No.440221

根津君の誕生日話

たけとりさん

▼根津ネロ、ラット→アルセーヌのつもり。間に合わないにも程がある!の、まさかの一週間遅れです。根津ネロを書いたら石流さんが落ちてくるってお告げがあったので(って何でですかー)。▼1シーン追加して加筆修正したのをSHT新刊「恋焦がれて見た夢」に収録しました。通販取扱中です。詳細はhttp://homepage3.nifty.com/taketori/ のいんふぉめページをご参照下さい。

2012-06-22 00:03:01 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:1808   閲覧ユーザー数:1806

 ーーお母さん?

 

 長い廊下に、彼は独りで立っていた。

 声に出して呼ぶが、それに応える姿も返事もない。

 仕方なく彼は廊下を独りで進み、突き当たりにある木製の扉に手をかけた。

 両手で開けると、部屋の中央には長方形のテーブルと四つの椅子があった。だがどれも空席で、自分にあてがわれた子供用の小さな椅子の前にだけ、オムライスとハンバーグ、そして茹でた人参とブロッコリーが載ったプレートがある。

 

 ーーお母さん?

 

 彼は声に出して呼んだ。

 しかし、そこにも彼が求める姿はない。

 彼以外の気配はなく、部屋は静まり返っていて、彼はテーブルへと歩み寄った。

 プレートは既に冷めており、料理の横には、見慣れた文面がプリントアウトされた紙が置かれている。

 彼は右手を降り挙げると、プレートを横に薙ぎ払った。

 黄色と赤、茶と緑、そして白の食器がゆっくりと宙に舞う。

 

 ーーお母さん!

 

 彼はもう一度、声に出して呼んだ。

 だが自分の声が響くだけで、再び無音に戻る。

 彼は自分の椅子を両手で掴むと、頭上へと振り上げ、テーブルに叩きつけた。

 

 

 そして言葉にならない自分の呻き声で、彼は目を覚ました。

 

 

********

 

 

 欠伸をかみ殺しながら根津次郎が食堂へと足を踏み入れると、女生徒が談笑する声が耳に入った。

 そちらへ目を向けると、入り口から遠く離れた奥の方で、コック姿の石流漱石がテーブルに敷かれた白い布を新しいものへと取り替えている。そして彼から少し距離を取って、雛が親鳥の後をついて歩くように、数人の女生徒がまとわりついていた。

 彼の仕事を邪魔しないよう、けれど気を引こうとするかのように話しかけている。

 しかし石流は無表情に短く相づちを返すだけで、淡々と自分の仕事を続けていた。会話するというよりは黙々と話を聞いているだけのような風情だったが、それでも彼女たちは嬉々とした様子で石流の後をついて歩き、その一挙一動を見つめている。

 その一団の中に見知ったクラスメイトの姿を二人見つけ、根津は眉を顰めた。石流のような唐変木を相手にして何が楽しいのか分からないが、女子の集団を相手にするのが面倒なのは、根津もミルキィホームズ達を相手にしてよく分かっている。

 根津は彼女たちに気付かれないようそっと足音を忍ばせると、食事時に自分へとあてがわれたテーブルへと足を進めた。

 自分の椅子を静かに引き、腰を下ろす。そして手にした通学鞄をテーブルの上に載せてその上に両腕を置き、枕代わりにして顔を伏せた。

 窓辺から離れてはいるものの、天井近くまで広がった大きなガラス窓からは暖かな陽射しが降り注ぎ、予想通りに心地よい。

 うつらうつらと微睡んでいると、歩幅の大きな足音が微かに耳に入った。そしてそれを追う複数の軽い足音と、女生徒の談笑が徐々に大きくなってくる。

 それらは彼の正面でぴたりと止まった。

「ここは寝る場所じゃない」

 石流の溜め息混じりの声が、頭上から投げかけられた。

「仮眠したいなら寮へ戻ったらどうだ」

 呆れた口調の石流の周囲から、好奇心が入り交じった視線と覗き込むような気配を感じる。

「いいじゃん、別に」

 根津は瞼を開くと、伏せた顔を小さく持ち上げた。円形のテーブルの先に、石流のコック服と、両手に持っていると覚しき白い布の固まりが目に入った。

「夕食までには帰るからさ、ちょっとだけ貸してくれよ」

 欠伸をかみ殺していると、クラスメイト達の気遣う声が耳に入った。

「なに、根津くん眠いの?」

「もうすぐ夕方だよー?」

 目を上げると、二人とも石流の両脇で心配げに見下ろしている。面倒くさいと思いながらも、根津はゆっくりと上半身を起こした。

「昨日遅かったせいもあるけど、さっきの授業がスゲー眠くてさぁ」

 そう言って大きく伸びをすると、石流が眉を顰めた。

「化学か?」

 どういうわけか、彼は根津の時間割まで把握しているらしい。

「だって知ってる事しかやらねーんだもん」

 根津は持ち上げた右手で口元を隠しながら、大きく欠伸をした。

 昨夜は怪盗帝国として超ヨコハマ美術館で暴れていたが、その時自作爆弾の改良案を思い付き、結局徹夜でいじっていた。その結果、午前中はなんとか持ちこたえたものの午後から急激な睡魔に襲われ、だが寮まで戻る気力もなく、静かそうな食堂へ移ってきたのだが、まさか石流目当ての女生徒達がたむろしているとは思いもしなかった。

「根津君、化学の成績すっごく良いもんね」

 赤縁眼鏡を掛けたクラスメイトは、感心したような口調で頷いている。

「でも、夜更かしなんていけないんだー」

 女生徒に「ねぇ、石流さん」と同意を求められ、石流は僅かに眉を寄せて「そうだな」と短く返した。

「一時間たったら起こしてやる」

 石流は軽く息を吐き出すと、手にした白い布を二つ差し出した。

「鞄よりもこれを使え」

「サンキュー」

 根津は片手で布を受け取ると、もう片手で鞄を床に置いた。そして布をさらに折りたたみ、高さを調節する。

「どうせこの後洗濯するからな。汚れても問題ない」

 そう呟く声が耳にはいるが、根津はお構いなしにその上に腕を載せ、顔を伏せた。鞄よりも遙かに心地よい感触に、目を閉じる。

「あと、お前に訊きたいことがある」

「ん、なに?」

 思い出したかのように問い掛けてくる石流に、根津は腕の上に顎を載せた。そして寝ぼけ眼で彼を見上げる。

「お前の好きな料理は何だ?」

「はぁ?」

 唐突な内容に、根津は目をこすりながら小首を傾げた。

「うむ、来月の献立を考えているんだが、妙案が思い浮かばなくてな。参考までに訊いておきたい」

「えー、なんで根津君なの?」

「私達にも聞いてくださいよぅ」

 石流の周囲にいる女生徒達は不満げに唇を尖らせているが、石流は彼女たちを冷ややかに見渡すと、深く息を吐いた。

「お前達の好きなものは既に把握している」

 だから参考にはならないと、淡々と言い放った。

 おそらくそういう話題が出た事があるのだろう。だが、他愛のない会話をちゃんと覚えられている事が嬉しいのか、女生徒達は不満を口にしながらも笑みを浮かべている。

「旨けりゃ、別になんでもいいよ」

 根津は小さく息を吐き出すと、そう返した。

「具体的にはないのか?」

「食べられれば別に何でもいいし」

 頭をかきながら、眉を軽く寄せる。だが眠気もあって、特に思い浮かぶものはなかった。

「家にいた頃はどうしてたんだ。例えば、お前の母親がよく作っていた料理とか」

 石流にしては珍しく食い下がってくる。

 だが「母親」という単語と、周囲の女生徒の無邪気な表情が、眠気で浮ついた根津の心に冷水を浴びせ掛けた。そして水底からぼこぼこと気泡が沸き上がるように、鬱陶しさと苛立ちが徐々に募ってくる。

「ねぇよ、そんなもん」

 根津は小さく舌打ちした。

「母さんも父さんもずっと家に居なかったし、物心ついた頃からいつも一人だったし」

 半ば投げやりに言い放ち、「そもそも母さんが料理できるかどうかも知らねぇよ」と一気に吐き出すと、女生徒達は押し黙った。

「そうか」

 石流はいつもの口調で短く返したが、女生徒達は目をしばたたかせている。

 その表情で我に返った根津は、気まずさに目を伏せた。

 何か気の利いた言葉で取り繕えばいいのだろうが、何も思いつかない。助けを求めるように、根津は話の矛先を石流に向けた。

「えっと、石流さんは何かあんの?お母さんの思い出の料理みたいなの」

「あぁ」

 やや上擦った根津の声音に、石流は淡々と言葉を続けた。

「私の母は壊滅的に料理が下手でな」

 だから自分が作れるようになるまでは祖母や父が作っていたと、彼は目を細めた。

「だが、母は父が作るロールキャベツが大好きで、それだけはまともに作れたんだ」

「へぇ」

 変なの、と根津が率直な感想を漏らすと、石流は苦笑を浮かべている。

「あぁ、変わった人だったと息子の私でも思うよ」

「じゃぁ、石流さんが家を出ちゃって、お母さん大変なんじゃないですか?」

「そうだな……」

 横から口を挟んだクラスメイトに、石流は僅かに眉を広げ、微笑をこぼした。その表情で女生徒達の重苦しい雰囲気が一転し、浮かれたような軽やかなものへと変わっていく。

 だが、根津は微かな違和感を覚え、軽く片眉を寄せた。

 それが何かは分からないが、妙に頭の片隅に引っかかる。

 根津は、上目で石流を見やった。

 彼は細い目をさらに細め、彼にしては珍しく、優しげな眼差しで頷いている。

 違和感の正体を見定めようとしたが、再び睡魔が頭をもたげてきて、根津は大きな欠伸をした。途端、何もかもが面倒になり、どうでもよくなってくる。

「そのロールキャベツって、トマトソースですか?それともホワイトソース?」

「いや、しょうゆ出汁の和風テイストだ」

 女生徒の問いに淡々と答える石流に、根津は口を挟んだ。

「じゃぁ、俺はそれでいいよ」

 枕代わりに積んだ布を両腕で押さえながら、根津は石流を見上げた。

「そういうことで、よろしく」

 そして再び両腕の上に顔を埋めた。目を閉じるが、立ち去る気配はない。

「もういい?」

 顔を伏せたまま半ば投げやりに尋ねると、石流は静かな口調で返した。

「あぁ。邪魔したな」

 そして足音静かに離れていく。

「じゃぁね、根津君」

 大股で立ち去る石流を追い縋るように、クラスメイト達の足音と声が徐々に遠ざかっていく。

「あたしのお母さんはコロッケが得意だったよ。ウチのコロッケは中身が肉じゃがなの」

「ほう」

 女生徒の言葉に、石流が興味深げな反応を返した。

「今度帰省したら聞いておくから、石流さんにもレシピ教えてあげよっか?」

「そうだな」

 他愛のない無邪気な言葉が、根津の胸をちくりと刺した。とうの昔に蓋をして沈めた筈のものが浮かび上がってきそうになり、根津はそれを押し戻すように強く瞼を閉じた。

 寮へ戻っていく生徒達の歓声が、遠くから小さく響いている。

 根津の髪を撫でる柔らかな陽射しはアンリエットの掌にも似ていて、やがて根津の意識はゆっくりと沈んでいった。

 

****************

 

 放課後、根津が空になったゴミ箱片手に独りで廊下を歩いていると、背後から二十里海がするりと寄ってきた。

「君さぁ、最近休み時間によく居眠りしてないかい?」

 二十里は先程の美術授業では黒パンツ一枚という霰もない姿だったが、今は素肌に鮮やかな黄緑色のジャケットを羽織り、直接ネクタイを結ぶといういつもの格好に戻っている。

「授業はちゃんと真面目に受けてるじゃん」

 根津は、横に並んで僅かに眉を寄せる二十里に唇を尖らせた。

「あっちの活動が夜遅すぎて、君の負担になってるんじゃないかって心配してるのさ」

「んなわけねーだろ。子供扱いするなってーの!」

 大袈裟に肩をすくめてみせる二十里に、根津は声を荒らげた。

「ちょっと手持ちの一部を改良しててさ」

 周囲に他人の姿がないことを確認しつつ、声を潜める。

「前に使った弾幕用の奴、もうちょっと小型にしてみようと思って」

 そう囁く根津に、二十里は軽く眉を広げた。

「そういう努力は美しいけど、君の表向きの本分は学業なんだから気をつけたまへっ」

「へーい」

 早口で教師らしい言葉を紡ぐ二十里に根津が軽口で返すと、二十里は小さく肩をすくめた。

「あぁ、あと石流君が困ってたよぉ?」

「なんで?」

 唐突な二十里の言葉に、根津は小さく首を傾げた。

「君は食事に興味がないのかい?」

 顔を覗き込むように首を傾げる二十里に、根津は数日前の食堂での会話を思い出し、顔をしかめた。

「アイツの作る飯は何でも旨いし、別に……」

「ふむ。じゃぁ、また食べてみたい料理とか無いのかい?」

「そんな、急に言われても……」

 根津は教室へと向かいながら、視線を足下へと落とした。

 食堂では生徒達とではなく二十里と一緒のテーブルに割り振られているが、待遇は決して悪くない。上の上がアンリエットとかつてのミルキィホームズ達だとしたら、根津は上の中といったところだろう。

 今は芋一個という待遇に堕ちたミルキィホームズをからかいつつ食事をするのは、彼にしてみれば楽しい部類だった。少なくとも独りで食べていた頃よりは遥かに良いと思っている自分に気付き、根津はさらに眉をしかめた。

「大体、何でそんな事訊くんだよ?」

「単なる好奇心ってところかな」

 軽く息を吐き出して根津が二十里へ尋ねると、彼はさらりと返した。

「ちなみにボクの最近のお気に入りは、ビーフストロガノフさっ。勿論トマトの入っていないホワイトソース!」

「へいへい」

「ヨコハマにも美味しいお店があるから、今度連れていってあげよう」

「もちろん奢りだよな?」

 軽口とともに根津は隣の二十里へと顔を上げると、彼はウィンクを返した。

「そりゃまぁ、子供が独りで行くようなお店じゃないからね」

「だから子供扱いするなって言ってるだろ!」

 そう舌打ちして、根津は不意に足を止めた。

 二十里の「子供が独りで行くようなお店じゃない」という言葉で、脳裏に蘇った光景がある。

「どうしたんだい?」

「あった」

「何が?」

「……ラーメン」

「ん?」

 二十里も足を止め、目を瞬かせて根津を見下ろしている。

「ほら、由比の紫陽花冠だっけ?それを盗んだ後、皆で屋台のラーメン食べに行っただろ」

「あったねぇ、そんな事」

 根津の言葉に、二十里は懐かしそうに目を細めた。

 怪盗帝国を結成したばかりで、まだ学院に潜入していなかった頃のことだ。

 美術館へ侵入する準備の為に夕食を食べ損ねていたラットは、盗みを終わらせた後盛大に腹の虫を鳴かせた。ストーンリバーとトゥエンティは呆れていたが、アルセーヌは小さく笑って、帰り道にたまたま見つけたラーメン屋の屋台へ寄る事を提案してくれたのだ。

 トゥエンティは美容に悪いからとおでんの大根しか注文しなかったが、半分に切り分けてラットへと譲ってくれた。ストーンリバーも自分が注文したおでんを取り皿に分けてくれたし、アルセーヌは「育ち盛りなんですからもっとお食べなさい」と、自分の分のチャーシューをラットの醤油ラーメンへと載せてくれた。

「あれはちょっと楽しかったかな?俺、屋台って初めてだったし」

 怪盗になって真夜中独りで出歩いていても、屋台の赤提灯は近寄り難いものだった。だから、ファミレスではなく屋台に誘われた事は、アルセーヌ達に大人だと認められたような気がして少し嬉しかったのだ。

「またアンリエット様と行きたいな」

 皆と、というのはなんだか気恥ずかしくて、根津は「アンリエット様と」という部分を強調した。

 手にしたゴミ箱を弄びながら笑みをこぼす根津に、二十里は唇の両端を小さく持ち上げている。

「屋台と言えば、もうすぐ学院の近くの神社で祭りがあるね」

 再び足を進める根津の横に並んで歩きながら、二十里は彼を横目で伺った。

「折角だし、君もクラスの子達と一緒にお祭りとか行ってみたらどうだい?」

「はぁ?なんで俺が探偵見習いの連中と慣れ合わなきゃなんねーんだよ」

 二十里の提案に唇を尖らせると、根津は軽く眉を寄せた。

「譲崎なんかと行ったら、絶対屋台の喰いモン強請ってくるじゃんか。シャーロックはちょろちょろ動いてすぐはぐれそうだし、エルキュールは口よりも目で訴えてくるタイプだからやりづらいし、コーデリアは年上ぶって「あれもダメ、これもダメ」ってストーンリバーみたいに口うるさそうだしさぁ。面倒すぎるだろ」

 一気にそう吐き出と、根津は隣の二十里を睨め付けた。

 だが、二十里は大きく目をしばたたかせている。

「何だよ?」

「いや、別に」

 歩きながら訝しげに振り返る根津に、二十里は曖昧な笑みを浮かべた。

 やがて自教室に辿り着くと、根津は後方の扉を片手で開けた。教室の中には他の生徒の姿はなく、譲崎ネロしか残っていなかった。彼女は最後尾にある自分の席に座り、がたがたと椅子を揺らして日誌を睨みつけている。

「遅いぞ根津、日直の仕事はまだ残ってんだぞ!」

 扉が開く音に、ネロは頬を膨らませて顔を上げた。そして根津の背後に立つ二十里の姿に気付くと、「げっ」と顔をしかめている。

「分かってるってば。そう言うお前は俺がゴミ捨てに行ってる間に日誌書き終わったんだろうな?」

 だがその言葉に、ネロは露骨に視線をそらせ、口ごもった。

「おい、なんだその間は」

「半分は終わったよ、ウン」

「ちょ、意味ワカンねぇ!」

 根津は足早に教室に入ると、ゴミ箱を教室の隅に放り出し、机の上に広げられた日誌を手に取った。

「半分どころか全然終わってねぇじゃねーか!」

「だって、ボク文章書くの苦手だしぃ」

 日直の感想欄以外は終わらせたと胸を張るネロに、根津は頭を抱えている。

「二十里先生がいる間に終わらせるぞ!」

 ネロの席の前にある自分の椅子を引くと、根津は後ろ向きに腰掛けた。そしてネロが手にしているシャープペンシルを奪い、開いた日誌へ走らせていく。

「何言ってるんだい、鍵と一緒に職員室までちゃんと届けたまへっ」

 二十里は小さく肩をすくめると、慌てる二人に背を向けた。

「先に言っておくけど、「特になし」は不可だからね」

「げ、ちょっと待ってよ!」

「待ってって言ってるだろー!」

 背後で、根津とネロの声が重なった。

 しかし二十里はそれを無視し、足取り軽やかに職員室へと足を向ける。

 数歩足を進め、彼は肩越しに教室を振り返った。

「僕は、クラスの男子ってつもりで口にしたんだけどね……?」

 だがその囁きは、口論を始めた二人の声に一瞬でかき消された。

 

 

**********

 

 

 自分が挙げた声で、根津は両目を見開いた。

 眼前にあるのは見慣れた寮の天井で、あの夢の場所ではない。

「うわ、久々にすげーイヤな夢、見た……」

 根津は大きく息を吐き出すと、仰向けになったまま枕元へ手を伸ばした。目覚まし時計を掴んで眼前に翳すと、タイマーをセットした時間より少し早い。

 二度寝しようかと一瞬だけ迷ったが、瞼を閉じるとあの夢の続きが始まりそうで、根津はゆっくりと上半身を起こした。

「なんで、今更……」

 完全に目が冴えてしまい、勉強机へと顔を向ける。卓上カレンダーで今日の日付を確認しすると、根津は肩を落とした。

 あれは、かつて繰り返された日常だった。

 そして自分が捨てた家でもある。

 根津は大きく舌打ちすると、布団を蹴飛ばした。

 

 

 

 根津が教室に入ると、既に大勢の生徒が自分の席に着いていた。その中にはミルキィホームズ達の姿もあり、自分の背後にある席に並んで腰を下ろしている。

「あれ、お前等が俺より早いなんて珍しいじゃん」

 根津は目を丸くしながら、自分の席へ歩み寄った。

「今日は台風でも来るんじゃねーの?」

 軽口を叩きながら彼女たちへ目を向けると、ネロがむっとしたように唇を尖らせている。

「そんな意地悪を言う奴にはやらねーぞっ」

「は、何をだよ?」

 根津は自分の席に鞄を載せ、ミルキィホームズへ体を向けると、エリーが隣のネロの袖を引っ張った。

「ほら、ネロ……」

「そうよ、早く出しなさいよ」

 コーデリアも小声で促している。

「はやくはやくー」

「分かってるよッ」

 シャロに催促され、ネロは机の中から小さな紙袋を取り出した。淡い水玉模様のそれは掌に収まる程の小さなもので、ネロはそれを指先で掴むと、そのまま根津へと突き出した。

「やりたくないけど、ほれ、やる」

 僅かに視線をそらせたその頬は、少しだけ赤い。

「お、おう」

 いつもとは異なる表情を見せるネロに少しばかり動揺しながら、根津は素直に片手を出した。

 ネロはその掌に紙袋をそっと置くと、さっと手を引っ込め、自分の背後へと回す。根津が指先で紙袋を掴むと、茶葉を掴んだような感触と共に、がさがさと乾いた音がした。重みはなく、かなり軽い。

「何、これ?」

 そう尋ねると、シャロが両腕を頭上へ広げた。

「根津君、誕生日おめでとですー!」

 突如繰り出されたシャロの大きな声に、根津は目をしばたたかせた。

 周囲のクラスメイト達も、何事かと視線を送ってくる。

「な、なんで、俺に?」

 予想外の出来事に、根津は狼狽えた。

「友達の誕生日はお祝いするものじゃないですかー」

 根津の言葉に、シャロは屈託のない笑みを浮かべている。

「それに、キノコを焼く時に火をつけてくれるし?」

 そう頷いたのはコーデリアだ。

「七味……貸してくれましたから……」

 胸元で両手を合わせて、エリーは恥ずかしそうに目を伏せた。

「それにお前、他に友達いなさそうだし」

 あっけらかんと答えたのはネロだ。

「大きなお世話だっつーの!」

 根津は赤面しながら、ネロを睨み付けた。ネロも根津を睨み返し、あかんべーと舌を出している。

 ぐぬぬと唇を噛んで、根津はシャロ達の方へ顔を向けた。

「これ、今開けてもいいのか?」

「どうぞどうぞ」

 うきうきとしたシャロの言葉に、根津は紙袋の封を開いた。中身を取り出すと、透明な袋に小振りな黄色と白の花が詰まっている。

「何これ?」

「カモミールのポプリです……」

 根津の問いに、エリーがもじもじと答えた。

「お前、先月は休み時間も席で寝てばっかだっただろ」

 エリーの言葉に続けるように、ネロが口を開いた。

「それで夜ちゃんと寝られてないんじゃないかってネロが心ぱ……」

「ちょっとコーデリア!」

 ネロはコーデリアのわき腹を肘で小突き、その言葉を慌てて遮った。

「それで、ポプリを枕元に置いておけばよく眠れるってエリーが言うからさぁ」

 そわそわと視線をさまよわせながら、ネロが呟いた。

「石流さんがハーブティー用に育てているのを分けて貰ったんですよー」

 シャロがにこにこと説明を続けている。その言葉を受けて、エリーも口を開いた。

「皆で……作りました……」

「フーン」

 彼女らの説明に耳を傾け、根津が透明な袋を鼻元へと寄せると、ほんのりと甘い香りが漏れてくる。

「ま、サンキューな」

 根津は、彼女達から視線をそらせつつも素直に礼を口にすると、ネロは頬を朱に染まらせながら唇を尖らせ、そっぽを向いた。

「もっと有り難そうに言えよッ」

「はいはい、ありーがーとーうー?」

 意趣返しと言わんばかりに、根津はいつぞやのネロの口調を真似する。

「むきー、やっぱ根津なんかに誕生日プレゼント渡すんじゃなかった!」

 ネロは頬を膨らませて根津を睨み上げると、根津を指さした。

「でも僕の誕生日は三倍返しな!」

「どこのバレンタインだよ、そりゃ」

「僕の国ではそういうコトになってるんですぅ」

「さらっと嘘つくなよッ」

 ぎゃーぎゃーと口論を始める二人に、エリーはおろおろと狼狽えた。コーデリアはネロをなだめようとし、シャロは二人の間へと割って入っていく。

 だが、二人の口喧嘩は二十里が教室に入ってくるまで続いた。

 

 

*************

 

 

 

 僅かに潮の香りを含んだ夜風が吹き抜け、アルセーヌのマントを大きくはためかせた。

 眼下には、街灯やビルの灯り、そして色とりどりの看板で煌めくヨコハマ市街が広がっている。

 営業時間を過ぎたヨコハマタワーの展望室は闇に沈んでいた。その頂上付近に潜む彼ら以外の気配はない。

「今日も楽勝だったなー!」

 追撃してくる警察とミルキィホームズを振り切り、ラットは大きく伸びをした。その隣でストーンリバーは口元を僅かに緩め、トゥエンティは鼻歌交じりにくるくると回っている。

 アルセーヌは三者三様な彼らに小さく笑みをこぼすと、手にした宝物を胸元へ仕舞った。

「では、学院に戻りましょうか」

「はっ」

 アルセーヌの言葉に、ストーンリバーが頭を垂れる。

「でもその前に」

 アルセーヌはくるりと振り返ると、両腕を腰の後ろへと回した。

「ちょっと小腹が空きません?」

「はい?」

 小首を傾げるアルセーヌを真似るように、トゥエンティ小さく首を傾げ、目を瞬かせた。

「最近、市内から学院へと入る道の手前に屋台が出てますわよね」

「えぇ、見かけますね」

 アルセーヌの言葉に、ストーンリバーが小さく頷く。

 ヨコハマ市内からグランドヨコハマ渓谷へと続く道の途中にホームズ探偵学院があるが、その道へ入る市街地の外れに赤提灯を下げた屋台が出ているのを、ラットも時々見かけていた。

 トゥエンティが用意したグライダーで空路から学園へ戻っていると、その赤い光は街灯の白い光しか点在しない闇の中でよく目立っている。

「気になるので、ちょっと寄っていきません?」

 アルセーヌは楽しそうに微笑を浮かべると、ラットへと目を向けた。

「どうですか?」

「え?お、俺は別にいいけど……」

 ラットは腹の空き具合を確認するように、片手でヘソ辺りを触った。

 夕食は学院で済ませてはいるが、食べられないことはない。

 アルセーヌがこうして皆を外食に誘う事など滅多になく、もしかして、とラットが顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべるアルセーヌと目が合った。

 今日が自分の誕生日で、一ヶ月程前にトゥエンティに話した事がアルセーヌに伝わってしまったのではと思うと、顔が熱くなってくる。

 ラットは慌ててアルセーヌから視線をそらせた。

 それでも気になり、心臓をばくばくさせてアルセーヌの顔を盗み見ると、アルセーヌはラットの横にいるトゥエンティとストーンリバーへ目を向けている。

「貴方達はどうです?」

「美しいアルセーヌ様となら何処とでも!」

 トゥエンティはそう叫ぶと、上着をはだけさせた。それを横目で睨み、ストーンリバーは小さく息を吐いている。

「持ち合わせは用意してありますので、問題ありません」

「では決まりですね」

 二人の言葉に頷くと、アルセーヌはくるりと背を向け、タワーから飛び降りた。

 スリーカードもその後へと続いていく。

 ビル街を屋根づたいに駆け抜け、住宅街へと進んだ。

 やがて地上に降り立った時には、彼らは怪盗の姿から学院での服装に一転していた。二十里は素肌に鮮やかな黄緑色のジャケットを羽織り、石流は用務員時の碧のタートルネック姿だったが、アンリエットと根津は制服を身につけている。

「消灯時間が過ぎての外出になりますが、宜しいので?」

 生真面目な石流の言葉に、アンリエットは小さく笑った。

「それはミルキィホームズも同様ですし、私たちは別の公用で外出していた事にしましょう」

 あとで書類でも偽装しておきましょうか、と白い街灯が点在する暗い夜道を進んでいく。

 やがてその先に、赤い提灯が見えてきた。「らぁめん」と筆で書かれた長い暖簾の先に、四本足の椅子が四つ見える。

 近寄ると、他の客の姿はなかった。石流が率先して暖簾をくぐると、長袖の白シャツに黒エプロン姿の男に声を掛けた。

「主、まだやってるか」

「ええ、大丈夫ですよ」

 屋台の店主にしては若い顔立ちの男だったが、石流が片手で持ち上げた暖簾の下から現れたアンリエットと根津を見て、少しばかり目を丸くした。どうしてこんな時間に子供が、と言いたげな表情を浮かべたが、すぐに愛想の良い笑みへと変わる。そしてお冷やを四つ用意すると、テーブルの上に並べた。

 石流は暖簾から手を離すと、屋台の足場に掛けられた四つ足の椅子を引き出した。そしてアンリエットと根津を促すと、アンリエットはそれに腰を下ろし、屋台の天井付近に掲げられたメニューを見上げた。

「何にします?」

 店主の陽気な声音に、アンリエットは小さく頷いた。

「では、醤油ラーメンを」

「じゃぁ俺も同じで」

 アンリエットの隣に腰掛け、根津も同様に注文する。

 根津の隣に腰掛けた石流は、おでんのはんぺんとジャガイモ、厚揚げ、大根、そして牛筋を注文した。

「んー、ボクはどうしようかな」

 二十里は一番左端の椅子に腰を下ろし、屋台の台に肘をついてメニューを見渡している。

「ワインはないのかい?」

「すいやせん、置いてないんですよぉ」

 店主が申し訳なさそうに苦笑すると、石流が深い溜め息を吐いて二十里を睨み付けた。

「無茶を言うな。こんな所でワインを注文するバカがいるわけないだろう」

「うーん、でもジャパニーズライスワインや瓶ビールはちょっとねェ」

 二十里は肘をついたまま横目で石流を見やると、小さく首を傾げた。

「君、ボクが注文したら一緒に飲むかい?」

「いや。まだ仕事中だから止めておく」

 アンリエット様を部屋に送り届けるまでが仕事だと語る石流に、二十里は肩をすくめた。

「君は相変わらず真面目だよねぇ。じゃぁ、ボクはおでんの大根で」

「まいどー」

 店主は、正方形に区切られたおでん鍋から注文された串を取り出すと、小皿に並べて石流と二十里の前に置いた。

「主、小皿を二つ頼む」

「はいよ」

 店主から差し出された小皿を受け取ると、石流は近くの箸入れから割り箸を取り出し、両手で綺麗に割った。そして割り箸を器用に使って大根と厚揚げを半分に割り、牛筋は串から引き抜いた。そしてそれを半分ずつ小皿に盛り、根津へと差し出す。

「これも喰え」

「あ、うん」

 根津はそれを受け取ると、近くの箸入れに手を伸ばした。

「アンリエット様も如何ですか」

「ええ、でははんぺんを少しだけお願いします」

 石流ははんぺんに箸を入れると、器用に切り分けて小皿へと取り分けた。

「どうぞ」

 石流から差し出された小皿を根津が受け取り、隣のアンリエットへと手渡していく。

「有り難う」

 アンリエットは割り箸を手に取ると、はんぺんを口元へと運んだ。

 根津も自分の皿に取り分けられた大根を箸で掴み、口の中へと放り込む。

 少し甘みのあるそれは、汁が染み込んでいて美味しかった。

 口を動かしながら根津が横目でアンリエットを盗み見ると、アンリエットは満足げな笑みを浮かべて咀嚼している。

 あの時とは違う場所で違う屋台だが、根津は口の中の大根を呑み込むと、そわそわとした面もちで尋ねた。

「でもアンリエット様、どうして急に屋台に寄ろうなんて……?」

 もしかしてこれが誕生日祝いなんだろうかと思うと、胸が高鳴って顔が赤くなってくる。

「たまには良いではありませんか」

 そう言ってアンリエットは箸を置くと、根津へと向き直った。

「遅くなりましたが、根津さん」

 アンリエットは根津の目を真っ直ぐに見返し、微笑を浮かべている。

「誕生日おめでとう」

 そしてスカートのポケットから、掌サイズの小箱を取り出した。ベージュの紙でラッピングされた箱には、青のリボンが巻かれている。

「これは、私たちからです」

 根津は手にした箸を小皿の上に置くと、両手を制服の上着で拭って、アンリエットが両手で差し出した小箱を受け取った。

「あ、有り難うございます、アンリエット様!」

 上擦った声になりながらも頭を下げると、背後から二十里の拗ねたような声が耳に届いた。

「ボク達にはないのかい?」

 根津が二十里と石流の方へ顔を向けると、二人とも小皿に箸を置き、穏やかな眼差しを向けている。

「え、あ、うん……有り難う」

 教室でミルキィホームズ達に貰った時と同様、なんとなく気恥ずかしくなって、根津は目を伏せた。

 誕生日プレゼントを貰うのは初めてではない。だが、こうして直接手渡されるのは初めてだと気付き、根津は頬が熱くなるのを感じた。

「開けてみてもいいですか?」

 根津が上目がちにアンリエットを伺うと、彼女は小さく頷いている。

 根津は内心焦りながらリボンを外し、包装紙を開いた。

 中には白い小さな箱が入っている。

 蓋を開けると、シルバー製のネクタイピンが入っていた。やや左寄りに円形で蒼の飾りが付き、薄く盛り上がっている。その飾り部分は七宝焼きのようで、カッティングされたダイヤのような文様が入っていた。電灯の光を浴びて、蒼色に小さく煌めいている。

 根津は銀色のネクタイピンを摘むと、制服のネクタイに付けてみた。アンリエットの方へ上半身を向けると、彼女は嬉しそうな笑みをこぼしている。

「とてもよく似合っていますわ」

「どうだい?シンプルだけどボクの瞳みたいに美しいだろう?」

「それなら制服に付けても、校則違反にはならんだろうしな」

 石流はコップに入った水を一口飲むと、切れ長の瞳を根津へと向けた。

「ラーメンの汁で汚さないように仕舞っておけ」

「うん」

 根津は素直に頷くと、ネクタイピンを丁寧に箱に戻した。そして制服のポケットに滑り込ませる。

 そこへ、店主が根津とアンリエットの前にラーメンどんぶりを並べた。

「お待たせ、醤油ラーメン二つ」

 湯気が出るそれからは、醤油の香ばしい香りが漂ってくる。

「いただきまーす」

 根津がずるずるとラーメンを啜っていると、静かにラーメンを口へ運んでいたアンリエットが箸を止めた。石流も厚揚げを口に運ぶのを途中で止め、眉間に皺を寄せている。二十里は皿に残った大根の最後の一欠片を口元へ運ぶと、「おや」と苦笑を浮かべた。

 根津が耳を澄ませると、市街地へ続く方向から小さな足音が響いている。それは徐々に近づいてきて、一度近くで立ち止まると、一気に駆け足へと変わった。

 その足音には根津も聞き覚えがある。根津が「あ」と思った次の瞬間には、背後に垂れていた暖簾が大きく揺れた。

「アンリエットさーん!」

 ピンクの探偵服のシャロが、アンリエットに後ろから抱きついている。

「あら、シャーロック」

 アンリエットは少し驚いた表情で、肩越しにシャロを見上げた。シャロの背後には、探偵服に身を包んだコーデリア、エリー、ネロが、目を丸くして根津達を見つめている。

「会長、どうしてここに?」

 コーデリアが尤もな疑問を口にすると、アンリエットは「別件で外出していましたので」と短く答えた。

「ですがその様子では、また怪盗帝国を捕まえ損ねたようですわね」

 アンリエットが柳眉を寄せると、ミルキィホームズ達は申し訳なさそうにうなだれた。

「うぅ、また逃げられましたー」

「すみません……」

 頭を下げるコーデリアの横で、エリーは顔を伏せている。

「でもさ、なんで根津がアンリエット会長と一緒にこんなトコにいるんだよ?」

「お前等と違って優秀だからに決まってるだろ」

 根津がそう返すと、ネロは根津の肩越しにテーブルの上を覗き込んだ。

「いいなー。根津、それ一口くれよ!」

「お前、一口って言いながら全部喰う気だろーが!」

 横取りされそうな危機感に、根津はラーメンどんぶりを両手で掴んだ。だがその隙に、ネロはその脇にある小皿から牛筋を掴み、そのまま自分の口へと放り込んでいく。

「へへ、もーらい!」

「ちょ、おま、それ俺の!」

「別にいいじゃーん」

 牛筋を掴んだ指先を舐め、もぐもぐと口を動かすネロに、根津は肩越しに冷ややかな視線を送った。

「……太るぞ」

「いいんだよ、普段カロリーが全然足りてないんだから!」

 そう反論すると、ネロは恨みがましそうに隣の石流を見下ろした。だが、石流はそれを無表情に受け止め、平然と厚揚げを口に運んでいる。

「こんなに可愛い僕たちがお腹を空かせているんだから、奢ってもバチは当たらないと思うなぁ」

 ネロは瞳をきらきらとさせ、胸元で両手を合わせて懇願するようなポーズを取った。だが猫を被ったその仕草を、石流は鼻先で笑った。

「断る」

「石流さんのケチー!」

 全く動じない石流にネロは唇を尖らせ、拳を握りしめた。そして店主へと身を乗り出していく。

「おじさんも何か言ってやってよ。可愛い女の子がこんなにお願いしてるのに、冷酷無慈悲だと思わない?」

「いやぁ、おじさん、お客さんの話には口を挟まない主義だからさぁ」

 店主は眉を寄せると、からからと笑った。

「冷酷無慈悲だなんて、ミルキィホームズにしては難しい言葉を知ってるねぇ」

 既に食事を終えた二十里は根津達の方へと向き直り、ネロが口にした言葉に肩をすくめている。

「ネロも……それ以上はダメ……」

 エリーもネロの探偵服の裾を引っ張って、身を乗り出す彼女を制止した。

「ちぇっ」

 ネロは小さく息を吐くと、再び根津の背後へと張り付いた。

「な、なんだよ……」

「じーっ」

「や、やらねーぞ」

 その隣では、シャロがアンリエットの手元を無言で見つめている。

「シャーロック、涎が垂れていますよ」

「すびばせん」

 慌てて口元を拭うシャロに笑みをこぼすと、アンリエットは手にしたラーメンどんぶりをシャロの方へと差し出した。

「……ふふ、私には少し多いですから、食べるのを手伝って貰えますか?」

「わぁぁい、アンリエットさん有り難うございます!」

 シャロは新しい割り箸を手にとり、ラーメンどんぶりにかぶりついた。

「美味しいですぅ!」

「独り占めしてはダメですよ。皆にも順番に手伝って貰わないと」

 アンリエットの言葉に、ネロは諸手を挙げている。

「わーい、流石僕達の会長だね!」

「有り難うございます、会長!」

 コーデリアは胸元で両手を組むと、感激した表情でシャロの後ろへと並んだ。

「あ、有り難うござます……」

 ネロはアンリエットの言葉ですぐさま根津の背後から離れ、彼女の傍らへと寄っていたが、エリーは根津と石流の間で足を止めていた。そして、石流の皿に残っているおでんのジャガイモと、コップの水を飲む石流の横顔を交互に眺めている。

 石流もその視線に気付いて箸を止めたままだったが、やがて小さく息を吐き出した。

「……何故こちらを見る、エルキュール・バートン」

「す、すみません……お芋があったので、つい……」

 そう言い終わると同時に、ぐぅ、とエリーのお腹が鳴った。

 石流は小さく舌打ちし、顔を正面に向けたまま、ジャガイモが残った皿を彼女へと突きだした。

「ほれ、芋だ。まだ箸をつけてないから、欲しいのならくれてやる」

「あ、有り難うござます……」

「あーっ、僕も食べる!」

「分けましょう!」

 まだラーメンどんぶりに口を付けているシャロを除いた三人でジャガイモ争奪戦が始まり、根津の牛筋を口にしながらそれに参戦するネロに、根津は呆れた眼差しを向けた。

「お前さぁ、俺の牛筋を喰っておいて、さらに芋にもいくのかよ」

「しょうがないじゃん、お腹空いているんだからさぁ」

「せめてそこは他の二人に譲れよ。『譲崎』って名前のくせに」

「ならお前のラーメン、僕にも一口くれよ」

「これ、俺の食べかけだぞ?」

「根津だから別にいいし、僕は気にしないよ?」

「え?」

 ネロの言葉でさらに赤くなるエリーが視界に入り、やがて根津もその言葉の意味に気付いた。

 途端、真っ赤になって声を荒らげる。

「な、なにバカな事言ってんだよ!や、やるわきゃねーだろ!」

 だが、ネロは自分の発言の意味に気付いていないのか、反論する根津に眦を立てた。

「なんだよ、別にいいじゃん。根津のケーチ、ケーチ!」

「い、いいわけないだろ!」

「そうだ、ラーメンよりもボクを見ろぉぉぉ!」

「いやああ、おまわりさーん!」

 ジャケットだけでなく白のパンツまで脱ぎ捨て、全裸に近い格好になった二十里にコーデリアが悲鳴を上げている。

「騒々しいですわよ、貴方たち」

 深く溜め息を吐き、すみませんと頭を下げるアンリエットに、店主は苦笑を浮かべた。

「構いませんよ。どうせお客さん達の後は店仕舞いする時間ですし」

 そしてアンリエットの傍らで芋を四等分に取り分けているミルキィホームズ達を眺めながら、笑みをこぼした。

「賑やかなのはいいことです」

 

 

************

 

 

 

 ーーお母さん?

 

 長い廊下に、彼は独りで立っていた。

 声に出して呼ぶが、それに応える姿も返事もない。

 反射的に、彼は自分が夢を見ているのだと気付いた。

 だが自分の意志とは正反対に、体は勝手に廊下を進んでいく。

 あの扉の先に行きたくないと思った。

 だが映画を見ているかのように、自分の両腕は扉に手をかけ、開けていく。

 部屋の中央には、長方形のテーブルと四つの椅子があった。だが空っぽのはずのその一つに、座っている誰かの影がある。

 

 ーーお母さん?

 

 思わずそう呟いて駆け寄る。

 しかし彼の正面の席には、彼が求めた人ではなく、怪盗アルセーヌが座っていた。

 

 ーーなんで?

 

 思わずそう声に出すと、仮面姿のアルセーヌは微笑を浮かべた。

 

 ーー遅いですわよ。

 

 ーーそうだよ、はやく座りたまへっ。

 

 唐突に、アルセーヌに同意する声音が横から聞こえてくる。彼が慌ててそちらへと顔を向けると、自分の席の隣に、シルクハットを被った怪盗トゥエンティが腰を下ろしていた。

 

 ーーあれ?

 

 目をパチクリさせながら再びテーブルへと顔を向けると、いつも自分の席にしかないプレートが四つ並んでいる。しかもそのプレートからは、温かな湯気が立ち上っていた。

 

 ーー何をしている。

 

 急かすような低い声音に、彼は顔を上げた。

 空いていたはずのアルセーヌの隣の席には、いつの間にか怪盗ストーンリバーの姿が現れている。

 彼が呆然と佇んでいると、テーブルの脇から、探偵服姿の譲崎ネロがひょこっと顔を出した。

 

 ーー食べないのなら、僕にちょうだい!

 

 そして、彼の分のプレートに手を掛けた。

 一方、にこやかな笑みを浮かべるアルセーヌの背後から、探偵服のシャーロック・シェリンフォードとエルキュール・バートン、コーデリア・グラウカが顔を覗かせている。

 

 ーーわーい、これ僕の!

 

 プレートを左手で持ち上げ、満面の笑みを浮かべてフォークをオムレツに刺そうとするネロに、彼は慌てた。

 

 ーー違う、俺のだ!

 

 叫ぶと同時にプレートを掴み、二人で引っ張り合いとなる。だがその反動で、二人の手からプレートが離れた。

 黄色と赤、茶と緑、そして白の食器がゆっくりと宙に舞う。

 

 

 言葉にならない自分の呻き声で、彼は目を覚ました。

 

 

 

 

 眼前にあるのは見慣れた寮の天井で、あの夢の場所ではない。

「なんだ、今の……」

 根津は大きく息を吐き出すと、仰向けになったまま枕元へ手を伸ばした。最初にポプリを小分けに入れた袋が手に触れ、その横を手探りで探す。ようやく固く冷たい感触が手にあたり、掴んで眼前に翳すと、タイマーをセットした時間より少し早い時刻を指していた。

 根津は目覚まし時計を枕元に戻すと、再び天井を見上げた。

 妙に目が冴えて、二度寝する気分にはならない。

「スゲー変な夢、見た……」

 現実では絶対にありえない状況だった。

 だが、不快ではない。

 右手を眼前に翳すと、甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 見上げた天井が、徐々に滲んでいく。

「はは、変なの」

 根津は口元を緩め、声に出して小さく笑った。

 

 

<了>

 


 
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