No.465021

ネルフ新生

2作目の投稿です。プラグスーツの設定が公式と違うかも知れませんが大目に見てください。

2012-08-04 21:59:12 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1226   閲覧ユーザー数:1192

ネルフ、新生

 

「お、来た来た♪」

 第三新東京市直下のジオフロント、ネルフ本部へと続くリフトの機動が確認されると、ネルフ本部長葛城ミサトは、トレードマークの赤いジャケットにかかった長い髪を払い、リフトの映像を発令所のモニターにつなげた。この時間にこのリフトを使うのは、あの二人しかいない。

「やっほーシンちゃん、レイ~。おかえりなさい」

「あ、ミサトさん。ただいま」

「……こんにちは」

 発令所のモニターに映る少年と少女のいつも通りの反応にミサトは笑顔を浮かべた。

「ンフフ、二人ともすっかり夫婦出勤が板についたわね。妬けちゃうわ~」

「な!? そ、そういうこと言うのやめてください!」

「………」

 発令所の巨大なモニターの中で声を荒げるシンジと、うつむいて静かに頬を染めるレイ。二人の対照的な反応に、ミサトは思わず噴き出してしまった。

「ごめんごめん冗談よ。それじゃ、二人に今日のスケジュールを伝達します。シンジ君は本部に到着し次第プラグスーツに着替えて実験棟に行って。リツコが待ってるわ。レイはいつも通り発令所までお願いね」

「分かりました。リツコさんですね」

「了解」

「はい、それじゃよろしくね。モニターはここで切るから、リフトが降りるまでの数分間、二人でたのしんでね~」

「ミサトさん!!」

 鋭く速いシンジの叫びを最後まで聞かずに、ミサトは言葉通りモニターを切った。その顔は、イタズラを成功させた子供そのものだ。

「フフフ、もう~、シンちゃんたら相変わらず可愛い反応してくれるんだから。からかいがいがあるわ~」

「あまりいじめたら可哀想ですよ」

 相好を崩すミサトに、メインオペレーターの伊吹マヤが苦笑混じりに釘を刺した。

「あらマヤちゃん、人聞きが悪いわね。これは愛情よ、あ・い・じょ・う」

「……そう言うことにしておきます」

 上機嫌なミサトの笑顔に気を抜かれ、マヤは一つため息をついて彼女が尊敬する博士とおそろいのマグカップに手を伸ばし、ダージリンで唇を湿らせる。

「それにしても、ここも静かになったわねぇ」

「ええ」

 少し寂しそうに、マヤは発令所の中を見渡した。かつての第10使徒との戦闘で破棄された第一発令所の予備として稼働していたこの第2発令所には現在、マヤとミサト、そしてネルフの頭脳、スーパーコンピューターのMAGIしかいないのだ。眼下に見えるサブオペレーター達の席には白いシートが被せられ、マヤと共にミサトやエヴァパイロットをサポートした日向、青葉の二人の姿は無い。日向はユーロへ転勤、青葉は使徒殲滅後のゴタゴタを解消した後、ネルフから離れ、現在はストリートミュージシャンとして日本を旅して回っている。

 二年前、彼女たちがいる場所は対使徒の最前線だった。全く予想できない使徒の襲来と攻撃を、知恵と科学、そしてエヴァンゲリオンの力を持って阻止、迎撃してきた。そして多大な犠牲を払いながら、人類は最後の使徒を倒すことに成功し、同時にゼーレの人類補完計画を阻止。世界はセカンドインパクト以前の、分相応の平和を手にするに至った。

 だがそれは、ネルフの存在意義の消失を意味していた。

 元々、国連内でも強すぎる権限とを持っていたネルフは、使徒の脅威にさらされていた時から、その権限の縮小を求められてきた。使徒の迎撃にかかる予算は実質青天井で留まるところを知らず、一国が傾くほどの経費がかかっていた。それらは皮肉にも、使徒の襲来に備えるという建前によってまかり通ってきたが、その使徒を殲滅した今、ネルフに与えら得てきた多くの特権の破棄、予算の大幅な縮小は国際的に見れば、当然の処置である。

 そのあおりを受けて、この2年でネルフ本部は大幅な設備の縮小、人員の削減を迫られることになった。多くの仕事をMAGIに任せ、組織を維持するために必要最低限の人員だけが残された。多くの職員は、ネルフでの経験を生かして他の国連組織や戦略自衛隊に引き抜かれ、使徒のいない、新しい人生を歩み出している。

 そして彼女もまた、新しい人生を歩み出した一人。

「すいません、遅くなりました」

 自動ドアが開き、青髪の美しい少女が発令所に足を踏み入れた。だが、二年前のように学校の制服を着たままではない。レイは、マヤと同じデザインの白のスラックスと茶色のジャケット、ネルフ職員の制服を身につけていた。

「学校お疲れ様。どう? 花の高校生活はもう慣れた?」

「はい……碇君がいますから」

 ミサトの質問に、レイは頬を赤らめうつむき加減にぼそりと応えた。その正直すぎる返答に、ミサトとマヤは互いに顔を見合わせ、胸の奥から沸き上がるこそばゆさに頬を掻いた。

「タハハ……言うわねぇレイ。さて、それじゃマヤちゃん。いつも通りお願いね」

「はい。それじゃあレイ、昨日の続きね。ケースA2、石油コンビナートでの大規模火災の発生、それに対するエヴァの運用をシミュレートしましょう」

「はい。お願いします、伊吹一尉」

 レイはかつての日向マコトの席に腰掛け、慣れた手つきでコンソールを操作する。マヤは自分の席に立てかけていたパイプ椅子をレイの隣に開き、愛用のノートパソコンを取り出して愛弟子となった少女のシミュレーションを見守る。

 使徒との戦いを終えた後、レイはエヴァンゲリオン零号機パイロットだった経験を生かして、オペレーターになる道を選んだ。曖昧だった自分の立場を確立するために正式なネルフ職員となり、エヴァパイロットとしての功績によって三尉の階級を与えられた。

 マヤは使徒殲滅後もネルフに残る道を選び、今となっては唯一の第一線級オペレーターとして、組織から重宝される存在となった。今まで日向、青葉と分担して行ってきた仕事を彼女一人で補わなければならなくなってしまい、その重圧に押しつぶされそうな時期があったが今は完全に回復。むしろ、周囲には精神的に成長したように感じられた。その証拠に潔癖症気味だったヒステリックな性格は落ち着きと柔軟性を感じさせる頼もしいものに変化した。昇進して一尉となり、レイの訓練教官として彼女に今まで自分が培ってきた技術を伝えている。

 対使徒迎撃組織、特務機関ネルフは確かに設備の縮小と予算の削減によって全盛時の力を失ったが、現在稼働しているエヴァンゲリオン初号機、封印されているエヴァンゲリオン六号機の監督機関として新生することになった。

 使徒を全て撃退したため、エヴァンゲリオンは実質廃棄されるべきなのだが、新生ネルフ司令碇ゲンドウ、副司令冬月コウゾウ、そして作戦部長葛城ミサト三名が強行に反対。議論は平行線を辿ったが、ネルフ技術部総責任者赤木リツコ博士がエヴァンゲリオン初号機を災害救助、平和活動に運用する『E2計画』を提示。国連がこれを受け入れ、ネルフとエヴァンゲリオンは解体も処分もされることなく、現在の状態に落ち着くことになったのだ。

 災害発生時には、迅速な情報処理と的確な指示が必要になる。マヤやレイのようなオペレーターが今なお必要とされている理由はここにあった。

「……出来ました」

 レイのコンソールを操作する手が止まり、シミュレーションの結果がマヤのノートパソコンに転送される。その瞬間、マヤの表情が弟子を見守る優しげなモノから一変、二年前の使徒との戦い当時のような厳しいモノに変わる。

「あの、どうですか」

 師の沈黙に耐えきれず、レイは不安げな表情で訊ねた。

 マヤは顔を上げ、眉尻を下げる弟子の顔をジッと見つめ、そして――

「うん、良くできてるわ」

 満足の行く結果を出したレイに、満面の笑みを浮かべて見せた。

「!……ありがとうございます」

「お、遂に一発クリアかぁ。やったじゃないレイ」

「ええ、結構難しく作ってるのにすごいですよ。あ、結果をモニターに回しますね」

 ミサトとマヤの反応を見て、レイは照れくさそうに、嬉しそうに頬を染めて深くため込んでいた息を吐いた。

 穏やかな性格とは裏腹に、マヤがレイのために作ったシミュレーターシステムは、開発者のマヤでさえ悩むほど高度な判断を要求される難易度に設定されていた。そのため、訓練を始めたばかりの頃のレイの結果目を当てられないほどさんざんなモノで、そのたびにマヤはレイに率直かつ歯に衣着せぬダメ出しと評価を繰り返していた。短期間でレイをいっぱしのオペレーターに育て上げるための荒療治だが、そのスパルタぶりはマヤを良く知る赤木博士に「ほどほどにね」と心配されるほどだった。

 そんな、厳しい師から初めて誉めて貰えたのだ。レイの喜びはの大きさは、彼女が声にしなくても容易に感じ取ることが出来た。

 マヤの操作により、発令所のモニターにレイのシミュレーションの結果が再生されていく。燃えるタンカー、海に流れ出るオイル、石油貯蔵池のに次々と炎が燃え移り、次々と誘爆が起きていく。

 そんな火炎地獄の中を、一人突き進む紫色の巨人の姿が映しだされた。その巨人はモニターの中で、炎に巻かれた人達を救い出し、瓦礫を破壊して消防車の進路を作り、航空機を誘導して適切な位置に消化剤を散布させていく。

 紫色の巨人とは他でもない、碇シンジが搭乗するエヴァンゲリオン初号機の事だ。モニターの中の初号機の動きは、全てレイの指示・判断によって行われたものだ。モニターの中の初号機を見て葛城ミサト作戦部長は満足げに深く頷いた。

「人命救助の優先、火災の規模を判断して空と地上からの消火活動の提案と実行、その消火作業を円滑に進めるための現場の把握、整理。数ヶ月前とは比べられないほどパーペキじゃないのレイ」

「ええ。いくつか問題点はありますが、全て許容範囲内です。レイ、私が教えたことちゃんと復習してくれてるのね。じゃないと、この結果は出せないモノ。うれしいわ」

「いえ、そんな……」

 マヤはレイにそっと手を伸ばし、満足の行く結果を出した弟子の頭を撫でた。それにレイは一瞬驚いたが、恥ずかしそうにマヤの賞賛を受け入れ、ミサトはそんな二人の姿を優しく見守った。

「あ、そうだ」

 レイの頭から手を離したマヤは、両手をポンと叩いて何かを思いだした。そして、制服のポケットから一枚のディスクを取り出した。

「何それ?」

「先輩が作ったエヴァの新しい装備のデータです。さっき渡されてたのを忘れてました」

「ああ、いま実験棟でシンジ君にテストしてもらってるアレね」

「ええ。大規模火災を想定して作られた装備ですから、このシミュレーションで性能を試せると思うんですが、かまいませんか」

「ええ、お願い。レイ、ちょっと休憩にしましょ」

「はい」

 ミサトの許可を得て、マヤがレイのシミュレーションにリツコのデータを上書きしていく。そのとき、モニターの中から初号機が消え、マヤが全てのプログラムを走らせエンターを押した瞬間、新型装備を身につけた初号機の姿がモニターに映しだされた。

「……なんじゃこりゃ」

 それを見た葛城ミサト一佐の第一声がコレだった。

 

 同時刻 ネルフ実験棟

「何だこれ……」

 制服からプラグスーツに着替え、実験棟に向かったシンジを出迎えたのは彼を呼び出した赤木リツコ博士と、彼女が開発した新装備を身につけた彼の乗機、エヴァンゲリオン初号機だった。実験棟ラボの強化ガラス越しにそれを見たシンジの第一声は奇しくも、彼の元保護者と同じものだった。

「大規模火災、広範囲延焼を想定して開発したUW装備、通称エヴァ水流型よ」

「もう通称がついたんですか?」

「……いま思いついたの」

「そ、そうですか」

 余計な事を聞いてしまった気まずさから逃れるように、シンジは改めて水流型装備の初号機に目を落とした。

 ランドセルを背負っている。

水流型装備の初号機を見て一番最初にシンジが思いついたのは、小学生が背負うランドセルだった。初号機の背中には、ネルフのマークがペイントされた巨大なボンベが取り付けられており、それを固定するための台座を、初号機を挟み込むような形で取り付けられている。たしかに、見ようによっては巨大なランドセルを背負っているように見えなくもない。

 その台座から耐熱パイプが飛び出しており、初号機の両手の甲に取り付けられている銃口のようなものがついたパーツまで、沿うように伸びていた。

「今日は装備の軽い駆動検査だけを行うわ。今後の予定は今日の結果とマヤに渡したデータを見てからね」

「分かりました」

「じゃあ、早速お願いするわ」

 実験棟職員の操作により初号機の延髄からエントリープラグが排出され、操縦席が開かれる。シンジは緊張することも不安がることなく、操縦席までのリフトでエントリープラグまで向かい、操縦席に乗り込んだ。それから数秒もせぬうちにエントリープラグが閉ざされ、LCLの注水が始る。

(なんどやっても、この感覚は好きになれないな)

 LCLが肺まで流れ込み、直接酸素を供給してくれているのが分かる。さすがに慣れたが、いまだにかすかな不快感を感じる。

[シンジ君、準備は良い?]

「はい。いつでもどうぞ」

 リツコからの通信に応え、強化ガラスの向こうから初号機を見守るリツコに、シンジは右手をあげてみせる。リツコの目には、初号機の右腕が上がったように映るはずだ。

[いいシンジ君? さっきも言った通り、今日は装備が問題なく駆動するかだけの軽い検査よ。いつも通りやれば、何も難しいことはないわ]

「はい」

[それじゃ、まずは実際にエヴァ水流型装備に乗ってみて普段との違いは感じる?]

「ええと……普段より重心が後ろにいっている気がします。あと、肩周りが窮屈に感じますね」

[なるほど。タンクの固定具を少しタイトにしすぎたみたいね。もっと柔軟性のある素材を使って固定具を作りなおしてみようかしら。他には?]

「う~ん、そうですね……」

 パイロットからの率直な感想をリツコは要点を纏めてノートにメモしていく。その顔はまさに自分の発明の向上を目指す科学者そのものだ。

「気付いたところはこれくらい……ですね」

[分かったわ。それじゃ、次の作業に移ります。シンジ君、今から初号機の30メートル先にターゲットを表示するから、それをUW装備を使って狙い撃ってみて]

「え、でもどうやってこれを……」

[あ、そういえばまだ使い方の説明をしてなかったわね。エヴァの両手の甲に噴射口があるの分かるわね?] 

「はい」

[それはグローブのようにエヴァの両手に装備されているわ。そのグローブの内側、手の平のあたりに電極が着いていて、両手それを接触させることでボンベから液体を噴射することが出来るわ。直線的な水流から拡散シャワー、ミストの三種類の放水がシンジ君の操作で切り替えることが出来るから憶えていて。ボンベにはいま普通の水を入れてるけど、ボンベを交換することで化学消火剤や特殊液体窒素の放水まで可能になるわ]

「分かりました。とりあえず、やってみます」

 シンジの返事をきいて、リツコはエヴァ初号機の三〇メートル先に、ターゲットアイコンを表示する。それを認識するように初号機の白く不気味に輝く目が一瞬細くなり、両手を前方に伸ばして指先を合わせる。

「発射します」

 リツコのマイクからパイロットの声が響いた瞬間、初号機の両手からものすごい勢いで水が放水、いや放射された。

 発射された水流がターゲットアイコンに直撃し、そこから算出されるデータがリツコのパソコンに次々とくられてくる。そのデータを確かめながら、リツコはマイクを握った。

「良いわよシンジ君、そのまま次は拡散シャワー、ミストと移って頂戴」

[分かりました]

 マイクから帰ってくる聞き分けの良い返事に、リツコ一瞬頬を緩めた。だが、それは本当に一瞬で次の瞬間にはもうパソコンに集中して、送られてくるデータとにらめっこをしている。

「……うん、とりあえずこんなモノね。シンジ君、もういいわ、放水中止。お疲れ様、上がって良いわよ」

[はい]

 初号機の合掌が解かれ、気を付けの態勢がとられると拘束具が取り付けられ、エントリープラグが排出される。それに合わせて、先ほどの実験で床にたまった水が、LCLとともに排水されていった。

 それを横目で眺めつつ、リツコは今日の実験のデータを整理する。実験初日にしては、十分なデータが取れた。あとはこれとマヤに頼んだシミュレーションのデータを比較して、次の段階に移行すればいい。

「やはり兵器の開発ではない分、スムーズに事が運ぶわね。法律や規制がかからないだけでこんなにも楽に実験が進むなんて……」

 こういったことで状況の変化を感じるなんて、ちょっと皮肉ね……。パソコンの電源を落とし、マヤとおそろいのカップにコーヒーを注ぎながら、リツコは自嘲するような笑みを浮かべた。

「リツコさん」

「ああシンジ君、お疲れ様。シャワーは浴びた?」

「はい」

 高校の制服に着替えたシンジが今後の事を話すためにラボに戻ってきた。シャワーの熱で上気したのか、頬が少し赤い。

「2、3日で次のスケジュールを出せると思うから、それまでシンジ君はネルフ内で待機、という事でいいかしら」

「はい。あの……リツコさん?」

「どうしたの?」

「プラグスーツの事でお話が……」

「プラグスーツ? まさか……また?」

 驚き混じりのリツコの言葉に申し訳なさそうにうつむくシンジを見て、リツコは苦笑混じりに嘆息した。

 シンジの身体はいま、声変わり、ひげの伸び、筋骨の発達の最中、まとめて言うと第二次性徴の途中にある。シンジくらいの年齢なら別段おかしくないことで、むしろ喜ぶべき事なのだが、コレがリツコでさえ想定していなかった弊害を生むこととなった。

「今のスーツでも結構キツイです。特に、肩周りとふくらはぎが……」

「そう、じゃあまた作り直さないとね」

 誰も予想しなかった弊害。それは、シンジの身体的成長にプラグスーツが追いついていけなくなってきたのだ。二年前のスーツは言わずもがな、今シンジが着ているスーツは一ヶ月前に新調したばかりだ。その前は二ヶ月、その前は三ヶ月、段々と新調するペースが速くなってきていることに、リツコは人体の神秘を感じずにはいられなかった。

「すいません……その、また」

「あら、シンジ君が謝る事じゃないわ。むしろ、もっと成長して立派な体を作らなきゃダメよ。大人の都合なんて考えなくていいの。いくら予算が削減されたとはいえ、プラグスーツを作り直す余裕ぐらいあるわ」

「あ、ありがとうございます」

「それじゃあ、今日中に発注するから採寸をしておきましょ。前のように壁に背を付けて立ってくれる?」「は、はい」

 リツコは机からメジャーとマジックを取り出すと、壁に背を付けるシンジに歩み寄った。シャンプーの爽やかな香りが、少年の湿った髪から立ちのぼってリツコの鼻孔をくすぐる。それに思わず心臓が高鳴った自分にリツコは戸惑ったが、表情に出すことは彼女のプライドが許さなかった。

「うわぁ、本当にこの年頃の男の子はすごいわね。一ヶ月で5センチ以上背が伸びてるわ。肩幅もこんなに広くなって……」 

「リ、リツコさん! く、くすぐったいです」

「え? ああ、ゴメンなさい」

 メジャーを使ってシンジの身長と肩幅、腕の長さから腰からつま先までの長さを、リツコは慣れた手つきで計測していく。そのたびに、リツコの髪が、指が、吐息がシンジの身体を撫でていき、青臭い羞恥心を刺激する。それが、全身の計測が終わるまで続くのだ。彼くらいの年頃の少年には、たまったものではない。

「はい、コレで終わり。もういいわよ」 

「あ……ありがとうございました」

 最後に足の長さと幅を計られ、シンジはリツコから解放された。ある意味、エヴァに乗るよりも疲労がたまる。

「はぁ……あれ、リツコさんこれなんですか?」

 壁に手をついて、息を整えようとしたとき、シンジはさっきまで自分が立っていた壁に、マジックで何本かの横線が引かれていることに気付いた。その全てに、日付と数値が書き込まれている。

「え? ああそれね。これからなんどもシンジ君の身体を計ることになると思ったから、ちょっとした記録を付けているのよ」

「え! そ、そんな事全然知らなかったです。い、いつからですか?」

「? 二年前からよ」 

 さも当然というふうなリツコを見て、シンジは横線をなぞって一番下の記録を見る。確かに、そこには二年前の日付が刻まれていた。それを見たシンジの身体が硬直し、やがてかすかにふるえだした。

「もしかして……まずかったかしら?」

「そんな!……そんなわけないじゃないですか。僕、僕うれしいです!」

「え?」

 勢いよく振り返ったシンジの目には涙がたまり、その表情はリツコが動揺するほどの感動に満ちあふれていた。

「僕、いままでこんなふうに成長の記録をとってもらったことなくて。ちょっと憧れてたんです、こういう柱の傷、みたいなやつに。本当に嬉しいです、2年も前から僕の成長を記録してもらってたなんて……リツコさん、お母さんみたいだ」

「!!」

 涙を拭いながらシンジが何気なく口にした『お母さん』という一言にリツコは思わず赤面し、そしてぐっと唇を噛んで何かを決意する表情を見せた。

「あ、あのねシンジ君……!」

「は、はい」

 リツコは計測をメモする手を止めてシンジに歩み寄り、今となっては自分よりもわずかに背が高くなった少年と目を合わせる。そして、白衣のポケットに右手を差し込み抜き出そうとして……やめた。代わりに左手で少年の髪を軽く撫でた。

「……リツコさん?」

「………もう、男の子がこれくらいの事で泣いちゃだめよ。さ、お腹空いたでしょ? いっぱい御飯食べて、もっとすごい成長の記録を私に付けさせてちょうだい」

「は、はい…! それじゃ、失礼します。リツコさん、本当にありがとうございます、本当に」

 何度も頭を下げ、シンジはラボを後にした。残されたのは、胸中の決意を言いそびれた女が一人。

「やはりいざとなると……怖くなるものね」

 ポケットから抜き出した右手を見て、リツコは自嘲する。その手の中には、今週末上演されるオペラのチケットが三枚。

 それをクシャクシャに丸め、リツコはゴミ箱に投げ入れようとしたが再びその手を止めた。そして携帯電話を取りだし、指になじんだ番号をプッシュする。

「……ああマヤ? 今夜暇ならちょっと飲みに行かない? ええ、ミサトも一緒に……」

 可愛い後輩からの了解の返事を聞いて、リツコはやっと自嘲以外の微笑みを浮かべた。


 
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