第一章 恋姫・朱然
崖から落ちた――――
朦朧とする意識の中で後に知った家の者達がそう騒いでいた。
体中の激痛と血の匂い、生暖かい赤と赤と赤。
止めどなく流れ出す血の量は、傍から見ても大丈夫とは言えない量だった。
「俺は……」
自身の怪我や痛みとは別に、自分自身の身体に違和感を感じずにはいられなかった。
――――転生、いや憑依したのか?
全身の痛みを堪えながら思う。
青年は乱読家であり、ネット小説の類もある程度のジャンルは網羅していたからこそ考えついた突飛な発想。
だが、それを確認する事は叶わず、失血による一時的な意識の混濁によって気を失った。
それから数日後、青年はやっと意識を取り戻した。
ここは恋姫†無双の世界のようだった。
そう結論付けたのは、自身の名前が施然義封という名であった事。
三国志に出てくる、とある武将の幼少期の名前であった事。
この2つにより、千年以上過去の世界に飛ばされたのかとも予想していたのだが、それにしては明らかに工業と言っても良いほどに精巧な絡繰や女性用下着、現代にあっても遜色無い衣服のデザインなどが市場に出回っていたのだ。
これによって、ただ過去に飛ばされたというよりは、何かしら歴史とは違う事であることを考えた。
限られた行動制限を受ける屋敷を秘密裏に動き回り、少しずつ歴史を知って三国志の数年前ほどの年号であることを突き止め、姓名字という名前に加えて真名という特別な名が在り、水仙というもう一つの名を持っているらしい事が自身の世界の特定に至ったという訳だ。
普通の世界の三国志に真名なんて風習なかったはずだ。
この施家の使用人達の噂話を盗み聴くと、どうやらこの身体の持ち主であった施然は生まれてから表情を表に出さない人形のような性格だったらしい。
なので、飽くまでも騒がれないよう、いきなり性格が豹変したなどという面倒事を起こさないように、人形のようにこれからしばらくは静かに過ごそう思った。
何より、この身体。
施然という名の身体は確かに男である。
だが紫水晶を思わせる瞳、結われた紫色の長い髪、少女と見紛う顔と体付きは、以前の自分の体よりも数年単位で幼く、視点の高さも変わってしまったので慣れが必要だった。
もっとも3日もすれば慣れたのは言うまでもない。
しかし、それよりもまず驚いたのは歳や縮尺の違いは有っても見間違えるはずがなく、Fate/stay nightに登場するライダーのクラスを得て現界した神代の女神にして怪物、メドゥーサの姿に他ならなかったのだから。
それから1週間後、それまで顔すら会わせなかった施然の父親に呼び出された事によって話は動き出す。
「然よ、崖から落ちて傷も癒えぬその身で酷だろうが、母の実妹の朱治に子が無いのは知っているな?」
青年に知る由はないが、ここは従順に淀みなく返事をする。
「はい」
「もう察しているかも知れんが、お前には朱家に養子に行ってもらう。
これはもう決まったことで孫策様が仲立ちしてくれるそうだ。 失礼の無いようにな」
青年――――もとい施然には気遣うような言葉を投げかけておきながら、微塵の興味もないようで何かの書物を読んだまま、投げやり気味に言う父。
「わかりました」
そんな父親らしい人物に感じた侮蔑を抑え込みながら、青年は最初の返事と同じように何の感情も感じさせないような声色でただ返す。
この男は……なるほど、俺を厄介払いする気か……まあいい、その朱家に行ったら普通にしよう。
いい加減、人形の振りは面倒だ。
こうして俺は孫策様の仲立ちで朱家の養子となった。
それからは朱然義封として過ごす事となる。
朱家は建業でもそれなりに有名な家らしく、礼儀作法等が色々と厳しかった。
だが、この世界で必要な事はすぐに覚えていった。
特に文字は本を読む上でかなり大切で必要なので、いの一番最初に覚える。
何故か一度見た文に目を通すだけで記憶できてしまうことに戸惑いを覚えたが、直ぐに頭を切り替え知識の吸収に精を出すことに専念し、それから数年後、有名な家の者達が学ぶ私塾で俺は彼女と出会う事となる。
「貴方、ちょっといいかしら?」
「はい、私に何のご用でしょうか?」
俺が振り向くとそこには孫策様に似た人が居た。
桃色の長い髪、日に焼けた褐色の肌、人を魅了させるような青い瞳のとても美しい
「ッ! 貴方が朱家の者かしら?」
一瞬、何故か彼女は驚いた顔をしたが、何もなかったように朱然へ確認を取る。
この人は多分、容姿と年齢的に孫策様の妹にあたる孫権様だと推測した。
「はい、そうです。 姓は朱、名は然、字は義封と申します。 失礼ですが、貴女は孫権様では?」
直ぐに孫権に対して、朱然は目上の人物に対して取る最大限の礼をする。
「えっ!? ええ、そうよ。 姓は孫、名は権、字は仲謀よ。 よくわかったわね?」
「ええ、過去に一度、孫策様にお会いしたことがありましたので。 その時の孫策様と容姿がよく似ておられたので、すぐにわかりました」
朱然は礼を終えてからも一歩下がるような心持ちで接する。
「そう……」
そんな朱然の言葉と態度に対し、少し俯く孫権。
それを見た朱然は薄々察する。
表情がというか、雰囲気が暗くなった所を見るに、孫策様にコンプレックスの様なものを持っているのか?
「あの、ところで私に何かご用でしょうか?」
義母の朱治が以前は呉に使えていたが、今は袁術によって奪われたために家臣は各地に分散されてしまっている。
朱治は結婚し、義理の息子である朱然を相応の当主とするために現役を退いていた。
そんな元家臣の息子の名前を覚えておく利点は現時点ではあまりない。
だが、ここで声をかけてくるということは――――
「あ、そうだったわ。 雪蓮姉様に貴方の事を聞いたのよ」
「私の事をですか?」
やっぱり、孫策様だよなぁ……。
「ええ、私と同い年で、とても優秀な者がいるから今の内に仲良くなっておけって」
しかも今後の戦力候補として粉かけですか、そうですか。
確かに色々習ってるし、現代知識の応用とかで小遣い稼ぎしてるけどさ。
「そうですか……孫策様がそのような事を……」
朱然は内心で孫策の心の内を予想してみた。
呉の結束は固く、潰えることはないと朱治も朱然に語っている。
だからこそ今後、奪われたままの呉を取り戻す事は悲願であり、大陸の統一が野望なのだ。
その野望に朱然を組み込もうというのだから、それはこの世界で言えば名誉であることだけは朱然となった青年もまた理解していた。
「ええ……」
「「…………」」
特にこれと言って話すことも無くなったために沈黙となる。
というより、朱然の方も孫権の方も共に共通の話題すら知らないため、会話の流れが切れてしまったという方が正しい。
「「あの!」」
「「ッ、…………」」
そして双方、沈黙がいたたまれなくなり同時に口を開く。
が、見事にダブった事によって気まずい沈黙が流れ、どちらともつかずに吹きだした。
「「ぷっ……あはははは!!」」
可笑しかった。
初めて出会ったはずなのに、どちらも息がピッタリで。
ただそれだけの事なのに、笑い出せば腹を抱えてしまいそうになるほどに。
「失礼、気が合うようですね?」
「ええ、貴方とは仲良くなれそう」
そのままたっぷり10分は笑ったところで、目端に浮かんだ涙を払いつつ言う。
「そうだ、私の真名を受け取ってもらえませんか?」
うん、ここまで気が合うんなら……いいかな?
「えっ!? いいの?」
朱然の一般ではあまりない……というよりもほぼ無い、出会ってすぐに真名を預けるという突飛な行動に孫堅はまたしても驚いた。
その辺り、真名などという風習に未だ染まっていないが故の朱然の行動だということを知る者は本人以外は誰も知らない。
「ええ、水仙とお呼びください」
「なら、私も蓮華と呼んで頂戴。 後、真名を預け合ったのだから敬語も要らないわ」
「わかった。 これからは俺も普通の口調で話すよ」
即座に朱然は堅苦しい敬語を崩した。
その変わり身の速さに蓮華は驚かされる。
私、この人――――水仙に驚かされっぱなしだわ……。
「“俺”? 女 ならそんな粗野な口調はやめて、お淑やかにした方が良いわよ水仙?」
孫策が朱然と仲良くなっておきなさい、とだけ言われ、朱然に関しての具体的な話をまるで聞かされていなかった。
「は? 俺は男だけど?」
「えっ?! だって、どう見たって女にしか見えないわよ? 真名だって女らしい水仙なんて言うものだからてっきり……」
「確かに容姿や真名も女っぽいかもしれないけど、れっきとした男だよ?」
何よりも朱然の外見を見れば十人中十人、女性だとそう思うであろう容姿。
それに男女兼用の学塾の制服と女性のハスキーボイスで通るくらいには高い声に敬語によって更なる拍車がかかって、一目見た時から朱然のことを孫権は同性と思い込んでいた。
意外だと言われれば、朱然は思わずムッと不貞腐れる。
「そうして拗ねている所も普通の女の子より女の子らしいわよ?」
そう言って、後ろを向いてまたしても蓮華は笑う。
だが先ほどの笑いとは少し質の違って親しみを感じさせる物だった。
「何なら服でも脱いで確認してみる?」
お返しとばかりに服に手をかけながら言う。
「えっ!? そ、そんなこと」
朱然の衣服の下を想像でもしたのか、蓮華の顔がみるみる赤くなっていく。
仕返し成功、かな。
内心で笑われたことへの意趣返しができたことに細やかな高揚感を感じる。
「冗談だよ。 ちょっと期待した?」
「もう! そこは普通、本気にしたか?と聞く所ではないの? その聞き方だと、わ、私が貴方の裸を見てみたいように聞こえるじゃない!」
根が真面目なのか、必死になって蓮華は否定する。
その姿が朱然にはとても可愛いと思え、また同時に微笑ましく思えた。
それに加えて、更に困らせたいという嗜虐心が心の内壁に湧き上がり、恋華を困り顔を見るため思わず意地の悪い一言を吐く。
「違うの?」
「そ、それは……ちょっと、見てみたいけれど……」
すると頬を染めながら尻窄み気味に蓮華は答える。
「残念でした。 さすがに知り合ってすぐの女の子に裸なんて見せないよ? 蓮華は真面目だねぇ。 少し肩の力を抜くことを覚えた方がいいと思うよ?」
「はあ、水仙はどこか雪蓮姉様に似ている気がするわ……」
そんな他愛のない邂逅をして、朱然と蓮華は友となった。
それから朱然と蓮華は助け合いながら私塾で学び、その一年後、そろそろ黄布党が現れる予兆が出始めていた。
俺は朱家を出て世の中を見て周り、見聞を広めていきたいと思い始めたために朱治にお伺いを立ててみたのだが、この義母――――朱治は長年、子供ができなかった事でかなり過保護であった。
しかも朱然の容姿を見てからは頻繁に女物の服を着せ変えて遊ぶような人だ。
そんな人なので、家では女の格好がデフォルトに……前述で説明した通り、恋姫の世界では何故か女物の服は現代でも存在しそうなデザインの物も多く存在する。
しかも女性が基本的に強いためか、ズボンとかのパンツモノが少ないから、ほぼ常にスカート状態なんだよなぁ。
でもスパッツはあるってどうなんだろう?
ちなみに朱治が朱然にズボンを穿かせない。
もちろん、朱然が朱治にズボンを穿かせて欲しいと頼んだ事もあったが、私を武術で任せた時は認めます、という条件で、必死に朱治と戦うのだが、朱然は未だ勝つことができずにズボンを履けないという状況だ。
この世界で憑依したこの身体は身体能力がとても高く、目に付く武器を広く扱う才を持っていたようで、そんな俺を朱治は徹底的に鍛えてくれた。
元々、朱然は身体を動かすのは好きだったし、鍛練していて何時しか気が使えるようになり、流れを見るという魔眼と呼べるような力と相まって、かなりの腕になっていた。
が、やはりそれでも朱治には勝てない。
話を戻すが、朱治が過保護なので、旅に出るのなんてもっての外です、の一点張りであり、朱然は以前より計画していた家出同然での旅に出る決意をした。
そもそも現代知識の流用による小遣い稼ぎは旅の路銀を稼ぐための物だ。
因みにどんなものかというと、現代のデザインが通用するのならばそのまま服のデザインを考えるだけでデザイン料が入ってくるし、未来に開発されるであろう調味料の開発などを古いやり方で再現し、醤油や味噌などを売り捌く。
これにより、朱家の収入が今までの何倍も増え、その収入の一部は朱然の懐に凄まじい勢いで転がり込んできた。
朱治と義父は大喜び、朱然も旅の資金が貯まって大喜びという一石二鳥。
因みに朱然の義父となった人は実父よりも普通の人で、とても優しい人だった。
そして、ようやく資金に困らなくなった朱然は表向き自分に合った武器を制作してもらうこと、本音では既に傷んできた自身の得物を旅の支度の一環として武器を新調する事だった。
広く浅くという武器の取り扱いをしていたからか、数種類の武器を馬に備え付け、状況によって使い分けるという選択をした朱然は五つの武器を制作する。
一つ目の切れ味は二の次に、ひたすらに頑丈で絶対折れない仕込み短剣を二つほど内蔵させた大剣で刀身より少し短いくらいの長柄と、絶対折れない刀身と同じ材 質の頑丈な長い長い鎖付きの大剣、大牙。
二つ目は大牙と同じ材質で作りながら、頑丈さより切れ味、二つの刃とその刃を畳むことができる双刃の大鎌、天翼。
三つ目の槍は突く事に特化させて貫通力に主点を置いた、管槍のようにスライドする持ち手と刃の部分を西洋の円錐型にして組み合わせた長槍、大渦。
四つ目は鉄の糸を編み込んで、自分の衣服などや馬の簡易的な鋼糸帷子にもできる、一対多と携帯性を目的に数百本単位で作った鋼糸の無影。
最後に番えられる本数と速射、射程距離と高精度という二つの相反する部分を、大小二つの元を貼れるようにして確立させた大弓、大樹。
どれも無茶な注文ではあったが、注ぎ込めるだけの資金を注ぎ込み、きちんと形になった。
武器が完成した次の日の朝。
朱然は蓮華に手紙を書いて蓮華が住んでいる建業の城の衛兵に渡し、まだ幾分か余裕のある自分の金で買った、足は早くないがかなりの重量を載せられるという、とても大きな黒い馬――――名前を麒麟と名づけて跨り、建業の地を後にした。
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青年は偶然にも根源に至り、命を落とした。
次に目覚めた時、青年は別の人生を歩み始める。
青年は次こそ、大事な人を守るために朱然として走り出す。
これは、青年が初めて恋をした恋姫の物語。