薄暗い廊下。壁には一定の距離ごとに複数の絵が掛けられている。見るものが見れば確かな芸術性を感じ取ることができるはずだが、残念ながらこの場にはそんな人物はいなかった。否、そもそもこの美術館には元々人間なんていないのだ。
人でなきものに支配された奇妙な美術館。朝も夜もないこの場所を、突然動き出す首のないマネキンや血の色の瞳をした青い人形、上半身を額縁から乗り出して追いかけてくる女の絵など、さまざまな異形の存在がそこかしこで勝手に動き回っている。いまもほら、すぐそこで「お客様」を彼女らなりにもてなしていた。──ひたすら追いかけ回すという方法で。
茶色の髪の少女が叫ぶ。
「ギャリー、右!」
「え、右!?」
青年は短く問い返した。その表情は限りなく切羽詰っている。それもそのはず、彼らの背後には物言わぬ不気味な美術品達が群をなして追ってきているのだから。しかも青年は両脇に二人の子どもを抱えながら全力で逃げていた。他に手がなかったとはいえ、体力の消耗が著しく激しい。このままでは幾分もなく捕まってしまうかもしれない。
「そっちに扉があったよ!」
最初に叫んだ少女とは別のもうひとりの少女がある方向を指し示す。金の髪に青い瞳、目の覚めるような美少女だ。
「そこまで逃げればきっと大丈夫だよ!」
「……カギ、開いてるんでしょうね!?」
「知らないよそんなの!」
青年の問いに、少女がやけっぱち気味に答える。その間にも確実に距離が縮められている。青年は決断した。
「いちかばちか、行くわよ!」
「「うん!」」
少女達は異口同音に声を返した。青年は最後の力を振り絞って走る速度を上げた。距離がみるみるうちに一気に広がる。角を曲がり、紫色の扉が視界に入った。
「えいっ!」
気合いと共に扉を蹴り開ける。部屋に飛び込むやいなや、急いで後ろ手に扉を閉めた。青年に続き、彼の腕から飛び降りた二人の少女もすぐさま扉に両手をつく。三人は扉に背を寄せたまま、無言で耳をそばだてた。近づいてきた無数の足音。しかし扉を開けることもなく、そのまま遠ざかる。完全に聞こえなくなってからも、しばらく誰も口を利かなかった。
「……もう大丈夫かな?」
「……たぶん」
「……助かったわ」
はあと誰からともなく大きなため息が出る。三人はほっとした表情となった。
「いまのはちょっと危なかったわね。さすがに二人抱えるのは無理があったわ……」
青年──ギャリーは脱力したようにずるずると扉に寄りかかり座り込んだ。彼の年齢は二十代といったところで、顔の半分がウェーブのかかった長い前髪に覆われて見えていない。そのうえファッションかどうか微妙なラインのぼろぼろのコートを身に纏っているせいか、どこか怪しげな雰囲気を漂わせている。だが柔和な表情がそれらを打ち消し、女性のような口調と相まって親しみやすく見えた。
「あー、面白かった!」
腰に届きそうなほど豊かな金の髪、緑色のクラシックなデザインのワンピースを着た美少女──メアリーは興奮気味に言った。彼女はついさっきギャリーたちと出会ったばかりだったのだが、突然起きた逃亡劇のせいか、見ず知らずの者に対する警戒心がすっかりなくなってしまったようだ。
「お、面白い!?」
ギャリーはひくっと口をひきつらせる。
「わたし、あんなの初めて! ねえギャリー、もう一回やって、もう一回!!」
メアリーは期待に満ちた眼差しでギャリーをきらきらとみつめる。ギャリーは慌てて両手を振った。
「む、無理よ無理ムリ! あんなの何回もやったらアタシ倒れちゃうわよ!」
「ええー、つまんなーい!」
メアリーはぷうと頬をふくらませた。ギャリーは頭に手を当てて、疲れた声音で言い聞かせる。
「あのねぇ、メアリー。面白いとかつまらないとかいう問題じゃないのよ? 遊びじゃないんだから、もしアイツらに捕まったらどうするの」
「どうなるの?」
きょとんと聞き返してくるメアリー。ギャリーは思わず言葉に詰まった。
「……どうなるのかしらね」
「ギャリーも知らないんだ」
なあんだとメアリーは侮るように笑った。言い聞かせるはずが逆に言い負かされてしまい、ギャリーはがくっと肩を落とす。そんな彼を心配そうに覗き込む人物がいた。
「ギャリー。大丈夫?」
年齢、メアリーと同じく十になるかならないかというくらいの少女。白いブラウスに赤のリボンタイ。膝丈のプリーツスカートもリボンと同じ赤で、落ち着いた雰囲気の彼女によく似合っている。彼女──イヴ、メアリー、そしてギャリーの三人はこの不思議な美術館の中で出会った。彼らはワイズ・ゲルテナの作品が闊歩する異空間から脱出すべく行動を共にしている最中だ。イヴは扉にもたれたままのギャリーの前に座り、申し訳なさそうに小さな身体をさらに縮こめる。
「ごめんなさい。わたし、重かったでしょう」
思いがけない言葉にギャリーは上擦った声で否定した。
「そんなことないわよ! アタシだって一応男なんだから、イヴの一人や二人どうってことないわ!」
「本当?」
「そうだよ! ギャリーが勝手に運んだんだよ、ギャリーが疲れたってわたしとイヴのせいじゃないもん!」
ちゃっかり自分も含めるメアリーだが、表情は必死そのものだ。イヴを気遣う気持ちは本物のようだ。
「そうそう、メアリーの言う通りよ。あれが一番いい方法だったんだから、アンタは気にしなくていいの。──だけど、心配してくれて嬉しいわ。ありがとね、イヴ」
ギャリーはよしよしとイヴの頭を撫でた。イヴは嬉しそうに目を細める。その顔を見て、ギャリーも自然と笑みを深くした。刹那、唐突に金の輝きが視界を走る。
「わたしも!」
「へっ?」
「わたしもするの!」
メアリーはイヴに抱きつきながら叫んだ。なぜか彼女はきっとギャリーを睨みつけている。何事かわからず、ギャリーは訝しげに言った。
「アンタも撫でてほしいの?」
「違うよ! わたしもイヴを撫でるの!」
「ええっ!?」
イヴは目を白黒させた。かまわず、メアリーは実に楽しそうに彼女の頭を撫で始める。強引ともいえるメアリーの所業にイヴはされるがままだ。嫌がっているのかと思いきや、照れくさそうに微笑んでいる。実は喜んでいるようだ。心和む光景に、ギャリーはぷっと吹き出した。
「アンタ達、面白いわね。全然退屈しないわ」
すると、メアリーは不敵な光を瞳に宿らせる。
「これが終わったら、次はギャリーがもう一回だよ」
「え」
「一人や二人、どうってことないんだよね?」
口は災いの元。身を持って知ったギャリーは、乾いた笑いを発した。
「それじゃあ、そろそろ進みましょうか」
ギャリー達は休んでいた部屋をそっと出た。慎重に歩を進めてきたが、怪しげなものが現れる気配はない。
「よかった、アイツらいなくなったみたいね」
「そっかぁ……」
ほっと胸を撫で下ろすギャリーとは対照的にメアリーは残念そうだ。これは「もう一回」をさっきと同じ状況に陥ったらという条件付けでなんとか許してもらったせいだ。できれば二度もない方がいいのだが、彼女はあきらかにそれを期待しているらしい。困ったものだとギャリーは息を吐いた。
「ギャリー」
ちょいちょいと、ギャリーのコートが引っ張られる。
「ん? なあに、イヴ」
「あれ、さっきの絵かな?」
イヴは壁に掛けられたとある絵を指さした。視線を巡らせ、ギャリーもその絵を確認する。月夜を背景に薄紅色の花を咲かせた樹の絵画。メアリーがあっと短く声を上げる。
「さっきのおいしそうな絵だ!」
メアリーは以前この絵の前を通りがかった時、「食べられるの?」と発言してギャリーをおののかせた。彼女は独特の感性の持ち主のようだ。
「……だからね、花は食べるものじゃないの。愛でるものよ」
「めでる?」
メアリーは不思議そうに瞳を瞬かせる。難しかったかとギャリーは苦笑した。イヴもメアリーと同様に疑問の表情を浮かべる。
「めでるってなあに?」
「そうねえ……」
ギャリーはわずかの間思案すると、子ども達に優しく微笑んだ。
「好きなものや素敵なものを見ると心が嬉しくなるでしょう? そういうのを『綺麗だね』って褒めたり、可愛がったりすることかしら」
「へえー、そうなんだ」
メアリーは感心したように目を大きく見開き、直後にイヴの方を満面の笑みで見やる。
「ねえイヴ! わたし、『めでる』していい?」
「え? う、うん。いいよ」
「やったあ! イヴ可愛い、イヴ大好き!」
メアリーはがばっとイヴに抱きついた。お返しとばかりにイヴも「ありがとう。メアリーも可愛いよ」とはにかんだ笑顔で言う。ちょっと違うと思いながらもギャリーは二人のほのぼのとした様子を黙って見守っていた。
だが、
「…………あら?」
「どうしたの、ギャリー」
「ううん、なんかいま風が吹いたような気が……」
ギャリーは前方を見た。暗がりの消失点にはなにもないけれど、たしかに風がそよいでいる。コートがなびき、頬に感じる緩やかな空気の流れ。そして、気づく。風に乗ってピンク色の花びらがいくつも舞っている様子に。
「もしかして、あの絵から吹いてるのかしら?」
「そうみたい」
どうやらさきほどの花の絵──絵の下のプレートによると『月夜に散る儚き想い』というタイトルだ──が出元のようだ。三人は絵の前で立ち止まった。
「やっぱりこれきれい! イヴもそう思うよね?」
メアリーはイヴにと笑いかけた。しかしイヴはどこか浮かない顔だ。
「でも、なんだか……もやもやする」
「もやもや?」
メアリーが聞くと、イヴはうんと頷いた。
「見てると悲しいような、胸がきゅうってなって、変な気持ちになるの。なんでだろう」
戸惑っている様子のイヴにギャリーが話しかけようとした、その時。──予期せぬ変化が訪れた。
ごうと音を立てて突如強くなる風。突然襲ってきた嵐に三人はなすすべもなく固まった。数え切れぬ花びらが舞い散り目も開けていられない。やがて風が収まり、目を開けると驚くべき事態が起きていた。
「……え、ここ」
最初に目に入ったのは紫色のドア。見覚えのあるそれにメアリーが驚きの声を上げる。
「ここってさっき休んでた部屋の前?」
「そのようね。どうやら振り出しに戻されちゃったみたいだわ」
ギャリーはしみじみと言った。これまでの経験からこの場所では何が起こるかわからないと思い知っていたはずなのに、まだまだ理解が足りないようだ。
「とりあえず、またさっきの絵のところまで行ってみましょう」
「うん」
「はーい」
三人は再び『月夜に散る儚き想い』の元まで戻ってきた。絵は相変わらず何事もなかったかのように花びらをはらはら散らせている。
「さて、どうしようかしらね」
「またさっきと同じことが起きるのかな?」
イヴの疑問に、ギャリーはうーんと首を捻る。
「──たぶん、ね」
確証はないけれどきっとそうだろう。そして仮説を確かめるには実際にやってみればいい。
「もう一度、絵の前に立ってみましょうか」
ほどなくして風が強まり、気がつけばまたしてもさっきの扉の前にいた。あ、やっぱり。
「困ったわねえ」
ギャリーは頬に片手を当てて大きくため息をついた。続いてイヴも思案げに目を伏せる。
「あの絵を通り過ぎないと、先に行けないよね……?」
通ってきた廊下は一本道だ。どうしたってあそこを突破しなければ先に進めない。
すると、
「いいこと思いついた!」
突然メアリーが大声で言った。
「気づかれちゃまずいんだよね、だからあの絵の下を通ればいいんだよ!」
どうだ参ったかと言わんばかりに胸を誇らしげに張るメアリー。しかし発案されたアイディアに、ギャリーは一瞬言葉を失う。なんと言ったものかと考え、結局出たのは、
「……とりあえずやってみましょうか」
──失敗した。
この後、しばらく空しい試みが続けられる。
「反対の壁際にくっついて歩いたらどうかな?」
──失敗した。
「コートを囮にしてみるとか?」
──失敗した。
「ギャリーを囮に……」
「ちょっと、それさっきやって失敗したでしょ! 大体なんで嬉しそうに言うのよメアリー!」
──失敗した。
「こうなったら強行突破よ! イヴ、メアリー、走るわよ!」
「「うん!」」
──大失敗した。
どすんと床に叩きつけられた。場所はやはり扉の前。ギャリーは痛む身体をさすりながら立ち上がった。
「あいたた……。力押しは反動もでかいってことね……。二人とも大丈夫?」
大人の自分ですらある程度ダメージをくらったのだ。幼い二人のことが心配になり、ギャリーは慌てて辺りを見回した。すると、
「イヴ、しっかりしてイヴっ!」
メアリーの焦った声が響き渡る。ギャリーはただちにメアリー、そして倒れているイヴの元に駆け寄った。
「イヴ!」
大声で名前を呼ぶも、彼女は苦しげに息を吐くだけでなにも答えない。顔色が恐ろしく悪い。みるからに危険な状態だとわかる。
「まさか……。イヴ、ちょっとごめんなさい」
ギャリーは一言断ってから彼女のスカートのポケットをまさぐった。予想通り、花弁が一枚しかない赤いバラをみつける。バラは自分たちの命そのもの。つまりイヴの命はいまにも消えかけているということだ。
「どうにかして花瓶にこの子のバラを活けないと……」
ギャリーはイヴを抱きかかえながら呟いた。記憶にある限り、花瓶は例の絵の奥にあったはずだ。だがこの状態のイヴを連れて突破することは不可能だろう。ギャリーは唇を噛みしめる。しかし思いもがけない提案が飛び出した。
「わかった、花瓶持ってくる!」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ちなさいメアリー!」
制止の声は届かず、メアリーはあっという間に走り去った。しかも絵とは逆の方向へ。
「あの子ったら一体何考えてるの、もう!」
追いかけようにもイヴを置いては行けず、ギャリーは待つことしかできなかった。しばらくして、「あったよー!」と笑顔でメアリーが戻ってきた。両手に細い花瓶を抱えて。
「早くイヴのバラ挿して!」
「アンタ、これどっから持ってきたの?」
「いいでしょ別に! それより早く!」
「わ、わかったわ」
メアリーの剣幕に押されるようにギャリーは花瓶に赤いバラを挿した。バラはみるみるうちに成長して花弁を取り戻す。ほどなく、イヴが目を覚ました。
「……ギャリー。……メアリー?」
「イヴ!」
「イヴ! よかったぁ……!」
起き上がったイヴの首すじにメアリーが抱きつく。血色も戻り元気そうな様子を見て、ギャリーも胸を撫で下ろす。
「アンタ、風に吹き飛ばされて倒れちゃったのよ。どこか痛むところない?」
「ううん、ない。……心配かけてごめんなさい」
ぺこりと済まなさそうに頭を下げるイヴに、ギャリーはゆっくりと首を振った。
「アタシこそ守れなくてごめんね、イヴ。それとメアリーにはお礼を言ってあげてね。この子が花瓶を持ってきてくれたからアンタは助かったのよ」
イヴは頷き、自分にしがみついている少女と視線を合わせる。花のように綻んだ笑顔がメアリーに向けられた。
「ありがとう、メアリー」
一瞬、メアリーの動きが止まった。まるで予想もしてなかったかのような驚きを見せ、直後に泣き笑いのような表情に変わる。
「……いいよ。イヴが元気なら、いい」
話が落ち着いたのを見て取り、ギャリーはメアリーに話しかけた。
「それはそうと、メアリー。アンタは大丈夫なの、バラ」
メアリーはことんと小首を傾げた。
「バラ? ……バラ、全然へーきだよ」
なんでそんなこと聞くのと言うような表情に、ギャリーは力無く笑う。人の話も聞かずに飛び出して無事花瓶を持ち帰るような子には愚問であったようだ。しかし釘を差しておくことは必要だろう。ギャリーは彼女を窘める。
「メアリー。今回は助かったけど、もうさっきみたいに一人で突っ走っちゃ駄目よ。何が起きるかわからないんだから」
「はーい!」
返事はいいが、返事だけかもしれない。そんなことを思いつつ、ギャリーは話題を変えた。
「それにしてもあの絵、いいかげん腹が立ってきたわね」
次なる方策を脳裏に巡らせるが、これといったアイディアは浮かばない。もはや打つ手無しと言わんばかりに苦々しく呟いた。
「……こうなったら燃やしてやろうかしら」
最終手段だとギャリーはコートの中からライターを取り出した。できれば使いたくない手だが、このままでは埒があかない。すると、
「「ダメっ!!」」
ステレオで叫ばれた。
「ここで火を使うなんてダメだよ、危ないよ! ギャリー大人なのに知らないの!?」
メアリーは言葉だけでは足りないと両の拳をギャリーに叩きつけてきた。子どもとはいえ、手加減知らずの攻撃はかなり痛い。
「わかった、わかったからやめてちょうだいメアリー!」
ギャリーはたまらず降参した。元々そこまで本気では……あったが、乱暴な手段であることは自覚していた。いずれそれしかない場合には躊躇なく実行する覚悟もあるが、いまはまだそこまで切羽詰まってはいないのも事実だ。もちろんそれらを子ども達に負わせる気はない。ギャリーはもう一人の少女へと向きなおった。
「イヴ。アンタもメアリーと同じ理由?」
イヴはびくっと肩を震わせ、所在無さげに視線を彷徨わせる。怯えた表情となって口にするのは、
「えっと、……ごめんなさい」
そして少女は沈黙を選ぶ。
──いけない。
ギャリーは彼女に歩み寄ると、静かに跪いた。
「どうして謝るの?」
「だって、……ううん、なんでもないの」
「こーら。なんでもないって顔じゃないでしょう」
ぷにぷにの頬を両手で挟む。ううっと漏れる声。かすかに抗議の色が浮かぶ瞳に、もう一押しとばかりにギャリーはたたみかける。
「あのね、イヴ。そういう控えめなところはアンタの長所だけれど欠点でもあるわ。気持ちってね、言葉にしないと相手に伝わらないのよ。わかるかしら」
「……わかる」
「アタシはイヴがなにを考えてるのか知りたいわ。だから言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってちょうだい。いい?」
イヴは少し逡巡を見せたものの、やがてこくんと頷いて話し始めた。
「やめて、ギャリー。そんなことしたらあの絵がかわいそうだよ」
ギャリーはぽかんと口を開けてしまった。
「……かわいそう?」
うん、とイヴは続ける。
「あんなにきれいな絵なのに燃やすなんてひどいよ。そんなこと、絶対しないで」
純粋すぎる懇願の表情。そこには打算も何もなく、相手を思いやる気持ちのみが瞳に表れている。ギャリーは一拍置き、イヴをぎゅっと抱きしめた。
「アンタは本当にいい子ね、イヴ」
「ギャリー?」
ギャリーにとってみれば、如何に綺麗だろうとあの絵も襲い掛かってくる他の美術品と同一のものとしか思っていなかった。けれどイヴは違う。彼女はあきらかにあの絵に対して同情的だ。ふとギャリーはある考えに思い至った。
「イヴ。アンタ、もしかして他の美術品もできれば傷つけたくないって思ってる?」
案の定、彼女はこっくりと頷いた。
「追いかけられるのは怖いけど、でも、みんなが怖いことしてくるわけじゃなかったよ。仲良くできるなら仲良くしたい。……駄目かな」
イヴは心細げな表情でギャリーを見上げた。ギャリーは笑って首を振る。
「ぜんぜん駄目じゃないわ。素敵な考え方よ」
「本当?」
「ええ。わかったわ、もうちょっと頑張りましょう。探せば他の道があるかもしれないものね」
「ありがとう、ギャリー」
二人でにっこりと微笑み合う。すると、いままで話に語ってこなかった彼女が小声で言った。
「イヴは優しいね」
声に促されて二人はメアリーを見た。彼女の顔からは起伏の激しかった感情がすっかり消え失せていた。つくりものめいた真っ青な硝子玉に空虚な眼差しが浮かぶ。
「……うん、決めた。──わたし、イヴにする」
なにか重大な決断をしたかのような口振り。ギャリーが訝しげに「メアリー?」と呼ぶと、一転、彼女はキッときつい目つきでギャリーを睨みつける。
「ギャリー、いつまでイヴに抱きついてるの!? 離れてよ!」
「なっ!」
ギャリーは絶句した。思わず両手をぱっと離してイヴを解き放つ。数秒口をぱくぱくと開けた後に、反論を無理矢理絞り出した。
「ななななに言ってるのアンタ! アタシは抱きついてるんじゃなくて、抱きしめてるのよ!」
「おんなじじゃない!」
「ぜんっぜん違うわよ! いい、これは親愛の情でおかしな意味じゃないの、人を変質者みたいに言わないでちょうだい!!」
ギャリーが必死の形相でニュアンスの違いを釈明するも、メアリーはもう興味がないとばかりにイヴに抱きつき「ギャリーこわーい」とケラケラ笑っている。さきほどの危うい雰囲気はかけらも残っていない。結局さっきの発言はイヴを独り占めしたいだの、大方そういうことなのだろう。なにより子ども相手では本気で怒ることもできない。ギャリーは嘆息すると、表情を改めた。
「さて、次はどうしようかしらね。別の場所でも探索してみましょうか?」
途端、メアリーが「えー」と不満を露わにする。
「行けるところはもう全部行ったよー?」
「アンタ、さっき花瓶持ってきたでしょ。とりあえずそこまで案内してちょうだい。隠し扉があるかもしれないわ。隅々まで探してみま……」
「待って」
はっきりと澄んだ声が話を遮る。イヴは真剣な面持ちで他の二人を見つめた。
「──わたし、やってみたいことがあるの」
イヴは絵から3人分ほど離れた距離に立った。それはぎりぎりの位置で、一歩踏み出そうものならたちまち風が吹き荒れることだろう。口を真一文字に結び、覚悟を秘めた眼差しで前を見る。眼前にあるは自分達を足止めしてきた花木の絵画。彼女の背後に立っていたギャリーが、ふと片眉を上げた。
「ねえ。あの絵、花が減ってるように見えない?」
「……ほんとだ」
満面に画面を彩っていた薄紅色の花は散り、ところどころの隙間に夜空が透けて見える。
「自分で自分を散らしてるってこと? ……何考えてるのかしら」
「うん、だから……それを確かめたいの」
イヴはしっかりとした口調で語った。隣にいたメアリーが顔を曇らせる。できればやめさせたいという思いが顔中にはっきりと表れていた。それはギャリーも同じであったので、本人に気づかれないように小さく息を吐く。
『あの絵と話がしたいの』
驚くべきイヴの提案に、残る二人は一斉に反対の声を上げた。
『無理よ! 危険すぎるわ。第一、話が通じる相手だと思うの!?』
『やめてイヴ! あんな絵なんかどうなったっていいよ! ギャリー、燃やそう! 燃やしちゃえ!!』
それこそメアリーは前言すら翻す勢いで猛烈に止めた。けれどもイヴの決意は揺るがなかった。
『ギャリー、メアリー。心配してくれてありがとう。だけど、わたしはあの絵と話したい。話して、どうして悲しんでるのかを知りたいの』
『……悲しい?』
ギャリーが鸚鵡返しに問うと、イヴは静かな表情で語った。
『わたし、ずっと考えてたの。どうしてあの絵を見た時、胸が痛くなったのか。何回も吹き飛ばされてる内に、わかった気がした。たぶん、あの風は──悲鳴なんだと思う』
『悲鳴、って』
『泣いているの、きっと。でも、わたしの気のせいかもしれないし、その通りかもしれない。だから確かめたいの。それでもし、本当になにか悲しんでいる理由があるのなら助けたい。だって、あんなにきれいな絵なんだもの。ほおっておくなんてできないよ』
イヴはどうにかわかってもらおうと、懸命に一言一言、言葉を紡ぐ。ある予感を感じたギャリーは諦めの混じった声音で言った。
『人間の言葉が理解できるとは限らないのよ?』
『言葉にしないと伝わらないって言ったのはギャリーでしょ?』
言質を取られ、ギャリーは息を呑む。やはり流れを変えることはできそうもない。
『……わかったわ、イヴ』
『ギャリー!?』
メアリーが非難の声を上げる。ギャリーは彼女に軽く手を上げて黙らせると、イヴに向かって厳しい口調で告げた。
『アンタのしたいように思う存分やってみなさい。だけど、本当に危なくなったら……アタシはあの絵を燃やすわ。それだけは覚えておいてね』
ギャリーの妥協案にメアリーとイヴは双方折れた。そしてこれからイヴの挑戦が始まる。彼女と手を繋いでいるのがメアリーで、二人を支えるようにギャリーが背後に立つ。万が一また風が吹いても、これならとっさにでも彼女達を抱きかかえられるからだ。イヴは深呼吸をすると、緊張した面持ちで喋りだした。
「お花の絵さん、こんにちは。はじめまして、わたしはイヴといいます。よかったら少しお話しませんか?」
変化はすぐに表れた。いままで一定の距離に近寄らないと感じられなかった風が音を立てて吹き始めたのだ。
「聞こえてるみたい」
「そうね、歓迎はされてないようだけど」
警戒の色を帯びた風が脇を通り過ぎていく。しかしイヴは怯まず呼びかける。
「お願いです。どうかわたしの話を聞いてください。あなたは、どうしてそんなに……悲しそうなの?」
ごうと風がうなりを上げる。吹き飛ばされそうな勢いの中、三人は固く身を寄せ合った。
「ったくもう、聞く耳持たないってこと!? マジで燃やすわよ!」
「ギャリー!」
「わかってる!」
ギャリーは膝をつくと、イヴとメアリーを胸の内に抱え込んだ。これでまだしばらくは持つだろう。これ以上風が強くならなければの話だが。数え切れぬほどの薄紅の花びらが宙を舞う。絵を見やると、もはや花は一部しか残っていなかった。
「一体なにがしたいのかしら。このままじゃ花が全部散っちゃうじゃない」
「──『散りたくない』って言ってる」
ぽつりとメアリーが呟いた。
「え?」
「『散りたくない。ずっと咲いていたい』……そう言ってる」
「アンタ、あの絵の言葉がわかるの!?」
ギャリーが仰天して尋ねると、メアリーは「そんな気がするだけ」と答えた。そんな気がする『だけ』でも普通はありえないのだが、そもそもここはありえないことがオンパレードの場所なのだ。絵が喋ることもそれが理解できることも、今更たいしたことではないのかもしれない。
「『散りたくない』って言いながら自分で花を散らしてるってこと? ますます訳わかんないわね……」
「わかってないんじゃないかな、たぶん」
メアリーは冷めた目つきで言った。
「ただ泣いてるだけだもん。花が全部散ればきっと泣きやむよ。泣く理由がなくなるから」
「そんな……」
イヴは蒼醒めた顔を辛そうに歪める。
「そんなの、かわいそうだよ!」
叫び、彼女はギャリーの腕からするりと抜け出した。
「イヴ!?」
イヴは絵に向かって走り出した。向かい風が小さな身体を容赦なく襲う。
「馬鹿っ! なんで前に出るの!」
「イヴ、待って!」
慌ててギャリーはメアリーと共にイヴを追った。彼女の倒れた姿などもう二度と見たくない。追いつくと、飛ばされそうになっていた身体をひっしとメアリーごと抱きしめる。
「ギャリー、メアリー、ごめんなさい……」
我に返ったのか、イヴははっとした様子で謝った。だがこうなってしまっては仕方がない。ギャリーは彼女に向かって力強く頷いた。
「いいから。言いたいことがあるんでしょう? 全部言っちゃいなさい!」
「──うん!」
イヴは再び絵に向かって声を張り上げた。
「お願い、泣き止んで! 泣いたら、あなたはあなたじゃなくなるの!」
「──『散りたくない咲いていたい。咲いていなければ、わたしは忘れられてしまう』……だって」
「忘れられて……わかった、あの絵はやっぱり桜なんだわ!」
ギャリーは得心した顔で言った。桜はとある島国で愛されている花。春に咲き、1週間ほどで散ってしまう短命の花だったはずだ。否、花が散るだけで樹が枯れるわけではない。けれど人々は花が咲いている間しかその存在を認識しない。──たしかにそこにあるのに、忘れてしまうのだ。
忘れられることを恐れた花は、散ることに恐怖を覚えた。それが皮肉にも自身の命を縮めるとも理解できずに。
「なんてこと……」
背中を戦慄が走り抜ける。ギャリーはようやく理解した真相の惨さに言葉を失った。直後、イヴが悲鳴のように甲高い声で叫んだ。
「忘れないよ!」
彼女は絵の悲しみが伝染したかのように涙を滲ませ、両手を前に伸ばす。
「わたし、あなたのこと忘れない! 絶対、なにがあっても忘れないから、なにがなんでも忘れないから、だから、」
──もう泣かないで。
少女の慰めが合図であったかのように唐突に風が収まった。圧迫感が一気になくなったせいで、3人は思わずよろめく。体勢を立て直すやいなや、イヴが走りだした。ギャリーとメアリーも後に続く。ようやく到着した絵を前にして、メアリーが口を開く。
「……散っちゃったね」
額縁の中から薄紅色が完全に消えていた。
「……わたし、なにもできなかった」
イヴは悄然とした様子で肩を落とす。ギャリーは彼女の頭にぽんと手を置くと、
「アンタは悪くないわよ、イヴ。ううん、誰が悪いってことじゃないのよ。世の中にはね、時々頑張ってもどうしようもないってことがあるの」
誰かのせいにした方が楽な場合もあるが、イヴは聡い子だ。話を都合良く誤魔化しても納得しないだろう。そう考えたギャリーは、あえて突き放す言い方を選んだ。
「アンタはこの絵を助けられなかった。それは事実だわ」
みるみるうちに涙目になるイヴ。ここで終わらせたなら彼女は立ち直れないだろうが、もちろんそんなつもりはない。ギャリーは彼女に「でもね」と優しく微笑みかける。
「もしアタシがこの絵の立場だったら、イヴが『忘れない』って言ってくれて嬉しかったと思うわ。忘れられるのは誰だって辛いし、寂しいものね」
たとえたったひとりでも覚えていてくれたなら。しかもそれがイヴならば、それだけで自分は十分幸せだろう。だからきっと、この絵も救われたはずだとギャリーは思う。
直後、ギャリーは腹に衝撃を受けた。まったく予期していなかっただけに思わずぐえっと唸ってしまう。
「……やだ」
その正体はものすごい勢いで抱きついてきたイヴで、彼女は縋るような眼差しでギャリーを見上げる。
「イ、イヴ?」
「ギャリーがこの絵みたいになったらやだ! お願い、いなくならないで!」
少女はぎゅうっとあらんかぎりの力で青年にしがみつく。コートを掴んだ手は小刻みに震えていた。ギャリーは一瞬きょとんとなったものの、すぐに破顔して彼女の不安を笑い飛ばす。
「あはは、やあねえ、イヴってば。心配しなくても大丈夫よ、あくまで例え話なんだから。頑張って一緒に外へ出ましょう、イヴ」
「うん、絶対だよ?」
「……わたしは?」
蚊帳の外に置かれていた格好のメアリーがぼそりと突っ込んだ。ギャリーははたっと気づき、慌てて言い直す。
「も、もちろん三人揃ってよ、決まってるじゃない!」
「ふーん」
声が硬い。さげすみの混じった青い半眼に、ギャリーはだらだらと冷や汗を流した。だが、
「もちろんメアリーも一緒だよ」
イヴが笑いかけると、メアリーはいままでの不機嫌が嘘のように「うん!」と笑顔で応じた。わかりやすい好意の差にギャリーは苦笑いするしかない。
「じゃあそろそろ出発しましょうか」
ギャリーが先に進み、彼の後ろをイヴが追いかけていく。
しかしメアリーはその場に残った。遠ざかる二人を見やり、彼らが絵の詳細を見れない距離まで行ったことを確認してからあの絵に向きなおる。ポケットから何かを取り出すと、ためらわず腕を大きく2回振り下ろす。
「──バーカ。いい気味」
メアリーは笑った。それはとても満足そうな、残酷な子どもの笑み。
わたしは泣くことしかできなかったアンタとは違うの。
優しいイヴと一緒に“外”へ出るんだから。
「メアリー?」
名を呼ばれ、メアリーは振り向いた。
心配してだろう、こちらに戻ってこようとしていた二人の元へと一気に追いつく。
「ごめんね、ぼーっとしてた」
「もう、いなかったから焦っちゃったわよ」
「置いてってごめんね。メアリー、怖くなかった?」
「ぜんぜん! へーきだよ!」
三人は他愛ない会話を交わしながら前へと進んでいった。後に残されたのは、真っ赤なクレヨンで大きくバツ印を落書きされた絵がひとつ。下に飾られたプレートにはこう記されていた。
『──月夜に散った愚か者の末路』
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もしこの絵にギミックが仕掛けられていたら……という、ゲーム中の隙間を埋める妄想話です。Ibを知らない方でも楽しめるように、知っている方にはさらに楽しんでいただけるようなお話を目指しました。メイン三人の遣り取りを書くのがめちゃめちゃ楽しかったです。ネタバレを多分に含んでおりますのでご承知のうえでお読みください。お気に召して頂ければ幸いです。