それはさほど珍しくはない、小さな地震のようだった。ほとんどの者が気に留めないその揺れに、川神鉄心は息を呑む。
「じじい!」
孫の百代も気づいたのだろう、鉄心のそばに駆け寄って来る。
「恐ろしい気の膨張を感じる……地の底から、何かがせり上がって来るようじゃ」
「ただ事じゃないだろ。こんな事をしている場合じゃないんじゃないか?」
百代の言葉に、鉄心は目を閉じて低くうなった。高まる邪悪な気は、さらに密度を増すようだった。その時である。
「大変です!」
ルー師範代が慌てて走ってきた。
「どうした?」
「捕えられておとなしくなっていた連中が、急に人が変わったように凶暴になったのです! あちこちでまた、パニックが起きてます!」
「むう……念のために住民を避難させておいて、良かったわい」
どう動くべきか、鉄心が思案していた時だ。
「じじい! 川神院の方が!」
「おお!」
百代が示す方角を見ると、その空が禍々しいほどに赤く染まっていたのだ。まるで大火災が起きたかのように、モヤのような気配が立ち昇っている。
「これほどハッキリと見える気配! いかん!」
鉄心はようやく、何が起きているのか理解した。そして同時に、もはや回避する術がないこともわかったのである。
小さな揺れがなおも続いていた。住民が避難している公民館の前で、警備をしている川神一子は不安そうに空を見上げる。
「嫌な空……」
隣の椎名京が、ぽつりと呟いた。
「なんだろう、嫌な感じがする」
「……気持ち悪い」
「えっ? んー、確かになんだか気持ち悪いかも」
そんな話をしていると、百代が空から落ちてきた。
「わっ! お姉さま」
「大急ぎで飛んできた。ワン子、京、街の人たちを連れてすぐに逃げろ!」
「えっ? 何かあったの?」
尋ねる一子に、百代は黙って頷く。そして赤い空を見上げながら、こう続けた。
「じじいが、川神市全域に結界を張る。中にいると閉じ込められるから、すぐに市外へ逃げる必要があるんだ」
「結界? いったいどうして?」
「詳しくは聞いてないが、地獄が現れるらしい」
言いながら、百代は笑った。突き刺さるような邪気すら、どこか楽しげである。
(どうしたんだ……)
自分で自分の気持ちに戸惑った。大和が行方不明になってから、晴れることのなかった心が久しぶりに熱くたぎっている。わくわくする感情を、抑えることができない。
「お前は俺と同じだ」
昔、釈迦堂刑部に言われたことがある。心底、戦うことが好きなのだ。
百代は自分の中の気持ちを振り払うように首を振り、他の避難所にも伝えるためにその場を離れた。
市外の空き地に、川神鉄心の姿はあった。ルー師範代と数名の門下生が、邪魔が入らぬように空き地を取り囲んでいる。
「準備ができました!」
「うむ。ではこれより、川神流最終奥義・神龍封穴を行う」
鉄心が全員を見渡して厳かにそう言うと、ルーがわずかに首を傾げた。
「神龍封穴……初めて聞く技ですネ?」
「龍封穴の最大版みたいなものでの。特定の空間に対して、絶対破ることの出来ない結界を張る技じゃ」
「絶対に?」
「そうじゃ。結界は一度張ると一週間は、入ることも出ることも出来ない。それゆえ、儂であっても最大出力をしなければならない大技なのじゃ。こんな不測の事態でもなければ、使うことなどない技じゃろう」
「それほどまでに、今回の事態は深刻ということネ?」
ルーの言葉に鉄心は頷く。
「おそらく、かつて葛木行者様が封じられた地獄の門を開こうとしておるのじゃろう。釈迦堂が書庫から秘術書を盗んだと知った時、この事態を推測するべきじゃった」
「本当に釈迦堂なのでしょうか?」
「これほどの威圧感は、地獄門の他にはあるまい。そして現在、開聞の儀式が可能な人物は儂以外で思い当たるのはたった一人……」
地獄門の存在自体が、川神院の秘中の秘である。過去に地獄門が開いた事実は、大飢饉などとして歴史に残るのみだ。
「残念ながら地獄門を封じる術は伝えられておらぬ。もしかしたら、秘術書のどこかに書かれているかもしれんがの。それを今すぐ調べることは不可能じゃ。ならばひとまず、他に被害が及ばぬよう、封じてしまうしかあるまい」
「地獄……想像もできないネ」
「魑魅魍魎の巣窟、邪悪な魂の封じられし場所……人の負の感情を増幅し、正常な思考を浸蝕する空気……伝えれているだけでも、おぞましいものばかりじゃよ」
空き地の真ん中に、鉄心は胡坐をかいて座る。
「結界を張るのに1時間ほどかかるじゃろう。それまで一人でも多く、街の外に出すのじゃ」
「わかったネ」
ルーの返答に頷き、鉄心は意識を集中して儀式を開始した。
朦朧とした意識で、京極彦一は目を覚ました。みぞおちの辺りに、わずかな痛みがある。釈迦堂を止めようとした時に受けたものだろう。
「くっ……」
頭を振って、ゆっくりと体を起こす。状況を把握するために、周囲を見渡した。目の前には、真っ暗な穴が開いており、ずるり、ずるりと何かが這うような音が聞こえた。
生き物の直感とでも言うのだろうか。京極は、穴から出て来るものを見てはいけないという気がした。
「何が始まるんだ……」
しかし心の奥に湧き上がる好奇心を止めることができない。穴から出てくるモノの気配が、知的好奇心を刺激するのだ。見てはいけないと思うほど、瞼がゆっくりと開いていく。
「あ……ああ!」
京極は、ソレを見てしまう。おぞましい、この世のものとは思えぬ姿。黒く巨大な芋虫のような、吐き気と嫌悪感を抱かずにはいられない姿だった。
「ああ……」
ぽかんと口を開けた京極は、まるで夢遊病のようにフラフラとソレの後に続いて歩き始めた。心が不安と恐怖に支配され、意識を保ち続けることが難しい。
(アレは何なのだろうか?)
触れてみたい。強い欲求に抗えず、京極は手を伸ばした。ぬめるようなソノ体に触れた瞬間、京極の脳内に膨大な情報が流れ込んで来た。
(これは、地獄門だ! 門という言葉から、あの穴こそがそうなのだと思ったが、地獄門とはこの化け物のことなのだ!)
芋虫のようなソレは、周囲に狂気をまき散らしながら、やがて川神院の大門にたどり着いた。するとソレは、全身から細い糸を吐き出して、繭を作り始めたのである。
(そうか! そうなのか!)
見守る京極の前で、繭がゆっくりと割れてゆく。あの繭こそが、地獄への入口なのだ。
「ああ……あは……はははは…………」
地獄の入口が開き、京極は狂気に飲まれた。
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真剣で私に恋しなさい!を伝奇小説風にしつつ、ハーレムを目指します。
楽しんでもらえれば、幸いです。