第一章 呪ってください
僕の主(あるじ)はもう少し『落ち着き』というものを持った方が良いと思う。
昨日は一日中浮かれっぱなしで、今朝は奇声を発して飛び起きた。太陽が空の真上に昇りきった今は何度も何度も鏡を覗いて、くつくつくつと不気味に笑う。かと思えば床に転がり、芋虫のようにのたうち回る。それを止めたと思ったら、先日届いた手紙を封から出してまた締りの無い顔でにやける。さすがに温厚な僕でも鬱陶しく思う。
「だってラース!」
僕が注意すると、浮かれ調子の主は真っ黒な目を見開いて僕を抱き上げた。
「一人前になって初めてのお客様なんだよ。しかもホラ、私名指しで! もう緊張で楽しみで怖くて、あーどうしよう! すっごくどきどきするよ」
主は僕を抱きしめたまま、その場ででたらめなステップを踏み出す。僕の胴体は振り子のように揺れて振り回される。痛い痛いいたいっ。このままだと胴体が上と下が別れてしまう!
抗議の声を上げると、主に解放された。
「ごめんね、つい」
つい、で体を真っ二つにされたらたまったものではない。
主には心から反省して頂きたい。だが、ボクの願いとは裏腹に主はとっとと妄想の世界へと旅立ってしまった。昨日掃除したばかりの棚を見つめ、それはそれは嬉しそうに微笑んでいる。他に人間がこの場にいれば、主は間違いなく『怪しい人』の認定を受けるだろう。
仮にも年頃の娘なのだから、もう少し第三者の目というのも自覚を持ってもらいたい。
あーぁ、せっかく綺麗に結ったみつあみがところどころほつれ始めているじゃないか。そのみつあみを結うのにかるく半刻以上かけてたというのに。
ため息をついて、その事を主に伝えようとした時、玄関の戸が叩かれた。
客──依頼人だ。僕は柱時計に目を向ける。おぉ、約束通りの時間だ。
途端に主の顔が引き締まり、ぎこちない動作で玄関に向かう。手足が左右同時に動いている辺り、緊張は頂点に達しているのだろう。転ばなければいいのだけど。
「どうぞ、お入り下さい」
僕の心配は何とか杞憂に終わったようだ。主はお辞儀をし、黒ずくめの依頼人を迎え入れた。
「お待ちしていました、ローレシーク様」
「ご丁寧にありがとうございます」
戸惑いつつ入ってくる依頼人は、主と同じくらいの年頃の少年だ。貴族の息子、と聞いていたがかなり腰が低い。何度も主に頭を下げている。変装のつもりなのか、随分とくたびれた安物のコートを着ていた。ただ、首からさげた月と星を模った銀細工の首飾りだけが僕の目でも分かる高価なものだ。
依頼人が黒い帽子を外せば、灰色の髪が逆光浴び、銀色に光る。川魚を思い起こし、僕はよだれを垂らす。
「黒猫?」
僕の存在に気付き、依頼人は青い目を丸くさせる。
「私の使い魔です。名はラースと申します」
ニャオと一声上げ、僕は彼に頭を下げる。
「そうなんですか。よろしく、僕はセイルって言うんだ」
腰をかがめ、セイル殿は僕の頭を撫でてくれた。ずいぶんとひび割れた手だった。
「どうぞ、中へお入りください」
主の言葉にセイル殿の手がわずかに強張った。つられて僕のヒゲもピンッと一直線に張る。彼も主と同じように神経を張り詰めているようだった。
「こちらに席を用意しております」
主! 下を見ろ、そこは段差が……。
「ギャンっ」
僕の警告と主が奇声を発しながら床に倒れたのは、ほぼ同時だった。派手に転んだ主の姿にセイル殿は呆気にとられたらしく、中腰のままで硬直している。僕はすぐさま主の側へ駆け寄る。
勢いよく顔面を強打した主は、何やら唸り声を発していた。身体がピクピクと小刻みに震えているところを見ると、かなり痛かったようだ。
玄関と客間を繋ぐ廊下。ここは一段だけ段差があるのだ。毎回主はここで転ぶのだ。おとといなんか、僕がわざわざ注意したのにも関わらずつまずいて、せっかく採取したウロガエルの卵をぶちまけたのだった。
お約束を決して忘れない、学習能力皆無の娘。それが僕の主。
何故だろう。ちょっと悲しくなってきた。
「大丈夫ですか?」
ようやく金縛りが解けたセイル殿が主に近寄る。その表情は明らかの困惑の色が浮かんでいた。彼の気持ちはよく分かる。僕だったら不安のあまりに、この時点で依頼を取りやめてしまうだろう。
起き上がった主は涙目で笑う。
「は、はい。大丈夫です」
主の広いおでこは真っ赤になっていた。しばらくしたら、青痰になるかもしれない。
主が独り立ちする時にお師匠からいただいた塗り薬はまだ残っていただろうか。一人前の証に青痣を消す塗り薬を貰う魔女なんか、この世界で主ぐらいしかいないだろう。
「あの、おせっかいですが足元は注意した方がいいと思いますよ」
セイル殿に諭され、たちまち主の顔が真っ赤になる。
たまには他人に注意される事も主には必要だろう。最近、僕の忠告なんか聞かなくなってきたし。いい薬だ。
僕が思った通り、主は素直に頷いた。
「……気をつけます」
「いえ、僕こそ余計な事を言ってしまい、申し訳ないです」
「いいんです。ラースにもよく同じ事を叱られるので」
「猫が?」
セイル殿が僕の顔を見る。
「この黒猫は、人の言葉を喋るのですか?」
心底驚いたような声音だった。セイルの視線は食い入るようなものだ。僕の顔に穴が空くじゃないかと心配になってしまう。
「使い魔は主人の魔女となら会話が出来るんですよ」
ね、ラースと誇らしげに主に言われ、僕はそれに同意した。
主の言う通り、セイル殿の耳に僕の声は鳴き声としか聞こえなかったようだ。半信半疑といった様子だろうか。
「ここにお掛けください。セイル様。いえ、ローレシーク様とお呼びしたほうがよろしいでしょうか?」
「どちらも結構ですよ」
木製の、それでもこの家で一番高価な造りの椅子に腰掛けながらセイル殿は言った。
「セイルでいいです。様付けされるほどの価値は僕には有りませんから」
何とまあ、謙虚な要望だ。というか謙虚の範囲を超えて卑下の領域にまで入っている気がする。仮にもお貴族様なのだから、もう少し堂々とすればいいのに。まぁ、本人が良いと言うのなら、遠慮なくそう呼ばせていただこう。
主の方はというと、セイルの申し出に何故か照れていた。
「え、えーと。絶対呼び捨てじゃなくちゃ駄目なんですか?」
「出来たらその方がいいのですが」
「そ、そうなんですか」
主はすがるような目つきで僕を見る。……あぁ、なるほど。物心つかない頃から魔術の修行三昧だったのでこういう事に免疫が無いのだろう。こういうところで恥じらいを見せる辺りは、ごく普通の十代半ばの少女だな。
とりあえず僕は『くん』か『さん』付けをしてみてはどうかと提案しておいた。主はすぐさま僕の意見に従い、セイルに了承を取る。
「あ……じゃあ、それで」
セイルも何故か声がうわずっていた。どうやらそっちもこういった事に慣れていないらしい。
「リュノ・コルテスさんでしたよね」
「はい。わ、私も呼び捨てでいいですよ。あ、あと敬語いらないです……」
「あ、はい。いや、う、うん。じゃ、僕に対しても砕けた口調で構わないよ。その、リュノさん」
「う、うん。よ、よろしく。えと、セイルくん」
結局『セイルくん』『リュノさん』で落ち着いたようだ。
改めて部屋の中へと案内し、樫の木造りのテーブルへと依頼人を導く。セイルは主に勧められて椅子に腰掛けた。その間に主は用意していたとっておきの紅茶に湯を通す。紅茶の甘い匂いが部屋に広がる。セイルがその香りに目を細める。だいぶリラックス出来てきたらしい。
紅色に色づいた紅茶をカップに注ぎ、主はセイルの対面側の椅子に座った。これで交渉開始……かと思いきや、二人とも口を開かない。床から戸棚に飛び移ってそれぞれの顔色を見やれば、両者とも頬を染めて視線を合わせようとしない。時たま目線が合えば、同時に顔を俯ける。
何だこの微妙な雰囲気は。見合いのような空気になっている。居心地の悪さに思わず尻尾を膨らませてしまった。
「魔女は、黒いローブばかりを着ているものだと思ってたんだけど」
「そんな事ないよ」
今日の主は、白のシャツに橙色のスカート。その上に淡い黄色のエプロンといった姿だ。どちらかと言えば、村娘といった方がしっくりくる。
昔と違い、最近の魔女の服装はかなり自由になっている。だから一見魔女とは分からない人間のほうがが多い。主のお師匠でもローブは一枚有る程度だ。
ここの内装もごく普通の部屋と変わらない。低めの天井。少女らしい可愛らしい内装。小さな窓にはレースのカーテンが揺れて、戸棚の上にある花瓶に生けられた花が日を浴びて薄紫の花弁を透かす。まぁ、その花は毒草だし。戸棚の中にはイモリの黒焼きだのヨミゴケの胞子詰めの瓶だのいろいろと入っているけどね。吊り戸棚に飾ってある人形なんか呪術用のやつだし。言わなきゃ分からないだろうけど。
そんな雑談で少々盛り上がった後、主がようやく本題を切り出した。
「それでは、セイルくん。どんな依頼をご所望で?」
主の目はまっすぐにセイルを覗き込んでいる。うん、まずは合格だ。
依頼人との会話は必ず相手の目を見ること。
お師匠の教えをちゃんと守れている。まだ心配はあるが、主一人で何とか出来そうだ。僕は戸棚の上で丸くなりながら、そんな事を思う。
少しの逡巡を見せた後、セイルが口を開いた。
「呪いを、かけてほしいんだ」
すぐさま僕は飛び起きた。びっくりした。と、同時に恐怖した。こんな気弱そうな少年でも呪いをかけたい相手がいると。いやはや、貴族社会は恐ろしいものだ。
主も僕と同じ考えのようだ。あからさまに青ざめている。
「セイルくん、呪いって……」
「呪いなら何でもいいんだ。鳥や蛙に姿を変えたり。そうだ、おとぎ話のように一生覚めない眠りとかでも──」
「ちょっと待ってよ!」
主がセイルの言葉をさえぎった。
「どうしてそんな事を」
戸惑いの色を浮かべる主を、セイルが笑う。僕はその笑いがどんなものなのか知っている。
あれは、人が自嘲する時に出るものだ。
「邪魔だから」
セイルはただ淡々と答えた。主の息を飲む音が聞こえた。硬い握りこぶしが震えていた。主は戸棚から飛び降り、主の膝へと向かう。膝の上に乗って主の腕に身をすり寄せる。少しの慰めになればいいのだけど。
「こんな事を頼めるのはリュノさんしかいないんだ。お願いします。呪ってください、僕を」
「…………え?」
恐らく今の僕と主は同じ表情をしてるだろう。
「えっと。呪うって、セイル君を?」
確認をする主に、セイルは深く頷いた。彼の顔は真剣なもので、とても冗談を言っているようには見えない。
「え、ええ? な、何で?」
ますます混乱したせいか、主の声はろれつが回っていない。
「さっきも言った通り、邪魔だからだよ」
まるで他人事のようだ。セイルの指先が、胸で揺れる首飾りを遊ぶ。
「でも、そんな事をしたら家族が心配するに決まってるよ!」
熱くなった主の言葉に、セイルは黙って首を振った。そして、どこか諦めたような表情を僕らに見せた。
「僕がいないほうが家族は安心出来るんだ」
「どういう、こと?」
「僕は……生まれながらにローレシーク家の子ではじゃないんだ」
セイルはポツポツと自身の身上を語ってくれた。
曰く、彼は元々ごく普通の生まれの人間だった。母と二人で小さな仕立て屋を営んでいたらしい。仕立て屋と言っても看板を掲げているわけではなく、近所の人が服の修繕を依頼したりといった本当に小さなものだったらしい。
裕福では無いながらも、幸福に過ごしていた。が、一年前に母が病で倒れてそのまま帰らぬ人となってしまった。親族も無く、途方にくれていたセイルの前に領主であるローレシーク卿が姿を現した。
「お前の父親は私だ」
証拠となったのは、月と星を模った銀細工の首飾り。それはセイルの母にローレシーク卿が送った物だと言う。戸惑うセイルに、彼は自分の屋敷に来るようにと告げた。
そして、その日のうちにセイルの母はローレシーク家の墓地へと埋葬され、セイルも息子として屋敷に召された。屋敷の人間たちの反応はあからさまに困惑しているようだったらしい。
セイルもまた狼狽していた。父については母に訊ねたことはあったが、セイルが生まれる前に亡くなったとしか聞かされてなかったからだ。
「それでも皆さん、親しくしてくれて。父……も、すごく良くしてくれて」
ただ、例外も何人かいた。ローレシーク卿の正妻とその娘だ。今までは息子がいなかったために娘が時期領主として育てられていたが、ローレシーク卿の突然の隠し子発覚にかなり騒動になったらしい。
屋敷の人間も娘派と息子派に別れ、喧々囂々とした雰囲気の中でローレシーク卿が亡くなった。後継者問題をはっきりさせることなく卿が事故で逝ったために、屋敷内部は未だに禍根が渦巻いているらしい。
「それで、僕がいなくなれば全て解決するんじゃないかと。そう思ってここに呪いのお願い来たんだ」
どうやらセイルはいろいろと胸のうちで溜まっていたらしい。話し終えるとその顔にあった陰りが少し薄れていた。
僕も主も何も言えなかった。なんというか、あまりに内容が重過ぎて。
というか主よ。やっぱりローレシーク家についた下調べをしたほうが良かったじゃないか! 僕、あれだけやれと言っただろうが。何が「相手に先入観を持つのは良くない」だよ! これ、駆け出しの僕らの範疇を遥かに飛び越えてる問題じゃないか。
憤る僕の頭に暖かい雫がぽたりと落ちてきた。主、まさか。
「う、うっ。ううう……」
やっぱり泣いていた。
「リュ、リュノさん。泣かないで」
うろたえつつのセイルの慰めも今の主には効果が無い。泣きじゃくる主を見て僕はため息をこぼした。
これはもうダメだな。こうなった主は当分泣き止まない。感受性高いと言えば聞こえがいいが、実際はただ涙もろいだけだ。
お師匠、主に一人前判定出すの早まったのではないのか?
「で、でもっセイルくんが……セイルくんがぁ!」
「大丈夫。僕は特に気にしてないから。別に人生が嫌になったとかそういうわけでは無くて、ただ……僕のせいで屋敷の皆さんにご迷惑をかけたのが申し訳なくて」
「それでも、悲しすぎるよそんなのぉおおおっ」
わんわんと泣く主にセイルがうろたえる。さっきはさっきで居心地悪い空気だったが、これはこれでとんでもない状況になってしまった。もうなんというか、この場から逃げ出したくてたまらない。
だが、僕は忠実なる使い魔だ。主人を支え、手助けする存在だ。……そう、例えどんなに頼りない主であってもだ。そう、例え使える先を誤ったかなぁと頭の片隅で思ったとしてもだ。
僕は思い切りよく主の左腕に牙を立てた。
「いったぁあああ!」
悲鳴を上げる主に僕は忠言する。話をさっさとまとめろ、と。
ひどいラースとか言う主の言葉が聞こえた気がするが無視する。時には主に牙向いてでも叱咤激励するのが使い魔の本分でもあると教わったしね。ともあれ、ひとまず主は落ち着いたようだった。……セイルの顔が引きつっていることはこのさい無視しておく。
「と、とりあえずセイルくんに呪いをかける以外の方法ってないのかな?」
「呪いをかけるのって、ひょっとして難しい? 呪いがかかるまで時間が年単位でかかるとか?」
「え、いや、まぁその……早めに発動することが出来なくはないけど」
モゴモゴと主は口を詰まらせた。呪術方面が苦手なわけではない。むしろその逆だ。主はそっち方面に才能があった。主が性悪な人間だったのなら、間違いなく凶悪な魔女として名を上げていただろう。が、主は良くも悪くもお人好しな人柄であった。大変勿体無いと、よくお師匠は嘆いていたが。
「ともかく、呪いは最終手段として他の方法も考えてみようよ! 例えばホラ、屋敷から離れてみるとか。セイルくんにその気が無いのだったら時期当主を辞退する! とか」
おぉ。主にしては建設的な意見を出している。珍しいこともあるものだ。
だが、セイルは黙って首を横に振った。
「出来れば僕もそうしたいんだけど──」
突然外から扉が叩かれた。僕らは驚きで同時に体をピクリと震わせる。
誰だろう? 来客の予定はセイル以外には無かったはずなのだが。
主が椅子から離れて玄関へと向かう。その時、セイルがポツリと口を開いた。
「見つかった」
どういうことだろう。と、僕が疑問を持った瞬間、大声が部屋中に響き渡った。
【続】
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使い魔ラースと、その主である魔女リュノ。彼らに舞い込んできた依頼は、「自分を呪ってほしい」というものだった。