No.431334

恋姫的ムダ知識 孫呉編

ゲームweb恋姫†夢想内にて書いていたものを、加筆・修正したものです。

とりあえずweb恋姫内でのムダ知識はこれにて終了。


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2012-06-02 05:04:43 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:1744   閲覧ユーザー数:1603

 その三十四、孫家三代……武のカリスマ・孫堅(前編)

 

 

 孫家三姉妹の母にして、江東の虎とうたわれた孫堅文台。しかし恋姫では、おそろしく強かったとか、雪蓮達にきびしかったとか、むかし語りには出てきますが、実際どのような人物だったかは出てきません。

 

 今回は孫呉編の手始めとして、史実にそってその『虎』ぶりを紹介してみたいと思います。

 

 孫堅はもちろん呉の生まれで、代々地元で役人(といってもさほどえらくはなかったようです)をつとめる小土豪の家に生まれました。

 

 *孫家はあの有名な兵法書を書いた孫子(孫武)の子孫であるとも言われていますが、孫子がたまたま春秋時代(孫堅が生まれるおよそ650年ほど前)に呉で将軍をしていたことから、三国志の筆者である陳寿がそう推測しただけで、本当のことはわかっていません。

 

 孫堅はまず十七歳のときにたったひとりで近郊の海賊達を倒して名を上げると、呉の隣会稽という郡でおきた反乱の鎮圧に武官として兵をあつめて参加し、州や郡の兵とともに彼らを打ち破りました(このとき反乱軍の数は数万。孫堅の兵の数はわずか千人ほどでした)。

 

 その後十年ほどは呉の近辺は平和で、その間に孫策や孫権が生まれ、孫堅もしばらくは近隣の県の丞(副市長)となって政務にはげんでいたのですが、黄巾の乱が起きるとそれまでの実績を買われて中央に呼び出され、やはり千人ほどの私兵を率いて部将として参加。のちの魏の領土になる地域を転戦し連戦連勝、一度だけ兵を深入りさせすぎてピンチに陥ったことはあったそうですが、そのとき以外は向かうところ敵なしだったそうです。

 

 

 長くなったので後編へ続きます。

 

 

 

 

 その三十五、孫家三代……武のカリスマ・孫堅(後編)

 

 

 さて、前回黄巾の乱での孫堅の活躍までを書きましたが、乱の平定後、今度は涼州というところで反乱が起き、その討伐軍の参謀として出陣することになりました。

 

 涼州というのは漢王朝の領内でも西北のはずれ、あの馬超達がいた西涼のあるところです。

 

 結局これは戦いが始まる前に相手が降伏してしまい、戦闘にはならなかったのですが、もし戦いがあったら当時の漢王朝の実質的な勢力範囲内を東南のはずれ(呉や会稽)から西北にいたるまで、ななめに突っ切って戦いをしてきたことになっていました。

 

 そしてこのとき、孫堅はもうひとつすごいことをしています。

 

 この進軍中、同じように反乱軍討伐の命を受けていた天下を握る前の董卓(月ではなく悪いほうの董卓)と会ったのですが、そのときいきなり董卓を斬るように討伐軍の将であった張温という人物に進言したのです。

 

 理由は董卓の態度が朝廷の命令や将軍(張温のこと)にたいしてないがしろである。というものでしたが、一度会っただけで危険人物を見抜くとは、おそろしい直感です(雪蓮の動物的な直感は、おそらく孫堅のこの直感力を受け継いだものでしょう)。

 

 その後長沙という中国南部にある郡で反乱が起きると、はじめて郡の太守となり一ヶ月足らずでこれを鎮圧、ついでに近くの郡で反乱を起こした連中も討伐し、中国南部を平定してしまいました。

 

 (これ以降『恋姫』とは話がちがいます)その後反董卓連合に参加し、さらに袁術と同盟(というか実質傘下。当時の袁家は非常に勢力が強く、孫堅の故郷である呉周辺に大きな影響力を持っていました)を結び洛陽を攻略、さらに袁術の敵であった劉表という人物を攻撃したのですが、またも勝ちに乗じて深入りしすぎ、単騎になったところを矢に撃たれて亡くなってしまいます(この単騎で突っ込むクセも、『恋姫』では雪蓮に受け継がれていますね)。

 

 以上長くなりましたが、孫堅はまだ群雄すら割拠していなかった時代から武力のみでのしあがり、亡くなるまで各地を転戦し敵を蹴散らしまくった当代最強の武将として名声を博していました。

 

 そしてその名声と軍才が孫策……雪蓮に引き継がれていったのです。

 

 

 

 

 

 その三十六、みんな大好き? 華ナントカさん。

 

 

 華雄さんといえば、『演義』では関羽に一撃で討ち倒され、『恋姫』でもその無念な境遇は変わらず、『萌将伝』では姿さえ見えない華ナントカさんあつかい……。

 今回はそんな不遇なあつかいをうけている華雄さんについて書いてみたいと思います。

 

 華雄さんはつい近年までその真の名前(もちろん真名ではありません)も、役職もわかっていませんでした。というのも、現存しているもっとも古い三国志(正史)の記述では、なぜか華雄さんのところが読みにくくなっており、その名前が華雄か葉雄(ようゆう)か、役職が都尉(大ざっぱにいって将軍より二つ下の地位。部隊長クラス)なのか都督(軍の取りまとめ役。兵馬の規模にもよりますが、今回は将軍と同等かそれ以上)なのか、長い間論争になっていました(つまり華ナントカさんというより、ナントカ雄さんと言うほうが正しいわけです……)。

 

 しかし現在の研究では、当時まだ「葉」という苗字が中国に存在していなかったらしいことがわかり「華雄」に、そして「都督のわりには地味だし扱いが悪すぎる」という悲しい理由で「都尉」ということになりました。

 

 そしてその華雄さん、ほぼどの本、もしくはゲームでも反董卓連合のときに関羽に斬られた(もしくは倒された)ということになっていますが、実際は関羽にはやられていません。……というか、そもそも劉備軍は反董卓連合に参加していないのでやられようがありません(当時の劉備軍は公孫サンの傘下にあり、公孫サンが反董卓連合には直接参加していなかったので)。

 

 本当に華雄を倒した人物、それは孫堅でした。

 

 董卓軍の部将だった華雄は、陽人というところで孫堅軍に敗北して捕らえられ(敗因は上司達の仲間割れ)、その上司達をとり逃がした腹いせ(?)に、打ち首にされてしまったのです(捕らえられた兵士の中で一番位が高かったために、かわりに責任を取らされたようです)。

 

 名前も身分もうろ覚えにされたうえに、上司の仲間割れによって敗北を喫し、そのうえ最期はその上司達の代わりに責任をとらされて首をはねられる……。

 

 一番不遇だったのは、実は本物の華雄さんだったのかもしれません。

 

 

 

 

 番外編、孫堅唯一の敗北は、袁紹一世一代の大失敗?

 

 

 *この話は恋姫とはまったく関係のない話なので、番外編とさせていただきます。

 

 これまで書いてきたように非常に戦に強く、当代最強といってもいい孫堅ですが、明確に負けた戦いもありました。

 

 それは陽人での戦いを終え、予州の陽城というところ(陽人とは別のところです)に陣を構えて董卓軍への攻撃の機会をうかがっていたときのこと、突然あらぬ方向から攻撃をうけて、陣地を奪われてしまいました。

 

 攻撃を仕掛けたのは、何と反董卓連合の盟主である袁紹(麗羽)で、目的は袁術傘下にある孫堅の洛陽一番乗りを妨害し、予州を自分の勢力下におさめることでした。

 

 というのも、当時の袁家の当主は袁紹・袁術の叔父に当たる袁隗という人物だったのですが、洛陽にいて董卓に殺されてしまったため(理由:袁紹が反董卓連合を結成したため)、袁紹と袁術の間に後継者あらそいが起きていました。

 そこでもし、袁術の傘下である孫堅が洛陽を落とし、董卓を倒してしまうと、その時点で袁術が袁家の当主に決まってしまう危険性があったのです(元々袁術のほうが後継者として有力だったと思われるふしもあります)。

 

 結果として袁紹軍は孫堅から陣地をうばい取り、さらに袁術の命を受けて陣地をとり返しにきた孫堅達を追い返すことにも成功。そしてそのせいで孫堅は洛陽突入のタイミングをのがし、董卓に逃げられてしまいました(このとき董卓を倒しておけば、その後の騒乱もなかったのかもしれませんが……)。

 

 かくして袁紹の目論見はうまくいったかのように見えましたが、しかしこの戦いによって、袁紹軍は大きな転機をむかえることになります。

 

 実はこのとき、袁術軍の中には当時袁術と同盟を結んでいた公孫サンの援軍がいて、それを率いていた従弟(一説には弟)の公孫越が、この戦いに巻き込まれて命を落としてしまったのです。

 

 それを聞いた公孫サンは激怒し、元々折り合いの悪かった袁紹との戦いを開始。袁紹も北方(公孫サン)との戦いに力を入れざるをえなくなりました。

 

 そしてその結果、中原(中央部)に権力の空白が生まれ、そのスキをついて中原に台頭してきたのが、のちに袁紹を倒すことになる曹操でした。

 

 いわば袁家の権力争いが、まわりまわって自分の首をしめる結果になったのですから、皮肉なものですよね。

 

 

 

 

 

 その三十七、孫家三代……小覇王・雪蓮さんの子供時代

 

 

 大酒飲みで戦闘狂い、今日も政務をサボって妹達をオモチャに遊んでいる……。そんな自由奔放な雪蓮姉さんですが、正史の孫策も「秀でた容姿をそなえて、談笑を好み、性格は闊達で他人の意見をよく聴き入れ、適材適所に人を用いた(実は仕事を押し付けていた?)」と書かれていて、部下や民衆には非常に人気があったそうです。

 

 その孫策(雪蓮)が三国志に出てくるのは十歳を過ぎたころ。

 

 ちょうど孫堅が中国全土を討伐に回っているさなかなので、おそらくその代理としてでしょうが、寿春というところで著名な人物と交流を結び、そのころからすでに高い評判が周囲に広く伝わっていました。

 

 しかし孫堅が亡くなると、部下であった兵は盟友(盟主?)であった袁術に奪われ、さらに敵対勢力からの圧迫を受けて、わずかな仲間とともにやはり袁術の配下になっていた叔父のところに頼っていかざるをえませんでした。

 

 そのころ孫策は十七才。孫権(蓮華)は十才程度、孫尚香(シャオ)にいたってはそれよりさらに下ですから、力を借りるわけにもいきません。

 

 そこでしばらく雌伏するのかと思いきや、孫策は孫堅がしたのと同じように自分で兵をあつめて袁術(美羽)に会い、説得して(脅迫して?)袁術の配下になることと引き換えにようやく孫堅の部下達を返してもらいました。

 

 その間わずか二年。つまりわずか十九才で離散しかけた孫家をまとめなおし、さらにそこから数年で、江東や江南に覇をとなえるまでに成長させたのです。

 

 やっぱり孫策は『天才』だったのでしょうね。

 

 

 

 

 その三十八、冥琳……断金の愛情(前編)

 

 

 さて前回は孫策の子供時代について書きましたが、今回は別の角度、周瑜(冥琳)の視点から脚色込み(笑)で書いてみたいと思います。

 

 孫策が寿春で評判を上げているころ、そこからほど近い舒(じょ)という町に、同じように英邁闊達の気風があるという評判を立てられている子供がいました。それが周瑜……冥琳でした。

 

 孫家とちがい、官僚のトップである三公を出したこともある名家に生まれた周瑜は、あるとき自分と同い年の噂に聞く孫策がどのような人物か、みずから会いにいきます。

 

 最初は値踏みする気持ちもあったのかもしれませんが、二人は会ったとたんにおたがい一目ぼれ……じゃなくて意気投合。金属をも断ち切るという堅い友情(?)で結ばれ、どんどんとその愛を深めていきました。

 

 そしてついに、周瑜のほうから「一緒に舒で暮らさないか?」とプロポーズ(?)。当時反董卓連合に参加しようとしていた孫堅の許可もとって、家族ごと舒に移住することになりました(正史の周瑜伝では、孫堅が舒に移住させたことになっていますが、呉で書かれた『江表伝』という史書によると、元々移住を勧めたのは周瑜だということになっています)。

 ちなみに、このころまだ二人とも十五歳ぐらいのはずですから、すすめるほうもすすめるほうなら、受け入れるほうも受け入れるほうですね。

 

 そこで周瑜は、自分の住んでいた日当たりのいい南向きの大きな屋敷を孫策達にゆずり、自分がそこに通う「通い婚」の状態で新婚生活をスタートさせました。

 その後舒では二人だけではなく、家族ぐるみの付き合いとなり、その仲はますます深まっていったのですが、その幸せは長く続きませんでした。

 

 

 後編に続きます。

 

 

 

 

 

 その三十九、冥琳……断金の愛情(後編)

 

 

 さて前回は、舒での新婚生活についてまで書きましたが、いつまでも続くかに思えた幸せな生活も、孫堅が亡くなると、孫策は孫家を復興させるために舒を離れなくてはならなくなりました。

 

 本当はついていきたかったのかもしれませんが、当時すでに周家の当主だった(らしい)周瑜がそんな勝手なことができるわけもなく、泣く泣く別れることになりました。

 

 それから鬱々として楽しまぬ日々をすごしてきた周瑜でしたが、たまたまおじが江東の丹楊郡というところの太守になったので、気ばらしもかねて(小説なら、雪蓮のいない舒に耐えられなくなってというところでしょうか)挨拶に行ったところに、思わぬ書状が届きました。袁術(美羽)から兵を取り戻した孫策が、江東の平定するためにこちらにむかっているというのです。

 

 周瑜はいそいで兵(おそらくおじの兵)を引き連れて孫策を出迎え、二年ぶりの感動の再会をはたしました。

 ちなみにそのとき孫策がいった言葉が「あなたを見つけることができて、思いがかなった」。

 

 ……まあ、お前ら結婚しちゃえよ。というか、まるで周瑜を手に入れるために呉に進攻したみたいですね(笑)。

 

 

 その後袁術が横恋慕(周瑜を自分の部下にしようとした)したこともありましたが、もちろんビクともせず、三国志最強の夫婦(?)として、呉の基盤を築いていくことになります。

 

 

 

 

 その四十、三国ミュージシャン合戦

 

 

 周瑜(冥琳)といえば、軍師としてだけではなく、とても音楽に精通し、お酒に酔っていても演奏に間違いがあればすぐに気づくことができたと言われています。

 

 その他にも、曹操(華琳)は魏でもトップクラスの音楽家でしたし、劉備(桃香)も学生時代には音楽を好み、史実ではありませんが『恋姫』の世界でも張三姉妹や美羽達、それに桔梗さんなども音楽をたしなんでいました。

 

 というのも、元々この時代の音楽は、基本的に宮廷の儀式や祭礼などに演奏されたものが発展したもので、士大夫階級のたしなみとされ、その才能があるということは、ひとつの美点とされていました。

 

 実際、周瑜も曹操も、音楽の才能があったことが紹介されているのですが……。そういえば、劉備だけ音楽が好きだったとしか書かれていませんね。

 

 

 まさか桃香様……!?

 

 

 桃香:『ボエ~~♪』

 

 

 

 

 

 その四十一、孫家と蜂蜜さんの奇妙な関係(前編)

 

 

 時に主従であったり、天敵(?)であったりする孫家と袁家。

 今回は、この二つの家の奇妙なつながりについて、史実にそって恋姫風に書いてみたいと思います。

 

 悪いほうの董卓が洛陽で暴虐をはたらき、群雄がそれぞれの領地にもどって反董卓のための兵を集めていたころ、袁術(美羽)は敢然と洛陽にいて……逃げ遅れていました。

 

 このままでは董卓にヒドイ目にあわされる。それもみんな妾がかわいいからいけないのじゃ! と思ったかどうかはわかりませんが、とりあえず洛陽にほど近い南陽というところに逃げ出そうとしたところ、たまたま先に軍を動かしていた孫堅が南陽を占領してしまいました。

 

 すると何を思ったのか袁術は自分が占領したわけでもないのに、「南陽は妾のものなのじゃ!」と領主宣言、孫堅もそんな袁術の大甘なハチミツ脳が妙にツボにはまったのか、それを認めたうえ、盟約まで結んで袁術の傘下に入ってしまいました。

 

 その後、洛陽進軍中に袁術が補給をサボって孫堅から説教をくらうこともありましたが(孫堅が大きな功績を立てて、独立してしまうのをおそれたためだといわれています)、孫堅が亡くなるまではおおむね仲良くしていました。

 

 

 長くなったので後編に続きます。

 

 

 

 

 その四十二、孫家と蜂蜜さんの奇妙な関係(後編)

 

 

 前回までは、孫家と袁家の蜜月時代を書かせていただきました。

 

 しかし孫堅の死後、袁術は贅沢三昧の生活をして領民を疲弊させ、さらに孫堅の死で大幅に戦力ダウンしたにもかかわらず、曹操(華琳)にちょっかいを出してフルボッコにされて南陽から追い出され、袁家本来の勢力圏である寿春のほうに逃げ落ちていきました。

 

 そこで今度は孫家再興を目指す孫策(雪蓮)と出会うのですが、袁術のハチミツ脳は相変わらずで、自分も逃げてきたのにかかわらず、勢力拡大のために孫策達をこき使い、攻め落とした土地を与えるという約束をしても、勝つとすぐにうかれてその約束を忘れてしまうので、とうとう孫策から見かぎられてしまいました(これが孫堅なら二時間ぐらい正座で説教してあやまらせるのでしょうが、孫策にはそんなにこらえ性はないですからね)。

 

 ……そういえば、恋姫の孫堅さんって雪蓮が「厳しいなんてものじゃなかった」って言うくらい怒ると怖い人だったんですよね。もしかしたら、美羽が孫家が苦手なのって、昔孫堅さんから説教くらったことがトラウマになっているのかもしれませんね。

 

 

 こうして、敵対関係となっていった孫家と袁家ですが、張勲(七乃)と孫策は史実によるとけっして仲は悪くなく、むしろ張勲は孫策のことを尊敬していたそうです。

 

 やっぱり、あれだけ美羽をおびえさせることができる雪蓮は、七乃にとっては尊敬すべき存在だったんでしょうね。

 

 

 

 

 

 その四十三、孫家三代……一番苦労した人・蓮華さんの憂鬱

 

 

 ゲームでは、呉の王として日々精進を怠らなかった蓮華。

 

 とくに無印版の『恋姫』では、呉の王にふさわしくあろうとして無理をしていたようにも見えました。

 

 史実の孫権も、孫策の後を継いだ直後は呉の主として認めてもらうために苦労を重ねていたのですが、それには呉ならではの理由がありました。

 

 もちろん直接の理由は急に孫策の後を継いでしまったために、その資質を疑問視されたことなのですが、それともうひとつ、孫家には自前の兵が少なかったことが大きな理由でした。

 

 元々孫家は、劉備のような血統も、曹操のような地位もない、ほんの小さな土豪でした。

 

 それが孫堅・孫策の活躍によって一気に強大化したのですが、当時の江東や江南には荒くれ者の集団が多く、また他の地方からも一旗上げようという手下や食客をつれた侠客のような人間も孫家に集まり、それがそのまま孫家の将となっていきました。

 

 そのため呉の部将には配下の兵=自分の兵という意識が強く、離反するとその配下の兵(新たに配属された兵も含む)ごと去ってしまい、呉軍が瓦解することにもなりかねませんでした。

 

 そこで孫権は彼らの心を離さないために、彼らの好むような乱世の王(というか大親分?)らしくふるまうことが必要だったのです。

 

 

 

 

 その四十四、最恐の荒くれ者 思春

 

 

 前回、呉の配下には元々荒くれ者や侠客だった人物が多かったと書きましたが、その代表といってもいいのが甘寧(思春)でした。

 

 甘寧は江賊の出身ということになっていますが、実際は長江でもはるか上流にある、巴郡(益州=蜀の領域の郡)の臨江という港町を根城にしていた無頼達のおかしらで、自分のシマを荒らすヤツらは取り締まりながら、自分を重んじる者とはともに遊び、自分を軽んじるヤツがいればたとえ役人であろうとも手下に襲わせてその財産を奪いとるという、時代劇に出てくる土地の親分のようなことをしていました。

 

 その気性は呉に来てからも変わらず、何かあればすぐに刀を抜く甘寧に孫権も手を焼いていたそうです。

 

 しかし自分を厚遇してくれた呉(孫権)への忠誠心は非常に深く、常に先陣を切って戦い、部下の失敗にも容赦はなかったですが、義理にあつく若い衆の面倒見もよかったので、荒くれ者の多い呉の兵士達からは非常に人気がありました。

 

 そして今でも甘寧のが治めていた地域では非常に人気が高く、湖北省陽新県というところでは、今でも船の航行を守る神様としてまつられているそうです。

 

 ……でも甘寧って、船を荒らす江賊ってことにされているんですよね?

 それでいいのか、陽新県民?

 

 

 *ちなみに、呉に仕える以前は巴郡で親分をやっていたことでもわかるように、実際の甘寧は孫権達よりもかなり年上だったようで(最低でも孫権より二十歳以上年上でした)、中国では老人として描かれることも多いそうです。

 

 それが恋姫ではあれだけ若く描かれているんですから、熟……な方々からは恨まれているかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 その四十五、反逆者? 思春の過去の謎

 

 

 前回、甘寧が巴郡というところで土地の親分のようなことをしていたと書きましたが、その後甘寧は食客を連れて巴郡をはなれ、何ヶ所か土地を渡り歩いたのち、ついに孫権(蓮華)と出会うことができました。

 

 しかしそもそも、なぜ甘寧は巴郡を離れることにしたのでしょうか?

 

 正史の記述では、暴力沙汰はやめ、いささか先賢達の書物を読むようになったから。と、書物に触発されて何らかの志を持つようになったとされていますが、『英雄記』という書物では、まったく別の話が載せられています。

 

 『英雄記』によると、当時巴郡のあった蜀(益州)は劉焉(りゅうえん)・劉璋(りゅうしょう)親子によって支配されていたのですが、劉焉の死後、旧董卓軍(当時すでに董卓は死亡していましたが、その残党ともいえる一派が朝廷を支配していました)が別の人物を益州の刺史(長官)に任命し、それに呼応した蜀の将軍の一部が劉璋にたいして反乱を起こしました。

 

 結局その反乱はうまくいかず、彼らは東方に逃げることになるのですが、その反乱を起こした将軍の中に甘寧の名前がありました。

 

 つまり甘寧は、蜀での反乱に敗れて呉まで流れてきた、ということになります。

 

 この『英雄記』という史書は、三国統一前の魏で書かれたものなので、蜀・呉に関する記述の信憑性には大いに疑問があります。

 

 また一方で、反乱に敗れた恨み……というわけでもないでしょうが、赤壁の戦い後、甘寧が周瑜とともに蜀(劉璋)への侵攻を孫権に進言していたという記録も残っているので、一概にウソとも言い切れません。

 

 しかしもしこれが事実だとしたら、それで孫権と出会えたわけですから、甘寧としては反乱が失敗してよかった、ということになるのでしょうか。

 

 

 

 

 その四十六、実績ナンバー1! 不人気ナンバー1? 穏

 

 

 『三国志』は、正当な王朝とされた魏の皇帝達の伝記である『本紀』と、その他の武将(劉蜀漢家、孫呉家ふくむ)一人一人の伝記である『伝』とに分かれた『紀伝体』という方式で書かれています。

 

 そして似たような功績をもつ人物は、一つの巻にまとめてあらわされていました(たとえば、以前にも書きましたが、蜀の五虎大将軍は『蜀書(志)第六巻』にまとめて掲載されています)。

 しかし国主クラスは別として、誰ともまとめられずに一巻とされた人物が二人います。

 

 それが諸葛亮(朱里)と陸遜(穏)です。

 

 これは臣下として誰とも並べようがない功績をたてた、ということなのですが、実際陸遜は軍事・政治・外交と呉を長年にわたって支え続け、はわわ以上の実績をあげていました。

 

 ただ、それだけの実績をあげた陸遜ですが、残念なことに本場の中国では、少し前まであまり人気がありませんでした。

 

 何せ穏ちゃん、『三国志演義』では対蜀の戦線での活躍ばかり書かれていたので(実際は対魏の戦いでも大活躍していました)、劉備や関羽のファンが多かった中国では、人気の出ようがなかったのです(そして同じ理由で呂蒙=亞莎も人気がなかったそうです)。

 

 そんな理由であれだけのおっぱ……じゃなかった名将が不人気なんて、ちょっともったいない気はしますよね。

 

 

 

 

 

 その四十七、義父の仇? 穏と雪蓮

 

 

 『恋姫』では最初から呉の臣下としている陸遜(穏)ですが、史実では呉に仕えたのは孫権(蓮華)の代になってからでした。

 

 元々陸遜は、呉にしてはめずらしく江東の名門といわれた陸氏一族の出身なのですが、幼いころに父親を亡くし、一門の当主であった廬江太守の陸康という人のもとに身を寄せていました。

 

 しかしその陸康が、当時まだ袁術(美羽)の配下にいた孫策(雪蓮)に襲われ、殺されてしまったのです。

 

 それが元で孫策を恨み、孫権の代になるまで出仕しなかったのでは……、とも言われていますが、実際はあくまでも袁術の命令によるものと割り切っていたらしく(もっとも、陸康と孫策は元々個人的に仲が悪かったそうです)、陸康の死後、その子が幼かったために陸遜が当主の代行をすることになったのですが、袁術の元をはなれて呉の主となった孫家とは普通に交流していました。

 

 ではなぜ孫策さんに仕えなかったのかというと、陸遜が陸家の当主代行となったことが関係していたのではないかと思われます。

 

 陸遜と陸康の子供(のちにホウ統=雛里の親友となる陸績)は、ほぼ同時期に孫家に出仕しているのですが、その気になれば自分だけ先に仕官して、孫家の武力を背景に陸家を乗っ取ることもできました。

 

 しかし陸遜は、陸績が成人し陸家の当主となるまで当主代行の仕事に専念し、無事そのつとめを果たしおえてから孫家に仕官をしたので、孫策が亡くなるまでの時間差が生じてしまったのです。

 

 

 ちなみに陸遜が陸家の当主代行となったのが、孫策が孫家を継いだときよりもさらに若い十四、五歳のころ。

 

 その年齢で名門陸家をまとめあげていたのですから、やっぱりすごい能力の持ち主だったんでしょうね。

 

 

 

 

 その四十八、荒くれ? 亞莎の半生

 

 

 呉の軍師として今も勉強を欠かさない亞莎(呂蒙)。しかし以前はかなりの暴れ者だったという話が『恋姫』にも出てきます。

 

 では実際に、どのようなことをしたのでしょうか。

 

 当時呂蒙の家は非常に貧しく、母親とともに義兄(姉の夫)の家に身を寄せてようやく生活を送っていました(父親についてはよくわかっていません)。

 

 やがて義兄が部将として孫策(雪蓮)に仕えるようになると、貧乏生活から脱出するために無断で義兄の部隊に従軍したりしていたのですが、まだ子供(当時十五、六歳)だったことを義兄付きの役人に馬鹿にされ、カッとなって斬り殺してしまうという事件を起こしてしまいました。

 

 そのあと呂蒙はすぐに自首したのですが、その事件を聞きつけた孫策が呂蒙に面会し、その才能を見抜いて自分の側近(親衛隊?)に取り立てました。

 

 つまり事件を起こしたことが呂蒙の出世のきっかけになったわけです。

 

 

 ちなみに、『恋姫』に出てくる紅い服に足はゲートル巻きという甘寧(思春)の服装ですが、あれは本当は呂蒙が考え出したものです。

 

 理由は「閲兵式のときに目立つから」。

 

 たしかに暗殺部隊の格好としては目立ちすぎですよね(笑)。

 

 

 

 

 

 その四十九、怪奇 手長族の謎

 

 

 当時朝鮮半島の東北部の付け根あたり、今の北朝鮮のロシア国境近辺の海岸部を、北沃沮(よくそ)といっていました。

 

 あるとき魏の軍勢が遠征中にここをおとずれ、この海の先にも人は住んでいるのかと現地の老人にたずねると、東方に言葉の通じない人達が住んでいる島(日本か?)があることや、海中に女性だけが住む国(女人島という、日本にも古くからある伝説です)があること、それに正面の他にうなじにも顔がある人間が漂着してきたことがあるとも言っていたそうです。

 

 それともうひとつ、老人の答えに気になるものが……。

 

 実際に会ったわけではないが、身ごろ(体の部分)は普通なのに袖の部分だけが異様に長い着物が流れてきたことがあるいい、どこかに手だけが長い、手長族のような種族がいるのではないかとほのめかしていたのです。

 

 

 ……えーっと、亞莎さーん。着物流されてますよ~。

 ついでにエライ勘違いされてますよ~~。

 

 

 

 

 その五十、祭さんは名市長!

 

 

 黄蓋(祭)といえば、呉の中でも百戦錬磨の武将で、赤壁の戦いでの活躍が有名ですが、もうひとつ大いに活躍したことがあります。

 それが県令(今でいえば市長クラス)として、治安の乱れた地域を治めることでした。

 

 そのやり方も独特で、事務仕事は二人の部下に丸投げ(しかも手を抜いたら首をはねるぞという脅迫つき)し、自身は外に出て、弱きを助け、強きをくじいて不逞な輩どもを取り締まり、その地域を平穏にみちびいていきました。

 

 こうして祭さんが治安を回復させた県が九つ。最後には郡の太守(県知事クラス)となって郡の治安をも回復させるのですが、その方法が丸投げと腕力っていうのがいかにも祭さんらしいですよね(元々祭さんも役人だったはずなんですけどね……笑)。

 

 

 

 

 

 その五十一、明命ショック! このころ○○はいなかった?

 

 

 恋姫では、全身傷だらけ……といえば楽進(凪)、つねに孫権(蓮華)のそばにあって警護している……といえば甘寧(思春)ですが、三国志を少しでも知っている方ならご存知の通り、正史ではそのどちらも周泰(明命)の特徴でした。

 

 そしてその代わりに付けられたのが、なぜかネコ好きのもふもふ属性。

 

 しかし実はこの時代、呉にはネコがほとんどいなかった可能性があります。

 

 ネコ(一般的な家ネコ)は本来エジプトの原産で、中国にはインドから仏教とともに経典をネズミの食害から守るためにシルクロードを通ってやってきた、といわれていますが(これは日本も同じです)、正確な年代はわかっていません。

 

 しかし仏教が正式に中国に伝わったのが、三国志の時代からおおよそ百三十年前でしかありませんので、そのとき同時に入ってきたとしても、そこまで多くの数のネコがいたかというと、かなり疑問です。

 

 

 しかし呉にネコがまったくいなかったかというと、ヤマネコ(ベンガルヤマネコ)はこの時代にもいたはずなので――。

 

 もしかしたら明命のあのすばやい身のこなしは、山の中でヤマネコを追いかけて身につけたものかもしれませんね。

 

 

 

 

 番外編、赤壁論について

 

 

 *この話は恋姫とはまったく関係のないものなので番外とさせていただきました。

 

 長々と続いた『恋姫的ムダ知識』もこれが最後ということで、今回はその後の歴史とともに、『赤壁論』についてかかせていただきたいと思います。

 

 『赤壁論』とは、簡潔にいえば赤壁の戦いで曹操が勝ったほうが(もしくは戦う前に孫権が帰順していたほうが)その後の中国にとってはよかったのではないか、という議論です。

 

 ここで簡単に赤壁以後の中国について書いておきますと、赤壁の戦いの勝利によって孫権は呉の覇権を確立し、劉備もその勝利を足がかりに蜀を手に入れることができました。

 

 その後三国のあらそいは長く続き、結局魏の重臣であった司馬氏の一族が晋(西晋)という国を作り三国を統一するのですが、その晋もすぐに一族内での権力争いが発生し、内乱になってしまいます。

 

 そしてそのとき台頭してきたのが、真・恋姫の蜀ルートのラスボスとして出てきた五胡でした。

 

 五胡とは元々中国の周辺部(内部ふくむ)に住んでいた五つの異民族(匈奴・羯=ケツ・羌・テイ・鮮卑の五つ)のことで、三国時代の後半ごろから、度重なる兵乱で兵士となれる人口が減少してきた魏や元々人口の少なかった蜀では、しばしば援軍としてその兵力を利用するようになっていました。

 

 そしてこの内乱でも彼らの力を借りていたのですが、ようやく天下を平定したばかりだというのに争いを繰り返し、自分達を酷使しようとした司馬氏に対して反乱を起こし、ついには晋王朝を倒して中国北部を支配することになりました。

 

 一方北部を追われた司馬氏は、皇族の一人がかつての呉の領地に逃れて王朝を再建し(東晋)、北部の奪回を目指すことになります。

 

 しかし南北の戦いとは別に、北部ではそれぞれに国を建てた五胡同士の戦争がたびたび起き、南部では北に兵を出しながらも、相変わらずの権力争いによる政変や内乱が起きるなど、中国は唐王朝によって完全に平定されるまで、おおよそ四百数十年にわたって戦乱の続く暗黒の時代となってしまいました。

 

 そこで生まれたのが、もし曹操が赤壁の戦いに勝っていれば、そのまま天下が統一され、その後中国が疲弊することも、五胡に兵力をたよることもなくなり、平和な時代が長く続いたのではないか、という『赤壁論』でした。

 

 そこからさまざまな異論や反論も生まれたのですが、もちろん『もし曹操が勝っていたら』というイフの話なので、結論など出るはずもありません。

 

 

 ……しかしもし、どこかの外史で、華琳に赤壁の戦いを勝たせようとする人物があらわれたら、それはその後に続く暗黒の時代を回避させようという意思を持った人物、もしくはその意思にみちびかれた『御遣い』かもしれませんね。

 

 

 

 

 

 追記

 

 魏と蜀は自軍の兵力不足を五胡でおぎなっていたわけですが、元々人口の少なかった呉の場合、中央の政変や兵乱を避けて南に移住してきた人達を吸収したり、また各地に分散して住んでいた山越と呼ばれる異民族や、その他蛮族と呼ばれる漢王朝に服従していなかった少数民族や漢民族を帰順させて兵役に組み込むことによって兵力を補充していました。

 

 しかし三国が成立して中央(魏)の政治が安定してくると、移住してくる者はほとんどいなくなり、また帰順してくるような山越や蛮族達もあらかた吸収し終えて、慢性的な人不足におちいっていました。

 

 そのために結成されたのが蜀漢編で出てきた夷洲(いしゅう)=台湾・亶洲(たんしゅう)=日本、種子島か?、の探索隊で、その目的のひとつは足りない呉の人員を補充するためだったといわれています(結局、この探索は失敗に終わりました)。

 

 その後五胡によって北部を追われた人々が大量に流入し、呉の地方は経済的、文化的に大発展を遂げるのですが、それはまた別の話になります。

 

 

 


 
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