―――世界というものは、いつだって実に、残酷だ。
持てる力全てを尽くして、持てる術全てを尽くして、拾い上げて、救い上げて、そこに私の愛する彼はいなかった。
私が『私』を貫けば貫くほどに、『私』であればあるほどに、彼はその身命を削り、捧げ、奪われていた。知った時には既に手遅れで、後の祭りで、これほど滑稽なこともないだろう。
別離の時、背中越しの声はあまりに普通で、普遍で、普段と何一つ変わらない、間違いなく彼で、それがあまりに切なくて、苦しくて、口惜しくて、堪らなかった。
鍛錬を積もうが、知識を蓄えようが、無力で、無知で。何が覇王か。何が奸雄か。
大局。歴史。自らが踏み締めてきた足跡を、誇りこそすれ悔やみなどしない。そう、悔やみなど、しない。
「腹立たしいわね」
見上げた蒼穹は余りに広くて、聞こえる川面は余りに澄んで、そんな当然が、あの日の涙を、二度と流すまいと誓ったあの夜の涙を、薄らげ、流し、すり減らしていく。
この1年で何度、この河原を訪れただろうか。両手の指はとうに過ぎた。両足を足してもまだ足りない。流石に毎日ではないけれど、
『さようなら、愛していたよ、華琳』
愛していた、と彼は言った。それは、二度と
「納得なんて、出来る訳ないじゃない」
諦めるなど出来はしない。この世で唯一愛した男。この世で初めて愛した男。彼が私に刻んだ傷は、彼にしか埋められない。彼が私に抉じ開けた穴は、彼でしか埋められない。
そう、心が欠けている。物足りなくて、不愉快で、その癖、他の何かで補うなど以ての外で、実に性質が悪い、病にも似た何か。
失恋という言葉がある。『恋』を『失』うと書くが、
「ふふっ」
今の私にはお似合いなのかもしれない。自惚れでなく、愛し合っていた。なのに今、彼はここにいない。恋する相手を失ったのだから、言い得て妙だ。
鼓膜に刻まれ、何度だって思い出せる言葉。初めて、真っ直ぐに向けてくれた、明確な本心。何度も他の娘に手を出してばかりで(まぁ性格からして無理矢理ではないし、私がけしかけたこともあったけれど)、いつだってのらりくらりと躱してばかりだった。忙しさと天邪鬼な性格という、私自身の原因もあったけれど、それを差し引いたってもっと私を見てくれてもよかったと思えるのも、今だからこそ、なんだろう。
「皮肉なものね」
『青い鳥』という話を彼から聞いたことがある。後の世で高名な、羅馬方面で生まれる童話なのだそうだ。前から恋しいとは、愛しいとは、思っていたけれど、よもや私が誰かを身を焦がすほどに想うなど、想像すらもしていなかった。
そして、
「その想いすら、奪い去っていくのね」
時間は、世界は、実に残酷だ。良し悪しに関わらず、記憶も、思い出も、何もかも、渓流の底で角ばった小石が丸みを帯びていくように、少しずつ、少しずつ。それが良くもあって、悪くもあるのだから、本当にままならない。
見上げる蒼穹は、やはり変わらない。明けて、暮れて、更けて、また明けて。晴れて、曇って、降って、また晴れて。時には荒れて、積もらせて。彼の祖国には天を人心に例えた歌や言葉が数多くあるというが、
「空、か……」
遠いようで近くて、近いようで遠くて、手を伸ばせば掴めそうで、届くことはなくて、
「まるで、あなたみたいね」
太陽に掲げた掌。仄かに透ける命の赤。虚空を掴むように、ゆっくりと閉じて、
「―――え?」
目を疑った。目の前の事実に驚きを禁じえなかった。
「嘘……」
見上げた先、真昼の天井を両断せんとばかりに、
「嘘じゃ、ないわよね……」
じわじわと滲む蒼穹を堂々と横切るように、
煌々と輝く一筋の流星が、翔けぬけていた。
(続)
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ども、峠崎丈二です。
投稿91作品目になりました。
短いですが『蒼穹』第2部の序章です。
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では、本編をどうぞ。