名馬とはいえ、最後まで持つのか?」

 

「ご安心ください。蜃気楼と空蝉には、この程度訳ありません」

 

「そうか。しかし、一応邑に行った時にはそこで少し休ませておくぞ?」

 

「勿論です」

 

 蜃気楼よりも一回り小さい白馬である空蝉に乗りながら、愛紗は一刀の疑問に答える。

彼女曰く、この程度の荷物量ならば全く問題そうなので、一刀はそれに従うことにした。

腰に剣を帯刀していることを再確認すると、軽く直進の動作を行い、それに応えて蜃気楼が歩き出す。

 

 

「それでは、行くか。まずは荊州から回るとしよう」

 

「はい。宣都郡から回る形でしょうか?」

 

「そうなるか。ぐるりと回る形になるが、揚州にはあまり踏み込まない形にしたい」

 

「揚州? 何かあったのですか?」

 

「益州に居た頃に孫家の者に会った。また会ったら面倒だ」

 

 出身が荊州の者達はある程度この眼で確かめておくことができる。一刀の知る限りでは黄忠、黄蓋、龐統の三者は荊州出身だった筈だ。

彼らなのか彼女らなのかはまだ分からないが、どのような人物かを見極めておくのは悪いことではない。

 

 司馬懿仲達が現時点で存在することが既にこの世界の歪みを現しているが、思春がそうであったように史実の人物は必ず存在する筈だ。

既に死んでいるかもしれないし、まだ生まれていないかもしれない……しかし、そのような誤差は考えない。

一刀は飽く迄、今会えるのならば会う、というスランスで行く。

 

 

「荊州の次は豫洲、徐州、青洲、冀州、幽州、兗州、司隷、雍州、涼州だ」

 

「流石にそこまで回るとすると途中で路銀が尽きる可能性が出てきますね」

 

「商人達の護衛などでそれなりの待遇はある筈だ。場合によってはそういうものに参加する」

 

「成程。まぁ、無駄な寄り道さえしなければ路銀に関しては無問題です」

 

 愛紗との会話を続けながらも、一刀は少しずつ速度を上げて、蜃気楼がどの程度まで耐えられるのかを見ていく。

そんな彼の思惑を知ってか、蜃気楼は息も乱さず速度を上げ、遂には風になった。

彼の知る官軍の馬と比べると、もはや比べることすら悲しくなる程の頑強さだ。

 

 彼が知る軍馬の最高速を裕に超える速度を呼吸一つ乱さずに走り続ける蜃気楼に、一刀は驚きと多大な賞賛を含む笑みを浮かべる。

横を見遣れば、そんな蜃気楼にしっかりとついてくる空蝉の姿が見える。

愛紗は空蝉では蜃気楼には劣ると言ったが、そこまでの差は今の処無さそうだ。

 

 

「愛紗! この速度のままなら、宣都郡の手頃な邑まで今日中に行けるか?」

 

「はい! 一日で千里をかけることなど容易いですから、その気になれば荊州すら抜けます!」

 

「凄いな……こいつらは疲労を知らないのか? 随分と規格外だぞ」

 

「我々と同じ、歪みですから。流石にこの装備では難しいですが、何もつけなければ一週間走り続けることも可能です」

 

「ははっ! 愛紗と会えたのは実に幸運だ!」

 

 一刀は緩い口調はしないように気を付けている。

あまりにも彼が緩いと、その臣下の愛紗の質まで疑われるからだ。

それに、彼は自分が世話になった邑の壊滅を受け入れたことで、一つ大人になった。

態々変えようとせずとも自然と変わっているのだ。

 

 愛紗の主としての自覚、己自身の力で生き残ることの困難さの自覚、己が人間ではないことの自覚。

それら全ては彼を間違いなく成長させ、同時に戻れない道へと引きずり込もうとしていた。

運命の流れを感じつつも、彼は止まらない。何処へも行けぬ竜にはならない。

 

 滑り出しは順調、後はそのまま突き進むのみである。

 

 

「私も、一刀様と出会えて本当に良かったです! 生きる理由を得たのですから!」

 

「ああ、そうか。そうならば、俺も愛紗の主になれて良かった!」

 

 

 一刀はとてつもない自由を感じていた。それこそ、世界が全て自分の物であるかのように思える程に。

ただただ笑う。理不尽な世界の中で、ただただ笑う。

己がこの世界に落ちてきた意味を知る為に進み、価値を見出す為に進む。

 

 

そんな彼の隣で、愛紗はその姿を眩しそうに見守り、微笑んだ。

 

 彼女は知っている。竜には世界の修正力など働かない。管理者は竜が居る限り何もできない。

あらゆる可能性を肯定し、拒絶するのが竜であり、その力は管理者の介入を許さないのだ。

だから、この世界に彼女達の邪魔をする者は居ない。

 

 外史でも正史でもない、完全なる独立した可能性を竜は生み出し、育み、完成させる。

この世界は二匹の竜によって完全に固定され、もはや外史でも正史でもない新たな世界となった。

この世界ならば、きっと彼女の願いは叶う……否、彼女は叶えてみせる。

 

 

 

 

 

―――もう二度と、最愛の主との別れを味わいはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
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