No.434025

寒国少女

セイさん

「寒国少女」という言葉から、妄想を広げて創作した物語です。

2012-06-08 00:02:01 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:429   閲覧ユーザー数:425

 

 窓の外は、純白が荒れ狂っていた。

 人里離れた平原は、今、一面を雪に覆われている。強風と共に無造作に降って来る雪達は、それでも満足いかぬと言わんばかりと厚みを増していく。まだ当分は収まる気配がない。

 私は、そんな吹雪の中に忽然とそびえ立っている、小さな塔の中に居た。

 雪国に在る事を前提に建てられたその塔は、相応の造りはしてあるものの、完全に寒さを遮断出来てはいない。しっかりと防寒具を身に着け、暖炉の火を一日中絶やさない事で、ようやく過ごせる程度だ。

 私は白い息を吐きながら、フードの両端を掴んで、顔の前に引き寄せた。それで寒さが和らぐわけではないけれど、寒さのあまり、無意識にそんな行動を取ってしまうのだ。

 視線の先では、未だ変わる事なく吹雪が荒ぶっていた。

 雪は優しく冷酷に、平等に容赦なく、全てを白へと塗り潰していく。

 人は凍死する際、気持ち良く微睡み、眠りながら死んでいくと聞いた。

 あるいは、それは幸せな事なのかもしれない。

 私はそう思っていた。

 痛みもなく、恐怖もなく、微睡みの中で静かに死ねる。

 そのような終わりを得られた人間は、この世界にどれほど居ただろう。そして、今後どれほど居るだろうか。

「……やめよう」

 馬鹿げた思考を打ち切ろうと、私はあえて声に出して呟いて、頭を振った。

 最近は、気づけば死に方の事ばかりを考えている気がした。自身の未来が、どこまでも暗いものだとわかってしまっているから。

 そもそも、優しく微睡みながら死ねたとしても、その死が孤独なものであるならば、あまりにも悲しい。少なくとも私は、一人でも平気だと強がれるような人間ではなかった。

 私は、大きく一つ嘆息する。

 草臥れたテーブルに歩み寄り、その上に置いてあったランタンを手に取った。

 余計な思考を妨げるために、いつもの日課をしようと思った。

 自由を報酬に、私に課せられた使命。

 それは、一人の少女を見守り、その死を待つ事。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 階段を降りる私の足音が、甲高く塔内を反響する。

 静寂を侵し、すぐさま静寂に喰らい尽くされ、再び侵す。その繰り返し。いつもと同じ数の喰らい合いが終わった時、私は塔の最下層に辿り着いていた。

 そこは、がらんとした、ほぼ何もない空間だ。

 あるのは、古くなった木製の椅子が一つと、部屋を横断する錆びた鉄の格子。そして、その向こうで、壁に背を預けて床に座り込んだ少女が一人――

 要は、ここは牢屋だった。

 地下なので窓はなく、灯りとなる物もないので、ランタンを手にした私が降りて来ないと、ここはいつも真っ暗闇だ。

 私は牢屋の外にある椅子に腰を降ろすと、ランタンを足元の床に置いた。

 視線の先には、牢屋の主である少女が居る。

 この寒さの中、服というよりも、ぼろ布と呼ぶ方が正しい物だけを身に纏っていた。肌は恐ろしく白い。俯いた顔は、同じく真っ白く長い髪で隠されて、表情は伺い知れなかった。

 本来なら、こんな格好で牢屋へ放り込まれていれば、すぐに凍死してもおかしくないはずだ。少なくとも普通の人間ならそうだろう。

 しかも、彼女にはここへ入れて二週間、ろくに食事を与えていない。 与える事は、この役目を私に命じた者に許可されていなかった。

 だが――彼女は生きているのだ。

 耳を澄ませば、か細い呼吸音が微かに聞こえる。

 それは明らかに衰弱した人間のものではあったが、この状況で生命を繋いでいるという異常な事実と比べれば、些細な事だろう。

 曰く、この少女は悪しき精霊に取り憑かれたのだそうだった。

 この尋常ならざる生命力は、それが原因らしい。

 その精霊とやらがどのような謂れを持ち、一体どんな存在なのか私は知らないし、知ろうとも思わない。

 ともかく哀れにも悪しき精霊とやら取り憑かれてしまった少女は、美しい亜麻色の髪が、突然、真っ白になってしまった。それこそが精霊に取り憑かれた者に表れる変化だそうだった。

 一度、精霊に憑かれた人間は、周囲に際限なく災厄をもたらすと伝えられているらしく、必然的に街を追われた少女は、この塔へと幽閉された。

 精霊に取り憑かれた者は、いつもこのように閉じ込められ、死ぬまで放置されるのだそうだった。下手に手を下せば、今度は殺した者に精霊は取り憑くのだという。本当かどうかは知りはしない。

 そんな経緯で少女はここに居て、私は彼女の見張りと、死を見届ける役を命じられたのだ。

 もちろん精霊の存在を心から恐れている街の人間ならば、誰もやりたがらない役目である。

 それを断わる事なく引き受けたのは、私が奴隷だからだった。

 奴隷に、拒否権など存在するわけもない。

 ただ、もともとは私は外の人間であり、悪しき精霊の事も、恐れるほどには知らなかった。なので、精霊を恐れる街の人間の反応は、私からすれば、まるで理解し難いものだ。

 そして、この役目を終えた暁には、私には奴隷という立場からの解放が約束されている。それは、絶望するほどに意味のない報酬だ。

 一度、奴隷になった者には、身体のどこかに必ず刻印を刻まれる。奴隷の身から解放されたとしても、刻印は消せず、かつて奴隷だったという事実は、どこへ行っても差別の理由になるだろう。

 私には、未来がわかっていた。

 自由になれば、おそらく、ろくでもない結末しか待っていない。奇跡のような幸運を期待するほど、私は夢見る少女ではないのだ。

「…………ん」

 微かな呻き声と衣擦れの音に、私は思考の海から浮上する。

 どうやら少女が気がついたらしい。寝ていたのか、それとも衰弱で意識が混濁していたのか、どちらかはわからないが。

「…………」

 少女は、ランタンの灯りで、すぐに私が居る事に気づいたのだろう。

 真っ直ぐに私を見つめ――弱々しく微笑んできた。

 彼女は、初めて顔を合わせた時から、そうやって微笑み続けている。

 水も食事も、寒さを凌ぐ服も与えず、弱っていくのを、ただ見守るだけの私に笑い掛けるのだ。

 その笑顔を見ると、一丁前に良心な呵責でもしているのか、私の胸の奥がざわついた。酷く落ち着かない気分になって、こんな真似をしている自身を、どうしようもなく嫌悪する。

 ――けれど。

 ここに来る事を、私は毎日、欠かす事はなかった。

 奴隷になってから染み付いた下らない義務感か。

 己の愚行から目を逸らすのが癪だったのか。

 それとも、知らぬうちに息絶える事が耐えられなかったのか――名も知らず、言葉一つ交わした事のない、この少女が。

「貴女は……」

 初めて。

 この塔へ来て、私は初めて少女の前で口を開いた。

「死ぬ事が怖くはないの?」

 純粋な疑問。

 理不尽に死を望まれ、そう遠くないうちに間違いなくそれが訪れる状況で、微笑む事が出来るのは、一体、何故なのか。

「………怖いよ……」

 喋るだけの力もないのか。それは声というより、息が漏れるような一言だった。

「……だから……繋がりたいんだよ……」

 少女は、それだけ搾り出すと、もう口を開く事はなかった。

 もう一度だけ微笑むと、静かに瞼を閉じた。

 呼吸は、まだしている。再び眠りについたのだろう。

 ……繋がりたい?

 一体、何と何が? 

 誰と誰が?

 また私の胸がざわついた。

「馬鹿げてるっ……」

 どうしようもなく落ち着かない心持ちになり、椅子を蹴るようにして、立ち上がった。

「そんなの……おかしいわよ……!」

 無理矢理に吐き捨てて、私は足元のランタンを手に取った。

 部屋を去る直前に、もう一度だけ、牢屋の少女を一瞥する。

 少女は、今も静かに寝息を立たていた。呼吸を一つ重ねる度に、確実に死へ近づきながら。

 私は、唇を噛みながら、目を逸らす。

 きっと彼女は……すでに死を受け入れているのだ。

 私と同じように。私が同じだと理解して。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 私は、街の領主の娘だった。

 四人居る中の四人目の妻の子供で、子供達の中で一番の末。

 だから、私は何も求められず、期待もされていなかった。領主の娘なので、生きる事に何の苦労もなかったけれど、同時に本当の意味で満たされる事もなかった。

 誰も私へ愛を与えず、私も誰かを愛す事はない。

 一方通行ですらなく、ただただ停滞していた。

 毎日を黙々と生きていて、私の中は、いつも空っぽ。

 しかし、そんな平穏で空虚な日々は、唐突に終わりを告げる。

 私の亜麻色だった髪は、何の前触れもなく真っ白へと変わり、母や兄妹は、精霊の仕業だと恐れ慄いた。

 そして。

 私は、初めて父に求められた。期待された。

 

 死んでくれ、と。

 

 空っぽの私は、空っぽのまま、それを素直に受け入れた。

 悲しくなかったわけじゃない。

 怖くなかったわけじゃない。

 でも、空っぽの私は、これまで生きてきた中で、それに抗う理由になるだけのモノを持てていなかった。だから、悲しみに飲まれながら、恐怖に震えながら、どこか他人事のようにそれを受け入れていた。

 ただそれでも――

 空っぽのまま独りで死ぬのは寂しいな、と。

 そうも思っていた。

 

 

 すぐに街から遠く離れた塔の牢獄に監禁された私は、一人の女の子と出会った。彼女は奴隷で、私が死ぬまで監視するという仕事をさせられるために連れて来られたとの事だった。

 きっと、それは不毛で嫌な仕事だ。

 自分のせいで、そんな事をやらせてしまって、とても申し訳なかった。

 でも、不思議と彼女は、毎日のように私の前に姿を見せてくれた。

 何も言わず、ただそこに居て、半日もすると、また戻っていく。

 そんな日々を過ごすうちに、私はふと気づいた。

 いつも全て諦めたような表情の少女は、どこか私に似ている。

 見た目や性格ではない。その在り方が近いと感じた。

 私は、少し安堵した。

 そんな彼女に見られて死んで逝くのなら、少なくとも私は独りではないと思えたから。

 だから、私は笑った。

 精一杯の親しみと独り善がりの感謝を込めて。

 ありがとう、と。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 初めて少女と言葉を交わしてから、一週間が過ぎた。

 あれ以来、私は一度も地下へと降りていない。恐れるように、逃げるように拒んでいた。

「…………もう、そろそろ」

 暖炉に、残り少なくなってきた薪を放り込みながら呟く。

 一週間前で、あの衰弱ぶりだ。いかに普通でないあの少女でも、もはや限界なのは間違いないだろう。そして、私自身も過酷な塔での生活に、肉体的にも精神的に著しく疲弊しているのを感じていた。

 話通りなら、あと十日もすれば街から迎えが来て、牢に居る少女の死を確認し、その後、私は自由の身になるはずだった。私の命がそこまで続いていれば、だが。

「…………」

 服の上から、強く胸元を掴む。

 窓の外は、私の心の内を表すかのように、相変わらずの荒れ模様だった。

 今、この瞬間にも少女は息絶えているかもしれない。

 もう二度と、こちらへ微笑む事もない肉塊へと変わっているのかもしれない。

 その想像は、私を酷く焦燥させた。

 ――私は。

 私は、ただの奴隷で、彼女が死ぬまで見張り続けるだけの存在に過ぎない。だが、それでも、彼女を殺すという行為の片棒を担いでいるのは間違いなかった。

 だから、彼女の微笑みも言葉も理解出来なかったし、受け入れて良いものとも思えなかった。彼女は私を恨み、憎むのが本当のはずだ。

「――違う」

 自然と口に出た。

 例え、それが当たり前だったとしても、彼女は違ったのだ。

 少女は、私へと微笑み『繋がりたい』と言ったのだ。もう残り少ない力を振り絞って、それでも私へそう告げた。

 私には、そんな彼女の気持ちが理解出来るのだ。出来ていたのだ。

 ただ、そんなわけがないと、思い込もうとしていただけ。

 事実から目を逸らし続けるのも、取り返しがつかなくなるかもしれない段階になって、すでに限界を迎えていた。

 これ以上、逃げ続ければ、自分は代えがたい大切なものを見放す事になる。そして、再び私は独りになるだろう。

 暖炉の前で座り込んでいた私は意を決して立ち上がる。そして、ランタンを手に彼女の元へと向かった。

 ――私は気付いてしまった。

 だから、もう彼女の元へ向かわないわけにはいかなかったのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一週間ぶりの地下室は、相変わらずの暗黒と静寂で包まれていた。

 私は何かに押されるように、駆け足で奥の牢屋へと近寄った。

「…………あ」

 喉から、呻くように声が漏れる。

 ランタンの灯りで照らされた少女は、後ろの壁に背を預けた状態から横倒しになっていた。白い髪が乱れて広がり、痛々しいまでに色を失った肌は、酷く生気が薄い。

 今にも命の灯火が消えようとしているのが、一目で理解出来た。

 もう本当に、時間は残されていない。

 命終えようとする少女の姿を目にした途端、自分の中に存在していた僅かな迷いも、一気に霧散していくのを感じた。

 近くにあった椅子を引っ掴むと、牢屋の扉へと何度も振り下ろす。

 もともと、まるで手入れなどされていない牢屋だ。

 叩きつけた椅子の足が軒並み折れてしまった時には、牢屋の鍵は壊れ、扉も半開きになっていた。それを強引にこじ開けると、私は倒れた少女へと歩み寄った。

 少女は動かない。耳を済まして、ようやく聴き取れる呼吸音だけが、彼女の心許ない生存を証明しているだけだ。

「ねえ……」

 私は跪くと、少女の真っ白で冷たい手に、自分の手を重ね、握り締める。

「返事をして、よ……」

 出来るわけがない事がわかっていた。

 一週間前の時点で、まともに言葉を発する力すらなかったのだ。

 事切れる寸前の彼女が何かを言えるはずがない。

 けれど。

 微かに……少女は、私の手を握り返したのだ。

 声を出せない代わりに、精一杯に意思表示するかのように。

「…………っ」

 ほんの僅かだけ目を開くと、少女は私へ向けて微笑んだ。

 いや、微笑みだなんて呼べるものですらない。口元を少し歪ませただけだ。それでも今の少女にとって、残された全ての力を振り絞っての微笑だったのだろう。

「どうして……どうして貴女は……」

 こんな寒さの中なのに、急に目元が熱くなる。ぽろぽろと涙が零れ落ち、すぐさま冷え切っていく。

 私と彼女は、お互いの名前すら知らない。

 会話らしい会話すらした事がない。

 生まれも、趣味も、食べ物の好き嫌いも、好きな人も、何も、何も知らない。

 それなのに、何故こんなにも彼女が死に逝く事が悲しくて堪らないのだろう。心がバラバラになりそうで、喉はカラカラで、涙が止まらないのだろう。

「……そうよね、私と貴女は一緒、だものね……」

 過ごした時間とか、どれだけ相手を知っているかとは関係なく、私達は、すでに繋がっていたのだ。この牢屋の格子ごしに顔を合わせた、その時に。

 それは死を受け入れてしまった者同士の傷の舐め合いなのかもしれない。でも、確かに互いを求め合う絆であるのも間違いない。だから、自分は独りではないと思えたのだ。

 私はその場で、身に着けていた防寒具を全て脱ぎ捨てた。

 すぐさま突き刺すような寒さが襲って来たけれど、まるで気にならない。

 少女の手を両手で握りしめたまま、私は寄り添うように牢屋の床に横たわる。床から伝わる氷のような冷たさが、むしろ私達を優しい眠りへ誘ってくれているように思えた。

「行きましょう、一緒に。何も残らないし、何も残せないけれど……貴女には私が居る。私にも貴女が居る」

 もう少女は、消え入りそうな呼吸を繰り返すだけで、何の動きもない。でも、握った手から、全ては伝わって来る気がした。

 その先は言葉一つなく、身じろぎ一つせず、私達は静かに死への微睡みに全てを委ねていった。

 ゆっくりと、静かに。

 世界は、真っ白になった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一ヶ月近く続いた吹雪は、ようやく収まっていた。

 空は支配するのは、一転して晴天。

 日差しを反射する雪原には、二人の人間の足跡が刻まれている。

「なんで、こんな仕事を請けたのさ、兄さん」

 積もる雪を想定して高い所に設置された塔の入り口。

 その前で、身に着けた防寒具にまとわりついた雪を両手で払いながら、男は愚痴るように言った。

 小柄で童顔。だが、軟弱さは感じさせない垢抜けた様子の青年である。

「どういう意味だ?」

 童顔青年の言葉に、隣の男が塔を見上げながら問い返した。

 こちらは弟とは真逆で、大柄で逞しい体躯をしていた。顔の下半分が髭で覆われており、動物の毛皮で作られた防寒着も相まって、遠目だと熊にでも見間違えそうである。

 この兄弟は、見た目の印象だけでなく、年の方もかなり離れているようだった。

「どういう意味だ、じゃないよ」

 弟は、深々と嘆息した。

「悪しき精霊に憑かれた少女と、その少女が死ぬまで見張っている奴隷の少女。その二人がどうなったか、こんな雪原の真ん中の塔まで確認にして来い、だなんて……やってられないよ」

「それは精霊なんぞ眉唾モノだと思うからか? それとも、あの街の連中のやっている事が胸糞悪いからか? もしくは単に面倒事は、ごめんか?」

「全部だよ、全部」

 兄の問いに、弟はにべもなく答えると、塔の扉を無造作にコツコツと叩いた。

 しばらくしても、中からの反応はなかった。

 予想していたのか、弟は曖昧な笑みを見せて、頭を振った。

 二人の少女が、この塔へ入ってから、もう一ヶ月以上が過ぎている。

 精霊に憑かれた少女の方は当然として、奴隷の少女の方も生きているかどうか。

 水や食料、寒さを凌ぐ防寒具や暖炉など、必要最低限のものは用意してやったと街の人間は言っていた。だが、それにしても、ほんの昨日まで続いたあの猛吹雪である。こんな塔の中で生き抜くのは、並大抵の事ではない。

「行くぞ」

 兄は、躊躇なく扉を開くと、大きな身体をねじ込むようにして塔内へと入っていった。

 弟も仕方ないと言った様子で、後に続く。

 まず向かった塔の上階。

 奴隷の少女が使っていたらしい部屋には、誰の姿もなく、暖炉の火も途絶えて、久しいように見えた。

「……やはり下か」

「かな?」

 精霊に憑かれた少女は、水や食料はもちろん、ろくな服すらも与えずに、地下の牢獄へと監禁されているらしい。

 精霊の件が、真実であれ嘘であれ、兄弟にとっては唾棄すべき行為だった。しかも、結果の確認を外の人間任せにするのだから、なおさらだ。

 弟の方が愚痴りながらも、こんな場所まで付いてきたのは、素知らぬ顔など出来なかったからだ。

 ランタンの光を頼りに、兄弟は無言で塔の階段を降りていく。

 そして、目の前に広がる光景に息を止めた。

 まず牢屋の扉は開いていた。

 錆びついた鍵は壊れていて、周囲の床には壊れた木製の椅子の残骸が散らばっている。

 残骸は全て牢屋の外に落ちていたので、奴隷の少女の仕業であろう事は、すぐに想像出来た。

 さらに、肝心の精霊に憑かれたという少女は、兄弟の予想通り牢屋の奥で息絶えていた。

 ――そう。

 奴隷の少女と寄り添って、安らかに眠るように。

 今にも目を開いて起き上がりそうに思える二人の少女達の命終えた姿は、痛ましいはずなのに、どこか荘厳で、侵し難い空気に包まれていた。

 弟が少女達の傍に、脱いだ防寒具が落ちている事に気づく。

 どうやら、どちらも凍死である事は間違いなさそうだった。

「…………」

 弟は言葉なく、息を呑んでいた。

 それも当然だろう。

 死なせるために塔の牢屋に監禁された少女と、彼女が死ぬまで監視する事を強いられた奴隷。

 その二人が、まるで長年の親友かのように手を握り合って死んでいるなんて、一体何があったら、こんな事になるのか。

「…………」

 驚きで固まる弟を横目に、兄は大きな身体を窮屈そうにしながら牢屋の中へ入る。そのまま眠るように逝った少女達の脇で膝を突いた。。

「兄さん?」

 弟の呼びかけには応えず、しばらく無言で少女達を眺める。その後、おもむろに傍に落ちていた防寒具を二人に掛けてやると、立ち上がりながら、弟へと振り返った。

「帰るぞ」

「…………え」

 兄の短い言葉に、弟は目を丸くする。

「いいの? 遺体の処理は」

 兄弟にこの仕事を依頼したのは、街の領主である。

 そして、精霊に憑かれたのは、彼の末の娘だという。

 領主はあろう事か、自らの娘の死を確認した後、その遺体は燃やせ、と命じていた。そして、それは奴隷の少女の方も同じである。

 初めから指定した日まで奴隷の少女が生きているなどと思っていなかったのだ。もちろん約束を守るつもりも。

 さらに、万が一、奴隷の少女が生きていたとしても、生かして連れて帰る必要もないとも言った。

 要は兄弟達に、始末しろ、と命じたのだ。

 だが。

「お前は、そんな命令に従うつもりだったのか?」

「まさか」

 しれっと言うと、弟は肩を竦めた。

 だが、すぐに神妙な顔になって言う。

「……でも、本当、この二人の間に何があったんだろうね」

「さあな。……ただ」

「ただ?」

 兄は、互いの額をつき合わせて、微かな笑みを湛えて眠る少女達へと視線を落とす。その眼差しはどこか優しく、悲しげだった。

「決して幸福な人生ではなかったとは思うが、それでも最後の瞬間は幸せだったんだろう。こんな表情で逝けたのならな」

「……そうかもね」

 僅かな同情を覗かせつつ、弟も同意する。

 それは、この悲しい結末にとっての、唯一の救いだった。

「精霊とやらを恐れる街の人間は、ただ一人として、この塔へ近づく事はないだろう。こうも頻繁に吹雪くのなら、外の人間もな。この塔は、あの娘達の墓標になる。誰も来ない。誰も侵さない墓標に。野暮な事はするものじゃない」

 兄はそう言って踵を返すと、少女達に何一つ手を出す事なく去ろうとする。

「それなら街の人間は、何とでも言いくるめられる、か。でもさ……」

 兄の後を追いながら、弟は疑問を口にする。

「結局、精霊って何だったんだろう。あの子の髪が真っ白になったのは本当だったみたいだけど」

 兄は、歩みを止める事なく弟へ問うた。

「お前は、どうして風が吹くのか考えた事はあるか? 何故、川の水は流れているのか、その理由を知ろうと思うか?」

「そんなの思った事もないよ」

「つまり、そういう事だ。もしも精霊が居たとしても、それが何を考え、どうしてそうするのか。そんなものを知る意味はないし、きっと人間には理解など出来ないんだ」

「うーん……?」

 兄の言葉に、まだ納得出来ないように、弟は腕を組んで首を傾げる。

 そんな弟の反応を予想していたのか、兄は苦笑する。

 実際、兄には精霊が何かなどもわかりはしない。

 ただ、精霊に憑かれたものが災厄を呼び寄せるという話は間違いであろうという確信はあった。

 きっとあの二人の少女が、それを証明したのだ。

 だって、彼女達は、この悲しい終わりの中で、最後に小さな幸せを掴んだのだから。

 ランタンを手にした兄弟が去る事で、再び地下の部屋には闇が満たされようとしていた。

 兄は、最後にもう一度眠る少女達を一瞥して、こう囁いた。

 

「もしも来世があれば……再び共に在って、今度こそ幸多からん事を」

 

 そうして、最後の客人達は塔を去り、地下室に闇が落ちた。

 舞台の幕が降りるように。

 彼女達の物語の終焉を告げるように。

 さようなら。

 またお会いしましょう。

 

 

 終わり

 

 
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